「久しいなアンナ。近頃は全くべルーサ宮に顔を出してくれないじゃないか?」
「大公殿下、ごきげん麗しゅう存じます」

 訪問客は、帝都べルーサ宮の主人、皇弟マルフィア大公リアンだった。

「珍しいですね、殿下がこの部屋にお越しになられるなんて」
「我が義姉、女帝陛下への謁見のついでに、な……と言うのは建前で、お前に用があってヴィスタネージュに来たのだ」
「私に?」
「ああ、だがその前に、帝都土産だ」

 そう言ってリアンは懐から折り畳まれた紙片を取り出し、アンナに渡した。それが何か、全く予想もつかずも彼女は受け取る。

「なっ……!?」

 紙を広げ、視界に飛び込んできた文字にアンナはぎょっとした。
「真珠の間の爛れた日常」「女帝と寵臣たちの愛欲の宴」「女帝と顧問の禁断の愛」……頭痛がするような文句ばかりが並べられている。

「一体なんですか、これは……?」
「最近、帝都で出回っている政治パンフレットさ。政治と言っても、見ての通り低俗な三流ゴシップの類だがね」
「これは、あまりにもひどい……」

 パンフレットを受け取ったマルムゼの方がわなわなと震えていた。

「即刻、発行元を突き止め、発禁にしましょう!」
「駄目よ、マルムゼ……こんなもの捨ておきなさい」
「なっ! しかし……」
「今の状況だと、民衆が宮廷に不満を持つのも当然。こんなものでガス抜きができるならば、安いものよ」

 エリーナだった頃も、平民の女が寵姫に選ばれたということで、面白おかしく書かれたものだ。

(そういえば、あの時もアルディスは顔を真っ赤にして怒っていた。それを私がなだめたんだっけ)

 庶民の言葉まで支配するのは、王のやることではない。それは猜疑にかられた小心者の所業であり、真の王ならばその度量を持って受け入れることが出来るはずだ。
 それが、アンナの持論だ。彼女やアルディスが敬愛していた女帝マリアン=シュトリアも似たような言葉を残している。

「……このパンフレットの出どころがわかっていたとしてもかい?」

 リアンが尋ねてきた。

「もちろんです。というか、どうせヴィスタネージュ(ここ)でしょう?」
「ははっ察しがいいな」

 政治パンフレットを刷るのが、熱意ある政治活動家とは限らない。政敵を貶めるために密かに印刷機と職人を抱えている貴族だっているのだ。
 今回の場合、クロイス派か、女帝の存在が気に食わないアルディスの弟妹たちか……。この口ぶりだと、リアンは発行元を知っている。という事は、彼と親しい弟妹たちの誰かかもしれない。

「詳しい話は知らんが、あるツテで三流ゴシップ専門の新聞社が南苑に屋敷を待つ誰かに買収されたという話を聞いたよ。恐らくは彼らの仕業だろう」
「なるほど。南苑は貴族や皇族たちの邸宅が並ぶ区域とはいえ、宮殿の敷地です。その気になれば家宅捜査も出来ますが……やめておきましょう」

 試されている。そうアンナは感じた。
 もしアンナがこのパンフに怒り狂い、発行元を締め上げるのならば、リアンは彼女を見限るつもりだったのだろう。
 それは決して、アンナやマリアン=ルーヌの統治者としての資質を問うための試しではない。皇弟リアンにとって、彼女たちが邪魔者か否かを判別しようとしたのだ。

(この男、何かをやろうとしている……?)

 だとすればまずい。この男の下には、革命派の活動家が何人もいる。世の流れが悪い方は流れようとしている今、彼らが騒ぎ出せば、何が起きるかわからない。

「さて、不愉快な話はこれくらいにして、顧問殿に相談があるのだが……」

 来た……と、アンナは固唾を飲んだ。

「帝都に劇場を作ってほしい」
「……は?」

 リアンの用件は、覚悟していたものとはかけ離れつつも、意表をついたものではあった。

「この非常時にバカな事を言わないでください」
「バカ? 私は至って大真面目に話しているのに心外だな。そもそも私がこんな話をするのは君のせいでもある」
「……どういう事です?」

 リアン大公の話によれば、それは職人街の大火まで遡る。
 当時、帝都のインフラ事業を手掛けていた先代グリージュス公は、職人街の焼け跡に劇場を建設する話を芸術愛好家の貴族たちに持ちかけたという。

「確かに、そんな話があったと言うのは私も聞いています」

 アンナとして目覚めた直後に、この話をマルムゼから聞かされショックを受けたことを思い出した。

「実は私の友人も、その話に出資していたのだ。額面で言えば、彼は最も熱心な出資者だった。だが建設工事はいつまでも始まらず、そればかりかグリージュスやクロイスが私腹を肥やすための拠点として使われていた」
「それはお気の毒ですが……」
「そして、例の事件でグリージュス家の悪事が明るみになった後は、錬金工房の再建ときた。これでは彼は損をしただけではないか」

 面倒臭いことを面倒臭いタイミングで言い出したものだ。
 もしこの件で、その友人とやらが高等法院に訴えでもしたら余計面倒くさくなる。あの土地を接収し、工房を再建したのはアンナだ。また、現在のグリージュス公であるクラーラは、顧問派にいる。
 そして高等法院はクロイス派に属している組織であり、何か問題が起きればアンナたちに不利となる裁定を下すのは目に見えていた。

「あの事件の責任を全うするためにも、顧問派には少し協力していただきたいのだが……」
「はぁ……」

 勝手にやってくれ、と言いたい。
 こんな時期に、劇場建設など論外だ。公共事業自体は悪いことではない。政府主導で大規模な工事を行えば、その分業者が潤い、経済が回る。
 だがそれで作るのが、帝都の庶民にはほとんど縁のない劇場というのはいかがなものか。
 庶民の血税で作った豪華絢爛な劇場。そこに着飾った貴族たちが馬車で乗り付ける様を、腹を空かせた民衆が見たら何が起きるか……。

(……いや)

 そこでアンナは気づく。
 民衆の貴族に対する不満を意図的に煽る。それこそが、秩序よりも混乱を好む皇弟と、彼が庇護する革命派たちが描いている絵図ではないのか? だとしたら、剣呑な殿下だ。これまでは味方につけていたが、今後もそうとは限らない。
 
「殿下、もしやあなたの狙いは……?」
「狙い? 何のことだい?」

 しらじらしくも皇弟はにこやかに微笑み、とぼけて見せた。