【火・金更新】寵姫として皇帝と国に尽くした結果暗殺されたので、錬金術で復活して宮廷に復讐してやる!

「まだ何も言う気になりませんか?」

 アンナは獄中の人物にそう問いかけた。

 獄中と言っても貴族専用の特別監房で、一般に想像される冷たい石造りの牢獄からは程遠い。
 扉にこそ無骨で大きな鍵がつき、太い鉄格子がはめられているが、その鉄格子から見える内部はカーペットが敷かれ、テーブルや書棚といった調度品が置かれている。

 アンナにとってはあまり愉快な記憶のある場所ではない。ここはかつて、高等法院に呼び出しを受けたエリーナ・ディ・フィルヴィーユが収監され、非業の死を遂げた場所なのだ。 

  バティス・スコターディ城。
 その昔、帝都がベルーサ宮殿を中心とした小規模な城塞都市だった頃、城壁の一角に造られた砦だ。
 その後、帝都の拡大によって城壁は取り壊され、砦だけが拡大する都市の中に残された。
 元軍事施設という性質から、人の侵入や脱出を阻む構造となっていたため、いつしか監獄として使われるようになったという。
 主に、謀反を企てた貴族や皇族が収監されることから、帝室の権力の象徴と目されることも多い。そんな場所だった。 

「……あなたがここに保護されていることは、誰も知りません。だから今ここで何を話したとしても、あなたに報復する人間はいません」
「ふ……君や女帝陛下が手を下す可能性はないのかね?」
「我々にとっては、あなたは大切な情報源。もしご協力いただけるなら、安全は保証いたします、ベレス伯爵」

 鉄製の扉の向こうにいる男は、前宮内大臣ベレス伯爵だ。
 マリアン=ルーヌ皇妃によるクーデター「白薔薇の間の政変」後も、クロイス政権はひとまずの存続を許され、ほとんどの閣僚が留任している。
 しかしただ1人、ベレス伯爵のみは病気を理由に大臣職を辞していた。
 あのクーデターは、皇妃が帝位の象徴である3遺物を主柱に収めたことで決着がついた。その遺物のひとつ「リュディスの短剣」は長らく行方不明となっており、それを認めるような発言をベレスはしてしまったのだ。
 これが致命打となり、クロイスは女帝の即位を認めざるをえなくなった。その責任をとるためにベレスは退任したのである。

「あの日、あなたはサン・ジェルマン伯爵の名を出した。かの錬金術師とリュディスの短剣にどのような関係があるのです?」
「……」

 ベレスは何も答えない。彼を保護して以来、ずっとこんな調子だ。

「あなたは、サン・ジェルマンとクロイス派のパイプ役だったのではありませんか?」
「……」

 やはり黙秘。
 果たして、この男はどこまで知っているのか? アンナが自らこの監獄にやってきたのはそれを知るためでもある。

 先帝アルディス3世はホムンクルスだった。
 それは、ごく一部のものだけが知っている事実だ。その「ごく一部」の中に、この男も含まれている、というのがアンナの推測だ。
 宮廷の中枢に錬金術に通じている者がいなければ、マルムゼ=アルディスのような男は存在し得ない。
 そして、サン・ジェルマンの名を口走ったこの男は容疑者として申し分ない。宮廷や帝室の政治的な側面を司る宮内大臣なら、あのような陰謀を実現させるのにうってつけの役どころだ。

「何度もその妄言を聞いてきたが……」

 だんまりだったベレスが口を開いた。

「まったくの出鱈目だ。私が咄嗟に口走った名前だけで、勝手な妄想をするのはやめていただきたい」
「では、かの錬金術師と繋がりがあることはお認めいただけるのですね?」
「私が認めるのは短剣の管理不備。それのみだ。それとて私一人の責任。クロイス公にも、ましてや先帝陛下にもなんの関係もないこと」

 ベレスはまっすぐ、アンナの瞳を見据えた。
 覚悟を決めた目だ。自分ひとりが犠牲になることで、全てを闇に葬る。そんな決意を固めたのだろう。

(白薔薇の間でオロオロしていた男とまるで別人ね……。こんな胆力がある人だったなんて)

 アンナはこれまで、この男をクロイスの腰巾着としか思っていなかった。こんな目をする気骨のある政治家がなぜ、クロイス派で宮内大臣なんてやっていたのか?

 まあ、これまでの態度から、ベレス一人をどう攻めても埒があかないことはわかっていた。
 しかし今日は違う。今朝、別方面で捜査に進展があった。それを使い、この男を落としてやる!

「残念ながら、あなたひとりを罰して終わり、というわけにはもういかないのです。共犯者を見つけましたので」
「なに?」
「お連れして」

 アンナがマルムゼに命じると、程なくして獄卒が一人の老婦人を連れてきた。

「離しなさい、無礼者!」

 老女が獄卒にむかって叫ぶと、それを聞いたベレスの顔色が変わる。

「扉を開けて、彼女と私たちを中へ」

 無骨な鉄錠が外され、ベレスの監房の扉が開かれる。アンナとマルムゼ、そして連れてこられた老婦人がベレスの房内へと入っていく。

「ペティア夫人!!」

 ベレスは老婦人の名を叫んだ。
 前宮廷女官長ペティア夫人。厳格な規律を宮廷人たちに課し、ヴィスタネージュで権勢を誇った女性は、今や獄卒に両手を拘束される身となっていた。

「ベレス伯爵!」
「夫人、なぜあなたが!?」
「私にもわかりません!朝、近衛兵が私の屋敷に入ってきて……」
「わからないという事はないでしょう? マルムゼ、彼女の罪状を」
「はっ!」

 黒髪の腹心が一歩前に歩み出た。

「ペティア夫人、あなたは宮廷費を不正に着服し、どこかへ送金した疑いがある。そのため逮捕しました」
「馬鹿な、いったい何を根拠にそのような……」
「あなたが女官長になってから30年分の帳簿を調べさせました」
「は……?」
「巧妙に隠されていましたが、使徒不明の資金がどこかへ流れておりました。それも、毎年同額です」

 マルムゼは手にしていた報告書を広げ、それを彼女に見せる。

「厳格なあなたは、毎年ほとんど完璧な帳簿を残していた。にも関わらず、いくら調べても使途のわからない金額が、毎年同じ金額だけ出てくる。おかしくはありませんか?」
「……」

 ペティア夫人は言葉を失っていた。そして、ベレスも顔を青くさせている。

「そして、あなたが女官長を解任された後も、同じ金額があなたを経由してどこかへ流れていることが明らかになりました。しかも、その金の出所は宮内大臣。つまりベレス伯爵、あなたです」
「そんな……!」
「お二人が繋がっているのは明らか。そして宮廷費の不正な送金先こそ、サン・ジェルマンなのでしょう?」

 アンナはそう言い切る。実のところ、突き止めたのは資金流出の事実のみで、サン・ジェルマンとの繋がりは憶測に過ぎない。
 だからベレスとペティアは、まだ反論しようとすればいくらでもできる立場にいた。しかし2人は何も言わない。
 特にベレスの瞳からは、先ほどの覚悟の色は完全に失せてしまった。代わりに深い絶望の色がその両目を染め上げている。

(これはアタリね。どうやら)

 アンナは確信する。

「どうしても偽装がバレたのか、とでもお思いですか?」
「それは! いや……」

 ベレスは何かを言おうとしてすぐにやめた。白薔薇の間での自分の失態を思い出したようだ。
 いいぞ、完全にこちらのペースになっている。ならば、2人を完全に屈服させるために、手の内を見せつけてやろう。

「確かに、並の人間では見つけられないほど完璧な偽装でした。彼らでなければ、これを見破ることは難しかったでしょう」
「彼ら……?」
「元フィルヴィーユ派の官僚たちです」
「フィル……ヴィーユ……?」

 エリーナがかつて国政改革の夢を分かち合った同志たち。
 権力を握ったアンナはすぐに彼らのその後を調べた。死刑となった者、前線に送られ戦死した者、失意の中病に倒れた者と、その多くは二度と会えぬ運命を遂げていた。しかし、地方に左遷されたり、国外追放の憂き目にあいながらも生き延びた者たちがいた。
 アンナは彼らを呼び戻し、皇妃派に加えたのだ。そして宮廷に復帰して最初の仕事が、ペティア夫人の身辺調査だった。

「彼らがどれだけ優秀か、ベレス伯爵ならご存知でしょう? あなた達の盟主クロイス公を一度は追い詰めた者たちなのですから」
「彼らが……復帰していたとは……」

 ベレスは膝からくずおれ、ペティアは呆然と立ち尽くしている。もはや言い逃れはできない、そう悟ったのだろう。
 さて、本題はここからだ。

「マルムゼ、サーベルを貸してちょうだい」
「どうぞ、お好きなように」

 マルムゼは腰に下げていた暗い革張りの鞘をベルトから外し、剣の柄をアンナに向けて差し出した。
 アンナはそれを掴むと、刃を抜き払う。
 
「さて、それでは審問を始めましょうか?」
 サーベルを手にしたアンナを見て、ベレス伯爵は大きく喉を動かしながら唾を飲み込んだ。

「ベレス伯爵。あなたは、陛下の名のもとに保護した身柄のため、不当な取り調べをすることは許されておりません。しかし……」

 アンナは剣の切先をペティア夫人に突きつけた。

「ヒィッ!?」

 宮廷に仕えて数十年、鼻先に刃を突きつけられたことなどないであろう老婦人は甲高い悲鳴をあげで震える。

「ペティア夫人は罪人としてここに連行された身。捜査のため多少手荒なことはやむを得ないと、私は考えています」
「……なんと卑怯な!」

 ベレスは恐れと絶望、さらにそこに憎悪が混じった瞳でアンナを見る。

(卑怯? あなた方がそれを言う?)

 アンナは4年前の一連の出来事を思い出す。グレアン伯の裏切り。出頭命令。誰一人味方のいない審問会。そして、この監獄の城で飲まされた毒のワイン……。

「伯爵。あなたに一つ教えてあげましょう。あなたが盟主とあおぐクロイス公と、私の何が違うか」

 アンナは冷たい声で言う。その間も、ペティアに突きつけた刃は動かさない。

「あの方は決して自分で汚れ仕事をしようとはしない。いつだってそう」

 クラーラの密告で消えたアンナ暗殺計画もそう。皇帝の小麦事件で明らかになった先代グリージュス公による横領もそう。そして恐らくは、クロイス派とサン・ジェルマンの繋がりも、この男に全てを任せて本人は安全なところにいるのだろう。

「私は違う。私は、自分の手が汚れることを恐れない。必要とあらば、前宮廷女官長の身体を斬り刻みだってします」
「嫌あああああっ!!」

 アンナの恫喝にペティアが悲鳴をあげた。

「たっ確かに宮廷費の横流しは認めよう!」

 たまらずベレスは言った。

「しかし、ごくごく少額だったはずだ」
「ええ……確かにそうですね。あなた方の着服としては、とても慎ましい金額でした」

 アンナは抑揚のない平坦な口調で、皮肉った。

「そ、そうだろう? こう言ってはなんだが、皆がやってることだ。クロイス派だけではない。宮廷や帝国に使える歴代の要人の誰しもがやっていたことだ。その中で我々の悪事など微々たるものではないか」
「いいえ、その金額だからこそ問題なのですよ?」
「なに?」
「あなたは国の内外にいくつも別荘を持っていらっしゃる。全て、民の血税を使って購入したものです」
「う……ぐ……」

 フィルヴィーユ派の官僚達が調査の途中で発見した副産物だ。この男の言う通り現閣僚たちは皆、似たようなことをしている。

「あなた方2人がどこかへ送金した金額はそれに比べれば確かに少額。総額でも1/10にも満たないでしょう。しかしそれが問題なのです」
「どういう……事だ?」
「その程度の金額を横領するのに、あそこまで手の込んだ偽装を施す。それ自体が、疑惑になっているのですよ。帝室を裏切る卑劣な陰謀の疑惑に」
「ななっ……そんなのは言いがかりでは」
「言いがかりでもなんでもよろしい!」

 アンナは叫び、ベレスの抗弁を遮った。

「やっと見つけたサン・ジェルマンの尻尾を掴むチャンス。ここで逃すわけにはいかないの! なんとしても彼がしてきた事を白日の元に晒してやる!」

 ほとんど私怨から出た言葉だが、それが帝国の未来のためとアンナは信じていた。
 アルディスを殺し、ホムンクルスの偽物を据え、一方ではアンナのような復讐鬼を生み出した。帝国にとって好ましい存在であるはずがない。
 そして彼の正体と目的を明らかにしない限り、アンナ自身も彼の手駒でしかないのだ。
 もはやサン・ジェルマンは、命を救い復讐の機会を与えてくれた恩人などではない。アンナにとって、明確に敵なのだ。

「さて、前置きが長くなりました。ペティア夫人」

 アンナはペティアの顔を見る。声帯が疲れ切ったのか、彼女は悲鳴を上げることをやめ、ただ歯をガチガチと震わすだけになっていた。

「あなたには思うところが、いくつかありましてね。今こそ、ささやかながら恨みを晴らさせていただきます」
「や、や……やめなさいグレアン夫人……」
「ほら、それ! ……相変わらずですね」

 アンナは嘆息する。

「この期に及んで、まだ女がグレアン家の当主となった事を認めませんか? その古めかしい価値観でどれだけ宮廷を縛り付けてきたのです?」

 サーベルの刃がペティアの首元を撫でる。ぷっ……と赤いビーズ玉のような雫が吹き出し、鎖骨に向かって流れていった。

「あ……ああ……」
「やめろ!やめてくれグレアン侯爵!」

 背後でベレスが懇願する。アンナはそれに、抑揚のない冷淡な口調で返した。

「もはやあなたには何の情報も期待しません。そこで、私が夫人を拷問するのを見学していてください」

 マルムゼのサーベルは、非常によく研ぎ澄まされている。ペティアの首の皮に赤い直線を引いたそれは、そのまま彼女のドレスの飾りリボンにあたる。するとリボンは、するりと絡まった糸が解けるように真っ二つに割れて落ちた。
 さらに切先は、ペティアの服か肌か髪か、傷つける場所を探しては刃をあて、それを両断する。
 まだ痛みのない箇所を切っているだけだが、ペティアの顔は蒼白になっていた。
 こうやって恐怖心を煽る。そして頃合いを見て、次の段階へ移す。明確に痛みを感じる肉や骨を斬っていくのだ。

「やめてくれ!! 話す! 何でも話す!!」

 しかし、その段階へ移る前にベレスが耐えきれなくなった。

「頼む……全て話すから、夫人を解放して欲しい」
「い、いけません!ベレス伯爵!!」

 これに驚いたのは、アンナよりもペティア夫人の方だった。悲鳴で潰れかけた声帯を震わして叫ぶ。

「この者たちに話せば、この国は終わりです! 私のことなど気にしないで! どれだけ切り刻まれようと、覚悟はできています!」
「許してくれ夫人。私はあなたほど強くない。もう限界だ。これでも40年前、あなたに恋し慕った想いが残っている。あなたが傷つく姿など見たくないのだ」

 アンナは特に感慨も抱かず、その言葉を聞いていた。2人がかつて、そういう関係だったことも調査済みだ。

「私は今や、クロイス公の犬と成り下がり、その首輪すら捨てられようとしている。けど、あの頃から何一つ変わらず、高潔なままのあなたが、私をまた必要としてくれた。そのことが嬉しかったし、何よりの誇りだ」
「わ、私の方こそ、ごめんなさい……クロイス派に繋がりが必要だったから、大臣となったあなたに声をかけたのです。あなたの想いを知りながら、それを利用しました……」

 ペティアはそれからしばらくの間、嗚咽し続けた。そして、涙が流れ切ると、彼女はぽつりとつぶやくように言った。

「剣を収めてください」

 つい今しがたまでの動揺とは打って変わった、落ち着いた声。そして女官長時代と同じ毅然とした目で、ペティアらアンナの顔を見つめた。

「これ以上、ベレス伯爵にも迷惑をかけるわけにはいきません。全てをお話しします、グレアン()()
「……」

 その呼び方で全てを了承したアンナは、マルムゼに剣を手渡す。切先についたわずかな血液が拭かれると、刃は再び黒革の鞘へと戻された。

「この件の主犯は私です。ですから伯爵は解放してちょうだい」
「ご協力いただけるのでしたら、お二人の自由と安全は保証します。ペティア夫人」

 その回答に、ペティアは頷いた。

「グレアン侯。私は決してあなたの実力を認めていなかったわけではありません。そして、その実力があるからこそ、この話をさせて頂きます」

 突然の逮捕にうろたえ、突きつけられたサーベルに恐怖していた老婦人はもうどこにもいなかった。決意に満ちた顔で、アンナに警告する。

「だから覚悟してください。この話を聞くと言うことは、この国にかけられた呪いと対峙するということ、そしてこの国の平和のために尽くす責務を課されるのだということを」
「もとより私は出自からして呪われているようなもの。それにこの国の平和に尽くす責務なんて、とうに背負っています」

 アンナは平然とそう言ってのけた。

「いいでしょう。では、お話しします。黄金帝リュディス5世なる人物がこの国にかけた忌まわしき呪いの物語を」
「リュディス……5世?」

 意外な名前に少し戸惑いを覚えた。
 リュディス5世と言えば、ヴィスタネージュ大宮殿を築き、いくつもの戦争で勝利を収めた"百合の帝国"中興の祖だ。
 初代皇帝にして竜退治の勇者・リュディス1世の次に偉大な皇帝とされ、黄金帝と呼ばれている。

「帝国の最盛期を築き上げた黄金帝が『呪い』とは、どういうことです?」
「確かに、かの皇帝の表の事績を考えれば、不釣り合いな言葉かもしれませんね」

 ペティア夫人は落ち着き払った口調で言う。

「グレアン伯爵、あなたはヴィスタネージュ大宮殿がなぜ作られたかご存知ですか?」
「なぜ、ですか? それは、黄金帝が狩りで訪れたヴィスタネージュの森を気に入り、その場を皇宮とすることを決めたと……」

 帝都に住む者なら誰もが知っている歴史だ。もともとヴィスタネージュには皇族が狩りの時に使用する小さな館が建っていた。それに増改築を繰り返してできたのが、あの壮麗な本殿なのだ。

「それはあくまで表向きの理由。本当の理由は2つ。それは黄金帝が真の皇帝の力を恐れたため、そして錬金術の研究を行うためだったのです」
「真の皇帝?」
「そう。"百合の帝国"を治める資格を有する、正統な王者です」
「待ってください! 夫人、その言い方ではまるで黄金帝が……」
「はい。今リュディス5世とされている人物は、真のリュディス5世から名前と玉座を盗んだ大罪人。簒奪者です」
「なっ……!?」

 さすがのアンナも、その言葉には戦慄を禁じ得なかった。
 かの黄金帝が簒奪者? 帝国貴族が口にしていい戯れ言ではない。
 史上2番目に偉大な皇帝を偽物呼ばわりすると言うことは、ヴィスタネージュの全てを否定することであり、彼の直系である現帝室を侮辱することになる。
 不敬者として、貴族の称号を剥奪されてもおかしくない。いや、場合によっては死を賜ることすらありうる。
 それを理解できないペティア夫人ではないだろう。彼女は極めて真剣に、その話をしようとしているのだ。

(覚悟とはそういう事か……)

 アンナは直前に夫人が言った警告の本質を理解した。

「にわかには、信じられない事です。あまりに帝国が正史と定めた歴史とかけ離れています」
「信じろと言われても難しいでしょう。この事実を記した文献はほとんどすべて闇に葬られ、その事実を知る者はあまりにも少ない。私自身、実家であるノユール子爵家に残された伝承があったからこそ、知り得ました」
「ノユール家……」

 爵位こそ高くないが、建国以来皇宮の侍従を務めてきた名家だ。ペティア夫人がその家の出身であり、今現在は実質的にノユール家の女主人となっていることは、アンナも知っていた。

「後にリュディス5世を名乗る簒奪者が何者だったかはわかりません。しかし彼は魔法を使えないにも関わらず、巧みな人心掌握術で多くの貴族を味方につけ、一気に事をなしたと言います」
「魔法を使えない? いやしかし、魔法はもう200年も前には完全に失われたはず……」

 黄金帝が即位したのは130年ほど前だから、その頃すでに魔法を使える者は絶滅していたはずだ。

「確かに貴族たちから魔力が失われたのは、そのあたりの時代です。けど各国の王や皇帝たちは違います。竜退治の勇者たちの直径はそれだけ強い魔力を持っていました」
「貴族が魔法を失った後も、皇帝はまだ魔法を使うことができた……?」
「ええ、だからこそ帝国貴族たちは皇帝に絶対的な忠誠を誓うようになったのです。」
「あっ!」

 アンナは頭の中に年表と歴史書を思い浮かべ、小さな叫び声を上げた。

 絶対王政。
 現在、大陸諸国の大半が採用している、君主による貴族と平民の絶対的支配を、学者たちはそう呼んでいる。
 大貴族や有力諸侯が群雄割拠し、対立と戦乱が常態化していた中世から打って変わり、ある頃から皇帝や国王を頂点とした国家が運営されるようになった。その時期は、確かに貴族たちから魔法が失われた時代と合致する。

「代々、帝位は皇族の中でも最も強い魔力を持つ者に受け継がれておりました。だからこそ"百合の帝国"は、大陸随一の大国でいられることができた。しかしその帝位が、全く魔力を持たぬ者に奪われてしまったのです!」
「……皇帝は、殺されてしまったのですか?」
「いえ。叛逆に成功したものの、御命を奪うことは出来ませんでした。あまりにも強い魔法の力は、どのような刃も毒も弾いたそうです」
「では、どこかに幽閉されたのですね?」
「ええ。その通りです、グレアン侯爵」

 殺せないのであれば、どこかに閉じ込めておくしかない。誰かの手に真のリュディス帝の身柄が渡れば、自分を討つ大義名分を与えてしまうことになる。簒奪者はそれを最も恐れただろう。

「リュディス5世の名を奪った罪人は、帝都に残されたひとつの城塞に目をつけました。市域の拡大で城壁が壊されたのちも帝都市民を畏怖し続けた、暗黒の中世の置き土産に……」
「もしや……」
「ええ。このバティス・スコターディ城です」

 そういうことだったのか。この時代遅れの砦が壊されることなく監獄として使われることになった経緯。それは、真の皇帝の幽閉先として使われたことから始まったのだ。

「真のリュディス陛下はご家族と共に、生涯この城で暮らしたそうです。ただしその事実はごく一部のものにしか知らされず、たとえ獄内であっても顔がわからぬよう、鉄の仮面をつけさせられたと言います」
「そして黄金帝自身は、皇宮を帝都の外へ移した……」

 アンナは言う。ここで、最初のペティア夫人の問いかけに戻ってくるのだ。

「完全な監視下に置いてもまだ安心できなかったのでしょう。偽帝リュディスは、真の皇帝が使う魔法の力を恐れ、ヴィスタネージュを新たな皇宮としました」
「たしか、皇宮を移したもうひとつの理由は、錬金工房と言いましたね?」
「はい。簒奪に成功したとはいえ、魔法も使えぬ皇帝に貴族たちがいつまで従うかわからない。だから森の中に秘密裏に工房を置き、魔法を復活させるための研究を始めたのです」
「ですがその工房は、魔法を復活させるには至らなかった……」

 錬金工房の歴史に関してはアンナもよく知っている。偽の皇帝は望む成果を得られなかったはずだ。

「ですが、その研究の過程でさまざまな副産物を得ました。そして、それで貴族の忠誠を買ったのです」
「そういう事ですか……」

 錬金工房はおびただしいほどの技術革新をこの国にもたらした。
 夜の帝都を照らすガス灯。緊急時の高速移動手段として期待されている機械馬車。工業分野を一変させた錬金合金。戦場で比類なき破壊力を発揮した大型火砲。貴族たちを病の恐怖から救った新薬の数々と、陰謀による「病死の可能性を高めた毒物の数々……。
 工房がこの百年間で生み出したものは数知れない。

「偽帝リュディスとその子孫たちは、錬金術の成果である新技術を貴族たちと共有しました。そして、貴族による錬金術の独占が始まったのです」

 魔法に代わる新たな力を手に入れた貴族たちは簒奪者を皇帝と認めた。そして黄金帝こそを史上2番目の名君とする、偽物の歴史が作られるようになった……。
 恐らくはそういうことだろう。

「そしめ、彼らの繁栄はこの国を大きく歪ませました……」

 ペティアは目を伏せながら言う。

「技術を独占した貴族たちは途方もない富を得ることに成功した一方で、平民たちの暮らしは、百年前と大差がありません。それでも都市部にいる者は、錬金術のインフラを使用できますが、代わりに重い税が課せられる……」

 絶望的な貧富の差。その解決は、かつてアルディスが夢見た事であり、エリーナやフィルヴィーユ派が文字通り命がけで向き合った事だった。

「貴族たちは巨万の富で毎夜遊び暮らし、誇りなど捨ててしまった。残ったのは、私服を肥やすことと、他者の足を引っ張る事を恥ともしない、薄っぺらい自尊心のみ」

 夫人は唇をきつく噛み締め、肩を震わせていた。

「そういうことでしたか」

 彼女の姿を見て、アンナは言った。

「あなたが誰よりも規律やしきたりに厳しく、女官長として宮廷人たちを律し続けたのは、貴族の腐敗に対する抵抗だったのですね?」
「……他の方々から見て鼻持ちならない存在だったことは、自覚しています」

 ペティアの口角が、ほんのわずかだが上がった気がした。それが気のせいでなければ、アンナはこの老女が笑うところを初めて見た。

「皇族の放蕩や、女子相続はよからぬゴシップの温床となる。だから、私は女帝陛下やあなたに殊更強く当たったかもしれません」
「あの時、私たちがあなたを憎んだことを否定はしません。ですが、乱れる風紀を少しでも正したいという思いは理解できます」

 自分の身の危険も顧みず、この国の影の歴史を語る夫人に、アンナはすでに何の嫌悪感も抱いていなかった。

「我々、ノユール家に課せられた使命なのです。主人なき宮廷を正しく律し続ける。真の皇帝がご帰還されるその時まで」
「帰還?」
「はい。正統なる王者が、再び玉座に座る時を、我が家は待ち続けています」
「お、おい夫人。そこまで話すのか!?」

 ベレスが顔色を変えて、ペティアを諌めようとした。

「もちろんです、伯爵。そもそも我々はあのお金の使徒を問われているところです。肝心なところを話さなければ、グレアン侯も納得なさらないでしょう?」
「……」

 確かにその通りだが、アンナはあえて何も言わず、ペティアの次の言葉を待った。

「ここまでは過去の話。ここからは今、この帝国で起きている話をいたしましょう」
 現在の話をするにあたり、ペティア夫人は場所の移動を申し出た。彼女の屋敷に、彼女の話を裏付ける証拠があるというのだ。
 アンナは、ベレスとペティアの2人を監獄から出すことに戸惑いを覚えたが、厳重に見張りをつければ問題なしと判断した。どのみちペティア邸と彼女の実家であるノユール邸は、家宅捜索をしなくてはならない。その際には、彼女を臨場させる必要も出てくるだろうから、やることは変わらないのだ。

「どう思う、マルムゼ?」

 移動中の馬車内で、アンナは同じホムンクルスの同志に尋ねる。

「にわかには、信じ難い話です。しかし、夫人の言葉には不思議と説得感があります」
「同感ね。あれだけ荒唐無稽な話にも関わらず、辻褄は合っている……少なくとも、自分の罪を軽くするための苦し紛れの弁明とは思えない……」
「それに我々は、この国の玉座がいとも簡単に盗まれてしまう事を知っています。かの黄金帝が、マルムゼ=アルディスと同じ手口を使ったとしても、不思議はありません」
「確かにそうね……」

 その場合、マルムゼ=アルディスや彼の主人、そしてサン・ジェルマン伯爵が、黄金帝の模倣犯ということになる。
 それはもしかしたら、真の王の側に立つ彼らが、簒奪者の血を引く者たちにした意趣返しなのかもしれない。

「私はこの肉体を得て、私自身の復讐の機会を与えられたと思っていたけど……」

 アンナは言う。

「どうやら百年以上昔の、他人の復讐の手駒にされているみたいね……」

 不愉快な話だ。けど、今はそれよりも好奇心が勝っていた。
 もしそうだとすれば、アンナ・ディ・グレアンという駒の役割は何なのか? 復讐者は、私に何を期待してエリクサーを飲ませたのか?
 いつのまにかアンナは、馬車がペティア邸に到着するのを楽しみにする心持ちになっていた。

 * * *

「こちらです」

 ペティアに案内されたのは、地下の書庫だった。
 その部屋に入った瞬間、清涼な空気を感じた。地下室特有のじめっとした雰囲気がない。室温も適温に調整されている。

「錬金工房が開発した空調設備……あれを入れているのですか?」
「よくお気づきで。その通りです」
「大掛かりで維持費もかさむ設備です。皇宮わ政府機関でも、ごく一部の施設にしか導入されていないものですが……」

「ペティア、ノユール両家の領地収入の大半をこの書庫にあてています。空調だけでなく、害虫や小動物の対策や、劣化した資料の補修も含めて」
「大半? そこまで……」
「そこまでしても守りたい宝がこの書庫には納められているのです」

 アンナは書架に収められている本を見る。背表紙に書かれたタイトルは、いずれもアンナが目にしたことのないものばかりだ。

「なるほど。確かに貴重な書物のようですが」
「いずれも帝位簒奪前の宮廷や魔法について書かれたものです。彼らによる焚書を免れたものを我が家の者たちが、代々保護・回収を続けてきました」
「つまり、先ほどのあなたのお話を裏付ける証拠品……」
「はい。そして私がまずお見せしたいのが、あちらです」

 ペティアは奥の壁に貼られた地図を指差した。ごくありふれた"百合の帝国"の地図だが、そこに一本のピンが立てられている。

「このピンは……」

 アンナはその場所に何があったか思い出そうとする。帝都からはかなり離れている。南西部のなだらかな丘陵地帯だ。南部の主要都市ビューゲルからも遠い。他の大都市も周囲にはなく、従って大きな街道も通っていない。まるで帝国の交通網から忘れ去られた真空地帯のような土地だった。

「クロイス公爵領の一部ですが、当の公爵もこんな場所は知りもしないでしょう。ごくごくありふれた田舎の農村。およそ宮廷の権力闘争とは無縁の地。名をサン・ジェルマンと言います」
「サン・ジェルマン!?」

 その名前は実はたいして珍しくはない。悪しき竜が倒され、この地に帝国が築かれた時代に実在した聖人の名前とされており、それにあやかった地名は帝国中にある。
 帝都でも、その名がつけられた通りや街区が複数あるほどだ。
 けど、今ここで明かされるサン・ジェルマン村の名前が、あの錬金術師と無関係であるはずはない。

「お察しの通り、かの錬金術師の生まれ故郷です。そして……」

 ペティア夫人は、続けて地図の横に飾られた1枚の絵を示した。

「真の皇帝とその一族が眠る墓所の地であります」

 その絵は色付けなどもされていない簡素なスケッチだった。山に囲まれたのどかな景色。一本の大木の下に、きれいに整えられた石柱が立っている。
 確かに墓のように見えるが、碑銘などが刻まれている様子はない。

「どういうことです? 先程のお話では真のリュディス帝は、バティス・スコターディ城に幽閉され、そこで生涯を終えたのではないのですか?」
「陛下ご自身は。しかし、そのご子孫が城から脱出することに成功したのです。詳しい経緯は不明ですが……」
「それで、このサン・ジェルマン村に落ち延びたと?」
「ノユール家の6代前の当主は、サン・ジェルマン伯爵から直接そう伝えられたそうです」
「本人? いや、しかし6代前というと……」
「混乱されるのはごもっとも。それがあったのは96年前、偽帝リュディスが死んだ年と伝えられています」 
「ありえない……いくらあの錬金術師でも」

 アンナは、エリーナだった頃サン・ジェルマン伯爵と会ったことが何度かある。今にして思えば、年齢不詳な容貌をしていたが、100歳を越えるような老人ではなかった。

「ではこちらをご覧ください」

 ペティアは地図の下に丸めて置かれていた羊皮紙を手にした。縁の変色具合を見るに、この羊皮紙もかなりの年月を経たもののようだ。

「古いノユール家の系図です。公式の記録は、偽帝リュディスの時代に改ざんを命じられましたが、こちらは正しい歴史を伝えております」

 羊皮紙を受け取ったアンナは、それを広げる。一番上にノユール家の紋章が描かれ、その下にいくつもの名前が並ぶ。それらは親子関係を示す縦線と、婚姻を示す横線で結ばれ、あるときは他家の紋章とつながり、ある時は養子縁組とおぼしき不規則な線で結ばれてる。
 そして、歴代当主の名前には在位していた年代が刻まれている。その年代が問題だった。

「なに、これ?」

 異様に長生きの当主がいる。在位期間だけで70〜80年はざらであり、ある者などは120年もその座についている。そのためこの家は、"百合の帝国"建国以来の名家にもかかわらず、歴代当主の人数が異様に少ない。

「真の皇帝がもつ魔法のひとつに、命を永らえるというものがあります」

 羊皮紙を眺めながら呆然としているアンナに、ペティアは言った。

「ご自身の血を飲ませることによって、強い魔力を与え、その者の寿命を伸ばすのだそうです。代々、侍従長を務めていたノユール家当主たちは、宮廷を守るため歴代皇帝陛下の血を飲む栄誉を与えられていました」
「では、サン・ジェルマン伯爵も?」
「はい。ですから、彼の存在自体が皇族がバティス・スコターディ城を脱出した証となるのです」

 サン・ジェルマンは、血液に魔力の源があることを突き止めていた。そしてそこから着想を得て、ホムンクルスを生成し、それに「異能」と呼ばれる擬似的な魔法の付与に成功している。その着想の源泉が、彼自身が飲みこんだ血液というのは、大いに考えられることだった。

「96年前、当時のノユール子爵にサン・ジェルマンは命じたそうです。侍従長でありながらみすみす簒奪を許した償いとして、真の皇族への支援を」
「それが、あなた方がしていた送金の正体……?」

 ペティアは頷いた。

「はい。それも必ず宮廷や皇帝の資産からそれを用意するようにと。それで、歴代ノユール家当主や、彼らの遺志を継ぎ女官長となった私は、宮廷費からその金額を用意し続けていました」

 確かに、横領された金額は、片田舎でひとつの家が不自由なく暮らせるくらいの額だ。
 それにしても、それを宮廷費から出させるというところに、情念を感じる。サン・ジェルマンは旧帝室に並ならぬ忠誠をもつ男だったということか。

「そしてさらに、いずれ真の皇族が宮廷へ返り咲いた暁には、彼らへ協力するようにとも命じたそうです。そして伯爵自身、そのための陰謀をめぐらせていました」
「……するとあなたは、先帝アルディス3世の身に何が起きていたかもご存知だったのですね?」
「ここまで来れば、隠し立てするつもりはありません。私は全てを知っていますし、アルディス帝を入れ替わりに直接関与していました」

 その言葉を聞いた時に、アンナは全身の産毛が逆立つのを感じた。
 この老女もエリーナの恋人を殺した下手人の一人ということだ。つまり、アンナの復讐対象に他ならない。
 しかし……。

「ではあなたに尋ねます。真の皇族による復讐とその手段は正当なものであると考えていますか?」
「……正直わからなくなっています。私はノユール家に伝わる真の歴史を聞いて育ちました」

 ペティアは言った。

「偽帝リュディスとその子孫への敵意は消しようがありません、しかし……アルディス3世はまぎれもなく名君でした。それに引き換え、あの方を殺め成り代わったホムンクルスは、クロイス公の専横を許し貴族の腐敗を加速させた……」

 その声は頼りなさげに震えていた。

「だから、本当にあれで良かったのかと、今でもそう考えています。だからこそ、誰かにこの秘密を打ち明け、楽になりたかったのかもしれません」
「……わかりました。私が聞きたかった言葉です」

 本当に、先祖以来の想いに応えるのならば、彼女は自らの命もベレスの命も平然と投げ出せていただろう。それができず、これほどの重大な秘密をアンナに話そうとしたのは、彼女がこれまでの自分の行いに疑問を持っているからに他ならない。
 だからアンナは、ペティア夫人の名を復讐対象者のリストに入れないことに決めた。

「ペティア夫人。私は過去に何も持たない人間です。ですから、あなたやノユール家の理想とは違う結果を導き出すことになるかもしれない。しかし、約束します。あなたの打ち明けてくれた呪わしい真実を知った上で、必ず民とこの国の幸福につながる未来を用意することを」
「……ありがとうございます。私も、そのお言葉を聞きとうございました」

 ペティアと、彼女とともにいたベレス伯爵は、揃ってアンナに頭を下げる。

 後に、ペティア夫人とベレス伯爵は釈放。そのまま隠居を命じられた。
 ペティア邸はその大掛かりな書庫や収蔵品とともに、宮廷に移管され、その管理維持はグレアン侯爵家が担うことになる。

 2人の老貴族の男女はこうして歴史の表舞台から姿を消した。しかし2人の交流は、その生涯を終えるまで続いたという。
「……と、このような具合で、グレアン侯爵は断頭台送り。彼女に味方した者も一人残らず監獄に入れて一生出てこらないようにするのです」
「とても素敵ね、その策も悪くないわ。でも……」
「……なにかご不満でも?」
「いえ、単純に断頭台に送るだけでは面白みに欠けません? 公開処刑というアイデアはいいのだけど、もう少し悲惨な目に合わせてやりたいわ」
「なるほど……では、別案を明日までに考えておきましょう」
「ええお願いね、ウィダス殿。ふわぁ……私、なんだか眠くなってきましたわ」
「夕食の後、2時間ほど話しっぱなしでしたからね」
「あら、もうそんな時間?」
「お腹の御子のためにもそろそろお休みになられては」
「そうね、そろそろ失礼するわ。あなたが来てから本当に楽しいの。明日もお願いね」
「ええ、お休みなさいませ」

 ルコットから解放され、応接室に一人残されたウィダスは、ふぅ……と、ため息をついた。

 クロイス公より、娘の警護を依頼されてから3週間。毎晩こんな感じだ。
 初日に、アンナ・ディ・グレアンの殺害を約束してからというもの、彼女はその詳細を妄想するという遊びの虜となってしまった。毎夜毎夜、彼女をどれだけ残虐に殺すかのアイデアを考え、ウィダスに披露する。
 正直、護衛任務そのものよりこちらの方が疲れる。

 ここ数日は、ただ殺すのではなく大罪人として告発し、貴族と民衆の支持を得た上で処刑する方法はないか熱心に探している。
 とはいえルコットは法の知識に乏しく、告発内容も失笑ものなので、その道で一流の才覚を持つグレアン侯を処刑することなど夢のまた夢なのだが……。

 およそ健康的とは言い難い趣味だが、それを始めてからというもの彼女の身体に、良い変化が現れ始めた。
 食欲が増進し、言動に活力が現れ、一日中寝室で悲嘆にくれる日々がぴたりと止まったのだ。
 
 同時に、それほど大きくなっていなかったお腹が再びふくらみはじめ、今や来月出産予定の妊婦と言われても違和感がないような体型となった。
 もちろんこれには理由がある。
 ルコットが精神的な活力を得たことも多少は影響しているだろうが、そもそも今現在ルコットは妊娠などしていない。マルムゼ=アルディスにかけられた強力な暗示が、肉体に影響を及ぼしているだけなのだ。
 そして、その暗示の続きを、他ならぬウィダスがかけ直していた。毎晩毎晩、こうして血生臭い妄想に付き合っているのはそれが理由なのだ。

 彼が持つ()()()()は、相対している人間にしか通用しない。それに何度も何度もかけ続ける必要がある。だから、彼女の出産予定日よりも前にこの家に潜り込む必要があった。年内に母体の準備が整わなければ、錬金術師どもが用意した「御子」を彼女の胎内に入れることができない。
 我が祖先たちの魔力なら、この程度のこと造作もなくできたであろう。だが黄金帝の簒奪から130年、正統な血筋の魔力もここまで低下してしまった。残された時間は少ない。

「俺が帝位を奪還し、サン・ジェルマンが秘匿した賢者の石を手に入れれば、全てがあるべき姿に戻る……」

 偽帝リュディスの血を引く者と、奴らに協力した貴族たちを皆殺しにする。
 それを実現させる戦いは、今が最終局面だった。

 ここまでくるのに何年もかかった。
 全てが順調というわけではなかったが、大局的にはほとんど彼の望んでいる通りに、事は動いている。

 名君の片鱗を見せていたアルディス3世を殺し、自分が操るホムンクルスにすり替えた。そして、この替え玉を使ってクロイスたち堕落貴族どもを増長させ、民衆の憎悪を煽る。今や、帝都の水面下では静かに革命の機運が高まっているという。
 あとは、頃合いを見てリュディス1世の血を引く正統なる皇位継承者を名乗って奴らを皆殺しにし、民衆の支持を得るのだ。
 それで名前と帝位を奪われた高祖父リュディス5世とその末裔である自分たちの復讐は達成される。

 我が一族が再び歴史の表舞台に出るのだ!

「問題は、グレアン候と、新女帝だが……」

 この二人をどう扱うかについては、ウィダスは決めかねていた。彼女たちの真価を見極めるため、わざわざマルムゼ=アルディスへの命令を変更し、クロイス派と皇妃派を競わせたほどだが……ウィダスは彼女たちに対しての結論を、いまだ出していない。
 
 グレアンは極めて優秀な人材だ、可能ならば自分が創建する新帝国に要職をもって迎えたい。しかし、彼女自身がそれに応じるかわからない。
 かつて似たような女性がいた。フィルヴィーユ公爵夫人エリーナ。彼女の場合、アルディス3世の恋人だったため引き込むことは不可能だった。だから殺した。グレアン侯爵も、もしウィダスの意に沿わないとなれば殺すしかないだろう。
 そして、新女帝マリアン=ルーヌ。"鷲の帝国"との同盟を担保するだけの、お飾りの皇妃だと思っていた。生前のアルディス3世もそう扱っていた節がある。しかし、白薔薇の間の政変で彼女は覚醒した。
 "百合の帝国"の皇帝を騙った罪で殺してもいいが、他の選択肢もあるのでは、と今は考えている。

「結論を出すのは、もう少し先でも良いか」

 ウィダスはつぶやく。
 年明けには女帝の戴冠式があり、そしてルコットの「御子」が生まれる。帝室を巡る勢力図が大きく変わることは疑いない。
 その様子を見てから決めれば良いのだ。

 ずっとそうやってきた。綿密に決めた計画というものは案外もろい。ちょっとした綻びから全てが破綻する事だってありうる。
 だから、予想外の事態に左右されないように、状況に応じて変更可能な弾力性が必要だ。
 これまでだって、計画を修正することも一度や二度ではなかった。それでも、悲願成就の日は着実に近づいている。

「来年こそは全てが決する年。再来年の新年祝賀会の時は、俺が玉座に座っているだろう」

 ウィダスはそう遠くない未来の自らの姿を思い描き、笑みを浮かべた。
 年が明けてまもなく、帝国東北部の都市ライアンドラにおいて、女帝マリアン=ルーヌの戴冠式が行われた。
 この街は、初代皇帝リュディス1世が、竜討伐の旗揚げをした地とされている。そのため歴代皇帝は、この町で戴冠式をが行うのが慣わしとなっていた。

 "百合の帝国"の長い歴史の中でも、初の女性君主である。しかも嫡子ではなく、先帝の未亡人が戴冠するのだから、長年のしきたりにそぐわないことも色々出てくる。
 それらの解決のため、宮内省は昨年以来ずっと戦場のような有り様だった。宮内大臣ベレス伯爵が「病気」を理由に退陣したことで指揮系統に混乱も見られ、戴冠式の準備は困難を極めた。

 そのためアンナは宮廷の庶務の大半を女官長グリージュス公爵に任せ、自らは宮内省におもむき陣頭指揮をとることになったのである。

 例えば、帝室の需要な行事については皇族や元閣僚などの重鎮による「典礼委員会」なる組織が招集され、アドバイザーとなる慣例があるのだが……。

「典礼委員会はまだ召集できないの?」
「それが、未だ皇妃様のご即位に反対する長老が何名かおりまして……」
「誰? 私が直接説明に行きます。場合によっては解任もやむを得ません!」

 例えば、式典での新帝の衣装は細かく定められており、その多くは、代々受け継がれたものを宮内省が管理していたのだが……。
 
「ご戴冠の際に、陛下が羽織るマントですが……先々帝より受け継がれているマントは当然、男ものでして……」
「それを女帝陛下に着せても良いか……ということ?」
「はい。女性が公の場で男装することをタブー視する者も多いですし……」
「では、列席者に新しい時代が来たことを印象づけるためにも、新しいものを用意しましょう」
「ですが今から仕立てるとなると生地の調達が間に合いません」
「先帝アルディス3世陛下の戴冠式で、女帝陛下がお召しになっていたものが残っているはずです。その装飾を施し直せば、年内に間に合うでしょう?」

 例えば、諸外国の代表団招待についても……。

「最悪でも、"鷲の帝国"と"獅子の王国"の代表団が参列しなければ、国際社会に認められません。外務省は一体何をやっているの?」
「それが、外務省にいくら問い合わせても、調整中だという回答ばかりでして……」
「外務大臣のルベーヴ侯は何をやっているの?この期に及んで、足を引っ張る気……?」
「いかがなさいましょう?」
「わかったわ。ラルガ侯爵を"鷲の帝国"から呼び戻します!」
「は? ラルガ大使を、ですか?」
「彼の方がよほど外務大臣にふさわしいわ」
「ま、待ってください! 今、閣僚人事を強行すれば大混乱に……」
「わかっている。ラルガ侯爵が帰国するというニュースだけで、ルベーヴは震え上がって真面目に仕事をするはずよ」
「つまり、ハッタリと?」
「ええ、そうよ。でもラルガ侯爵の事だから、帰国ついでに"鷲の帝国"の代表団を連れてくるくらいするかもね」

 その他諸々、あらゆる事について……。

「駄目ですグレアン侯! 今のペースではとても年内に準備は整いません……せめてひと月は延期しないと……」
「いけません。戴冠式より前に、ルコット寵姫の御子が生まれれば、後継争いは振り出しに戻ります。年明けの挙行は絶対です」
「しかし、現実問題として……」
「では今から私が全部署をまわり、調整します。何が何でも間に合わせるのです……!」

 新女帝お披露目の食事会や、ベレス伯爵とペティア夫人の審問と並行し、アンナはこれらの仕事を行なってきたのだ。
 流石の彼女も疲労の極致に達していた。

 (これが終わったら、休暇をとろう。それで、マルムゼに思い切り甘えて、癒してもらうんだ)

 ライアンドラ大聖堂に勢揃いした廷臣たちの先頭で、アンナはそんな事を考えながらあくびを噛み殺す。こんなところで隙を見せて、新帝の懐刀という立場に疑問を持たれてはたまらない。

 正面の大扉が開き、会場の全員の視線がそちらに集中した。新女帝の入来である。
 この数ヶ月、皇帝の未亡人として公式の場に出ていたマリアン=ルーヌは、久しぶりに喪服以外の衣装に身を包んでいた。

 純白のシルクに金の刺繍で百合の花をあしらったドレスは、帝都でも十指に入る仕立て屋を10人残らず呼んで、総がかりで作らせたものだ。
 その中には某国の王太子の花婿衣装の取り掛かっていた仕立て屋もいたが、それ中断させてまでこちらの仕事をさせている。
 あわや外交問題にもなりかねない所業だが、アンナが当国の大使と交渉して丸く収めた。

 宮内省で大騒ぎとなったマントも、中古の仕立て直しとは思えないほど立派なものとなった。このマントは、成人男性の背丈の5倍ほどもある長大なもので、精緻な刺繍とおびただしい数の宝石で彩られている。
 重量もかなりのもので、後ろで何人もの介添人がマントを支えていなければ歩くこともままならないほどだ。

 介添人といえば、盲目の新女帝の手を取って王冠まで案内する役は、アルディス3世の妹である皇女ユーリアが務めることとなった。
 マリアン=ルーヌ本人はアンナが手を取ることを希望したのだが、流石にアンナはこれを辞退した。戴冠式でそんな事をすれば、クロイス公爵以上の専横と取られかねない。
 自分は、あくまで家臣の一人として列に並び、介添人には皇族の中で最も身分の高い女性であるユーリアを選んだ。
 当のユーリアは最初はその話に猛反発したのだが、皇弟リアン大公の説得で渋々承諾したらしい。
 当然といえば当然なのだが、新女帝と皇族たちの間の溝が深い。今回の件を、その溝を埋めるきっかけにしたいともアンナは考えていた。

 無表情のユーリアに手を取らたマリアン=ルーヌが、アンナの前を通り過ぎる。その時、アンナは気づいた。

(見えている?)

 新女帝の足取りは、かすかだがいつもより迷いがない。もしかしたら、ユーリアの先導など必要ないかもと思わせるほどに。

(ああ、そうか。王冠の放つ魔力を見ているのね)

 どうやら彼女は、魔力を光として知覚できるようになったらしい。本人が言うには、アンナの異能にかかった影響とのことだが真偽はわからない。もし本当だとすれば、"鷲の帝国"皇帝の血筋が秘めていた力だろうと、アンナは推測していた。

(何にしても、今は都合がいい。事情を知らない列席者たちは、あの足取りを君主にふさわしい覇気ととらえてくれるでしょう)

 そう考えながらも、アンナは血筋とは何なのだろうと思わざるを得なかった。
 先日ペティア夫人より聞かされた、この国の忌まわしい裏の歴史。かの名君・黄金帝は悪逆なる簒奪者であり、その子孫たちはいずれも偽物の皇帝であった。
 しかしその偽りの継承者たるアルディスも何者かに殺され、ホムンクルスに帝位を奪われてた。
 そして今、この国の冠を戴こうしているのは、他国の皇族である。しかし魔力を認識できる彼女は、ある意味では過去100年のどの皇帝よりも、リュディス1世に近い資質を持っているとも言える……。

(いや、馬鹿な。支配者の資質とは、魔力でも血筋でもない。民を統べ、国に安寧をもたらす才覚よ)

 そして、マリアン=ルーヌにはその才覚があると、今のアンナは信じている。彼女を支え、この国にはびこる貴族たちの悪習を一掃し、公正な社会を築く。
 それが、エリーナやアルディスを殺した者たちに対する復讐であり、自分の生きる道だ。アンナはそう信じていた。

(とはいえ、ペティア夫人の話を捨て置くことはできないわ)

 あの話がどこまで本当かはこれから裏付けをとっていかなくてはいけない。それに彼女の知らない事実だってあるかもしれない。それらを明らかにすることは、アンナやマリアン=ルーヌの敵対者を炙り出すことになるだろう。
 そして、そのためには錬金工房の復活は急務だ。錬金術師を集め、真の皇族たちの安息の地でであり全ての黒幕たる大錬金術師の本拠であろうサン・ジェルマンなる地を調査させる必要がある。

 この戴冠式が終われば、アンナは様々な雑務から解放される。明日にでも、職人街の工房跡地に行って……。

(あれ?)

 そこまで考えて、アンナははたと気づいた。

(私、明日から休暇取るつもりじゃなかったっけ? なに仕事しようとしてるの?)

 そう思って心の中で苦笑する。前々から自覚はあったが、どうも自分は休めない性分らしい。
 そろそろ過労死してもおかしくないくらい動き回っているのだが、ホムンクルスの頑丈な身体はまだ持ちこたえてくれている。
 まあ、いい。マルムゼに甘えるのは夜の楽しみとし、夕方までは工房再建の仕事に取り掛かることにしよう。

 そんな風に、頭の中で明日の予定を立てていると、わあっと歓声があがり、万雷の拍手が大聖堂を満たした。

 見ると、いつのまにかマリアン=ルーヌがその頭に「竜退治者の冠」を戴いていた。どうやら考え事をしているうちに、世紀の一瞬を見逃してしまったらしい。

「女帝陛下万歳!」
「"百合の帝国"万歳! マリアン=ルーヌ陛下万歳!」
「新たな皇帝に栄光あれ!」

 そんな叫びが、波のように押し寄せてくる中、王冠を戴いた盲目の女性は堂々として姿で廷臣たちの前に立っていた。

 こうしてアルディス3世の皇妃マリアン=ルーヌは、名実ともに"百合の帝国"の皇帝となったのである。
 女帝マリアン=ルーヌの戴冠式の3日後、寵姫ルコットが出産が発表された。
 誕生は4日前。つまり、戴冠式の前日だったという。

「どう思う、マルムゼ?」

 連絡を受け取ると、アンナはまず腹心に尋ねた。この頃のアンナは、なにかの連絡を受けた時、まずマルムゼの考えを聞くのが習慣となっている。

「1日前というのは怪しいですね。もし本当なら、その日のうちに嬉々として発表したでしょう」
「確かにね。もっとも、その発表だけで戴冠式を中止する事はありえないけれど」

 正確な誕生日は、戴冠式と同日か1日後くらいといったところか。前日の誕生というのは、向こうにとっても、言うだけ言ったみた程度の意味しかないだろう。

「ただ、戴冠式とほぼ同時というのは人為的なものを感じます。元々この出産自体が、錬金術師によって制御されたものですから。もしかしたら本当に戴冠式前の出産を狙っていたのかもしれません」
「もしそうなら、連中は赤子のホムンクルスをただルコットの元に届けたのではないわね」

 それならば、絶対に戴冠式より前に「出産」させるはずだ。つまり、彼らは詳細な出産日時を自由に選べない事になる。

「もしかしたら一度胎内に入れ、実際に出産を演じさせるような術を持っている……?」

 おぞましい話だ。しかし稀代の錬金術師なら、そのくらいの芸当が出来てもおかしくはない。

「……結局、コウノトリの正体は掴めなかったのね?」

 コウノトリとは、アンナたちが使っている隠語だ。ルコットの御子となるホムンクルスを用意し、出産を偽装する錬金術師のことである。
 アンナはかなり前から、ルコット周辺の調査を行っていたが、結局何の手がかりも得ることができなかった。
 
「はい。ルコット自身が、帝都郊外の山荘に移ったことまでは突き止めたのですが、思いのほか警備が厳しく……申し訳ありません」
「謝る必要はないわ。あなたに出来なかったのなら、他に誰にもできない任務だったということでしょう」

 アンナはにこりと微笑んで、マルムゼの失態を許す。
 甘いだろうか、今私は恋人だから彼の失態の許してしまったのだろうか? そんな自問をするが、すぐにそれを否定する。
 いいえ。今言った通り、これまで様々な調査や隠密任務に成功してきたマルムゼなのだ。今回の失敗は、そんな彼ですら難しい任務だったというだけだ。

「けど、あなたに隙を見せないなんて、クロイス家の警護担当はかなりの人物ね」
「昨年の暮れあたりから急に守りが固くなりました。ただの警護ではありません。出入りする人間を監視し、徹底的に情報が漏れる事を避けていました。周辺の住民も買収や脅迫でクロイス家に協力していた節があります」
「衛兵というより密偵のやり方ね、それは」
「はい。私もそのように感じました」
「その密偵が守りではなく攻めに動けば、こちらも危なくなるかもしれない。警戒しておいた方がいいわね……」

 それほど腕利きがクロイス家にいるという話はこれまで聞いたことがない。向こうの内部にも、何か変化が起きたということか?

 アンナは頭の中の「懸案事項」とラベリングされた棚にこの件を置き、元の話題へと頭を切り替えた。

「それで、御子誕生の報せを貴族たちはどう思うでしょうね」
「戴冠式をクロイス公は欠席しました。今にして思えば、御子の誕生が近かったからなのでしょうが、これに対しては評価が二分しています」
「へえ。どんなふうに?」
「一方では、宮廷にとって最も重大な儀式である戴冠式を蹴った、クロイス公の豪胆さを評価する声。帝国の最重鎮であるクロイス家の権勢は健在であり、彼は新女帝の即位を内心では認めていないとするものです」

 多分、クロイスもそういう声が上がることを計算づくで欠席したのだろう。アンナはそう考えている。

「で、もう一つの声は?」
「クロイス公のそういったた思惑を承知の上で、それを非難する声です。時代は変わったのにまだ全貴族の主席を気取るのかと、彼を苦々しく思う者が着実に増えています」
「前者は当然、クロイス派の中核層が言っているのでしょうけど、後者を口にしているのは?」
「バラバラです。我々皇妃派陣営にいる貴族はもちろんですが、その他の中小貴族の中にも公然とそう発言するものが増えています。それに。閣僚やそれに近い大貴族の中にも……」
「なるほど」

 勢力としては今なお現在だが、クロイス公の求心力は確実に落ちているようだ。

「確実にこちらの優勢は固まってきているわね。油断は禁物だけど」
「はい、今回の戴冠式と出産で、それらの声がどう変化するか注意する必要があるでしょう」

 その時ドアをノックする音が聞こえ、続けて室外から声がかけられた。最近アンナにつけられた秘書官だ。

「顧問閣下。"鷲の帝国"の副代表が面会を求めておられますが」
「ええ。約束しています、すぐに行くわ」

 アンナは応答する。
 マリアン=ルーヌの戴冠とともに、アンナの役職も変わった。

 顧問(ラ・コンセイヤ)

 前職の皇妃家政機関総監(シェランタン・ド・ラ・メゾン・ド・ランペラトリス)と比べてあまりにも単純な名称となったのには理由がある。
 まず前例のない役職であった事。
 皇妃家政機関総監は、皇妃自身が主催する行事を差配するのが役目だが、皇帝の場合、自身が執り行う催しはそのまま国事となる。そのため、もし『皇帝家政機関総監』という役職があったとすれば、それは大臣級の権力を持つ役職となるのだ。
 加えて、アンナはこれまで皇妃マリアン=ルーヌの私的なアドバイザーとしても活動していた。また皇妃の私生活の場である皇妃の村里の管理人のような立場でもある。
 これらマリアン=ルーヌとアンナの関係性は全く変わらないままに、マリアン=ルーヌが女帝となった。それに従って、アンナの地位も押し上げる必要があった。

 以上のような理由で、アンナの役割の幅を狭めるような所属や権限の限定をつけず、ただの「顧問」がアンナの役職名となった。
 だが、この唯一無二の職名とその呼びやすさのために、これ以降の公式記録では「グレアン侯爵(ラ・マルキーズ・ド・グレアン)」や本名の「貴族グレアン家のアンナ(アンナ・ディ・グレアン)」ではなく「顧問アンナ(ラ・コンセイヤ・アンナ)」と記されることが多くなる。また、"百合の帝国"の国民たちも、貴族特有の飾り気がないこの呼び方を好んで用いるようになっていった。

 * * *
 マルムゼを引き連れて隣の間へ移動すると、すぐさま仮面の女性が挨拶をしてきた。

「改めて女帝陛下のご戴冠と、新たな役職へのご就任おめでとうございます。グレアン侯爵閣下」
「ご無沙汰しております、ゼーゲン殿。こちらこそ、遠路はるばる戴冠式にご出席いただき、ありがとうございます」

 部屋にいたのはゼフィリアス2世の護衛を務めるホムンクルスの女性、ゼーゲンであった。他に2人の人物が同席しており、アンナたちに挨拶する。
 マルムゼと同じ顔を持つゼーゲンは、いたずらに詮索される事を避けるため、この宮殿内では仮面をつけている。それは前回の来訪から変わっていなかった。

「それにしても意外でした。ラルガ侯爵受け取った貴国の代表団の名簿にあなたの名が入っているとは思ってもいませんでしたので」

 ラルガはアンナの期待通り、帰国命令に従うとともに戴冠式に列席する代表団を連れてきた。その中にゼーゲンは副代表として混ざっていたのである。

「先帝陛下……いえ、マルムゼ=アルディスの訃報を聞いた時より、我が君ゼフィリアスは私をこの国に派遣する事を考えておりました。ゆえに護衛の私が不在でも問題ないように、昨年のうちに国内の不穏分子は残らず叩き潰しています」

 平然と、ゼーゲンはそう言ってのけた。マルムゼと同じかそれ以上の忠誠心を持つ彼女は、おそらくゼフィリアス帝の安全のためならどんな事だってやる。彼女の留守中に主君が襲われるなどあってはならない事なのである。だから今の話は、誇張ではないのだろう。

「それで、この2人が?」
「はい。我が国で最高の技能を持つ錬金術師です。それにホムンクルスの私を含め3人。先のお約束通り、貴国の錬金工房立ち上げにご協力いたします」
「ありがとうございます!」

 アンナは深々とお辞儀をし、謝意を示した。

「ご存知の通りあの和平条約以降、我が国の情勢は激変しました。そしてその裏には錬金術が大きく絡んでおります」
「ええ。我々もそれについては察しております」
「手紙には書けぬような事も数多くあります。例の場所まで馬車を用意させましたので、道中でそれをご説明しましょう」
「……以上が、昨年我が国に起きたことと、私が知った事実です」

 ヴィスタネージュから帝都職人街へと向かう場所の中で、アンナは"鷲の帝国"のホムンクルスと錬金術師たちに、ひと通りのことを伝えた。

 偽帝マルムゼ=アルディスの暴走と死、それを予見していたかのような皇妃マリアン=ルーヌの迅速な行動。
 配下の離反も気にせぬ、クロイス伯のなりふり構わぬ離反。そのきっかけとなったベレス伯爵の失言。
 そのベレス伯爵とペティア夫人の繋がり。
 そして何より、黄金帝の時代より続いていたこの国の偽りの歴史……。

 いずれも他国の人間に決して知られてはならない最重要機密だ。しかし、アンナはそれを隠すことも偽ることもせず、できる限り正確に伝えた。
 そうでなければ、共に錬金工房を再建することなどできないからだ。
 これらの情報をゼフィリアス2世が知れば、"百合の帝国"を滅ぼすことの出来る最悪のカードにだってなりうる。
 しかし、ゼーゲンにもゼフィリアスにもそんな意思はない。国を司る者としては危険な賭けだが、アンナは彼らを信じることにした。

「……にわかには信じられな話ばかりです」

 しばらくの沈黙の後、ゼーゲンは絞るように言葉を発した。笑顔など滅多に見せることのない女性だが、アンナの話を聞いた今、いっそう険しい顔つきになっている。

「まさかマリアン様にそのようなお力が……」

 やはり"鷲の帝国"の人間としては、マリアン=ルーヌの変化が何よりも気にかかる様子だった。

「バルフナー博士、シュルイーズ博士、どう思いますか?」

 ゼーゲンは馬車に同乗する2人の錬金術師に尋ねる。

「……私は"鷲の帝国"の皇族がかつて持っていた魔法を研究しています」

 まず、バルフナーが口を開く。"鷲の帝国"の宮廷錬金術師を務める50歳前後の女性だ。かつては"百合の帝国"の錬金工房とも盛んに研究成果を交換していたため、エリーナ時代に何度もその名を聞いていた。

「我が国の開祖、討竜公ルーダフは千里眼の持ち主だったと言われています」
「はい。その伝説は我が国の人間もよく知っております」

 ルーダフの千里眼は全てを見抜く。竜の軍勢の動きの全てを把握し、勇者リュディスはこの戦友を誰よりも頼みとした。
 "百合の帝国"の建国伝説にもそう残されている。

「討竜公は我々の地に国を興す際、肥沃な土地や鉱山の位置もつぶさに言い当て、それが帝国繁栄の礎となったそうです。私はそれを、魔力の流れを正確に知ることができる力だったのではないかと推測しています」
「魔力の?」
「はい。魔力は、魔法時代の勇者たちのみが持つ力と思われてきましたが、森羅万象あらゆるものに本来備わっているものとする考えが主流となってきています。魔法とは、その力を一時的に借りる技術に他なりません」
「なるほど……では、今の貴族たちが魔法を使えないのは……」
「はい。魔力を感じ、利用する力が劣化しているためです。そして我らが主君の血筋は、極めて正確にあらゆる魔力を見極めることができる力の持ち主だった」
「ということは、マリアン=ルーヌ陛下が目覚めた力というのは……」
「はい、討竜公より受け継がれてきた能力の一部が目覚めたと考えれび、私の仮説と合致します」
「あの、私からもよろしいでしょうか?」

 もう1人の錬金術師、シュルイーズが小さく手を挙げる。今年30歳になったという錬金術師としては若手の男性だ。公的な資格を持たない在野の術師なのだが、常識に縛られない自由な発想で研究を行っており、"百合の帝国"に派遣すべき人材として、バルフナーが推薦したのだという。

「私は、ペティア夫人が話されたという貴国の裏の歴史に違和感を覚えました。黄金帝の地位を奪ったものは魔法を一切使えぬと話されていたのですよね?」
「夫人は確かにそう言ってました」
「では、マリアン=ルーヌ陛下は貴国の皇族方に、その『光』というものを、お感じになられていないのでしょうか?」
「いいえ。実は私も、そこに引っかかっていたのです」

 アンナは答えた。そうなのだ。確かに女帝は、現皇族がもつ魔力を知覚している。皇弟リアンが放つ光と、アンナたちホムンクルスが放つ光を見分け、アルディスがホムンクルスだと看破したことがあるのだ。
 それはつまり、現皇族が魔法の力を受け継いでいるということになり、ペティアの話と矛盾する。

「だが、今私が説明した通り魔力はあらゆるものに偏在している。それは現皇族でも例外ではない」

 バルフナーが言う。

「はい、ですから女帝陛下が見ているのは魔力そのものではないだろうということです」
「む……?」
「私もバルフナー博士と同じく、魔力偏在説を支持しています。ですがその場合、女帝陛下はあらゆるもが放つ魔力を認識できる事になる。それはもはや盲目とはいえないほどはっきりと世界を捉えることになりますが……」

 実際に女帝が知覚できるのは一部の力のみであり、私生活での彼女は今も介助を必要としている。

「そうか。陛下がこれまでに感知してきた、ホムンクルスと"百合の帝国"の皇族、それにリュディスの短剣などの魔法遺物……それらの共通点を突き止めれば」
「陛下が見ているものが明らかとなり、それは我が国の皇族に眠る魔法の血の解明となる」
「素晴らしい! 素晴らしいぞシュルイーズくん! やはり君を連れてきて正解だった!!」

 バルフナー博士は歓喜の声をあげてシュルイーズの両手を取った。

(ゼーゲン殿は"鷲の帝国"の錬金術は遅れていると言っていたけど……)

 二人のやりとりを見ながらアンナは思う。遅れているなどとは、微塵も感じない。
 むしろ、貴族の意向により実利のある研究ばかりに資金が投入されてきた"百合の帝国"の錬金工房よりも、基礎理論の研究は先んじているのではないかとすら思う。
 そもそも"百合の帝国"では皇族の魔法研究など不敬の極みであり、絶対的なタブーとされていた。今にして思えば、それは彼らが偽りの血族であることが明らかにならないように黄金帝たちが作り出したタブーなのだろう。
 それに対して、"鷲の帝国"の学者たちは躊躇なく皇族の持つ力について研究し、このような推論を組み立てている。
 国がそれを取り締まることもない。バルフナーはともかく、シュルイーズなどは在野の学者にすぎないのに、だ。

「ゼーゲン殿、あなたの申し出を受けてよかったと改めて思います。この2人が協力をしてくれるなんて、これほど心強いことはありません!」
「こちらこそ、貴国のご内情を包み隠さず話していただけたこと、感謝いたします」

 アンナが謝意を述べると、ゼーゲンはそう返してきた。

「貴国の政情を安定させる事は、我が君ゼフィリアスの望みでもあります。その為にも、1日も早く錬金工房を復活させましょう!」