一郎くんが、学校を欠席した。
理由は誰の目にも明らかだった。今日は学校の小さな行事の一環で行われる、スピーチコンテストのクラス発表日だったからだ。全員がテーマを考え、英語で内容を練り、一人ずつ前に立って三分間の発表をする。テーマは完全に自由で細かい決まりは特になし。生徒投票と教師投票の結果で上位者が決まってゆく勝ち上がる戦方式。最終的には学年ごとに一位から三位が決まるので、発表が進むにつれ徐々に熱気を纏い始める生徒たちによる壮絶なバトルが繰り広げられる。全力で笑いを取りに行く生徒、真面目な研究の考察を述べる生徒、大好きな趣味について熱く語る生徒など、それぞれの個性が爆発する面白い行事だ。
もちろんこの行事が苦手な人、もっと言ってしまえば大嫌いだ、という人もいるだろう。しかし結局は、英語の得手不得手、人前で話すことへの興味関心の度合いに関わらず、みな懸命に最善を尽くす。困難を乗り越えること。それも人を成長させるという、行事の目的の要なのだから。

しかし、一郎くんは参加できない。“発表“という簡単なことが、できない。きっと、教壇に上がった瞬間に彼は言葉を無くす。顔色がすうーっと白くなって、何も言えずに一礼して席へ戻る彼の姿が、ありありと目の前に浮かぶようだった。

クラスの誰もがわかっていて、口にはしなかった。先生方も目を瞑っているし、きっとこれは無かったことになるのだろう。
彼一人だけ辞退を認めることは、学校の平等の精神に反する。そうかと言って、参加を強要することはできない。あまりにも。あまりにも。彼にこの行事は酷なのだ。想像してみて欲しい。クラスメイト四十人分の視線……これは多分一郎くんにとって、四十人分の殺人者の目で見つめられるに等しい。『活字が僕を殺そうとしている』『ボールが殺人鬼だ』。何の感情もなくそう言った一郎くんの心の中は、きっと傍目からは想像もつかない嵐が吹き荒れている。

私は不安だった。
一郎くんの心は、壊れそうになっているのではないか。
高校生活の一年目の終わりを目前に控えた今。ただでさえ不安定な思春期だ。進学したことで環境が激変し、ストレスというストレスを抱え込んだ彼の魂は不可視の傷でズタズタになっているのではないか。

昔、姉が言った。脆いものの例えによく用いられるガラスは、理論上では実際の百倍の強度をもつ素材であるという。しかし、ガラスは簡単に割れる。なぜなら、表面に無数の細かい傷があるからだ。ちょっとした衝撃でその亀裂が大きくなって、ついにはガラス全体が粉々に砕け散る。

……今日一日、一郎くんが学校を休む。
絶対に避けなければならない授業を休み、大きすぎる傷を回避する。
それで終わればいい。
壊れてしまうことなく。また明日への一歩を、踏み出せるのなら。

—————胸騒ぎがする。

理由はない。根拠もない。ただ…………不穏。

私は自分の発表“日本人の愛するもち米文化”の中身をシミュレーションしながら、どこか胸がザワザワ疼くのを感じていた。こういうのを虫の知らせ、というのだろうか。それとも、単に私が酷く心配性なだけなのだろうか。ぼんやりと黒板を眺めながら、私はふっと何かが頭をよぎるのを感じた。
下を向いて、私はこっそりワイシャツの首から内側へ手を入れる。そして首飾りにしていた“夜の護符”———これはいつも通り———そしてその灯火の中に収納していた、座敷童の枝豆を取り出す。

——————涙。

枝豆は、涙の雫がくっついてびしょびしょになっていた。まるで真夏の冷えたオレンジだった。透明な水の粒が次から次へと産み出され、あわや溢れるかというところで“夜の護符“の熱によって蒸発し、また濡れる。
私は息を呑んだ。

誰の涙?
誰が泣いている?
誰が助けを呼んでいる?

——————考えるまでもない。

私はスピーチコンテストのほとんどを上の空で過ごし、学校が終了すると同時に学校を飛び出した。通学路をひた走り、ちょうどバス停を出発しようとしていたバスへ必死に合図して停まってもらい、鬼気迫る勢いで駆け込む。今日の部活は無断欠席……つまりは、初めての“サボり”だ。誰にも連絡していないし、伝言を頼んでいない。しかも携帯は使用時間制限のアプリをつけているため、今は使えない。よって、連絡は事後承認の形になってしまうだろう。

私は日の短い冬空がどんどん暗くなってゆくのを横目に見ながら、座席のシートに頭を預けた。
私はバカなことをやっている。バカで、短慮で、直情的。そして……昔はできなかったこと。確かに私は好奇心が旺盛だし、余計なことにどんどん首を突っ込む。それでも、感情を制御するのは得意だった。絶対にやめた方がいいと思うことからは、落ち着いて背を向け立ち去ることができた。…否、立ち去らざるを得なかった。泥沼に嵌ってしまうような暗黒の予感に、ざわざわと逆立つ産毛。くるりと勝手に回転して後ろを向く踵と、目を瞑って早く行けと、囁く脳髄液。

…それなのに、藤神山へ入ったあの日から、私はどこか変わってしまった気がする。

なんというか、もっとむこうみずになった。
別に、いつでも先の先を見て慎重に行動する人生を送っていた私は、消えていなくなったわけではない。いなくなればいいとも思っていない。
そういう性格のお陰で、私は何度助けられたことか。夏休みの宿題を早々に終わらせて、残りの日々を心置きなく遊ぶのは、本当に気持ち良い。迷子にならないように徹底的にマップをさらう癖をつけたお陰で、人様に迷惑をかけた数はとても少なく抑えられている。提出物や必要な連絡、持ち物などの管理を怠らない私は、多くの人に信頼を寄せられている。

「…どこにいるの、一郎くん。」

誰にも聞こえないくらいの小さな声で、囁く。
バスを降りて、田舎道をひた走り、薄暗い濃紺の寒空の下、藤の花の簾が垂れている麓の入り口を潜って、山路を歩く。湿った爽やかな風が吹き抜けてゆく。足元には黄緑色の草が芽吹き始め、木々にも少しずつ芽が瘤のように隆起し出している。冬も、晩冬に近いのだろう。雪はほとんど解け、ぐしゃぐしゃになった泥と落ち葉の小沼があちらこちらに見られた。

寺へ、急ぐ。
彼は、家にはいないだろう。
もちろん、寺の敷地内にいるとは限らない。しかし、あの屋敷の中よりは、可能性がある。屋敷の中には、お雲さんがいる。一郎くんは、母親の目の届くところで泣くことはない。根拠はないけれど、彼はそういう人だという、確信がある。ならば、どこへ行けばいいのだろう?私が持っている、あまり多くないこの山についての知識の中で。あの寺だけは、何度も繰り返し行ったことがある。どこに何があるか熟知しているし、迷うこともない。

丸太が仁王立ちになっている門。枯れた藤棚。お湯池。鐘つき堂。竹林。おみくじ。本堂。賽銭箱。玉砂利の敷き詰められた参道。百葉箱。倉庫。天狗の葉団扇が成るという伝説のヤツデの樹。銀杏。桜。紅葉。その他諸々。見慣れた光景で、全てに馴染みがある。

「……どこにいるのよ、一郎くん。」

彼が隠れていそうな場所を、頭に思い描く。どこから探してみようかと、何度も景色を反芻する。それでも、わからない。想像すれば想像するほどに、彼はどこにもいないような気がしてくる。とっくにこの世界から消えてしまって、二度と会えないところにいるのではないか。精霊たちと同じ場所に行ってしまったのではないか。どういう、胃が捩れるような奇妙な感覚に苛まれる。

私は、首飾りから取り出した枝豆を掴んで、ぎりぎりと握りしめた。豆はずっと、泣き続けている。
彼はこの世界の、どこにいるのだろう。返事をして欲しい。どこに行った。どこに隠れた。一郎くんは、小僧さんは、蛇神様は、精霊の森の子は、お釈迦さまは、あの入学式で隣に座っていた、誰よりも脆い魂を内に抱えた、顔色の青白い男の子は、いったいどこに————

—————おねえちゃん?
「………え…?」

私は立ち止まって、目を見開いた。月灯りを浴びて、森の中、赤い着物の少女が、立っている。可愛らしい稚児まげ。勝ち気そうな吊り目。白く膨らんだ輪郭が薄ぼんやりと、樹々の影に浮かび上がっている。

—————こまってるの?

私は息を呑んでその姿を凝視した。心がすうっと冷えて、平になってゆく。
その声は、とても静かだった。か細い声。幼い子供が一生懸命に絞り出す、なけなしの勇気がいっぱいに詰め込まれたような声。
私は、少し離れた土の上に佇んでいるその幼女の姿を、じっと見つめた。
…そうだ。彼女には、前に一度会ったことがある。私は彼女の正体を知っているし、彼女に贈り物をすらいただいたことがある。

(—————座敷童だ。)

「…うん。一郎くんっていう人が見つからなくて、困ってるんだ。」

私が掠れた声でそう言うと、もはや座敷にいない座敷童の少女は、そうなのね、と頷いた。真っ赤に蒸気した頬は、緊張によるものだろうか。それとも、私に会うためにここまで駆けてきたのだろうか。
彼女はくっと顔を上げると、私をじっと見つめるその瞳に、強い決意の光を宿した。

—————こっち。ついてきて。

「……うん。ありがとう。」

—————おまめ、はなさないでね。

「え?う、うん。」

私は翡翠の色をした枝豆を、一層強く握りしめた。少女は、ぴょんぴょんと身軽に山路を進んでゆく。私は一つ息を吸って、その背中を追いかけ始めた。整備された道を外れ、やたらとキノコが生えている林の中を通り、ずんずん奥へと分け入ってゆく。
怖くはなかった。私には“夜の護符”がある。これを持っていれば、闇夜の森も、昼間とあまり変わらない。吸血鬼やクロクロ、マントゴースト、鈴鞠きのこ、その他諸々の未知の夜の危険を回避できるのだ。……まあ、道に迷うことは避けようがないかもしれないが。

だんだんと暗くなってきた。もう、これ以上陽が落ちると倒木にも気付かなくなるかもしれない。今通っているのは、細く背の高い樹が何本も連続して生えている林だった。やはり、ここも見たことがない。
唐突に、目の前に視界を覆い尽くすような影が聳え立った。……岩だ。
先導していた座敷童の少女が、道を塞ぐその巨大な岩をシュンッと飛び越える。およそ人間には不可能な、鹿のような身のこなし。私は彼女と同じ道を通るのはさっぱり諦めて、岩の周りをぐるりと回って向こう側に出た。

「…よいしょ…ふう……結構狭かった……」

岩と林との隙間はあまりない。ギリギリの通り道になんとか体を捩じ込んで通り抜けると、びゅるるうっと冷たい風が吹きつけた。思わず目をつぶった私の耳に、まるで鈴の音シャランとがくすぐるような声が届いた。

—————それじゃぁ、またね。おねえちゃん。

小さな小さな、耳を澄まさなければ取りこぼしてしまう、少女の声。……あ、と気づくと、少女は消えていた。と同時に、私の手から豆が転がり落ちた。皺皺に萎んで枯れている。あっと拾い上げようとした刹那、それはしゅうっと蒸発するように消えてしまった。

しばし呆然と立ち尽くす。
きっと、豆一粒の力を使い果たしてしまったのだ。私はゆっくりと、辺りを見回した。

そして、ふと気づく。私が立っているのは、見たことも聞いたこともない場所だった。大小様々な岩がゴロゴロ転がっていて、地面は灰色の砂利。月灯りに煌々と白く反射し、不思議な神秘性を持つ一角だ。耳をそばだてれば、ぽちゃぽちゃとどこからか水の流れるような音が聞こえる。

「…ここにいるの?一郎くん…?」

恐る恐る、囁く。私はゆっくりと辺りを見回した。水の流れてくる音は、案外近くにあるようだ。背後を塞ぐ巨岩をチラリと確認し、私は前を向いた。そこには、また別の障害物がある。少し小さめの岩が積み重なって、歪な天然の階段のようになっているのだ。
左右は崖のようになっているので、進むとすれば前しかない。そして、涼やかな水音は、その向こう側から響いてくる。

私は、おっかなびっくり岩階段に近づいていって、一段目に足を乗せた。大丈夫。かなりの重みをかけたがぐらつかない。よって、十分に私の体重を支えられる。
私は両手両足を使って登り出した。岩の階段の高さは三メートルほどだろうか。落ちれば怪我を免れないだろうが、死にもしないだろう。足場を探りながら、ゆっくり登ってゆく。

「よし、あと少し……」

汗を拭う。一番上に手を掛けて、一気に体を引き上げる。そのまま勢いで足を掛けて天辺を跨ぐと、パッと向こう側の景色が目に飛び込んできた。

「あぁ、やっぱり……」

やっぱり、小川だ。

私は納得して頷きながらも、少し驚いていた。水の音と、岸辺の砂利…ある意味ではこの光景は想定通り。が、予想外なのはその水の流れの大きさだ。思ったよりも広く、深い。轟々と流れてゆくこれは、もう小川と言っていいのかすらわからないくらいだ。おおかた、最近の雪解け水で量が増しているのだろう。

それにしても不気味だ。
そもそも闇夜において、川の水は真っ黒い。その川も薄暗く寒々しい空の色を反射し、岸辺に立つ人間に水底を見せることを頑なに拒んでいる。冷たい純真さがその空恐ろしさを一層際立たせ、ゆらゆらと立ち昇る妖気には鳥肌さえ立つほどだ。私は岩の天辺を跨いだ格好のまま、川を舐めるように凝視した。そして、ゴクリと息を呑む。

……どうしよう。

私が固まったまま目を泳がせる。馴染みのない川の岸辺には、多くの荒っぽい岩が転がって黒々と影を作っている。その中には小さな欠片も、大きな塊も、不思議な形に変形したものも、丸いのも四角くいのも、細長いのも、潰れたのも、そもそも質感の全く違う粘土のように見えるものもある。

————ん?

あそこに見える“あれ“は、川に生える水草…海藻のようなものだろうか。濡れて黒いぬらぬらとした布状の物体が、ふんわりと膨らんだようになって水に半分浸かっている。その両端からは青白いすべすべしたものが突き出していて、それはまるで頭部と足のようにも………

——————人間だ。

「……っ!」

気づいたら一瞬だった。私は怒涛の勢いで岩階段を駆け降りた。登る時はあんなに苦労したのに、降りる時はまるで滑り台だった。私は砂利の上に着地すると、ざざっと砂粒を跳ね散らかしてそこへ向かった。

「一郎くん!」

一郎くんが、川で気を失って倒れている。呼びかけても、みじろぎ一つしない。…間違いなく非常事態だ。川に落ちたのだろうか。いや、胸から上は水の外にある。半分うつ伏せで、眠るように目を閉じている。
何があったのかはわからないが、あのままでは体が冷え切って低体温症で命が危ない。

「起きて!死んじゃうよ!」

叫びながら駆けつけた時、私は一郎くんの首筋の真上に、黒い影があるのを見つけた。……なんだ?黒い蝶々だろうか?薄く透き通ったような羽が、月灯りにチラチラ光っている。触覚はなく、代わりにお団子結びのような髪と赤いリボンの髪飾り。人間の頭部そっくりの小さな小さな塊には、明確な死のイメージが躍動していた。

(………獣の頭だ。)

ひゅっと息を呑む。

—————深呼吸して、よく見るんだよ。

この目で見るまでもない。肌で感じる。こいつは。この、バケモノは。

—————そういう生き物は化粧の下は暗黒の闇で、眼が獣だから。

一郎くんに取り憑いて。彼の命を、生気を、生きる望みを、人生の全てを、吸っている。

「このバッカ野郎!!この小悪魔あああ!!」

喉が枯れ裂けるほどに、叫んだ。自分という存在の、タガが外れたようだった。何も考えられない。どうしたらいいかわからない。思考の片隅で、“清めの塩を投げつけろ”というメッセージが浮かんだような気がした。そうすれば奴らは退散すると。けれども、一体この私にどうしろというのだろうか。ただの一般人である私が“清めの塩”なんて常日頃持ち歩いているわけがない。お雲さんは言わずもがな、一郎くんや仁朗さんも塩袋をポケットに忍ばせておいてなんら不思議はないが、私はこの山の人間ではないのだ。そして一郎くんが持ち歩いていたであろう清めの塩は、とっくに川に浸かって流れてしまっただろう。

たった今私が持ち歩いているのは、財布、鞄、その中身の筆箱や教科書、そしていつでもコートの内ポケットに肌身離さず仕舞っている…………分厚い辞書。

私は半狂乱のように辞書を引っ掴むと、滅茶苦茶に振り回しながら突進した。金槌でも振るうように、一郎くんの首筋にとまっている小悪魔の羽を狙ってぶうん、と叩きつける。ガキン、と金属同士がぶつかるような音がして、小悪魔の体に辞書が受け止められた。
驚愕して、私は目をこぼれ落ちそうなほどに見開く。まさかこの、薄っぺらい体に傷ひとつ付けられないとは。
恨み辛みが燃え上がる花火のように打ち上がり、私は唸るような声を上げた。

「一郎くんもだよおお!!小悪魔なんかに負けてないでとっとと戻ってこい!!夢なんかに溺れてどうする!!!ねえ、私じゃどうにもならないんだってばあああ!!!」

私は足を振り上げて、靴の裏で小悪魔を踏み潰すようにガンッと振り下ろした。それも、ありえないほど硬い衝撃に阻まれて、相手は無傷で終わる。にやぁり、と。真っ白な化粧に塗れた獣の顔が、こちらを見上げて不気味に凄み笑いを浮かべてみせた。
ぞぞぉっと、背筋に寒気が走る。
冷水を浴びせられたような衝撃とともに、私の脳味噌が電気ショックを受けたような覚醒状態に陥った。

—————わしは、塩水は嫌いじゃよ
—————塩とは何十年来の魂の友でありますゆえ…
—————塩が……口笛で動く……ええ?!

ぐるぐると、思考が渦巻く。気付けば、私は息を吸っていた。すっと指を唇の間に挟み、目を閉じる。目眩が脳味噌を揺さぶっているようだった。私は何も考えていなかった。大事なのは、祈ることだ。念じることだ。意志の強さと、信じる心の純真さが、何よりも大事なことだ。思いを言葉にする必要はない。ただ、感じれば良いのだ。

ピーィイー!!!

『台所の塩たちよ。どうか助けてください。』

ピーィイー!!!

『あなた方の魂の友人である、お雲さんの息子が危ないのです。』

ピーィイー!!!

『どうか助けてください。小悪魔に魅入られた一郎くんの命を、どうか救ってください。』

…………ササァー。


恐る恐る目を開けると、小悪魔の姿は消えていた。代わりに、ふゆふゆと空中を漂う白い虫の群れのようなものが、目の前に浮かんでいた。

「……塩。」

白いものたちはぐるぐるマーブル模様を描いて渦巻きながら、私の質問に応えるかのようにザザァッと蠢いた。よくわかった。これらは確かに……塩だ。

「…あの。助けて頂いて、ありがとうございました。」

一時の沈黙。そして、塩たちはこの会話に付き合う必要はないと判断したようだった。おそらく、興味を無くしたのだろう。彼らの目的はお雲さんの息子の命を救うことで、見ず知らずの町娘とだらだらお喋りを楽しむことではないのだから。

塩たちはお互いにより集まってぎゅっと身を固めるように集まると、空飛ぶ蛇のような細長い形に変形した。そして身を震わせるかのように一つポンと宙返りを打つと、ふわりと空高く浮かび上がる。最後に、ザザァーッと樹々の間に突っ込み、信じられないスピードで走り去っていった。


塩たちが行ってしまってから、私はヘナヘナと座り込んだ。
いなくなっていた音が戻ってきたように、川のせせらぎがやけに煩く聞こえてきた。ぽちゃぽちゃと岩にぶつかる音に、魚がピシャンと跳ねる音。川の香までが、ゆらゆらと漂ってくる。

しばらくそうしていた私は、フウゥ、と吐息をついて、ゆっくりと空を見上げた。そして、涙を拭うと、もう一度下を向く。私は、怒られては泣いていた幼児の頃以来のぶっきらぼうな声で、呟いた。

「このバカ。」
「…………。」
「喋れないの?生気を吸われすぎて、口を動かす元気すらないと?」
「…………。」
「肯定、と。本当に信じられないよ。ねえ、どれだけ心配したと思ってるの?」

一郎くんが薄く目を開けていた。しかし本当に生きているのかすらわからないくらいに、彼の顔には血の気がなかった。全身から力が抜けてしまったのか、目を合わせるために眼球がゆっくりとこちらを向いたきり、指一本動かす気配すらもない。
私の顔を見上げた一郎くんが、突然寒気を覚えたように喉を震わせる。続いてゆっくりと唇が動き、う…と呻くような息が漏れる。先ほどよりも大きく開いた目も訴えかけている。何かを喋るつもりだと理解して、私は彼の口のそばに耳を寄せた。

「……いっ、たい、どうして……海野が、ここ、に、いる?」

まるで、死にかけの蛇の口から出るような、掠れ声だった。あまりにも弱々しいそれに、私は怒る気もなくしてしまった。

「………………たまたま一郎くんを探して歩いていたら、小悪魔に取り憑かれて倒れてたから、急いで駆けつけたの。」

これでは前と反対だ。あの日は、私が小悪魔に化かされて、一郎くんに怒られた。今夜は、一郎くんが倒れているところに、私が危機一髪で駆けつけた。
本当に、なぜこんなことが起こったのかわからない。別の生き物に拘束されて無抵抗の状態を強制されたのか、またはそれこそ自殺でもしようと思ったか。

「ねえ。どうしてこんなバカなことになっちゃったの。一郎くんなら、あんな邪悪なオーラに包まれた獣、一瞬で看破してやっつけられたでしょ。」
「…………た…だ。」
「え?」

私が再び耳を口のそばへ近づけると、一郎くんの掠れ声が囁いた。

「小悪魔……を、梅の樹の、蝶、だ……と、勘違い……した、んだ。」
「なっ。」

私は愕然とした。あの、一郎くんが。銀竜草はキノコの生えるようなふかふかの腐葉土たっぷりの場所で映えるのであって、水面に浮かんだりしないのだ、と私に教えた一郎くんが。こんな、どう見ても梅の木の生えるところではない水辺の砂地で見た幻に、騙されたのだろうか。邪悪な生き物は化粧の下は暗黒の闇で、眼が獣だからと私に諭した彼自身が、目眩しにかかったのだろうか。
疲れていたのか。気が昂っていたのか。またはその、両方か。もしくは…………私にはわからない。

「…………どうして。ねえ、そんなに、疲れてたの?」
「…………。」
「もしかして、今日学校を休んだのは、スピーチコンテストのせいじゃなくて、何か別の理由でものすごく疲れてたからなの?」
「………いや。」
「どっち? 1番、スピーチコンテスト。2番、疲れてたから。3番、その他。わかったら、番号で答えて?」
「……1番。」
「そう。」

私は呟くと、一度立ち上がった。水に浸かった一郎くんを、ひとまず陸地に上げなければならない。肩を抱えて引っ張ると、彼の濡れた僧侶服は重く、思ったよりも力を入れて引き摺るようにして出さなければならなかった。ぐしょぐしょの服をある程度脱がせて、本人は砂の上に寝かせておく。

ここからはサバイバルだ。
私は鞄を取ってきて、ノートを出すと、白いページを十枚ぐらい千切りとった。くしゃくしゃに丸めて、乾いた場所に転がして置く。河原を歩いて火打石を探してきて、その場に跪いてカチンカチンと打ちつける。これで火花を出して、火種を作るのだ。このような田舎の火遊びの経験はそう何度もあるわけではないので、私の不器用さも相まってものすごく時間がかかった。が、最終的には火がついた。一郎くんに、ちょっと待ってて、と言い残して森に戻り、使えそうな枯れ木や棒を拾ってくる。生乾きだと煙が出るだろうが、この際仕方がない。
とにかく出来上がったのだ。
焚き火の完成だ。
一郎くんをその横に寝かせて、暖を取らせる。薪を三度交換し、焼けた石に被せて衣服も乾かす。だんだんと震えがおさまり、力も戻ってきたらしい一郎くんが、ぽつりと呟いた。

「…ガルーガルの蜜樽。」
「え?」

焚き火の火が絶えないようにふぅふぅと息を送っていた私は、ゆっくり顔を上げて振り向いた。
一郎くんが、さらなる呟きを漏らすように、言葉を紡ぐ。

「僕がさっき見た夢は、宇宙を覆い尽くすような金色の蜜の中で、泳いでいる自分だった。」
「…………。」
「僕が現実においてできることは、とても限定的なんだ。一人の人間にとって、僕の樽は狭すぎる。本当に、この山がなくなったら、僕は生きていけない。」

一郎くんの姿は、焚き火に照らされて真っ赤に染められていた。その表情は、影になって見えない。影の中の口から、静かな言葉が流れ出てくる。

「…ああ見えて、父さんは、外へ出て真面目に稼いでいる。この寺だけじゃ家計が立ち行かなくなることを知っているから。…母さんだって、働こうと思えば外の世界でいくらでも働けるんだ。頭が良くて、料理ができて、人格者で、責任感もある人だから。」

ざわざわ、と梢の擦れる音が鳴る。
冷たい風が吹きすぎて、一郎くんの声が震えた。

「……それなのに僕だけは違うんだ。人生の先が真っ暗闇になっていて、何にも見えない。スピーチをすることも。教科書の文字を読むことも。騎馬戦をすることも。みんなが当たり前に出来ることが僕には出来なくて、迷惑ばかりかけて、そして、そういうことがどんどん増えてゆく。」

血を吐くような重い言葉が、噛み締められた歯の隙間を漏れ出るように語られてゆく。

「ちょうど一年前だよ。あの夜……弟が死んだ夜から、僕の心の歯車はずれたんだ。この世界はもっと綺麗な色に溢れたものだったのに。鴉は白く、鴨は黄色く、レモンは紫に、葡萄は赤に、ポストは青に、空は緑に、山の樹々は橙に、蜜柑は黒く。自由自在な絵の具が飛び交う、色鮮やかなキャンバスだったのに。」

私には何も言えない。ただ、聞いていることしか出来ない。

「…最後の学校行事は球技大会。どうでもいいって思ってたのに、やっぱり振り切れない。この山に産まれて、生きて、死ぬ。脳味噌を持たない植物みたいに。…嫌なんだよ。ただただ老いて、この寺を守るために、後継を残して死ぬだけなんて。……嫌なんだよ。そんな人生は嫌なんだよ。」

あまりにも重い。抱えきれないほどの重さ。闇も泥沼。
一郎くんの拳は握り込まれ、涙はとめどなく流れ、ギリギリ、と歯の軋む音すら聞こえてくる。

「何もかも灰色なんだ。無味乾燥。一寸先は闇。それなのに、ちょっとでもそこから外れようとすれば、猛獣の口の中の色のような恐ろしい紅色……血の色の海が広がっている。ドッヂボールは恐ろしい競技だよ。ボールはやっぱり殺人鬼だ。理性では安全だとわかってるのに、本能が否定する。それでも、せめて球技大会は乗り越えなければ、僕はもう駄目だと思ったんだ。……今日は英語のスピーチコンテストを欠席した。何度も学校へ行こうと思って、それでも無理だった。だから、最後のチャンスが球技大会。でも、考えれば考えるほどに、自分という存在がこの世界全体から捻れて弾き飛ばされてゆく。拒否されている。僕の生きる世界は、ここじゃない。僕は、僕の場所は……」

ふいに、静かになった。奔流のように流れ出した彼の言葉は止み、ひっそりとした啜り泣きが辺りに響く。時の止まった空間の中で、ふと、歌うようなメロディが、私の口をついて流れ出た。

「————ボールは、お団子だよ。」
「………え?」

森が、川が、山が、その呼吸を止めた。
無音。闇に覆われた自然界の一角。そこが、完全なる絵葉書のような世界、時の外へと切り取られる。その不気味なほど静まり返った空間で、私は、自分の口がすらすらと動くのを感じた。

「一郎くんは、ただの、丸めたお団子が怖いの?」

何か言おうとして金魚のように口をぽかんと開けた一郎くんを遮って、私は語気を強める。

「それも、ただのお団子じゃない。雪虫に生まれ変わった次郎くんが中で隠れん坊してる、特別製のお団子。」

ヤケだ。完全な無茶苦茶。こじつけ。それでも、これはこの世の真実。私の冷静な心が弾き出した答え。だから、自信を持って語る。

「蛮勇な次郎くんが入ってるから、ボールはすごい勢いで動き回る。でも、勢い余って大好きな一郎兄ちゃんにぶつかりそうになっても、優しいお兄ちゃんは怒らない。怖がって背を向けたりもしない。そうじゃない?」

全てを言い終えた私の前で。一郎くんは、信じられないような面持ちで、目を見開いていた。
そして、かすかに口を開けて、呟いた。


「—————なぎ、ちゃん?」