「まず前提として、クロイス公は今回の参戦で多額の報奨を約束している。今回の来訪は、その内容を決めるためのものであった」

 すでに和平条約の件は、概要だけ話している。今日はその詳細を話し合うため、異国の皇帝にここベルーサ宮に足を運んでもらったのだ。

「ですが、貴国ではそこまで強く戦争を望んではいない。違いますか?」

 アンナが尋ねると、ゼフィリアス帝は感心したように頷く。

「伯爵は聡明であるな。いかにも、我が帝国の民も大臣たちも、戦を求めてはいない」

 エリーナ時代に各国の情勢についても学んでいた。”鷲の帝国”は精強な軍隊を持つが、それはあくまで自衛のためであり、自ら他国に攻め入ることを好む国ではなかった。まして、よその戦争に駆り出されるとなれば、反対する者も多いだろう。

「彼らを納得させるだけのものを、クロイス公は与えてくれると思いですか?」
「少なくとも、これまでは彼とは良い関係を続けてくることができた。ご存知かもしれないが、我が"鷲の帝国"の国力は、貴国に劣る。貴国からに対して与えるものより、こちらが受け取るものの方が多いのが実情だ……」

 産業革命に成功した"獅子の王国"と、長年錬金工房に多額の投資を続けてきた"百合の帝国"。両国の国力は、他の大陸諸国と比べ抜きん出ている。
 "鷲の帝国"もこの二国に続こうと試行錯誤を繰り返しているが、なかなか差を埋める事はできていない。むしろ、"百合の帝国"からもたらされる外貨や技術供与の恩恵を受けている立場なのだ。

「だが、国力で劣ると言え、主従関係が成り立つほどではない。嫁に出した皇女が不当な待遇を受けているというのであれば、話は変わってくる」

 "鷲の帝国"の第3皇女として生まれたマリアン=ルーヌは、快活で天真爛漫な性格だったと聞く。長男であるゼフィリアス皇太子とは特に仲がよく、この二人がいれば帝国の未来は明るいと誰もが信じていたそうだ。
 そして時は経ち、マリアン=ルーヌは西の大国"百合の帝国"の皇妃となるべく、祖国を後にした。程なくしてゼフィリアスも即位し、”鷲の大国”の皇帝となった。兄妹の絆は、そのまま両国の友好と平和の絆となると思われた。

 だが実際にはどうだ? 嫁いでまもなく、マリアン=ルーヌは毒を盛られ、光を失った。政治の舞台からも社交の場からも追いやられ、つい最近まで幽閉同然の扱いを受けていた。しかも"鷲の帝国"側は、その事を全く知らされておらず、不穏な噂についても「事実無根の噂」と一蹴されてきた。
 加えて、つい最近起きた寵姫ルコットによる廃妃のための陰謀。そして今回の影武者騒ぎ……。
 ゼフィリアス帝の、"百合の帝国"とそれを主導するクロイス公への信用は地に落ちているようだ。
 
「グレアン伯、ラルガ侯、あなた方がクロイス公と敵対し、この国を良き方向へと導く意志があるのならば、余はあなた方を支援しよう」
「それは、とても心強いお言葉です!」
「明日からの会議では、派兵の約束は取り消し、和平条約締結の仲介を申し出ることとする」

 うまくいった。アンナは皇妃の顔を見た。彼女が隣の部屋で兄とどんな話をしていたのかはわからない。けど、もしかしたら何か口添えをしたのかもしれない。と、そんな気がした。

「ゼフィリアス陛下がそのような決意を持ってくれてのは重畳。……が、問題はこここらだな」

 横からリアン大公。その通りだ。ゼフィリアス帝が和平の仲介を申し出たとしても、クロイス公やアルディス帝がすんなりとそれを受け入れるとは思えない。彼らは"獅子の王国"と一戦したくて仕方ないのだ。

「エイダー男爵、軍の内部では"獅子の王国"との戦争はどのように考えられているのでしょう?」

 アンナは、ラルガ侯の息子に尋ねた。現役の軍人である彼は、軍内の情勢に最も明るい。

「ウィダス戦争大臣は間違いなく戦争に乗り気です。これを機会に、軍備や兵制度を一新したいとお考えでしょう」
「……でしょうね」

 かつてはエリーナと一緒にクロイス派への文句で盛り上がった彼も、すっかりクロイス公に取り込まれている。まあ、皇帝の第一の腹心と呼ばれている男だ。皇帝が変節したら、それに乗っかるのは当たり前なのだが……。

「ウィダスならそう考えるのは当然。私が知りたいのは前線指揮官たちの考えです」
「それでしたら、戦争に反対する声は確かにあります」

 長年、"獅子の王国"との戦争が続き、帝国軍は疲弊している。3年前の会戦で停戦協定が結ばれたが、すぐに反故にされまた小競り合いが始まっている有様だ。
 加えて軍部は、グリージュス公を主犯とした物資横領で痛手を受け続けてき。クロイス公の言いなりとなって戦う事を良く思わない軍人は多いだろう。

「そういった声を、あなた方親子でまとめ上げる事はできますか?」
「これまでは無理でした。ですが、ゼフィリアス陛下が和平案を提示されるのであれば、流れを変える事はできます」

 ラルガの言葉はほんのりと熱を帯びていた。彼は軍の疲弊に心を痛めていた一人だ。それが改善する可能性が見えてきたことで、朴念仁の心に何かが燃え上がっているのかもしれない。

「だがな、アンナ。反戦派をまとめて一勢力にしようとすれば、さすがにクロイス公だって黙ってはいまい。両派の対立になるぞ。下手すれば、実力で軍を従わせようという動きも出てくるかもしれない」

 リアン大公が再び口を挟んできた。アンナたちの話に茶々を入れるような形になっているが、彼の洞察は的確だ。本人にその気はないようだが、政治的なセンスはクロイス宰相率いる閣僚たちよりも遥かに上だろう。
 だからこそ、不埒な革命思想家が彼を次の皇帝にしろなどと煽動しているのだが……。

「そこて、彼らを黙らせるためにこれを使います」

 アンナは懐から一本の短剣を取り出した。

「おいおい、異国の皇帝陛下の前でそれを出す気かい?」

 リアンは呆れ切った顔で苦笑する。確かに、国外の人間においそれと見せて良いものではない。

「ゼフィリアス陛下の御前だからです。我々が投資するに足る勢力だと、わかっていただけるでしょうから」

 アンナはその短剣を、テーブルの上に置いた。百合の紋章が入るそれを見て、ラルガ親子が目を丸くする。

「なっ!?」
「……ま、まさかこの短剣は!?」
「さすが軍人出身ですね、お二人とも。そうです、これはリュディスの短剣」
「リュディスの短剣だと?」

 その名を聞き、今度はゼフィリアス帝が驚く。"百合の帝国"初代皇帝から伝わる短剣。それが何を意味するかは、"鷲の帝国"の皇帝ももちろん知っている。

「なぜ、それがここに?」
「本物……なのですか?」
「詳しい事は申せませんが、本物か偽物かに関わらず、ここにこれがあることが重要でしょう?」
「ははっ! 俺の時もそんなことを言ってたな」

 リアンは愉快そうに笑った。

「……なるほど、そういうことか」

 ゼフィリアス帝がつぶやく。

「貴国の人事について、我が国の官僚たちが首を傾げていることがあった。ウィダス戦争大臣の地位だ」

 戦争大臣とは、有事の際に皇帝を補佐し、軍を統括・指揮する職務とされている。

「ウィダス卿は、アルディス帝と幼少の頃から親しく、第一の腹心と目されてきたと聞く。そんな彼が、軍を動かす立場に抜擢される。これは良い。だが、なぜ大元帥ではないのか? そこが疑問だった」

 "百合の帝国"の歴代皇帝は、最も信頼する軍人を大元帥の位につけ、自らの代理として軍を自在に動かす権利を与えてきた。
 戦争大臣にそこまでの権限はない。あくまで指揮権は皇帝自身にあり、大臣はそれを補佐するのみだ。

「ウィダス卿を大元帥に任命しないのではなく、任命できなかったのなら納得できる。その剣がアルディス帝の手元にないのだから……」

 リュディスの短剣は、帝国の軍権の象徴。この短剣を所有する者のみが帝国軍10万を指揮できるとされている。

「これが皇帝の手元にないという噂を流すのです。今陛下が仰せの通り、ウィダス卿が大元帥に任命されていないことが噂に説得力を持たせるでしょう」
「なるほど、その噂があれば兄上やクロイス公も、軍内の反対派を下手に押さえつける事はできなくなる、ということか」

 皇弟リアンは愉快そうに笑う。

「で、その短剣はどこにあるという設定にするんだい? まさか、グレアンの女投手が持っていると吹聴するわけにはいかんだろう?」
「もちろん、あなたの元です。大公殿下」
「む……? いや、ちょっと待ってくれアンナ」
「ここベルーサ宮にあるとなれば、クロイス公でもうかつに手出しできなくなりますわ」
「確かにそうだが……」

 リアンはたじろいでいた。彼には帝室の血が流れていないのでは、という噂があり、リアン自身それを信じている節がある。
 リュディスの短剣を持ってるとなると、それに血を垂らし、かの勇者の正統な子孫であることを示すことを求められるかもしれない。彼はそれを恐れているのだ。

「ご心配なく。あくまで噂が流れればいいのです。あなた様は、それを肯定する必要も否定する必要もない」
「やれやれ、君はとんでもない陰謀家だな」

 皇弟はかぶりを振った。

「わかった。名前を使うくらいなら許してやる。それでクロイス派が慌てふためく様子を見られるなら、安い見物料さ」
「ありがとうございます」

 カードは揃った。かなり強力な役が作れたと思う。
 うまくいけば盤石なクロイス公の政権にかなりの痛手を与えることができる。
 アンナは兄の横に座り、一言も発しない皇妃を見た。元はと言えば、この女性のささやかなわがままを叶えようとしたのが始まりだった。
 その時は、ここまで大きな話になるとは思っていなかっが……。

(やっぱり、私は人の運に恵まれているわね……)

 アンナは、この策謀の協力者たちの顔を眺めながら、そう思った。