「どういうことだ!!」
ゼーゲンの怒声は部屋を揺るがすかのようだった。副官はその迫力に怖気づくことなく答える。
「ヴィスタネージュの元帥府より伝書鳩が参りました。恐らく帝国全土の軍施設に一斉に放たれたものと思われます」
「元帥府……つまりボールロワ元帥から、ということですか?」
現在、帝国の軍権を司るのは白薔薇の間の政変以来の盟友であるボールロワ元帥だ。
彼がアンナ討伐の命令を出した? 一体何故?
「これを……」
副官はアンナの質問に答えず、ただ紙片を手渡す。
横長で、丸めた跡がついてる紙。伝書鳩にくくりつけられた文書そのものだろう。視線を落とすと、すぐにその名が目に飛び込んできた。
「ベールーズ伯爵ダ・フォーリス元帥……」
討伐令は確かにその名で出されていた。
「あの男が元帥ですと!?」
「やられた……!」
アンナはがくっと椅子の上に崩れるように座った。
「すべては彼の……ダ・フォーリス大尉の手の平の上だったのね……」
あの男のことを元帥とは呼ばなかった。そういえば「ベールーズ伯」という爵位で呼んだこともない。かつて自分のことを執拗に「グレアン侯爵夫人」呼ばわりしたペティアのことを思い出す。そうか、あの老婆もこういう心持ちだったのか……。
「手の平の上、とは?」
シュルイーズが尋ねる。
「私がヴィスタネージュや帝都から離れるように仕組んでいたのよ。自分が実権を握るために」
「待ってください! 確かにタイミングが良すぎますが、今回の計画は顧問閣下が自ら決めたことでしょう? 仕組むなんて出来ますか!?」
「ウィダスとダ・フォーリス、そして黒幕たるリュディス=オルスが同一人物なら可能よ」
シュルイーズとゼーゲンは釈然としていない様子だ。だがタフトは、娘と同じ考えに至ったようだ。
「私という存在と、仮死状態のマルムゼ殿だな?」
「その通りです、父さん」
アンナは父に頷くと、2人にも説明する。
「マルムゼはウィダスとの戦いで傷つき、仮死状態となった。そして、それを治せるサン・ジェルマン伯爵の居場所を知るのは、リュディス=オルスのみ。加えてダ・フォーリスは真珠の間グループを使い、度重なる反乱の責任を私に求める空気を作った……」
「そういう事か」
ゼーゲンは納得したようだ。
「ひとつの行動に必ず複数の意味を持たせる。それが顧問殿というお方です。ならば、あの古城の工房からほど近いルアベーズで反乱が起きれば、必ずあなたはそこへ向かう……!」
「ええ。そして事実、私はそのような考え、行動しました」
もちろん一から十まで全てがあの男の企てというわけでもないだろう。偶然の要素もいくつかあるだろうし、そもそもアルディスの生まれ変わりであるマルムゼと直接剣を交えるとは、さすがに想定出来るはずがない。
しかし、一流の謀略家とは全ての仕掛けを自分で作るような人物ではないことを、アンナは知っている。あらゆる事象を全て人造的に生み出すなど不可能だし、やろうとすれば必ず綻びが生じる。
状況を正確に見極め、少ない手数で最大限の利益を得んとする者こそ、一流と言える。
その意味では、今回のあの男の手際は間違いなく一流だ。芸術的とすら言える。
「ありがとうございます。状況は理解しました」
アンナは紙片を副官に返した。
「で、あなたはどうしてこの情報を私に?」
この紙片はダ・フォーリス元帥……つまり女帝よりリュディスの短剣を託され、軍権を握った者からの正式な命令書だ。本来ならこの副官は即座にアンナを逮捕し、元帥府に送還しなければならない。
「私は軍人の家系で育ちました。父も、兄も軍人です」
副官は自身の身の上を語り始める。
「父と兄は第3軍団に所属しています。長らく"獅子の王国"との前線で小競り合いを続けてきた方面軍です」
「……そうでしたか」
「特に兄の部隊は物資が届かず全滅の危機に瀕したことがありました。クロイス派による物資横領が原因です。あなた様は、その不正を告発してくれた。それどころか"獅子の王国"と講和を結び、第3軍団を不毛な戦地から救い出してくれた!」
副官はまっすぐ、アンナの両眼を見つめる。
「我々軍人は、命に従い戦うのが仕事です。本来そこに私情は挟みません。ですが……心から従いたいと思う主と、そうでない主がいるのは確かです……!」
「では、あなたは、私についてきてくれると?」
「いいえ」
副官は首を横に振った。
「私のような立場の人間がそこまで私情を優先すれば、第6軍団全てに迷惑がかかります。あなた様のご恩に報いることができるのは、せいぜいあと1時間とお考えください」
1時間。彼がこの街に駐留している部隊を率い、出動すまでにかかる時間であろう。それでもかなり手心が加えられた猶予だ。
「わかりました。私もあなたにこれ以上を求めるべきではないと考えます。ありがとう」
「ご武運を……」
そう言って副官は退室した。
「急ぎ、ここを発ちましょう」
「ならば、あの気球を使いたいところですが……」
「それは難しいでしょうね」
確かにあの気球を使えば離脱は容易だ。が、定員はせいぜい4人。アンナ、シュルイーズ、ゼーゲン、タフトが乗ればもう限界だ。棺桶の中に安置されているマルムゼの肉体も移動させなければならないし、ゼーゲンの部下やシュルイーズの助手、それに戦場視察のために連れてきた官僚たちもいる。
「顧問殿だけでも気球でお逃げになりませんか? 第一に守らねばならないのは、あなた様の御身です」
ゼーゲンがそう提案するが、アンナは却下した。
「皆さんと私は一蓮托生。私だけが抜け駆けするわけには参りません。それに、流石にアレは気球の載せられないでしょう?」
マルムゼの棺桶を指差す。誓ったのだ、彼ともう離れないと。
「ええ、顧問殿ならそうおっしゃると思いました。ですがそう考えない者もいます」
「どういうことですか?」
「馬車と気球が同時に動いたら、敵もどちらを追うべきか迷うのではないでしょうか?」
「なるほど、あれを囮に使うのですね」
ゼーゲンの目が不敵に輝く。
「博士、気球を動かしてもらえるか。私は他の者たちを起こし、馬車の準備をする」
「了解です!」
言うが早いが、シュルイーズは部屋を飛び出して行った。
「……そろそろサン・オージュの兵たちが動き出すころですね」
ゼーゲンが言う。
サン・オージュを発った3台の馬車は、高速度で街道をしばらく走った後、森の中をすすむ脇道に入った。すぐに追いつかれることはないだろうが、安心できない状況だ。
「あの気球で、どれくらい追手を分散できるでしょうか……?」
シュルイーズは、サン・オージュを発つ直前に気球の動かし、無人のまままっすぐ東に向かうように飛ばした。
「副感殿は、気球が囮であることくらいはすぐに見抜くでしょう」
せっかく迷彩機能を搭載している気球が姿も隠さず、わざと目立ちやすい速度と高度で、一直線に進み続ければ、すぐに怪しまれるだろう。
「ですが、完全に捨て置くことも出来ない」
「ええ」
ゼーゲンの言に、アンナは頷いた。
十中八九、囮だったとしても、残りの一分か二分は、アンナが乗っている可能性がある。わざと目立つ場所に隠れる。いかにもアンナが仕掛けそうなブラフではないか。
それに、アンナ自身が乗っていなかったとしても、重大な情報を乗せたということも考えられる。例えばダ・フォーリスの正体や、サン・ジェルマン伯爵の秘密などだ。そして方角は東。気球の速度ならば2日もあれば、それらの情報は"鷲の帝国"へ辿り着く。彼らにとっては、面倒な事態に違いない。
そもそも、あの気球自体が最先端錬金術の産物でもある。その研究を秘匿し続けてきたリュディス=オルス一党は、あれを国外に渡したくないはずだ。
つまり飛び立ってしまった以上、帝国軍はなんとしてもあの気球を落とす必要がある。案外この策は、効くかもしれない。
「まずは身を隠せる場所を探しましょう、マルムゼ殿が復活するまでは……」
「そうですね……」
アンナは後方を付いてくる馬車を見た。あれには仮死状態のマルムゼが収められた棺が載せられている。
マルムゼさえ目覚めれば、鈍重な馬車を捨てて身軽になれる。それから盟友であるリアン大公の領地に逃げ込む、というのがアンナとゼーゲンが考えた逃避行の計画だった。
こちらが街道を外れ、森や山の中を進んでいることは、敵も承知のはずだ。第6軍団の主力がルアベーズから戻り、本格的な山狩りが始まればいずれ見つかる。その前にマルムぜが復活できるかが、この逃避行の成否を分けことになるだろう。
* * *
それから3時間あまり、一行は山道を進み続けていた。幸い、追手の気配はまだない。とはいえ、もう山の向こうまで迫っているかも……という恐怖は常につきまとっている。
途中、道が険しくなり馬車での移動が難しくなってきた。そこで、ゼーゲンはマルムゼの棺を乗せた1台を残し、あとの2台は破棄することにした。
兵士たちが崖道から落とした馬車は、途中の岩や木にぶつかってバラバラになりながら、谷底に吸い込まれていった。もし追手がここまで来たならば、あの残骸を見て素通りはできない。崖を降りて中に誰か乗っていないか、特にアンナの遺体がないかを確認をしなければならない。そこでまた、多少の時間稼ぎができるというわけだ。
そしてうまい具合に、ゼーゲンの部下が隠れるのに最適な洞穴を発見した。
近くには滝があり、水に困らないばかりかある程度の物音は消してくれる。更に滝の上に登ると見晴らしが良く、通ってきた山道や、馬車を捨てた崖を見張ることができるのだ。
脱落者を出すことなく、潜伏場所を見つけたことで、一行はつかの間、緊張をほぐすことが出来た。
「我々はまだ、運に見放されてはいないようですね」
「ええ。この先の逃亡のためにも力を蓄えねば。皆さん今のうちにしっかり休んでください!」
兵士たちは交代で見張りを立て、残った者たちは休息を取ることにした。
特に昨日、戦場を駆け巡り、夜通しタフトの告白を聞いていたシュルイーズは崩れるように寝入ってしまった。ホムンクルスのゼーゲンさえも、すぐに動ける姿勢を維持しつつも寝息を立てていた。
「……」
が、アンナはどういうわけか眠れなかった。
いったん眠りに入ったものの、すぐに目覚めてしまい、ぼんやりと洞穴の入口から差し込む光を見つめていた。
状態を起こし、周囲を見回す。
同行者たちは、いくつかのグループに分かれている。入口近くですぐに戦えるように備えている兵士たち。自分たちの発明品を用い、火や煙を出さずに携行食を調理するシュルイーズの助手たち。そして逃避行の成功後に、アンナを復権させるための方策を議論する官僚たち。みんな身体を休めつつも、自らのすべきことをしようとしていた。
そのいずれの輪にも加わらず、棺の前で作業を続けるタフトを見つけ、アンナは立ち上がる。
「父さん」
「エリーナか。休まなくていいのか?」
タフトは、棺についた魔力調整用のダイヤルをから手を離し、娘の方を向いた。
「父さんこそ大丈夫なの? 夜通し話して、疲れているでしょう」
「歳を取ると、どうも睡眠が浅くなってしまってな」
実年齢はゆうに100を超えているであろう父は、本当とも冗談ともつかないことを言う。
「……マルムゼの調子はどう?」
「問題なし……と、言いたいところだが覚醒にはもう少し時間が必要だな」
「目覚めるのよ……ね?」
もう二度と彼の声を聞けないのではないか、二度と彼と触れ合えないのではないか、そんな不安をアンナはずっと抱え続けていた。
サン・ジェルマン伯爵たる父と再開した今も、それを払拭することが出来ないでいる。
「ああ。これは肉体が受けた衝撃が魂にまで及ぶのを防ぐために用意したホムンクルスの機能のひとつだ。このまま彼が死ぬ、ということはない」
ホムンクルスの造物主本人が言うのだから間違いないだろう。けど、それでもアンナの不安は少しも消えない。
「お願い……彼を助けて」
アンナは父に懇願する。どこか子供じみた、甘えた声になってしまった。
ダ・フォーリスが動いたということは、主君であり親友でもあったマリアン=ルーヌがアンナを切り捨てたことを意味する。さらに最愛の人まで失っては、アンナにはもはや拠り所となるものがなくなってしまうのだ。
「もちろんだ。私に任せなさい」
タフトもまた、子供をあやすような口調で、涙を浮かべる愛娘に応える。
「このお方は、私との約束をしっかり果たしてくれた。その御恩には報いるさ」
「父さんとの約束?」
「ああ、アンナ。お前を守り抜くという望みだ。この方は……アルディス陛下は最期までそれに応えようとしてくれた。自らの命を失った後まで……!」
「え……どういうこと?」
一瞬、頭の中が空白となった。マルムゼを生み出したのはこの父だ。父は当然、彼の正体が本物のアルディス3世だということを知っている。が、そこに至った経緯を、アンナはまだ父から聞けていない。
「そうだな、昨夜はその話までしたかったのだが……お前にはちゃんと話さいといけないな」
「どう言うことですか!」
タフトは、リュディス=オルスに喰ってかかる。彼に対して、ここまで感情的な声を出してしまったのは初めてだ。正統な血筋の後継者に対し、それなりに敬意を持った態度をとっていたのだが……。
「どうと言われてもな。来月、アルディス3世による親征がある。ちょうどいい機会だ。前線で彼奴を殺す」
「早すぎます……! 決起は早くとも2年後というお話ではありませんか!?」
「状況は常に変わっている。すでにこちらの手駒は揃っているのだ。今回の親征こそ千載一遇の後期ではないか」
「それは……そうですが……」
それでは困るのだ。タフトは心の中でつぶやいた。
この男に秘密で用意している亡命ルートはまだ完成していない。娘と……その恋人であるアルディスを安全に国外へ逃すためには、まだやらなければならないことがいくつもあった。
数年前より、錬金術に魅せられたエリーナは、工房で助手の真似事を始めていた。そこで、視察に来たアルディス3世と出会い、恋に落ちた。当然タフトも最初は猛反対したが、それを押し切って2人の仲は急速に深まっていった。やがてついには彼の寵姫に選ばれ、宮廷に出仕する身となったのである。
事ここに至って、タフトは内心で復讐を完全に放棄した。むしろ娘の恋人たる皇帝を、リュディス=オルスの魔手から守り、生かす手立てを考え続けている。
「あの影武者も、はやく玉座に着かせろ、贅沢をさせろとうるさいのだ。前世の記憶などないはずなのに、魂まで卑しいことと言ったら……」
リュディス=オルスはそう言ってせせら笑う。かつてタフトがエリクサーに溶かし込んだ偽帝の魂。それを使い、この男はひとりのホムンクルスを生み出した。"認識変換"の異能を与えたあの黒髪の青年は、いずれ皇帝アルディス3世に成りすまし、帝国を堕落の底へと突き落とす役割を担うこととなっている。
が、彼の出番はタフトが思っていた以上に早くなりそうだ。
「だいたい、貴様にはこの件について文句を言える立場ではないと思うぞ?」
リュディス=オルスの冷たい瞳がタフトを射抜く。
「俺がアルディスの親友を演じながら機を伺い、妹はクロイス派の連中の籠絡に勤しんでいる中、お前は何をしてきた?」
「それは……来るべき日の備え、新型兵器の開発を……」
「そんなものは他の錬金術師に任せておけ!」
怒声が、石造の部屋に響く。
「俺が言いたいのは賢者の石の件だ。いつになったら完成する?」
賢者の石。長らく理論上のみ存在とされてきた純粋な魔力の結晶体だ。初代皇帝リュディス1世より、"百合の帝国"皇帝に受け継がれてきた膨大な魔力は、リュディス5世と皇太子ルディの死によって、その行き場を失った。
彼らの子孫であるリュディス=オルスと妹グリーナは、確かに帝室の魔法を発現させた。が、継ぐべき魔力を継いでいないため、その力は限定的なものとなってしまった。もし彼らが名実ともに玉座に復帰せんとするならばその魔力も得る必要がある。そうリュディス=オルスは考えた。
そこで着目されたのが賢者の石だ。
リュディス5世が有していた魔力は、彼の肉体が滅びた後バティス・スコターディ城に残された。そしてそれは時の移ろいとともに徐々に拡散し、今では帝都全域に滞留している状態であることが、タフトの調査で判明している。これを再び一箇所に結集し、結晶化させ、真なる皇帝リュディス=オルスの奉還する。
この儀式をもって"百合の帝国"の再簒奪を完成させるというのが、復讐者の兄妹が描いた未来だった。
「急げば、生成中の石が崩壊します。その説明は再三させていただいたはずですが?」
「果たしてどうであろうな。お前のことだから、わざと遅らせているのではないかと思ってな」
「何を申されますか!」
「お前、本心では俺の計画人反対だろう?」
ルディの曾孫はタフトを睨みつける。その鋭すぎる目つきは、本当にあの柔和な青年の血筋のものなのかと疑いたくなる。
「俺に従順なふりをして、肝心なことは一切やろうとしていない。ばかりか妨害ばかりする」
「決して、そのようなことは」
「どうかな」
リュディス=オルスの手がタフトの額に伸びた。来た。"感覚共有"の異能……いや彼の場合、紛いものでない天然の魔法が発動する。
「ちっまたこれだ」
が、タフトに触れていた手はすぐに離れてしまった。
「肝心なところを読み取ろうとすると、必ず拒絶が入る。記憶のロック機能とやらか……」
「これについても申し上げたはずです。賢者の石の生成は、世界情勢を左右しかねない禁忌。であるからこそ、誰の手にも渡らぬよう、私自身の手で封印したと」
「それこそが貴様の不忠の証と俺は思っているのだ!」
記憶のロックは、"感覚共有"と"認識変換"の2種の異能を応用させた一種の暗示技術で、帝室の魔法にも存在しないタフトだけの能力だ。タフトにとって誰の手にも渡したくない秘密を、誰にも渡されぬよう封印してしまう。その暗示は非常に深く、タフト自身も思い出すことができない。賢者の石の生成が始まり、あとは見守るのみとなった段階でこの術を使用した。
「それに、貴様の娘の件もある」
「……」
これに関してはタフトも何も言わない。今や彼にとって唯一の泣きどころが娘エリーナの存在だ。
「こちらとしても有益な情報を得られる可能性がある。だから、アルディスの寵姫になることは黙認した。だが近頃の振る舞いは一体何事だ?」
思いもよらないことだったが、娘には政治の才があった。それも、この国の歴史に残るような才だ。
最愛の人である皇帝を支えるべく、エリーナは政治の世界に入った。そして市井の娘として味わってきた貴族による理不尽をただすため、彼らに対抗した。
彼女は真摯で直向きな情熱を燃やす一方で、人を陥れることも厭わぬ冷徹さも持ち合わせていた。この二面性は、魑魅魍魎が跋扈する世界を切り開く2本の剣となり……気がつけばエリーナはフィルヴィーユ派と呼ばれる官僚グループの首領となっていた。
「このまま彼女を成すがままにしておけば、俺が表舞台に立つ前にこの国は再生してしまう。明らかにやり過ぎだ」
国が程よく腐ってなければ、政変は起こせないし、自らの正当性を主張することも難しくなる。
娘の才がリュディス=オルスを焦らせているのだと、タフトは理解した。
「わかるな? これは最後の警告だ」
皇帝の子孫は言う。
「娘を宮廷から呼び戻せ」
「……私が命じたところで、あれは聞かないでしょう」
「それでもだ。貴様ら親娘が、これ以上俺の計画の邪魔をするならば……排除するしかない」
「……」
「遅くとも、ふた月後にはアルディスは死ぬ。それに娘を連座させたくなかろう?」
冷たい瞳は、なおもタフトを顔を突き刺していた。
「成すべきことをなせ。いいな?」
「うおああああああ……!!」
「おさらば」
ウィダスことリュディス=オルスが蹴り飛ばし、皇帝アルディス3世の身体が崖底へと転落する。その様子を、タフトは物陰から息を殺して見ていた。
「……うまくやったのだろうな?」
横にいる男に尋ねる。
「問題ありません。急所は全て外しています。すぐに死ぬことはありせんよ」
軽薄な笑みを浮かべながらそう答える男。多くの者もには、彼が今しがた崖から転落した皇帝と同じ顔に見えている。が、彼を生み出したタフトには、本来の彼の姿……つまり標準的なホムンクルスの肉体である黒髪の青年の姿をしっかりと知覚していた。
「しかし、ゆっくりしている暇はありませんよ。じきに死にます」
まあ、私にとってはその方が都合がいいですが、と付け加えてそのホムンクルス……マルムゼ=アルディスは笑う。
「貴様の言うとおりだ。私は行く」
そう言うとタフトはマルムゼ=アルディスの頭に手をかざす。記憶のロック。"認識変換"の異能を応用して編み出したタフト独自の力で、今この場で起きたことの記憶を封印する。それも固く、このホムンクルスが死ぬまで絶対に思い出さないほどに。
「マルムゼ!……いや、アルディス3世!ようやく貴様の出番だ」
リュディス=オルスがこのホムンクルスを呼んでいる。タフトは彼らに背を向け、崖下への道を急いだ。
今回の遠征でリュディス=オルスはアルディス3世を殺す。それをタフトは全身全霊をもって彼を欺こうとしていた。
まず"認識迷彩"を駆使し、アルディス3世の遠征軍に紛れ込んだ。そして、リュディス=オルスが事を起こす時を見計らっていた。
この男はいつ皇帝を殺すか? 数年間、行動を共にしていたため彼の思考は知悉している。最小限の労力で最大の成果が得られるタイミングを、彼は決して逃さない。
折しも、前線は天候が悪く幾度か豪雨に見舞われていた。本陣近くの川が増水すれば、そこに遺体を投げ込み証拠を隠滅できるはずだ。
となれば、本物のアルディス3世がその軍才をいかんなく発揮し、"獅子の王国"に大勝した直後の大雨。その時こそリュディス=オルスが動く時だ。タフトはそう確信した。
そこまで分かれば、あとは自ずと彼の行動も見えてくる。彼は100年に及ぶ憎悪の意趣返しとして、必ず犯行の場にマルムゼ=アルディスを呼ぶだろう。かの簒奪者の魂を受け継ぐホムンクルスに、その子孫たるアルディスを殺させるのだ。
彼の身体を濁流に投じてしまえば土砂と流木によって死体は砕かれ「アルディス3世の死」と言う事実は隠匿される。その後、あのホムンクルスがアルディス3世を名乗り、偽りの統治で帝国を疲弊させるという算段だ。
タフトはこの犯行を阻む2つの罠を仕掛けた。
ひとつはマルムゼ=アルディスだ。ホムンクルスには、設定されたマスターへの命令に服従するという特性があるが、実はマスター以上に強制権を発動できる者がいる。すなわち、造物主たるタフト自身だ。
タフトは密かにマルムゼ=アルディスに接触し、ひとつの命令を与えた。マスターであるリュディス=オルスがアルディス3世の殺害を命じた場合、彼に致命傷を与えず生かすというものだ。
そして第二の罠は川の流れの制御である。増水前、本陣崖下の川にタフトは細工を施していた。川底に岩を沈めることで増水時の水流を事前に調整したのだ。成人男性ほどの重さの物体が下流へと押し流されず、崖上から死角となる地点に流れ着くように……。
土木技術も錬金術の一部門だ。そして"伯爵"はこの分野の技術に長けていた。
かつてサン・ジェルマン村は彼がもたらした治水技術により、大水から村と麦畑を守っていた。その知識は弟子であるタフトにも受け継がれている。
「うまくいったな……」
崖下に下りたタフトは、そこにアルディス3世の身体が横たわっているのを見つけた。
すぐにタフトは彼に近づく。大丈夫、まだ息はある。が、瀕死だ。あのホムンクルスが急所を外したとはいえ、重傷であることには変わりない。そんな状態であの断崖から蹴落とされたのだ。もってあと数分といったところか。
だが、その数分をタフトなら……サン・ジェルマン伯爵なら、いくらでも伸ばすことができる。彼は懐からエリクサーの入った瓶を取り出した。
* * *
「タフト殿、エリーナを……御息女をお連れした」
軍を抜け出し、前線から戻ってきて数日後、娘エリーナが高等法院によって拘禁された。場所はバティス・スコターディ城だ。
そして第1回の審問の日、アルディス3世の代理人として遣わされたウィダスが面会を求めていることをタフトは察知した。リュディス=オルスが、皇帝に続き娘も亡き者にしようとしていることは明白だった。
「ありがとうございます……陛下」
すぐにタフトは、マルムゼを……アルディス3世の魂と人格を移したばかりのホムンクルスをバティス・スコターディ城へ行かせた。そして彼は、タフトの望み通りエリーナを……正確には彼女の魂を連れ帰ってきた。
「私などが愛してしまったばかりに、彼女を不幸にしてしまった。すまない……」
マルムゼは瓶に詰められた魂の父親に謝罪する。その言葉に対し、タフトは何も返さなかった。
「それで、エリーナをもとに戻すことは可能なのか?」
マルムゼは不安そうに尋ねる。
実は、使用可能なホムンクルスの肉体はもう残っていない。タフトがマルムゼシリーズと名付けた黒髪のホムンクルスたちの予備ボディは全て使用してしまったのだ。今から培養しようとすれば半年以上の時間がかかる、その間にリュディス=オルスに見つかれば、全ては終わりだ。
「理論上は、可能です」
そこで、タフトはもう別の器を使用することにした。タフトが試行錯誤していた時代の産物。プロト・ホムンクルスと名付けた、最初のホムンクルス体だ。金髪の若い女性の姿をしたこの肉体は、リュディス=オルスの妹グリーナで成功例がある。
「しかし、記憶を正しく移すにはいくつか条件がございます……」
グリーナの成功後、研究を進めていたタフトは、生前の人物の記憶をホムンクルスに移すことにも成功していた。今彼が話しているマルムゼこそがその成功例で、彼にはアルディス3世の人格がそっくり移し替えられている。
「条件? なんだ、それは?」
「まずは時間です。かつて、1日でも早い復讐の成就を目指していた私は、焦っておりました。エリクサー内の記憶を肉体に定着させるには、最低でも2年の月日が必要なことがわかったのです」
「2年、か……」
「そしてその2年間、片時も離れず、肉体の体調を管理・維持するものの存在が必要です……」
「なるほど……」
「おそらく私には無理です。すぐにリュディス=オルスに見つかります。もちろん、この古城の工房も使えません」
リュディス=オルスの目の届かぬ所で、眠り続ける彼女を守り、世話をし続けなければいけない。
世間では、さっそくフィルヴィーユ夫人叩きが始まっている。貴族のデマに載せられて、娘が守ろうとしていた平民たちでさえ、彼女を悪逆非道な流血寵姫だと叫んでいる。恐らく、職人街は程なく潰されるであろう。その中心地にある錬金工房とともに。
そんな状況で2年、どうやって娘を守ればいいのか? 頼れる者がいないタフトにはあまりにも難しい難題だ。
「簡単なことではないか」
マルムゼが言った。
「私がいる。私が、2年間彼女を守り続ければいいだけだ」
「なんですと!? ですがしかし……」
タフトはマルムゼをこのまま国外へ逃がすつもりだった。ホムンクルスになったとはいえ、彼を帝国国内に留めておくのはリスクが大きい。"鷲の帝国"のゼフィリアス帝なら、彼を庇護してくれるだろう。
「私が愛した女性だぞ。私が守らなくてどうする!?」
マルムゼは言い切った。力強く。そして、優しく。
その言葉が、タフトを決断させた。
「……わかりました。ならば陛下にやらねばならぬ事がございます」
「何だ?」
「記憶の封印です」
たった今タフトの中に湧き上がった考えだ。
せっかくホムンクルス体に持ち越したアルディスの記憶。それを封じてしまうのだ。
「娘とともにあろうと願うのであるならば、皇帝という地位をお諦めいただきたいのです」
「なるほど、そういうことか……」
もし彼女が再び目を覚ました時、その隣にアルディス3世がいれば、彼女の思考と選択の幅は狭まる。間違いなくアルディスの地位回復を目指した行動を取るであろう。しかし、それで果たして娘は幸せになれるのか?
「そして私も……錬金術師サン・ジェルマン伯爵もまた、娘の前から姿を消しましょう」
この2人がいなくなれば、100年に及ぶ恩讐の歴史から、娘は自由でいられる。自らの望む人生を手に入れられる。
「しかし……エリーナの性格や思考を知らぬわけではあるまい。私やあなたがいなくとも、自らの意思で宮廷へ戻るかもしれないぞ?」
「その時はその時、娘のことを支えて下され」
なるほど。彼の言うことはもっともだ。そうなりそうな予感は確かにタフトにもある。
しかし、選択肢を与えるということが大切なのだ。その中から娘が自らの意思で選び取った運命ならば、それは尊重せなばなるまい。
「支えろ、か。皇帝に向かって……。いや、だからこそその地位を捨てよというのだな?」
「恐れながら陛下、これは私めの復讐でもあります」
タフトは言う。そう、復讐だ。と言っても、100年前の簒奪の責任を、この英明なる子孫に求めているわけではない。
「可愛い我が子を奪った貴方様に対する……ね」
「ははっ、なるほど」
マルムゼは笑った。
「ならば私からもお願いがある。皇帝アルディス3世のあらゆる記憶を封じて構わない。だが、彼女を……エリーナを愛していたという記憶だけは留めてくれないか?」
「それは……」
「頼む。であるならば私はわたしの運命を受け入れよう。すべてを捨て、一人の男として生まれ変わったエリーナを愛し、尽くすことを誓う」
「……かしこまりました」
青年の真っ直ぐな想いを受け止めたタフトは頷いた。
「では陛下。これが呪わしき血族にかける、最後の呪いとなります」
呪い。自分は、簒奪者の血を引く一族を呪詛し続けてきた。復讐を誓い、この一族を滅ぼすためにあらゆる手を尽くしてきた。その呪詛の末に、呪いの一族の青年と愛娘の将来を願うことになるとは……あの日サン・ジェルマン村で慟哭していた自分が知ったらどんな顔をするだろう?
「あなたは新しき生の全てを、この女に捧げていただきます」
エリーナを見る。新たな肉体を娘は目を覚まさぬが、既に魂はそこにあるはずだ。もはや娘でもない。ひとりの女性だ。そして皇帝も間もなく、彼女を愛するだけのひとりの男となる。
「この女の支えとなり、この女が望むものを全てお与えなさい」
ホムンクルスや錬金術に関わる最低限の知識については、封印が解けやすくなるようにしておこう。彼女が必要となった時、いつでも使えるように。
「それが私の……マルムゼの主人たる錬金術師サン・ジェルマンからの命令です」
タフトは、マルムゼの額に手を当て、自らの血に眠る魔力を呼び起こした。
「結果、お前は私や陛下が考えていた悪い予感の通りに動いてしまった。復讐を誓い、宮廷へ戻り……今や討伐令が出される事に……」
100年以上に及ぶ物語が、アンナの出発点と繋がり円環をなす。そこまで語り終えた後、タフトは言った。
「出来ることなら、お前が目覚めた直後に陛下と同じようにあらゆる記憶を封印してやりたかった。そうすれば、帝室の正統性をめぐる陰謀などに巻き込まれず、お前と陛下で新たな人生を謳歌できたはずだ……」
だが、そうはならなかった。状況から察するに、タフトはリュディス=オルスに囚われ、あの古城の尖塔に幽閉されていたのだろう。
そして娘は自身の復讐のため宮廷に戻った。一時は自分の死の原因がアルディスにあると思い込み、彼を憎悪すらしていた。
その様子を、父はあの狭い塔から眺め続けることしかできなかった……。
「そもそも、ホムンクルスにしたこと自体が間違いだった。お前を何としてでも生きながらえさせたい、そう考えてしまったのだ……その先にある過酷な運命など考えもせずに……」
そう悔やむタフトの声音は、沈痛そのものだった。
「私の師であった"伯爵"は、下の世代を復讐に巻き込まぬと誓いながらも、ヴェルを……ユーヴェリーア皇女を実験台として利用した。私も同じ轍を踏んだのだ……」
タフトは娘に向き直る。そして深々と頭を下げた。
「私が抱いた愚かな復讐心のせいで、お前の人生を台無しにしてしまった! 本当に……本当に申し訳なかった」
「父さん……」
ああ、そうか。アンナは納得する。
父は昔から、時おりこういう表情を浮かべていた。
長らく封印されていた帝都の地下道の記憶もそうだ。エリーナは死の間際、賢者の石へと続くあの通路を彼に案内されている。その時の表情も重く暗いものだった。
そして何より、古城の塔で再会した時の姿。ここまでアンナは触れずにいたが、明らかにタフトはあの尖塔から身を投げようとしていた。
百十数年におよぶ凄絶な人生の末、待ち受けていたのは娘の破滅だった。それを知り、思い悩んだ末のあの行動だったのだろう。
タフトの決断があと10分早かったら、あるいはアンナが新型砲の攻略に10分手こずっていたら、2人が再開することは永遠になかったかもしれない。
(でも違う。父さんは気づいていない……)
娘に与えてくれたものの貴重さに。
「顔を上げて、父さん」
アンナは優しく言う。
「悪いけど、父さんの後悔は全くの見当はずれよ」
「何?」
「考えてもみて。父さんがヴェルさんたちの復讐を企てなければ、父さんが職人街を訪れることはなかった。つまり、私は生まれなかったのよ?」
「あ……」
そうなのだ。父が職人街で母と出会わなければ、そもそもエリーナという女性も、その人格を有するアンナ・ディ・グレアンなる存在も生まれてこなかった。
「それに、父さんはヴェルさんのことを恨んでるの?」
「まさか! そんなことは決してない!」
「父さんが私にしてくれたことって、彼女が父さんにしたことと同じでしょう? 死を目前にした私たちに生きるチャンスを与えてくれた。確かに人ならざるものになったかもしれないけど……非死なんていう宿命が付いてきた父さんよりもよっぽどマシじゃない?」
ユーヴェリーア皇女が百年前、父にそんな宿命を押し付けた事をどう考えていたのか、今となってはわからない。
けれど、大切な人を無意味な死から守りたいという、切実な思いがあったのは確かだ。そしてその思いを、間違いなく7年前の父も自分に対して抱いていた。
「だいたい、復讐に他人を巻き込むことの是非を語る資格なんて、私にはないわ。私的な怨恨のために、あらゆるものを利用して、クロイス派を潰したんだもの」
わざと露悪的な言い方をする。
リアン大公、先代クロイス家当主、ラルガ親子、グリージュス公、ゼフィリアス帝、職人街の人々、そして何よりマリアン=ルーヌ女帝……。
あらゆる人間を復讐のために利用してきた。
もしかしたら今の窮地は、そのツケなのかもしれない。けど、それでもアンナは後悔など一切していない。全て、自分で考え、切り開いてきた道だ。後悔などしようはずもない。
そしてそれが出来たのは、父が自分をホムンクルスとして生かしてくれたからだ。
「それとこれは確信してるんだけど……仮に父さんが和の目覚めに立ち会っていて、私の記憶を封印したとしても……平穏な人生なんて絶対に歩まなかったわ! 断言する」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、父に言った。そして、長い長い物語を聞き終えた後の、率直な思いを父に伝えた。
「改めて御礼申し上げます、父さん。私に2度も生を与えてくれて、本当にありがとう」
非死と復讐の100年は、タフトにとっては耐え難いものだっただろう。それを知った上で感謝せずにはいられなかった。エリーナという生、そしてアンナという生を与えてくれた事に。
「……は、はは」
苦笑の類ではあったが、ようやくタフトの口元に笑みがこぼれた。
「全く、お前にはかなわんな。誰に似たことやら」
「それはもちろん、あらゆる陰謀の根源となった稀代の錬金術師サン・ジェルマン伯爵にでしょう?」
「こいつ……!」
タフトはさらに笑う。苦味も愉快さもより深みが増す。
そうだ。父には……百年生きた大錬金術師にはこういう表情の方が似合う。
「おお……」
ひとしきり笑ったあと、タフトはマルムゼの棺に何か変化を見出した様子だった。
「どうしたの?」
「これを見なさい」
タフトは、棺に付けられている計器を指差す。確か、棺内の魔力の強さを示すものだとシュルイーズが言っていたが、詳しい見方までは聞いていない。
「ずっと一定だったものが、かすかに変動している」
確かに言われてみれば、丸い文字盤についている細長い針が前後に振れている。そのリズミカルな動きは、心臓の鼓動みたいだとアンナは思った。
「これはいわば脈動だ」
まさに今、アンナが連想したものと同様のことをタフトは言う。
「脈……彼が息を吹き返したということですか!?」
「ああ。まだごくごく小さな動きだが、次第にもっとわかりやすく針が動くはずだ。こいつを投入して正解だった!」
「こいつ、とは……」
「これさ」
タフトは懐から小さな袋を取り出す。薄手の布で作られたもので、中が透けてほのかな光が漏れ出ている。その光の色に、アンナは見覚えがあった。
「まさか……賢者の石?」
帝都の地下、バティス・スコターディ城の下で生成されている魔力の結晶体と同じ色の光。なぜここにそんなものが?
「ふふ……そういう事。ようやく尻尾を出したわね」
「!?」
いつのまにか、アンナのとタフトの背後に何者かが立っている。ひどく冷たい声。振り返ろうとした時、タフトが小さく叫びを上げる。
「ぐあっ!?」
刃がきらめき、タフト胸から爆ぜるように血が吹き出した。
「父さん!」
アンナは反射的に、タフトをかばうように一歩前へ踏み出た。襲撃者の第2撃が来る。父、それにマルムゼの棺を守る為にも前へ出るしかない。
「ああああああああ!」
渾身の叫びを上げながら、剣を振りかぶる女にぶつかる。
女? そう、女だ。長いブロンドの髪、ルビーのような真紅の瞳。その顔をアンナはよく知っている。毎朝毎夜、鏡を覗くとそこにいる姿だ。
「ポルトレイエ伯爵夫人……ですね?」
相手は体当たりで崩しかけた姿勢を立て直し、すでに剣を構え直していた。
「本当に頭の回転がお早いのね。すぐにその名で呼んでくるなんて」
女は驚きながらも、その驚き自体を楽しむような声で言った。
「父の話を聞き、あなたの正体がわかっていましたので……」
宮廷女官長ポルトレイエ伯爵夫人グリーナ。ダ・フォーリスとともに、女帝の寵愛を独占し宮廷の中心人物となっている女性。今、目の前に立つのは、当然アンナの知る夫人の姿ではない。
が、"認識変換"の異能が存在する以上、自分の記憶や目に見えるものが真実だという保証はどこにもない。そればかりか、彼女はこの異能を使ってずっとアンナのすぐそばにいたのだ。彼女に服装には見覚えがある。戦場視察のために連れてきた官僚のひとり、ビュリー男爵が着ていたものだ。
「あなたの持つ異能は"憑依"でしたね……?」
「異能? 魔法と呼んでほしいわ。私の血が備えてい高貴なる力。あなた方の模造品と一緒にしないでほしいわ」
グリーナは忌々しげに言う。
「この肉体に持ち越すことができた力はそれだけ。けどその成功があったからこそ、あなた方も我々の真似っこができるのよ。感謝なさい」
リュディス=オルスの妹グリーナは、最初のホムンクルスの成功例だ。"憑依"の魔法を利用し、魂の移植が成功させたことがきっかけとなり、父はホムンクルス生成の技術を確立させた。
「その"憑依"の力を使い、ビュリー男爵の肉体を奪った……いいえ、違うわね。恐らく、空っぽのホムンクルス体を用意しておき、帝都を発つ前に私たちの認識を書き換えていたのでしょう?」
「ご明察」
「本物の男爵は?」
「さぁ? 今頃帝都のゴミ捨て場にでも打ち捨てられているんじゃないかしら?」
こともなげにそう語るグリーナに嫌悪感を覚える。彼は財務に長けた有能な人物だった。こんな形で失ってしまうとは……。
「この数日いろいろな事があったけど、どうしてここまで私たちを泳がせていたのかしら?」
単に自分の妨害をするだけならいくらでも機会はあったはずだ。父と自分の接触を望まぬのであれば、気球でサン・オージュに帰還した直後に彼を奪還なり暗殺なりすべきだった。いや、アンナが帝都を発った時点で、側にいたのなら古城へ向かう事自体をいくらでも妨害できたはずだ。
なのに、アンナへの討伐令が出され、こうして逃亡している最中に事を起こすとは、一体どう言うつもりなのか?
「様子を見ていたのよ」
「様子?」
「兄はそこの男から賢者の石の情報を欲しがっていた。けど記憶を封印などという小賢しい真似をしてくれたおかげで尋問もままならない……だから、あなたと接触することで何らかの情報を漏らすんじゃないかと、期待した」
そこまで話すと、グリーナは小さくため息をつく。
「けど情報よりも先に現物が出てきてしまった。それをあなたの手に渡すわけにはいかない。だから、目的を抹殺に切り替えたわけ」
アンナはグリーナと対峙しながらも周囲に意識を巡らす。当の抹殺対象である父はまだ息がある。非死の力を持つ彼への斬撃は致命傷にはならなかった。
だが、非死と不死は違う。タフトは死という生命の結末から完全に無縁となったわけではない。だからこそこの女も抹殺という手段を取ったのだ。
あの傷が悪化しないよう、早めに処置しなければ。
洞窟内にいる他の者たちは……?ビュリー男爵とともにいた官僚たちはいずれも横たわり微動だにしていない。恐らくは誰も生きてはおるまい。
シュルイーズや助手の錬金術師たちは? この位置からだと分かりにくいが、この騒ぎに反応がないと言うことは、官僚たちと同じ運命を辿ってしまったか?
そして、入り口近くにいるはずのゼーゲンや兵士たちはどうしている? 彼女たちが、この女に一方的にやられてしまうとは考えづらいが……。
いずれにしても今の状況の中に、アンナにとって有利な要素は何ひとつない。絶体絶命の状況だ。
「と、話しすぎたわね。あまりのんびりもしてられないの。お父上の命は諦めてくださらない?」
グリーナが剣を構えながら一歩前に出る。切先はまっすぐアンナの胸元に向けられている。
「実のところ、あなたを殺すつもりはないの。兄はあなたの聡明さを買っている。私としても同じプロトホムンクルスの肉体を持つあなたをこんなところで失いたくはないわ。同じ殺し合うにしても、私たちにはもっと相応しい場所があると思うんだけど……」
「ビュリー男爵は……」
「は?」
対峙している相手の言葉を無視して、アンナは自らの言葉を発する。
「とても有能な官僚だった。アカデミーを好成績で卒業し、内務省では地方財政の健全化に従事していたわ。私が顧問補佐として招聘した後も、常に民の暮らしを第一に考えていた」
だからこそ、今回のルアベーズ視察にも随行させたのだ。タフト救出に向かうアンナに変わり、戦場となったルアベーズの実情を見極めてくれるだろう。旧領主の暴政と戦乱で疲弊した土地に、何が必要なのか見極めてくれるだろう。そう確信していた。
「決して……そう決して、馬鹿げた復讐に目を奪われている正統な血筋よりもこの国に必要だった人物よ!」
「死ね!!」
煮えたぎるアンナの激情をそのまま乗せた言葉に対し、グリーナも別の激情をもって応えた。鋭い刃がまっすぐアンナに向かう。アンナはそれを真っ向から飛び込んでいく。
左耳に熱を感じる。一歩踏み込んだことで、グリーナの斬撃は、半瞬だけ拍子がずれた。が、完全にかわすことは出来ず刃が耳を切り裂いたのだ。
「くっ!」
だが、それでも怯まずアンナは前に出る。先ほどと同じ動き。というより、今の状況ではグリーナの懐に潜るしか活路はない。
「馬鹿のひとつ覚えみたいに!」
さっきは一歩後ろへ引いたグリーナだったが今度は、すぐに2撃目を繰り出してきた。が、大振りの連撃は隙が大きく、アンナは難なくかわす事がきでた。そしてそのまま両手を伸ばし、グリーナの剣の柄を抑える。
「くっ……」
剣を奪われまいと、グリーナも両腕に力を込める。抜き身の刃を挟んで、同じ顔を持つ2人のホムンクルスが押し合いの力比べをする。思った通り、彼女はゼーゲンやマルムゼのような武人ではない。ホムンクルスの強靭な肉体を持つとはいえ、戦闘能力についてはアンナと大した違いはない。
ならば勝敗を分けるのは別の要素となる。
「下賤の者が悪足掻きを……」
グリーナは憎々しげな眼差しをアンナにぶつけてくる。睨み合い。そして腕力の押し合い。そのふたつに気が引かれ、グリーナは自らの手がアンナと接していることと、それが何を意味しているかに気づいていない。
「足掻くわよ、いくらでも」
アンナは異能を発動させる。"認識共有"。同時にアンナは、エリーナとしての生が終わるときの記憶を思い返す。
「ひいぃっ!?」
体内を焼き尽くす毒の味と苦痛が、グリーナの心を蝕む。アンナから注意が逸れたその一瞬で、彼女はついにグリーナの剣を奪い取る。
「御免!」
渾身の力で剣を振り下ろす。
が、その一撃がグリーナの身体にぶつかるよりも先に、真横から強い衝撃が襲来し、アンナの身体は吹き飛ばされた。
「きゃあっ!」
地面位突っ伏す。何が起こった? 顔を上げると、自分と同じ顔をした人間が2人に増えていた。グリーナはアンナの投影したイメージにおののき、突っ伏しているが。全く同じ姿の女がアンナに痛烈な体当たりを喰らわせたようだ。
いや、違う。この女もグリーナだ。ゼーゲンが率いる兵士のと同じ軍装。もうひとり紛れ込んでいたのか。それならば、ゼーゲンたちが洞窟の中に来ない理由も説明がつく。
「ふ、ふふ……所詮は付け焼き刃の力。魔法を使った駆け引きを私に挑むなんて浅はかなものね」
もうひとつの肉体に再憑依したグリーナが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「我ら正統な皇族を愚弄した罪は重い。ここで死になさい、アンナ・ディ・グレアン」
終わった。この体勢では防ぎようがない。アンナは反射的に目を閉じた。
「く……シュルイーズ博士、無事か……」
ゼーゲンは、すぐ近くにいるであろう青年博士の名を呼びながら、自らの肉体の状態を確認する。
大きな外傷や出血は無し。両足と右肩に強い打撲。そして腕の動きに連動するように右胸部に鋭い痛みが走る。肋骨をやったか?
いずれも軽傷の部類に入るダメージで、武器を扱えないほどではない。が、戦闘力は大きく削がれただろう。
「博士!?」
いつまで待っても返事がないので改めて呼ぶ。するとかすかな唸り声が茂みの中から漏れてきた。
「は……はい……ここに……」
「大丈夫か!?」
ゼーゲンは枝をかき分けてシュルイーズの身体を抱き起こす。普段からぼさぼさの髪には枝葉や土埃がからみつき、愛用の丸眼鏡は左右のレンズともに大きなヒビが入っている。とてつもなく情けない風体となっているが、この茂みがクッションがわりになったおかげか、案外無事なようだ。
「だいぶ、転がり落ちましたね……」
「ああ。不覚をとった」
二人は斜面を見上げる。ほとんど崖と言っていいほどの急勾配。その上に、ゼーゲンたちが見張り台としていた大岩が鎮座している。二人はそこから落下したのだ。
最初に異変に気づいたのはシュルイーズだった。
彼は洞窟内で、タフトの口述をまとめたメモを整理している最中だった。ふと嫌な予感がして背後を見るとアンナが連れてきた官僚たちが倒れている。1人を除いて。
そしてその1人が、抜き身の剣を手にこちらへ近づいてくる途中であった。それを目撃してしまったシュルイーズはほとんど反射的に洞窟の外へと駆け出したのだ。
「助手や、顧問閣下たちを置き去りにしてしまった……我ながら情けない」
「いや、博士の行動は正しかった。あそこで顧問殿やタフト殿の方へ走っていたら、誰も助からなかっただろう」
アンナとタフトは洞窟の一番奥に安置した棺の近くにいたはずだ。とっさに異変を察知したシュルイーズまでそちらへ行けば袋の鼠となる。それよりも戦うことのできるゼーゲンたちに状況を知らせる方が効率的だったのだ。
「もっとも、出口にいる私も何も出来なかったがな……」
今度はゼーゲンガ自重気味に言った。
洞窟の中から血相を変えて出てきたシュルイーズを見て、ゼーゲンはすぐに動いたのだ。槍を手に、シュルイーズと入れ替わるように洞窟へと飛び込もうとしたその時、予想外の方向から刃が伸びてきて、ゼーゲンの足は一瞬だけ止まってしまった。その一瞬をついて、刃の主人はシュルイーズに切り掛かった。それを守るために、ゼーゲンは彼の体にぶつかりもろとも崖下に転落したのである。
「いつの間にか我々の中に敵が紛れ込んでいたんです。しかも2人。これに対応する方が難しいですよ」
シュルイーズはため息をつく。何が起きているか、彼は性格に洞察できているらしい。
「2人、とは?」
「顧問殿の連れてきた官僚の中にひとり、着ているものから察するに、恐らくはビュリー男爵でしょう。そしてもうひとりは、あなたの部下だ」
馬鹿な、と言いかけてやめる。恐らくは全員、認識を書き換えられていたのだ。刺客を、信頼する部下と信じ込まされていた。
考えてみれば奇妙なことばかりだった。今回の旅の中で、ゼーゲンはビュリー男爵と会話を交わした覚えがない。そして部下の中にもひとり、全く話していないものがいる。そればかりか、彼をルアベーズの戦線に連れて行った記憶すらない。あの時、ゼーゲンは何人の部下を連れて行った? 彼だけはサン・オージュに残っていたのではないか?
「状況から推測するに、妹君でしょう」
妹……リュディス=オルスの実妹グリーナのことか。彼女はその名前のままポルトレイエ伯爵夫人として宮廷女官長の座に収まっているはずだ。
「タフト殿の話によれば彼女の異能は"憑依"です。複数の肉体を瞬時に切り替えながら行動することで、我ら以外の随行員を瞬く間に殺してしまった。恐るべき刺客ですよ……」
「我ら以外、か……」
どこまでが「我ら」に入るか、とゼーゲンは考える。ビュリーと同じところにいた官僚は絶望的だろう。シュルイーズとともにいた錬金術師たちも生き残っておるまい。ゼーゲンの部下は? あの瞬間、他の兵士たちが生きていたか? それともゼーゲンが気づくより先に死出の旅路を強いられてしまったか? とっさの状況だったため確証は持てない。
そして何よりアンナとタフト、そしてマルムゼ。刺客の標的は間違いなくこの3人だ。彼らは無事か?
洞窟から誰も出てきていないということは、中ではまだ戦闘が行われているのだろう。急がねばなるまい。
「博士はここにいろ。顧問殿たちをお助けしてくる」
言うと、ゼーゲンは渾身の力を込めて崖上へと跳躍した。
* * *