――正しい失恋をするには、どうしたらいいんだろう。
 満天の星と満月が照らす海辺の街。
 倉咲(くらさき)一花(いちか)はぼんやりと、そんなことを考えながら歩いていた。

 月明かりが照らす薄暗い小路を、ただ宛もなく歩く。時折風に吹かれて桜吹雪が夜空に舞うさまを、一花はやはりぼんやりと見上げた。

 一花の脳裏には、ついさきほどの残酷な映像が張り付いている。
『――(ゆき)
 自分とは違う、大きく骨張った手。低い声。

 息を吐く。自分の恋人を呼ぶあの切ない声が耳の奥でまだ聞こえてくる。
 ――被害者面だ。
 一花は自分自身にそう思った。
 だって、分かっていたことだ。邪魔をしていたのは一花の方。雪の性格を利用して、残酷なことをしていたのは一花なのだ。
 今日、一花は死にたいくらい自分のことが嫌いになった。
 
 宛もなく歩き続けて辿り着いたのは、細い路地裏の突き当たり。月の光が閉ざされた奥の奥。
 一花の前には、ひっそりとした佇まいの小さなカフェがある。
 外観はまるでおとぎ話に出てくるお菓子の家そのものだ。屋根はチョコレート色で、壁はビスケットのような香ばしい色。ドアノブは木苺のようにまあるく赤いデザインをしている。

 店の前に出された看板には、可愛らしい字体で『Petit cadeau(プティ・カドー)』とあった。

 ここは、一花の幼馴染みが営むパティスリーである。
 迷ったり辛いことがあると、一花は決まってこの場所に来た。勝手に足がここに向いてしまうのだ。

 店の窓からは、優しく柔らかな光が漏れていた。時刻は午後十時過ぎ。もう夜遅いのに、まだ開けているのだろうか。
 一花は店の前で足を止め、囁くように呟いた。
「……(しい)ちゃん……」
 思わず幼馴染みの名前を口にする。じわり、と心が波打った。

 と、そのとき。
 がちゃん、とドアノブが回る音がした。開いたドアからすっと光が漏れ――ドアの隙間から、すらりとした長身の男性が出てきた。

 蓮水(はすみず)椎。
 椎は一花の八つ上の幼馴染みであり、この『Petit cadeau』を営む若き店主でもある。

 椎は店の前に出していた看板を手に取り、店の中に戻ろうとして、足を止める。一花に気付いたのだ。ふたりの視線がかちりと合った。
 店から漏れた明かりに照らされた椎は、一花に気付くと驚いたように目を(みは)った。
「一花……?」
 すっとした輪郭と鼻筋と、切れ長で流れるように美しい二重の瞳。白目は青白く澄んでいて、黒目はまるで黒曜石(こくようせき)のよう。
 黒いパティシエ服を着た椎は、まさにおとぎの国の王子様といった言葉が良く似合う美青年そのものだ。
 黒曜石の瞳がぱちりと瞬く。一花は目が覚めたようにハッとした。
「あ……椎ちゃん、久しぶり」
「あぁ……うん」
 声が少し震えている。突然現れた幼馴染みに、椎も困惑しているようだった。
「もうお店閉めるの?」
 ちらりと中を覗く。客の気配はない。椎は一花の視線につられるように振り返った。
「……まぁ、もう客も来そうにないしな。それより……」
「そっか。じゃあ、仕方ないね。私、帰るね」
 早口で言って、一花は帰ろうと踵を返す。
「一花」
 一歩踏み出した一花を、椎が優しい声で呼び止める。
 どきりとする。
「どうした、こんな時間に」
 一花はぴたりと足を止めた。振り返らないまま、言う。
「……うん。なんとなくケーキが食べたかったんだけど、また別の日に来るよ」
 ケーキを求めてきたわけではないが、まあ食べたくないわけでもないから嘘ではない。
 とはいえ、今はとても喉を通る気はしない。
 俯く一花の前に回った椎の細く長い指先が、すっと伸びる。
「一花」
 椎の指が、そっと花を愛でるような仕草で一花の頬を撫でた。
「泣いてる」
「……え?」
 言われて初めて気が付く。一花は涙を流していた。

  
 
 おいで、という椎の優しい声と手に誘われ、一花は店内に入った。

 店の中は決して広いとは言えないが、アンティーク調のテーブルや椅子がドールハウスのようで可愛らしいカフェだ。
 もともとは椎の母親の趣味でこのような内装になった。今はもう、椎の両親は他界しているが。

 スイーツと紅茶の甘い香りがする。一花はすん、とその匂いを嗅いだ。
「……久々に来た、ここ」 
「……彼氏ができてからは、一度も来てなかったもんな」
「……うん」

 一花が最後にこの店を訪れたのは、椎に恋人ができたと報告しに来たときだ。
 そのとき椎はおめでとう、とはにかんで、同時にもうここには来ない方がいいと言った。幼馴染み同士とはいえ、一人で男に会いに来るのはあまりよくないという椎の配慮だった。

 とはいえ一花は、本音を言えば少し寂しかった。
 一花にとってこの店は、第二の家のようなものだ。両親が共働きだった一花は、学校が終わるとほぼ必ずと言っていいほどこの店に入り浸っていた。
 店にはいつも椎や椎の両親がいて、一緒に遊んだり勉強を教えてもらったりした。
 たまに椎の彼女が来ていたりして、ムッとして帰ったこともあった。懐かしい。
 
 椎の両親が作るスイーツはまるで宝石のように煌めいていて、どれも絶品だった。
 椎の父親はチョコレート菓子全般が得意で、中でもオペラにこだわりがあった。
 母親はフルーツを使ったスイーツ全般が得意で、なかでもレモンタルトは絶品だった。

 もちろん椎が作るスイーツも美味しいのだが、なにぶん彼らが旅立ってまだ日が浅いので、まだまだあの二人の味は忘れられそうにない。
 両親が営んでいたこの店を引き継いで、椎が店主となったのは昨年の秋。それ以降一花はあまり足を運んでいなかった。ちょうど同じ頃、一花に恋人ができてしまったからである。

 入口の正面にあるショーケースには、煌びやかなスイーツたちがまるで宝石のように閉じ込められていた。
「可愛い……」
 苺が鮮やかなショートケーキ、金箔が豪華なオペラに大きな栗が乗ったモンブラン。パステルカラーが可愛らしいマカロンや、バターマドレーヌ、ハニーフィナンシェ、カップケーキまである。
 一年前椎が店を始めた頃より、かなりメニューが増えていた。
「好きなとこ、座ってて」
「うん」

 言われたとおり、猫足のカフェテーブルに腰を下ろし、きらきらとした世界を眺めていると、優しい香りのフルーツティーが一花に差し出された。
 ふわり、と桃の香りが鼻腔をくすぐった。
「……桃だ」
 頬がほころぶ。
「好きだろ?」
「うん。ありがとう、椎ちゃん」
 小さく礼を言うと、一花はそっとティーカップに口をつけた。桃の柔らかな風味が、じんわりと身体をあたためてくれた。
「……美味しい」
 ぽつりと呟くと、椎がにこりと微笑む。
 もうひとくち、と口をつける一花を見て、椎は目を細めた。
「……そうだ。少し待ってろ」
「……?」

 カフェテーブルに置かれたのは、アーモンドが香るミゼラブルと呼ばれるベルギーのケーキだった。一花の大好物である。
「……ミゼラブル……じゃ、ない?」
 形が少し不恰好だ。
「切れ端で悪かったな」
 どうやら失敗作のようだ。
 いつもの一花なら、切れ端だろうとミゼラブルを前に出せばあっという間に機嫌がなおるところだが、今日ばかりは難しい。一花の声はまだ沈んだままだった。
「……ほかのケーキにするか?」
 椎が覗き込むように一花を見る。一花は首を横に振った。
「……ううん。食べる」 
 一花はフォークを手に取った。
 ひとくち頬張ると、アーモンドとバターの濃厚かつ香ばしい味が口の中に広がる。
 驚いた。椎が学生のときに作ってくれたものより、ずっと美味しくなっている。
「……美味しい。椎ちゃん、腕上げたね」
 小さく笑みが漏れた。
「そう?」
 これは、甘いものが好きな雪も好きそうだ。そういえば、雪とはまだ一度もここに来たことはなかった。一花がミゼラブルが好物であることも、まだ話していなかった。
 ふと、恋人のことを思い出して手が止まる。

「……それで、こんな時間になにしてたんだ?」
 しんとした声が降ってきて、一花は顔を上げた。
 椎は自分の分のティーカップを手に、一花の正面に腰を下ろすと、穏やかな声で尋ねた。
「こんな時間にこんな路地裏で」
 時刻は午後十時。たしかにこんな時間に一人で夜道をうろついていたら、問われるのも無理はない。
 一花は一瞬躊躇いながらも、口を開いた。
「……ねぇ、椎ちゃん。失恋って、どうしたらできるかな」
「失恋?」
 椎は怪訝そうに眉を寄せて、一花を見た。
「……そう。失恋」
 ティーカップの中に収まっていたフルーツティーが、とろりと揺らめく。
「……私、失恋したいんだ」
 一花はひっそりと立ちのぼる湯気を見つめた。

 ――一花は、同級生に恋をしていた。
 名前は、門戸(もんと)(ゆき)
 雪は他の男子たちに比べて男臭くなく、物静かで優しい子だった。
 女の人みたいに身体は華奢で、色白で、目元のほくろが色っぽくて。
 中性的で少し頼りなくすら見える雪のことを、一花は入学当初からきれいだな、と思っていた。

 そして、二年生のときに同じクラスになって、三年で席が隣同士になって、少しずつ会話をするようになった。
 雪の柔らかい話し方だとか、笑うと垂れる目元だとか、優雅な横顔だとか、知れば知るほどどんどん惹かれた。

 三年の梅雨前頃には、寝る前に毎日雪を思い出すようになった。
 明日はどんな話をしよう、と考えながら、毎日その明日を待った。

 目が合うと、どきどきした。
 雪と話をした日は、それだけで心が浮わついた。

 雪は、あまり男子と群れるタイプではなかったけれど、そんな彼にも仲のいい男子が一人だけいた。
 同じバスケ部の学生で、名前は青山(あおやま)(あかね)

 ふたりがただの友達ではないということに気付いたのは、梅雨が明けた七月のはじめ。
 文化祭のときだ。
 二日間に渡って行われた文化祭が幕を閉じ、これから後夜祭が始まるというところだった。
 学生も教師もみんな校庭や体育館に出払っていて、校舎内は閑散としていた。

 一花も体育館で同級生のバンドのライブを観劇していたのだが、日が落ちるにつれて少し肌寒さを感じ始めた。
 クラスティーシャツ一枚しか着ていなかった一花は、パーカーを取りに教室へ向かうことにした。

 西陽が差し込んだ教室には、雪と茜がいた。
 教室の中にふたりきり。
 音はない。
 一花はなぜだかその空気の中に飛び込むことができず、ドアの近くで息をひそめるようにしてふたりの様子をうかがった。

 ふと、校庭を眺めていた雪に、茜が近付いた。
 
『なぁ、雪』
 優しい声で、茜が雪を呼ぶ。
 自分が名前を呼ばれたわけでもないのに、一花はどきどきしていた。

 雪は目元をほんのりと赤く染めて、戸惑うように茜を見上げていた。茜も雪を見つめてどこか苦しげな顔をしていて、困惑しているようだった。

 ふたりは触れ合うこともなければ、なにかを話すこともなかった。
 ただお互い、自分の想いに戸惑っているように見えた。
 一花にとってその光景は、絶望だった。
 その日一花は、自分は失恋したのだと思った。

 かちゃん、とティーカップがソーサーに当たって音を立てた。俯くと、フルーツティーに情けない顔をした自分が写った。
「……雪くんと、喧嘩したのか?」
 椎は頬杖をつき、一花を見つめた。白い陶器のような頬に(かげ)が落ちる。
「……喧嘩じゃないよ」
 むしろ、ただの喧嘩ならどれだけよかっただろうと思う。
 沈黙が落ちる。
 かちゃり、と再び音が響く。椎がティーカップをソーサーに置いた。
「一花?」
「……雪くんが好きなのは、やっぱり私じゃなかったの」
 口にすると、その言葉は何十倍もの威力を持っていた。
「でも、雪くんは一花の告白を受け入れてくれたじゃないか」

 一花が雪に想いを告げたのは、文化祭から一週間経った放課後だった。
 帰り道、たまたま駅のホームで居合わせた雪と一緒に帰ることになったのだ。
 一花はそこで、思い切って告白をした。
 といっても、付き合うためではない。一花は、振られるために告白したのだ。
 どうせ雪の中での恋愛対象が女性でないなら、諦めるしかない。それならば、告白して振られればきっぱり諦められると思ったのだ。

 ――けれど。
 一花の告白を受けた雪は、『いいよ』と言ったのだ。
 振られるものと思っていた一花は、予想外の返事に戸惑って、しばらく言葉が出なかった。
 そしてそのまま、一花と雪は付き合うことになった。
 雪のひとことで、一花は救われた。
 一花の予想は間違っていたのだと、心からほっとした。
 茜と雪は、ただの友達だったのだ。当たり前だ。だって、二人は異性じゃない。男の子同士なんだから。
 一花は、そう心の中で何度も言い聞かせて、胸の内にあった違和感を払拭した。

 恋人としての雪はすごく優しくて、かっこよくて、そばにいればいるほど、一花は雪をどんどん好きになった。

 ……でも。
 一花は俯き、涙が落ちるのを堪えるように唇を噛んだ。
「一花」
 椎がそっと一花の頭を撫でた。
「椎ちゃん……」
「うん、ゆっくりでいいから話して。今日、なにがあったんだ?」
 一花はこくりと頷き、息を吐いた。
「今日の放課後……見ちゃったの」

 一花は雪と付き合い始めてからというもの、ほぼ毎日一緒に帰っていた。
 今日の放課後も、いつも通り雪の部活が終わるまで、一花は教室でひとり読書をしながら待っていた。
 しかし、部活が終わる時間になっても雪は教室に来なかった。あらためて時刻を確認するが、やはり部活はとうに終わっている時間だ。仕方なく、一花は雪を迎えにバスケ部の部室がある体育館裏へ向かった。
 今は、行かなければよかったと後悔している。

 一花はそこで、言い争うふたりを見た。
 茜は少し怒っている様子で、雪は困ったように俯いていた。
 一花は足を止め、咄嗟に体育館の陰に隠れながら様子を窺った。
 茜の手が、雪の肩に伸びる。遠目から見ても、それは同級生同士が触れ合うような感じではなかった。
 茜の手はまるで壊れ物を扱うように丁寧で、どこか切実で、焦がれるように雪に伸びていた。
 肩にあった茜の手がすっと上に伸び、雪の頬に触れる。雪は頬に伸びた茜の手を取ると、ゆっくりと顔を上げ――そして、ふたつの影が重なった。
 ――あぁ、やっぱり、と思った。
 雪は、茜と想い合っている。一花に、その心に入る隙はないのだ。
 雪が一緒に帰りたいのは、本当は一花ではなく茜なのだ。本当は毎日部活なんてしてないで、ここでこうして、ふたりで会っていたのかもしれない。
 そんな、黒い感情が一花の心を支配した。
 これまで気付かないふりをしていた現実が、一花の心臓を抉った。
 苦しくて、悲しくて、一花は逃げるようにその場を後にした。

「……どうしても帰る気にならなくて、そのまま海辺を歩いてたら、いつの間にかここに」
「……だったら中に入ってくればよかったのに。女の子ひとりで外に立ってたら危ないでしょ」
 椎は困ったような微笑を浮かべ、フルーツティーのおかわりを一花に差し出した。
「……雪くんね、前に言ったんだ」

 あれはたしか、初めて雪と手を繋いだ日だった。
 ふたりは、付き合い始めてからも付かず離れずの距離感を保っていた。

 隣に感じる雪の気配に気を取られ、ちょっとした段差でつまずく一花に、雪は小さく笑ってそっと手を取ったのだ。
 心のどこかでそういう触れ合いはないものと思っていた一花は素直に嬉しかったし、やはりすごくどきどきした。
 雪の手はさらさらしていて、力を緩めたら簡単に解けてしまいそうだった。まるで、砂のようだと思った。それが危うくて、一花はその手をぎゅっと握り返したのだ。
 そうしたら、雪は唐突に言ったのだ。

 ――どうやったら、普通になれるんだろう、と。
 見上げた雪の横顔は今にも泣き出してしまいそうで、一花は心臓を直で握り潰されたように苦しくなった。

「……たぶん、雪くんはずっと葛藤してたんだと思う。茜くんのことを忘れようとして私と付き合ったけど、それも上手くいかなくて……」
 茜への想いは正しくない。だから断ち切って、普通の恋をしなきゃいけない。
 真面目な雪はたぶん、そう思い込んでいた。

「……どうしよう。私のせい。私が告白なんてしちゃったから、余計に雪くんを惑わせた」
 ぽん、と一花の頭の上に椎が手を乗せた。顔を上げると、椎はひどく優しい顔をして一花を見つめている。一花の涙腺が、さらに緩んだ。
「……一花はただ、好きな人に想いを伝えただけでしょ。雪くんになにかを強要したわけでも、ずるい手を使ったわけでもない。一花が責任を感じることなんて、一ミリもないんだよ」
 一花は捨てられた仔猫のようにしょぼくれた顔で、
「……私は、ふたりの恋を邪魔したんだよ」
 頭上から、小さなため息が聞こえた。
「恋は罪悪……か」
 ぼそりと、椎が言った。
「……え?」
「まったく、一花は優し過ぎるんだ。普通ここは怒るところだぞ」
 とはいえ、初めての恋人が同性のクラスメイトと浮気していたなんて、普通は思わない。相手が女ならともかくだが。完全に心のキャパオーバーだ。
 椎は唇を引き結んだ。
「私……本当は雪くんの気持ちに気付いてたのに、それでも自分を優先した。雪くんが苦しんでること分かってたのに、自分のことだけ考えて……」
 一花の瞳に、まるまるとした雫が盛り上がっていく。
「……じゃあ、一花はふたりにちゃんと結ばれてほしいのか?」
 一花が頷く。椎は思案した。
「……でも、一花がただ別れを告げたとしても、ふたりがすんなり付き合うとは思えないな。雪くんは茜くんへの想いを悪いことだと思ってるわけだし、彼が優しい人ならなおさら、一花への気持ちを利用した罪悪感が大きいだろうから」
 そのとき、一花のスマホが振動した。
「……あ」
 液晶画面を見て、一花はわずかに表情を強ばらせた。一花の表情を見て、椎が尋ねた。
「……もしかして、雪くん?」
「……うん」
 そういえば、今日は一緒に帰る約束をしていながら、一花は先に帰ってきてしまったのだ。そのあと雪に連絡をしていなかったことを思い出して、一花は青ざめた。
 出ようかどうか迷っていると、
「……雪くん、心配してるんじゃないか。声だけでも聞かせた方がいい」
 椎に言われ、一花は仕方なく通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
『あっ! 一花ちゃん!? 良かった……今どこ?』
 出ると、すぐに焦ったような雪の声が聞こえた。
「……あ、えっと……」
 心臓に棘が刺さったように、ちくちくとした痛みが一花を襲う。
『部活のあと教室に行ったらいなかったから……ごめん、俺が遅くなったからだよね』
 一花の胸に罪悪感が積もっていく。
「違うよ。私、その……用事を思い出して、先に帰ったの。私こそ、連絡もしないでごめんね」
 本当のところは用事などないし、まだ帰ってもいないが。
 すると、電波の向こうの雪はほんの数秒黙り込んで、
『……おばさんに連絡したら、まだ帰ってきてないって言ってたよ。ねぇ、一花ちゃん。今どこにいるの?』
 そう尋ねる雪の声はまったく責めるようではなく、陽だまりのように優しい。
「……お母さんにまで連絡してくれたんだ」
 一花の胸に、どうしようもない愛しさが込み上げる。
『……ごめん。心配で気になって……。ねぇ一花ちゃん、今どこにいるの? 迎えに行くから、教えて?』
 じんわりと胸が疼く。雪のこういうところが、一花は大好きだった。
 雪は優しすぎるのだ。雪にとって一花は好きでもない相手のはずなのに、どうしてここまでしてくれるのだろう。
「……あのさ、雪くん。今日――」
 言いかけて、やはり言葉につまる。
『ん? なに?』
「……ごめん。なんでもない」
『ねぇ、一花ちゃん。なにかあった?』
 雪の優しい声に、一花はとうとう泣きそうになる。
「……ううん、なんでもない。もう家に着いたから、本当に大丈夫だよ」
『……そうなの? ……じゃあ、明日の朝、迎えに行くね』
 ――明日。
 なにも知らない雪は、当たり前のようにそう言った。
「……うん」
 辛うじて返事をする。
 明日、ちゃんと終わらせなければならない。一花は息を深く吸い込んで覚悟を決める。
『おやすみ』
 涙を堪えて、最後の挨拶を噛み締める。
「……うん。おやすみ」
 通話を切り、しばらく沈黙する。一花はおもむろに食べかけていたミゼラブルを口に運んだ。
「……泣くか食べるか、どっちかにしなさい」
 椎が呆れたように言う。
「このミゼラブル、やっぱり美味しくない。砂糖と塩の分量絶対間違ってるよ」
「……まったく……」
 椎は怒るでもなく、小さく笑って厨房へ消えていった。
 一花は涙味のミゼラブルを食べ終わると、フルーツティーを飲み干した。
 同じタイミングで、椎が厨房から戻ってくる。まるではかったかのようだ。
「おばさんに電話しておいたから。帰りは送るよ」
 落ち着くまでここにいていい、と言い残し、椎は再び厨房に戻っていった。

 椎に言われてしばらくぼんやりしていた一花だったが、次第につまらなくなってきた。とはいえ、このまま帰るのもなんだか違う。
 一花はこっそりと厨房を覗いた。
 パティシエ服を着た椎は、なにやら難しい顔をしてケーキを作っていた。新しい商品の試作をしているようだ。
 一花はそっとそばに寄った。
「……ねぇ椎ちゃん。ここにいていい?」
 椎がちらりと一花を見る。
 すぐに手元に視線を戻し、
「いいけど、じっとしてろよ」
「分かってるよ」
 厨房の中はしんとしていて、こちこちという時計の音だけが響いていた。
 一花は作業台に手を乗せ、作業する椎の横顔をそっと盗み見る。
 その横顔は、相変わらず息を呑むほど美しい。
 彫刻のように整ったその顔に、一花はかつて憧れていた。
 小さい頃の話だ。当時一花は、大きくなったら椎ちゃんのお嫁さんになる、とまで宣言していた。
 椎は笑って聞いていたけれど、きっと呆れていただろう。
 なにしろ、椎はモテた。
 この整った容姿で面倒見がいいのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 一花はこの初恋がいつ失恋したのか、詳しくは覚えていない。
 だがたぶん、中学生のときだと思う。
 椎が初めて彼女といるところを見たときだ。
 椎には、これまでにも彼女が何人かいたことは知っていた。けれど、知らない女の子と直接笑い合う姿を見たときの衝撃は、幼い一花にとってかなり大きかった。
 それからしばらく、椎とは口を聞かなかった。店にも行かなくなった。

 ふと、疑問が沸き上がる。
「……あれ」
 そういえば、あのあとどうやって仲直りをしたのだろう。
 しかしいくら記憶を辿っても、そのきっかけは思い出せなかった。

「どうぞ」
 目の前に淡いブルーとクリーム色の鮮やかなスイーツが流れてきた。
「……え」
「今月、近所の幼稚園で秋祭りをやるんだが」
「幼稚園?」
「園児たちに振る舞うスイーツを考えてくれって頼まれてるんだ」
「ふぅん……」
 一花は腕を組み、微睡みながら椎の手さばきを見つめた。
 椎の手は、まるで魔法使いの手のようだ。くるくるとしなやかに美しい宝石のようなケーキが出来上がっていく。
「……味見するか?」
「いいの?」
 椎は、完成したケーキをそっと一花の前に差し出した。
 スクエア型をしたふわふわの淡いクリーム色のスポンジケーキの間には、たっぷりとイチゴジャムが詰まっている。スポンジの上には深い藍色のナパージュと、その上に星を象った金粉が散らされている。
「きれい!」
 あまりにも完成されたスイーツを前に、一花はぱっと華やかな声を上げた。
「味の感想もお願い」
 ぱくり、とひとくち頬張る。
「美味しい! スポンジはしっとりとしてるし、このナパージュ、見た目もすごいさっぱりしててスポンジとすごく相性いいよ」
 しかし、椎はうーん、と腕を組んだ。
「……椎ちゃん?」
「なんか足りない気がするんだよな。味はいいんだけど」
 一花はケーキを見下ろした。
「……たしかに、これだとちょっと夏っぽいかも」
「やっぱり?」
「秋祭りスイーツなんだよね……」
「栗とかかぼちゃを入れるかも考えたんだけど、それだとありきたりだし」
「……味はすごく美味しいんだけどな」
 なにが足りないのだろう。一花は考える。
「……あ」
 ハッとした。
「これ、イチゴジャムをリンゴジャムにしたらどう?果肉入りの」
「リンゴか……」
「あと、秋といえばお月見だよね?」
「そうだな」
「このナパージュの中に月を落としたらどうだろう?」
「あぁ、なるほど」
 椎は嬉しそうにスイーツを見下ろした。
「レシピ、考え直すか……」
 それから一時間、椎は新作ケーキのレシピに頭を悩ませていた。気が付けば、日付が変わろうとしていた。
「……もうこんな時間か。付き合わせて悪かった。そろそろ帰ろう、一花。家まで送る」
 椎がハッとしたように顔を上げる。
「あ、いいよ。ひとりで帰るから、私のことは気にしないで」
 一花が言うと、椎は鼻先でぴしゃりと扉を閉じるように返した。
「ダメだ。今何時だと思ってるんだ」
 一花は眉を寄せる。
「べつに、私はもう子供じゃないんだから……」
「もし一人で帰して帰り道でなにかあったら、俺が困るんだ。ほら、行くぞ」
「……う」
 椎が上着を掴み、脇に挟む。そして、もう片方の手を、一花にすっと差し出した。
 一花は戸惑いながらもその手を取り、腰を上げるのだった。

 帰り道、月明かりが照らす海辺を、一花は椎と並んで歩いていた。
 一花は、隣を歩く椎をちらりと見やる。
「……ねぇ、椎ちゃん」
「ん?」
「椎ちゃんって今、彼女いるの?」
 椎はかすかに動揺したように、数度瞬きをした。
「……子供がませたことを聞くんじゃない」
 一花は口を尖らせる。
「だから私、もう子供じゃないってば」
「好きな人に振られてメソメソしてるうちはまだ子供だ」
「……まだ振られてないもん」
 一花が不貞腐れたように言う。それを見た椎は笑った。
 銀色の星が散らばった夜空を見上げ、ぽつりと言う。
「……懐かしいな」
「え?」
「昔もこうして、家に帰っただろ」
「……昔って、いつのこと?」
「……喧嘩したときだよ。一花が拗ねて、いなくなって俺が見つけて家まで届けた」
「え……、そうだっけ?」
 一花は首を傾げた。まったく覚えていない。
 見上げた先の椎は、少しだけ寂しげな顔をして俯いた。
 
 家に着くと、玄関の前で椎が言った。
「……明日、ちゃんと想いを伝えてきたら、一花のためだけのミゼラブル作ってやるよ」
「……塩はなしのやつ?」
 尋ねると、椎が苦笑する。
「当たり前だろ。というか、今日のも入ってないからな」
「……じゃあ、放課後行く」
「朝は?」
「朝?」
「今までと同じ時間の電車か?」
「そうだけど……」
 一花は首を傾げた。尋ねようとしたちょうどそのとき、頭にぽん、と椎の大きな手が乗せられる。
「ん。じゃあおやすみ。腹出して寝るなよ」
「だ……出さないってば!」
 椎が笑う。完全に尋ねるタイミングを逃してしまった。
「ほら、早く中に入れ」
「あ、じゃあ見送るよ」
「ダメ。それじゃ意味ないだろ。玄関に入って鍵閉めるまで動かないからな」
 一花は口を尖らせた。
「……分かった。じゃあ、おやすみ」
 部屋から窓の向こうを覗く。さきほどまで空にあったはずの月は、いつの間にか雲に隠されていた。
 灰色の雲からは、しとしとと雨が降り出している。
 一花の心もまだ曇ったままだ。けれど、放課後学校を飛び出たときよりは、少しだけ気分が楽になっていた。

 翌日の朝、一花はいつものように迎えに来た雪と共に登校した。
 雪は一花の顔を見ると、ほっとしたように微笑んだ。どうやら、相当心配をかけていたらしい。
 家を出てしばらくすると、雪は当然のように一花の手を取った。重なった手のひらから、雪の控えめな体温がじわじわとつたわってくる。
「一花ちゃん、昨日はどこ行ってたの?」
「……昨日は、隣町にある幼馴染みのところに行ってたんだ」
 すると、雪は大きな瞳をさらに大きくした。
「幼馴染み? 一花ちゃん、幼馴染みなんていたんだ?」
「……うん。八個上のお兄ちゃんなんだけど、パティシエをやってて」
「……ふぅん。すごいね」
 雪は小さく相槌を打ったが、そのまま黙り込んでしまった。
 一花はちらりと雪を見る。雪は伏し目がちにゆっくりと瞬きをしていた。
 その横顔を、一花はやはり綺麗だな、と思った。
 雪はたぶん、綺麗でいなければならないと思っている。
 だから、茜ではなく一花を選んだ。綺麗でいるために。正しくあるように。
 気分が沈む。
「……一花ちゃん? どうかした?」
 パッと顔を上げる。雪が怪訝そうな顔で一花を見つめていた。
 ずきん、と胸が痛む。一花は歯を食いしばって、雪を見た。
「……雪くんは、昨日なにしてた?」
「え」
 雪の足がぴたりと止まる。
「昨日、放課後。なにしてたの?」
「なにって……」
 雪はごくりと息を呑んだ。
「……ごめん。実は私、昨日見ちゃったの」 
 そこまで言って雪を見る。雪は目を瞠ったまま、黙り込んだ。動揺が顔にありありと浮かんでいた。
「……ごめん。覗くつもりとかはなくて……ただ迎えに行こうとしたら見えちゃったっていうか」
 雪は青ざめたまま、ぴくりとも動かない。しかし、目を覚ましたように一花を見ると、今度は泣きそうな顔になった。一花の胸が、さらにじくり、と痛んだ。
「……本当にごめんなさい」
 頭を下げる。
 自分の感情にさえ戸惑っているのに、そんな場面を他人に見られたと知ったら、誰だってこうなるだろう。
 一花はおずおずと顔を上げた。
「……あのさ、雪くん。雪くんは、茜くんのことが好きなんだよね……?」
 尋ねると、雪の顔がぴきっと凍りついた。
「違う……」
 雪はか弱い声で否定する。
「雪くん」
「違うよ、なに言ってるの……俺は一花ちゃんの彼氏でしょ?」
 雪は何度も首を横に振って、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「……雪くん、私といるといつも無理してるよ。本当は茜くんと一緒にいたいんでしょう?」
「そんなことない!」 
「……そんなことあるよ」
 今度は一花の声が弱くなる。
「そんなことある。だって雪くん、私といるときはいつも申し訳なさそうだったもん」
「そんなことない。違うよ、一花ちゃん。昨日のは……その、見間違いだから……」
 雪は意地でも認めるつもりはないらしい。
 なんだか虚しくなってくる。
 そんなに否定したら、いくらなんでも茜が可哀想だ。彼はずっと、まっすぐに雪を想っているのに。
「……ねぇ、雪くん。どうして隠すの? どうしてそんなに誤魔化すの? いつまでもそんなことしてたら、茜くんにだって愛想尽かされちゃうよ」
 雪の目が泳ぐ。
「…………俺の恋人は、一花ちゃんだよ」
「……じゃあ、なんでそんな悲しそうなの?」
「悲しくなんか」
「――じゃあ、キスしてよ」
 一花の言葉に、雪はとうとう息をつまらせた。
「私のこと好きなら、今ここでキスしてよ。できるでしょ。恋人同士なんだから」
 泣きそうになるのを堪えながら、一花は雪に言う。
 雪は困ったように俯いた。
 その顔を見て、思い知らされる。
 やはり、無理なのだ。手は繋げても、雪にとって一花はそうしたいと思える相手では――。
「……分かったよ」
 え、と顔を上げると、一花の顔に影が落ちた。両頬に雪のひんやりとした手が伸び、一花は動けなくなる。
「目、瞑って。一花ちゃん」
 雪の顔がじわじわと近付き、一花はいよいよ焦った。
「え、え? まっ……」
 どうしよう、と回らない頭を高速回転させていると、
「――朝から路上で盛るな、ガキが」
 至極不機嫌そうな声が降ってきて、心臓が飛び上がった。
 雪の動きが止まり、咄嗟に身を引いて振り向くと、そこには眉間に皺を寄せた椎がいた。
「椎ちゃん!?」

 じわじわと頬が熱くなる。
 いつからいたのだろう。というか、こんな朝早くに、一体なにをしているのだろう。
 一花は目をぐるぐるとさせながら、椎に尋ねた。
「な、なんでここに……と、というか、いつから!?」
「そうだな……キスしてよ、あたりから?」
 さらりと言われ、顔が爆発するかと思うほど熱くなる。
 雪が一花の手を引いた。
「……一花ちゃん、この人は?」
「……あ、えっと……幼馴染みのお兄ちゃん」
「幼馴染みの……」
 雪は眉を寄せ、訝しむように椎を見ていた。
「一花」
 椎はおもむろに一花の手を引き寄せた。
「えっ……ちょっと」
 掴まれた手首は、少し痛いくらいだった。椎を見上げる。
「……あの」
 雪が口を開く。
「彼女は、俺の……」
「俺の……なに?」
 椎の低い声に、雪は唇を引き結んだ。椎は一花を見下ろし、柔らかく微笑む。どきりとした。
「……ごめん一花。本当は全部聞いてた」
「え……?」
 そう言うと、椎は一花を隠すように前に出た。
「君……雪くん、だっけ? 雪くんはなにかを勘違いしてないかな。君は被害者じゃなくて、加害者だよね?」 
 息を呑む。
 椎は静かに怒っていた。一花は口を噤み、様子をうかがう。
「一花の気持ちを利用して傷付けておいて、この後に及んでまだ一花を利用するつもり? いい加減にしてくれないかな」
 冷ややかな視線で、椎は雪を見下ろした。
「あなたには関係ない」
「一花は俺の大切な幼馴染みだ。昨日だって、泣いて俺のところに来た」
 雪が驚いた顔で一花を見る。
「一花は、傷付いて泣いていたんじゃない。君を傷付けたと言って泣いたんだ」
「え……」
「ち、違うよ……これはその……」
 雪の瞳に溜まっていた涙が、ぽっと落ちた。
「君が泣くな。泣きたいのは、一花の方だ」
「椎ちゃん……」
 一花の瞳に、とうとう涙が滲み出す。一花は俯いた。その瞬間、涙がぼろぼろと溢れ出した。
「悪いけど、浮気男にやる幼馴染みはいないんだ」
「それは……でも俺、一花ちゃんを利用してたわけじゃ……」
 雪は拳を握って、椎に反論を試みる。すると、椎は目を伏せて静かな口調で言った。
「君がどんな重い事情を抱えていようと、自分に好意を寄せる子を騙して利用するなんてことは絶対に間違ってる。君の勝手に、俺の一花を巻き込むな」 
 じっと睨むように椎は雪を見つめた。雪は言葉をつまらせ、硬直した。
「……ごめんなさい……」
 雪は小さな声で謝った。
 一花は目を伏せた。
「……雪くん、ごめんね」
 雪が一花を見る。
「……謝るのは、俺の方だよ」
 一花は首を振る。
「……本当は、前から雪くんの気持ち知ってたの」
「……え、前から?」
「……うん。雪くんも茜くんも、よくお互いを見てたから」
 雪は一花から目を逸らした。
「私、雪くんばっかり見てたから……」
 言いながら、俯く。ごめん、という言葉がもう一度口をついた。
「……それなら、どうして」
 雪は弱りきった声を出しながら、一花の腕を掴んだ。手首を弱々しく掴まれ、胸が鳴る。一花は溢れそうになる想いを堪えて、雪を見上げる。
「……あの日、本当は雪くんを諦めるために告白したの。振られれば、諦められると思って」
 でも、雪は一花を受け入れた。
「そのとき、本当は私がちゃんと断ればよかったんだよね……でも……もしかしたら、私の思い込みだったのかもって、もしかしたら両想いなのかもって、期待しちゃったの」
 一花は拳を握った。声が震える。
 好きだったからこそ、この手が振り解けなかった。
「……ごめん……ごめんなさい。雪くん」
 泣きながら謝る一花に、雪は堪らなくなった。
「……違うよ。謝らないで、一花ちゃん。悪いのは、全部俺だ」 
「……嘘か……お互い様だね」
 想いを偽って、遠ざけて、べつのなにかで埋めようとしている。べつのなにかなんて、あるわけないのに。 
 一花と雪は静かに見つめ合う。そのたったの数秒が、何分にも何時間にも感じた。
 もう、おしまいにしよう、と一花は言った。
 そして、
「……私がなにを言っても、雪くんには届かないかもしれないけど……雪くんは綺麗だよ。雪くんの気持ちは間違ってなんてないよ。好きならちゃんと好きって言った方がいい。好きな人と好きになれるって、奇跡みたいなことだと思うから」
 雪は申し訳なさそうに眉を下げて、そして目を伏せた。瞼が閉じられた瞬間、涙の跡を新たな雫が流れていく。
「……ごめん……」
 一花はできる限りの笑みを浮かべ、首を振った。
「そんな顔しないで。ひどいことをしたのは私なんだから」
「……ごめん、一花ちゃん……ごめん……」
「雪くん、今までありがとう。ふたりの邪魔しちゃって、ごめんね。今度はちゃんと……茜くんに本音を伝えてあげてね」
 最後は笑ってお別れを言えたはずだ。そう、一花は思った。振り向くと、椎はやれやれといった顔をして一花を見つめていた。その眼差しは、太陽のように柔らかくてあたたかくて、一花は涙が出そうになった。

 その日の放課後、一花はひとり裏路地にひっそりと建つ椎の店、『Petit cadeau』へ行った。
 一花の視界は滲んでいた。
 アンティークと宝石のようなスイーツが並ぶショーケースが、きらきらと光っている。
「おかえり、一花」
 厨房から、椎が顔を出した。
「しいちゃあん……」
 椎の顔を見るやいなや、一花はぼろぼろと泣き出した。
「おっ、おい……」
 ぎょっとした顔で、椎が出てくる。
「うわぁぁあん……」
 わんわんと子供のように泣きじゃくる一花を、椎は最初は戸惑っていたものの優しく抱き締めた。
「分かった分かった。まったく……」と、椎はくしゃっと笑う。
「よく頑張ったな、一花」
 一花は椎に抱きついたまま、涙を流し続ける。朝に我慢したぶん、一度堰を切った涙はしばらく止まりそうにない。
 椎はまるで子供をあやすように、抱き締めた一花の背中をとんとんと叩いてくれていた。
「うぅ……」
 ずず、と鼻を啜る。でも鼻水も涙も止まらない。仕方ないから、一花は椎のパティシエ服に顔を押し付けた。
「こら、俺の服で鼻水拭くな」
 バレていた。
 けれど、怒りながらも椎はまだ一花を抱き締めたままでいる。なんだかんだ、こういう面倒見のいいところは昔から変わらない。
 そういえば、昔もこんなことがあった気がする。あれはいつのことだっただろう。
 ぼんやりと考えていると、椎が言った。
「まったく……一花は優し過ぎるんだよ。寝取られた女なら、あの場で雪くんのことを張り倒すくらいじゃないとダメだぞ」
 寝取る、の意味が一瞬分からなかった。理解してすぐに反論する。
「……寝取られてないし。殴るよ、椎ちゃん」
「……殴るのはやめてください」
 一花は小さく笑う。
「……ありがとね」
「……ん?」
 椎が顔を上げる。
「朝、来てくれて」
 椎がいなかったらたぶん、雪と別れることすらできなかったかもしれない。
「……あぁ」
 椎は静かに頷いた。
「……本当は黙って見守ってるつもりだったんだけどな。お前が素っ頓狂なこと言い出すから」
「へ? 素っ頓狂……?」
 どれのことだろう、と顔を上げる。すると、でこをぺしっと優しく叩かれた。
「キスしてとか、軽々しく男に言うんじゃないバカ」
「あっ……あれは、雪くんが全然素直にならないから……」
「だからって、男を煽るようなことは言うんじゃない。危ないだろ」 
「危ないって、なにが?」
 椎に深いため息をつかれた。
「……お前、もう男と喋るな」
「なんでよ」
「バカすぎて引かれるぞ」
「じゃあ椎ちゃんとも話さない」
「俺はもうお前がバカだってことは知ってるから大丈夫だ」
「…………」
 ぐぬぬ、と奥歯を噛む。椎との口喧嘩では、一花は一度も勝ったことがない。
 椎はふっと笑い、一花から離れた。
「ミゼラブル、食べに来たんだろ?」
「あ……うん」
「……ほら、涙拭いたら席に座って待ってろ」 
「うん」
 一花はごしごしと涙を拭うと、一番近くのカフェテーブルにすとんと座る。そうして店内を見渡した。
 泣いたせいで、いつもよりも店が明るく感じる。

 ほどなくして、ことり、と小さく食器とテーブルがぶつかる音がした。
 顔を上げると、椎がいる。目の前にミゼラブルが出された。
「お待たせしました」
 ふわふわのアーモンドが香る鮮やかな黄色をしたスポンジに、濃厚なバタークリームがたっぷりとサンドされている。
 一花はフォークを手に持った。
 食べに来た、なんて言ったけれど。本当はこれっぽっちも食べたいと思わない。
 出されたスイーツをじっと見つめたまま手をつけないままでいると、椎が言った。
「……ミゼラブルって、どういう意味か知ってる?」
 顔を上げる。
「意味……?」
「ミゼラブルは、フランス語で悲惨な、って意味なんだ。ケーキを作るとき、牛乳を水に節約して作ったから、って言われてる」
 へぇ、と乾いた笑い声が漏れた。
「私にぴったりだね」
 自分を優先して、好きな人の気持ちを犠牲にして利用した。そうした結果、悲惨な末路を辿った、一花自身に。
「……でも、ミゼラブルは伝統あるスイーツだよ。スイーツは、世界で毎日生まれては消えてる。残ってい、世界に伝わっているのは、ほんのわずかだけだ。でも……このミゼラブルは、ちゃんと残ってる。それだけ芯がある美味しさで愛されてるってことだ」
 椎の大きな手がくしゃり、と一花の頭を撫でた。そのままわしゃわしゃと犬を撫でるように撫で回す。
「……雪くんは、一花をちゃんと愛してたよ。茜くんへの想いとは少し違った。それだけだ」
 せっかく泣き止んだのに、椎のせいでまた涙が溢れた。
「せっかく泣き止んだのに、また泣くのか」
「泣かせたのは椎ちゃんでしょ……」
「ははっ。それもそうだな」
 椎は呑気に笑っている。
 椎はいつだって、一花の涙腺をコントロールするのが上手い。
 大人で、男臭くなくて、どこか中性的な顔。よく見れば、椎と雪は少し似ているかもしれない。
「……もう」
 頬杖をつきながら、優雅にティーカップを口につける椎と目が合う。
 すると、
「きれいになったな、一花」
「……なにそれ。振られたばっかの女に」
「振られてない。一花は振ったんだよ」
「…………もう、どっちでもいいよ」
 一花は視線をそっと窓へ向けた。可愛らしい格子窓からは、鮮やかなオレンジ色の西陽が差し込んでいる。空には雲ひとつなく、澄み渡っていた。
「……そうだな。もう終わったことだ」と、椎が言う。
 視線を戻すと、椎は微笑んでいた。一花はふいっと目を逸らした。
「……やっぱりミゼラブル、しょっぱいじゃん」
「嘘。じゃあひとくち」
 椎が無防備に口を開けて、一花に寄る。
「自分で食べてよ」
 ぴしゃりと言うと、
「いいじゃん、おにーたんにも食わせて」
 昔、一花は椎をそう呼んでいたのだ。懐かしい呼び方に、一花は思わず赤面する。椎はまったく気にした素振りもなく、一花に顔を近づけた。 
「……仕方ないな」
 小さくカットして、口に入れてやる。
 椎の唇の端にクリームがついた。
「あ、ごめんクリームついた」
 指先で拭うと、その手をパッと掴まれた。そのまま、指についたクリームをぺろりと舌で舐め取られる。
「!?」
「……あぁ、悪い。ついくせで」
「くせって……」
 椎は仕事柄、スイーツを残すことを嫌う。クリームひとつでも無駄にはしない。
 とはいえこれは……。
「……椎ちゃん、それ他の人でやったら……」
 照れてしまったことが悔しくて、口を尖らせて椎を見ると、
「……あ、本当だ。しょっぱ」
「え、嘘?」と一花が目を瞠る。
「嘘」
 椎はそういうと、一花を見つめて小さく笑った。
「もう! 椎ちゃんなんて嫌い!」
「昔はおにーたんおにーたんって、離してもくっついてきたのにな……」
 椎は、一花を眩しいものでも見るように見つめて目を細めた。
「だから、そういう昔の話をするのはやめてっていつも言ってるでしょ」
「はいはい。悪かったよ」
 すると、椎はすっと立ち上がった。
「椎ちゃん?」
 怒ったのだろうか。不安になって椎を見上げる。しかし椎は怒っているというよりも悲しげな顔をしていた。
「厨房で仕事してるから、ゆっくりしてろ。あ、勝手に帰るなよ。送るから」
「……ん、分かった」
 ビオラの砂糖漬けが、口の中でしゃり、と溶けた。

 それから一花は、放課後になると椎の店へ足を運ぶようになった。
「椎ちゃん、ただいまー」
「……お前、少しは店の雰囲気を考えろ。ここはただいまーって駆け込んでくるような店じゃない」
「はいはい。中庭にいるねー。あ、わたしいつものピーチティーとミゼラブルで」
「……今日は代金もらうからな」
 椎の小言はスルーして、一花は中庭のテラスに向かう。
 今日は天気がいいから、テラスでもうすぐ始まる中間テストの勉強をしようと思ったのだ。

 椎の店の奥には、中庭テラスがある。晴れた日しか開放されないが、中庭は温室のようになっていて、とても空気がいい。人工的に作られた小さな池には数匹の金魚が泳いでいる。
 一花は昔からこの中庭が大好きだった。なんだか、不思議な雰囲気がするのだ。
 特に陽が落ちる直前なんかは、足元のライトがうっすらと輝いて、空には檸檬色の月と星々が煌めいて、まるで妖精でもいそうな気配がするのだ。
 一花の心の奥でなにかがことり、と動いた気がした。
 空を見上げる。陽が落ち始めた。
 紫と青が混じり合った不思議な色の空に、うっすらと星が見える。
「……月がない」
 中庭の形に切り取られた空には、月は見当たらない。今日はどうやら新月らしい。
 今は何時だろうと思いながら、頭を下げる。
 なんだか眠い。最近の一花は雪のことを考えないように勉強ばかりしていたから、疲れが出たのかもしれない。
 少し休もう。そう思い、一花は目を閉じた。

 夢を見た。
 小学生の頃の夢だ。一花はやはりこの中庭にいた。
 けれど、様子がおかしい。べそをかいている。
 一花はどこか冷静な心でその夢を第三者の立場から傍観していた。
 そうだ、と気付く。
 初めての失恋をした、あの日の夢だった。
 椎が彼女を店に連れてきたのだ。一花がいつものように椎に会いに行ったら、椎は知らない女の子と話していて、それがすごく嫌で、悲しかった。

『……椎ちゃん』
 あのときの一花に気付いた椎が驚いた顔が忘れられない。
 その瞬間、世界が真っ二つに割れてしまったように思えて、椎が知らない世界に行ってしまったようで、目の前が滲んだ。

 懐かしい。
 一花の初恋は、このときに終わったのだ。
 じんわりと、胸の中に苦い感情が広がった。今の感情に少し似ている。
 思えばあのときは、どうやって立ち直ったのだろう。あれからしばらくは椎の家に行かなくなって、椎とも口を聞かなくなったはずだ。
 でも、一花と椎は今でも仲がいい。
 なにかがきっかけで、ちゃんと仲直りをしたのだろうが……。

 空を仰いだ。
「……月」
 自分の声がどこか遠くに感じた。
 そうだ。あの日も月がなかった。
 けれど、あの日って?
 椎と彼女を見た日か。それとも……。
 パッと目が覚めた。
 むくりと起き上がると、正面の影が揺れた。
「……起きたか」
 向かいには、椎が座っていた。テーブルに頬杖をついて、一花に呆れたような視線を向けていた。
「椎ちゃん……?」
 瞳を瞬かせる。
「……お前、こんなとこで寝るなよ。また風邪引いたらどうするんだ」
 それなら起こしてくれても良かったのに、と思い、首を傾げる。
「……また?」
 また、とはなんだ。
「…………いや」
 椎がサッと目を逸らした。
 そういえば、前にもこんなことがなかったか。
 月がない夜。朦朧としていた夜。
 ぴちゃん、と池の中の金魚が跳ねた。
 ハッとする。
 目が覚めたような気がした。

 ――あのとき。
 この店に来なくなって、でもどうしても椎に会いたくて、一花は一度、こっそりとここに来たことがあった。この中庭の隅で小さくなって、池に写った窓の向こうの椎を眺めていた。声をかけたかったけれど、まだ不貞腐れていたのでそれも嫌だったのだ。
 一花は立ち上がり、池の前にしゃがみ込んだ。池の中の金魚に目をやり、視点を変える。水面に、窓と窓の奥の厨房が目に入った。
「おい……一花? どうした?」
 椎が訝しげに一花を呼ぶ。
 あのとき一花は、夜になってもこの場所にいた。親は当然帰ってこない一花を心配して、椎の店へ連絡した。椎の両親も椎も、必死で探してくれた。
「ねぇ、椎ちゃん……」
 そうして、ここで眠りこけていた一花を見つけたのが椎だった。
 そのときばかりは、いつも優しかった椎にこっぴどく叱られ、大泣きしたのだ。でも、そのあと椎は一花を強く抱き締め、謝ってきた。
 椎は、一花の気持ちに気付いていたのだろう。幼い心を傷付けたことを後悔していた。
 ごめんな、と言った椎の顔を思い出す。
「……あのとき私……ここで椎ちゃんにすごく怒られて、それで……謝られた」
 椎が目を瞠る。
「……思い出したのか?」
 一花は椎に目を向けた。
「椎ちゃん……私、椎ちゃんと約束してたよね」
 あの日、一花はたしかに約束をした。指切りもした。
『お互いに、もう恋人は作らない』
 指切りをした。
「……どうして言ってくれなかったの? 私が熱出して朦朧としてたこと知ってたでしょ?」
 椎は目を伏せた。
「……一花が幸せそうだったから。一花が笑っていられるなら、隣にいるのが俺じゃなくてもいいと思ってたんだ」
 心臓を直で掴まれたように苦しくなる。
「それに、当時の約束はそのままの意味だったわけじゃない。あの頃一花は小学生で、俺にとってはただ可愛い妹だった。だから、これ以上妹を傷付けないよう、一花の前でそういう話はしないように、うちに誰かを連れてくるようなことは止めようって、そういう意味での約束だった」
 一花の口から男の子の名前が出てきたときは、驚いたと言う。
 でも、と椎は俯いて、自嘲気味に笑った。
「俺も同じだった」
「え……?」
「一花がクラスメイトの話を楽しそうにしているとき、正直結構堪えたよ」
「椎ちゃん……」
 椎は眉間に皺を寄せて、怒っているような、苦しんでいるような、難しい顔をしている。椎のこんな顔を見るのは初めてだ。
「……叶うなら、一花がもう一度俺に恋してくれたらとは思ったけど」
 すっと、空気が冷たくなったような気がした。
 椎の顔に影が落ちる。かすかな光に浮かび上がった椎の顔は一転、今にも泣きそうに見えて、一花は胸が苦しくなった。
「一花が笑ってるんだからって言い聞かせて、仕事で頭をいっぱいにして無理やり誤魔化してた」
 一花はショーケースを思い出す。ずらりと並んだ宝石のようなケーキ。椎が店主となってから、かなりメニューが増えていた。椎は仕事をして、自分の想いを誤魔化していたのだ。
「それなのに……お前、泣いてここにくるんだから」
 まったく、と椎は額を押さえた。
「こっちがどれだけ……」
 はぁ、と椎のついた深いため息が、一花の心にぐさりと刺さる。
「ごめん……」
 一花は椎の袖をそっとつまんだ。
「……ごめん、椎ちゃん。私、もう忘れたりしないから」
 椎が顔を上げる。落ちた前髪の隙間から覗く椎の潤んだ瞳と、視線が絡んだ。その瞳は、どこか怯えているようにも、戸惑っているようにも見えてひどく焦燥を掻き立てられた。
「……一花」
 名前を呼ばれ、今度は一花の心が荒ぶった。
「……えっと」
 ふっと、椎が笑う。
「な、なんで笑うの」
「……いや。やっぱり可愛いな、と思ってな」
 椎はそっと一花に近付いた。一花はまっすぐに見つめられ、椎から目が逸らせなくなる。心臓が口から飛び出しそうなくらいに跳ねた。
「もう忘れないって、どう言う意味?」
「え……?」
「また、約束しなおしてくれるの?」
 椎の手が一花の頬をそっと掠めた。
「……ねぇ、一花。もう、彼氏作らないでいてくれる?」
 一花は頬を赤く染めたまま、動けなくなった。
 椎がふっと微笑む。いつもより少し砕けた笑みだった。
 心拍数が上がっていく。
 そんな顔をされると困る。こちらは傷心なのに、と、一花は戸惑う。
「あの……し、椎ちゃん」
「冗談だよ」
 淡々とした声で言うと、椎は立ち上がった。
「ど、どこ行くの?」
 尋ねると、椎はくすりと笑った。
「どこにも行かないよ」
 一花はぎゅっと拳を握る。
「……あの、椎ちゃん」
「いいよ。なにも言わなくて」
 先回りをされ、一花は口を噤んだ。
 椎は一花の頭に手を置いた。
「……この前の秋祭りのケーキ完成したんだけど、食べるか?」
「え! りんごの?」
「あぁ」
「食べる!」
 パッと表情を明るくした一花に、椎はまた微笑んだ。
 
「あれ、夜空じゃなくなったんだね……?」
 クリーム色のスポンジに、淡い青色のナパージュが張っている。青色のナパージュの中には、小さな白い太陽が閉じ込められていた。
「……あぁ」
 以前のナパージュは深い藍色だったはずだ。でも、ライトな感じがしてこちらはこちらで女性に人気が出そうなデザインだ。
「でも、こっちも綺麗。青空だね」
 小さな丸型の青空を隠すように、とろりとしたクリーム色のソースがかかっている。
「イチゴジャムは止めたんだ。食べてみて」
「あ、うん」
 フォークで小さく切り、口に運ぶ。
 爽やかなリンゴの香りと酸味が口の中をさっぱりさせる。
「美味しい! 前よりすごく美味しくなってるよ、椎ちゃん!」
 ソースは滑らかだが、スポンジの間に入ったリンゴ果肉入りのジャムも絶品だ。
「……それな、イメージはこの中庭の池なんだ」
「え、青空じゃないの?」 
「うん」
「じゃあこれはなに? この太陽」
「……月。水面に映った月だよ」
「月……じゃあこれ、夜空なの?」 
「池に映る空は実際より明るいからな」
「ふぅん……」
 もうひとくち食べる。じわっとリンゴの果肉が広がる。美味しい。なんだか、懐かしい味がする。
「……月は、お前なんだ」
 ふと、椎がぽつりと言った。
「え?」
「帰るか」
 椎は悲しげに笑い、後片付けを始めた。

 椎が片付けをしている間、一花は中庭の池の縁にいた。指先でつっと水面を弾く。空が波打って消えた。
 中庭の池には、好きなものが映る。
 たとえば金魚だとか、月だとか、あとは――椎だとか。
 椎はどうなのだろう。あのスイーツを、中庭の池――そう言っていたけれど。
 椎は、どんなときも一花のそばにいてくれた。
 水面が凪いでいく。
「一花」
 水面に、椎が映った。パティシエ服ではなく、私服に着替えている。黒のワイシャツに細身の黒のチノパンを合わせている。
「おまたせ。帰るぞ」 
 一花は水面に映る椎を見つめたまま、動かない。
「……一花?」
「椎ちゃん……私、約束する。もう作らないよ」
 振り向き、椎を見上げる。椎は驚いた顔のまま、一花を見下ろしていた。
「……意味、分かってんのか?」
「分かってるよ」
 椎は凍りついたように動かない。一花は続けた。
「椎ちゃん、ずっと私のそばにいてくれた。それなのに私……」
 言葉に詰まると、椎は優しく笑った。
「そんなこと、お前は気にしなくていいんだよ。俺が勝手にやってることなんだから」
「……私、これまで自分にそんな資格はないって思ってた。椎ちゃんは大人で、彼女だっていると思ってたから……」
 一花は震える声で思いを告げる。
「……それは」
「私、今はまだ雪くんが好き」
 まだ、一花の胸についた傷は生のまま疼いている。
「……うん」
 椎は目を伏せた。
「でも……椎ちゃんのそばにいたい。そばにいても……いいかな」
 できることならもう一度、あの日の失恋のやり直しを。初恋の続きを。
「……あぁ」
 椎は優しく頷いた。
 一花がはにかむように笑う。
「さて、帰るか」
 椎が手を差し出した。一花は差し出された手のひらと椎の顔を交互に見て、
「うん」 
 そっと自分の手を重ねて立ち上がった。