「祝賀会前の景気付けに、スパークリングワインでもいかがかな、グレアン夫人?」

 ヴィスタネージュ大宮殿へと向かう馬車の中で、リアン大公はボトルを持って呼びかけてきた。アンナはジロリと険しげな目つきで彼を見返す。

「おっと失敬。グレアン伯爵、でしたな。どうも女性に爵位をつけて呼ぶのは慣れていなくてね」
「慣れていただきます。帝国法でも、女子の家督相続は認められているはずです」

 戦乱が長引き、貴族の男子が減った時代の名残だが、この法律が今のアンナの立場を用意してくれた。

「確かに。今やほとんどの家の当主が男だがな。皇帝が寵姫にプレゼントとして伯爵号を与えるようなことも、かつてはあったらしい……」

 アンナも寵姫時代、爵位を得てはどうかという話が持ち上がったことがある。
 フィルヴィーユ公爵夫人とは、寵姫に対する名誉称号で、フィルヴィーユ公爵の妻という意味ではない。そもそもフィルヴィーユ家は50年ほど前に断絶していたのだ。

 それをエリーナ自身を当主として復活させようという動きがあった。
 当時のエリーナは、それを固辞した。正式な爵位があれば、政界での影響力は増すが、敵も増えるからだ。
 それに爵位がなくとも、皇帝の庇護と愛情さえあれば、彼らに負けることはないと当時は信じていた。
 けれど今は事情が違う。せっかく手に入れた「グレアン伯爵」という称号をアンナは最大限に利用するつもりだ。

「それにしても一体どうやったのだ? 俺が伯爵家に君を連れて行った時には、こんな事になるとは思わなかった」

 リアンは、そう言いながらスパークリングワインをグラスに注ぐ。アンナは泡がきらめく薄い金色の液体が入ったグラスを受け取った。

「君が貴族社会や帝国そのものに何かを起こしたいのは知ってる。が、俺はあのままクロイス公爵家に嫁ぐものと思っていた」
「その方法も考えましたが、婚礼までに少なくとも一年。公爵家内で発言権を得るのに数年から十数年は必要でしょう? グレアン家を押さえた方が早いと思いましたの」

 敢えてあけすけに答えた。この皇弟もまた貴族社会に馴染めない者の一人だ。
 秩序を乱す者の存在を喜ぶ。あわよくばその乱れた秩序の隙をついて自分が帝位に、ぐらいのことは考えているかもしれない。

「だがまさか前当主が引退されるとはな。それも半年だ。半年で急速に衰え、そしてあのような不祥事を……彼に何をした?」
「私はなんのことか……ただ、しきりに何かに怯えている様子でした」
「怯えている?」
「そう。まるで、過去に自分が起こした何かに対して」
「何か、ねえ……。それで、彼は今どうしている?」
「グレアン家が保有している山荘にいます」
「その山荘は鉄格子付きかね?」
「まさか。でも……あの方自身、二度と俗世に戻るつもりはないでしょうね」

 アンナの養父はもはや死人も同然だった。あの山荘でエリーナの幻影に怯えながら惨めな余生を送るしかない。
 フィルヴィーユ派を裏切り、民のための政治を頓挫させ、私に「血塗られた寵姫」などという汚名を着せたのだ。当然の報い、とアンナは思っていた。

「だがな、グレアン伯」

 皇弟は、今度はアンナを爵位で呼んだ。

「他の貴族どもは、俺ほどに君を好意的な目で見ないぞ。落ちぶれたとはいえ、グレアンは名門。それを得体の知れない小娘が半年で乗っ取ったのだからな」
「それは、最初から覚悟の上です」
「俺が守ってやろうか?」
「まぁ。その見返りは?」
「君の美しさを俺に独占させてくれればいい。皇帝の弟という立場上、君にばかり肩入れするわけにはいかないが、恋人ともなれば話は別だ」

 隙あらば口説こうとする。こういう気質は相変わらずだなと思った。
 エリーナとして親友づきあいしていた頃も、兄の寵姫に平気で求愛の台詞を投げかけてきたものだ。
 それにオペラ観劇にいった翌日には主演女優と男女の仲になっていた、なんてことも幾度となくある。

「お気持ちは嬉しいですが。まだ当主として新米ですので、色恋にうつつを抜かす暇なんてありませんわ」
「新米でなくなったらいいのかい?」
「その時はその時の気持ちで決めるでしょうね」
「はっはっは、なら俺はいくらでも君に挑戦するよ?」
「もちろん殿下のご自由に。私は誰かに心を独占されるつもりはないですが、誰かの心を強制するつもりもありませんので」
「そういう言葉がすらすらと出てくるとは、君は本当に面白いな。ますます俺のものにしたくなってきた」
「差し当たり、私の手を取ることでご満足ください。宮殿が近づいてきましたよ」

 帝室の狩猟場にもなっているヴィスタネージュの森の向こうに、煌々とした灯りが見えてきた。
 夕闇の空を照らしているのは、宮殿内に備えられた錬金術による常夜灯だ。
 帝国の中枢部にして皇帝の居城、世界最大級の建造物であるヴィスタネージュ大宮殿の威容がすぐそこまで迫ってきていた。