翌日、ヴィスタネージュ大宮殿。
「アザミの間」と呼ばれる部屋で、ゼフィリアス2世とラルガ侯爵の面会は行われた。もともと下級貴族の待機所として使われる小さな部屋だ。クロイス派による盗聴の仕掛けなども無いだろうが、念のため両隣の部屋にはラルガ侯爵の私兵を忍ばせている。
ゼフィリアス帝の護衛は1人だけ。フード付きの赤マントを身につけた女性。マルムゼと同じ顔をもつホムンクルス、ゼーゲンだ。彼女は目の周りを覆う仮面をつけていた。宮廷に同じ顔を持つ者がいると分かったからなのかもしれない。
その画面の奥の瞳が、アンナの自然と交差する。すると彼女は、ついと視線を逸らした。当たり前と会えば当たり前だが、彼女にはあまり好かれていないらしい。
「久しいな、ラルガ。そなたに教えられた狩りだが、あれから私も腕を上げたぞ!」
「お久しゅうございます、陛下。もう二十年近くなりますか。あの日の事は、今でも昨日のことのように思い出せますぞ」
形ばかりの儀礼でなく、皇帝はラルガとの再開を心から懐かしんでいる様子だ。その嬉しそうな表情には、彼の誠実な人柄がにじみでているようだった。
寵姫に数多くの愛の言葉を囁きながら、彼女を平然と切り捨て毒を持ったどこかの国の皇帝とは大違いだ。
「グレアン伯、このような場を儲けてくれた事、誠に感謝する」
皇帝はアンナに向き直って言った。
「そのようなお言葉をいただき、大変光栄にございます」
アンナは深々と頭を下げた。
「たが、それ以上に尋ねたい事がある。わかっておろうな?」
「……ええ」
さっそく本題だ。公式日程によれば昨日の昼間に、皇妃との兄妹対面の場が設けられていたはずだ。その事だろう。
「先日、モン・シュレスでそなたは、我が妹の姿を見せてくれたな」
「はい」
「だが昨日、余が会った皇妃は別人であった」
その言葉を聞いたラルガが、額の汗をハンカチで拭っている。様々な修羅場を切り抜けたこの老貴族も、流石に緊張しているようだ。
「確かに幼き頃の妹に似ている顔立ちではあったが、そなたにアレを見せられた今ならわかる。私が会ったのは影武者だ」
ゼフィリアス2世の顔もこわばっている。妹の偽物に会わせられたという個人としての憤りと、自分の言動ひとつで両国の平和が失われるという君主としての責任。それが複雑に入り乱れた顔だ。
「以前より妹については、あまり愉快でない噂があった。兄としてはとても信じたくはない噂だ」
"百合の帝国"に嫁いだ直後、貴族の陰謀に巻き込まれて失明した。本来ならその時点で両国の同盟が解消されてもおかしくない不祥事だ。
「まさかあの噂は本当なのか? そしてそなたは"百合の帝国"はそれを取り繕うために、私を偽物の皇妃と会わせたのか?」
アンナの返答次第で両国の命運が決まる。まさしくそんな局面だ。
エリーナ時代にも、皇帝の代理人として、あるいは改革派の政治家として、他国との代表者と会ったことはある。たが、その時でもここまで国の命運を背負ったことはなかったかもしれない。
「まずは陛下のお心を乱した事、謝罪いたします。そして、このあと多くの釈明が必要となる事をお許しください」
「釈明だと? それでは……」
ゼフィリアス帝の声がわずかに震えた。
「ですがその前に、陛下に合わせたきお方がおります。マルムゼ!」
アンナがその場にいないはずの腹心の名を呼ぶ。すると、壁の一部がぐるりと回転し、四角い穴が現れた。
「まさか……」
穴から、マルムゼが一人の貴婦人を伴って現れる。
「その声、お兄様ですか……」
「マリアンか……?」
このアザミの間は数十年ほど前、別の用途で使われていた時期がある。
当時の皇妃が、愛人関係となっていた若手官僚との逢瀬に使用されていたのだ。彼女は、皇妃の私室から直通の隠し通路を作っていた。一方、その官僚はこの部屋を仮眠室として利用することを皇帝に願い出ており、1台のベッドが置かれていた。
ベッドの本当の用途を知った皇帝は激怒し、その官僚を一兵卒として前線に送り込んだという。その後、皇妃も離縁を言い渡され、隠し通路はエリーナが調査するまで長らく忘れ去られていた。そして今日、再び皇妃のために使用されたのだ。
「皇妃様、お手を……」
アンナが手を差し出すと、皇妃マリアン=ルーヌはそれを握り返してきた。異能を発動させる。”感覚共有”の異能で、光を失った皇妃の両目に兄の姿を映し出す。
「お兄様!」
アンナに手をとられた皇妃が、ゼフィリアスに近づく。ゼフィリアスは、両手を大きく開き彼女の体を抱きかかえた。
「我が妹よ、ようやく会えた……!」
「お久しぶりです! 私も、会いとうございました……!」
ゼフィリアスの腕にさえぎられ、アンナの手が離れてしまったが、ここまでくればもう関係ない。姿は見えなくとも、すぐそばに血を分けた兄がいる。
マリアン=ルーヌがこの国に嫁いで以来、10年ぶりの再会だった。
「まさか、リンダー先生自ら楽器を取っていただけるなんて!」
皇帝ゼフィリアス2世は、拍手をしながら熱っぽい声音で言った。組曲「朝の泉」作曲者リンダー自らの演奏が終わったところだ。
「こちらこそ、陛下の御前で演奏することができるとは感激にございます。ですが"鷲の帝国"といえば、音楽と芸術の国。私めの演奏などお耳汚しではありませんでしたか?」
「何を言われる。あなたは、我が国でも盛んに演奏されている偉大な音楽家です」
帝都・ベルーサ宮。マルフィア大公リアンのサロンに、ゲストが招かれていた。"鷲の帝国"の皇帝ゼフィリアス2世である。
もともと公式の日程には組み込まれていなかったのだが、帝国第2位の権威を持つ皇弟リアンが、ぜひうちのサロンにきて欲しいと、強引に異国の皇帝を誘った。おかげで、外務省の官僚たちは大慌てで日程調整をする羽目となった。
……と、ここまでは公式に記録され、多くの人々が知る事実である。が、実はこのときもう1人のゲストがベルーサ宮を訪れていたことは、ごく限られたものしか知らない。
「素晴らしい演奏をありがとうございます、リンダー先生。それにリアン殿、こうして兄妹水いらずの時間を作っていただいたこと感謝……」
「おっと、それ以上はいけませんな」
壁際にいた、この離宮の主人は人差し指を唇に当てながら言った。
「あなた様は私の友人が紹介してくれた、このサロンの新しい会員。それ以上でも以下でもありませぬゆえ」
「あっ、そうでしたわね」
新会員と呼ばれた盲目の女性は、あわてて口をつぐんだ。それを見たゼフィリアス帝はふふっと口元を綻ばせる。
「この後は文士のペルシュワン君が、自作の短編の朗読したいそうです。"鷲の帝国"の実在の土地を舞台とした作品だそうです」
「ほう、それは楽しみです」
「私は席を外しますので、どうぞお二人ともごゆっくりお過ごし下さい」
リアンは一礼すると、サロンを退出した。
* * *
「君には本当にいつも驚かされるぞ、アンナ。まさか皇妃まで連れ出すとは」
サロンから戻ってきた皇弟は開口一番そう言った。
「お二方が楽しんでおられるようで何よりです」
「よくあの口うるさい女官長が許したものだ」
「許すも何も、ペティア夫人には何も話してませんから。皇妃様は今日一日、新たな居館の設計のために、私や建築家たちと東苑にいることになっています」
「なるほど、それで北苑の裏門から抜け出したか。歴代皇帝がお忍びで帝都を訪れた時と同じ手口だ」
リアンは、アンナが座っている向かい側のソファに腰を下ろした。
「君がゼフィリアス帝と悪巧みをするから、私の家を貸して欲しいと言ってきた時は何事かと思ったぞ。私は今回の来訪に関わるつもりなどなかったのだがな」
「こんな楽しいことに殿下を誘わないのはもったいないと思いましたので」
アンナは白々しく言う。
アザミの間でゼフィリアス帝との接見に使えた時間は30分だけだった。
"獅子の王国"との和平に関する具体的な話をする必要があったが、そう何度も宮廷内で彼と接触することはできない。そこでリアン大公にこの話を持ちかけたのだ。
「しかしだな、アンナ。俺を遊び相手に誘ってくれるのは嬉しいが……」
リアンはそこまでにこやかに話すと、一転して露骨に嫌そうな表情を作ってみせた。
「余計なおまけが2つもついてくるとは思わなかったぞ」
心底嫌そうな声音を向けた先には、2人の男がいる。帝都防衛総監ラルガ侯爵と、その息子で帝国軍人のエイダー男爵だ。
「芸術の心を理解しない無骨者を2人も、我が邸内に招き入れることになるとは、いささか不本意である」
「失礼ながら殿下。私ども親子とて、芸術を愛する心を少しばかり持っているつもりです。このような吹き溜まりに、芸術家たちが押し込められていることを嘆くくらいには、ですが」
「吹き溜まりだと? 言ってくれるではないか」
いつも飄々としているリアン大公が、珍しくこめかみに青筋を立てている。
「ここに入る前に、少し中庭を歩きました。相変わらず、怪しげな連中に出入りを許しておるようですな?」
ラルガが言っているのは、ベルーサ宮の庭にたむろしている革命運動家や娼婦たちの事だろう。
閑職の色合いが濃いとはいえ、ラルガは帝都の防衛を任されている身。治安悪化の要因となりうるベルーサ宮の存在は面白くないらしい。
貴族、皇族でありながら、ヴィスタネージュの宮廷ではなく、王都のど真ん中に拠点を構えるラルガ侯と皇弟リアン。どうやら犬猿の仲であったようだ。
「知り合いの警察官がぼやいておりましたぞ。大公殿下は不穏分子に優しすぎると」
今度は息子エイダー男爵が、リアンに苦言を呈する。
「いま少し、捜査に協力なさってはいかがですかな?」
「官憲の連中こそ、厳しすぎるのではないか? 私は庭にいる紳士たちとはよく酒を酌み交わしているし、ご婦人方には心のこもった接客を受けているが……皆、誠実で善良な帝都市民だぞ?」
「見解の相違ですな。あまり野放図にしていると、我が配下に強行捜査をさせざるを得ないことはご承知ください。グリージュス公の一件のようにね」
皇帝の弟に向かってここまで言えるのが、ラルガ親子が気骨の人物である証だった。こういう性分だからこそ、クロイス派に疎んじられヴィスタネージュから遠ざけられることとなったのだが……。
「なぁ、アンナ。こいつら抜きで話を進めることはできないのか?」
「私のかけがえのない同志です。どうかご辛抱ください」
「同志、ね。俺が言うのもなんだが、君の交友関係もだいぶ変わってるな」
確かにそうだ。ホムンクルスの近衛兵に始まり、芸術と混沌を愛する皇弟、反骨の軍人貴族親子、盲目の皇妃。そして東の大国の皇帝が加わろうとしている。
自分の計画は、だいぶ人の運に恵まれている。今更ながらにアンナはそう思った。一癖も二癖もある人物たちだが、彼らの助けによって彼女は順調に宮廷内での地歩を固めてこられたのだ。
それからしばらく、帝都市民たちに関する雑談や、リアン大公とラルガ侯との嫌味の応酬、そしてクロイス派の悪口などで時を過ごした。
2時間ほど経つと、隣の間の扉が開いた。
「素敵な時間をありがとうございました、マルフィア大公」
"鷲の帝国"の皇帝兄妹がこちらの部屋に入ってくる。アンナはすかさず立ち上がると、マリアン=ルーヌ皇妃の手を取ってソファまで案内した。
「ご兄妹のお時間は、もうよろしいのですかな?」
「ええ。これほど自由な時間を過ごすことなどもう二度とないと思っていましたから、感謝に耐えません」
「それはよかった」
「ここからは、本題と参りましょう。我が帝国と貴国、そして"獅子の王国"の未来の話を……」
肉親思いの青年皇帝の顔は、数百万の民の未来を預かる為政者のものへと変わった。
「まず前提として、クロイス公は今回の参戦で多額の報奨を約束している。今回の来訪は、その内容を決めるためのものであった」
すでに和平条約の件は、概要だけ話している。今日はその詳細を話し合うため、異国の皇帝にここベルーサ宮に足を運んでもらったのだ。
「ですが、貴国ではそこまで強く戦争を望んではいない。違いますか?」
アンナが尋ねると、ゼフィリアス帝は感心したように頷く。
「伯爵は聡明であるな。いかにも、我が帝国の民も大臣たちも、戦を求めてはいない」
エリーナ時代に各国の情勢についても学んでいた。”鷲の帝国”は精強な軍隊を持つが、それはあくまで自衛のためであり、自ら他国に攻め入ることを好む国ではなかった。まして、よその戦争に駆り出されるとなれば、反対する者も多いだろう。
「彼らを納得させるだけのものを、クロイス公は与えてくれると思いですか?」
「少なくとも、これまでは彼とは良い関係を続けてくることができた。ご存知かもしれないが、我が"鷲の帝国"の国力は、貴国に劣る。貴国からに対して与えるものより、こちらが受け取るものの方が多いのが実情だ……」
産業革命に成功した"獅子の王国"と、長年錬金工房に多額の投資を続けてきた"百合の帝国"。両国の国力は、他の大陸諸国と比べ抜きん出ている。
"鷲の帝国"もこの二国に続こうと試行錯誤を繰り返しているが、なかなか差を埋める事はできていない。むしろ、"百合の帝国"からもたらされる外貨や技術供与の恩恵を受けている立場なのだ。
「だが、国力で劣ると言え、主従関係が成り立つほどではない。嫁に出した皇女が不当な待遇を受けているというのであれば、話は変わってくる」
"鷲の帝国"の第3皇女として生まれたマリアン=ルーヌは、快活で天真爛漫な性格だったと聞く。長男であるゼフィリアス皇太子とは特に仲がよく、この二人がいれば帝国の未来は明るいと誰もが信じていたそうだ。
そして時は経ち、マリアン=ルーヌは西の大国"百合の帝国"の皇妃となるべく、祖国を後にした。程なくしてゼフィリアスも即位し、”鷲の大国”の皇帝となった。兄妹の絆は、そのまま両国の友好と平和の絆となると思われた。
だが実際にはどうだ? 嫁いでまもなく、マリアン=ルーヌは毒を盛られ、光を失った。政治の舞台からも社交の場からも追いやられ、つい最近まで幽閉同然の扱いを受けていた。しかも"鷲の帝国"側は、その事を全く知らされておらず、不穏な噂についても「事実無根の噂」と一蹴されてきた。
加えて、つい最近起きた寵姫ルコットによる廃妃のための陰謀。そして今回の影武者騒ぎ……。
ゼフィリアス帝の、"百合の帝国"とそれを主導するクロイス公への信用は地に落ちているようだ。
「グレアン伯、ラルガ侯、あなた方がクロイス公と敵対し、この国を良き方向へと導く意志があるのならば、余はあなた方を支援しよう」
「それは、とても心強いお言葉です!」
「明日からの会議では、派兵の約束は取り消し、和平条約締結の仲介を申し出ることとする」
うまくいった。アンナは皇妃の顔を見た。彼女が隣の部屋で兄とどんな話をしていたのかはわからない。けど、もしかしたら何か口添えをしたのかもしれない。と、そんな気がした。
「ゼフィリアス陛下がそのような決意を持ってくれてのは重畳。……が、問題はこここらだな」
横からリアン大公。その通りだ。ゼフィリアス帝が和平の仲介を申し出たとしても、クロイス公やアルディス帝がすんなりとそれを受け入れるとは思えない。彼らは"獅子の王国"と一戦したくて仕方ないのだ。
「エイダー男爵、軍の内部では"獅子の王国"との戦争はどのように考えられているのでしょう?」
アンナは、ラルガ侯の息子に尋ねた。現役の軍人である彼は、軍内の情勢に最も明るい。
「ウィダス戦争大臣は間違いなく戦争に乗り気です。これを機会に、軍備や兵制度を一新したいとお考えでしょう」
「……でしょうね」
かつてはエリーナと一緒にクロイス派への文句で盛り上がった彼も、すっかりクロイス公に取り込まれている。まあ、皇帝の第一の腹心と呼ばれている男だ。皇帝が変節したら、それに乗っかるのは当たり前なのだが……。
「ウィダスならそう考えるのは当然。私が知りたいのは前線指揮官たちの考えです」
「それでしたら、戦争に反対する声は確かにあります」
長年、"獅子の王国"との戦争が続き、帝国軍は疲弊している。3年前の会戦で停戦協定が結ばれたが、すぐに反故にされまた小競り合いが始まっている有様だ。
加えて軍部は、グリージュス公を主犯とした物資横領で痛手を受け続けてき。クロイス公の言いなりとなって戦う事を良く思わない軍人は多いだろう。
「そういった声を、あなた方親子でまとめ上げる事はできますか?」
「これまでは無理でした。ですが、ゼフィリアス陛下が和平案を提示されるのであれば、流れを変える事はできます」
ラルガの言葉はほんのりと熱を帯びていた。彼は軍の疲弊に心を痛めていた一人だ。それが改善する可能性が見えてきたことで、朴念仁の心に何かが燃え上がっているのかもしれない。
「だがな、アンナ。反戦派をまとめて一勢力にしようとすれば、さすがにクロイス公だって黙ってはいまい。両派の対立になるぞ。下手すれば、実力で軍を従わせようという動きも出てくるかもしれない」
リアン大公が再び口を挟んできた。アンナたちの話に茶々を入れるような形になっているが、彼の洞察は的確だ。本人にその気はないようだが、政治的なセンスはクロイス宰相率いる閣僚たちよりも遥かに上だろう。
だからこそ、不埒な革命思想家が彼を次の皇帝にしろなどと煽動しているのだが……。
「そこて、彼らを黙らせるためにこれを使います」
アンナは懐から一本の短剣を取り出した。
「おいおい、異国の皇帝陛下の前でそれを出す気かい?」
リアンは呆れ切った顔で苦笑する。確かに、国外の人間においそれと見せて良いものではない。
「ゼフィリアス陛下の御前だからです。我々が投資するに足る勢力だと、わかっていただけるでしょうから」
アンナはその短剣を、テーブルの上に置いた。百合の紋章が入るそれを見て、ラルガ親子が目を丸くする。
「なっ!?」
「……ま、まさかこの短剣は!?」
「さすが軍人出身ですね、お二人とも。そうです、これはリュディスの短剣」
「リュディスの短剣だと?」
その名を聞き、今度はゼフィリアス帝が驚く。"百合の帝国"初代皇帝から伝わる短剣。それが何を意味するかは、"鷲の帝国"の皇帝ももちろん知っている。
「なぜ、それがここに?」
「本物……なのですか?」
「詳しい事は申せませんが、本物か偽物かに関わらず、ここにこれがあることが重要でしょう?」
「ははっ! 俺の時もそんなことを言ってたな」
リアンは愉快そうに笑った。
「……なるほど、そういうことか」
ゼフィリアス帝がつぶやく。
「貴国の人事について、我が国の官僚たちが首を傾げていることがあった。ウィダス戦争大臣の地位だ」
戦争大臣とは、有事の際に皇帝を補佐し、軍を統括・指揮する職務とされている。
「ウィダス卿は、アルディス帝と幼少の頃から親しく、第一の腹心と目されてきたと聞く。そんな彼が、軍を動かす立場に抜擢される。これは良い。だが、なぜ大元帥ではないのか? そこが疑問だった」
"百合の帝国"の歴代皇帝は、最も信頼する軍人を大元帥の位につけ、自らの代理として軍を自在に動かす権利を与えてきた。
戦争大臣にそこまでの権限はない。あくまで指揮権は皇帝自身にあり、大臣はそれを補佐するのみだ。
「ウィダス卿を大元帥に任命しないのではなく、任命できなかったのなら納得できる。その剣がアルディス帝の手元にないのだから……」
リュディスの短剣は、帝国の軍権の象徴。この短剣を所有する者のみが帝国軍10万を指揮できるとされている。
「これが皇帝の手元にないという噂を流すのです。今陛下が仰せの通り、ウィダス卿が大元帥に任命されていないことが噂に説得力を持たせるでしょう」
「なるほど、その噂があれば兄上やクロイス公も、軍内の反対派を下手に押さえつける事はできなくなる、ということか」
皇弟リアンは愉快そうに笑う。
「で、その短剣はどこにあるという設定にするんだい? まさか、グレアンの女投手が持っていると吹聴するわけにはいかんだろう?」
「もちろん、あなたの元です。大公殿下」
「む……? いや、ちょっと待ってくれアンナ」
「ここベルーサ宮にあるとなれば、クロイス公でもうかつに手出しできなくなりますわ」
「確かにそうだが……」
リアンはたじろいでいた。彼には帝室の血が流れていないのでは、という噂があり、リアン自身それを信じている節がある。
リュディスの短剣を持ってるとなると、それに血を垂らし、かの勇者の正統な子孫であることを示すことを求められるかもしれない。彼はそれを恐れているのだ。
「ご心配なく。あくまで噂が流れればいいのです。あなた様は、それを肯定する必要も否定する必要もない」
「やれやれ、君はとんでもない陰謀家だな」
皇弟はかぶりを振った。
「わかった。名前を使うくらいなら許してやる。それでクロイス派が慌てふためく様子を見られるなら、安い見物料さ」
「ありがとうございます」
カードは揃った。かなり強力な役が作れたと思う。
うまくいけば盤石なクロイス公の政権にかなりの痛手を与えることができる。
アンナは兄の横に座り、一言も発しない皇妃を見た。元はと言えば、この女性のささやかなわがままを叶えようとしたのが始まりだった。
その時は、ここまで大きな話になるとは思っていなかっが……。
(やっぱり、私は人の運に恵まれているわね……)
アンナは、この策謀の協力者たちの顔を眺めながら、そう思った。
半年後。ヴィスタネージュ宮殿大広間。
"百合の帝国"皇帝アルディス3世と、"獅子の王国"全権代表ケレス伯爵、そして仲介人である"鷲の帝国"皇帝ゼフィリアス2世が条約文書にサインしていく。三者のサインが記された文書をゼフィリアス帝が掲げると、大広間に万来の拍手が巻き起こった。
こうして百年近く続いた、"百合の帝国"と"獅子の王国"の戦争は終結した。
「この条約は、会戦でいずれかが勝利するたびに結ばれてきた、これまでの一時的な休戦とは違う。完全な戦争の終結だ」
調印後にアルディスが演説を行う。
「かつてこの大陸は悪しき竜の王が支配する暗黒の世界だった。この竜を討ち、平和を築き上げた英雄達がいる。我ら3カ国をはじめ諸国の王侯たちは皆、彼らの末裔だ。今こそ我々は始祖たちの理想を思い出し、平和な世界を作らねばならない!」
理想論ばかりを並べ立てた内容。アンナはそれを聞くクロイス公の顔を見た。
彼は"百合の帝国"代表団の一人として、皇帝の後ろに立っている。
(どんな気分で、この演説を聞いているのでしょうね?)
百年に及ぶ戦争で最も利益を得ていたのがクロイス公爵家だろう。彼らは代々、占領地の略奪品を独占し、武器商人たちに投資し、さらにはグリージュス公のような者を利用して軍の物資を横領していた。
そうやって得てきた富の蓄積が今の彼らの権勢を支えてると言ってもいい。それが突如終わってしまったのだ。心穏やかであるはずがない。
ゼフィリアス帝が和平案を持ち出した時、当然クロイス派は反発した。
友好国にあるまじき変節、断交も辞さない。そういきり立った大臣もいたという。
『断交? 貴国と縁を切りたい気持ちを抑えているのは余の方である!』
ゼフィリアス帝は初っ端から、彼が持つ最強の武器を手にしたそうだ。妹に対する不誠実な待遇を責め、それでも"鷲の帝国"側が歩み寄っているのだ、という姿勢を示した。
"鷲の帝国"は、戦争を好まぬ代わりに、皇族の多くを各国の王侯貴族たちと結婚させたり、養子に出したりすることで勢力を築き上げた国だ。
ゼフィリアス帝の先祖たちは代々、「戦争は他国に任せ、我らは結婚せよ」という家訓に従ってきた。今では、大陸の半数近くの国が、"鷲の帝国"と親戚づきあいをしている。
マリアン=ルーヌ皇妃の不遇は、それらの国全てから非難を浴びることとなる。
『余は貴国の孤立を望まぬ。だからこそ、"獅子の帝国"との講和も勧めているのです』
そう言ってゼフィリアス帝は、クロイス公を追い詰めた。
一方その頃、軍部でも終戦を求める動きが出始めていた。ラルガ親子が動いたのだ。
軍人とは本来戦いを望むものではあるが、百年にも及ぶ戦いは、さすがに彼らの戦意を減退させていた。前線では、公然とクロイス公の対"獅子の王国"政策を批判する声が起こり、反乱を示唆する者まで出始めた。
すると今度は、戦争大臣ウィダスがそれらの声を潰すために動き出したが、それも即座に止められてしまう。
皇弟マルフィア大公に関する極めて不穏な噂が流れたのだ。"百合の帝国"の軍権を象徴する至宝「リュディスの短剣」は実は皇帝の手元にはなく、マルフィア大公リアンが所有しているというものだった。
リアン大公は肯定も否定もしなかった。だが実際、皇帝の手元に短剣はないのだから、ウィダスもアルディス帝本人も、軍内の反戦の声を止めることができなくなった。
こうして"百合の帝国"首脳部が混乱に陥っている間、ゼフィリアス帝は帰国をとりやめてヴィスタネージュに居座ってしまった。彼は日ごとに和平を求める声を強めていき、最終的にはラルガ侯爵を含めた和平交渉団を"獅子の王国"へ送る確約をクロイス公から取り付けることに成功した。
そして数ヶ月の交渉を経て、このヴィスタネージュ和平条約の締結に至ったのである。
* * *
「実現したわね、アンナ。あなたの計画が」
「皇妃様」
式典が終わり、宮殿のバルコニーで休んでいるとマルムゼに手を引かれた皇妃が現れた。
「ありがとう、マルムゼ殿」
皇妃は、アンナの腹心に向かってにっこりと微笑む。どうやらバルコニーの入り口に控えていたマルムゼに、ここまで案内してもらって来たようだ。
「それでは皇妃様、伯爵閣下、私は廊下に控えておりますのでごゆるりと」
マルムゼは一礼すると、また中へと戻っていた。
「ベルーサ宮であなたが話した筋書き通りで驚きました。あなたが和平交渉団に入らなかったことは意外でしたけど」
「私のような新参貴族、大した力にはなれなかったでしょう。和平の実現はラルガ侯爵の人徳と粘り強い交渉があったからこそです」
「謙遜しないで。今回の事であなたの実力を認めた人は多いでしょう。きっと、宮廷の役職を得ることができますわ!」
「それは、どうでしょう」
皇妃は善意の人だ。宮廷の人間社会が持つ悪性にあれだけ晒されながら、それに染まることがない。手柄を立てれば相応の見返りがあると本気で信じている。
実際には逆だろう。今回のことでクロイス派は、アンナを極力政治の舞台から遠ざけようとするに違いない。
ラルガ侯爵やリアン大公との結びつきを断ち切るために、帝都を離れることになるかもしれない。あるいはヴィスタネージュの宮廷内において、常に監視されることになるか……。いずれにせよ、次の一手を打つ必要があると、アンナは考えていた。
「皇妃様こそ、ありがとうございます」
「え? なんのことかしら?」
「あの時、ゼフィリアス陛下にお口添えしてくれたのでしょう。私の提案に乗っていただくように」
「さすがね。わかっていらしたのですね」
やっぱりそうだったか。
「兄は曲がりなりにも一国の皇帝、あらゆる損得を考えて行動しなければならない人。ですがベルーサ宮で、わがままを申し上げましたの。アンナの……私の最愛の友人の力になってほしいって」
ゼフィリアス帝とは考えが一致することも多かったし、錬金術の裏側を知るもの同士と言う共通点もあった。だから、最終的には味方につけられると考えてはいたけども、これだけスムーズに事が運んだのは、皇妃の口添えがあったからこそだ。
「アンナ、あなたは私が諦めていたものをすべて与えてくれた。二度とみられないと思っていた庭園の景色、ともにお茶会で笑ってくれる友人たち、それに家族との再会……」
「与えたなど……。すべて皇妃様が持っていて当然のものです」
「ううん。この宮廷でそれをすべて用意してくれたのはあなただけ。だから、約束します。何があろうと私はあなたの味方だって」
「皇妃様?」
「例えあなたが、恐ろしいことを考えていようと、私は構わない。あなたを助けます。それが私の恩返しと思って下さい」
恐ろしいこと? まさか……復讐心を見透かされている?
アンナはほんの数瞬だけ焦る。
が、すぐに落ち着きを取り戻した。違う。皇妃のこの態度は、全幅の信頼をおいている証だ。
アンナが完全な善意で皇妃に寄り添っているわけではないことを承知した上で、味方になるというのだ。
「もったいなきお言葉です。私のようなものを、そこまで想ってくださるとは有難き光栄にございます」
アンナは頭を下げつつ、胸中では会心の笑みを浮かべていた。
(本当に純粋で、優しい人だ)
そして愚かな人でもある。上に立つものはここまで家臣に心を許してしまえば、あとは家臣による専横が始まるだけだ。
この人の人間性はとても好ましいものだ。一人の友人として末永く付き合っていきたいとも思う。
しかし、同時に公人としてこれほど手玉に取りやすい人はいない。復讐と野望のため、利用させてもらおう。
「本当に仲が良いのだな」
その時、背後で声がした。よく知っている声。
「え……?」
振り返るとそこには皇帝アルディス3世が立っていた。
(いつの間に?)
背後には表情をこわばらせたマルムゼがいる。皇妃と同じように、アンナのもとまで案内を命じられたようだ。
「まぁ、陛下。そうですの、アンナは私の第一の親友ですわ。ねぇ、アンナ?」
「は、はい……」
皇妃の嬉しそうな声。アンナは慌てて居住まいを整え、深々とお辞儀をする。
「皇帝陛下。此度の式典、誠にお疲れ様でした。我が帝国が新たな道を選んだこと、大変喜ばしく……」
「いや、よい。そのような堅苦しい言葉。それに今回の和平は、そなたが描いたものであろう?」
「それは……」
アンナは返答に窮した。突如現れた、最大の復讐相手。なぜ今ここに? 夜には和平を祝うパーティーがある。それまでは自室にいるのではなかったのか?
「私がここにいることが不思議か?」
頭の中を見透かすようにアルディスが尋ねてきた。
「それは、そうですね。パーティの準備があると思っていましたので……」
「確かに、皇帝ともなると衣装の着替えや準備に時間もかかるし、その間にも給仕長や大臣との打ち合わせもあるからな。本来なら部屋に籠もりきりになる頃合いだ」
「それでは何故……?」
「なに、君やそこにいる君の側近がいつもやっていることさ。隠し通路を使って抜け出して来たのだ。君たちがここにいると聞いてな」
アンナの心臓が跳ね上がる。マルムゼも表情に出すことはしなかったが、肩をピクリと震わせた。
皇帝は、隠し通路のことを、私やマルムゼがそれを使っていることを、知っている……?
「皇妃よ、しばし君の友達を借りたいのだが良いか?」
「……はい? それは、陛下のご命令とあらばもちろん」
「かたじけない」
アルディスは皇妃の手を取り、軽く口付けをしてみせた。
「まぁ、陛下ったら……」
皇妃は、少し顔を赤らめながら微笑む。
「では参ろうか、グレアン伯。それに君もだ、マルムゼ」
「これは、アルディス陛下!? それに……グレアン伯?」
突如現れた珍客に、ゼフィリアス2世は目を丸くしていた。
「突然の訪問、すまない。家臣たちの目を盗んで貴君と会うにはこのタイミングしかなかったのでな」
アルディスに案内された隠し通路の先は、ゼフィリアス帝にあてがわれた宮殿内の一室だった。
護衛の兵は扉の向こうに待機しており、室内には彼一人のようだ。
「陛下、いかがなされましたか?」
その扉の向こうから、凛とした女性の声。恐らくはあのホムンクルスの護衛、ゼーゲンだろう。
「いや……なんでもない」
平静を装おうとした"鷲の帝国"の皇帝に、"百合の帝国"の皇帝が言う。
「いや、貴公のホムンクルスもいた方が良い。彼女を部屋に入れて頂こう」
「……なんですと?」
アルディスはマルムゼの正体がホムンクルスであることを知っていた。そして、ゼフィリアス帝の護衛についても……。一体この男は何を知り、どういう目的でこの部屋に来たのだ?
「ゼーゲン。こちらに来てくれないか。君一人でよい」
「は……失礼します」
黒髪の女性が入室する。そして、主君の部屋にいる3人の侵入者を見て、顔をこわばらせた。
「これは!?」
「ゼーゲン殿と申したか? 驚かせてすまない。君の主人に危害を与えるつもりはないから安心したまえ」
アルディスはゼーゲンに向かって手のひらを見せ、武器を持たないことを主張する。が、ゼーゲンは警戒を解くことはなく、いつでもゼフィリアスとアルディスの間に飛び込めるように身構える。
「陛下、そろそろご説明ください。これは一体どういうことですか?」
アンナは自国の皇帝に尋ねる。
「グレアン伯、君はそろそろ察しがついているのではないか?」
「どう言うことでしょう?」
「おや、とぼけるのか? いや、この顔だからかな……?」
「は?」
「どうだ、これならわかるか?」
アルディスは右手を掲げ、パチンと指を弾いた。
「はっ!?」
不思議な感覚がアンナを襲った。睡魔と戦い、うとうとしているときに、我に帰るあの瞬間。
あれに近い、急激に意識がはっきりするような感覚。眠りかけていたわけでもないのに、なぜ今そんなものを味わう……。
「え?」
いつのまにか、目の前に立つ人物の顔が別人のものになっていた。獅子の立て髪を思わせる赤みかがった金髪は、新月の夜空のような黒髪に変貌している。
それはアンナの腹心マルムゼと、そしてゼフィリアスの腹心ゼーゲンと同じ髪色だ。
ゼフィリアス帝が声を震わせながら問いかける。
「アルディス陛下……貴君も……」
「そう、ホムンクルスです」
ゼーゲンは懐の短剣を引き抜いた。アンナの背後ではマルムゼも攻撃の態勢を取る。
「だから、危害を与えるつもりはないと言っているだろう。落ち着きたまえ、同胞たちよ」
アルディスは……いや、アルディスに扮していた男は、同じ顔を持つ男女を牽制するように言った。
「どうだ、グレアン伯。これであの日のこと、納得できたのではないかな?」
あの日……言うまでもなく、皇妃とマルムゼが一緒にいるのを目撃した日のことだ。いや、違う。あのときいた男は、やはりマルムゼではなかった。
「 ……その仰りよう、あのとき私がいることに気づいていたのですか?」
「いや、あのときは王妃しかいないと思っていたさ。だが、本殿に戻るときに皇妃の馬車以外が通った跡を見つけてな。あの場に君がいたことを知った」
「何故すぐに、私を問い詰めなかったのです?」
「泳がせてみるのも一興かと思ってな。君は、何か大きいことをしそうだったからな。そして実際に、今回の和平条約を実現させてしまった」
「……」
アンナはどう反応すれば分からず、その男の言葉に無言で応じるしかなかった。他の者達も何も言えないでいる。
「そう構えないでいただきたい。私はあなた方と話をしたいのだ。時間もあまりない」
「話とは……一体何の?」
「同じ顔のホムンクルスが3人いるのです。我々の造物主の話以外に考えられますか?」
「造物主……つまり……」
「そう! サン・ジェルマン伯爵のことですよ」
言いながら、アルディスになりすましていた男は、深々と椅子に腰を下ろした。
「……まず、貴殿は何者だ? 余やグレアン伯のような主人はいるのか? それに、かの錬金術師のことをどこまで知っている?」
低くゆったりとした口調で、ゼフィリアス帝は男に尋ねた。その口調は、決して余裕がある証ではない。意図的に口調を抑えないと、焦りや不安が暴発してしまうのだろうとアンナは思った。他ならぬアンナが同じ心境だった。
「なるほど。たしかにそれを答えねば貴公らと同じ土俵には立てませんな。いいでしょう」
男は不敵な笑みを浮かべた。
「まず私の本名ですが……いきなり困ったな。私には名が無い」
「無い?」
「ええ。生まれた時には"アルディス"と呼ばれておりました」
「……それは、最初からこの"百合の帝国"の皇帝として生を受けた……と言う意味ではあるまいな?」
「ええ、もちろん。私がホムンクルスとしての生を受けた時すでにこの肉体は成人男性のものとなっておりました。また、この肉体を得る前の記憶については……残念ながらございません」
得体の知れぬホムンクルスの語り口は、どこか楽しげだった。そんな態度が、かつてアルディスの寵姫だったエリーナの心をざわつかせる。
「そうですね……もし私個人を呼称したいのであれば……マルムゼ=アルディスとでもお呼びください」
「マルムゼだと……」
自らもそう名乗り、その名で主人に呼ばれていたアンナの腹心が、苦々しげにつぶやいた。
「マルムゼとは、私たちホムンクルスのコードネームのようなものです。マルムゼシリーズ、とでも申し上げましょうか。ゼフィリアス陛下、あなたはそちらの女性をゼーゲンと呼んでいるようですが、マルムゼ=ゼーゲンが正しい名乗りになるでしょうな」
朗々とそう語った後、マルムゼ=アルディスなる男はアンナと腹心の方を見た。
「そちらは、馬鹿正直にマルムゼを己の名としているようですがね」
「私は……あなた方のような同族がいると、教えられなかった。だからこの名を持つのは私だけだと……」
「おや、そうでしたか。なのに、いきなり自分と同じ顔を持つ人間が2人も現れた。心中穏やかではないでしょう? お察しします」
「……」
マルムゼは……アンナにとって、その名を名乗るべき唯一の青年は、何も言い返さなかった。
たまりかねて、彼女は口を開く。
「ゼフィリアス陛下。あなたはご存知だったのでしょう?」
モン・シュレスで初めて会ったとき、ゼーゲンはマルムゼを「同族」と呼んだ。
「ああ。サン・ジェルマン伯自身から聞かされていた」
「サン・ジェルマン伯にお会いしていたのですか!? それはいつのことです?」
「我が母、女帝マリアン=シュトリアが亡くなり、帝位を継いだばかりの頃だ」
アンナは頭の中で自身の記憶と年表を照らし合わせる。ゼフィリアス帝が即位したのはエリーナが殺害される2年前。つまり、今から6年前ということになる。
「伯は余に言った。ゼーゲンと同じ顔を持つホムンクルスやその主人と会え、と。そして彼等と会うほどに歴史の流れは加速していく、と」
「歴史が、加速……?」
実際その通りになっている。アンナとゼフィリアスが出会った事で、百年続いた戦争が終結した。それは、サン・ジェルマン伯の目論見通りという事なのか?
「素晴らしい!」
マルムゼ=アルディスがバチンと手の平を叩いた。
「まさしく、今日はそういう話を聞きたかったのですよ! ではゼフィリアス陛下、私たち2人の他にマルムゼと会った事は?」
「無い。私とて、伯の不可解な言葉が気に掛かり、我が国の錬金術師に調査をさせてきた。が、手がかりとなるものはなかった。今回、この国を訪れた最大の目的も、実はそれだったのだ」
確かに、モン・シュレスでのゼフィリアス帝振る舞いは、アンナたちを待ち構えていたようにも思える。
寝所の周りにゼーゲン以外の護衛を置いていなかった。そしてゼーゲンも、マルムゼを同族と認め、アンナが彼の主人であることを確認すると、戦いをやめて皇帝の元へと案内してくれた。
「私からもいいか?」
今度はゼフィリアスからマルムゼ=アルディスに問いかける。
「何なりと」
「君には主人はいないのか? 今、私の話を聞きたかったと言ったが、君自身は何も知らないのか?」
「主人はいます。生みの親たるサン・ジェルマン伯爵とは別に、私に指示を出すもう一人の主人が。ですがご容赦を。その名を明かす事は出来ません」
「おや、それはフェアではないな。余も、グレアン伯もこうして正体をさらけ出しているというのに」
「ご容赦ください。マルムゼシリーズにはサン・ジェルマン伯の暗示によるロック機能がかかっておりまして、必要な局面にならなければ情報を口にしたり書き残したりすることができないのです」
「ロック機能!?」
咄嗟にマルムゼの顔を見た。
確かにこの青年は重要なことを説明しないきらいがある。異能のこともそうだった。サン・ジェルマン伯の名を明かしたのも、かなり後になっての事だ。
「申し訳ありませんアンナ様。その者の言う通りです。ですが意図的に隠すのではなく、その事を説明するという発想にならない、とでも申しましょうか……」
マルムゼはうろたえながらも説明する。いや、説明というよりも弁解といった感じだった。以前、アンナがこの事を詰問したことがあったせいかもしれない。
「そうなのか、ゼーゲン?」
ゼフィリアスも護衛の女性の顔を見た。
「お許しください陛下。恐らくは陛下に開示できていない情報があるかと思います。それが何なのか、思い浮かべることも出来ませんが……」
「それほど深い暗示ということか……」
アンナはこれまでの自分の足跡を思い浮かべ、身震いする。この話が事実なら、今までサン・ジェルマンの手の平の上で踊らされていたということではないか?
アンナがマルムゼからホムンクルスが持つ異能について教えられたのは、グレアン伯家に幼女として入る直前だ。つまりそれは、異能を持ってグレアン伯家を乗っ取るのがサン・ジェルマンの意向だったということになる。
マルムゼが、サン・ジェルマンの名を明かしたのは、この男……マルムゼ=アルディスと遭遇した直後だ。つまりそれは、他のホムンクルスと会うまで彼は自分の名を隠していたということになる。
そして何より、彼はアンナの行動を、なんらかの方法で監視している。全て自分の意思で切り開いてきたと思っていた復讐の道は、彼が舗装したものということなのか……?
「……そうだ。異能!」
ふと、アンナの脳裏に、ある疑問が浮かぶ。
「あなたの異能は、皇帝陛下に化けていた、その力でいいのかしら?」
「ええ、そうです。"認識変換"と申します。私の周囲の人間の五感を書き換えて、私を別の人間と誤認させることができます」
「つまりあなたは、ずっと宮廷でこの国の皇帝を演じてきたということ……?」
「はい。コレ、結構体力使うんですよ。だからあの日、皇妃と会っているときは最低限の出力に抑えていました。彼女が相手なら視覚を書き換える必要はないし、誰もいない東苑なら聴覚をいじるのも彼女一人で問題ない。そう思ったんですけどねえ……」
マルムゼ=アルディスは苦笑まじりに語る。
「まさか、あの皇妃が東苑への出入り許すほど、家臣と仲良くなっていたとは……いやぁ、意外でした」
「……いつからなの?」
「へ?」
「いつからあなたは、皇帝と偽りあの玉座に座っているの!?」
「もう4年くらい経ちますか。"獅子の王国"との会戦の直前、アルディス3世陛下が陣中でお亡くなりになってからです」
「ん……」
いつのまにかアンナはぼんやりと天井を眺めていた。グレアン家の屋敷の、自分の寝室だ。身体はベッドに横たえられているらしい。
(あれ? 私、どうしたんだっけ……?)
確か、ヴィスタネージュの宮殿にいたのではなかったか?
和平条約が終わって……バルコニーに皇帝が現れて……混濁した記憶をまとめようとする。何が、あったんだっけ……?
『アルディス3世陛下が陣中でお亡くなりになってからです』
不意にあの男の言葉がよみがえる。
「はっ!?」
半開きだった眼を大きく見開くと、がばりと上体を起こした。すると即座に、横から気遣わしげな声。
「気がつかれましたか?」
ベッドの横には椅子が置かれ、マルムゼが座っていた。彼は気遣わしげな表情で、アンナの顔を覗き込んでくる。
「私は……どうして家に……? 何があったの?」
「宮殿でお倒れになり、ここまでお運びしました」
「そうだったのね……」
窓の外は既に暗かった。林の奥にふたつ、光のかたまりが見える。
ひとつは帝都の中心街を貫く大通りの常夜灯。もうひとつはヴィスタネージュ大宮殿。条約締結を祝うパーティーは、屋外で開かれる運びとなっていたため、宮殿の灯りはいつも以上に煌々と輝いて見えた。
「パーティー……行かないと……」
「宮廷の者に、ご欠席される旨は伝えました。今夜はしっかりお休みください」
「そう……ありがとう」
条約の表向きの立役者はラルガ侯爵だ。あの人さえいればパーティーは特に問題はないだろう。
ゼフィリアス帝は明日の朝、帰国される。最後に挨拶できないのは心残りだが……。
「私はどうして倒れたの?」
「覚えておられないのですか?」
「ごめんなさい、記憶が混濁していて……」
「あの男と話しているときにです」
「あの男……」
マルムゼ=アルディスと名乗った男……。
『アルディス3世陛下が陣中でお亡くなりになって……』
再びあの言葉が思い返される。すると急激に不快感が胸に湧き立ち首の上までこみ上げてきた。
「ううっ!?」
「アンナ様!?」
手で口を押さえながら、布団をはねのけ、寝室の隣の洗面所へ走る。
「うう……うあああっ!」
口を大きく開き、胃の内容物とともに不快感を追い出そうとしたが何も出てこない。
ホムンクルスの肉体は頑強だ。ちょっとやそっとのことでは、嘔吐することはない。けど、吐き気はアンナの体の内側を蝕んでくる。
「落ち着いて下さい……落ち着いて……」
洗面台にしがみつくアンナの背中を、マルムゼの手がさする。優しい手つきだった。
「……アルディスは……死んでいたのね」
そのまま、洗面所の床にへたり込む。すると今度は、大粒の涙が目から溢れ出る。
どうせならこっちも出てきて欲しくないのに……。アンナは自身の意思で制御できない涙腺を呪った。
「この2年間、ずっと恨み続けてきた。私を裏切り、全てを奪った彼に復讐することだけを考えていた……なのに……」
彼は死んでいた。エリーナよりも先に、だ。
ならば、エリーナに死を命じたのもきっと彼ではなく、あの男だったのだろう。
彼は変わってなどいなかった。エリーナを裏切ってなどいなかった。彼はきっと、エリーナを愛したまま死んでいったのだ。
「それなのに、私は……」
彼を恨んだ。最愛の人だったアルディスを恨み、復讐を誓った。
「私のこの2年はいったい何だったの?」
グレアン伯を陥れ、彼の家を乗っ取り、皇妃を籠絡し、グリージュス公爵を死に追いやった。すべて復讐のため、アルディスに近づくためだ。それなのに……。
「私がやってきたことは復讐などではなかった、サン・ジェルマンに踊らされていただけだった……」
「それは違います!」
マルムゼが力強く、アンナの言葉を否定する。
「お忘れですか? あなた様の復讐はアルディス皇帝ひとりを標的としたものではない。クロイス公、ウィダス卿をはじめとした周りの者たち。あなた様の功績を貶め、家族や故郷すら奪った、彼ら全てでしょう?」
「それは……」
「言うなれば、貴族社会そのもの。民を顧みず、己の保身や富の独占のためにこの帝国に寄生する、ヴィスタネージュの宮廷そのものではありませんか!?」
そうだ……。確かにこの青年からしたら、そう見えているのかもしれない。でも……。
「ありがとう、マルムゼ。でもね、違うの。そんな立派なものじゃない」
「何が違うのです?」
「そもそも私が政治を志したのは、アルディスに寄り添いたかったから。民のための政治を目指したのは、私が平民出身だったからに過ぎない。本当の目的はアルディスだった。全てがアルディスを中心に回っていたの」
アンナの身体を得てからの数年間……いや、エリーナの時代より封印してきた自分の感情が一気に溢れてくる。
フィルヴィーユ派を率いる改革派。そんなものは後付けだ。あの頃、エリーナの心はどこまで行っても皇帝アルディス3世の寵姫でしかなかった。
アルディスが全ての動機だった。アルディスが全てだった。
愛していた。好きだった。アルディス、アルディス、アルディス……!
アルディスこそが寵姫エリーナの全てだった。
「そんな私が、アルディスを恨んでしまった。彼にまつわる全てを壊そうと思ってしまった。私は、そういう身勝手な女なのよ……!」
「あなた様が受けた仕打ちを思えば、やむを得ぬ事でしょう。それに、動機がなき皇帝陛下だったとしても、あなたの功績が無に帰するわけではありません!」
「でも……でも……!」
何故だ、なぜこの青年は私をここまで認めようとするのだ。
私は私情だけで動き、多くの人々を不幸にしたつまらぬ人間なのに……。
「最初の誓いをお忘れですか?」
「え?」
「あなた様は仰せでした。世界が悪女と罵ろうとも、ご自身にとっての正義は貫くと……」
確かに言った。更地となった錬金工房後で、元職人のごろつきたちに絡まれた後だ。
彼らのような被害者を出さぬために、誇りを持って復讐をなすとこの青年に誓った。
「今こそ、その覚悟が問われている時なのかもしれません」
「マルムゼ……」
マルムゼはうずくまるアンナの肩を掴むと、優しく持ち上げて立たせた。そして、自分はその前に跪く。
そして、アンナの手を取るとそっと甲に口付けした。
「私の気持ちはあの頃から変わっておりません。いや、あの頃よりもこの決意は強いかもしれません。アンナ様、私はどんなことがあってもあなた様についていきます」
そう言うと、彼は首を上げてまっすぐアンナの瞳を見つめた。黒曜石のように輝く彼の両眼にはいつになく穏やか光が宿っている。
「突然のことで、混乱されているかと思います。今はしっかりと休み、心を落ち着けて下さい」
「ありがとう……。その、マルムゼ……」
ほとんど無意識に言葉を続けそうになり、アンナは慌てて口を止めた。
「なにか?」
「いえ、その……」
アンナはためらう。なんて事を考えているのだ私は。
「構いません、何なりとお申し付けください」
「……」
マルムゼの言葉がひどく優しく聞こえた。
その声音にはつい甘えてしまいたくなる響きがあった。
「ひとりになりたくない。ひとりになると何を考え始めるかわからなくて……怖いの」
ああ、私はなんで破廉恥な女なんだ。
最愛と想い、それが故に強く恨んでしまった男の死を知った。その途端にこれか。
たった今、自らのうちに眠るその男への愛情を再確認したばかりではないか。
なのに……。
「今夜は私と一緒にいて下さい」
なんで私はこんな事を言っているのだろう?
最低……。本当に最低な女だ、私は。
「……わかりました」
それでも、やっぱり優しい声だった。
「私はあなたが強い人だと知っています。そして同じくらい、か弱き人だということも。私は、どちらのあなた様もお慕いしております」
マルムゼは力強く、だが決して乱暴ではない手つきでアンナの身体を抱きしめた。
「旦那様、旦那様」
「ん……」
扉のノックする音と、執事の声でアンナは目覚めた。朝特有の青白く澄んだ空が、窓の外に見えた。
扉の外で執事が待っていることを知りつつも、まだ頭がぼんやりしている。そのまま数秒間、窓の外を眺めていると、不意に横の影がむくりと起き上がった。
それが誰だか認識したアンナは、ぎょっとして慌ててその腕をつかむ。
「待ってマルムゼ……どこ行くつもり……?」
「執事殿がお呼びです。何か御用があるのかと?」
だめだこのホムンクルス……。アンナは思わずあんぐりと口を開けてしまう。いや、確かに2人でいる時に執事が声をかけてきたことはある。そんな時はいつも、マルムゼが応対してくれていた。しかしそれは執務室だったからだ。今2人がいるのは……寝室だ。
「あなた、まだ寝ぼけているようね」
「は……?」
しばらくの沈黙の後、半裸のマルムゼはようやく状況を理解したようだ。
「ももも……申し訳……」
「しっ!」
うろたえたマルムゼの声がやたらと大きく聞こえたので、アンナは慌てて人足し指を唇に当てた。
「旦那様。お休みのところ失礼します」
執事が再び声をかけてくる。
「……私が出るから、あなたはじっとしてなさい」
マルムゼは黙って首を縦に振った。アンナはベッドから起き上がると、寝巻きの上にストールを羽織って扉まで移動した。
「返事遅れてごめんなさい。どうしたの?」
アンナは扉ごしに、執事の呼びかけに応える。
「ああ、旦那様。朝早くすみません。実はご来客がありまして」
「来客?」
壁掛け時計を見ると、短針はまだ7と8の間にあった。客が訪れるには不躾な時刻である。
「こんな時間にどなたが?」
「ゼーゲン殿と名乗っておいでです。仮面をつけた女性でした」
「ゼーゲン殿が?」
ゼフィリアス2世に従うホムンクルスだ。仮面をつけているのは、宮殿にいるときと同じく、マルムゼと同じ顔を不審に思われないようにだろう。
「わかった。すぐにお通しして」
「はい」
執事が部屋から遠ざかるのを気配で感じると、アンナは室内にいるマルムゼの方を振り返った。
「ゼフィリアス陛下は本日帰国だったわね?」
「はい、予定より大幅に滞在期間が延びたので、政務が溜まっている、と仰せでしたが……」
「その前に使いをよこすと言うことは、昨日のことと関係あるのかしら?」
「恐らくそうでしょう。あの、アンナ様。まだお辛ければ私が代理で……」
「大丈夫よ、ありがとう」
アンナは軽く口元を緩めた。
「あなたのおかげで、いくらか気分が落ち着きました。たぶん、昨夜独りのままだったら、まだ駄目だったと思う」
「アンナ様……」
まさかこんな形でマルムゼを頼ってしまうとは思ってもいなかった。けど案外すんなりと今の状況を受け入れている自分もいる。気恥ずかしさや驚きはあったが、不思議と後悔はなかった。
「昨夜のことは、一時の気の迷いと思ってくれればいい。今後あなたの気持ちを縛り付けるようなことは……」
「昨夜申し上げた私の気持ちに、偽りはございません」
黒曜石のような瞳が真摯にアンナを見つめてきた。『お慕いしております』と、マルムゼははっきりそう言った。気持ちとはそのことだろう。
「ですが、だからと言ってあなた様の重荷になるつもりもございません。どうぞ引き続き、一家臣として扱っていただければと思います」
「そう……」
どうやら、アンナもマルムゼも考えていることは同じようだった。全てこれまで通り、というわけにはいかないだろうが、それでも主従の関係を超えることはなさそうだ。少なくとも今は、他にやるべきこと考えるべきことが多すぎる。
「わかりました。それでは、私の腹心としてゼーゲン殿との面会についてきてください」
「はっ!」
* * *