翌日アンナは、帝都軍事総監府を兼ねるラルガ侯爵邸を訪れた。屋敷を出る時に、マルムゼが何かを言いたげだったが、アンナはそれを無視し一人でここを訪れていた。
 今は皇妃に関わる話を、マルムゼに聞かれたくはない。

「閣僚たちは秘密にしているようですが、確かに"鷲の帝国"皇帝が来訪するという噂はあります」

 エスリー夫人や皇妃から聞いた話を伝えると、ラルガはいつもの仏頂面で答えた。

「クロイス公が秘密裏に事を進めているため、私も詳細は分かりません。エスリー子爵夫人からその話を聞けたのはまさしく幸運ですな」
「目的はなんでしょう?」

 使節団を送るというのならともかく、皇帝自身が同盟国におもむくとは大事だ。アルディス帝やクロイス公と、よほど重要な取り決めをするつもりなのだろう。

「いろいろ考えられますが、ここまで秘密にしているということは戦争でしょう」
「戦争というと……"獅子の王国"との?」
「いかにも」

 "百合の帝国"は長年、"獅子の王国"と戦争状態にある。エリーナが死ぬ直前に行われた大会戦で、帝国軍が勝利し一旦は停戦協定が結ばれたが、今はまた前線で小競り合いが続いている。

「軍にいる息子の……エイダー男爵の報告によれば、各拠点の物資が前線へ向かっています。陛下とウィダス戦争大臣は、近々大規模な軍事行動を起こすつもりのようです」
「なるほど。それでクロイス公は、"鷲の帝国"に支援を要請するために呼んだ、と」

 考えられる話だ。皇帝自らが来訪して話し合うとなると、支援物資を送るなどというレベルではなく、"鷲の帝国"の軍勢も参戦するつもりかもしれない。

「我が国と"獅子の王国"はすでに百年近く争いを続けています。これ以上不毛な戦いはしたくないですが……」
「グレアン伯、それは庶民の考え方です。大貴族にとって、戦争とは英雄の気分に浸れる上に、懐も潤う最高の娯楽に他なりません」

 そうなのだ。戦争の実態について深く考えず、軍隊を自分のおもちゃくらいにしか思っていない大貴族は多い。長く軍に在籍し、前線の現実を知るラルガのような貴族は少数派だ。
 かつてはエリーナと共に民のための政治を目指していたアルディスでさえも、戦争については彼女と意見が割れていた。アルディスは自ら軍を率いるほどの戦好きで、何より軍事の天才だった。
 その才能は帝国にとって必ずしも害悪ではなかったから、エリーナも目をつぶっていた。が、アルディスの志が偽物とわかった今は、彼らの戦争好きを見過ごすわけにはいかない。

「ですが、民にこれ以上の負担を強いれば、暴動や反乱だって起きかねない。絶対に避けねば……」

 アンナは口に手を当て、じっと絨毯の模様を見つめながら考えていた。
 ふたつの帝国による大規模な軍事行動。大貴族たちにばかり利があり、民の負担にしかならない愚行。
 そして、肉親に会いたいという皇妃の願い。ふたつの問題が、アンナの頭の中を駆け巡る。

「そうか……!」

 そしてそれは、アンナの明晰な頭脳によって結び付けられ、ひとつの道筋を作った。

「ゼフィリアス帝に仲介を依頼し、"獅子の国"と和平条約を結びましょう」
「なんですと!?」

 普段、多少のことでは動じないラルガが、声を上擦らせた。

「同盟国である"鷲の大国"が仲介に入れば、我が国も"獅子の帝国"も、無下にはできないでしょう?」
「それは、確かにそうですが……どうやってゼフィリアス陛下を味方につけるのです?」

 戦争の準備のために訪れた皇帝に、戦争を止めるための仲介を頼む。そんな真逆の願いを聞き得れてくれるはずがない。普通に考えるならば、だが……。

「もちろん私ごときが直接訴えても、耳を貸してくれません。けれど、私はこの国で最もゼフィリアス帝に近い方を知っております」
「まさか……」
「ええ、皇妃様を会わせるのです。もちろん、影武者ではなくご本人と」
「それは危険ですぞ!」

 ラルガの声は、先ほどよりもさらに半音上がった。

「あなたも、そうお思いですか、ラルガ侯爵?」
「はい。言い方は悪くなりますが、皇妃様のお目については、我が国の恥部です。犯人は未だ不明とはいえ、毒殺未遂である事は明白。あのご兄妹を直に合わせると言うのは、これを認めることに他なりません」
「かといっていつまでも秘密にはできないでしょう? "鷲の帝国"側も、証拠を持っていないと言うだけで、疑っていることには変わりない。クロイス公は今回の影武者で、その疑いを晴らそうと考えているのでしょうが、私にはそれが許せません」
「それは……お気持ちはわかりますが……」
「これは私たちにとってチャンスです。ゼフィリアス帝に、クロイス公への不信感を芽生えさせることができる」
「……危ない綱渡りですぞ」

 下手すれば和平どころか"鷲の帝国"すら敵に回ることだってありうる。
 しかしそれを言うならば、平然と廃妃などを目論むルコット寵姫のような人間が国の実権を握っているのが今の帝国の実情なのだ。あの親子の専横を許していれば、遅かれ早かれ"鷲の帝国"との信頼関係は崩れるだろう。

「ラルガ侯爵。あなたは確か、ゼフィリアス陛下と面識がありましたね?」
「はい。軍にいた頃"鷲の帝国"に駐在武官として赴任してました。まだ皇太子だった頃の陛下と狩りを教えたことがあります」
「では陛下があなたと会うことはそれほど不自然ではありませんね?」
「は? はあ……確かにあり得ないことではありませんが……」

 ラルガは言い淀む。

「私は見ての通り一線を退いた身。様々な式典や会議がある中、わざわざ私にお会いくださるとは思えませんぞ」
「そこは私に任せてください。なんとかします」

 壁に貼られている"百合の帝国"の地図を見る。来訪団が帝都に着いてから動くのでは遅い。ゼフィリアス帝に接触できるチャンスがあるとすれば入国直後だろう。
 国境付近の街で、どうにかして異国の皇帝と接触する必要がある。

(マルムゼの助けが必要よね……)

 アンナの考えを実現させるには、ホムンクルスの身体能力と、"認識迷彩"の異能がなくてはならない。
 あれほど重用してた腹心にも関わらず、アンナは若干の気の重さを覚えた。