気球の追跡行が再開された。
 すでにかなりの距離を離されてしまったが、先ほどまでは白いかすかな円形しか見えなかった気球が、今ははっきりと視認できる。ホムンクルスの強化された視力でなくとも目視が可能だろう。恐らくは、先ほどまで錬金術を用いたカモフラージュが施されていたと思われる。
 それが解かれているということは、高速移動時に身を隠すことができない仕組みなのか、それとも単純に敵が慌てている故だろうか。

 いずれにしても追跡は容易に進んでいた。適度な距離を維持しているため、気球側がこちらに気づいた様子もない。
 さらに伏兵が待ち受けているエリアを切り抜けたのか、敵軍に阻まれることもなく前進できている。

「それで、先ほどの力は一体なんだったのですか?」

 現在の状況にいくらかの余裕を見出したアンナは、改めて尋ねる。

「異能の反転。簡単にいえば、ゼーゲン殿の異能の効果をマイナスに作用させたものです」

 そう答えるシュルイーズは、ゼーゲンの背中に手を回してしがみついていた。ああは言ったものの、アンナ陣営の貴重な頭脳である彼を敵地のど真ん中に置いていくわけにはいかず、ゼーゲンが自分の馬に乗せたのだ。

「先帝陛下に成り代わっていたホムンクルスのことは当然覚えておいででしょう?」
「ええ。それが何か?」

 もちろん覚えている。アルディスの名を騙り、クロイス派の専横を許していた偽物の皇帝。アンナ自身、あの下衆な男に襲われ、マルムゼに助けられたのだ。

「そのホムンクルスは"認識変換"なる異能を使っていたと聞きます。人の認識を書き換える恐るべき力です。この力、マルムゼ殿の異能に似ていると思いませんか?」
「え?」

 マルムゼの異能"認識迷彩"は、なんらかの異変を対象者に察知させないと言うものだ。
 その名が示す通り、確かに人の認識に作用すると言う点では、2人の異能は似ているかもしれない。

「マルムゼ殿の"認識迷彩"が異常を隠す力ならば、"認識変換"は言わば異常を押し付ける力。それは表裏一体の関係であり、作用の原理は同じではないか……? そうバルフナー博士は考えたのです」
「つまり、"認識迷彩"を使えるマルムゼなら、"認識変換"を使用することも可能である、と?」
「はい。異能はかつて存在した魔法を復活させたものとかんがえられます。伝承では炎と氷を自在に操る魔法使いがいたそうですが、温度を操ると言う意味ではこれも2種類の魔法を使うのではなく、1つの魔法の作用する方向性を変えたものなのかもしれません」
「ふうむ……」

 シュルイーズの説明を頭の中で繰り返す。理屈としては確かにわかる。が、先ほどのゼーゲンの殺気が彼女の異能の裏返しというのは今ひとつ理解できない。

「バルフナー博士の仮説を立証するため、私が実験に協力しました」

 ゼーゲンが言った。

「"領域明察"は人間の存在を知覚する異能です。その力を反転させて使用する。最初はなかなかイメージできませんでしたが、苦心の末ようやく体得することができました」
「それが、さっきの……?」
「ええ。領域内にいる全ての存在に、私を知覚させたのです。渾身の殺意とともに」
「あ、なるほど、そういう……」

 この女性は歴戦の戦士だ。そして"鷲の帝国"皇帝の懐刀を務める凄腕の密偵でもある。錬金工房再建のためにこの国に長期赴任することになった時、皇帝に害をなす可能性がある不穏分子を一掃してきたという。
 そんな彼女のとびきりの殺意。それを先ほど、アンナはぶつけられたわけだ。

「後ろ向きに歩く時、私たちは普通の歩く時と同じ筋肉を使います。ただ、動かす方向や順番が異なるだけ。しかもその動作ひとつひとつを意識して行うわけではありません。それと同じと気づいてからは、すぐにコツを掴むことができましたよ」

 ゼーゲンはそう続ける。

(ならば私の"感覚共有"も反転した使い方が……?)

 彼女の説明を聞きながら、アンナは自らの異能の事に思いを巡らせた。