《 》
彼が呼び掛けても、主人はぴくりとも動かなかった。妖から離れ、主人をそっと地面に降ろす。
《 》
煌が呼び掛けると、主人が微かに呻き声を上げた。
「っ......」
妖が足音を立てずに近づいてくる。
彼は咄嗟に主人の前に立ちはだかったものの、彼らだけでは此奴に敵うはずもない、ということは残酷なほどはっきりと解っていた。
【ソこ、どイて】
彼と妖の目が合った。彼の首筋の毛が一気に逆立って、喉から唸り声が漏れた。
《断る》
挑発的な笑みを浮かべて、彼が答える。妖がつまらなそうに舌打ちをした。と、突然、鋭い爪が目の前を横切り、彼の左の前脚と地面を抉った。鋭い痛みが走ったのも束の間、抉れた前脚がみるみる回復していく。
彼が妖の気を引いている隙に、勝が音もなく妖の後ろから飛びかかったものの、意図も容易く衝撃波に吹き飛ばされてしまった。甲高い悲鳴が、煌と彼のぴんと立っていた耳と尻尾が徐々に下げ、主人と彼との距離が少しずつ縮ませていく。
《 、起きて》
なんとか起き上がった勝の、祈るような声が彼の耳に届いたとき、視界の端で倒れていた主人の右手がぴくりと動いて、姿が消えた。妖が狼狽えるのを見て、彼らはにやりと笑った。
《 、遅いぞ》
煌が妖に向かって歯を剥き出しながら笑った。
《煩いなぁ》
主人が、妖の真後ろに立って溜息を吐いた。
右手の甲についた爪痕のような模様が紅く光り、白狐面の向こうに妖しく覗くのは、彼とお揃いの唐紅の瞳だ。
その姿は、紛れもなく「鬼」そのものだった。
「 、一応選択肢として挙げたが、断じてお薦めはしないぞ」
先生の険しい声が彼の耳に届いた。
2年前、咲羅が妖にやられてすぐのことだ。
「承知の上、覚悟の上です。どうか、この通り」
主人が深々と頭を下げる。先生が、はぁとため息を吐いた。
「確かに、狼鬼の血を分けて貰えば瞬間的に強くなる、ほぼ不死身と言ってもいい。
だが、血を入れる時、血を覚醒させる時、傷を再生させる時、術を使う時......何か行動を起こす度に、お前の寿命を差し出していくということだ。また一度血を入れると二度と抜けない、後戻りはできない。人の身を捨てることにもなる。それでも......やるというのか......?」
「ええ。勿論です」
主人がニコリと笑った。
嗚呼、この人は。本当に、妖を倒すことに全てを捧げているのだ。
先生の目を真っ直ぐ見つめ返す瞳を見て、どうしようもない無力感に襲われたことを、今でもよく覚えている。
【刀は抜カなイのカ?】
「いや必要ないっしょ」
主人は音もなく、目にも留まらぬ速さで妖の顎に飛び蹴りを食らわせた。骨が砕けるような音がして、妖の頭がぐらりと揺れる。
主人が楽しそうに笑って、妖の鳩尾に回し蹴りを打ち込む。妖は両腕で抱えられないほどの大木を何本も端折りながら吹き飛ばされ、血を吐いた。それを主人がしつこく追い回す。
勝が応援に入ろうとするのを、彼と煌が慌てて止めた。
《巻き込まれるぞ、死にたいのか?》
《巻き込まれるぞって、何に》
《 と妖のたたかいに、だよ》
勝が脚の力を抜いたのが分かった。
妖がもう一度此方に吹き飛ばされてきて、彼らはびくりと身を竦ませた。
「頼める?」
主人のその声が彼らの耳に届いた瞬間、彼らもまた目にも留まらぬ速さで妖に向かっていく。
煌と勝が妖の腕に噛み付き、彼は後ろから首に噛み付いて妖を地面に叩きつけた。
空中から妖の胸に向かって刀を突き出す主人の唐紅の瞳がみるみる元に戻っていく。
ガァン、というような金属音が辺りに響き渡って、主人の刀はしっかりと妖の心臓を貫いていた。
主人は一瞬驚いたように目を見開いた後、目を閉じてふぅと息をついた。
《 、生きてる?》
彼が木にぐったりと寄り掛かり、座り込んだ主人に声を掛けた。
《なんとか》
主人の心の声が聞こえてきた。
《やっぱり声出ない?》
勝がヒョッコリと隣から顔を出した。
《全然出ない、まぁ喉が潰れてる訳だからね》
うーわ、痛そう、と声を上げる勝に、主人の隣で腹這っていた煌が静かに話しかけた。
《勝、お前怪我は?》
《ぜーんぜん平気だよー》
いつものように軽い答え方に、彼と煌は揃ってふっと笑った。
《あ、そうだ、お前ら》
主人が思い出したように顔を上げた。
《洞窟の中見てきてくれる?》
《財宝が埋まってるかどうか?》
煌が珍しく冗談で返した。
《違う》
《はいはい、ご遺体と遺品の有無ね》
《ん。頼む》
彼らは見えない号令がかかったように
同時に立ち上がると、洞窟の中へ音もなく歩いて行った。
湿っぽい洞窟の中を10米ほど進むと、着物や武器が堆く積まれていた。様々な人間の匂い、そして大量の血の匂いに、鼻の良い彼は目眩さえ憶えた。
隣に目をやると、煌と勝が目を見開いて、着物と武器の山の一番上を見ていた。
《ろ、うき、これ》
つかえながら呟いた煌の目線を辿って、彼も目を見開いた。
裏葉色の羽織、呂色の薙刀。
血が付いて汚れてはいるが、見間違う訳がない。
間違いなく、主人の同期のものだ。
静かに息を吐いた。
《ここにいたんだな、 。久しぶり》
他の着物や武器を傷つけぬよう、慎重に羽織と薙刀を咥えた。
彼の瞳から一筋、涙が溢れた。
《 、ねぇ、見つけたよ》
大きな声をあげながら、勝がタカタカと走っていく。
洞窟の出口で、主人は催眠術にでもかかったかのように突っ立っていた。
彼が羽織を、そして煌が薙刀を地面に降ろすと、煌は淡々と報告をした。
《ご遺体はなし。遺品はかなり沢山あったかな。今は のだけ持ってきたけど、他にも結構着物とか武器とかがあった。全部 と同じように討伐に来てやられた奴なんだったら、彼奴相当な数食ってたぞ》
《了解、ありがとう》
静かに呟いてから、主人は震える手で羽織を自分の方に引き寄せた。そのまま、ぎゅっと抱きしめる。
《おかえり》
雫が主人の頬を伝って、裏葉色の羽織に水玉がじわりと拡がっていった。
彼女は、日が暮れかけた中を急いで歩いていた。
アヤカシの残党が残ってるかもしれないから、暗いところに1人で行っちゃ駄目だよ──ふた月ほど前に出会った女の人が言っていた言葉を、彼女は思い出していた。
あの人は、お友達を殺したアヤカシを、ちゃんと倒せたのだろうか。
あの人は無事なのだろうか。
考え始めると止まらなくなって、彼女は更に家に向かう足を早めた。アヤカシが出る前に、ちゃんと家に帰らなければ。そんなことを考えながら、彼女は家までの近道である、薄暗い小道に入った。
彼女が小道の中ほどに差し掛かった時、前から女性が歩いてくるのが見えた。こんな薄暗い時に、これから町に行くのだろうか?彼女はぺこりと頭を下げて、女性の横を通り抜ける。
ザァと風が吹いて、木の葉が舞った。
彼女の姿は、忽然と消えていた。
彼女はハッと目を開けた。
見慣れない木々が、薄暗闇の中で不気味に揺れている。
声を出して助けを求めた方が良いのだろうか。それとも静かに何処かに隠れた方が良いのだろうか。
【こんばんは】
聞き慣れない声が聞こえた。奇妙なほどに澄んだ声。
「あなた、誰......?」
冷たい汗が首筋を伝うのが分かった。
【魔魅。穴熊の妖よ】
その声は、不自然なほどに丁寧に名乗った。
「わたしのこと......食べるの......?」
声が震えた。
【ええ。でも大丈夫、ちゃんと殺してから食ってあげる、だから痛くないわ】
身体の中心がかっと熱くなって、手足の先が急激に冷えるのを感じた。
嫌だ、嫌だ、死にたくない、
食べられたくない、
誰か、助けて。お願い、
わたし、まだ──
目尻から涙が零れた。
助けを呼ぼうにも、声が出ない。
自分で逃げないといけないのに。
足の力が抜けて、立ち上がれないのだ。
ただなんとか息をしながら、座ったまま後ずさっていった。
逃げても無駄よ、という妖の声が、自分の心臓の音の奥に微かに聞こえる。
妖が彼女の首筋に手を伸ばした。
彼女はぎゅっと目を瞑った。
わたしも、食べられちゃうのかな、あの人のお友達と同じで。
そんな考えが、彼女の心の中にストンと音を立てて落ちてきた。
そっか。食べられちゃうのか。
震えた息が、彼女の口から漏れた。
嗚呼、でも、本音を言えば。
もうちょっと、生きたかったな。
彼女の首に、妖の鋭く尖った爪が触れた。彼女は目を瞑ったまま、ぴくりとも動かない。
その瞬間、びりびりと空気が震えるような音が辺りに響いて、妖の動きが止まった。
ウオオオオオオオオオオン!
獣の、力強い、咆哮。
彼女は目を開けた。
妖は、それを聞いてたじろいだ。
彼女の胸に、暖かい光が差した。
誰の声かは分からない。
聞いたことがない声だけど、恐怖は感じない。それどころか、どこか安心するような、その歌声は。
どこまでも気高く、そして、暖かい。
アオオオオオオオオオン!
オオオオオオオオオン!
3種の歌声が、彼女の頬を優しく撫でた。
妖が後ずさる。何かに怯えたように、彼女から離れていく。
ザザザ、と木が揺れるような音がした。その直後に、ダン、と大きな音が真ん前でして、彼女は驚いて目を見開いた。
見覚えのある白縹の羽織が、残光に照らされて目の前で揺れていた。
「千歳!大丈夫、生きてる⁉︎」
振り返り、大声で彼女に呼びかけたのは、紛れもない、あの人だった。
「千歳!大丈夫、生きてる⁉︎」
主人が大きな声で、見覚えのある幼女に呼び掛けた。
幼女は──千歳は、何も言わなかった。ただ、その涙を浮かべた小さな瞳に、再び光が灯っていくのを、彼は確かに見ていた。
「遅くなっちゃってごめんね。勝、狼鬼、千歳頼める?」
《了解》
彼と狼鬼が返事をして、千歳と妖の間に立つ。
主人はヒュウと息を吸い込むと、先に走って行った煌を追って、妖に向かって行った。
彼は、しっかりと頭を上げて目の前の戦いを見守っていた。
「ねぇ、かつ」
震えた細い声が後ろから聞こえて、彼は振り向いた。
「なんでわたしがここに居るって分かったの?」
《 が千歳の声聞きつけたからだよ、それで俺たちも一緒に来た》
千歳はハテナ顔で彼を見た。
「わたし、声出してないよ」
狼鬼も会話に入ってきた。
《心の中で、助けて的なこと言ったんじゃねぇの?》
あ、と千歳が呟く。
「言った......」
《俺たちも心の声は聞こえないからさ、良かったよ が聞き逃さなくて》
《うん》
「うん」
狼鬼と千歳の声が揃った。
「お姉さんはこうと2人で大丈夫なの?」
《いや、あれどう見ても雑魚だし大丈夫だろ》
《狼鬼、雑》
「ザコなの、アレが⁉︎」
《うん》
彼らが話している間に、主人と煌は木々の間を縦横無尽に走り回って妖を錯乱しながら追い詰めていった。
主人がもう一度ヒュウと息を吸い込んで、地面を蹴り上げた。
煌が妖に飛びかかると、唸り声をあげながら首筋に喰らいついた。
【お願 、殺さな で】
妖の悲鳴に近いような、途切れ途切れの叫びが聞こえる。
「あなたはさ、一度でも、人を殺して、罪悪感を感じたことがある?」
主人は空を斬りながら妖に訊く。
妖が黙り込んだ。
心の中で、何か言ったのだろうか。彼には残念ながら解らなかった。
「そうだよね。だったら私はあなたを倒さなくちゃいけない」
白狐面に貼り付いた笑顔に、さっと影がよぎった。
「ごめんね」
生々しい音が辺りに響いて、主人の刀は妖の心臓を貫いた。
主人の瞳は、哀しそうな光を宿して揺れていた。
妖が霧のように消えていくのを見届けてから、主人が彼らの方に駆け寄ってきた。
「大丈夫⁉︎」
「うん」
《怪我もないみたいだよ》
彼が言うと、主人が安心したように肩の力を抜いた。
「お姉さん、ありがとう、わたし......わたし、食べられちゃうかと思った」
再び涙を浮かべる千歳を、主人は優しく抱きしめた。
「良かった......今回は、間に合って」
昇ってきた月の優しい光が、彼らを照らしていた。
千歳を勝が背中に乗せて、彼らは月明かりが照らす中を静かに歩いていった。
「ねえ、お姉さん」
千歳が静かに、主人に声を掛けた。
主人が白狐面の鼻先を千歳の顔の方向に向けて、首を傾げる。
「ん?」
「聞きたいことがあってね」
「うん、良いよ」
千歳が、勝の首筋の毛をぐっと握るのが分かった。
「お姉さんはさ、なんでいつも狐のお面をしてるの?」
主人の身体が、一瞬強張った。
「......それは」
主人の声が震えた。
「......妖の始祖を私たちの組織全員、総力戦で倒したって話したでしょう?......あの時にちょっと、顔に怪我しちゃってね。......怖がられちゃうことが多いから、隠すようになったんだ」
彼は俯いた。
理由がそれだけじゃないことぐらい、ずっと一緒に居たから分かる。あれは、最終決戦の時に妖にやられてできた傷痕だ。主人はこの傷痕を見る度に、一瞬にしてあの壮絶な戦いに身を投げ込まれてしまう。それが辛くて、主人は白狐面を被るようになったのだ。
「......そうだったんだね」
千歳の静かな声で、彼は我に返った。
じゃあ、と千歳は、主人の白狐面に手を伸ばした。驚いたのは主人だけではないはずだ。彼は慌てて振り返った。
止める暇もなく、主人の頬から口にかけて斜めに走った、痛々しい傷痕が露わになった。千歳はぐっと白狐面を握りしめた。でも、その顔は柔らかく微笑んでいた。
「この傷は、お姉さんが頑張ったっていう証なんだね、わたしはお姉さんのこの傷大好きだよ!」
いつも容赦ない周囲の視線に耐え、時には罵声を浴びせられ、表面だけの憐れみを受けて、心を許せる家族と友人までも喪ってしまった主人に、その輝くばかりの笑顔はどのように映ったのだろうか。
主人の瞳が水面のように揺れた。
ふわりと主人が笑ったのが見えた。
「そっか......そうだね、ありがとう」
主人の声が、ほんの数分前よりも格段に柔らかくなっているのを、彼は感じ取っていた。
勝が嬉しそうに目を輝かせるのを尻目に、彼が主人に声を掛ける。
《 、お話中に申し訳ないけど、ちょっと急いだ方が良いと思うな。それから千歳、傷痕隠してたとはいえ、そのお面 の大事なものだから返してあげてくれるか?》
あっ、と千歳が声を上げて、慌てて主人に白狐面を差し出す。主人はありがと、と言って再び面を付けた。
千歳、と主人は声を掛ける。
「お家の人にはいつぐらいに帰るって伝えてあるの?」
「えっと」
千歳が少し考えるような素振りをした後、急に大きな声を出した。
「やばい!」
《いつ帰るって伝えてるんだ?》
狼鬼が早口に言った。
そんなに急かさなくても、と彼は思ったものの黙っていた。
「おひさまが沈みきるまでに帰るって」
「......やばいじゃん!」
《ちょっと飛ばすよ、千歳、ここから家まで何分ぐらい?》
主人が彼らと並んでタカタカと小走りし始めた。
「歩いて10分ぐらいかな......」
《よっし、じゃー1分で着くな》
勝が元気良く声を張り上げる。
「千歳まだちっちゃいんだから、木の上跳んで行くとか言うなよ」
主人が強い口調で制すると、勝は決まり悪そうに訂正した。
《......じゃあ3分》
「よし」
主人が彼の背中にまたがると、彼らはグンと走る速度を上げた。
「お姉さん、わたしちっちゃくないよ」
「ごめんごめん、もう大きいな」
《 、ちっちゃい子には甘いんだよな》
狼鬼がぼそりと呟く。皆が一斉に其方を見た。
「だからちっちゃくない!」
「私は甘いんじゃなくて、優しいんだよっ!」
《荒れてるなぁ......》
彼と勝は、主人と千歳の口撃を受けて耳を後ろに倒す狼鬼を横目に見ながら、呆れたように笑った。
彼は、走っているその先から微かに人の声と匂いが流れてきたのを感じ取った。
《もうすぐだな?》
「うん」
彼の確認に千歳が頷いた。
「狼鬼、もう匂いする?」
《うん、声もするよ》
「そっか、良かった」
緩やかに曲がった細い道を彼らが素早く駆け抜けると、唐突に現れた光に目が眩んだ。
洋燈を持った男性と道の真ん中に居た女性が、此方を見て驚いたように目を見開いた後、ほっとしたような表情になった。
女性の方が大きな声を上げた。
「千歳!」
「お母さん、お父さん」
千歳が勝の背中から飛び降りると、男性と女性の方に転がるように走っていった。
《お父さんとお母さんだね》
勝が柔らかい表情で3人を眺めている。
「そうだね」
主人も嬉しそうだったが、その瞳の中に微かに寂しさと切なさが映り込んでいるのを、彼の目は捉えていた。
彼は居た堪れなくなって目を逸らした。
「お姉さん、ありがとう」
父親と母親のところから此方に戻ってきた千歳が言った。
「うん、良かった、もう大丈夫だね」
「うん」
千歳が嬉しそうに笑った。
「お姉さんは、またザントーを倒しにいくの?」
「うーん、とりあえずさっきのが最後の一体の筈だから、上に報告して......」
「さっきので最後?」
千歳が驚いたように言った。彼らも目玉が飛び出さんばかりに驚いた。
《え、 、どゆこと?》
煌が珍しく混乱したように言う。勝も思い切り目を泳がせている。
「え、言ってなかったっけ?」
《聞いてないよ‼︎》
彼も思わず大きな声を出した。
「 がやられた妖を倒した時に、彼奴がそんな事言ってたんだよ、あと一体だけだ、みたいに」
《え、あんな雑魚が残ることあんの?》
「ただ強いだけの奴が最後に残るとは限んないでしょ、それに彼奴、逃げや隠れは結構上手かったし。妖が言ってたこと10割信じるのもちょっと不安だけどさ」
《ふーん、でも 、もうちょっと早く言って欲しかった》
煌がニコニコと笑いながら主人に言った。
「ごめん」
主人は目が全く笑っていない煌の圧に完全に負けてしおしおと小さくなった。
え、と千歳がまたしても驚いたように声を出した。
「お姉さんたち、お友達を食べたアヤカシも倒したの?」
「勿論」
《かなりギリギリだったけどな》
煌がぼそりと呟いた。
「そうだったんだ、良かった」
「もしかして千歳、気にしててくれてたの?」
主人が驚いたように言う。
ウン、と頷く千歳を見て、彼も驚いた。
「あー、千歳」
少し戸惑ったような声が聞こえて、彼らは一斉に振り向いた。
千歳の父親と母親が、彼らを見つめていた。
「其方の、方?方々?は、えーと、どちら様?」
あ、と主人と千歳が顔を見合わせたが、先に口を開いたのは主人の方だった。
「すみません、申し遅れました」
主人は自分の名前を名乗った後、彼らを指し示して言った。
「で、此奴らは私の仲間、というか友達?です。人を襲ったりはしないのでご心配なく」
「はぁ」
千歳の両親は曖昧に相槌を打った。
「えーと、千歳とはいつから知り合いだったのですか?」
「ふた月ぐらい前からですかね、町で千歳ちゃんと会いまして」
あ、と千歳の母親が何かに気づいたように千歳に訊いた。
「もしかして、千歳が町に行った時に優しくしてくれた女の人って」
「うん、この人」
あぁやっぱり、と千歳の両親は納得したような顔をしている。
彼らは顔を見合わせた。
「えーと、やっぱり、と言いますと?」
「お母さんとお父さんにお話したの、優しくしてくれた、すごく大きないぬを連れたお姉さんがいたって」
「あ、そうなんだ」
「今日、千歳は迷子になっていたんですか?」
今度は父親が主人に尋ねた。
「うーん、まぁ、そんな所です」
主人は言葉を濁して、曖昧に頷いた。
「それで、 さんがここに連れてきてくれたと」
「はい」
「そうだったんですね、ありがとうございます」
「いえいえ、良かったです、千歳ちゃんが無事で」
主人は柔らかい口調で言った。
今度は母親が口を開いた。
「じゃあ、今日はもう遅いですし、またお礼をさせてください」
「お心遣い痛み入ります、でも残念ながら職場の規則上貰ってはいけない決まりなんです、お気持ちだけ頂いておきますね」
主人はやんわりと断った。
ぶんぶんと手を振る千歳と頭を下げる千歳の両親に挨拶をしてから、彼らは揃って、元来た道を引き返していった。
桜が舞う中を、彼女はオオカミ達と一緒に静かに進んでいった。
《 、どこまでいくの?》
勝が訝しげに彼女に尋ねる。
「もうちょっと。随分奥に居るんだな、彼奴ら」
《うーん、確かに遠いな》
煌もうんざりしたように呟く。
彼女と煌が「最後の一体」を倒した後、妖の被害も目撃情報もぱたりと途絶えた。3ヶ月の調査期間が過ぎ、やっと正式に「妖は消滅した」という報告を受けて、彼女たちはここにやってきた。
《これか?》
狼鬼が独り言のように呟く。
「うん、そうだね」
彼女たちが立つその前には、2基のお墓が建っていた。
左側の墓石には咲羅の名前が、右側の墓石には同期の彼の名前が彫られている。
持ってきた切花を2基のお墓それぞれに生けてから、彼女は長いこと手を合わせていた。
《同期のお墓って並んで建ってるものなのか?》
顔を上げた彼女に、煌が尋ねる。
「いや、そんな決まりは無いと思うけど。2人が寂しがるからじゃない?2人ともなかなか寂しがりだし」
《 、2人にぶん殴られるぞ》
狼鬼が笑いながら言った。
桜がひらひらと舞い散るのを、彼女たちは長いこと眺めていた。
「ああ、綺麗」
彼女の口から零れ落ちた言葉に、オオカミ達は驚いた。
《 、いま、》
戸惑うオオカミ達を見て、彼女は不思議そうに眉を顰めた。
「何か?」
《いや、 さ、咲羅がやられた後、桜の絵見るだけでも混乱状態に陥ってたじゃん、あん時は が落ち着かせてなんとかなったけど》
「そういえばそうだったね」
彼女が悲しそうに笑った。
「でもまぁ、咲羅はさ、 もだけど、いつも明るくて、楽しそうだったでしょう?だから記憶に蓋をするんじゃなくて、いつも楽しく思い出してあげたいなってさ、思って」
《ふぅん》
オオカミ達は嬉しそうに相槌を打った。
「何だよ、ニヤニヤして」
彼女が拗ねたように声を尖らせる。
《別にぃー》
オオカミ達は揃ってしらばっくれると、勢い良く立ち上がり、たかたかと仲間達の方に走って行った。
彼女はちらと桜を見上げて、静かに立ち上がった。
「おーい」
不意に、彼女の耳に、懐かしい声が響いた。
「 ......?」
彼女が驚いたように目を見開いた。
何も見えない。ただ、懐かしい、暖かい声はそのまま彼女の中に優しく響いた。
「先に逝っちゃってごめんな。
妖、今度こそ消滅したって?良かった。
生き残ったお前にはさ、これから楽しいことがいっぱいあるだろうし、辛いこともあるかもしれないけど、沢山のこと経験して、俺たちにお土産話どっさり持ってきてよ。楽しみにしてるから。ハル、お前は思いっきり生きてからこっち来いよ。」
彼女の瞳がゆらゆらと揺れた。
静かに白狐面を外すと、ぐいと頭を上げて、空を見上げる。
彼女はふっと微笑んだ。
涙が一筋、零れ落ちた。
「そうだね、ありがとう、弘」
まるで憑き物が落ちたかのように、彼女は心からの笑顔になった。
《ハル、何泣いてんの、楽しく思い出してあげるんじゃなかったのー》
勝の声がした。
「泣いてないよ」
彼女が鼻を啜りながらぼそぼそと呟く。
《俺たちさ、いまそこで咲羅とお話したんだよ》
煌が嬉しそうに尻尾を振った。
「そっか、咲羅はそっちに行ってたんだね」
《ハルも誰かと話してたのか?》
うーん、と彼女は少し考えるような素振りをして笑った。
「内緒」
ええーっ、とオオカミ達は一斉に不満げな声を上げた。
《何でよ!》
「内緒にしときたい話ってあるでしょ、はいはい、そろそろ帰るよ」
彼女が煌の背中に飛び乗って走り出しても、オオカミ達は彼女にしつこく質問を浴びせた。
《大した内容じゃないだろ、教えてよ》
「大した内容じゃなくても!」
《え、じゃあせめて誰と話してたか》
「駄目ーっ」
《ケチーッ》
ははっ、と彼女は軽やかに笑った。
嗚呼、と思う。
空を仰ぎ見たい気持ちになる。
平和って、こういうことなのかもしれないな。
どうでも良いことでやり合って、くだらないことで笑い合える。
あと、8年間。どこまで生きられるかは分からないけど。
寂しさや悲しさに押しつぶされそうになることもきっとあるだろうけど。
とりあえず、なんとか楽しく生きていこうかな。
びゅうと風が強く吹いて、花吹雪が舞った。
軽やかに走っていく彼女たちの後ろ姿を、楽しそうに見守る2人の姿が、春の光の中に見えた気がした。
こんにちは、霜原 佐月です。
最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました!
さてさて、ここで只今お読み頂いた「たたかい」の番外編のご紹介です。
タイトルは、「たたかい 番外編〜天秤〜」
となっております。
「たたかい」本編より少し前の時間を描いたものです。当たり前のような奇跡の結晶を、またハル、弘、咲羅の3人、そしてオオカミたちの、転機、決断、そして旅立ちを、温かく見守って頂けたら幸いです。