ヴィスタネージュ大宮殿は、白亜の壁と柱、それを彩る金細工の装飾で構成される壮麗な建造物だが、その敷地のすべての建物が大理石づくりという訳ではない。
 特に東苑に点在する歴代皇族たちが建てた居館には、彼ら彼女らの趣味が色濃く反映されている。
 ある館は魔法時代の神殿を思わせる太い列柱を持ち、ある館は東方大陸の大王の宮殿にならって木造の赤い柱と瓦屋根を持つ。また別の館は、砂の国の異教寺院よろしくドーム状の丸屋根が特徴的だ。
 そんな多種多様な別邸(パビリオン)のなかでも、このたび作られた皇妃の村里(ル・アモー・ドゥ・ランペラトリス)はひときわ異彩を放っていた。歴代皇族が建てた居館がそれでも共通して持っていた「贅沢さ」を一切まとっていなかったのだ。

「華やかである必要がありません。私はここの花の香りや、草木を撫でる風の音を楽しめればそれでいいし、皆でそれを愛でられる場所が欲しいの」

 皇妃のそんな希望を叶えるのに、大理石の床も金細工の窓枠も必要がなかった。むしろ靴音を高く響かせる床は風の音を邪魔するし、きらびやかな窓枠が合ったところで花の香りがより豊かになるわけでもない。
 それらを叶えるのは、この人造湖や花畑が作り出す箱庭の世界に溶け込むような建物群だった。

「なるほど、それでオレたちにお頼みになったというわけですか」

 大工頭のダンは、アンナに言った。眼の前では、彼らが建てた家々に茅葺き屋根を乗せる作業の真っ最中だ。中央の皇妃の居館を中心に、ゲストハウスや使用人のための家、近衛兵の詰め所など大小8棟の建物。それらは全て、帝国中南部によく見られる農家風の建築様式で統一されていた。

「派手な屋敷を建てれば、この素敵な花畑が台無し。だから、ここに農村の景色を丸ごと再現することにしたのよ」
「確かに、これはオレたちの得意な仕事でしたね。むしろ、大理石の柱なんか作ってる、宮廷お抱えの職人には出来ねえかもしれません」
「実際、何度も設計をやり直しさせたわ」

 アンナは苦笑する。本来の予定なら、皇妃の館は"獅子の王国"との和平が成立するころには完成していたはずだった。それがここまで延びたのは、宮廷の出入り業者が皇妃の思い描くコンセプトをなかなか理解しなかったからなのだ。
 
「私たちも、ここまで農家そのものの作りにする予定はなかったのだけれど、あなた方に任せて正解でした」
「けど、本当に大丈夫ですか? 流石に貴族の方々には、むさ苦しすぎるのでは?」
「それを苦痛と感じない者にこそ、皇妃派の……次の時代を担う貴族の資格があるのですよ」

 その資質を選別する場所という意味でも、皇妃の農村はきっと良い働きをするであろう。この場所を嫌う者に、皇妃派を名乗ってもらう必要はまったくない。

「侯爵様!」

 ガラス職人のケントが大量の書類束を抱えてやってきた。それを見たダンは少しげんなりした顔をする。

「じゃあ、オレは各班の作業状況見てきますので」

 そう言って、ダンはそそくさとその場を後にした。
 大工の棟梁としては確かな腕前の男だ。壁にかかる重量だの、それを支える事ができる柱や梁の本数、そこに必要な釘の長さと数……そういった計算は得意なのに、それ以外の数字の話はからっきしらしい。
 ケントが今回の工費の見積もりや、職人街再建のための予算の話をする前に逃げ出した、というわけだ。

「いいんですよ。アイツは建てることだけ考えてれば。アイツの工房にも、近いうちに会計に強い人間を入れるつもりです」

 まだまだ新生職人街には人材が足りない。だからケントは、自身のガラス工房を切り盛りしながら、他の職人たちの会計や人事の世話もしていた。

「ということは、その目処も立ってきたのね」
「ええ! こっちの書類を見てください。帝国アカデミー出身の会計士を何人か雇うことが出来そうです! ダンの工房だけでなく、他の職人の所にも入れるつもりです」
「素晴らしいわ! いよいよ、かつての職人街の勢いを取り戻せそうね」
「それもこれも、侯爵様が多額の報酬を払っていただけたおかげですよ。職人たちの工房の建て直しも急ピッチで進んでいますし、何もかも順調で怖いくらいです」

 順調……そう、その通りだ。
 アンナは宮廷女官長の顔を思い浮かべた。グリージュス公らクロイス派の連中は、宮廷家財管理総監という重要度の低い職務に押し込めればアンナを制御できると考えていた。しかし了見違いもはなはだしい。
 アンナにとってはむしろ、この役職こそ最高の武器となった。そして職人街の再建を実現し、そこで働く者たちを味方につけることが出来た。

(あなたのおかげよ、グリージュス公。おかげで私は計画を次の段階へ進めることができる)

 何もかもが順調すぎて怖い。今のケントの言葉は、アンナにも当てはまっていた。

「ケント、職人街の再建に目処が立ったら、新たに着手してほしい仕事があります」
「何でしょう? 侯爵様からのご依頼でしたら何でもやりますよ!」
「錬金工房の復活です」
「え……?」
「知っての通り現政権はこの数年、工房を閉鎖してきました。ですがあれは帝国の錬金術の最前線。私は何としても建て直したいの」
「それは……私個人としては賛成ですが……」

 ケントの反応は、急速に歯切れ悪いものになった。

「あなたのお父君の話を聞きました。錬金術研究に欠かせない実験器具を作っていたそうね?」
「よくご存知で。正確な目盛りをつけたビーカーや、限界まで球体に近づけたフラスコ……そういったものを父は納品していました」
「あなたにもそれは作れる?」
「はい。その技術があったからこそ、軍に招かれたようなものでしたので……」

 一流のガラス職人の顔はみるみる険しくなっていく。まるでこの先にアンナが何を言い出すのか予測しているように。

「そして、もうひとり錬金術に欠かせなかった職人がいる」
「……」
「複雑な歯車や極細のパイプなどを作っていた、金属細工職人のタフト」

 かつて自分の父だった男の名だ。

「彼が今どこにいるか、ご存知ないですか?」
「申し訳ありません、侯爵様。その名を出すことはお控えください」
「……それは、彼が流血寵姫の父親だったからですか?」
「はい……」

 流血寵姫。エリーナの死後、クロイス派が彼女に付けた汚名だ。錬金工房を私物化し、罪もない庶民たちをさらい人体実験を行っていた最悪の殺人者。そんな噂は、今でも帝都の人間に信じられているということか。

「その噂は、貴族の流した嘘なのではなくて?」
「私はタフト氏やエリーナ寵姫の事をよく知っています。だから、あの噂が大嘘だと信じています! ……ですが、そう考えていない職人も多いのです」

 タフトの声は低く、苦しそうだった。

「例えばダンなんかはあの噂を信じ、今でもエリーナを憎んでいます。彼だけじゃありません。そういう奴は多い。だからあの親子の名は、どうか職人たちの前では出さないようにしてください」
「……そう。ごめんなさい、私が軽率でした」

 以前マルムゼが話してくれた事を思い出す。流血寵姫の噂は、クロイス派の貴族による犯罪をエリーナに押し付ける形で作られたという。
 今でも噂を信じている人たちの中には、そういった狂気に取り憑かれた貴族の犠牲になった者もいるのかもしれない。その恨みをぶつける先がエリーナしかないのだとしたら、流血寵姫の汚名が消えることはしばらくはないだろう。それこそ、アンナが帝国の頂点に立ち、彼女の名誉を回復する宣言でもしない限り……。

「ですがタフト氏がどうなったか、それをお答えすることはできます」
「なんですって!?」
「あの大火の日……錬金工房で火災が発生した時。私は彼と一緒にいたのです」
「一緒に!? どういう事? ともに仕事をしていたの?」

 アンナは思わず、かつての幼馴染の両肩を掴んでいた。ぎょっとするケントに気付き、慌ててアンナは手を離す。

「ご、ごめんなさい……」
「いえ……」

 焦るな、落ち着け。アンナは自分にいい聞かせる。けど無理だ。長い間生死もわからなかった実の父の消息が知れるかもしれないのだ。

「一緒にいたわけではありせん。私が注文の機材の納品した時、彼は工房の地下で何か作業をしていたようでした」
「おとう……いえ……タフト氏が地下に……?」
「工房に火の手が上がった時、彼は率先して消化活動に当たっていました。ですが火勢が強くなった時に、兵士によって火から遠ざけられて……そのまま彼らに連れて行かれました」
「兵士? どうして工房に兵士が?」
「今思うと不思議なのですが……あの日、工房には一個小隊くらいの兵士がいました。帝都の警備兵や警察官ではなかったです。あの金刺繍の黒い制服……」

 金刺繍の入った黒い軍服。帝国軍でそれを身につけることを許されている部隊はひとつしかない。
 
「近衛兵の軍服ね?」
「はい。それに、あの時タフトさんを取り押さえていた人たちは……皇帝陛下直属部隊の肩章をつけていました」
「つまり、皇帝……陛下が彼を連れて行った、と……?」
「恐らくは……」

 アンナはあの男の顔を思い浮かべる。かつての恋人アルディスと同じ顔でありながら、軽薄な薄ら笑いを絶やさない、ホムンクルスの男。
 大火のあった時、すでにあの男は皇帝になりすましていた。そして皇帝直属部隊が現場におり、父を連れて行った。
 そこに何の因果もないはずがない。またあの男と対峙しなければならない。アンナはそう予感した。