【火・金更新】寵姫として皇帝と国に尽くした結果暗殺されたので、錬金術で復活して宮廷に復讐してやる!

「また東苑でございますか、皇妃様?」

 ヴィスタネージュ宮殿のグラン・テラス。本殿から庭園に向かって突き出した大理石敷きの広大な空間は、野外演奏会や夜会に使われる場所だ。
 そこに豪奢な装飾を施した馬車が数台並んでいる。

「そうですが何か、ペティア夫人?」

 皇妃マリアン=ルーヌは、これらの馬車で友人たちと東苑に向かい、お茶会をすることになっていた。そこに宮廷女官長ペティア夫人が現れたのだ。

「以前も申し上げたはずです。東苑は皇族方の私的な空間。いかにご友人とはいえ、頻繁にあの場所への出入りを許されるのはいかがなものかと」
「そ、それは……」

 ペティア夫人の抑揚のない硬質な声に、皇妃は思わずたじろぐ。馬車に乗り込もうとしていたゲストたちも、2人の異様な雰囲気に気がつく。
 するとペティア夫人は、そのゲストたちにも硬い視線をぶつけた。

「そもそも、このヴィスタネージュは、帝国貴族の誇り高き栄華の殿堂。皆様のそのだらしのないお姿は、一体何ですか?」

 参加者は皆、腰を絞らないゆったりとしたドレスを着用している。髪もきつく結い上げたり巻いたりせず、自然体のままで簡素な花飾りなどをつけている女性が多い。
 初回のお茶会の成功以来、何度か東苑の花畑で同じようなパーティーを開いているが、すっかりこのスタイルが定番となった。
 参加者たちは、この会のためにドレスを新調し、仕立て屋たちの間では「皇妃の花畑様式(ジャルダン・ド・ランペラトリス)」と呼ばれ、新たなファッションと認知されているらしい。

 しかし、こういう格好を宮廷女官長は喜ばない。彼女にとって、あるべき貴婦人の姿とはコルセットできつく締め上げた腰と、かっちりと結いあげた髪があってこそなのだ。

「ペティア夫人、お話は私が伺います。皆様はお出かけください」

 アンナがペティア夫人の前に歩み出て言った。

「下がりなさい、グレアン伯爵夫人! 僭越ですよ!」

 相変わらず、女官長はアンナ自身が伯爵号を持つ人間だということを認めようとはしていないらしい。

「そうは申されますが、私はこの会の実務的な部分を皇妃様から任されております。クレームは皇妃様やゲストの皆様ではなく、私に」
「あなたが? では皇族でもなんでもないあなたが勝手に東苑を……!」

 みるみるうちに夫人の顔が赤くなっていく。もはや、アンナしか目に入っていないはずだ。それを確認すると、アンナは隣に立つエスリー子爵夫人に目配せをした。初回の茶会で、真っ先に大地のケーキを食した彼女は、今では皇妃の茶会のムードメーカー的存在となっている。

「皆さま、ぼーっとしていでも仕方ありませんわ。風が冷たくなる前にパーティーを始めましょう」

 そう言いながら、貴婦人たち馬車に乗せていく。

「さ、皇妃様も」
「で、でも……」

 エスリー夫人は少しだけ強引に、皇妃の手を取り馬車へと乗り込んだ。

「ま、待ちなさ……」
「ペティア夫人、お話は私が伺うと申し上げましたが」

 エリーナだった頃の、守旧派貴族と渡り合ってきた胆力を全開にして、ペティア夫人に詰め寄る。

「くっ……」

 さしもの宮廷女官長も気勢を抑えられてしまう。こうして広いグラン・テラスには睨み合う2人の女性だけが取り残された。

「……あなたが来てから皇妃様は変わってしまわれた。以前はあのような怠惰なお姿で、外を歩き回るようなことはなかった」
「それが私のせいだとでも?」
「他に考えられますか!? 皇妃陛下をたぶらかす佞臣め!」

 佞臣、か。エリーナ時代に散々言われた言葉だ。皇帝陛下を色香で惑わし、政治に口出しをする佞臣だと。

「夫人、お伺いしたいのですが……このヴィスタネージュの主はどなたでしょう?」
「は?」
「皇帝陛下、並びに皇妃陛下であると私は思っていたのですが、違いますか?」
「もちろんそうです。なのに、あなたは皇妃様のご性格につけ込んで好き勝手を……!」
「私がお連れするまで、皇妃様は東苑に行ったことがないと仰せでした」
「え……?」

 ペティア夫人の口が止まった。

「ご自分の家の、しかも自分たちだけの私的な空間にも関わらず、です。あのお方は、これほど広大な自宅を持っていながら、この本殿と周りの狭い空間しか知らなかった」
「それは、皇妃様は目を患っていたから……」
「いたからなんです? 現にあのお方は、東苑を知って以来あのように活き活きとされている。親しいご友人と過ごされたことが、この本殿でありましたか?」

 異国へ嫁いだ直後に視力を奪われ、以来陰謀に怯えながらこの本殿の狭い一室でひっそりと暮らしてきた。誰の目を気にすることもない東苑に行くことすら許されなかった。思えば、これまでの皇妃の境遇はあまりにも残酷だ。

「しかし、このヴィスタネージュには伝統があります! 秩序があります! いかに皇妃様といえども、それを守って頂かなくては」
「伝統? 秩序? 便利な言葉ですね。女官長という立場なら、それ言葉で皇族でも黙らせる事が可能とでも?」

 いい機会だ。ここではっきりと教えてやろう。もう皇妃はお前の手駒ではないと。

「先ほどの言葉、そっくりお返しします。皇妃様の性格につけ込み、伝統や秩序の名の下にあの方を支配していたのは、果たしてどちらでしょう?」
「なな、な……」

 赤くなっていたペティア夫人の顔は、一転し蒼白へと近づいていった。何か言いたそうだが、わなわなと口が震えて言葉が出てこない。

「そこまで」

 横から声。2人しかいなかったはずのグラン・テラスにいつのまにか見物客がいた。薄紫の生地にふんだんに羽飾りをつけたドレスと、同じく羽飾りがついた帽子の貴婦人が、大勢の取り巻きをつ連れている。

「あなたの負けみたいよ、ペティア夫人。今日のところはそれくらいにしておきなさい」
「ルコット様……」

 寵姫ルコット。宰相クロイス公の愛娘にして、皇帝アルディスの現在の恋人だ。
 
「あなたも、ほどほどになさい。それ以上、女官長殿の面目を潰してはいけませんよ」
「……礼失礼しました」

 アンナは一歩引き下がり頭を下げる。ペティア夫人はアンナの顔を身もせずに、そそくさとその場を後にした。

「あなたとお話しするのは初めてよね、グレアン伯爵?」
「はい。お初にお目にかかります、クロイス嬢」
「堅苦しい挨拶はいいわ。とても面白い見せ物が見られて気分がいいの」

 ルコットは孔雀羽の扇で口元を隠して抜くクスクスと笑った。それに合わせて取り巻きたちも笑う。その完璧な連携に、アンナは嫌悪感を覚えた。

「私も、あのおばさんの小言にはウンザリしてましたの。だから、あなたがやり込めたのを見てスカッとしちゃった」
「左様でございますか」
「ウワサ通り、聡明な方のようね。どうかしら、私の下で働いてみない?」
「は?」

 あまりにも意外な言葉に、思わずアンナは返答に窮した。

「って無理よね。あの皇妃様のお気に入りだもの」

 ルコットが「皇妃様」と言ったタイミングで、取り巻きたちはまたも笑い出した。きっと、そのタイミングで笑うと、この女の機嫌が良くなるのを彼女たちは知っているのだろう。

「まあ何にしても、あなたには感謝しているわ、グレアン伯爵。あの辛気臭い方が東苑に引きこもってくれたおかげで、本殿の風通しがとても良くなったのだから!」

 いくら寵姫とはいえ……いや、寵姫だからこそ許されない非礼な言葉だ。
 このような皇妃への侮辱が許されているという事が、今の宮廷の実情を表していた。今、ヴィスタネージュで最も実力を持つ女性は皇妃でも女官長でもなく、このクロイス公の娘なのだ。

「これから皆でカード遊びをしますの。真珠の間を使わせていただくけど、どうせ皇妃様は使わないだろうし、構いませんよね?」

 真珠の間は、女性の遊興向けに作られた23の部屋のうち、最も豪華な一室だ。その部屋を使用する優先権は、言うまでもなく皇妃が一番であり、その次が寵姫となる。

「では、ご機嫌よう」

 そう言い残し、取り巻きの行列を従えてルコットは本殿に入って行った。
 今度こそ、グラン・テラスにひとり残されたアンナは腕を組んで深くため息をついた。

「どいつもこいつも……」
「あ、グレアン伯が参られましたわ」
「ご苦労様です。ペティア夫人のお小言は大変でしたでしょう?」

 東苑に着くと、すでに茶会は始まっていた。大地のケーキをお供に、おしゃべりに花が咲いていたようだ。

「アンナ、ありがとうございます。私のために」
「いえ皇妃様。ペティア夫人にはきちんとお話ししましたので、どうかお気になさらず」

 ルコットに絡まれたことは言わないでおこう、とアンナは思った。

「それで皆さん、何のお話を?」
「そうそう! ここに建てる新たなお屋敷について、盛り上がっていましたの!」
「ああ、そのお話でしたか」

 皇帝になりすましたマルムゼは、彼女に新たな館の建設を許可した。アンナはその時の様子を目の当たりにしている。
 あの日以来、マルムゼとの関係はどうもぎこちなくなってしまい、顔を合わせる機会も減ってしまった。彼の行動の真意も、未だ聞き出せていない。
 どのような手を使ったのか、あのときの彼の言葉は皇帝の正式な言葉となっており、この人造湖のほとりに皇妃のための館が作られることが正式に決定した。

「ささやかですがパーティールームも作ろうと思っていまして、室内の壁紙や調度品はアンナに任せようと思っています」

 皇妃は、嬉しそうに説明する。

「まぁ、伯爵が?」
「グレアン伯爵なら、きっと素晴らしい部屋を作ってくれましょう」
「今から楽しみですわ」
「大任ですが、皆様がお過ごしやすい場所、それに何より皇妃様のお気に入りの場所を作れるように頑張ります」

 アンナが一礼すると、拍手が巻き起こった。
 
 マルムゼの真意は不明だが、皇妃の館の建設はアンナにとって悪い話ではない。
 アンナは彼女たちの結束を強め、いずれ宮廷女官長ペティア夫人や、現寵姫ルコットたちに対抗できる勢力に育てようと考えている。この屋敷は、そのための拠点となるはずだ。

「それにしても皇妃様、本日はお招きいただきありがとうございます」
「改まってどうしたのですエスリー夫人? あなたは私の大切な友人。この茶会にはいつもいらしてるではありませんか?」
「ええ。ですが最近、主人が私のことをかまってくれなくて、いい気晴らしになったなと思いまして」
「あら、子爵がですか?」

 アンナはエスリー夫人に問い返した。意外な愚痴だったからだ。

「あれほど、仲の良いご様子でしたのに、何かあったのですか?」

 エスリー夫人は、あのとき率先して大地のケーキを頬張った女性だ。彼女がいたからこそ、他の参加者たちもこの素朴な茶菓子を口にすることができた。
 彼女の母国は、"百合の帝国"と国境を接する小国"銀嶺の国"だ。エスリー子爵が大使として"銀嶺の国"に赴任した時に結婚したのだという。

「そういえば、最近お二人でいる姿を見ていませんわね」
「以前は夜会などでも、夫婦仲良くご参加していらしたのに……」
「まさか、喧嘩をなさったとか?」
「いえいえ、そういうわけじゃあありませんよ」

 エスリー夫人は、誤解を振り払うように両手をぱたつかせた。

「私と夫とは変わらずラブラブでしてよ!」
「まぁ!」
「私達の愛は何人にも妨げることなどできませんわ!」

 おどけた仕草と言葉遣いは、女性たちの笑い声を誘った。エスリー夫人はとても明るくサービス精神が旺盛な人だ。いつもこうして周りを笑わせ、和ませようとしてくれる。こういう人がいるだけで、雰囲気は明るくなるから、アンナにとっても得がたい人材といえる。

「ただあの方は近頃、忙しくて。皇帝陛下の御宿泊先の選定などがありますから……」
「陛下の?」
「あっ」

 夫人は口を目を大きく開いた。エスリー夫人はサービス精神旺盛で常に人を楽しませようとしてくれる、そしてついつい要らぬことまで口に出してしまう。要するにおしゃべりなのだ。

「ちっ、違いますのよ。陛下と言っても、この国ではなく"鷲の帝国"……」

 説明しようとして墓穴をほっていくエスリー夫人。

「"鷲の帝国"の皇帝陛下がなぜ出てくるのです?」
「ええーと、その、他言無用でお願いしますよ?」

 こうなってしまうと、この手の人間の口は止まらない。アンナも彼女のことは好きだが、彼女の前で重大な話をするのはやめようと、強く心に誓った。

「いま密かに進んでいる話なのですが、"鷲の帝国"ゼフィリアス2世陛下がこの"百合の帝国"に来ることになっていますの。私の故郷"銀嶺の国"は両国の中間にありますでしょう? それで元大使の夫が色々と調整をしているのです」

 そうだったのか。この手の話は、たいてい宮廷内の噂として広まった行くものだが、アンナも初めて聞く内容だった。
 それこそエスリー夫人のようなおしゃべりが当事者の近くにいてもなお、広まっていないとするとこの国の首脳部、つまり皇帝や宰相クロイス公はよほど慎重に事を進めているらしい。
 恐らくその理由は……今アンナの横にいる女性の存在があるからだろう。

「あちらの皇帝陛下が?」
「まぁ、それでしたら……」

 皆の視線が、その女性に集まる。皇妃マリアン=ルーヌは、"鷲の帝国"皇帝ゼフィリアス2世は実の妹だ。もし皇帝が来訪するのであれば、十数年ぶりの兄妹の再開ということになる。

「そうですね。私もその話は伺っております」

 そう応えるマリアン=ルーヌ皇妃の声は明るい。
 ……ように聞こえたが、アンナは一瞬のためらいが彼女の声音をほんの少し曇らせたのを聞き逃さなかった。

 * * *
「それでは皇妃様、私たちもそろそろ失礼いたしますわ」
「ええ、ごきげんよう。ぜひともまたいらして下さい!」

 迎えに来た馬車に乗り、最後の一組が本殿の方へと去っていく。花畑には、アンナと皇妃のみが残された。傍に控えていた侍女たちが後片付けを始める。

「皇妃様、みんな帰りました。残っているのは、私とあなた様だけです」
「そうですか」

 太陽が傾き、お茶会もお開きとなったが、皇妃はアンナにだけこの場に残るよう命じた。
 館の工事のことで相談とのことだが、彼女の口ぶりから別の理由があることが察せられた。

「あなたに、折り入って相談があるの……いいかしら?」
「もちろんです。皇妃様がお困りになっているのでしたら、私が断ることなどありえませんわ」

 アンナはニッコリと微笑んで、そう返した。その表情は彼女には見えないだろうが、息遣いや声の調子を聞くことで少し安心したようだ。皇妃の顔から僅かに不安の色が消える。

「先程のエスリー夫人のお話についてです」
「ゼフィリアス陛下のご来訪のことでしょうか?」
「ええ。たしかにその話、私も聞いているの。でもね……」

 皇妃は自分の悩みの種を打ち明けた。

「影武者を使う?」
「そうなの。兄上との面会には私ではなく別の人間を立てると、陛下やクロイス宰相はお考えのようで……」
「なるほど……」

 確かに、そうするしかないのかもしれない。
 皇妃マリアン=ルーヌが盲目であることは、宮廷の貴族の多くが知るところだが、ほとんどの国民、そして諸外国の人間には知らされていない。
 宮廷が描く肖像画はいずれもしっかりと両眼が開かれたものになっているし、世間に流布している新聞や雑誌の挿絵もそうだ。

 もちろん完全に秘密にできることではないし、目を患っているという噂は流れている。しかし帝室が否定も肯定もしないため、それは憶測の領域を過ぎぬものとなっていた。

 だが、実の兄である"鷲の帝国"の皇帝が会えば、憶測が事実であることが全世界に知れ渡る。その理由が貴族たちの権力闘争によるものであることもすぐに暴かれるだろう。そうなれば、両帝国の友好関係は終わりだ。
 だから影武者を用意しようと、皇帝やクロイス公の考えるのも当然であった。
 この兄妹はもう十年以上も顔を合わせていないのだから、少しでも幼い頃の面影がある女性を選べば、隠すことはさほど難しくはない。むしろ皇妃につきまとう不名誉な憶測が、ただの噂に過ぎないと思わせるチャンスなのだ。

「せっかく兄が来るのです。私は会いたい……」

 皇妃の望みはごくごく素朴なものだった。家族に会いたいという、誰もが抱く思い。しかし、この国で最も高い位にある女性には、それが叶わない。

「私も"百合の帝国"の皇妃。わが国に不利益となるような話をするつもりはありません。それにアンナ、あなたが一緒にいれば目が見えないという問題だって解決するはずです。そうでしょう?」
「それは、確かにそうですが……」

 アンナは言葉に詰まる。皇妃様は善良で優しく、裏表のない方だ。しかし、政治のことがわかっていないと言わざるを得ない。

 兄と会うひとときだけ目が見えれば良いという話ではない。傍に、無役の女貴族がいれば、それだけで"鷲の帝国"側の不信を買う。そういうことがわかっていらっしゃらない。
 それにアンナ自身、今の段階で自分の異能を皇帝やクロイス公に知られるわけにはいかない。この女性の願いを叶えてあげたいが、安請け合いだけは絶対にできない。

「お願い。私にはたくさんの兄弟姉妹がいたけど、この国に嫁いで以来誰とも会っていない。せめて仲が良かった兄上とは挨拶だけでもしたいの……」

 どうしたものか。アンナは考える。彼女の願いを無視するのは気が引けるが……。

「……すでに、陛下と宰相閣下の間で進んでいる話ならば、私の一存ではどうすることもできません」
「そう……ですか。いえ、確かにこれは私のわがまま……」
「ですが、血を分けたご兄妹に会いたいという皇妃様のお気持ちは痛いほどわかります」
「え?」
「このグレアン伯、皇妃様のために人肌脱ぎましょう!」

 うまく行けばゼフィリアス2世の信頼を得ることもできるかもしれない。それは皇帝やクロイス公と渡り合っていくための武器となるだろう。

「ありがとうございます! アンナ、本当にありがとう!」

 皇妃の目から大粒の涙が溢れ出る。感情を発露させるという、ある意味ではものを見ること以上に尊い働きを、彼女の目はまだ失っていなかった。
 翌日アンナは、帝都軍事総監府を兼ねるラルガ侯爵邸を訪れた。屋敷を出る時に、マルムゼが何かを言いたげだったが、アンナはそれを無視し一人でここを訪れていた。
 今は皇妃に関わる話を、マルムゼに聞かれたくはない。

「閣僚たちは秘密にしているようですが、確かに"鷲の帝国"皇帝が来訪するという噂はあります」

 エスリー夫人や皇妃から聞いた話を伝えると、ラルガはいつもの仏頂面で答えた。

「クロイス公が秘密裏に事を進めているため、私も詳細は分かりません。エスリー子爵夫人からその話を聞けたのはまさしく幸運ですな」
「目的はなんでしょう?」

 使節団を送るというのならともかく、皇帝自身が同盟国におもむくとは大事だ。アルディス帝やクロイス公と、よほど重要な取り決めをするつもりなのだろう。

「いろいろ考えられますが、ここまで秘密にしているということは戦争でしょう」
「戦争というと……"獅子の王国"との?」
「いかにも」

 "百合の帝国"は長年、"獅子の王国"と戦争状態にある。エリーナが死ぬ直前に行われた大会戦で、帝国軍が勝利し一旦は停戦協定が結ばれたが、今はまた前線で小競り合いが続いている。

「軍にいる息子の……エイダー男爵の報告によれば、各拠点の物資が前線へ向かっています。陛下とウィダス戦争大臣は、近々大規模な軍事行動を起こすつもりのようです」
「なるほど。それでクロイス公は、"鷲の帝国"に支援を要請するために呼んだ、と」

 考えられる話だ。皇帝自らが来訪して話し合うとなると、支援物資を送るなどというレベルではなく、"鷲の帝国"の軍勢も参戦するつもりかもしれない。

「我が国と"獅子の王国"はすでに百年近く争いを続けています。これ以上不毛な戦いはしたくないですが……」
「グレアン伯、それは庶民の考え方です。大貴族にとって、戦争とは英雄の気分に浸れる上に、懐も潤う最高の娯楽に他なりません」

 そうなのだ。戦争の実態について深く考えず、軍隊を自分のおもちゃくらいにしか思っていない大貴族は多い。長く軍に在籍し、前線の現実を知るラルガのような貴族は少数派だ。
 かつてはエリーナと共に民のための政治を目指していたアルディスでさえも、戦争については彼女と意見が割れていた。アルディスは自ら軍を率いるほどの戦好きで、何より軍事の天才だった。
 その才能は帝国にとって必ずしも害悪ではなかったから、エリーナも目をつぶっていた。が、アルディスの志が偽物とわかった今は、彼らの戦争好きを見過ごすわけにはいかない。

「ですが、民にこれ以上の負担を強いれば、暴動や反乱だって起きかねない。絶対に避けねば……」

 アンナは口に手を当て、じっと絨毯の模様を見つめながら考えていた。
 ふたつの帝国による大規模な軍事行動。大貴族たちにばかり利があり、民の負担にしかならない愚行。
 そして、肉親に会いたいという皇妃の願い。ふたつの問題が、アンナの頭の中を駆け巡る。

「そうか……!」

 そしてそれは、アンナの明晰な頭脳によって結び付けられ、ひとつの道筋を作った。

「ゼフィリアス帝に仲介を依頼し、"獅子の国"と和平条約を結びましょう」
「なんですと!?」

 普段、多少のことでは動じないラルガが、声を上擦らせた。

「同盟国である"鷲の大国"が仲介に入れば、我が国も"獅子の帝国"も、無下にはできないでしょう?」
「それは、確かにそうですが……どうやってゼフィリアス陛下を味方につけるのです?」

 戦争の準備のために訪れた皇帝に、戦争を止めるための仲介を頼む。そんな真逆の願いを聞き得れてくれるはずがない。普通に考えるならば、だが……。

「もちろん私ごときが直接訴えても、耳を貸してくれません。けれど、私はこの国で最もゼフィリアス帝に近い方を知っております」
「まさか……」
「ええ、皇妃様を会わせるのです。もちろん、影武者ではなくご本人と」
「それは危険ですぞ!」

 ラルガの声は、先ほどよりもさらに半音上がった。

「あなたも、そうお思いですか、ラルガ侯爵?」
「はい。言い方は悪くなりますが、皇妃様のお目については、我が国の恥部です。犯人は未だ不明とはいえ、毒殺未遂である事は明白。あのご兄妹を直に合わせると言うのは、これを認めることに他なりません」
「かといっていつまでも秘密にはできないでしょう? "鷲の帝国"側も、証拠を持っていないと言うだけで、疑っていることには変わりない。クロイス公は今回の影武者で、その疑いを晴らそうと考えているのでしょうが、私にはそれが許せません」
「それは……お気持ちはわかりますが……」
「これは私たちにとってチャンスです。ゼフィリアス帝に、クロイス公への不信感を芽生えさせることができる」
「……危ない綱渡りですぞ」

 下手すれば和平どころか"鷲の帝国"すら敵に回ることだってありうる。
 しかしそれを言うならば、平然と廃妃などを目論むルコット寵姫のような人間が国の実権を握っているのが今の帝国の実情なのだ。あの親子の専横を許していれば、遅かれ早かれ"鷲の帝国"との信頼関係は崩れるだろう。

「ラルガ侯爵。あなたは確か、ゼフィリアス陛下と面識がありましたね?」
「はい。軍にいた頃"鷲の帝国"に駐在武官として赴任してました。まだ皇太子だった頃の陛下と狩りを教えたことがあります」
「では陛下があなたと会うことはそれほど不自然ではありませんね?」
「は? はあ……確かにあり得ないことではありませんが……」

 ラルガは言い淀む。

「私は見ての通り一線を退いた身。様々な式典や会議がある中、わざわざ私にお会いくださるとは思えませんぞ」
「そこは私に任せてください。なんとかします」

 壁に貼られている"百合の帝国"の地図を見る。来訪団が帝都に着いてから動くのでは遅い。ゼフィリアス帝に接触できるチャンスがあるとすれば入国直後だろう。
 国境付近の街で、どうにかして異国の皇帝と接触する必要がある。

(マルムゼの助けが必要よね……)

 アンナの考えを実現させるには、ホムンクルスの身体能力と、"認識迷彩"の異能がなくてはならない。
 あれほど重用してた腹心にも関わらず、アンナは若干の気の重さを覚えた。
 モン・シュレスは帝国西部の山岳地帯にある、人口3千人ほどの都市だ。
 四方を山に囲まれあまり産業が発展してこなかった小都市だが、外交や交易の面では重要な場所だ。隣国"銀嶺の国"やその先に広がる"鷲の帝国"から来る者は、国境に近いこの街に必ずここに立ち寄ることになるからである。
 それは"鷲の帝国"皇帝が率いる外交使節団も例外ではなかった。

「護衛の兵士たちも含め400名といったところでしょうか」
「思った以上に多いわね……」

 東の帝国からやってきた豪華な使節団を、野次馬たちが眺めている。その中に、旅姿のアンナとマルムゼもいた。

「国王や皇帝が同盟国を訪れる場合、慣例では150名程度とされていますが……」

 あまり多くの兵士を連れて行けば、現地の軍との緊張が生じる。だからどの国でも必要最低限の部隊しか連れて行かないことになっている。今回の兵数は、明らかにその最低限を超えていた。

「まあ、"百合の帝国(うち)"がいいと言えば、何人でもいいんだから。どうせクロイス公が大人数で来てくれと言ったんでしょう?」
「クロイス公が?」
「この街には、ホテル・プラスターもあるからね」

 この街は、貴族や大商人のバカンス地としても知られており、別荘や高級ホテルが多数ある。
 ホテルの中で最も大きいのが、クロイス公が経営しているホテル・プラスターだ。400名もの人間を泊められる所となると、あそこしかない。

「なるほど。"鷲の帝国"の外貨を自分の懐に収める。利益誘導ということですか」
「フィルヴィーユ派のみんなが健在だったら、こんな馬鹿げた事はさせなかったのに……」

 ともあれ、皇帝一行がプラスターに泊まるのは、ある程度予測していたことだ。彼らの陣容もつかめたし、今のところ問題はない。

「宿に行きましょう。予定通り決行する」

 * * *
 ふたりが入った宿は、ホテル・プラスターなどとは比べるべくもない簡素な民宿だ。グレアン伯の名を出せば、もちろん貴族御用達の高級ホテルに泊まれるが、今回は帝都で菓子屋を営む若夫婦と、身分を偽っている。

「プラスターの図面を出して」

 アンナは部屋に入るとすぐにマルムゼに命じた。

「はい」

 黒髪の青年は、手際よく折り畳まれた紙を荷袋から取り出し、テーブルに広げる。

「400名のうち、護衛の兵士はおよそ300名……」
「もちろん全員に、前もって私の異能を使うのは無理です。夜中に忍び込み、番兵に見つかる前に術をかけていく、というやり方になるでしょう」

 かつて、先代グレアン伯の部屋に忍び込んだ時に使った手だ。

「皇帝が泊まるのは、やはり本館のスイートルームでしょうか?」
「いえ、ホテルの庭園内に賓客用の離れがあったはず。おそらく泊まるのはそっちよ」
「なぜ、お分かりに?」
「皇妃様がおっしゃっていたの。兄君は昔から造園が趣味で、国外を訪れるたびに現地の庭園を見学するって」

 東苑に建てる館の計画を立てているときに、ふと皇妃がもらした事だ。ゼフィリアス帝は訪れた庭園で、石畳の並べ方や噴水の彫像などを観察し、自分の宮殿の庭でそれを応用してみせるのだそうだ。

「ならば、どの遠くから庭園を眺めることしかできないスイートルームよりも、ど真ん中にある離れを選ぶ。そういう事ですね?」
「ええ」

 マルムゼの異能を駆使し、"鷲の帝国"皇帝の寝所に忍び込む。それが、今回の計画だ。クロイス公やアルディスの目の届かぬところで、ラルガとの面会、そしめ皇妃と兄の再会の手筈を整える。そのためにアンナは、身分を隠してこの山間の町にやってきた。

「庭園は隠れるところが少ないわ。忍び込むのも難しくなるけど、できる?」
「あなた様がやれと仰せならば」

 マルムゼはまっすぐアンナの瞳を見据えてくる。数瞬、ふたりは目を合わせたまま無言でいた。

「わかったわ。では決行は深夜1時。それまでここで仮眠をとりましょう」

 アンナは懐中時計を見ながら言った。

「では、私は外に控えております」
「は、何言ってるの? あなたも寝るのよ」
「え? いやしかしアンナ様がお休みの時に何かあったら……」
「はあ〜」

 アンナはわざとらしくため息を漏らしてみせる。

「あのね、私たちは庶民の若夫婦という設定でここにとまってるのよ? 廊下で旦那がひとり立っていたら、どう見てもおかしいでしょ?」
「う……それは……確かに」
「それに、今夜はあなたにも万全でいてもらはなくてはならない。だからしっかり寝なさい!」
「かしこまりました。では……この辺りで失礼します」

 マルムゼはぎこちなく体を動かし、床に寝転がろうとした。

「聞こえなかった? 私は万全と言ったんだけど。そんな硬い床の上で万全な状態になれるの?」
「し、しかしですね……」

 マルムゼは耳の先を紅潮させている。彼が指差す先には簡素なベッドがひとつ。安宿に夫婦と偽って泊まったのだ。ツインベッドなど用意されてるはずもない

「大丈夫よ。このベッド横幅あるし、2人で仮眠するくらいならなんとも……」
「そうではなくて!」

 マルムゼは声を荒らげた。

「そこまで私を信用していると?」
「……ああ、そういう事? でもあなたの性格だと、目上の女性に迫ろうなんて思わないでしょ。リアン太公じゃあるまいし」
「それは……そうですが。いえ、そうではなく、別の意味でもです」
「別の意味?」
「私に寝首をかかれることはないと、信じておいでですか?」
「は? 何を今さら……」

 半笑いで言いかけて、アンナはすぐに言葉を止めた。

(駄目ね、私は。こんな態度、誠実じゃない)
 
 男女としても主従としても、今のアンナの命令が適切ではないことくらい、彼女自身もわかっている。
 けど、わざと何でもないように振る舞ったのは、アンナの虚勢だ。

「そうね。あなたに酷い仕打ちをした後だもの……ちゃんと話をしましょう」

 数週間前、不審にかられたアンナはマルムゼの忠誠心を試すような事をした。それにマルムゼは、危ういほどにまっすぐ態度で応えてくれた。
 なのにアンナは、気まずさから彼を遠ざけ、今回の旅の直前まで必要最低限の接し方しかしてこなかったのだ。

「傷はもう大丈夫?」
「はい。おかげさまで完治しております」
「あの日の事と、それ以来あなたを遠ざけてきたことについて改めて謝ります。ごめんなさい」
「あなたは、私のふたりの主人のうちの一人です。主人が家臣をどう扱おうと勝手。私に不満はございません」

 マルムゼはそう答え、さらに続けた。

「ただ、あなたが私をどれほど信用されているか。それは知りたい」
「うん……」

 いっそのこと全て話してしまえばいい。アンナは何度もそう思った。マルムゼに芽生えた不審の理由。あの日東苑で皇妃と共にいた事を、彼に問い詰めればいいのだ。
 けど、それはできなかった。彼のもう一人の主人、サン・ジェルマンの真意がわからない以上、迂闊には動けない。下手すればアンナの身を滅ぼしかねない。

 それに……怖かった。復讐や謀略とは関係なく、もっと根源的なところでアンナはマルムゼの正体が明らかにする事を恐れている。

 なぜだけはわからない。けれどアンナには、マルムゼの裏の顔など知りたくない、目に映るものだけを信じたいという思いが確かにあった。

「完全に信用することは、正直できない。あなたは必要になるまで何も語らない。異能のこともそうだったし、サン・ジェルマン伯のことも……」

 そう話しながら、アンナは自分がマルムゼの目を見ていないことに気づく。駄目だ、これでは。

「でもね……」

 一度目をつぶってから、決意を込めてからの黒い瞳を見る。そうだ。ここから先の言葉はちゃんとこの青年と目を合わせながら言わないと。

「この肉体で目覚めてから、あなたはずっと私を助けてくれた。だから信頼したい。仲間として!」

 確かに信用はできない。けど、信頼…この青年を文字通り信じて頼りたい。矛盾しているようだが、アンナにはそんな想いが確かにあった。

「仲間として……ですか?」
「ええ」

 マルムゼは目を閉じる。磨き上げられた黒曜石のような瞳を瞼の裏に隠し、しばらく何かを考えているようだった。

「わかりました」

 彼はベッドへと歩み寄る。

「あなた様とは主従であると同時に同志。目的達成のため、このベッド半分使わせていただきます」

 * * *
「ふう……」

 マルムゼ眠るのを諦めて天井を見上げていた。ああは言ったものの、仮眠などできるものではない。
 ホムンクルスの肉体にも生理機能は備わっているようで、すぐ横に若い女性が身体を横たえているという事実が、マルムゼに緊張と興奮を与えている。

 一方でアンナは、すーすーと寝息を立てていた。同じベッドを共有することは、この人にとっては本当になんでもない事らしい。

(宮廷で、過剰な愛と憎悪に囲まれながら何年も暮らしてきた方だ。並の女性とは肝の座り方が違うということか)

 そんな事を考えたが、すぐに思い直す。

(いや、単に私が男と認識されていないだけかもな……)

 先ほど、アンナはマルムゼの事を「仲間」と呼んだ。その事自体は身に余る光栄だ。確かにそう思うのだが、同時に何か落胆のような感情も味わっていた。

(私は、この方にどう思われたいと思ったのだ……?)

 自分自身のことがわからない。
 わからないといえば、もうひとつマルムゼの心の奥にひっかかることがあった。

(何も語らない……か)

 アンナに指摘されて初めて自覚した。確かに自分は、この女主人に隠し事をしすぎている。
 必要になるまで異能のことは話さなかったし、アンナにもこの力が備わっていることを隠そうとさえした。
 サン・ジェルマン伯爵についてもそうだ。本来なら彼女が目覚めたその日に名前を出さなくてはいけないほどの情報だ。それをこの間までひた隠しにしていたのはどうしてだろう?

(この方をできる限り危険から遠ざけるため、そう考えていたが、果たしてそれは本当に私の意思か?)

 例えば、この肉体を用意したサン・ジェルマン伯が、なんらかの方法でマルムゼの意思を操っている。そんな気もしてくるのだ。

(我がもう一人の主人よ。あなたは今どこに?)

 彼は「フィルヴィーユ公爵夫人を救い、もう一人の主人とせよ」と言い残し、姿を消した。あれから3年以上経つが、伯爵は姿を見せるどころか、頼りひとつ送ってこない。

「うう……」
「アンナ様?」

 隣に眠る女主人が、うめき声をもらした。さっきまでの寝息とは一転して、苦しそうな声だ。

「さん……父さん……」

 寝言か。なにか酷い夢を見ているようだ。

「……ごめんなさい」

 アンナの目からひと雫の涙がこぼれ落ちる。演技ではない彼女の涙を、マルムゼは初めて見た。

(ああ、そうだ)

 一時は皇帝の愛を欲しいままにした寵姫、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた政治家、そして今の宮廷の破壊を目論む復讐者。
 それらよりも以前に、まずこの方は一人の女性なのだ。一人の人間なのだ。
 その生き方には全くの悔いがなかったはずがない。特に家族や故郷を政争に巻き込んだしまったことに対する思いはどれほどのことだろう。

「ごめんなさい……私が……死ぬべき……でした……」
「!?」

 考えるよりも先にマルムゼの身体が動いた。震える肩を掴み、それを止めるようにアンナに寄り添った。

(たとえ、この方に信用されていなくても構わない。私だけは何があっても、この方の味方でいよう)

 この想いはサン・ジェルマン伯に刷り込まれたものでは決してない。自分で導き出した結論だ。

 マルムゼは強くそう思った。
 目を覚ますと、マルムゼは既に準備を整えていた。暗い色の服。腕と脛には金属のプレートに革を貼り合わせた防具。腰に差す剣は、忍び込みやすいように通常よりも短いものを選んでいる。
 その顔にも心なしか気合いがみなぎっているように、アンナには見えた。

「その様子だと、ちゃんと英気は養えたみたいね」
「……はい!」

 答えるまでに、少し間があったのが気になったけど、問題はなさそうだった。するとマルムゼも問い返してくる。

「アンナ様こそ、ちゃんとお休みになられたでしょうか?」
「私? ……ええ、そうね」

 思い返すと、嫌な夢にうなされていたような感覚がおぼろげにある。けど目覚めた時には、それらを吹き飛ばすような、安心感に包み込まれた感じが残っていた。
 不思議な感覚だけども、今現在はう心身がものすごく良い状態になっているのを実感している。

「私も万全みたい。行きましょう。"鷲の帝国"の皇帝陛下に会いに!」

 * * *
 ホテル・プラスターは、モン・シュレスの市街地を見下ろす高台の上に立っている。
 作戦の決行時刻である深夜1時は、ちょうど月が西の山々に没した直後であり、そこから日の出まではこの高台を照らす灯りは何もない。幸いなことに今夜は、薄い雲が星も隠しており、街からホテルへ続く山道は誰にも見つからずに進むことができた。

「さて、ここからが本番よ」

 二人はホテルの正門に着く前に横の細道へとそれた。この道はホテルの横を回り込んで、庭園の方角に続いている。
 少し進むと鉄製の柵が見えた。この先かホテルの敷地だ。鉄棒ごしに見える庭園は、煌々と灯りが照らされていた。
 ガス灯だ。さすがクロイス公資本のホテルだ。庭園には帝都の街灯と同じ、可燃ガスによるランプが備えられている。
 この庭園では、バカンス中の貴族たちが一晩中乱痴気騒ぎをすることもあるそうで、そのために設置されたものらしい。そして今は、異国の皇帝に夜でも庭を楽しんでもらうために、同時にアンナたちのような侵入者を照らし出すために、光を放っている。

「ここからどうやって近づきますか?」
「よく見て」

 アンナは庭園を指差す。いかにガス灯とはいえ、広間の太陽のように隅々まで照らす、というわけにはいかない。
 むしろランプの光が届かない生垣や花壇裏には、濃い影が浮かび上がっている。

「体勢を低くして、影になっている部分を伝っていきましょう」

 幸い、近くに見張の兵士はいないようだ。この隙をついて走れば、一番近くの花壇に隠れることが出来る。

「では、失礼します!」

 マルムゼはアンナの身体をふわりと抱き抱えると、足を力強く踏み込み大きく跳躍した。そして大人の背丈よりも高い柵を乗り越える。
 通常の人間よりも強化された、ホムンクルスの肉体だからこそ出来る芸当だ。軽々と柵を乗り越えて、そのまま花壇の影へと走り込む。さらに、そこからガス灯の灯りを避けながら少し先へ進んだ所で、マルムゼは立ち止まった。

「ここまでは問題なし……なの?」

 マルムゼの行動には一切問題はなかった。しかし違和感。
 柵を飛び越えた瞬間、庭園全体が一望できた。そのとき見張りの兵士の姿が目に入ってこなかった。それが気になる。

「ねえ、マルムゼ?」
「はい。兵士の気配がまるでありません。この周辺だけではなく、庭園全体に」
「馬鹿な」

 そんなことがあるのか? 仮にも大国の皇帝が宿泊しているホテルだ。あれだけ多くの兵士を連れてきておいて、一人も見張りに立っていないなんておかしい。

「危ない!」
「きゃっ!?」

 突如、マルムゼが横からぶつかりアンナの身体を弾き飛ばした。
 直後、ガンッという金属音が炸裂する。見ると、ほんの一瞬前にアンナがいた場所に一本の槍が刺さっていた。

「見つかった!?」

 やはり見張りはいたのか。でも一体どこに? それに、こんなに早く侵入に気づかれるなんて!

「皇帝陛下のご寝所を侵す不届者よ。自分たちのしていることが万死に値するとわかっておろうな?」

 いつの間にか赤いフード付きのマントをかぶった人物が現れ、石畳に刺さる槍を引き抜いた。声と体格から考えると、女性のようだ。

「下がってください」

 マルムゼが剣を抜き、アンナの前に立った。

「おや? お前その顔、ホムンクルスか?」
「え?」

 赤マントがフードを脱ぐ。隠れていた黒髪と素顔が露わになった。

「なっ!」
「その顔は……?」

 その女はマルムゼと同じ顔をしていた。端正な細面。切れ長の目。そして何よりそこに輝く黒曜石のような黒い瞳。

「その反応。同族に会うのは初めてかな?」
「同族だと?」

 マルムゼがわずかに戸惑いを覚える、その一瞬を赤マントの女は見逃さなかった。

「隙あり!」

 瞬時に女の槍が伸びてくる。それをマルムゼはとっさにかわし反撃に出る。が、マルムゼの剣も槍によっていなされる。そこから2人の攻防が始まる。

「強い……」

 あのマルムゼが攻めあぐねている。両者の実力はほぼ同等のようにアンナには見えた。そして武器は、潜入のために短い剣を選んだマルムゼの方が不利だ。
 懐にさえ入り込めれば勝機が生まれるだろうが、赤マントの女は、巧みな槍さばきでそれを許さない。
 
(なんとかして彼女の隙を作れないかしら?)

 アンナはそう考え、二人の動きを注視した。マルムゼが押され気味とはいえ、相手にもマルムゼから意識を離せるほど余裕はないはずだ。
 ならば彼女がアンナに背中を向けた瞬間、物を投げるなどして注意をひけば、マルムゼが仕掛けるチャンスができるかもしれない。

(よし……)

 アンナは槍によって砕かれた、タイルの破片を手に取った。そして赤マントの動きに合わせ、その背後に回ろうとする。

「甘い!」
「きゃあっ!」
「アンナ様!」

 マルムゼに向けられていたはずの槍が、瞬間的にアンナの懐へ飛び込んできた。
 彼女の言う通り、甘かった。彼女は槍を一気に引き、穂先とは反対端をアンナに向かって伸ばしたのだ。
 先端の石突が、アンナの手にしていたタイル片を払い落とす。

「貴様!」

 マルムゼは跳躍し、アンナを庇うように赤マントとの間に立った。

「彼女に危害を加えてみろ。殺す!」

 鋭い怒気を含んだマルムゼの言葉が、赤マントの女に向けられた。が、彼と同じ黒曜石の色をした瞳は、動じることもなく彼を見つめている。

「その慌てぶり、どうやらお前の"もうひとりの主人"はそのご婦人のようだな」
「なに?」
「安心しろ。最初から殺すつもりはない」

 そう言うと、マルムゼに向けていた槍の穂先を持ち上げ、構えを解いた。

「同族が現れたら、主従ともにお連れするよう、私の"もうひとりの主人"から命じられている」

 マルムゼ同じ顔をしたホムンクルス。そして「もうひとりの主人」という言い回し。やはりこの女性は……。

「主人とは、どなたのことです?」

 アンナはあえて尋ねる。

「知れたこと。我が皇帝ゼファルセス陛下だ。歓迎しよう、サン・ジェルマンの使徒よ」