「久しいなアンナ。近頃は全くべルーサ宮に顔を出してくれないじゃないか?」
「大公殿下、ごきげん麗しゅう存じます」
訪問客は、帝都べルーサ宮の主人、皇弟マルフィア大公リアンだった。
「珍しいですね、殿下がこの部屋にお越しになられるなんて」
「我が義姉、女帝陛下への謁見のついでに、な……と言うのは建前で、お前に用があってヴィスタネージュに来たのだ」
「私に?」
「ああ、だがその前に、帝都土産だ」
そう言ってリアンは懐から折り畳まれた紙片を取り出し、アンナに渡した。それが何か、全く予想もつかずも彼女は受け取る。
「なっ……!?」
紙を広げ、視界に飛び込んできた文字にアンナはぎょっとした。
「真珠の間の爛れた日常」「女帝と寵臣たちの愛欲の宴」「女帝と顧問の禁断の愛」……頭痛がするような文句ばかりが並べられている。
「一体なんですか、これは……?」
「最近、帝都で出回っている政治パンフレットさ。政治と言っても、見ての通り低俗な三流ゴシップの類だがね」
「これは、あまりにもひどい……」
パンフレットを受け取ったマルムゼの方がわなわなと震えていた。
「即刻、発行元を突き止め、発禁にしましょう!」
「駄目よ、マルムゼ……こんなもの捨ておきなさい」
「なっ! しかし……」
「今の状況だと、民衆が宮廷に不満を持つのも当然。こんなものでガス抜きができるならば、安いものよ」
エリーナだった頃も、平民の女が寵姫に選ばれたということで、面白おかしく書かれたものだ。
(そういえば、あの時もアルディスは顔を真っ赤にして怒っていた。それを私がなだめたんだっけ)
庶民の言葉まで支配するのは、王のやることではない。それは猜疑にかられた小心者の所業であり、真の王ならばその度量を持って受け入れることが出来るはずだ。
それが、アンナの持論だ。彼女やアルディスが敬愛していた女帝マリアン=シュトリアも似たような言葉を残している。
「……このパンフレットの出どころがわかっていたとしてもかい?」
リアンが尋ねてきた。
「もちろんです。というか、どうせヴィスタネージュでしょう?」
「ははっ察しがいいな」
政治パンフレットを刷るのが、熱意ある政治活動家とは限らない。政敵を貶めるために密かに印刷機と職人を抱えている貴族だっているのだ。
今回の場合、クロイス派か、女帝の存在が気に食わないアルディスの弟妹たちか……。この口ぶりだと、リアンは発行元を知っている。という事は、彼と親しい弟妹たちの誰かかもしれない。
「詳しい話は知らんが、あるツテで三流ゴシップ専門の新聞社が南苑に屋敷を待つ誰かに買収されたという話を聞いたよ。恐らくは彼らの仕業だろう」
「なるほど。南苑は貴族や皇族たちの邸宅が並ぶ区域とはいえ、宮殿の敷地です。その気になれば家宅捜査も出来ますが……やめておきましょう」
試されている。そうアンナは感じた。
もしアンナがこのパンフに怒り狂い、発行元を締め上げるのならば、リアンは彼女を見限るつもりだったのだろう。
それは決して、アンナやマリアン=ルーヌの統治者としての資質を問うための試しではない。皇弟リアンにとって、彼女たちが邪魔者か否かを判別しようとしたのだ。
(この男、何かをやろうとしている……?)
だとすればまずい。この男の下には、革命派の活動家が何人もいる。世の流れが悪い方は流れようとしている今、彼らが騒ぎ出せば、何が起きるかわからない。
「さて、不愉快な話はこれくらいにして、顧問殿に相談があるのだが……」
来た……と、アンナは固唾を飲んだ。
「帝都に劇場を作ってほしい」
「……は?」
リアンの用件は、覚悟していたものとはかけ離れつつも、意表をついたものではあった。
「この非常時にバカな事を言わないでください」
「バカ? 私は至って大真面目に話しているのに心外だな。そもそも私がこんな話をするのは君のせいでもある」
「……どういう事です?」
リアン大公の話によれば、それは職人街の大火まで遡る。
当時、帝都のインフラ事業を手掛けていた先代グリージュス公は、職人街の焼け跡に劇場を建設する話を芸術愛好家の貴族たちに持ちかけたという。
「確かに、そんな話があったと言うのは私も聞いています」
アンナとして目覚めた直後に、この話をマルムゼから聞かされショックを受けたことを思い出した。
「実は私の友人も、その話に出資していたのだ。額面で言えば、彼は最も熱心な出資者だった。だが建設工事はいつまでも始まらず、そればかりかグリージュスやクロイスが私腹を肥やすための拠点として使われていた」
「それはお気の毒ですが……」
「そして、例の事件でグリージュス家の悪事が明るみになった後は、錬金工房の再建ときた。これでは彼は損をしただけではないか」
面倒臭いことを面倒臭いタイミングで言い出したものだ。
もしこの件で、その友人とやらが高等法院に訴えでもしたら余計面倒くさくなる。あの土地を接収し、工房を再建したのはアンナだ。また、現在のグリージュス公であるクラーラは、顧問派にいる。
そして高等法院はクロイス派に属している組織であり、何か問題が起きればアンナたちに不利となる裁定を下すのは目に見えていた。
「あの事件の責任を全うするためにも、顧問派には少し協力していただきたいのだが……」
「はぁ……」
勝手にやってくれ、と言いたい。
こんな時期に、劇場建設など論外だ。公共事業自体は悪いことではない。政府主導で大規模な工事を行えば、その分業者が潤い、経済が回る。
だがそれで作るのが、帝都の庶民にはほとんど縁のない劇場というのはいかがなものか。
庶民の血税で作った豪華絢爛な劇場。そこに着飾った貴族たちが馬車で乗り付ける様を、腹を空かせた民衆が見たら何が起きるか……。
(……いや)
そこでアンナは気づく。
民衆の貴族に対する不満を意図的に煽る。それこそが、秩序よりも混乱を好む皇弟と、彼が庇護する革命派たちが描いている絵図ではないのか? だとしたら、剣呑な殿下だ。これまでは味方につけていたが、今後もそうとは限らない。
「殿下、もしやあなたの狙いは……?」
「狙い? 何のことだい?」
しらじらしくも皇弟はにこやかに微笑み、とぼけて見せた。
リアン大公の要求に対し、アンナは一旦は回答を保留した。
「まぁ、君の立場ではそう言うしかないだろうな」
皇弟は、アンナや時勢に理解を示すような態度を示し、一旦は引き下がった。だが2週間後、さらに驚くべき要求を突きつけてきたのだ。
「バティス・スコターディ城を取り壊せ、ですって……?」
「はい。大公殿下曰く、あの監獄は帝国の負の側面の象徴であり、それを壊し劇場を立てれば帝室の威信は損なわれるどころか、いや増すであろう、とのことです」
「……」
アンナは机に肘をついてうなだれた。
いや、確かにそうなのだ。皇弟の言うことはもっともだ。
あの城は数多の反逆者を囚え、処刑してきた場所だ。何を隠そう、アンナもその1人である。
魔法時代以来の古めかしい外観も相まって、あの建物は帝都市民に好かれていない。
それを取り壊して劇場を中心とした新市街を開発すれば、帝都にの陰が一つ消え、新たな光が生まれるだろう。さすがは帝都に住み、帝都市民からも愛されている皇弟殿下ならではのアイデアだ。
「錬金術の裏事情を知らなければ、私だってそうしたいわよ……」
しかしアンナには、あの城壊せない理由がる。
あそこの地下には賢者の石が眠っているのだ。城の地上部分からは巧妙に隠されたた空間で、淡い光を放つ鉱石が帝都全域の魔力を吸い上げて成長している。錬金工房のバルフナー博士は、生成中の石を工房敷地内に移すことを試みたが、上手くいっていない。下手に動かせば、魔力が暴走し未曾有の災害を引き起こす可能性がある、というのが博士たちの見解であった。
「バティス・スコターディ城は、監督権をめぐって高等法院との係争が続いています。ここに大公殿下も加われば、政局はより混乱するでしょう」
マルムゼの言う通りだ。新たに法務大臣となったラルガと共に、クロイス派の牙城である高等法院の切り崩しを図っているが、今の所うまくいっていない。
そして、今後うまくいく見通しは絶望的だ。あの監獄城の取り合いだけならどうとでもできる自信があった。しかしアンナはこれから、国難を乗り切るためクロイス派の大臣を2人切り捨てるつもりでいる。
対立の激化は必至。そこにリアン大公が入ってくれば、混迷はさらに深まる。いつまでもアンナが取ろうとしている政策に着手することはできない。
手をこまねくうちに、国内には餓死者が溢れ出ることだろう。
「……」
それ避ける道が無いわけではない。
……やはり、それを選ぶしかないのか。
「しかたないわ。マルムゼ、ボールロワ元帥をお呼びして」
「元帥を? ではまさか……」
「かくなる上は、例の計画を実行しましょう」
「本当に、よろしいのですね?」
「九割九分、決めていたことよ。覚悟ができなかっただけ……」
自分に言い聞かせるように、アンナは言う。
「今こそ私の復讐を完遂する。リアン大公が絡んでくる前に、決着をつける!」
例の計画。
それは財務大臣、国務大臣の解任を皮切りに、クロイス公爵の宰相職辞任を要求し、一気に政権を奪ってしまおうというものだった。その際、リュディスの短剣を預かるボールロワ元帥に軍を動員させ、ヴィスタネージュ宮殿周辺に展開させる。ちょうど一年前、アンナとマリアン=ルーヌによって行われたクーデターを再び行うのだ。
「クロイスを失脚させれば高等法院もラルガ侯爵のコントロール下に収めることが可能になる。そうすれば、バティス・スコターディ城だって、地上を大公に、地下を私たちにと折半できるわ」
もちろんそれだけでない、今年の災厄を乗り切る強力な体制を築き上げるためにも必要なことだ。
「上手くいきますか?」
「閣僚の中にも、私たちとの距離を縮めたがっている者もいる。彼らを取り込めば、クロイス下ろしは可能なはずよ。」
そう言いつつ、胸の内には恐れがわだかまる。
2年続けての政変。劇薬だ。女帝の意思にも反するだろう。
出来ることならもっと時間をかけて、穏便にクロイス派の弱体化を進めたかった。今、力ずくでクロイスを排除すれば、大貴族たちとの確執は免れない。帝室から離反した彼らはどうなるか、自領に帰り私兵を動かすような事態になりはしないか?
「マルムゼ、ごめんなさい」
「は、いきなり何を?」
「私がこの体で目覚めた日の夜のこと、覚えてる? あなたは私にリュディスの短剣を見せ、これで軍を動かせと言ったでしょう?」
「ああ、そのようなこともありましたね」
「あの時、私は内乱を起こしかねないその案を短絡的な発想、と一蹴したわ。まさか私自身が似たような方法を選ぶなんてね……」
「その頃とは事情が違います」
マルムゼは首を横に振る。
「今にして思えば、あの時あなた様が選んだ道は正解でした。ほとんど犠牲を出さずに、ここまできたのですから。それに、あなた様のお力で"獅子の王国"との戦争は終わり、"鷲の帝国"のゼフィリアス陛下からの信頼もお勝ち取りになった。当時あなた様が最も恐れていた周辺国の介入もないでしょう」
「マルムゼ……」
「最初にお誓いした通り、私はあなた様と道を共にします。その道が例え『悪』と呼ばれるものであっても、アンナ・ディ・グレアンにとっての正義であるならば」
そう言うとマルムゼは腕を広げ、アンナの体を抱きしめた。アンナも全体中を彼に預け、広い胸板に半身を埋めた。
2人はそのまましばらくの間、抱擁を続けた。
そして、お互いの身体を離すと、ボールロワ元帥とラルガ法務大臣へ召集の使いを出すのだった。
* * *
3週間後。
その日の早朝、ボールロワ元帥は、大規模演習と称して帝国軍第6軍団1万2000と、近衛師団1万、そして精鋭部隊である征竜騎士団1000名をヴィスタネージュ郊外の平原に展開させる。
その配置はさながら大宮殿を敵城に見立てた半包囲態勢であった。しかもこの陣形は演習当日になって初めて発表されたものだ。
元帥からこの布陣を指示された将兵たちから戸惑いの声が上がる。
「閣下。この陣形では、まるで我々が叛ぎゃ……」
「あくまで演習である」
叛逆。その決定的な一言を第6軍団長が発する前に、ボールロワ元帥は遮るように言った。
「顧問殿の承認を得ているし、陛下のお耳にも入っていることだ。貴官らは何の心配もせずともよい」
「いや、しかし……」
「私からもよろしいでしょうか?」
戸惑い顔の第6軍団長の横で近衛師団長が手を挙げた。
「我々近衛師団は昨年、白薔薇の間の政変においてヴィスタネージュの皇宮と各省庁を占拠しました。その行動自体にはなんの恐れも抱いておりません」
彼は、ボールロワ伯爵が師団長だった時に副官を務めていた男だ。自分の上官が、今の情勢下で叛逆を目論むような愚か者ではないことをは知っている。が、それでも納得できないことがあった。
「ですが、作戦目標については明確にしていただきたい。これは一体何を想定した演習なのでしょう?」
「そうです、そこです」
征龍騎士団の隊長も声を上げた。
「昨年のクーデターは皇妃の命令で行われたもので、正当性がございました。此度の演習は、顧問殿の承認を得ていると仰いましたが、それは本当に陛下やこの国のためになることなのでしょうか?」
「無論だ」
ボールロワは答える。
「此度の延伸の目的は治安維持!何らかの理由でヴィスタネージュが混乱状態にあり、陛下の御身に危機が迫った時のためのものである!」
3人の軍団長はごくりと唾を飲み込んだ。
「では、この陣形のままヴィスタネージュに入ること想定せよと」
「そうだ。厚遇や省庁には連絡員を配置している。彼らからの報告次第では突入もありうる。……とはいえ、あくまでこれは演習だ。いつでもそうすることができる体勢をとれるようにしておけば良い」
3人の軍団長はいずれも百戦錬磨の軍人だ。元帥のその一言で全てを察した。
2万数千の大軍が皇宮を半包囲している事が大事なのだ。それだけで、想定される敵は行動をかなり制限されることになる。
そしてこのような演習が将兵にすら事前に通達される事なく、行われるということは、そういうことなのだろう。
これは演習であって、演習ではない。
今日、ヴィスタネージュで何かが起きる。
女帝陛下の身が危うくなる可能性のある何かが……。
「クロイス公爵。陛下はあなた様とお会いにはなりません。何卒お引き取りください」
「それはどういうことか? もしや陛下の御身に何か?」
「いえ、陛下はご健康です。ですが、あなた様にはお会いになりません」
「なんだと!?」
固く閉ざされた謁見の間の入り口で、クロイス公爵は衛兵に行く手を阻まれた。
第二の政変は、昨年の舞台となった白薔薇の間ではなく、この大廊下の突き当たりで行われた。
後年「クロイス事変」と呼ばれる一連の騒動は、こうして始まった。
この日、クロイス公爵はいつも通り女帝への謁見のため朝一番に出仕していた。
数多くの貴族たちの中で、その日一番に女帝に挨拶できるのは、宰相である彼の特権である。だが、この日は違った。
「私は帝国宰相であるぞ! 国事を司るものとして、陛下に拝謁する義務と責任がある、その扉を開けろ!」
クロイスが叫ぶと、扉が開き中から顧問アンナが姿を現した。
「グレアン侯爵!? なぜお前が私より先に謁見の間へ?」
「クロイス公爵、残念ながらあなた様はすでに宰相ではありません。その職務は、女帝陛下の命の元、正式にあなた様から剥奪されました」
「なっ!?」
クロイスの顔が一気に蒼白になった。
「馬鹿も休み休み言え、陛下がなぜそのような……」
「此度の天変地異の責任を取るようにと、そのように仰せです」
「天変地異だと?」
顧問アンナと言い合っていると、背後から声をかけられた。
「クロイス伯爵……」
振り返ると、いつの間にか後ろには、彼の次に謁見する権利を与えられた閣僚たちが並んでいた。そしてさらにその後ろには、数多くの貴族たちが控え、大廊下は人の頭で埋め尽くされていた。
その人数に、クロイスは一瞬たじろいだ。
実のところ、ほとんどの貴族たちにとって、この光景はありふれたものであった。
毎朝この時間の大廊下は、女帝に謁見を望む貴族たちでごった返すのだ。だが、誰よりも早く謁見の間に入り後ろを振り返ったことなどないクロイスはそのことを知らなかった。
「なんだお前たちは……?」
「ブラーレ子爵、お待ちしておりました。どうぞ中へ」
「は?」
アンナが名を呼んだのは、ラルガ侯爵の入閣と同時に法務大臣から宮内大臣に転任したブラーレ子爵だった。
「失礼いたします」
クロイス派の中核メンバーと言われていた子爵は、気まずそうにクロイスの横を通り過ぎ、謁見の前へと入っていく。
「ブラーレ! 貴様どういう……」
「エルゼン公爵、フォルメル伯爵、ラルガ侯爵、ベーステン伯爵、皆様もどうぞ中へ」
名を呼ばれた大臣たちが次々と、ブラーレ子爵の後に続いた。
元々顧問派であったラルガはともかく、外務大臣エルゼン公、海外領土総督フォルメル伯、商務長官ベーステン伯は皆、クロイス派として甘い汁を啜ってきた者たちだ。
後に残されたのは、たった今解任を宣告された宰相クロイス公爵。そしてこれから解任を宣告される財務大臣ベリフ伯爵と、国務大臣ユヴォー侯爵の3人のみであった。
「ク、クロイス公これは一体……」
事情を全く飲み込めないユヴォーは、自分たちの盟主に縋ろうとした。
盟主はこめかみに太い血管を浮き上がらせていた。
「下手に出ていればつけ上がりおって……」
背後には大勢の貴族たちがいる、彼らに見られる中で考えられないほどの侮辱を受けた。帝国貴族の主席として、国の舵取りをしてきた自分を、子爵や男爵たちが嘲笑っている。その認識は、公爵の心の均衡をかつてないほどにぐらつかせた。
そして恥辱に顔
どす黒くしながら、クロイス公爵は咆えた。
「これが貴様らのやり口か、女どもぉっ!!」
* * *
分厚い無垢材の扉に阻まれ、クロイスの声は謁見の間には届かなかった。それでも彼から放たれる怒気は伝わってくるもので、室内に招き入れられたクロイス派の閣僚たちはばつの悪そうな表情を浮かべていた。
「皆様、盟主と袂を分かつ決意をしていただいたこと誠にありがとうございます」
アンナは彼らに頭を下げた。
4人のクロイス派閣僚とは事前に懐柔を進めていたのだ。昨年の政変以来、クロイス公の求心力は低下していたとはいえ、彼らもすぐには盟主を切り捨てる決断はできずにいた。
そこでアンナはかなり思い切った譲歩をしたのだ。
例えばブラーレ伯爵については、元の職務である法務大臣への復帰を認めるほかなかった。アンナとしては、法務省内に汚れた金の流れを持っている彼よりも、公明正大なラルガこそこの職務に相応しいと信じていた。
が、4人の中でもっともクロイス公爵家との繋がりが深い彼を口説き落とすにはこれしかない。
アンナは、最も重要であったバティス・スコターディ城の管轄を正式に帝室に移すことを条件に、彼の要求を全面的に飲んだのである。
外務大臣エルゼン公、海外領土総督フォルメル伯についても、その利権を黙認することにした。彼らは"薔薇の王国"との戦争中に、その地位を利用して私服を肥やしていた形跡があり、マルムゼにその調査をさせていたのだが、これを打ち切ることを仄めかすと、すぐさま顧問派への鞍替えを誓ったのである。
唯一、ほとんど駆け引きなしに裏切りを約束してくれたのがベーステン商務長官だ。彼は物価の高騰に関する陳情を、帝都や諸都市の商業協会から毎日のように受けていたため、帝国の現状に危機感を持つ唯一のクロイス派閣僚であった。
彼に関しては今後も厚遇していくことになるだろう。旧フィルヴィーユ派の官僚と組ませれば、この難局を打開する力となるかもしれない。
「我々とて断腸の思いでした。約束通りの待遇は保証してもらいますぞ」
白々しくもブラーレ伯爵は言った。その太々しさに、やはりクロイスや2人の無能大臣と一緒に切り捨てるべきではなかったか、と思いもした。
しかしこの男の変節がなければ、他の3人も動かなかったであろうから仕方ない。
ブラーレとエルゼン、フォルメルについてはいつか別の形で排除する。腹の底でそう決めつつ、アンナはにこやかに応じた。
「もちろんです。皆様の職務と財産、家紋については保証いたします。引き続き、陛下のためにご奮励ください」
「その陛下ですが……」
ここまでずっと黙っていたラルガが口を開く。
「この部屋にはおられないようですが?」
全員の視線が無人の玉座に向けられた。
「安全を期して、女帝陛下には本日、陛下はこの場にはおわしません。安全を期して、皇妃の村里に待機していただいております」
「皇妃の村里に?」
「はい、皆様にはクロイス公が退去されたあと、村里へ移動していただき、そこで正式に新体制を発足させます」
「つまりそれは……クロイス公が何かを起こす可能性があると?」
「念を入れてのことです、公がそこまで愚かとも私は思っていませんが……」
そのとき、扉の向こうから悲鳴が聞こえた。それも1人や2人ではなくかなりの人数のもので、分厚い扉ごしにはっきりと聞こえた。
「顧問閣下!」
隠し部屋から大廊下の様子を伺っていたマルムゼが、謁見の間に飛び込んできた。
「クロイス公ご乱心。下級貴族に嘲笑された、としてサーベルで切り付けたそうです」
「……そうですか」
アンナは深くため息をついた。
「どうやら、私の期待よりも遥かに愚かな人間だったようですね。クロイス公爵という御仁は」
午前9:30 顧問のアンナより、帝国宰相クロイス公への解任通告。同時に財務大臣ベリフ伯、国務大臣ユヴォー候の解任も通告。
10分後 午前9:40 事件が発生。
「どいつもこいつも儂を愚弄するか! 道を開けよっ!」
人垣が割れた。進む方向に道ができる。それはクロイス公にとってごく当たり前のことだ。
しかし今のそれは、彼への畏怖やクロイス家の威光によるものではない。彼が右手にもつ、血が滴るサーベルを皆が恐れたからに過ぎない。
今や彼は、帝国貴族の盟主ではなくなっていた。不遜にも皇宮の大廊下でサーベルを抜いた凶賊に成り下がっていた。
「衛兵! クロイス公が乱心めされた! 公を取り押さえよ!」
惨劇を目の当たりにした若い貴族が叫ぶ。だが、間に合わない。衛兵が貴族たちをかき分けて騒動の中心に入り込むよりも前に、クロイスの白刃が再びきらめいた。
「この無礼者が!」
勇気ある貴族の眉間が断ち割られると、第二波の悲鳴が巻き起こる。そして貴族たちは一斉に大廊下の出口へ向かって走り出した。
事ここに至り、衛兵は複数人がかりでクロイス公を捕えようとするが、遅かった。今度は大廊下に銃声が鳴り響く。
「公爵閣下!」
どこからともなく武装した兵士の集団が現れた。異変を察知したクロイスの私兵が、隠し通路を通じて大廊下に侵入したのだ。
こういった通路は、ヴィスタネージュの至る所にある。そ俺を利用するのは、何もアンナやマルムゼに限った話ではない。
「ご無事ですか!?」
私兵隊長は、軍歴豊かな壮年の男だった。"薔薇の王国"との戦争でいくつも武勲を重ねたことにより、クロイス公自ら声をかけ、自分の親衛隊長として正規軍から引き抜いたのだ。
彼は、これ以上ないほどの的確な行動で、主君の救出に駆けつけた。
「すぐに南苑の館に戻るぞ。グレアンの小娘と女帝に、正式に抗議する」
「いえ、なりません。郊外にボールロワ元帥の軍が展開しております」
「なんだと!?」
「この騒動が軍に伝われば、元帥はすぐに軍を動かします。南苑に入れば身動きが取れなくなるでしょう。ご領地へお帰りください」
「儂に都落ちしろと申すか?」
「誠に遺憾ながら……」
クロイス公はぎり……と奥歯を噛み締めた。
アンナと女帝に対する怒りは収まりようもないが、衝動を抑え込むだけの余裕を取り戻していた。
「わかった。だが、まずはルコットと合流だ」
ルコットには息子がいる。先帝アルディス3世との間に生まれたドリーヴ大公アルディスが。
母子は今、東苑の寵姫用の館で暮らしている。孫と共に領地へもどり、彼を次期皇帝として擁立する。そして挙兵すれば、現体制を快く思わない貴族たちが呼応するはずだ。そうなれば、正規軍10万とも戦うことができる。
戦争だ! かくなる上は実力をもって、帝国を私物化する小娘2人を討伐するのだ!
* * *
午前10:25宮殿大廊下で変事発生の報告が、ボールロワ元帥に伝えられた。
「馬鹿な……狂ったかクロイス公……」
元帥は思わず口に手を当てて俯く。
「元帥閣下……いかがなさいますか?」
近衛連隊長が上官に声をかける。
「残念だが、もはや演習などと言ってはおられん。全軍、作戦計画に基づき行動を……」
元帥が諸将に指示を出す最中、外で遠雷のような炸裂音が響いた。音の発生源は遠く、天幕に阻まれたこともあり音量そのものは小さかった。しかしそれは深く、低く、軍人たちの腹の底に響いた。
「なんだ今のは?」
「申し上げます!」
兵士が駆け込んでくる。
「ヴィスタネージュにて爆発を確認! 南苑のあたりと思われます!」
「なに!?」
ボールロワ元帥と3人の軍団長たちは、一斉に天幕の外に出た。
宮殿の方角に、一筋の黒煙が昇っているのが見える。この距離であれだけはっきり視認できるということは、かなりの規模の爆発だ。
「陛下の御身が危ない……」
「元帥閣下!」
軍団長たちと目を合わせると、元帥は大きくうなずき、指令を出した。
「全軍、ただちに行動開始! ヴィスタネージュ大宮殿を速やかに制圧し、事態の収集にあたれ!!」
「はっ!」
軍人たちは声を揃えて応答する。
だがこの時、彼らのいずれも気付いていなかった。展開中の征竜騎士団のうち、ダ・フォーリス大尉が指揮する50名の小隊が姿を消していることに……。
* * *
午前11:12 アンナは、マルムゼを伴い南苑に到着した。
「なんと愚かなことを……」
クロイス家の別邸の他、その周囲にあった貴族の居館が黒煙の中に包まれている。
南苑の建物は、もともと謁見に訪れた貴族たちの待機所が発展したもので、ひとつひとつの建物は郊外にある貴族の別邸と比べると小規模だ。したがって庭もそれほど広くはなく、建物と建物の距離も近い。
そのため、クロイス家で発生した火災は近隣の館に燃え広がっていた。
衛兵隊長が、顧問の来着に気がつき部下と共に駆け寄ってくる。
「顧問閣下、このような事態を起こしてしまい大変申し訳ございません」
「状況は?」
「はい。ただいま南苑担当の3隊で消火活動にあたっておりますが、この規模の火災は想定しておらず、他の区域からの応援を呼んだところです」
「錬金工房には連絡しましたか?」
「は? いえ、それはまだ……」
「倉庫に、試作品の大型ポンプがあるはずです、それを使い運河の水を汲み上げなさい」
「はっ! 直ちに」
隊長の横に控えていた衛兵が、すぐさま駆け出した。
もともとエリーナ時代に、前線の陣地構築のために開発したものだ。試作品はうまくいったのだが、貴族の横槍で制式配備を見送られることとなった。以来、倉庫で埃をかぶったままになっているのを、工房再開時に確認している。まさかこんな形で役立つとは思わなかったが……。
「それにしても、一体何が起きたのですか?」
アンナはまだ状況を理解できていない。
大廊下でクロイス公が刃傷沙汰を起こし、彼の私兵が突入した直後のことだ。謁見の間で衛兵に指示を出していた時に、凄まじい轟音が響き、部屋全体が揺れた。大廊下で右往左往していた貴族たちの悲鳴も足音も、その轟音でぴたりと止み、異様な静けさが本殿を支配した。
そして窓から外を見ると、南苑で黒煙がもうもうと立ち昇っていたのである。
「火元はクロイス公爵の別邸。まだ正確なところはわかりませんが、爆発の規模から考えると、地下に大量の爆薬が隠されていたと思われます」
「爆薬……ね」
馬車で南苑に急行する最中、アンナもその可能性には思い至っていた。と言うよりあの轟音を聞き、この黒煙を見れば、それ以外考えられない。
「なぜそんなものをここに……?」
いくらクロイス家の別邸とはいえ、ここは皇宮の敷地内だ。そのような危険物を持ち込むことは当然許されていない。
宰相の権力を使えば、密かに持ち込むことは可能ではあろう。しかし、その理由がわからない。
「まさか、こう言う事態が起きることを予期していたとでも?」
「ありえますな」
ラルガ侯爵が近づいていきた。
彼もアンナを追うように、謁見の間からここに急行したらしい。
「クロイス公たちは姿を消しました。どうやらこの爆発を目眩しに使ったようです」
「私たちの計画が公爵に漏れていたと?」
「いえ、それならばブラーレ伯たちの抱き込みもうまくいかなかったでしょう。公爵自身にとっては不測の事態。ですがそれを予見していた別の人物がいたと考えるのが自然かと」
「なるほど……」
思い当たる人物がいる。ルコットが出産のために隠れ住んでいた別邸の警護役だ。
密かに調査を進めていたマルムゼたちを手玉に取り、コウノトリ……ホムンクルスを用いてルコットの出産を偽装する錬金術師たちの正体を隠し通した、凄腕の密偵。その人物なら、このくらいのことをやってのけても不思議はない。
(だとすれば、その人物の次の一手は……?)
アンナは背筋の悪寒を覚え、東の空を見た。東苑には今、極めて重要な人物が2人いる。
ひとりは寵姫ルコットの館にいるドリーヴ大公アルディス。名目上アルディス3世の遺児であり、クロイス公の実の孫だ。あの赤子は、公爵が挙兵する大義名分となる。
そしてもうひとり、言うまでもなく女帝マリアン=ルーヌ。この混乱に乗じて、クロイス家以外の何者かが彼女を襲撃すれば現政権は大きな痛手を被る。
それはクロイスの一族が代々得意としてきた手口だ。
「陛下が危ない……! 急ぎ東苑へ兵を!!」
「こんな地下通路が残っていたとは……」
午前11:25 クロイス公爵は、私兵たちに警護されながら暗い一本道を進んでいた。
「足元悪く、汚らわしき道をお歩かせになることをお許しください」
「かまわぬ。で、これがルコットの館に続いているのだな」
「はい。顧問もこの道は知らないはずです」
「どういうことだ?」
私兵隊長は説明する。
かつてフィルヴィーユ公爵夫人が、ヴィスタネージュに無数に残されている地下通路の調査を行ったことがあった。
この時、当時アルディス3世の密偵を務めていたウィダスが東苑の調査に協力したのだが、隠し通路の全貌を把握することで夫人の力が強くなりすぎるのを恐れた彼は、意図的にこの通路の存在を隠したというのだ。
「詳しい経緯は知りませんが、顧問はフィルヴィーユ夫人の地図を手に入れているようです」
「それでか。我々の取り決めが、あの女に筒抜けになっていることが何度かあった」
「ですが、その地図にこの通路は記されていなません。寵姫のための館は3つありますが、幸いにもルコット様は、この通路と繋がっている館を選んでいただきました」
「それこそまさに、神が我らを見放していないことの証左であろう」
クロイス公は低く笑った。その声が細い通路に響く。
「それにしても、ウィダスは首尾がよいな」
「閣下がルコット様の護衛をウィダス子爵にお命じになって以来、様々な状況を想定し準備を進めておられました」
「その中には、此度のような変事も含まれていた、ということか」
この通路に入る直前、南苑で巨大な爆発が起きた。衛兵たちがそれに目を奪われる隙をついて、中に入ったのだ。
「子爵は、戦争大臣時代のツテを通じ、新式の火薬を大量に入手されました。それを密かに南苑の館の地下に……閣下には内密にとのことでしたので今日までお話ししませんでした。お許しを」
「よい。この手のことを儂が前もって知る必要はない。下々が自ら行い、儂は結果だけを受け取る。それで良いのだ」
そうやってここまできた。後ろ暗い事の責任を背負う事なく、誰かに任せてきたからこそ、クロイス家はここまで大きくなった。
「ウィダスには相応の報いを与えねばな。そうだ、我が孫が帝位に着いた暁には、元帥に任じよう。先帝陛下は、彼を戦争大臣などという不安定な地位につけたが、あの男には元帥こそふさわしい」
当時ウィダスが元帥になれなかったのは、ウィダスの短剣の紛失という事情があったが、今は違う。マリアン=ルーヌを退位させ、ボールロワから短剣を取り上げれば、彼を元帥につけることに何の支障もない。
「もちろんそれだけでは不十分だ。公爵だ、公爵に取り立ててやる。儂を裏切ったブラーレやエルゼン、フォルメル、ベーステン、それにグリージュス! 彼奴等の所領を没収すれば、新たな爵位に見合う領地も用意できる」
今朝のわずか数時間の間に、クロイス公はあらゆるものを失った。しかしそれでもなお彼には勝算があった。
無能な裏切り者の代わりに、極めて有能な味方を得たのだ。ウィダスがいれば、この後起こるであろう内戦に勝つことも難しくはない。
長年、帝国を牛耳っていた専横者は、今なおもって強気でいた。
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