私は“夜の護符”を手に入れた日から後、しばしば夜の山を訪れるようになった。
座敷童の大豆も、訪れるたびに順調に成長を続けている。雨にも風にも、雪にも夏の暑さにも負けぬ、そんな宮沢賢治の文章が頭へ浮かぶほどに、丈夫な豆だ。最近ついに花が咲き枯れて、鞘が実り、膨らんできた。
私は夜に家を抜け出す口実として、牧田恵里ちゃんが通っている塾の自習室へ通うようになった。基本的に親は放任主義なので必要以上に私の行動に介入しない。しかし、不安は湧くだろう。本当に私が夜遊びをしていないか恵里ちゃんの親御さんに連絡を取った時に備えて、私は実際に彼女の塾に(自習室のみ一般開放サービスがあったので)お邪魔させていただいていた。
そう、恵里ちゃんは、高校一年生にして大学受験に備えた塾通いをしているのだ。
本人はあまり勉強が好きでないようだが、『私、ほっとくと怠けて落ちこぼれちゃうから。』と苦笑する彼女は十分に努力家だと思った。
夏休みに入ると、私の心は前にもましてソワソワし出していた。雲のように勉強への不安が湧いてくる。特に夜、ベッドに潜った時がダメだった。もともと宿題は早めに終わらせるタイプなので、私は山のような課題に圧倒されて潰れそうになるといった悩みはない。しかし、先を見すぎてしまうがゆえの心配性の性質が自分を苦しめていた。
焦る必要はない。けれど、のんびりしていてもいけない。
大学受験で、どこの大学を受験することができるか。
それは、この毎日、その毎日の学習にかかっている。
様々な思いが胸に到来して、津波に押し流されるような無力を感じる。このぐるぐる巡る地球の上の、ちっぽけな自分が頑張って、一体何になるのだろう。自分に合った仕事に就いて、その日暮らしに困らないお金を稼いで、自分なりの幸せな生活を送る。そういう、面白くないと一蹴されがちで、案外一番大事で、何より安全な生き方をしたい。今の生活を続けたい。
…そのためには、頑張らねばならない。
頑張るって、何?
私が一番やりたいことって、どこを探せば見つかるの?
わからない。わからない自分が、もどかしい。正解のない問いに立ち向かうための、勇気も知恵も、指針も、そんなものどこにもないのだから当たり前だ。はるか遠くに霞のようにぼんやりした人参をぶら下げられて、意味もわからずに全力で駆けている馬。汗と涙がぐしゃぐしゃになって、持っていたはずの地図もいつの間にかどこかへ失くして、戸惑って、それでも走るしかない馬。それが、私だ。
八月に入り、夏休みもあと一月足らず。
悩みはあっても、時間は進む。やらねばならないことは、片付けなければ終わらない。
ある日文房具屋へ、足りなくなったノートやらシャー芯やらの補充へ出た私は、とある製品に目をつけた。それは子供たちの目線に留まりやすいよう棚の低いところへ配置されていて、それでも色鮮やかで派手な包みは大人の目にも容易に飛び込んできた。
その商品とは、そう。
「……花火、かぁ。」
夏の風物詩、花火だ。
線香花火。鼠花火。すすき花火。スパーク花火。色とりどりの製品が並んでいる。
真っ黒な闇を背景に、ぼうっと浮かび上がる幽霊のような人間たち。彼らは手に手にバケツに水を汲んできて、火種の蝋燭を用意し、アスファルトの上で、燃やす。集まってきた小さな子供たちの影が、キャアキャア叫びながら、喜ぶ。
……昔の、夏の思い出。
「買ってみようかな。」
冗談のように呟いた言葉は、だんだんと真実味を帯びてきて。
気づけば私は、家庭用花火セットを一袋、追加で店番のおばさんへと差し出していた。
♢
「枝豆は収穫してしまうかい?」
「それはもったいないような……でも、この美しい緑色が枯れて、茶色くなってしまうのも残念なような……難しいです。」
「一つだけ鞘を収穫して、カラカラに乾燥させてみたらどうかな?観賞用に。」
私は一郎くんと仁朗さんと共に、土間に生えた一本の植物を囲んで議論をしていた。
二つの鞘が実り、丸々と太っている。絶好の収穫時期だ。ただ、問題はこの植物、適切な収穫時期というものが年に二度あるのだ。夏と、秋。
一郎くんと仁朗さんは、片方だけ今収穫して乾燥させるのがいいという意見で一致しているようだ。私はうーんと腕を組んで悩んだ。食べたい。どうせ他の鞘も次々に膨れてくるだろうけれど、初物を食べたいという気持ちも強いのだ。……ただ一方で、食べてしまうのが凄まじく勿体無いので永久に保存したいという想いもある。どっちだ。どっちがいい。
「—————それはよろしきお考えでございますね。」
私たちの目の前に、すっと突然にゼリーの小皿の乗ったお盆が差し出された。
梅ジュースをベースにした半透明なゼリーの上に、ミントの葉が飾られている。四つの小皿の中身は完璧な等分で、一種の芸術性すら感じられる。これを作ったのは誰か、見上げて確認するまでもない。一郎くんのお母さん、お雲さんだ。
お雲さんは雪のように真っ白で、一郎くんの肌の色はこの人の遺伝だと一目で分かった。いつもニコニコ微笑んでいて、ふわふわのうさぎのような優しさを感じる。いつかスルリと消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏っていて、気配が淡い。初対面ですうっとお盆に乗った菓子折りとお茶を差し出された時、私は冗談抜きに幽霊だと思って腰を抜かした。
……まあ、この山寺が、幽霊が棲みついていて何ら不思議のない場所だったことも一因ではあるが。
お雲さんは私よりも少し背が低い。
挨拶するために立ち上がった私を、ちょっと見上げるようにして、優しく微笑んでみせた。
「…翡翠は、日に乾かしても翡翠でございますよ。」
「は、はい。」
…少し緊張しながら、私は答えた。
そう。今私たちが育てている植物、それは座敷童にもらった大豆のことだった。大豆は、地面に植えておくと芽を出し、夏頃に枝豆の実をつけ、放っておくとそれは茶色く乾いて再び大豆となる。
そのような知識は知識として知っていたが、実際に育ててみたことはなかった。
—————なんて美しい。
まるで宝珠ではないか。薄い黄緑色のさや。血管のように走った維管束に、ビリジアンに映る陰。はち切れそうに太ったさやは、丸々の枝豆がどんなに立派なものかを物語っている。みずみずしい露に濡れながらキラキラと煌めいている威姿は、まるで神々しささえを湛えている。
命を育むということは、こういうことだったのか。
美しいものを見た興奮に身を包まれる。
「あぁ…さすがにそれは、この山が特別に精霊とエネルギーで溢れているからだと思うけどね。」
「そうだよ。普通の大豆は煌めかない。」
仁朗さんには苦笑い、一郎くんには真顔で対応されてしまった。
「な、なるほど。」
「でも、だからこそ…特別な大豆だからこそ、大事に扱わなければならないという問題もあるんだけどね。」
「具体的には、肌身離さず持ち歩くとか。」
「まあ、食べてしまうのが一番簡単だよね。要は、霞みたいに薄ーくなってふっと消える、なんてことがないようにするためには、命の気配をそばに寄り添わせる事が出来ればいいだけなんだから。」
「うんうん。」
「……へ?」
ここまで聞いて、私はあれっと困惑した。仁朗さんも一郎くんも、座敷童の運んできた大豆をどうするつもりなのだろうか。
私は「翡翠のごとく美しい枝豆を実らせる種」という認識だと思っていた。飾って、眺めて、楽しんで。肌身離さず持っている必要があると言っても、キーホルダーやペンダントなどと同じようなくくりに入るのでは、と不思議に思う。故に……
「えっと……見るために食べちゃうって、本末転倒では?」
「ん?見る必要があるの?」
「え、でもさっきは観賞用だって……」
私が困ったように言いかけると、すっと、私の目の前に一本の指が建てられた。真っ白な指。薄紫色の唇の奥にチラリと見える歯の隙間から漏れるしぃ、という囁き。
お雲さんの、うっすらと淡い微笑みが、そこにあった。
「………座敷童の贈り物ゆえに、大事にするのがよろしゅうございましょう。」
「……はい。」
お雲さんの瞳は、薄い赤色。溶けて色のなくなってしまいそうな、どきりとする目が、まっすぐにこちらを見つめている。
これ以上の説明は、ない。
おそらく、必要すら、ないのだ。
別に食べてもいいし、食べなくてもいい。どちらにせよ違いはなく、鑑賞の捉え方は人それぞれ。そういうことだろう。
私は静かに納得して、乾燥枝豆をつくるためのさやを一つ、切り取ってポケットに入れた。
そして、ふと思い出す。
「あ。そういえば、花火を持ってきたのですが…」
♢
花火大会。
以前手に入れた“夜の護符“のお陰で、夜の森を歩けるようになった。満月の夜には相変わらず山に立ち入らせてもらえないのだが、それでも以前ならば考えられなかった様々なことができるようになった。
鐘つき堂のそばの池……は、蚊が大発生中なので、この厄介な水辺から最大限に離れた場所、すなわち伊藤家の屋敷に近いとある空き地へ集まって、私たちは祝いを行うことにした。何のお祝いか?決まっている。座敷童の枝豆収穫記念祝いだ。
ぶっちゃけた話、お題目は何だっていい。
伝統文化にはかなり精通しているらしい仁朗さん。さすがの手際で花火の準備を進めてくれた。一方で、普段屋敷の奥の台所に篭りきりで絶対に外へ出ようとしなかったお雲さん。何が彼女の気を誘ったか、私たちの後を追うようにふらりとついてきた。
白い割烹着もそのままに、まるで幽霊のように空き地の端に佇んでいた彼女。一言も語らず、ただただ食い入るように私たちの様子を見つめる。ついに、はじめの花火に火がついて弾けた刹那……
—————彼女が泣いた。
「花火とは、まこと納豆の糸のようでございますね…」
「母さん。線香花火は食べ物じゃないよ。」
「それにしても、この儚き灯りの美しさ…パチパチと魚の焼けるような香ばしき音……」
「本当にどうしちゃったの。涙まで出して。」
呆れたような口調で、一郎くんがお雲さんに話しかける。その言葉の内容に反して、彼がお雲さんに寄り添う姿は、いたわりに満ちていた。
すっ、と。私の肩に手が置かれた。後ろを振り向くと、無表情の仁朗さんがそこにいた。
「……もうちょっと、あのまま泣かせてあげよう。」
「はい。」
「そっちの方へ行こうか。星が綺麗に見えるんだよ。」
「……わかりました。」
私は驚いた。軽薄な猿のようにも見える、根っこからの明るさ。昼間そんな雰囲気を纏っていた仁朗さんは、今、どこにもいなかった。哀しそうで、穏やかで、重苦しくて、少し寂しそうで。闇夜のせいだろうか。顔に陰が出来て、潜めた声がずぅんと響く、そういう時間のせいだろうか。
…いや、もしかすると。
私は、はっと気づいた。
—————この人は、夜が怖いのかもしれない。
なんとなく、自然に湧き出た考えだった。仁朗さんは、ずっと何かに怯えている。暗い夜道を歩きながら、月を見上げながら、闇を怖がっている。仁朗さん自身も“闇の護符”を持っているのだが、それでも恐怖が拭えていないのだ。
開けた場所に座りやすそうな切り株を二つほど見つけて、それぞれ座る。二人で、ゆっくりと息を吐いた。その時。
「……聞きたいことが、あるようだね。」
仁朗さんがポツリと呟いた。
「遠慮しないで、言ってご覧。きみは、私の瞳の奥に獣がいるのを見てしまったのではないのかい。」
……なんだ。ばれていたのか。
私は、罰が悪そうに微笑む仁朗さんの顔を見上げて、すっと眉を下げた。
仁朗、ジンロウ、人狼、私ですらわかったことだ。この人の名前が表すものは、月夜の化け物……狼人間。普段ならば、まさかの一言で笑い飛ばす想像だったが、この寺においては違った。
きっと、この人は毎月の十五夜で、本物の化け物に変貌する。
「つまらない昔話を一つ、聞いてみるかい。」
「ええ。」
……少なくとも、退屈はしないと思いますから。
私がそう言って頷くと、仁朗さんは、違いない、と言って自嘲気味に笑った。
「これは、私が十五の誕生日を迎えた夜のことなんだけどね————
あるところに、一人の少年がいました。
少年は毎日野山を駆け回って遊び、楽しく暮らしていました。
ある夜のことです。
肝試しをすることが大好きだった彼は、例の如く家族の言いつけを破ってこっそりと家を抜け出し、護符も持たずに山へ出かけました。
ずっとずっと駆けて行って、とある丘に辿り着いたその時。
少年は、美しい狼を見つけました。
銀色の毛並み。白い牙。爛々と輝く金色の瞳孔。
それはまるで、運命の出会いでした。これと出会うために、自分は産まれてきたに違いないと、一目で確信しました。あまりの美しさに魅了されてしまった少年は、ゆっくりとその狼に近づいてゆきます。
狼は、微動だにしません。
少年は、お辞儀をしました。
狼は、受け入れました。
少年は、嬉しくて微笑みました。
彼らは互いに重なり合い、二つの身を一つに溶けこませ、複雑に変貌を遂げました。
そして。
—————狼男が、産まれた。」
昼間のうちは、鳴りを顰めている狼。しかし隠しているつもりでも犬歯は少しだけ鋭くなり、精進料理の代わりに肉に惹かれるようになり、腕力やジャンプ力などの身体能力が上がった。感覚が鋭い人、特に多感な十代の少年少女には何か恐ろしい気配を察されて怪しまれることも多くなった。
“仁朗“ という名前は、祖母が付け直してくれたもの。『自身を正しく理解しなければ、制御することもできない』と言って、この身の奥深くまでに刻み付けられた、失敗の足跡。
好奇とは、危ういものだ。
心とは、脆いものだ。
おおよそ29.5日に一度。
月が満ちる晩には、狂気が暴走する。
剥き出しの獣性のままに暴れまわり、鼠を殺し、兎を食い、岩を切り裂き、大樹を薙ぎ倒す。
己は人か、狼か。
そんなことすらわからない。
そういう夜が、繰り返された。
「…それでも、お雲さんをお嫁にもらってからは、だいぶ落ち着いたんだよ。」
「………。」
「あの人は、お布団のような存在なんだ。妖気を放つ月の光から、私をくるんで、温かい安心の夢を吹きかけ、黙ってそばで守ってくれる。」
私は黙って月を見上げた。
すうっと白い、ミルクのような優しさを湛えた衛星……上弦の半月の、明るい晩。むくむくと湧いて邪魔するような、雲はない。さあっと晴れ渡った闇の絨毯。静かで、綺麗な夜。
ふと思った。
いったい仁朗さんには、この月夜が何色に見えているのだろう。
頑なに空を見上げようとしない仁朗さんをチラリと横目で見て、私は静かに目を伏せた。
(…これ以上は、仁朗さんも話したくないんだろうな。)
私は息を吸って、そして努めて明るい口調で切り出した。
「…初めて会った時。私には、仁朗さんがお猿さんの精霊だと思いました。」
「え?」
「いつの間にか鐘つき堂の屋根に登っていて、はしごも何もないそこから、やけに自然に滑り降りましたよね。人間じゃないかも、と思った時に、思いついたんです。あんなに身軽ならきっと“猿“だって。」
言うだけ言って、私は、ちょっとお辞儀をすると勢いよく立ち上がった。
「……あの、私そろそろ戻ります。お雲さんもきっと落ち着いた頃だと思うので。」
私は真っ赤に染まった顔を悟られないように下を向き、あっという間に通り過ぎてゆく嵐のように慌てて走ってその場を後にした。
—————面白い少女だな。
—————あぁ。
—————“猿“ もなかなかよい響きだな。
—————そうだなぁ。
静かな影が、蠢く。呟きは、森の地面に吸い込まれて、消える。風の悪戯にも聞こえる抑えられた会話。
ふと、土の上に揺れる白い花が、金色の目に留まった。
「……あぁ、そういえば月見草の季節だったか。」
仁朗の唇は、三日月型を描いて微笑を浮かべていた。
♢
私が空き地に戻ると、お雲さんの姿はなかった。一人残された一郎くんだけが、ぼんやりと蝋燭の火を見つめている。一度強風でも吹いて消えてしまったのだろう。そばに転がる、マッチの燃え殻が増えていた。
「…お雲さんは?」
私が声をかけると、一郎くんはゆっくりと目を上げた。
「もう家に帰ったよ。」
「…そっか。…えっと、どうしよう。花火の続きしてみる?」
「うん。」
二人で静かに準備をして、すすき花火を蝋燭の火にかざす。シュバババーパチパチパチ、と盛大に炎を噴き上げる紙の棒の眩しさに、思わず暗闇に慣れていた目が悲鳴を上げて細める。薄目で見て、それでもやはり美しいのが、花火だった。
「—————赤い。」
「うん?」
「赤い花火。ほら、ここらは全部赤い。わからない?」
「…ごめん。わからない、と思う。」
「そうか。それなら何も問題ないよ。」
突然の会話に、少し戸惑った。しかし、何事もなかったかのように澄ましている一郎くんを見ていると、そのようなことは全て瑣末な事物であるようにも思えてくるのだった。
取っ替え引っ替え、黙ってくるくると花火を消費する。ふと、おかしなことに気がついた。チラリチラリと、花火を点火するたびに、シュッと灰色の墨のような暗闇の塊が遮って走るように見えるのだ。
「ねえ、なんだかさっきから変な影が……」
「火蜥蜴だ。」
「ヒトカゲ?」
「そう。火を食う珍しい蜥蜴だよ。暑さに強いから、夏に活動する。“地を走る弾丸“の二つ名を持つほどにものすごく足が速いから、他の種との喧嘩では突進するだけで勝てるだろうね。」
「へ、へえ……。」
火蜥蜴と聞けば、一生を燃える炎や溶岩流の中で暮らす小さな竜を想像することが多かった。しかしこの山に棲む火蜥蜴は、なんだか臆病で逃げ足が速い、ごく普通の生き物のように思えるのだった。一瞬、火の中に現れては、捕まってはたまらぬとばかりに去ってゆく。
「あの…この生き物って、本当に喧嘩に強いのかな?逃げてばっかりに見えるんだけど。」
「気が臆病なだけだよ。河童だってそうだっただろう。ものすごい怪力の持ち主だが、麓の人里には絶対に降りていかない。それに、友人と認めた者以外には喧嘩、つまり相撲の勝負を吹っ掛けることはない。」
「なるほど…精霊って、そういうのが多いのかな。」
私が首を傾げた時、一郎くんがぐるりとこちらを振り向いた。
逸らそうとしても、手遅れだった。戸惑う私の目を、彼はすでにじっと覗き込むようにして見ている。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった私に対して、彼は静かに口を開いた。
「海野も、いつも自信がないように見える。」
「え?」
「なぜなのか、いつか聞いてみたかったんだよ。…勉強も運動もできて、クラスのみんなからも注目されることが多いだろう?でも、いくら褒められても、嬉しそうに笑っても、心のどこかで自分を認めていない。自信過剰で将来自滅しそうな人間もクラスにたくさんいるけれど、海野は真逆なんだ。自分がどこまで出来るか、壁を自ら高く積んで、可能性を狭めている。」
「………。」
「この前、小悪魔に魅入られただろう。それはつまり、悩みの形がはっきりしている証拠だよ。確固たる形さえ保っていれば、それがどんなに小さな悩みでも、あのお邪魔虫たちは引っ張り出して増大させ、夢に引き出すことができる。…そして、その海野の悩みの根幹が解決されずに、ずっと残り続けている。この状態はあまりよくない。とりあえず吐き出すことが重要だ。少なくとも僕は海野が抱えているものを知りたいと願うし、もし今宵僕に喋ることができないと判断したとしても、絶対に誰かと共有するべきだと思う。」
まっすぐに見つめる一郎くんの目が、闇に光っていた。切れ長の狐目が、穏やかに、しかし瞬きひとつせずに浮かんでいる。彼は森の子供だった。山寺を守る、将来の住職なのだった。
彼は当たり前のように、ごくごく自然に私の心の領域に足を踏み入れようとしている。トントン、と戸を叩いて、お邪魔する、と頭を下げて。しかし余計な気負いなどを一切せずに、するりと茶の間へとその身を滑らせている。
彼にならばなんでも話していいような、そんな気分が不意に湧き上がった。
「…うん。私、確かに自己肯定感が低いと思う。…多分、それは、私のすぐそばに、もっとすごい人がいるからなんだよ。」
私は、ポツポツと話し出した。
十歳も歳の離れた姉がいること。
いつも自分は彼女の影を踏むように生きている気分に陥ること。
そうやって開拓された安全な道ばかり選んで進む人生が、時々どうしようもなくつまらないと感じること。
ただ、それでも助かっているという依存も気持ちがあるのは拭えない。また、姉の偉大さとその人柄を知ればこそ、姉や自分や、その他の誰かを責めるのはお門違いであるとは理解していて。それゆえにぶつかる対象が何もなくて身悶えしたいようなもどかしさに苦しめられること。
一度話し始めてしまえば、あとは堰を切った奔流のようだった。
仁朗さんにも言えなかったあらゆる感情が迸る。
両親の愛情をたっぷり受けて育った姉を羨ましく感じる。数学パズルで一度も勝てたことがないことがものすごく悔しい。自分が生まれる前に死んでしまった祖父や祖母との思い出を両親と懐かしそうに語り合う姉を見ていると、どうしようもなくやりきれない想いが湧き上がってくる。
辛い。苦しい。悲しい。
恨み。
憎しみ。
やりきれない思い。
そういうもの全部が、混ざり合って波飛沫になる。一緒くたに浜へ押し寄せ岩へぶつかり砕け散る。
……そして、その全てを。矛盾に包まれたこんな私の悩み苦しみすら、察してしまうほどに姉は優しかった。
まだまだ幼かった昔時代を思い出すと、姉はいつも謝っていた。『遊んであげなくてごめん』『私は勉強したいんだ。ごめんね。』『疲れてるからできない。ごめん。』『私、負けず嫌いだからどうしても手加減できなかったんだよ。細かいルールを教えなかったのは本当に悪かったから。ね、謝るから、もう泣かないで。』
そんな姉が変わり出したのは、いつの頃だっただろうか。
よく笑い、よくおバカな冗談を言い、たくさんの失敗談を隠さずに公開し、数学の天才かつお調子者のキャラクターで家族に接するようになった。だんだんと“姉”という肩書きに縛られない生き方ができるようになった、といえば聞こえがいいかも知れない。
しかし、私にとってはそれさえが姉の計算高さに思えるのだ。
“ダメな姉“を演じることで、妹である私は息がしやすくなる。自分の方が出来た人間だ、という自尊心を持つことができるし、『私ってすごいでしょう!』と拳を突き上げる姉を見て、私自身もあんな風に自画自賛していいんだ、と学ぶ。
本当にすごい人だ。
だからこそ、私はもっと苦しくなる。
辛い時に、あの人に本気で縋り付くことができない。遠慮を、してしまう。
だって。
——————あんなに世話になりっぱなしで、どうしてこれ以上の助けを求められるだろうか。
「なるほど。謎が解けた。」
「………。」
「それが、海野の胸に開いた穴だったんだね。」
一郎くんは、俯く私へ静かな視線を向けた。冬の雪のように冷たい、それでいて絶対の安堵を誘う眼差しだった。手元の花火は、二人ともとっくに燃え尽きている。真っ黒になった炭の塊を持ち続けたまま、彼は、静かに言った。
「……赤子を抱いて、夜道を歩いたこと。あるかい?」
「え?」
「ないんだろう。」
「う、うん……。」
一郎くんの蛇のように白い顔には、穏やかな春の海のごとく凪いだ表情が宿っていた。風が吹いて、ざわざわと森の木々が騒ぐ。私は少しだけ緊張して、彼の言葉を待った。
「守られる存在。守る存在。これらの関係は、きっと皆が思うほどシンプルじゃないんだ。」
「………。」
「夜道の赤ん坊など、ただの足手纏いだと思うだろう。実際、その通りなんだ。強盗に襲われた時、獣が飛びかかってきた時、僕たちは赤子を抱いて守りながら闘わねばならない。余計な手間が増える。」
だけど、と言って一郎くんは息を継ぐ。
「今でも思い出す夜がある。十二歳の夏だ。いつも怯えながら通る真っ暗闇の山路を、弟を抱いて歩いた。僕は、あのか弱い命のぬくもりを、絶対に守ってみせると思った。守れると、確信したよ。瞬間、ありとあらゆるものが、怖くなくなった。」
「………。」
「あの日、世の中の全ての母親と、父親の気持ちがわかったんだ。僕たちが赤子を守るんじゃない。逆なんだよ。赤子が、僕たちに守りの力を与える。そう、人間は————」
静かな呟きが、ドラムのようにズシーンと私の胸に響いた。
「—————守るべき者を抱いた時、信じられないほどの勇気を手にするんだ。」
一郎くんの、眼差しが語る。
『守られる側であることを恥じる必要はない。
……なぜならば、守る側が強くなれるのは、弱き者たちのお陰なのだから。』と。
大地がガラガラと崩れてゆくような衝撃だった。
「それ、じゃぁ…」
「海野のお姉さんが強くあれたのは、海野がいたからだ。」
「……まるで、知ったように、話すんだね。」
様々な思いが胸に溢れてきて、わけがわからない。巨人のように大きな存在だった姉が、私などという小さな存在に左右されるなど、考えたことがなかった。彼女はすでに家を出て行って仕事をしている、立派な大人。私はこんなところでぐずぐず蹲っている、青い青い未熟な卵。
「……僕にとって、弟とは大きな存在だった。」
「…………。」
「あの小さな体で、僕の心のほとんど全てを覆い隠してしまいそうなほどに巨大な太陽だった。」
「…………。」
「だけど僕は、気づくことができなかったんだ。弟の眩しい光は、弱く、儚く、他人の手を借りなければそよ風にでも吹き消されてしまう、一本の蝋燭の火から放たれていたに過ぎないことを。」
一郎くんの声は、平坦で、穏やか。そんないつもの抑揚に、別の感情が紛れ込んできたことを、私は感じ取っていた。
「母さんが、どうして花火を見て涙したのかわかるかい?」
「……わからないよ。」
「思い出したからなんだ。」
ざあっと風が吹きすさび、蝋燭の炎が激しく揺れた。
ふいにくっと顎を上げて空を睨んだ一郎くんの顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「—————半年前に死んだ、弟のことを。」
目の前が真っ赤に染まって、弾ける。
森の樹々は全て、血の色の根をうねらせ、枝葉を振って光を撒き散らし、ざあざあと哀惜の情感を叫んでいた。
ぐるぐると視界が回転する。
…森が、赤い。
山全体が、真っ赤になって呼吸している。
目眩と吐き気に襲われる。耐えきれなくなって天を突くように見上げれば、どうしたことだろう。真っ赤に染まった半月が、煌々と夜空を照らして嗤っていた。星も、赤い。雲も、赤い。風も、夜も、森も、……
…………伊藤一郎が、赤い。
どん、と胸を突かれたような衝撃を最後に、私の意識は深い闇に呑みこまれた。
薄暗い部屋に、涼しい秋風が吹いていた。
私は静かな表情で、メモの数字をなぞるようにタップしてゆく。コールサインを押す刹那、少しだけ手が震えた。
通信音の後、しばらくしてガチャリ、と受話器が取られる。私は唇を舐め、電話の中に語りかけた。
「…海野銀子さんを、お願いします。」
「えっと、どちら様でございますか?」
「妹のなぎです。実家からの電話だと言って、プログラム担当の海野銀子さんを呼んでください。……あの、お忙しいところだったら、また後でいいんですが。」
「わかりました。確認をとりますので、少々お待ちください。」
電話に出た若い女性の声が遠のき、きらきら星の音楽が流れ出す。しばらく待っていると、ガチャリ、と音が鳴って誰かが電話をとったことがわかった。
「なぎちゃん?」
雑音が混ざった中に聞こえる姉の声は、ずっと変わらない…鈴の音を転がすような美しい声だった。これなら、プログラマーじゃなくて声優にでもなれたのではないかと思うこともある。
私はふっと少しだけ力を抜いて、姉の声に答えた。
「あの、全然急用とかじゃないから、忙しかったら後にするんだけど。今大丈夫?」
「全然大丈夫。むしろ頭煮詰まって目がチカチカして仕事の締切も二つくらい間際で大変だったとこだから、ちょっと休憩する言い訳ができて助かったんだよ〜ありがとう天使様!」
「えっと…それって本当に大丈夫なの銀ちゃん?」
「もちろん!っていうか、一昨日スマホを水没させて連絡手段が途切れてるの、もともと私のせいだしね。で、どうしたの?珍しいじゃん、電話なんて。」
「そ、その。実は……」
私からかけてきたというのに、歯切れが悪い。言い淀む私に、姉が電話の向こう側でん?と首を傾げる気配が伝わってきた。
私はふう、と深呼吸をして、自室のドアを確認する。大丈夫、閉まっている。ドアの板材は十分分厚い。…声が漏れる心配、なし。
私はできるだけ声を抑えて、電話の向こう側の姉に、白状した。
「————私、恋をしてるかもしれない。」
ぶっ!と。
姉が噴いた音が聞こえてきた。きっとコーヒーだ。姉は砂糖なしミルクなしのストレートブラックコーヒーが大好物なのだ。
今も右手に受話器、左手にマグカップでのんびり机に寄りかかっていた姉の姿をありありと思い浮かべることができる。しばしして、姉の声が戻ってきた。なんだか微かに震えているように思えるのは気のせいだろうか?
「……ご、ごめんごめん。私ものすごく動揺しちゃって。そ、それでどうするの?わ、私としてはなぎちゃんが健康で安全で幸せでいられるならその他は特に何も言わないつもりだけど、そ、そそれでもある程度の知識は色々と本を読んで仕入れないと危ないこともあるからららら……!」
「ちょ、ちょっと落ち着こうよ銀ちゃん。寝不足でおかしくなっちゃってるんじゃない?ほら、息吸って、息吐いて。それぞれ十秒ずつかけて。」
「う、うん!」
向こうで“快眠のための簡単呼吸法“を実践している姉の声を聞きながら、私はため息をついた。一人暮らしを始めた姉とはあまり喋っていなかった。それでも、ずっと変わらない…いや、天然ぶりが加速しているように思われる姉の声を聞いて安心したのも、確かだった。
「ふぅ………もう大丈夫です。お騒がせしました。きちんと落ち着きました銀子です。」
「そっか。よかった。」
「あのぉ…電話したってことは、私と話したかったってことだよね?…って、いやそれは当たり前か、ど、どうしよう。」
戸惑っている。姉も、突然の妹からの電話にどうしたらようか困って、本気で動揺している。
——————海野のお姉さんが強くあれたのは、海野がいたからだ。
八月のあの夜。
一郎くんの言葉を聞いてから、色々と考えた。
姉も人間だ、欠点があり、思い悩む一人の少女だ。…という認識はずっと前から持っていたが、今回のこれはどこか違うような気がしたのだ。
姉と、妹。
年齢がずいぶんと離れている私たち。様々な偶然が相まって拗れた毛糸玉のようにややこしくなってしまった。
他人から見れば、大して重要でもなんでもないことだろう。
しかし、当人たちにとってみれば、その日一日を生き抜くための、大事な大事な悩みの種なのだ。
……そして、いくら考えても答えの出ない問題でもある。
私は、深く息を吸って、姉に語りかけた。
「…私、色々とどうすればいいかわからないの。昔銀ちゃんが色々教えてくれたけど、それだけじゃ足りない。ねえ、やっぱり頼りになるのは銀ちゃんだけ。お父さんとお母さんには相談できない。私、今週の日曜日に会いにいくからさ。……ねえ、もし予定ないなら、話を聞いてくれる?」
「うん。もちろんいいよ。」
あっさりと承諾した姉。まるで、トマトを洗っておいてね、いいよ、とでもいうような自然極まりないやりとり。彼女の態度は、やはり大人だと、私は思った。色々な思いはあるけれど、世界で一番尊敬できる、憧れの大人。
私もいつかこうやって誰かに縋り付かれた時、100%の純度で「もちろん」の言葉が出てくる人間になりたい。
「…じゃあ、また日曜日に。」
「うん。待ってるね。」
プツン、と電話が切れる。
ふぅー、と大きなため息を吐いて、私はベッドに体を投げ出した。
薄暗い夕方の部屋。
もうすぐ晩御飯に呼ばれるだろう時間帯だが、しばらく眠りたかった。
ベッドの上、枕より上側にごちゃごちゃ持ち込んだ本やら人形やら小物やらを、目を閉じたままで探る。ふと、丸い粒のようなものが手に触れた感触で、私は目を開けた。
「……ん?」
手に握る。私が掬い上げたのは、薄い黄緑色の、美しい宝珠だった。ビー玉として、遊べるかもしれない。少し平べったいけれど、綺麗な球だった。
(…あれ。)
私は眉を寄せた。私は、これをどこで手に入れたんだろう?なぜ、私のベッドの上にこんなものがあるのだろう。
————座敷童の、枝豆。
ぎょ、っとして飛び起きる。
(………っ?!)
目の前にあるのは、あの夏の花火の後に収穫し、……持ち帰り損ねた枝豆。
そう、あの時は確かに山の中で失くしてしまったはずだったのだ。
花火で遊んでいた私は、突然目の前が真っ赤に染まって意識を失った。その後一郎くんが説明してくれたところによると、火蜥蜴のくしゃみが目の中に入って気絶したらしい。彼は、私の眉毛の上で影がチラリと動いて、紅色の煙が噴霧されたのを見たとのこと。火を食った個体がくしゃみをすると、唾液と食った炎が混ざって化学反応を起こし、幻覚剤のような効果を発するのだ。
吸い込んだ量がかなり多かったので起きた後もちょっとくらくらっときたが、立ったり歩いたりは出来た。家に帰るだけならさして問題はなかったと言える。
ただ、ポケットに入れていた枝豆がどこかへいってしまったことは悲しかった。初物だったと言うのに、くらりとふらついた瞬間にポケットから転がり落ち、夜の森の草むらへ消えてしまったのだ。
……もう、諦めていたのに。
あれから、幾日経っただろうか。からっからに水分が抜けて、すべすべツルツルに磨き上げられたダイヤモンドのように硬い石が、私の手の中にあった。
—————翡翠は、日に乾かしても翡翠でございますよ。
お雲さんの微笑みとともに、お日様の匂いが香ってくるようだった。もしかするとこの豆は、命のエネルギーに溢れた山の樹木の天辺で日向ぼっこをして暮らしていたのかもしれない。そして、十分に力を蓄えたのち、持ち主である私のもとにやってきた。
以前見た美しさは損なわれていない。それどころか、輝きが増しているようにすら思えるのだった。
私はちょっと考えて、この豆を、首から下げていた”夜の護符“の灯火の玉の中へ収納した。それはコロンと転がって、硝子体に包まれた魚の目玉のように、綺麗に収まった。
「……これは一生のお守りにしよう。」
静かに呟く。
『鰯の頭も信心から』ということわざがある。
これは詰まらないものを信仰する人を揶揄する意味合いが強い。けれども、心の中に“鰯の頭“を持っている人は、幸せ者だと思う。誰かの心を慰めるもの。温めるもの。言葉で説明出来ないけれど、確かな力を持っているもの。
私は静かな勇気が湧いてくるのを感じていた。
♢
姉との待ち合わせ場所は、噴水のある公園だった。
ベンチに座って、白く泡だった水を噴き上げる灰色の象の鼻先をぼんやり眺める。カーディガンを着てきて正解だった。少し肌寒い。空は秋晴れだ。
姉は約束の時間から十五分ほど遅刻して、「ごめんごめん!間違えて特急に乗っちゃって!」と息せききって走ってきた。
あまりにもあっさりとした、そして慌ただしい再会だった。
「待った?待ったよね?ごめん。」
ぺこぺこ頭を下げる姉は、白いチュニックにベージュのチノパンを履いていた。やっぱり彼女には、清純な格好が一番似合う。薄くお化粧もしているらしい。すっかり社会人で、ちょっとだけドキッとした。
「いや、噴水眺めて暇つぶししてたし、全然大丈夫だよ。」
手を振って答えながら、私は内心少し首を傾げた。
なんだか、やはり記憶の姉と、目の前の姉が全然違う。大人っぽくなった、と言えばそれまでなのだけれど、何かこう、致命的にずれているというか……
「…ここ座っていいよ銀ちゃん。鳥のふんとかも付いてなくて綺麗だし。」
「うん。そうだね。ありがとう。」
姉が恥ずかしそうに笑って、私の隣に腰を下ろす。そんな姉の腰まで伸びた長髪が、さらりと風に揺れた。
————ん。腰まで伸びた長髪?
私はぽかんと口を開けた。恐る恐る、できるだけ冷静さを失わないように、深呼吸する。
「……えーと、銀ちゃん。髪長くない?」
私の信じられないような問いかけに、姉は嬉しそうに笑った。
「うん。長いよ。」
「ショートボブとベリーショートと坊主しか試そうとしなかった銀ちゃんが…?!長髪?!嘘でしょ?!」
「ちょっと!坊主だけは未遂だよ!誤解を招く発言はしないで下さい!」
「でもやろうとしてた!家族みんなでバリカン隠して全力で阻止しなかったら絶対実行してた!」
「失礼な!」
「事実だよ!」
その後もどうでもいい言葉の応酬が続き、私たちは息を切らしながら一旦黙り込む。
よし、まずは落ち着こう。そして状況を整理しよう。私はふぅーと息を吐いて、静かに目を閉じた。
まず第一に、姉は髪の毛を伸ばしている。…あんまり姉らしくは見えないが、似合ってはいる。
第二に、姉は大人っぽくなっている。…社会人だから、まあ当たり前だ。
第三に、姉からは仄かにいい香りが漂ってくる。…ローズだろうか、それともラベンダー?化粧水の匂いかもしれない。あるいは、シャンプー。
考えを巡らし始めて数秒後、私はとある結論に至って、はっと顔を上げた。
「もしかして銀ちゃんも…好きな人がいるの?」
「おや、なぎちゃんは鋭いね。」
「そっか。じゃあ……」
「でも、一ヶ月前のことだね。今はいないんだ。残念ながら。もう別れちゃった。」
「………え。」
「彼は絶対子供は作りたくないって。でも、私は赤ちゃんが欲しいから結婚したい、っていうくらいの気持ちだったから。さすがにこの人と添い遂げるのは無理だと思って、御免なさいと伝えたの。」
姉の表情は晴れ晴れとしているようだったが、その微笑みにすっと陰がさしたのを私は見逃さなかった。
「いい人だった?」
「うん。すごく。」
「そっか。」
姉の横顔を見上げながら、私は一瞬、何のためにここへ来たのか忘れそうになっていた。……これは、姉のための恋愛相談だったっけか。
戸惑いながらも、私の口からついてくる言葉は澱まなかった。
「……銀ちゃん。私この前、お寺でいい話を聞いたんだ。」
「どんな?」
「“家庭はこんがらがった糸です。こんがらがっているからいいんです。ほどけばバラバラになっちゃいます。”」
「…………。」
私は、猿のように朗らかに笑う狼人間の言葉を思い出していた。彼も、『この言葉は僕のじゃなくて、受け売りだけどね。』と断りを入れていた。私にとっては、彼の口から発せられた言葉だからこそ響く、という意味では“彼の言葉”と言ってしまっていいのではないかと思えたのだが。まあ、それはそれ。これはこれ。
「思えば、私たちだってそうだよね。こんなにお互い仲が良くて、助け合って、思い遣って。銀ちゃんのこと、私は本気で世界一大好きだよって思ってる。こんな理想的な姉妹はいないだろうっていうくらい、幸せで愛しい関係だよ。これ以上を望んだらばちが当たる。それなのに、なんでこんなにこんぐらがっているんだろう。」
「…………。」
「多分ね、そういうものなんだよ。絡み合ってるからいいんだよ。私はそれを必死に解こうとしながら生きてきたけど、でももっと力を抜いて良かったのかもしれない。」
姉も私も、それぞれの運命と闘いながら生きてきた。
誰の人生も、驚くほどにこんがらがっている。
自分の心がうねって絡まり、他者と関わって絡まり、壁にぶち当たっては絡まる。
「誰かと結婚するなら、死ぬまでこんがらがり続けていられる糸を探せばいい。だってそれが家族だから。どーしても無理だな、絡まってるの我慢できないなって思ったらそれまで。……で、銀ちゃんは今回自分で選んで決めた。後悔するかもしれないけど、そんな悩み苦しみの壁すらを乗り越えて糸を断ち切った。誇りに思っていいよ。本当に尊敬するし、強いと思う。私にはできないと思う。私はいつだって、自分より大きな人に頼って生きてきたから。」
ふいに目に浮かんだ涙に驚いた。
玉のような雫がなんの前触れもなくぷっと湧き上がって、視界が滲む。止められない。私は自分で、なぜ泣いているのかもわからずに泣いていた。
……なんだか、前にも何度もこんなことがあったような。
私は、困惑したように喋るのをやめた。
姉が見つめている視線を感じる。
ぐんぐんと、胸の奥から突き上げてくる噴水のように、感情が溢れ出して止まらない。胸の中に、潮水を噴く象が棲んでいる。その鼻が上を向いて、コンクリートに開いた小さなひび割れから、水が漏れている。
どこにある。
泣いているのは誰だ。
わからない。
何もかも、わからない。
「……ねえ、銀ちゃん。」
「なあに?やっと自分の悩みを相談する気になったの?」
「…うん。」
「いいよ。全部聞いてあげるから。」
姉の優しい声が耳を打つ。私はひゅっと息を吸った。
「私は。やっぱり自分じゃ決められないよ。」
ぽつんと。
唇から漏れ出したのは、そんな呟きだった。
「決められないの?」
静かに、鈴のような声で姉が問う。私は歯を食い縛って俯いた。
「わかんない。何もわかんない。私、気づいたらお寺のあの子のことを考えてる。でも、あれは夢なのかもしれない。山に入って、森の空気を吸って。湿った雨の匂いを嗅ぐと、もう目の前に河童や狐の亡霊や座敷童や、いろんな精霊がいるように感じるの。あそこは空気が綺麗で、一番落ち着く場所。案内してくれる彼は、墨染の僧侶服で迎えてくれる。」
「…………。」
「それでも、私は怖い。あの子は多分、普通じゃない。絶対ASDか統合失調症だよ。本当に男の子かすらわからない。いつも幻と現実の境界線をふらふら彷徨ってるみたいで、勉強も運動もあんまりできないし、ただ優しくて、山の中限定で頼りになる、森の蛇神様みたいな人。あの子のお父さんもお母さんもいい人だけど、やっぱり変。関わりを絶った方がいいのか、このままで良いのか、むしろ逆にもう一歩踏み込んでみる勇気をもった方が良いのか。私自身の気持ちも何もかも、ぐるぐる堂々巡りで何にもわかんない。」
啜り泣きが、止まらない。
背中に、姉の手が触れた。静かに、さすりだす。
しばらくの沈黙。そして、姉がゆっくりと口を開いた。
「どうしろこうしろって、具体的なアドバイスは出来ないよ。それでもいい?」
「わかってる。」
姉は私の返事を聞くと、ゆっくりと天を仰いだ。そして、呟く。
「……世の中、狭くなったよね。」
「…………。」
「なぎちゃんは今、“自分”がどうしたいかで悩んでる。誰かと違う、特別な自分。最善の幸せな人生を歩むために、全部個人で道を選んでゆく、自分。でもそれって、結構大変じゃない?」
姉の穏やかな声が、思いやりという綿で私を包む。
——————懐かしい。
思い出の中の姉も、こうやって私を諭してくれた。ある時は哲学的な名言を交えて。ある時は笑ってしまうような歴史の奇怪な事件を題材に。姉は確かに数学の天才だ。しかし彼女の生きている世界は、数学や理論だけの範囲ではなく、もっと豊かなものだ。暇さえあれば読書をして、自分一人だけの世界に没頭して生きていたような人なのだから。その場から一歩も動かずに世界の果てまで旅をする、私とは正反対の少女だったのだから。
「でも大昔を思い出すと、全然違った。初めはみんな、“大地”のために生きていた。豊穣を願い、祈り、供物を捧げて天地自然の慈愛を請う。神様や妖怪だって、たくさんいた。もっとずっと時代が進んでくると、私たちは第二次世界大戦、“お国”のために命を散らして戦った。戦争が終わって経済成長が活発化すれば、“会社”のためにサラリーマンが死に物狂いで働いた。…それで、今は最終局面、“自分”という個人が全てを決めなければならない時代。これ以上縮みようがないほどに小さくなった世界。」
「………。」
「でもね。たまには、自分の魂が天地自然の一部だと思ってみると楽かもしれない。全てを任せ切って、ただただ呼吸するの。」
私の目の前で、姉の姿が変化を始めた。
真っ白なレース入りのチュニックとベージュのチノパンは、真夜中の色を映すビロードの如く闇の深い漆黒の僧侶服に。色白の肌がさらにすうっと色彩を失い、青白い人形のように。長い髪の毛は引っ込んで、背は縮み、微笑みが途絶えて無表情に。ただ、目ばかりが大きく見開かれて、真っ直ぐにこちらを見つめている。
伊藤一郎の姿の姉が、いつものように。まるであの森の中で川のせせらぎを眺めている最中のような自然さで、私に語りかける。
「…ほうらご覧、夜だよ。」
涙を拭って周囲を見渡すと、夜だった。そして、田舎だった。いつのまにか、さっきまでいたはずの真っ昼間の公園は跡形もなく消えていた。
紺碧の空。どこまでも広がる稲畑。金色の稲穂が、刈り入れ期を待ち侘びてゆらゆら揺れている。地平の果てまで覆い尽くした夜の闇に、うっすら田園地帯が水色に染まって見えた。
「これは…東北のおばあちゃんたちの家?」
「そうそう。いつか二人だけで訪ねて行った、秋の超忙しい時期の田んぼ。」
「……幻を操るなんて…。銀ちゃんにもこんなことできたんだ。」
「ん?こんなの、誰にだってできることじゃない?」
「え、そうなの……?」
………こんな不思議なことは、あの山寺の人間か、精霊しか起こせないと思っていた。
涙も引っ込むほど驚いて私が絶句していると、姉が穏やかに包み込むように微笑んだ。
「私たちは、地球全部…いや、宇宙なんだよ。ゆっくり目を閉じて、深く呼吸して…。エネルギーの塊が、ゆらゆら揺れている。」
「……どこに?」
「ゆっくり。ゆっくり。慌てない。エネルギーはそうね、森羅万象を象る、うーん、海水のようなものよ。ぐーるぐーる海の水が流れてゆく中を、ちっぽけな私たちが泳いでる。ほーら、闇の中に、青白い流れがぼぉっと光り、明滅し、うねりながら、揺蕩うているのが見えてくるよ……あ、別に“目“を開けろっていう意味じゃないからね。“心の眼“……“第三の眼“を開きなさい。大丈夫、これは誰でも生まれた時から持ってるものだから。」
ゆっくり。ゆっくり。呼吸の奥深く。奥深くへ沈んでゆく。
姉の言葉通り、大地へと呼吸を通してゆくように、静かに静かに、長く細く、染み渡らせるよう息を吐く。
「……あ。」
—————“私“は、白く柔らかな小魚だった。
気付けば、海が広がっている。
その真ん中に小魚が一匹だけで、冷たい海水に揉まれている。
敵はいない。
安全な場所だ。
まるで絵画のように美しい紺碧の闇。
ゆうらゆうらと、勝手気ままに泳いでいる。
一体どこに、行こうとしているのだろう。
「あなたの姿は、見えた?」
姉の声が、天と地から湧いてきた。
ごろごろと響く海鳴りのように、低く重々しい。その重厚さが、心地良かった。
私が頷くと、姉の声はなおも轟くように問いかける。
「それじゃあ、今からこの“あなたというお魚さん”を消してしまいます。いいかな?」
「………うん。」
「その魚の皮をよく見て。そんなものは、すべて幻よ。みんなは勝手に見えない手を創り出し、その手で海水をそっと囲って、“これは私” “これはあなた” などと言ってるだけ。だから静かに、その手を離してご覧なさい。勇気を出して、解放してあげるの。」
「…………。」
「小さな魚が、水に溶ける。皮なんて、鱗なんて、もともとどこにもないものだったのよ。さあ、そっと息を吐いて。吸って。……今よ。」
姉の暖かい手が、私の手を包み込む。私はぎゅっと握り返した。
まるで呪文のように、姉の声が辺り一帯へ二重三重にも響き渡る。
「私は、全て。全ては、私。……宇宙に境界線など存在しない。私たちは宇宙そのもの、地球をめぐる風であり、燃ゆる太陽の炎であり、暗黒のブラックホールであり、銀の金平糖を撒き散らしたように美しい天の川銀河である。この世を、全てを包み込み、受け入れる大いなる存在。そう、—————
——————私たちは海野よ。」
はらりと、紅葉の葉が一枚、私の前に舞い落ちる。
もう、秋も盛りの十月なのだった。
白い魚の影がチラチラと、公園の木々の間を縫って泳いでゆき、陽の光に差された瞬間、白く輝いて………散って消えた。
1、2、3、4、5、6、7、8。
カウントに合わせ、五人のサンタクロースが軽やかなステップを踏みながら前に躍り出る。八匹のトナカイたちは一旦下がって、真っ白な雪をイメージして三人一組で回転しながら伸びやかな振り付けを。
ただ一人だけが踊る花形は、プレゼントの中身をイメージしたピエロ人形の格好。幼い頃からバレエを習っていたダンス部のスターが、堂々と圧巻の舞いを披露。
最後に紙吹雪を散らして………
「「「「メリークリスマス!!」」」
ポーズ。
決まった。
肩で息をするダンス部のメンバーは、みんな真っ赤に頬を蒸気させて笑っている。私も通販で買ったサンタ帽子————しっかりピンで固定したはずなのに完璧にずり落ちている————を手で直しながら、カメラを構えた観客のクラスメイトにピースサインを送った。
牧田恵里ちゃんが一生懸命に手を振っているのはいつも通り。
どんな行事にも首を突っ込む田中碧くん、水原優香さん。たまにふらりと現れる阿部麻子さん。それから伊坂翔太くんも、『ダンス部主催:クリスマス特別ライブ!!』を観にきてくれたようだ。
なんだかんだ忙しい人の多いこの学校では、アリーナで放課後に開催する自由参加ライブへわざわざ来てくれる人はかなり少ない。意外な観客の同級生率に驚きながらも、私は嬉しかった。
あまり活発とは言えないダンス部。
そこまで好きだとも言えない部活動。
身を入れて頑張っていたかと問われればそうでもないし、高校生活で一番胸に残るような思い出や友人も、ここではあまり出来なかった。
それでも毎週二回一時間ずつ、コツコツと活動を続けてきた。六月には梅雨の定期ダンス会の上演、十月の文化祭の時は大量の曲を踊り、メンバーの誰もが振り付けを覚えるために、自宅で何度もビデオを見ながら練習した。
その、集大成。
二年生で最後まで頑張って続けていた先輩たちも、大半が今日ここで抜けてしまう。
「……よし。じゃあ、みんな体育館の真ん中に集まろう!」
そう、この部長さんがダンス部を引っ張るのも、これで最後だ。
夢芽先輩。いつも頭の天辺でお団子を作っている、勝ち気でお洒落で笑顔が眩しい天性のリーダー。
彼女も今日で引退し、部活は一年生たちが主導していくことになる。
……と、突然二年生の先輩たちがてんでんばらばらの方向へと駆け出して、アリーナの外へと走り出した。突然の先輩たちの失踪。戸惑ってキョロキョロ辺りを見回し始めた私たちに向かって、一人だけ残った夢芽先輩が、マイクを拾って電源を入れると、えへんと咳払いをした。
「えー、今日でクリスマスライブも無事に乗り切りまして、私たちも引退です。……いやぁ、ほんっとに寂しいです!っていうか、多分寂しすぎて部活また顔出しに来ちゃうと思います!」
キラキラモールで飾られたマイクを握る先輩。私たちはだんだんと状況を理解し始めて、真剣な表情で先輩の顔を見つめ出した。…これは、別れだ。先輩たちが用意した、別れの舞台だ。
少しずつ掠れてゆく先輩の声。とうとう夢芽先輩の言葉にぐすん、と鼻声が混ざって、みんなが苦笑いを浮かべた。先輩も泣きながら笑っている。
「でもなんと言っても、うちのダンス部のモットーは笑顔です!部長なのに泣いてごめんなさい!これから精一杯笑わせるので許して下さい!二年生が最後にみんなに贈るのは、オリジナルダンス:『ずっとずっとありがとう』!!」
先輩の宣言と同時に、大音量でアリーナに音楽がかかる。同時に、どこかへ行ってしまっていた先輩たちが舞台上へ躍り出てきた。
サプライズダンスだ。
一年生から隠れて、一から十までこっそり準備し、練習場所も時間も限られる中頑張って練習していたのだろう。キレのある先輩たちの踊りは本当にカッコよくて、眩しかった。夢芽先輩みたいに泣いている先輩もいて、こちらまで貰い泣きしてしまう。
煌めいている。
照明だけではない。
弾け飛ぶような笑顔と、流れる水のようにスラスラと溢れ出てくる言葉。
———多分寂しすぎて部活また顔出しに来ちゃうと思います!
心からの言葉だった。躊躇いもなく、臆面もなく、堂々と言ってのける。キラッキラに輝く、先輩。
来年、同じことをする時に。後輩に別れを告げる言葉の中で。私にあれが、言えるだろうか。いや、きっとあんな風には語れないだろう。
別にそれでいいし、私が夢芽先輩みたいになる必要もない。
落ち着いた表情で。少しだけ冗談を交えて喋って。キッパリとダンス部との関係を絶って受験勉強に集中する切り替えを確立する。もしかすればちょっとだけ、涙が出るかもしれない。
前に立って喋ることさえ出来れば問題ないのだ。それだけでみんなしんみりと感動できる。今お別れをしようとしている他の二年生の先輩たちも、同じだろう。きっとこのダンスの後に集まって、一人一言、後輩へのメッセージを喋る時間になるはずだ。その時には、恥ずかしがり屋の先輩も、お茶目な先輩も、何だかんだそれぞれ良い雰囲気を作って語れるはず。
(………そう、それくらいならみんなできる。)
私が心の中で呟くと同時に、どこからか疑問の声が湧き上がった。
—————本当に?
—————誰かの前に立って喋ることすら出来ない人だって、いるんじゃないの?
その声は、私自身の声だった。間違いなく、見て見ぬふりをしようとしていた思考へと、その声は私を誘導する。
(……こんな時まで、私は。)
先輩のお別れダンス会の最中だというのに。全く、私は。私は自分自身に呆れ返りながらも、認めざるを得なかった。出会ってからおよそ九ヶ月。四六時中私の頭を支配するようになってきた、一人の男子生徒のことを。
伊藤、一郎。
入学式の日に、私の隣に座っていた男子。藤笠寺の住職の後継息子。ものすごくおかしな人。
(…ねえ、一郎くん。私はやっぱり、わからないよ。)
彼は一体何者なのか。私が彼に抱いている気持ちは何なのか。私の周りは、わからないことだらけだ。
この前、姉に向かって“私は恋をしているかもしれない”と口にした時。何かが致命的にずれていると感じた。私の感じている気持ちは、そんなに甘酸っぱくキラキラしたものではない。ただ、病気になった時に梅干し入りお粥を啜ると安心し、気分が落ち込んだ時に森の中で鳥の声を聞くとすうっと心が浄化される……そんな風に、空いた傷口を癒してくれる存在として、認識しているのではないか。そんな気がした。
(一郎くんは、どうして浄化するのがあんなに上手なのだろう。)
話すたびに、不思議だった。
森と話しているような、心の洗濯屋に真っ白に洗ってもらっているような。
個人と個人の対話がものすごく上手な、それなのに人前で喋るのが苦手な変な人。
入学してからすぐの頃、英語の授業でグループごとのプレゼンテーション発表があった。一郎くんは一言二言喋って、それでお終い。後は残りのメンバーがほとんどの語りを担当。…もったいない、と思った。あんなに穏やかな声を持っていて、英語も上手なのに、なぜ不自然に思えるほどほんの少ししか喋らないのだろう、と。
…しかし、すぐにわかった。
彼は喋らなかったのではなく、喋れなかったのだ。しかも、あれでも頑張っている方だった。
私たちの所属したクラスでは、誕生日を迎えた人を放課後に祝う風習が出来上がっていた。ハッピーバースデーの歌を歌い、祝われた当人は教壇に立って一言二言お礼の言葉を言う。たったそれだけの小さな行事だが、クラスの結束力を強める力はバカにならない。
誕生日は回っていき、ついに最近、一郎くんの番がきた。
教壇へと登った彼は、傍目にもはっきりわかるほどに青くなっていた。何かを言おうとして、失敗。唇を何度か震わせた彼は、結局ただスッと頭を下げて、転げるように教壇を降りた。
入学初日。
彼はきちんと自己紹介を行なっていた。
名前と、よろしくお願いしますの挨拶だけだったように思うが、前に出て喋ることは、問題なかったように見えた。
英語のプレゼンテーション。
少しだけだったが、それでもきちんと自分の出番は全うしていた。
しかし、現実に、それが出来なくなっている。
授業で指名されても、一郎くんが喋ることはない。一度国語の授業の丸読みの時間、教師に『お前はやる気がないのか』と雷を落とされた後、その教師の授業の間だけ保健室へ逃げるようになってしまった。最近、どんどん顔色が悪くなっているように思える。
寺へ行っても、中々会えなくなっている。藤笠山の自然の中でさえ、目を逃げるように逸らされることまであった。
一郎くんは誰よりも落ち着いているように見えて、実はそうではないのではないか。危うい薄氷を踏みながら、ピシリと走る亀裂に怯えながら生きているのではないか。
私は不安だった。彼の助けに、なりたかった。
姉と話してみてから、私はまた色々考えた。考えすぎて、夜が明けそうになり焦ったこともある。確かに彼のことは気になる。けれども一生一緒にいたいとか、独り占めしたいとか、そのような気持ちは湧かない。私が人生のパートナーに選ぶのは、きっと彼ではない。だけどそれでも、関係を断ちたくない。
天地自然の流れから自分を見下ろして、私は自分というものの不思議さを実感した。
私の中には、様々な矛盾がある。
冷めているようで、燃えているよう。
会いたいようで、会いたくない。
知っているようで、知らない。
望んでいるようで、捨ててしまいたい。
ぐるりぐるりと渦巻く夜の吹雪。今頃、山には雪が積もっているだろう。クリスマスのイブには、幾人の恋人が笑って泣くのだろう。
————考えるのに、疲れたな。
もうごちゃごちゃ考えるのは、しばらくお休みにしよう。
私はただゆっくりと、アリーナの大きな窓の外を見上げた。
……見上げた空に、パラパラと、粉雪が降っている。
♢
雪を被った山は、美しかった。
寺の屋根にも銀色に煌めくふわふわ帽子が鎮座している。
私はざくりざくりと雪を踏んで、山路を歩いた。驚いたことに、藤の花はまだ咲いていた。麓をぐるりと囲むように、年中薄紫色の花弁を揺らしている。肝心の『藤神寺』の周囲では枯れた藤棚しかないというのに。
寺にお参りして、好きな場所に腰を下ろして、空を見上げる。
一人ぼっちの参詣にも大分慣れた。手を叩いたりお辞儀したり、当初は緊張でガチガチになっていたけれど、もっと自然に手を合わせられるようになった。今ならわかる気がする。初めて一郎くんと出会った時、彼が枯れた藤棚にお辞儀をした理由が。
この山では、何もかもが精霊なのだ。寺も。鐘つき堂も。竹藪も。池も。動物も。人間も。箒も。木の実も。花も。何もかも。
自然に畏怖の念が湧いてきて、頭が下がる。そっと手を合わせたくなる。
はぁっと息を吐くと、白い呼気が立ち上った。一瞬、霞が命を得て、そして消える。
ふと、私は思った。もしも霞たちに心があったら、“死にたくない”と思うだろうか。あの一瞬ばかりの人生では満足できないと、啼くだろうか。
…おそらく、そうはならない。
形こそ変われど、天地自然のエネルギーの一部として、霞の命は消えることがない。緩やかに、しかし次々と変化しながら、ぐるぐる大地を巡る。霞は雲になり、雨になり、海になり、また雲になり、あるいは動物の血液となり、呼気となって吐きだされもする。
……宇宙に境界線など存在しない。私たちは宇宙そのものだと言った、姉の言葉を、思い出す。
確かに、その通りだ。
私個人がどんなに恥をかいても。注目されても。悲しがったって。苦しがったって。人との違いを主張しようが、同じところを強調しようが。私たちは、宇宙の一部としてそこにあり続ける。
そう思うと、すっと心が軽くなった。
仏教の教えだ。
きっとあれを話してくれた時に姉の姿が一郎くんに見えたのは、気のせいではなかった。あれは、釈迦だった。私にとっての釈迦は、一郎くんだった。
「………会いたいな。」
呟いた。しかし、一人ぼっちだった。
しばらく待ってみて、それでも誰も来なかった。ただ、時々風に枝が揺れ、真っ白い粉雪が私のビニール傘の上にしんしんと降り積もってゆくのみだった。
私は少しだけ不安になった。この寺を訪れた時、誰にも会わないということがなかったのだ。どこにいても、何をしていても、必ず一郎くんや仁朗さんが出てきた。
……その際、かなりの高確率で、木の上や藤棚の上や屋根の上など、おかしなところから登場するのだが。
会いたい、と願った時などは、風の神様が味方しているのでは?と思うぐらいに早く参上してくるのが恒例だった。
……誰も、来ない。
おかしい。
いや、おかしいと思っている私が、おかしいのかもしれない。家族経営のお寺で、息子は山を自由に放浪し、母は台所に篭り切り、おまけに父の住職さんがしょっちゅう山の外へ遠出しているようなところだ。一度くらい誰にも会えない日があっても当然のことだろう。
私が諦めて、石の上に寝転がろうとした時、向こうの方でチラリと白い影が動いたのが見えた。
「………あれ?」
白い影は、ブナの木の上にある。そばには銀色の脚立が立たせてあるが、木登りした人物はすでにそんなものに足も届かないほど遥か上にいるようだ。ふわふわのうさぎのような、小柄な体。白い着物に、白い割烹着。あれはきっと………
「…………お雲さん?」
屋敷から出たお雲さんを見たのは、これで二度目だ。一度は花火大会の夜。二度目が、今日。
「なんで?」
しかも、やはりというか木登りをしている。この家族、本当にどうかしているのではないだろうか。
私は少し躊躇ったが、人恋しさも相まって、近づいてみることにした。ただし油断は禁物だ。もしかすると、精霊が化けているのかもしれない。
“化粧の下は暗黒の闇で、眼が獣”。
これが悪霊を見分ける最大の注意点だ。そうでない場合も、よく事情を知らないものに突き当たったと思ったら、できるだけ不干渉を貫くのがよいらしい。下手に手を出して面倒事に巻き込まれては叶わないと、私もこの一年で学んだのだ。
ブナの木の下にたどり着くと、私はグッと顎を上げて木の天辺を見上げた。…やっぱり、お雲さん。多分本物だ。まだ私には気づいていない。
このまま去るか迷って、そしてやはり声をかけることに決めた。面倒ごとを見つけたら、とにかく飛び込んでみる。もはや慣れきってしまった、私の流儀だ。
大きく息を吸い、腹に気合いをためる。
「こんにちは!ご無沙汰してます!」
叫ぶように上へ向かって呼びかけると、お雲さんが驚いたようにこちらを見下ろした。心底びっくりしたようで、細く凍りついた枝に捕まっていたお雲さんが、遥か上でつるりと足を滑らせたのが見えた。
さっと、私は青ざめた。
やってしまった。お雲さんが、落ちる。
——————人が、死ぬ。
私が駆け出すのと、ブナの枝に降り積もっていた銀の雪の塊が、バサバサッと飛び立つのとが同時だった。
銀色の砂粒の群れが、お雲さんの体全体を包み込む。煌めく巨大な蚊柱のような塊が、ゆっくりと、天から降ってくる。落ちてくる人をキャッチしようと腕を差し出し、足を肩幅に広げて踏ん張った格好から動け無くなった私を完全に無視してふゆふゆ漂い……その銀色の繭は、雪の布団の上にお雲さんを横たえた。
「………ぁ。」
私は一瞬安堵でへなへなと崩れ落ちそうになり、慌てて足に力を入れてお雲さんの方へ走り出した。お雲さんは、いつにも増して血の気のない顔色をしていた。しかし、駆け寄ってきた私の顔を見て、全くいつも通りに優しく微笑んだ。
「…なぎさんでございましたか。」
彼女は落ち着き払って正座へ座り直しながら、こんなことを言った。
「寒いですねぇ。雪虫の餅入りお汁粉を拵えましょう。小豆は苦手ではございませんか?」
「そ、その。さっきはすみませんでした!」
「おや。」
お雲さんはいつも通りだが、私はこのままでいるわけにはいかない。兎にも角にも、さっき驚かせて命を危機にさらしたお詫びをしなければならない。そう、私はせめてもの思いで雪の上で土下座を敢行した。…だが、お雲さんはどこか困惑したような表情を浮かべた。
「…もしや。あなたが声をかけた所為で私が落ちそうになったと、お思いですか?」
「えっと…逆に、違うんですか?」
「ええ、違います。」
あっさりと言われて、私の方が混乱した。あれを落ちると言わないのなら、他にどう説明すればいいのだろうか。
「私は夫のように身軽ではありませぬ。木に登る際は、脚立を。そして、塩を使います。」
「塩?」
「ええ。塩でございます。」
私が首を傾げていると、お雲さんが、雪の上を差し示した。へこんで雪がぐしゃっとなっている。お雲さんが落ちたところだ。私が固唾を呑んで見つめる前で、お雲さんが静かに唇を尖らせ、口笛を吹き出した。するとどうだろう。驚いたことに、雪の一部がキラキラ光りながら空中に浮き上がったのだ。
「…す、すごい…。」
雪、ではない。あれは塩だ。
太陽の光を浴びて銀色にキラキラ煌めきながら、塩の塊はブナの木の足元に転がっていた籠の方へふゆふゆ移動してゆくと、ファサッザザァーッとその中へ落ちるように注がれた。
「どうでしょう?」
「塩が……口笛で動く……ええ?!」
「私は台所で暮らす人間でございます。塩とは何十年来の魂の友でありますゆえ、この程度のことならば造作はございませぬ。」
少しばかり誇らしげに胸を張るお雲さん。きっと、本当に塩とは友達なのだろう。そうでなければ、塩に体を預けることが出来るわけがない。少しばかり空恐ろしく思いながら、私は「なるほど…」と呟いた。
「あのぅ、お雲さんはなぜここに?」
「雪虫を狩りにでございます。」
「……雪虫ってなんですか?」
「雪に紛れて木に降り積もる、特別な粉のことでございます。あれをスープの中の具材に入れますと……すなわち今回のようにお汁粉を作るのであればお餅に入れますと………それが、熱い汁の中で踊ります。」
「踊る?」
「百聞は一見にしかず。直にご覧になるのがよろしいでしょう。」
お雲さんに連れられて、お屋敷へと上がる。一郎くんは家に帰っていないようで、一番手前の部屋は空っぽだった。何度も寺を訪ねるうちに、一番手前の畳部屋だけでなく、洋風のテーブルが据えつけられた板敷の部屋や楽器部屋などへも通してもらうようになっていたが、私はここが一番好きだった。なんと言っても、縁側と繋がっているのがいい。
私はお雲さんが台所へすうっと姿を消したあと、そろそろと立ち上がって襖をずらし、廊下へと出てガラリと戸を開けた。
ひんやりと凍えるような冷たい空気が入ってくる。空気が水色に染まっているようだった。スケートで遊ぶのに十分なくらいカチカチに凍りついた、冬の海の色。しんしんと粉雪が降り続けていて、春には色とりどりだった庭の植物たちも、黒と白のツートンカラーだった。
手袋を脱ぎ、寒さで真っ赤になってしまった手の指を首の中に入れて温める。霜焼けの酷さで言えば姉よりはマシだが、私もかなり弱い。毎年もこもこの靴下やスリッパで防備しても足先がパンパンに膨れて痒くなる。この上手指まで侵食されてはたまらない。
ちなみに霜焼けの酷かった姉の話によると、彼女は幼い頃、手の指が破裂して包帯を巻き、それがくっついて剥がれなくなることの繰り返しでうんざりするほどだったらしい。…恐ろしい話だ。
今も手や足の健康を考えれば、今すぐに戸を閉めて暖房の効く部屋に戻った方がいい。縁側から眺める冬の山野の景色など、白黒で面白くもなんともないのだから。頭ではそれをわかっていながら、私は目の前の景色から目を離せずにぼんやりとしていた。
—————冷たい。
北風が私の頬を切るように吹きすぎてゆき、ざあっと遥か向こうの大樹の枝を揺すったと思ったら、雪をどさりと振り落とす。ザザァ。ザザーァ。サラサラ。トサッ。ダイヤモンドで出来た砂粒のように、透明にキラキラ光りながら落ちてゆく。
雪山。
水の結晶に包まれた、恐ろしく静かな場所。
なぜか、心地よい。
母親のおくるみに包まれて、揺り籠の真ん中で眠る赤ん坊になったような、不可思議な気分に満たされる。
いつまででも、見ていたいと願った。
哀しかった。
私という存在が、宇宙に対してどんなにちっぽけなものだろう。そして同時に、どんなに大きく広がっていってしまうのだろう。刹那だろうと、永遠だろうと。命というものは、どうしようもなく儚い。真っ当な現実だけでは耐えられないから、私はきっとこの山に来る。灰色の毎日に揺さぶりをかけて、見えていなかっただけでずっとそこにあった、たくさんの鮮やかな色に気づくために。
「————お汁粉、ご用意致しましたよ。」
はっと振り向くと、そこには湯気を立てるお盆を携えたお雲さんがいた。相変わらず白ずくめで顔色は青く、幽霊だと言われて十分納得してしまう容姿。しかしもう、私は怖がることはなかった。お雲さんは優しいお母さんだ。一郎くんが弟を亡くした日、彼女は息子を亡くした。きっと私などには推し量れないほどの辛い思いを味わったはずだ。母親にとって、子供がどんなに大きな存在であることか。
…しかし彼女は立ち直った。こうして立派に台所に立ち、家族やその友人や、あるいは精霊に贈るたくさんの料理を作っている。
お汁粉は、赤い漆塗りのお椀に入っていた。ちょうど二杯。お茶も二杯。
「ありがとうございます。」
私はにこやかに微笑んだ。お雲さんは、毎回必ず自分の分を勘定に入れる。そして、客も家族も自分も関係なく、完璧な等分で器によそう。こちらも余計な気遣いをせずに済むのでとても有難い。
お雲さんはちゃぶ台の上の一輪挿しをちょっと脇にどかし、ことんとお椀を二つ置いた。ゆらゆらと白い湯気が立ち昇っていて、熱々の出来立てであることがわかる。私が覗き込むと、椀の中で何かがむごむごと魚のように動いているのがわかった。
……これが、雪虫をお餅に入れた効果だろうか。
「うわぁ…。」
「紫色の小豆の海における、白い餅の遊泳でございます。粋でしょう?」
ぴょこん。時々、餅の塊が顔を出す。本当に生きているような、そんな不規則で滑稽な動き方だった。
「面白いです。」
私が言うと、お雲さんは嬉しそうに微笑んだ。その赤い瞳の奥に、小さな哀しみの情感を湛えて。
「……夫も。一郎も。次郎も。あなたのように目を輝かせてくれました。」
「次郎くん……あの、去年お亡くなりになった男の子ですか?」
その話は、あの花火の日に一郎くんから聞いている。
お雲さんは、お茶を一口啜ると静かに頷いた。
「ええ。あの子はヒグマのように強く、蛮勇に溢れた子でございました。…それこそ病気で死ぬことなど信じがたいほどに丈夫であったのです。」
「…………。」
「小児がん、でございました。現在の医療では生き抜く子が多いと聞いたのでございますが、それにも例外というものがありましょう。きっとあの子は、幼くして精霊界に召される運命であったのでしょうね。」
「…精霊界、ですか。」と私が呟くと、お雲さんは頷いた。
「山でございます。森でございます。風の夢に、花の香に、川のせせらぎに、あの子は今も息づいているのです。」
すうっと目を細めて、遠くを見るお雲さん。その頬はいつにも増して透き通り、血の通っていない雪人形のようだった。浮世離れした相貌は、今に始まったものではない。しかし、私には彼女がとんでもない崖っぷちをふらふら彷徨いているような、酷く危うい存在に思えた。
どうにかして引き戻さなければならない。けれでも、同時にそれに触れてはいけないと思うような、強い畏怖の念も湧き上がってくる。雪。氷。その極小の粒が集まって出来上がるという……雲。きっと、触れればとても冷たいに違いない。
私は、深く息を吸って、ゆっくりと口を開いた。
「あったかい。美味しいですね。」
「え……えぇ。そうでしょう。…これは伊藤家の秘伝のレシピでございますゆえ。」
お雲さんが、少しだけ自信に溢れたいつもの表情を取り戻して微笑む。私はお雲さんのその台詞を聞いて、なるほど!と笑った。少しわざとらしいかもしれない、というくらいに明るい声で私は喋る。
「すごくおいしいです!お餅が泳ぐだけじゃなくて、甘さもちょうど良くて、小豆の香が、ふわぁって鼻に飛び込んできます。これは羨ましいです!毎年食べたいです!」
「……ふふふ。森の力でございますよ。」
「森ですかぁ。私もいつかあやかりたいです。」
「自然の懐は広うございます。意識せずとも、みな生まれ落ちた時から招かれているのですよ。」
「なるほど。言われてみれば、確かに、そんな気がしてきました。」
私たちは、ふうふう吹いて冷ましながら、熱々のお汁粉を食べた。雪虫の入ったお餅は、口の中に入ってもモゴモゴ動き続け、私は未知の感覚に目を白黒させた。
しばらくして雪も止み、私たちもおやつを終える。そろそろ帰ろうかと立ち上がる。
玄関の前で、別れのお辞儀に頭を下げた時、お雲さんが私に向かってなんとも言えない目で微笑みかけた。
「………あなたは、良い子でございますね。」
「え?」
「いえ。私はもう数十年若ければ、一番の友人として付き合いたかったと…そう、ふと思ったのですよ。」
私は嬉しいような、こそばゆいそうな、むずむずとした感覚に囚われた。お雲さんの表情は柔らかかったが、真剣そのものだった。私はなんとか「ありがとうございます…」とだけ言って、口篭った。
お雲さんの年齢は四十半ばを超えているだろう。二人の子を産み、そのうち一人を亡くし、人生の酢いも甘いも噛み分けてきた初老の母。それでも私には、彼女がまだまだ若い学生の心を抱えたまま、必死に生きているように………つまり、彼女の魂は全く老いていないピュアな存在に思えるのだった。
「…私も、伊藤ではなかった頃もお雲さんに会ってみたかったです。手料理ただで食べさせてくれたでしょうから。」
「ふふふ。高校の時分、私の料理の腕前はまだまだ……いえ、はっきり言いますれば、壊滅的でございましたよ?」
「えぇっ?」
この数十秒間。
私たちは、少しだけ親しくなった。
そして私はもう一度頭を下げて別れの挨拶を言うと、閉じたビニール傘を片手に雪の山路へと足を踏み出した。
—————あぁ、寒いな。
コートを掻き合わせて手にハァッと息を吹きかけると、白く煙る。
美しく静かな銀世界。薄暗くなってなお、煌めくシャンデリアのように装飾された樹々の枝、黒々と胴体を魅せる大木の太さ。
—————あぁ、泣きたいな。
涙が滲む。幸せで、嬉しくて、楽しくて、……それでも、哀しくて。
なんで、美しいものを見ると泣きたくなるのだろう。
きっと、幸せというものがものすごくいっぱいここにあって、それでもこの世のどこかに、不幸が降り積もっているのを知っているから。
どこか、私の見えないところ。
…それがいったい何なのか、どこにいるのか。何もかもが、わからない。後から後から、どんどん真っ白に雪が降ってきて、全てを覆い隠すのだ。
いったい、私が熱い涙を流して、凍ったものを溶かしてしまえば、その正体がわかるだろうか。
きっと、わからない。
わかるはずの、ないものかもしれない。
……それでも。
——————今日はクリスマス。サンタクロースが、プレゼントを贈ってくれる夜。
今はひとまず、何もかもを忘れたい。
一郎くんが、学校を欠席した。
理由は誰の目にも明らかだった。今日は学校の小さな行事の一環で行われる、スピーチコンテストのクラス発表日だったからだ。全員がテーマを考え、英語で内容を練り、一人ずつ前に立って三分間の発表をする。テーマは完全に自由で細かい決まりは特になし。生徒投票と教師投票の結果で上位者が決まってゆく勝ち上がる戦方式。最終的には学年ごとに一位から三位が決まるので、発表が進むにつれ徐々に熱気を纏い始める生徒たちによる壮絶なバトルが繰り広げられる。全力で笑いを取りに行く生徒、真面目な研究の考察を述べる生徒、大好きな趣味について熱く語る生徒など、それぞれの個性が爆発する面白い行事だ。
もちろんこの行事が苦手な人、もっと言ってしまえば大嫌いだ、という人もいるだろう。しかし結局は、英語の得手不得手、人前で話すことへの興味関心の度合いに関わらず、みな懸命に最善を尽くす。困難を乗り越えること。それも人を成長させるという、行事の目的の要なのだから。
しかし、一郎くんは参加できない。“発表“という簡単なことが、できない。きっと、教壇に上がった瞬間に彼は言葉を無くす。顔色がすうーっと白くなって、何も言えずに一礼して席へ戻る彼の姿が、ありありと目の前に浮かぶようだった。
クラスの誰もがわかっていて、口にはしなかった。先生方も目を瞑っているし、きっとこれは無かったことになるのだろう。
彼一人だけ辞退を認めることは、学校の平等の精神に反する。そうかと言って、参加を強要することはできない。あまりにも。あまりにも。彼にこの行事は酷なのだ。想像してみて欲しい。クラスメイト四十人分の視線……これは多分一郎くんにとって、四十人分の殺人者の目で見つめられるに等しい。『活字が僕を殺そうとしている』『ボールが殺人鬼だ』。何の感情もなくそう言った一郎くんの心の中は、きっと傍目からは想像もつかない嵐が吹き荒れている。
私は不安だった。
一郎くんの心は、壊れそうになっているのではないか。
高校生活の一年目の終わりを目前に控えた今。ただでさえ不安定な思春期だ。進学したことで環境が激変し、ストレスというストレスを抱え込んだ彼の魂は不可視の傷でズタズタになっているのではないか。
昔、姉が言った。脆いものの例えによく用いられるガラスは、理論上では実際の百倍の強度をもつ素材であるという。しかし、ガラスは簡単に割れる。なぜなら、表面に無数の細かい傷があるからだ。ちょっとした衝撃でその亀裂が大きくなって、ついにはガラス全体が粉々に砕け散る。
……今日一日、一郎くんが学校を休む。
絶対に避けなければならない授業を休み、大きすぎる傷を回避する。
それで終わればいい。
壊れてしまうことなく。また明日への一歩を、踏み出せるのなら。
—————胸騒ぎがする。
理由はない。根拠もない。ただ…………不穏。
私は自分の発表“日本人の愛するもち米文化”の中身をシミュレーションしながら、どこか胸がザワザワ疼くのを感じていた。こういうのを虫の知らせ、というのだろうか。それとも、単に私が酷く心配性なだけなのだろうか。ぼんやりと黒板を眺めながら、私はふっと何かが頭をよぎるのを感じた。
下を向いて、私はこっそりワイシャツの首から内側へ手を入れる。そして首飾りにしていた“夜の護符”———これはいつも通り———そしてその灯火の中に収納していた、座敷童の枝豆を取り出す。
——————涙。
枝豆は、涙の雫がくっついてびしょびしょになっていた。まるで真夏の冷えたオレンジだった。透明な水の粒が次から次へと産み出され、あわや溢れるかというところで“夜の護符“の熱によって蒸発し、また濡れる。
私は息を呑んだ。
誰の涙?
誰が泣いている?
誰が助けを呼んでいる?
——————考えるまでもない。
私はスピーチコンテストのほとんどを上の空で過ごし、学校が終了すると同時に学校を飛び出した。通学路をひた走り、ちょうどバス停を出発しようとしていたバスへ必死に合図して停まってもらい、鬼気迫る勢いで駆け込む。今日の部活は無断欠席……つまりは、初めての“サボり”だ。誰にも連絡していないし、伝言を頼んでいない。しかも携帯は使用時間制限のアプリをつけているため、今は使えない。よって、連絡は事後承認の形になってしまうだろう。
私は日の短い冬空がどんどん暗くなってゆくのを横目に見ながら、座席のシートに頭を預けた。
私はバカなことをやっている。バカで、短慮で、直情的。そして……昔はできなかったこと。確かに私は好奇心が旺盛だし、余計なことにどんどん首を突っ込む。それでも、感情を制御するのは得意だった。絶対にやめた方がいいと思うことからは、落ち着いて背を向け立ち去ることができた。…否、立ち去らざるを得なかった。泥沼に嵌ってしまうような暗黒の予感に、ざわざわと逆立つ産毛。くるりと勝手に回転して後ろを向く踵と、目を瞑って早く行けと、囁く脳髄液。
…それなのに、藤神山へ入ったあの日から、私はどこか変わってしまった気がする。
なんというか、もっとむこうみずになった。
別に、いつでも先の先を見て慎重に行動する人生を送っていた私は、消えていなくなったわけではない。いなくなればいいとも思っていない。
そういう性格のお陰で、私は何度助けられたことか。夏休みの宿題を早々に終わらせて、残りの日々を心置きなく遊ぶのは、本当に気持ち良い。迷子にならないように徹底的にマップをさらう癖をつけたお陰で、人様に迷惑をかけた数はとても少なく抑えられている。提出物や必要な連絡、持ち物などの管理を怠らない私は、多くの人に信頼を寄せられている。
「…どこにいるの、一郎くん。」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、囁く。
バスを降りて、田舎道をひた走り、薄暗い濃紺の寒空の下、藤の花の簾が垂れている麓の入り口を潜って、山路を歩く。湿った爽やかな風が吹き抜けてゆく。足元には黄緑色の草が芽吹き始め、木々にも少しずつ芽が瘤のように隆起し出している。冬も、晩冬に近いのだろう。雪はほとんど解け、ぐしゃぐしゃになった泥と落ち葉の小沼があちらこちらに見られた。
寺へ、急ぐ。
彼は、家にはいないだろう。
もちろん、寺の敷地内にいるとは限らない。しかし、あの屋敷の中よりは、可能性がある。屋敷の中には、お雲さんがいる。一郎くんは、母親の目の届くところで泣くことはない。根拠はないけれど、彼はそういう人だという、確信がある。ならば、どこへ行けばいいのだろう?私が持っている、あまり多くないこの山についての知識の中で。あの寺だけは、何度も繰り返し行ったことがある。どこに何があるか熟知しているし、迷うこともない。
丸太が仁王立ちになっている門。枯れた藤棚。お湯池。鐘つき堂。竹林。おみくじ。本堂。賽銭箱。玉砂利の敷き詰められた参道。百葉箱。倉庫。天狗の葉団扇が成るという伝説のヤツデの樹。銀杏。桜。紅葉。その他諸々。見慣れた光景で、全てに馴染みがある。
「……どこにいるのよ、一郎くん。」
彼が隠れていそうな場所を、頭に思い描く。どこから探してみようかと、何度も景色を反芻する。それでも、わからない。想像すれば想像するほどに、彼はどこにもいないような気がしてくる。とっくにこの世界から消えてしまって、二度と会えないところにいるのではないか。精霊たちと同じ場所に行ってしまったのではないか。どういう、胃が捩れるような奇妙な感覚に苛まれる。
私は、首飾りから取り出した枝豆を掴んで、ぎりぎりと握りしめた。豆はずっと、泣き続けている。
彼はこの世界の、どこにいるのだろう。返事をして欲しい。どこに行った。どこに隠れた。一郎くんは、小僧さんは、蛇神様は、精霊の森の子は、お釈迦さまは、あの入学式で隣に座っていた、誰よりも脆い魂を内に抱えた、顔色の青白い男の子は、いったいどこに————
—————おねえちゃん?
「………え…?」
私は立ち止まって、目を見開いた。月灯りを浴びて、森の中、赤い着物の少女が、立っている。可愛らしい稚児まげ。勝ち気そうな吊り目。白く膨らんだ輪郭が薄ぼんやりと、樹々の影に浮かび上がっている。
—————こまってるの?
私は息を呑んでその姿を凝視した。心がすうっと冷えて、平になってゆく。
その声は、とても静かだった。か細い声。幼い子供が一生懸命に絞り出す、なけなしの勇気がいっぱいに詰め込まれたような声。
私は、少し離れた土の上に佇んでいるその幼女の姿を、じっと見つめた。
…そうだ。彼女には、前に一度会ったことがある。私は彼女の正体を知っているし、彼女に贈り物をすらいただいたことがある。
(—————座敷童だ。)
「…うん。一郎くんっていう人が見つからなくて、困ってるんだ。」
私が掠れた声でそう言うと、もはや座敷にいない座敷童の少女は、そうなのね、と頷いた。真っ赤に蒸気した頬は、緊張によるものだろうか。それとも、私に会うためにここまで駆けてきたのだろうか。
彼女はくっと顔を上げると、私をじっと見つめるその瞳に、強い決意の光を宿した。
—————こっち。ついてきて。
「……うん。ありがとう。」
—————おまめ、はなさないでね。
「え?う、うん。」
私は翡翠の色をした枝豆を、一層強く握りしめた。少女は、ぴょんぴょんと身軽に山路を進んでゆく。私は一つ息を吸って、その背中を追いかけ始めた。整備された道を外れ、やたらとキノコが生えている林の中を通り、ずんずん奥へと分け入ってゆく。
怖くはなかった。私には“夜の護符”がある。これを持っていれば、闇夜の森も、昼間とあまり変わらない。吸血鬼やクロクロ、マントゴースト、鈴鞠きのこ、その他諸々の未知の夜の危険を回避できるのだ。……まあ、道に迷うことは避けようがないかもしれないが。
だんだんと暗くなってきた。もう、これ以上陽が落ちると倒木にも気付かなくなるかもしれない。今通っているのは、細く背の高い樹が何本も連続して生えている林だった。やはり、ここも見たことがない。
唐突に、目の前に視界を覆い尽くすような影が聳え立った。……岩だ。
先導していた座敷童の少女が、道を塞ぐその巨大な岩をシュンッと飛び越える。およそ人間には不可能な、鹿のような身のこなし。私は彼女と同じ道を通るのはさっぱり諦めて、岩の周りをぐるりと回って向こう側に出た。
「…よいしょ…ふう……結構狭かった……」
岩と林との隙間はあまりない。ギリギリの通り道になんとか体を捩じ込んで通り抜けると、びゅるるうっと冷たい風が吹きつけた。思わず目をつぶった私の耳に、まるで鈴の音シャランとがくすぐるような声が届いた。
—————それじゃぁ、またね。おねえちゃん。
小さな小さな、耳を澄まさなければ取りこぼしてしまう、少女の声。……あ、と気づくと、少女は消えていた。と同時に、私の手から豆が転がり落ちた。皺皺に萎んで枯れている。あっと拾い上げようとした刹那、それはしゅうっと蒸発するように消えてしまった。
しばし呆然と立ち尽くす。
きっと、豆一粒の力を使い果たしてしまったのだ。私はゆっくりと、辺りを見回した。
そして、ふと気づく。私が立っているのは、見たことも聞いたこともない場所だった。大小様々な岩がゴロゴロ転がっていて、地面は灰色の砂利。月灯りに煌々と白く反射し、不思議な神秘性を持つ一角だ。耳をそばだてれば、ぽちゃぽちゃとどこからか水の流れるような音が聞こえる。
「…ここにいるの?一郎くん…?」
恐る恐る、囁く。私はゆっくりと辺りを見回した。水の流れてくる音は、案外近くにあるようだ。背後を塞ぐ巨岩をチラリと確認し、私は前を向いた。そこには、また別の障害物がある。少し小さめの岩が積み重なって、歪な天然の階段のようになっているのだ。
左右は崖のようになっているので、進むとすれば前しかない。そして、涼やかな水音は、その向こう側から響いてくる。
私は、おっかなびっくり岩階段に近づいていって、一段目に足を乗せた。大丈夫。かなりの重みをかけたがぐらつかない。よって、十分に私の体重を支えられる。
私は両手両足を使って登り出した。岩の階段の高さは三メートルほどだろうか。落ちれば怪我を免れないだろうが、死にもしないだろう。足場を探りながら、ゆっくり登ってゆく。
「よし、あと少し……」
汗を拭う。一番上に手を掛けて、一気に体を引き上げる。そのまま勢いで足を掛けて天辺を跨ぐと、パッと向こう側の景色が目に飛び込んできた。
「あぁ、やっぱり……」
やっぱり、小川だ。
私は納得して頷きながらも、少し驚いていた。水の音と、岸辺の砂利…ある意味ではこの光景は想定通り。が、予想外なのはその水の流れの大きさだ。思ったよりも広く、深い。轟々と流れてゆくこれは、もう小川と言っていいのかすらわからないくらいだ。おおかた、最近の雪解け水で量が増しているのだろう。
それにしても不気味だ。
そもそも闇夜において、川の水は真っ黒い。その川も薄暗く寒々しい空の色を反射し、岸辺に立つ人間に水底を見せることを頑なに拒んでいる。冷たい純真さがその空恐ろしさを一層際立たせ、ゆらゆらと立ち昇る妖気には鳥肌さえ立つほどだ。私は岩の天辺を跨いだ格好のまま、川を舐めるように凝視した。そして、ゴクリと息を呑む。
……どうしよう。
私が固まったまま目を泳がせる。馴染みのない川の岸辺には、多くの荒っぽい岩が転がって黒々と影を作っている。その中には小さな欠片も、大きな塊も、不思議な形に変形したものも、丸いのも四角くいのも、細長いのも、潰れたのも、そもそも質感の全く違う粘土のように見えるものもある。
————ん?
あそこに見える“あれ“は、川に生える水草…海藻のようなものだろうか。濡れて黒いぬらぬらとした布状の物体が、ふんわりと膨らんだようになって水に半分浸かっている。その両端からは青白いすべすべしたものが突き出していて、それはまるで頭部と足のようにも………
——————人間だ。
「……っ!」
気づいたら一瞬だった。私は怒涛の勢いで岩階段を駆け降りた。登る時はあんなに苦労したのに、降りる時はまるで滑り台だった。私は砂利の上に着地すると、ざざっと砂粒を跳ね散らかしてそこへ向かった。
「一郎くん!」
一郎くんが、川で気を失って倒れている。呼びかけても、みじろぎ一つしない。…間違いなく非常事態だ。川に落ちたのだろうか。いや、胸から上は水の外にある。半分うつ伏せで、眠るように目を閉じている。
何があったのかはわからないが、あのままでは体が冷え切って低体温症で命が危ない。
「起きて!死んじゃうよ!」
叫びながら駆けつけた時、私は一郎くんの首筋の真上に、黒い影があるのを見つけた。……なんだ?黒い蝶々だろうか?薄く透き通ったような羽が、月灯りにチラチラ光っている。触覚はなく、代わりにお団子結びのような髪と赤いリボンの髪飾り。人間の頭部そっくりの小さな小さな塊には、明確な死のイメージが躍動していた。
(………獣の頭だ。)
ひゅっと息を呑む。
—————深呼吸して、よく見るんだよ。
この目で見るまでもない。肌で感じる。こいつは。この、バケモノは。
—————そういう生き物は化粧の下は暗黒の闇で、眼が獣だから。
一郎くんに取り憑いて。彼の命を、生気を、生きる望みを、人生の全てを、吸っている。
「このバッカ野郎!!この小悪魔あああ!!」
喉が枯れ裂けるほどに、叫んだ。自分という存在の、タガが外れたようだった。何も考えられない。どうしたらいいかわからない。思考の片隅で、“清めの塩を投げつけろ”というメッセージが浮かんだような気がした。そうすれば奴らは退散すると。けれども、一体この私にどうしろというのだろうか。ただの一般人である私が“清めの塩”なんて常日頃持ち歩いているわけがない。お雲さんは言わずもがな、一郎くんや仁朗さんも塩袋をポケットに忍ばせておいてなんら不思議はないが、私はこの山の人間ではないのだ。そして一郎くんが持ち歩いていたであろう清めの塩は、とっくに川に浸かって流れてしまっただろう。
たった今私が持ち歩いているのは、財布、鞄、その中身の筆箱や教科書、そしていつでもコートの内ポケットに肌身離さず仕舞っている…………分厚い辞書。
私は半狂乱のように辞書を引っ掴むと、滅茶苦茶に振り回しながら突進した。金槌でも振るうように、一郎くんの首筋にとまっている小悪魔の羽を狙ってぶうん、と叩きつける。ガキン、と金属同士がぶつかるような音がして、小悪魔の体に辞書が受け止められた。
驚愕して、私は目をこぼれ落ちそうなほどに見開く。まさかこの、薄っぺらい体に傷ひとつ付けられないとは。
恨み辛みが燃え上がる花火のように打ち上がり、私は唸るような声を上げた。
「一郎くんもだよおお!!小悪魔なんかに負けてないでとっとと戻ってこい!!夢なんかに溺れてどうする!!!ねえ、私じゃどうにもならないんだってばあああ!!!」
私は足を振り上げて、靴の裏で小悪魔を踏み潰すようにガンッと振り下ろした。それも、ありえないほど硬い衝撃に阻まれて、相手は無傷で終わる。にやぁり、と。真っ白な化粧に塗れた獣の顔が、こちらを見上げて不気味に凄み笑いを浮かべてみせた。
ぞぞぉっと、背筋に寒気が走る。
冷水を浴びせられたような衝撃とともに、私の脳味噌が電気ショックを受けたような覚醒状態に陥った。
—————わしは、塩水は嫌いじゃよ
—————塩とは何十年来の魂の友でありますゆえ…
—————塩が……口笛で動く……ええ?!
ぐるぐると、思考が渦巻く。気付けば、私は息を吸っていた。すっと指を唇の間に挟み、目を閉じる。目眩が脳味噌を揺さぶっているようだった。私は何も考えていなかった。大事なのは、祈ることだ。念じることだ。意志の強さと、信じる心の純真さが、何よりも大事なことだ。思いを言葉にする必要はない。ただ、感じれば良いのだ。
ピーィイー!!!
『台所の塩たちよ。どうか助けてください。』
ピーィイー!!!
『あなた方の魂の友人である、お雲さんの息子が危ないのです。』
ピーィイー!!!
『どうか助けてください。小悪魔に魅入られた一郎くんの命を、どうか救ってください。』
…………ササァー。
恐る恐る目を開けると、小悪魔の姿は消えていた。代わりに、ふゆふゆと空中を漂う白い虫の群れのようなものが、目の前に浮かんでいた。
「……塩。」
白いものたちはぐるぐるマーブル模様を描いて渦巻きながら、私の質問に応えるかのようにザザァッと蠢いた。よくわかった。これらは確かに……塩だ。
「…あの。助けて頂いて、ありがとうございました。」
一時の沈黙。そして、塩たちはこの会話に付き合う必要はないと判断したようだった。おそらく、興味を無くしたのだろう。彼らの目的はお雲さんの息子の命を救うことで、見ず知らずの町娘とだらだらお喋りを楽しむことではないのだから。
塩たちはお互いにより集まってぎゅっと身を固めるように集まると、空飛ぶ蛇のような細長い形に変形した。そして身を震わせるかのように一つポンと宙返りを打つと、ふわりと空高く浮かび上がる。最後に、ザザァーッと樹々の間に突っ込み、信じられないスピードで走り去っていった。
塩たちが行ってしまってから、私はヘナヘナと座り込んだ。
いなくなっていた音が戻ってきたように、川のせせらぎがやけに煩く聞こえてきた。ぽちゃぽちゃと岩にぶつかる音に、魚がピシャンと跳ねる音。川の香までが、ゆらゆらと漂ってくる。
しばらくそうしていた私は、フウゥ、と吐息をついて、ゆっくりと空を見上げた。そして、涙を拭うと、もう一度下を向く。私は、怒られては泣いていた幼児の頃以来のぶっきらぼうな声で、呟いた。
「このバカ。」
「…………。」
「喋れないの?生気を吸われすぎて、口を動かす元気すらないと?」
「…………。」
「肯定、と。本当に信じられないよ。ねえ、どれだけ心配したと思ってるの?」
一郎くんが薄く目を開けていた。しかし本当に生きているのかすらわからないくらいに、彼の顔には血の気がなかった。全身から力が抜けてしまったのか、目を合わせるために眼球がゆっくりとこちらを向いたきり、指一本動かす気配すらもない。
私の顔を見上げた一郎くんが、突然寒気を覚えたように喉を震わせる。続いてゆっくりと唇が動き、う…と呻くような息が漏れる。先ほどよりも大きく開いた目も訴えかけている。何かを喋るつもりだと理解して、私は彼の口のそばに耳を寄せた。
「……いっ、たい、どうして……海野が、ここ、に、いる?」
まるで、死にかけの蛇の口から出るような、掠れ声だった。あまりにも弱々しいそれに、私は怒る気もなくしてしまった。
「………………たまたま一郎くんを探して歩いていたら、小悪魔に取り憑かれて倒れてたから、急いで駆けつけたの。」
これでは前と反対だ。あの日は、私が小悪魔に化かされて、一郎くんに怒られた。今夜は、一郎くんが倒れているところに、私が危機一髪で駆けつけた。
本当に、なぜこんなことが起こったのかわからない。別の生き物に拘束されて無抵抗の状態を強制されたのか、またはそれこそ自殺でもしようと思ったか。
「ねえ。どうしてこんなバカなことになっちゃったの。一郎くんなら、あんな邪悪なオーラに包まれた獣、一瞬で看破してやっつけられたでしょ。」
「…………た…だ。」
「え?」
私が再び耳を口のそばへ近づけると、一郎くんの掠れ声が囁いた。
「小悪魔……を、梅の樹の、蝶、だ……と、勘違い……した、んだ。」
「なっ。」
私は愕然とした。あの、一郎くんが。銀竜草はキノコの生えるようなふかふかの腐葉土たっぷりの場所で映えるのであって、水面に浮かんだりしないのだ、と私に教えた一郎くんが。こんな、どう見ても梅の木の生えるところではない水辺の砂地で見た幻に、騙されたのだろうか。邪悪な生き物は化粧の下は暗黒の闇で、眼が獣だからと私に諭した彼自身が、目眩しにかかったのだろうか。
疲れていたのか。気が昂っていたのか。またはその、両方か。もしくは…………私にはわからない。
「…………どうして。ねえ、そんなに、疲れてたの?」
「…………。」
「もしかして、今日学校を休んだのは、スピーチコンテストのせいじゃなくて、何か別の理由でものすごく疲れてたからなの?」
「………いや。」
「どっち? 1番、スピーチコンテスト。2番、疲れてたから。3番、その他。わかったら、番号で答えて?」
「……1番。」
「そう。」
私は呟くと、一度立ち上がった。水に浸かった一郎くんを、ひとまず陸地に上げなければならない。肩を抱えて引っ張ると、彼の濡れた僧侶服は重く、思ったよりも力を入れて引き摺るようにして出さなければならなかった。ぐしょぐしょの服をある程度脱がせて、本人は砂の上に寝かせておく。
ここからはサバイバルだ。
私は鞄を取ってきて、ノートを出すと、白いページを十枚ぐらい千切りとった。くしゃくしゃに丸めて、乾いた場所に転がして置く。河原を歩いて火打石を探してきて、その場に跪いてカチンカチンと打ちつける。これで火花を出して、火種を作るのだ。このような田舎の火遊びの経験はそう何度もあるわけではないので、私の不器用さも相まってものすごく時間がかかった。が、最終的には火がついた。一郎くんに、ちょっと待ってて、と言い残して森に戻り、使えそうな枯れ木や棒を拾ってくる。生乾きだと煙が出るだろうが、この際仕方がない。
とにかく出来上がったのだ。
焚き火の完成だ。
一郎くんをその横に寝かせて、暖を取らせる。薪を三度交換し、焼けた石に被せて衣服も乾かす。だんだんと震えがおさまり、力も戻ってきたらしい一郎くんが、ぽつりと呟いた。
「…ガルーガルの蜜樽。」
「え?」
焚き火の火が絶えないようにふぅふぅと息を送っていた私は、ゆっくり顔を上げて振り向いた。
一郎くんが、さらなる呟きを漏らすように、言葉を紡ぐ。
「僕がさっき見た夢は、宇宙を覆い尽くすような金色の蜜の中で、泳いでいる自分だった。」
「…………。」
「僕が現実においてできることは、とても限定的なんだ。一人の人間にとって、僕の樽は狭すぎる。本当に、この山がなくなったら、僕は生きていけない。」
一郎くんの姿は、焚き火に照らされて真っ赤に染められていた。その表情は、影になって見えない。影の中の口から、静かな言葉が流れ出てくる。
「…ああ見えて、父さんは、外へ出て真面目に稼いでいる。この寺だけじゃ家計が立ち行かなくなることを知っているから。…母さんだって、働こうと思えば外の世界でいくらでも働けるんだ。頭が良くて、料理ができて、人格者で、責任感もある人だから。」
ざわざわ、と梢の擦れる音が鳴る。
冷たい風が吹きすぎて、一郎くんの声が震えた。
「……それなのに僕だけは違うんだ。人生の先が真っ暗闇になっていて、何にも見えない。スピーチをすることも。教科書の文字を読むことも。騎馬戦をすることも。みんなが当たり前に出来ることが僕には出来なくて、迷惑ばかりかけて、そして、そういうことがどんどん増えてゆく。」
血を吐くような重い言葉が、噛み締められた歯の隙間を漏れ出るように語られてゆく。
「ちょうど一年前だよ。あの夜……弟が死んだ夜から、僕の心の歯車はずれたんだ。この世界はもっと綺麗な色に溢れたものだったのに。鴉は白く、鴨は黄色く、レモンは紫に、葡萄は赤に、ポストは青に、空は緑に、山の樹々は橙に、蜜柑は黒く。自由自在な絵の具が飛び交う、色鮮やかなキャンバスだったのに。」
私には何も言えない。ただ、聞いていることしか出来ない。
「…最後の学校行事は球技大会。どうでもいいって思ってたのに、やっぱり振り切れない。この山に産まれて、生きて、死ぬ。脳味噌を持たない植物みたいに。…嫌なんだよ。ただただ老いて、この寺を守るために、後継を残して死ぬだけなんて。……嫌なんだよ。そんな人生は嫌なんだよ。」
あまりにも重い。抱えきれないほどの重さ。闇も泥沼。
一郎くんの拳は握り込まれ、涙はとめどなく流れ、ギリギリ、と歯の軋む音すら聞こえてくる。
「何もかも灰色なんだ。無味乾燥。一寸先は闇。それなのに、ちょっとでもそこから外れようとすれば、猛獣の口の中の色のような恐ろしい紅色……血の色の海が広がっている。ドッヂボールは恐ろしい競技だよ。ボールはやっぱり殺人鬼だ。理性では安全だとわかってるのに、本能が否定する。それでも、せめて球技大会は乗り越えなければ、僕はもう駄目だと思ったんだ。……今日は英語のスピーチコンテストを欠席した。何度も学校へ行こうと思って、それでも無理だった。だから、最後のチャンスが球技大会。でも、考えれば考えるほどに、自分という存在がこの世界全体から捻れて弾き飛ばされてゆく。拒否されている。僕の生きる世界は、ここじゃない。僕は、僕の場所は……」
ふいに、静かになった。奔流のように流れ出した彼の言葉は止み、ひっそりとした啜り泣きが辺りに響く。時の止まった空間の中で、ふと、歌うようなメロディが、私の口をついて流れ出た。
「————ボールは、お団子だよ。」
「………え?」
森が、川が、山が、その呼吸を止めた。
無音。闇に覆われた自然界の一角。そこが、完全なる絵葉書のような世界、時の外へと切り取られる。その不気味なほど静まり返った空間で、私は、自分の口がすらすらと動くのを感じた。
「一郎くんは、ただの、丸めたお団子が怖いの?」
何か言おうとして金魚のように口をぽかんと開けた一郎くんを遮って、私は語気を強める。
「それも、ただのお団子じゃない。雪虫に生まれ変わった次郎くんが中で隠れん坊してる、特別製のお団子。」
ヤケだ。完全な無茶苦茶。こじつけ。それでも、これはこの世の真実。私の冷静な心が弾き出した答え。だから、自信を持って語る。
「蛮勇な次郎くんが入ってるから、ボールはすごい勢いで動き回る。でも、勢い余って大好きな一郎兄ちゃんにぶつかりそうになっても、優しいお兄ちゃんは怒らない。怖がって背を向けたりもしない。そうじゃない?」
全てを言い終えた私の前で。一郎くんは、信じられないような面持ちで、目を見開いていた。
そして、かすかに口を開けて、呟いた。
「—————なぎ、ちゃん?」
一郎くんは、スピーチコンテストの後一週間学校を休み、その翌日、何事もなかったかのように学校へ登校してきた。そればかりか、“球技大会に出る”と言って皆を驚かせた。
この学校の球技大会は、三月に行われる。
スピーチコンテストから二週間ほどしか間がないこともあり、ほとんど練習ゼロ・ぶっつけ本番で行うスポーツ熱血ガチバトルだ。
内容は、男女三種目ずつの競技。ドッヂボールとバスケは男女で共通、その他に、男子はサッカー、女子はバレーボールが追加される。基本的に、誰がどの競技に何回出るかは各クラスの自由。届出を出すことなしに本番もどんどん選手を交換して柔軟に対応して良い。ただ、それぞれの三種目のうち、全員が必ず一つの競技にレギュラーメンバーで登録する必要がある(=一度は出る必要がある)という絶対のルールがあるだけだ。
つまり、一つだけ出れば、後はずっと怠けていて良い。観客に徹することができる。運動競技が苦手な人は、それで大分ほっとするだろう。
…しかし、一郎くんは別だ。一度の参加も、彼の精神には大きすぎる負担をかけることになる。彼のことを一年間見てきた皆は、体育委員主導の話し合いの中、彼をその“絶対のルール“の外へ連れ出してもいいと言った。つまり、補欠のみ……すなわち、出場しなくても良い枠だけ……に登録しようかと提案したのだ。しかし————
「…迷惑をかけると思う。でも、僕は出てみたい。」
これが、一郎くんの答えだった。
それならば。クラスメイトは一も二もなく頷いた。もともと絶対のルールなのだ。ただでさえてんてこ舞いの体育委員も、さらなる面倒から解放されて喜んだようだった。
サッカーとバスケは苛烈な接触戦の危険が高い。一郎くんが参加するなら、ドッヂボールのみ。
—————ボールが殺人鬼に見えたこと、あるかい。
あるわけがない。彼の心を知ることができる人はこの場にいないだろう。私たちは絶対に、共感できない。ちょっと想像してみることはできても、本質的な理解には到達しない。だから、みんな何も言わないし、言えない。それでも、一郎くんの覚悟を感じとることはできる。そして、一郎くんの決断の結末を、最後まで見守るのだ。私たちには、それができる。
………そう、信じたい。
選手決めが終わって、掃除が始まった。一気に教室が喧騒に包まれた瞬間のことだった。私が黒板を拭いていると、当番の日ではないため帰宅しようとしていた一郎くんに、二人の男子生徒が近づいた。
田中碧くん。
伊坂翔太くん。
「おーい、伊藤!」
「……今ちょっといい?」
硬式テニス部のエース、異名:スマッシュマン田中。
サッカー部のスターゴールキーパー、異名:サイレンサー付き自爆流れ星の伊坂。
え?と私は首を傾げた。彼らの共通点といえば、二人とも運動神経抜群で、今回の球技大会ではクラスメイトから神様のように祭り上げられること間違いなしだ……ということ。ただ、性格的にあまり馬が合わないというか、ムードメーカーの田中くんと寡黙な一匹狼の伊坂くんでは、一緒につるんでいる姿が見られることはほとんどない。ところが彼らは何を思ったのか、帰宅間際の一郎くんを、一緒になって呼び止めたのだ。
「……ん?」
一郎くんはくるりと振り向き、やはりというか、首を傾げた。すっと目が細められる。山を降りても変わらない、彼の蛇のような冷徹な空気を感じたのか、伊坂くんがうっと息を止めるのがわかった。しかしさすがはクラス一番の陽気なキャラクター、田中くんは全く動じず、堂々と一歩前に踏み出した。そして流れるような自然さと真剣さで、「なあ、球技大会のことなんだけど。」と切り出す。
「ああ、うん。」
なるほど合点がいった、という調子で一郎くんが頷く。確かに、少なくともこの二人が一緒に連れ立っている理由ぐらいの想定はつく。
田中くんは一瞬目を泳がせて、そして観念したように深く息を吸った。
「ドッヂボール、俺らがそばについてるから。」
「………え……。」
まさかこんなよく有りがちな台詞が飛んでくるとは思わなかった。そんな表情を浮かべる一郎くんの視線から逃げるように、田中くんはぐしゃぐしゃと頭をかいた。
しばしの沈黙の後、一郎くんが目を伏せて、ゆっくりと唇を開く。
「……僕は鈍いから、二人のそばをキープ出来るとは思えないよ…」
「第一に、伊藤の方に行く前に俺たちが全部キャッチしてやるよ。」
「……え……。」
堂々たる田中くんが、遮るように言う。
一郎くんは少し目を見開いた表情で固まった。当惑したような、と言ったほうが正しいかもしれない。
少し恥ずかしそうに、田中くんがニカッと笑う。それに乗じるように、今まで黙っていた伊坂くんも口を開く。独特のユーモア(?)のセンスを持つ彼は、微笑みながらのんびりしたトーンでボソリと言った。
「……それに僕はサッカーボールに虐められ慣れてるから、いざとなったら盾にもなるし。」
「あぁ、そうそう!俺もテニスボールに眼鏡割られたことあるぐらいだし、ま、俺たちも出来るだけチーム全員カバーして守るつもりだからさ。それで少しは緊張ほぐせたら良いかなって。」
二人と言葉をやりとりした後も、一郎くんは、春の海のように凪いだ静かな表情を崩さない。しかし、その凍りついたガラス玉のような冷たい目が、少し、細められたようだった。
「…ありがとう。二人とも。」
「まあ、俺はこーゆー時しか活躍できねえからな。」
「……僕も人の役に立てると思うと嬉しいから、おあいこだよ。」
もうすぐ春。クラスも解散が近い三月の、最初の一週のことだった。
♢
——————アリーナに備え付けられた、埃っぽい体育倉庫において。
「球技大会で、ダンス?!」
「そうそう。短くて面白いのを一曲、踊ってみるのはどうかなって。」
「踊るって、どのタイミングで?!」
「うーん。開会式か、閉会式。……閉会式はみんな疲れてるだろうから、開会式が良いのかなぁ。」
「むむむ。新入生歓迎会の準備と通常の球技大会の準備とその他プライベートの諸々と並行して、ダンスをプラス………ぐぎっ!過労死の文字がっ!」
「あ、あの!無理だったら大丈夫だよ!別に大したことないただの提案だから!」
「いいやそうはいかない!」
「そ、そうですか。」
球技大会。
ボール競技が嫌いな人には、ただの苦行で終わってしまうかもしれない行事。せめてそこにちょっとした清涼剤を提供できないだろうかと、私は考えた。
誰でも見て楽しめる踊り。ただ何も考えずに笑ってしまうような、エンターテイメントを目的としたダンス。別にダンスとしてのクオリティを目指すわけではないので、メンバーをダンス部で固める必要すらない。
それを、私は新部長さんに提案してみたのだ。
栗山焔。別のクラスに、栗山涼という名前の双子の男子がいるらしいともっぱらの噂。ちょっと変わった人だが、“勉強以外ならば“何にでもエネルギーを注ぐ、まるで永遠に燃え尽きない花火弾のような人だ。ダンス部の部長になったのも、その地位に自ら手を挙げて立候補した唯一の部員だったからだ。
彼女と私は、キャスター立脚式の大きな鏡をガラガラ引き摺り出して、大きく一息ついた。
狭い体育倉庫から鏡を傷つけないように注意しながら移動させるのは、結構神経を使うので大変なのだ。
栗山さんはうーんと伸びをすると、顎に手を当てて考えるようなそぶりを見せた。
「……むぅー。あんまし長い曲じゃなくて良いなら、なんとかなるかなぁー。」
「うん、うん。私の方も、ちょっとした余興程度って考えてるし…そんなに豪華で本格的なのにするとかえって興味ない人が冷めちゃうと思うし……」
「ふーむふむ。じゃ、今日の部活で提案してみるよ。どちらにせよ、私の一存で決まるようなもんじゃないしね。」
「ありがとう!」
「あ、あと一応踊りたい曲の候補くらいは見繕っといた方がいいかな。別にそれが採用されるわけじゃないかもしれないけど、イメージ掴むのは大切だし、提案した本人が何も考えなしってのも無責任な感じするから。」
「そ、そうだね。」
「そんじゃ私、ラジカセ借りてくるよ!適当に良い感じで時間潰しといて!」
「え?は、はい!」
栗山さんが嵐のように去っていったあと、私はどこかぼーっとした気分だった。柄にもなく、“新しいことを提案”などということをしてしまった。心臓がポカポカしているような、頭の中をノイズ虫が行進していったような。
あんまり、好きな気分ではない。緊張した時によく陥る、高揚と動揺が混ぜこぜになったような状態だ。
(………それでも。)
私はフーッと息を吐いた。
—————私は、宇宙そのもの。
私、という極小の点。暗黒のこの世界に漂う、ただの塵屑。それが、膜を無くして溶け出した瞬間、無限に拡大してゆく。限りなく大きな存在になった時、私に怖いものはない。好きなことを、好きなだけやればいい。周囲を流れるちょっとしたエネルギーの気まぐれが、この私自身の世界に及ぼす波紋の大きさなど、たかが知れているのだから。
—————海は、海を泳ぐ魚によって傷つけられることはないのよ。
この後に集まった部活のメンバーたちも交えた協議で、ミニダンスの発表が好意的に受け入れられたこと。そして翌日にその話を体育委員会に持ちかけたところ、彼らと協力して踊ることが正式決定されたこと。とある幼児向け人気アニメの主題歌を踊ることが決定し、最終的にそれを踊ることに決まった合計六人のうち、私がリーダーに任じられたこと。
それらの全てがどこか遠い国の出来事のようで、ふわふわと掴みどころのないものだった。ただ、これは実際に起きていることで、夢ではないのだという実感だけは常にあった。世界の片隅が、変化を求めて動いている。それも、ただ動いているのではない。この私が、動かしているのだ。
酔い始めていたのだ。
いつから?
わからない。
けれども、夢に、酔っていた。
—————なぎ、ちゃん?
あの瞬間。何かががらがらと音を立てて崩れた。
そうだ。昔々、まだ私の魂が真っ白だった頃。
一郎くんと一緒に、何度も遊んだ。砂場で、ブランコで、ジャングルジムで。
その時に、話したような気がする。一郎くんの家は、“藤神寺”というお寺なのだと。藤のお花の笠を被った、綺麗な花嫁さんみたいな山なのだと。
私が彼に惹かれていたのは、懐かしかったからなのだろうか。幼い頃の無垢な心を、思い出させてくれたからなのだろうか。何度も助けてくれた彼に恩返しをしたいと願うのは、当然のことではないのだろうか。
……わからない。いつだって私は、わからない。わからないものをわかろうと手を伸ばし、一歩一歩砂の海を進んでゆく。それで、何かが変わるだろうか。変わる。景色が変わる。そしてまた、別のわからないことが、目の前に立ち塞がる。
私が見ているのは夢?この世界って何?宇宙みたいに広がって、最強になったみたいに錯覚して、私はやっぱりちっぽけな小魚にすぎないんじゃあないだろうか。
「——————あっ!」
視界がブレる。これは何?私の足が、階段を踏み外して、宙に浮いて、灰色の地面が、どんどん近くに……
「ちょっと!今誰か落ちた!」
「え?階段の事故か?!」
ガクン、とものすごい衝撃と共に、私は右脚から地面に落ちた。ダンス部が終わった後、学校の敷地から通学路に出る近道のために毎日使っている石段。少し幅が狭くて急なので、暗い時は遠回りだとしてもわざわざ迂回していく人も多い道だった。
私は信じられないような面持ちで目をカッと見開いた。
この私が。運動神経と落ち着きには自信があったこの私が、階段から足を踏み外した。
グシャリとボロ雑巾のように倒れた私の鼻先には、コンクリートがあった。砂色の舗装地面。冷たい石の塊。それが、ふいにじわりと滲んだ。何の前触れもなく、想像を絶する痛みが襲いかかる。ぶつけた脚全体が稲妻に打たれたように痛みを発して、私は体をくの字に曲げて必死に呻き声を堪えた。
「……ねえ!早く保健室の先生呼んできて!」
「まだ学校にいるかな?」
「さっき見かけたからまだいるはず!足やっちゃったみたいだから、担架もお願いして!」
「了解!」
痛みで頭が真っ白になる。
何も考えられない。
私がこんな怪我をしたことは未だかつてない。
不注意が払った代償は、大きすぎるものだった。
「—————骨折ですね。とはいえ、正しく言えば大きなヒビという感じです。ヒビの形も綺麗ですし、比較的対処しやすいところに入ってくれました。大人しくしていれば大体一ヶ月で完治します。入院する必要もありませんし、とても運がよかったですね。」
たまたま居合わせた生徒が養護教諭を呼び。養護教諭が両親に連絡してからタクシーを呼び。
担ぎ込まれた病院で私を診たおじいさんの医者は、調べた結果を色々総合して、そう結論付けた。
「……あの、軽い運動はいつ頃から許可されますか?」
「えー、具体的に何をするつもりなのでしょうか。」
「………ダンス、とか。」
「内容にもよりますね。基本的にはひとまず一週間絶対安静で、そこからは経過を見て判断します。しかし足以外の部分はむしろどんどん動かして血流を良くしてもらいたいので、座った状態での踊りや手拍子などで参加できそうならぜひ頑張ってください。」
医者のおじいさんは優しく穏やかに微笑む。
私はただ呆然と、その仏のような白衣のお化けを————当時の私にとっては他に形容のしようがなかったのだ—————穴が開くほど見つめるしかなかった。
私はダンスのメンバーを他の人に変わってもらった。ギプスをつけながら手拍子をするだけでは、舞台の上からみんなを笑わせるという目的を叶えることはできない。練習の時もただの足手纏いにしかなれないと理解しているから、私は振り付けを考えることから全てを他の人たちに一任することにした。幸い、協力先である体育委員会に何人か興味を示す男子がいて、そのうちの一人が快く追加の仕事を引き受けてくれた。
同じ理由で、球技大会の選手も棄権することになった。バスケもバレーも、ドッヂボールも、足を動かさずにプレーすることは不可能だ。
みんな笑って許してくれた。
私の怪我を心配し、完全に折れたわけではなくただのヒビだと説明すればホッとした表情を浮かべ、「お大事に」の一言を残して離れていった。
みんな、優しい。
誰も球技大会前に怪我をした私に、非難の表情を向けることはない。むしろ、励ましてくれる。そして、危険で古い石階段を放置していた学校を責める。
誰もが優しい。しかし、私の棄権を本気で惜しむ人も、いないのだった。私が必要だと、心の底から私の存在を欲してくれる人は誰もいない。
—————胸が痛い。苦しい。
まるで、ずっとずっと盤石だった大地の巌が裂け、土砂降りの雨に草木が涙を流すよう。アリの巣が潰されて、花々を飛び回っていた蛾が溺れ、胡麻粒のような虫たちの声にならない悲鳴が上がる。
—————脚が痛い。辛い。
…骨にヒビが入ったからだ。当然だろう。こんなことくらいで、私の心は折れない。私はじんじん響く鈍痛くらいで参るような、やわな人間じゃないのだ。
そう叱咤してみても、この身が千切れて消えてゆくような胸の痛みは消えない。まるで、はるばる遠路を旅してきた川の水が海に注ぎ込んだ瞬間、自分の身が溶けてなくなってしまうかのような。自分という存在の小ささを、否応なしに実感させられたかのような気分ではないか。
——————私の取り柄の一つは、運動神経が抜群に良いことだったのに。
特にバスケットボール。強豪校だった中学の部活で鍛えたその技には、自信があった。
歌が平均より少し上手だったり、英語が得意だったり、たまに冗談を言ってみんなを笑わせることができたり、鏡文字を書いたり。そんなちょっとした特技のようなものは色々あるけれど、特に尖っていたのはスポーツだった。だからそれで、みんなに貢献したかった。
——————私は、みんなの役に立ちたいのに。
私の晴れ舞台になるはずだった球技大会。私のことをみんなが称賛し、ありがとうの言葉で揉みくちゃにして、私の貢献のお陰でクラスが高い順位を取る。運動に秀でているのは私だけじゃなくて沢山いるのだから、このクラスならば優勝だって目じゃなかったかもしれない。
それも、もう無理だ。
このクラスにはバスケ経験者は私しかいなかった。バレーの経験者はもともといない。これでは女子の順位が下がる。そして、男女総合で競い合う球技大会において、優勝を狙うことはまず不可能になったと考えて良い。
—————私のせいで。
授業の内容も、頭に入らなかった。休み時間も、学活も、何もかも終わって、終業の鐘が鳴るまでずっと。
私はただただ呆然としていた。
いや、唖然としていたと言っても良いかもしれない。
なぜこんなにも私が傷ついているのか、自分が全くわからなかった。今は人生百年時代。この高校一年の冬に怪我をした程度、私の人生に何はほとんど何の影響も及ぼさない程度のアクシデントだ。
別に気にするほどのことじゃない。
友達も、それを理解している。体育祭でも文化祭でもなく、ちょっとした最後の余興の球技大会。熱くなって、我を忘れて、自分自身の感情に振り回されて。そんな風に終える行事ではない。ただ良い思い出が出来れば良いのだ。何年も後から振り返って、わいわいと笑顔で語り合えるような、そんな記憶の束を作る。
それだけで、良いはずなのに。
宇宙という海で、こんなにもちっぽけな小魚が、もがいている。
そこに、鈴の響きを纏う銀の霞が、私を抱き込んで優しく囁く。姉の導きの言葉だ。
————ほうら、“私”を囲ってる手を離してごらんなさい。宇宙には自分と他人との境界線なんて存在しないのよ。ね、そうすれば楽になるわ。
私は泣いた。涙を出さずに泣いた。そして、母親に縋る幼子のように、ただただ己の想いをぶつけた。不安と心細さに塗れた、ただの泣き言を。
だめだよ。銀ちゃん。虚しくなるだけ。もっと辛くなるだけ。
天地自然のエネルギーの塊とか、宇宙の海とか、……頑張って想像しようとしているけど駄目なんだよ。私は独りぼっちで瞑想をしたことなんかないんだから。目を閉じるだけで、暗い闇の奥底から悪魔が手招きしてくるような気分になる。怖いんだよ。私はやっぱり、ただの弱くて脆い小魚にすぎないだよ。
「———ねえ、なぎちゃん?」
………え?
私はゆっくりと、顔を上げた。そこにいたのは……
「…あのう、ちょっと時間ある?」
おさげに桃色縁眼鏡。大きな手提げを右手に、左手に通学鞄を提げている。人の良さそうな微笑みに、小柄で風が吹けば飛ばされてしまいそうな華奢な体。クラス随一の絵描きにして、私の一番の友達。
「……あ。」
「だ、大丈夫?なぎちゃん、体調悪いの?」
「…………恵里ちゃん。」
「ほほほ本当に大丈夫?!保健室連れて行こうか?!」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと色々あって疲れたからぼーっとしてただけだよ。」
牧田恵里ちゃん。
五月ごろに話しかけてくれた時から、私たちは休み時間に喋り、放課後には一緒に帰路につくほどの関係になっていた。おそらく唯一の“親友“と呼べる友達。そんな彼女が、慌てたように私を見下ろしていた。
私はあまりお喋りするような気分ではなかったが、あまり心配されても困る。安心させるように微笑むと、恵里ちゃんが、ほっとしたように肩の力を抜く。
「……とりあえず、今日はもう帰って休んだほうがいいみたいだね。」
「うーん。そうしたいのは山々だけど、ほら、まだ松葉杖で帰宅は難しいから。親が仕事を終えて車を回すまで、図書室かどっかで時間を潰そうと思ってる。」
「あぁそっか……。」
……言えない。いや、言いたくない。
おかしな妄想に身を焦がし、悩みとも言えない悩みで泣きそうになっていた、こんな不甲斐ない自分の姿を。私を憧れだと言って慕ってくれる、恵里ちゃんに見せたくない。これは私の見栄で。猫被りで。そして、ちっぽけな欲張りの証。
それくらいは、許してほしいのだ。
見逃してほしいのだ。
「なぎちゃんが帰るの、何時くらいになりそう?」
「なるだけ仕事は早めに切り上げるって言ってたから、多分六時前後だよ。もしその時間も過ぎるようなら、図書室閉まっちゃうから自習室に移動しようかな。」
「ふんふん、なるほど。」
恵里ちゃんはまるで、りんごのうさぎだ。
みずみずしい果実のような純真さと、美しさ。子供が安心して近寄っていける大人しさと、可愛らしさ。ナイフ一本で編み出される芸術的でユーモラスな仕掛けは、日本伝統のものなのだろうか。絵筆一本、チョーク一本、鉛筆一本、とにかく画材さえあれば夢の世界への扉を開く彼女の生き様と、よく似ているではないか。
私は眩しく恵里ちゃんを見上げる。
彼女は、煌いている。他の誰よりも。私は出会った時からずっと、彼女の素晴らしさを認めている。
それでも、私たちの関係は、絶対に対等にはなれなかった。私を慕う彼女と、それを広い懐で受け止める私。寂しくないといえば嘘になる。本当の意味での心の通い合いは、一度だってなかったかもしれない。私は悩みを聞いてばかりで、彼女は話してばかり。助けを呼ぶのはいつも彼女で、私が泣きついたことは一度もない。
…でも、それでいいと思っていた。それで、許してほしいとも思っていた。
なぜなら。
あなたが、初めての。
————私が持つことの出来た、“妹分”、だったのだから。
「—————美術室に、来てみない?」
恵里ちゃんは顎に手を当てて少し悩んだ後、そう言った。
「本当はこの後、オンライン英会話講演会に誘うつもりだったんだけど。でも、疲れてるなら。」
彼女の困ったような微笑みは、なんだかいつもと違うように思えた。静かな影のある、幾層にも包まれたヴェールの下の、さらに化粧に覆われた、花嫁さまの微笑み。
……この時、私はなんとなく感じた。
涙を出さずに泣いていたのは、きっと私だけではなかったことを。
♢
私がふと顔を上げると、真っ暗な闇が広がっていた。
樹々が点々と生えているところに薄ぼんやりと青い狐火が灯っている。淡い桃色の縞模様に目を凝らせば、静かな川のせせらぎ。岸の向こう側には黄緑色に煌めく草原。
神々の住まう、最果ての国。根の国。
死んだ人間はそこへ落ち、死霊となって漂い続ける。
「私、黒い絵の具が好きなの。」
「…………。」
「でも、白も好きかもしれない。すぐにチューブが空っぽになっちゃうんだ。」
油絵の具と、キャンバス。
中学校までの授業ではついぞ扱うことのなかった画材。その大きさと迫力、質量感に、私はほうっと息をついた。恐る恐る覗き込んで、私は静かに呟いた。
「すごい。絵の具が盛り上がってて…デコボコまではっきり見える。」
「油絵ってそういうものなんだよ。水彩絵の具と違って、どんどん上から塗り重ねていっていいの。」
「そうなの…?」
「そう。だから、いつまで経っても完成しない。画面を塗り尽くしたからおしまい、みたいなのはなくて。より複雑に、色を足して、塗って、重ねて、変化してゆくもの。」
「面白いね。」
「うんうん。あとは、こんなのもあるよ?」
恵里ちゃんが、奥の部屋の乾燥棚から、少し小さめのキャンバスを取り出してくる。
私は覗き込んだ。
……骨。
牛の骨の頭。
命を失った骸が、画面の真ん中に。
土の上に転がる、巨大な青白い牛の骸骨だ。不気味なモチーフのように思えるのに、絵から漂う雰囲気は神聖で静かなものだった。生前は目玉が嵌っていたのであろう真っ黒な穴の縁に、はえが一匹、止まっている。それはまるで団子にまぶされた胡麻のようにごく自然なものだった。
「どう……?」
「……綺麗だと、思ったよ。死って、こんなに美しく描けるモチーフなんだね。」
「……そう。ありがとう。」
さらに、何枚かの絵が目の前に並ぶ。基本は油絵だったが、水墨画も混ざっていた。陸に打ち上げられた魚の目玉から、涙が滴る絵。死んだ赤子の墓を荒らす天狗の絵。
例外はない。
…全てが、“死“に関係のある作品だった。
「こんなにたくさん、全部授業時間外に描いたの?」
「うん。ほとんど毎日放課後は残ってるから。」
「そっか。」
…そうだろう。こんな不気味なテーマで縛られた作品群を描いていたことを、クラスメイトは愚か、一番近しい友達であった私でさえ知らなかった。彼女が人前で、授業中で描くものはもっと、明るく楽しい絵だ。
「ねえ、なぎちゃんも描いてみない?」
「……私は無理だよ。下手くそだから。」
「それでも。私はなぎちゃんと一緒に絵が描きたいの。だからここに連れてきた。…いつもダンス部とか委員会とかで忙しそうで誘えなかったから、今がチャンスかなって思ったの。……ほら、ね?」
恵里ちゃんが、冗談めかして微笑むと、私の脚を見下ろす。
確かに私の脚は白いギプスでぐるぐる巻きで、ダンスどころはない。私は苦笑いを浮かべて、渋々、といった調子で頷いた。
…………ちょっと絵が描きたくてうずうずしていた気持ちは、胸の中にこっそり仕舞っておこうと思う。
絵の具を絞る。
筆を動かす。
色を伸ばす。
紅を引く。
白を重ねる。
黄の点を撃ち込む。
描くのは、どこかの海の野だった。
薄緑色の刃を持った風が、円弧を描いて吹き荒れる。シケだ。しかしどんなに外側が吹き荒れていても、波はまっすぐ平な水平線。頑固で強靭な、絶対の一直線。
光り輝く星々の散る夕焼け空を、衝突した隕石と雨雲と嵐が吹き荒んでめちゃくちゃにしている。
リズムもメロディも何もない、自然界の暴力。
人はこれを、黙って受け入れるしかない。
どうかやめてください。容赦してくださいと、ひれ伏して祈ることしかできない。
無心に祈る。
心が溶けて、大地と一緒になってしまうまで。
————何時間、描き続けただろうか。
鐘の鳴る音で、私たちは顔を上げた。恵里ちゃんも、『根の国』の構築にひたすら没頭していたようだった。二人してはっと顔を上げて、目を見合わせる。
私は自分の目にうっすら涙が浮かんでいるのに気づいて、慌てて瞬きして誤魔化した。
「………。」
「………。」
二人とも無言だった。
椅子を立って、片付けを始める。結局、一度も顧問の先生や他の部員は来なかった。美術はゆるい部活の代表だから、これで通常運転なのだろうか。
私自身はコツコツとにかく継続することを信条にしているので、普段なら少し眉を顰めることだったが、今日ばかりはありがたかった。
美術室は、画材の独特の匂いがする。壁一面に絵が飾られていて、彫刻がずらり。薄暗い黄昏時の光が差し込んでいるこの場所は、異様な静けさが支配している。
「……帰ろうか。」
「うん。」
私たちの会話はあまりなかった。
絵を描く。
あの閉鎖的な空間で、ずっと。
二人隣に並んでいながら、完璧に独立して他者の介入できない孤独な作業を行う。
一度も味わったことのない経験だった。しかし、私たちは確かに何かを嗅ぎ合った。
なぜ、恵里ちゃんが一緒に絵を描こうと言ったのか。普段は誰にも見せないはずの絵を私に見せたのか。
その真意を測ることは私にできない。けれども、私は理屈抜きで恵里ちゃんに感謝したいと思った。
カッツンカッツンと松葉杖をついて廊下を歩く。
私は、ふうっと息を吸うと、静かに尋ねた。
「……球技大会の黒板アート、私も手伝っていいかな?」
恵里ちゃんは驚いたように私の方を見た。そして、ほうけたような表情そのままで、うん、と頷いた。
「大歓迎だよ。」
恵里ちゃんはそう言うと、にっこりと微笑んだ。
♢
翼を広げたペガサス。
水色のたてがみが風に舞い、神々しいまでの太陽の輪を背に負っている。
波打つ草原には、色とりどりの花が咲き乱れる。
ふわふわと地に足がついていないような感覚は、まだ続いていた。けれども、これは遠い国の出来事ではなかった。歴とした目の前の現実で、砂上の楼閣のような揺らめく幻ではない。
私は放課後の教室に残って、恵里ちゃんとスケッチブックを覗き込んでいた。
球技大会はいよいよ明日に迫っている。体育館からは威勢の良い自主練習の掛け声が聞こえてくる。遠くから響いてくる足音や声は、薄暗い教室に飛び込んでくることはなく、廊下と隔てる壁やドアにはっきりと阻まれれているようだった。
窓の外を見ると、藍色と桃色の混ざったような夕焼け空が広がっている。もうそろそろ日も長くなり始めているが、まだまだこの時間は暗いらしい。冬が終わり、春が始まる。机や椅子の影は中途半端に長く伸びていた。
「———ここは、明日みんなが追加のイラスト描いたり、メッセージとか全員分の名前を書き込んだりするために残しておく余白?」
私はスケッチブックのある一部分、ペガサスの翼の下にぽっかりと空いた空白を指さしながら、恵里ちゃんに尋ねる。
恵里ちゃんは、色鉛筆をくるくる回しながら頷いた。
「うん。…それで、私が大体の輪郭を描くから、中身の色塗りは全部お願いしてもいい?」
「そうする。でも、多分この上の方は……」
「そこは私が椅子に乗って描くから大丈夫だよ。」
スケッチブックの中身は、黒板アートの計画書。
恵里ちゃんが球技大会において、おそらく全精力を注ぎ込む段階。このクラスの非常識な黒板アートのレベルの高さは他クラスまで響き渡り、行事のたびに写真を撮りにカメラを携えてくる人が後を絶たない。
恵里ちゃんは本気だ。
最初に気合いを入れてしまったので引っ込みがつかない、などといった消極的な理由ではなく、毎回全身全霊をかけて黒板に向き合っている。
麒麟、人魚、ケンタウルス、そしてペガサス。主役はいつでも幻獣だった。
体育祭で初めて麒麟を見せつけられた時は唖然とするばかりだったクラスメイトも慣れたもので、二回目からは投票で黒板アートのテーマにする幻獣を決めるようになった。
想像上の生物が大迫力の威容で黒板に現れる。強さと誇りと希望に溢れた、命を燃やし尽くして輝く〈魂〉の象徴。恵里ちゃんの十八番。
生と死は紙一重。生きるということは、死ぬということ。死ぬということは、生きるということ。
恵里ちゃんは文字通り、命をかけて絵を描く。
人生をかけて、己を表現し続ける。
「……私が足手纏いになるようだったら、遠慮なく言ってね。」
私が言うと、恵里ちゃんはブンブンと首を振った。
「そんなことないよ。なぎちゃんに手伝ってもらえるだけで、私は嬉しいよ。」
「………ありがとう。」
誠実で、真っ白な女の子。
そう思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。
白があるということは、黒もあるということ。ものに絶対の色はない。彩度も明度も色の種類もいくらでも変化して、時の経つごとに複雑に移り変わってゆくものなのかもしれない。
私は息を吸って、今まさにチョークを取ろうとする恵里ちゃんに呼びかけた。
「恵里ちゃん。」
「どうしたの?」
「本当に、ありがとう。」
涙を拭って、笑いかける。
何気なく振り向いた恵里ちゃんが、驚いたように立ちすくんだ。
………あぁ、そうだった。泣き顔を見せたのは、初めてだったかもしれない。実のところ、私はものすごく泣き虫なのだけれど。
困ったようにオロオロしている恵里ちゃんの前で、私は静かに言葉を紡いだ。
「……ガルーガルの蜜樽。」
「え、…な、なぎちゃん…?」
「いつか、ちょっと変わった人に聞いたことわざでね。“自分の手の届く範囲“って意味らしいんだ。人には分相応ってものがある。ただ、私ができることをすればそれで良いんだ、ってね。………だけど、実践するのは結構難しい。頭ではきちんとわかっている。でも、みんな欲張りだから、自分の分の蜜を躍起になって増やそうとするし、減れば誰かに奪われたような気がして必要以上に落ち込んだり憎悪したりする。」
私は恵里ちゃんの目をまっすぐに見て、言葉を続けた。
「それなのに。恵里ちゃんは、私に優しくしてくれただけじゃなくて、あまつさえ自分自身の蜜を分けてくれた。黒板アートは一人でやっていたのが誇りだったはずなのに、私っていう第三者が介入することに文句一つ言わずに頷いてくれた。美術室に誘ってくれたのも嬉しかったよ。…私は怪我して球技大会に出られなくなって、みんなに申し訳が立たない…って鬱気味になってたけど、今はだいぶ救われた気分になってる。だから————
私は胸に手を当て、静かに目を閉じる。
—————本当に、ありがとう。」
私が言い切った瞬間、教室の空気が変わったのを感じた。
まるで麗日な春の風が吹きこんだかのような……いや、文字通りに、あたたかな春の空気が部屋を満たしたのだ。のぼせたようなあたたかさ。そしてあっという間に塗り替わる景色。
「えっ…?…え、ええ?!」
恵里ちゃんが叫ぶ。無理もない。
私たちは、飛んでいた。
真っ青な空に、ぷかぷかと浮かぶ綿飴のような白い雲。背景には、ニコニコと優しく照らす金色の太陽。
冬の格好でセーターなど着ていると、じわりと汗が滲んでくるぐらいの春の気温。
「…どう、恵里ちゃん?」
私は自分の背中に生えた翼を大きくはためかせて、バタバタもがいている恵里ちゃんの手を取った。
彼女の背中にも私と同じように、真っ白で大きな翼が生えている。
「どうって!?なぎちゃん?!何コレぇえ?!」
「恵里ちゃんの絵だよ。」
「絵?!ペガサスの飛んでる絵ですかあぁあ?!」
「うん。」
ちょっと落ち着かせた方がいいな、と私は判断して、手近な雲の上にふわりとおりることにした。正直に言って、私もこの事態を予想していたわけではない。ただ、驚いてはいなかった。何が起こったのか正確なところを把握しているかと言われればそうではないが、これがちょっとした夢の世界だということはわかる。そして、私がそれを作り出したのだということも。
なぜわかるのか?
わかるから、としか言いようがない。
私にはわかる。この世界のどこかに、ペガサスがいる。今私たちが乗っている雲の上から飛び降りて、真っ逆さまに地面まで落ちて行けば、お花畑に舞い降りることができる。そしてそこで、翼を広げたペガサスに会うことができる。私には確信がある。なぜなら、ここは恵里ちゃんのスケッチブックの中身……を私の想像で補って具現させたイメージの場だ。
恵里ちゃんをいざなって、波打つ雲の海へ舞い降りる。おっかなびっくり着地した恵里ちゃんを押し倒して、二人して勢いよくゴロンと寝転がる。背中がぽふん、と跳ねた。雲はまるで、ふわふわのお布団だ。きゃっと小さく叫んだ恵里ちゃんも、だんだんと事態を把握してきたようだった。
目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。最後にフーッと息を吐いて、私を見上げた。
「…あの。これ、なぎちゃんの作った幻?」
「そうだよ。」
「なぎちゃんが幻術使えるなんて知らなかった……もしかして、忍者だったの?」
「ふふふ。そんなわけないよ。夢幻をちょっと具現化するくらい、誰にでもできることだよ。」
「そ、そうなの…?」
私は少し落ち着いたらしい恵里ちゃんに、静かに語りかけた。
「ねえ、天を見て。」
「天……。」
「太陽が燃えている。私たちを照らすために、身を焦がして燃えている。」
「………。」
「あれも、いつか死んじゃうんだよね。」
太陽さえも、永遠ではない。命あるものは、いつか必ず、燃え尽きる。
当たり前の理論だ。
宇宙に生きる私たちはちっぽけな存在で、ほとんどこの世界の秘密の何も知ることのないままに、その生を終える。何千年も、何億年も、私たちはリレーをしながら命を繋いできた。その一つ一つに悩みがあり、苦しみがあり。幸せがあり、喜びがあり。
命。
当人にとっては世界一大切なものなのに、あっけなく散ってゆく。
矛盾。
全てには裏表がある。
正と負がある。
「だから、恵里ちゃんは怖いんだよね。」
私は恵里ちゃんの目を見つめた。
くるりと起き直って、そして手を取る。
「大丈夫だよ。私がついてる。」
目を見開く恵里ちゃんと一緒に、雲の海へと頭から突っ込む。そして引き摺り込んだ。奈落へ落ちる。闇の中。雲の底。真っ白で眩しい世界の、裏の顔。真っ逆さまに、落ちてゆく。
—————そこは、根の国だった。
いつか見た、恵里ちゃんの油絵の世界。
真っ暗闇の中、棒のようにまばらに佇む樹々の影。仄青く狐火が揺らめいている。あれは全て、死者の魂なのだろうか。不気味に思えるそれらも、落ち着いてよく目を凝らせば、だんだんと心が安らかになってくるような不思議な気配を纏っている。
…“彼“の言うことは本当だった。
私はぎゅっと握ってきた恵里ちゃんの手を、握り返した。
「大丈夫だよ。怖がらなくても、大丈夫。」
「…………。」
「恵里ちゃんは世界中のどこに行ってもやっていけると思う。それぐらいにすごい人だよ。心から尊敬してる。」
色褪せた闇の中に時折ぼんやりと浮かび上がる、植物や川や岩の煌めきを見る。そのはっとするほどの神々しい美しさよ。闇の中の光というものは、こうも尊いものなのか。私は思わず唇を三日月型に引き上げて微笑んだ。ゆっくりと、口を開く。
「それでも不安とか心配ごとがあったら、こうやって絵に描ける。そうして描いて描きまくって、その絵にすら一人で向き合うのが怖くなったときは—————
——————友達を頼っていい。」
……彼の、一郎くんの言葉。
人を守ると決めた時。そして、守るべき者を抱いた時。私たちは、信じられないほどの勇気を手にするんだ。と。
お決まりの、少年漫画やアクション映画なんかでよく登場する、陳腐な台詞に思えるかもしれない。しかし、これは真実だ。まごうことなき、世の真理だ。
(今、私は怖くない。)
恵里ちゃんの力になりたいと願い、その言いようのない不安に寄り添いたいと祈り。表も裏も魅力的な彼女を励まそうとして、その魂の描く絵画に飛び込んだ時。しっかりと握りしめてくる彼女の手の温かさは、聳え立つ山のごとく巨大でな勇気を産み出した。
「………ありがとう。なぎちゃん。」
「ううん。こちらこそ。」
気付けば、私たちは薄暗い教室へと戻ってきていた。目の前には何も書かれていない黒板。後ろの教卓には、開いたスケッチブックが無造作においてある。
隣を向くとそこにはしっかり恵里ちゃんがいて、私はほっと安心した。夢から醒めたらどうなるか少し不安だったが、元通りの現実に戻って来れたようだ。
……いや。一つだけ変わったことがある。目の前の恵里ちゃんは、表情から何かが抜け落ちて、スッキリした笑顔を浮かべていた。黒く丁寧に編み込まれた二本のおさげまでもが、力を抜いてすとんとまっすぐに流れ落ちているかのよう。
恵里ちゃんは、私と顔を見合わせると、優しく目を細めた。
「………ありがとう。」
「…………。」
恵里ちゃんは白いチョークを持つと、くるりと振り返って黒板に向き直った。
「………この黒板は、今までとは違うものにする。」
「……………。」
「……見ていてね。」
うっすらと闇夜が忍び寄る。仄暗い教室の中、黒板の上に踊り現れた幻の獣の咆哮が響き渡った。
♢
三月十一日。球技大会、当日。
学校に登校してきた生徒たちは、誰かが買ってきたリンゴジュースとオレンジジュースを紙コップで飲み放題にしていた。
教室に入るなり前黒板に集まり、群がって感嘆の声を上げたり、文字やイラストを書き加えたりし始める。そこに振る舞われるジュースやお菓子。朝っぱらからお祭りの空気で盛り上がり、羽目を外して楽しみまくる。普段真面目な生徒が多い代わりに、弾けるとすごい。ここの行事はいつもそんな感じだ。
恵里ちゃんのペガサスは、毎度お馴染みの大喝采を浴び、恥ずかしがった本人が真っ赤になってお手洗いに逃げてしまった。
—————この黒板は、いつもと違うものにする。
そう言った恵里ちゃんの声を、私は忘れない。彼女は確かに、何かを振り切ったのだ。
私は静かに黒板を見上げる。光に溢れた青と白が輝いている。お花畑の丘に色が溢れ、金色の太陽が燃えている。神々しく、勢いのある絵画。
別に、以前までの絵と何かが違うわけではないように見える。実際、いつも彼女はこんな風に命の希望に満ちた絵を描いていたし、こんな風にエネルギーに溢れた絵で人の称賛を浴びていた。
ただ、描いている時の恵里ちゃんの表情が、違った。
あんな風に迷いなく。まるで神様からの啓示を受けたかのようにぐいぐいと。
「………おはよう。」
「おはよう。一郎くん、頑張ってね。」
私は一人一人のもとに、リンゴジュースを配って回っていた。すでに登校していた一郎くんは、すうっといつにも増して血の下がった青白い顔で自席に付いていた。まるで吐きそうだ。
「……ボールはお団子だよ。」
私はそう言って微笑むと、提げていたビニール袋から和菓子屋で買ってきた三色団子を取り出した。目を丸くする一郎くんに悪戯っぽく笑うと、私はそれを差し出した。
「…ありがとう。」
呟くように一郎くんは言って、団子を受け取った。どうすればいいかわからない、といった困惑の色を目に浮かべている。私は苦笑して言った。
「これでちょっとは恩返しになるかなって思って。」
「………恩返し?」
「ほら…。精霊関係で、何度も危ない目に遭いそうになった私を助けてくれたでしょう。」
そうかもしれない、と一郎くんは呟いた。そうだよ、と私は力強く返した。
私の手にはもう松葉杖はない。ぐるぐる巻きのギプスはあるけれど、少しずつ自力で歩けるようにはなっていた。私は一郎くんに背を向けると、ジュースを待つ次のクラスメイトのところへゆっくりと歩き出した。
「————生徒の移動を開始します。呼ばれたクラスから順にアリーナへ集合してください。」
……ついに、球技大会が始まる。
♢
「これより、球技大会を開会いたします!みなさん正々堂々と闘い抜きましょう!」
「「「おおー!!!」」」
体育委員会委員長の掛け声で、球技大会が幕を開ける。これからアリーナ、格技室、そして運動場、テニスコートが開放されてトーナメント戦が始まるのだ。まだまだ誰も熱戦の実感のわかないフワフワした空気。とりあえずアリーナに集まって開会式に参加しているものの、どこに移動したらいいのかすらわからない。そんな曖昧な空気の中、舞台上で叫んでいた委員長が、おもむろにジャージを脱ぎ捨てる。
………青と白の鮮やかな服が姿を現した。
お?と首を傾げる観衆たち。その目の前で、舞台袖からわらわらと追加で五人。
みなおかしな格好に身を包んでいる。
「……何が始まるんだろう?」
「うーん。お笑いかな?」
「………いや、なんか踊るっぽいよ。」
ざわめく生徒の前で、舞台に並んだ六人が珍妙なポーズをとって構える。
タカターン!!
大音量で曲が流れ出すと、みんながオォーッと歓声を上げた。そして広がる笑いの波。どう考えても幼児向けのダンスを、微妙に洗練された振り付けでコミカルに踊るダンス部&体育委員の有志たち。
特に知り合いが踊っている生徒たちは、指を指して友達に教えながら盛り上がっていた。
「よかったね。なぎちゃん。」
不意に、隣から声がかかった。
恵里ちゃんが、舞台を眩しそうに眺めながら、ニコニコと私に向かって微笑んでいた。
「……うん。」
「みんな喜んでるよ。」
私は頷いて、恵里ちゃんに向かって静かな笑みを浮かべた。
(…私は今、幸せだ。)
心から、そう思う。
私は今、とても嬉しいと感じている。あの壇上に上がれず、ダンスを踊れず、羽を折られたペガサスのように惨めな気分だった私。それなのに、影の舞台で私が力添えしたことが実現すると、今までの鬱気分が嘘だったかのように晴れていた。
————そうか。
私は合点した。
————私は、誰かの役に立たなきゃいけない人間だったんだ。
途端に、スッキリした。
闇が晴れたように、もやもやが取り払われた。
私は妹としてこの世に生を受けた。これがそもそもの、皮肉だったのだ。いつも誰かに世話をされて、上から目線にものを言う大人と半分大人の姉に囲まれて。誰かの役に立つことで個を世に認めさせたかった私は、いつも押し潰されそうになって喘いでいた。
いつも満たされなかった。どんなに人の役に立とうと努力しても、“自分は誰かの世話になるものだ”という私自身の無意識の思い込みに縛りつけられて、自由に泳ぐことができなくなっていた。
だから、姉が羨ましかった。
産まれたその時から、“誰かを守る“という役職についているあの人が、羨ましかった。
それでも。
いや、だからこそ。
「……ありがとう。銀ちゃん。」
小さな小さな呟きは、みんなの発する歓声に呑まれて揉み消される。私は俯いて、目に浮かんだ涙を拭った。
「私を、守ってくれて。ありがとう。」
素直に微笑むことができた。
だって。姉のおかげで。彼女の背中をずっと追いかけていたからこそ私は。
妹の心を持ち、理想の姉とはなんたるかをも知る、最強の姉になれる。
「—————今度は、私がこの宇宙全部を守る番だよ。」
——————刹那。群集が純白に、アリーナ全部が真っ赤な夜に染まった。
神が降臨する。
鴉が騒がしく鳴いて、バサバサと飛び交う。
そこには巨大な影があった。このアリーナ全てを多い尽くしてもまだ足りないくらいの深い暗黒の影法師。闇の仮面に顔を覆い、心臓から血を流して泣いている。それには顔がない。名前もない。悪魔であり、同時に天使でもある。太陽の光であり、月の闇である。
これを何と呼べばいいのか。
“神“。
これしかないだろう。
神の周りには、剥がれ落ちたペンキのように、裂けた空間が穴を開けている。きっと、隠されていたのだ。私自身が、景色を塗って、油絵のように何度も重ねて、塗り固めて。巧妙に隠していた。
……ああ、よくもまあこんなに大きなものを、私は隠したものだ。
しかも、自分自身に対して。
私はふらりと立ち上がると、自嘲気味に笑った。
ずっと探していたのに、見つからないわけだ。なんといったって、自分自身が隠していたのだから。
私は“私の心”に向かって丁寧にお辞儀をすると、迎え入れるように手を広げた。
「見つけたよ。“私“。」
♢
目を覚ますと、そこは白い天井だった。
「あれ…?」
私は布団を跳ね除けて起き上がろうとして……やけに頭が重いのに気がついた。喉がカラカラに乾いていて、熱を帯びた瞳がぼんやり霞んでいる。
自分を囲んでいるのは、クリーム色のカーテンで仕切られた小さな部屋だった。
「あら。目が覚めたかしら。」
カーテンを引いて現れたのは、看護教諭の大川先生。……と、そこまでいって私はようやく事態を思い出した。
38℃の熱を出して保健室へ担ぎ込まれたのだ。ちょっと変だな、と思っても放置していたのがよくなかったらしい。青い顔をしてふらふらになっている私に恵里ちゃんが気づいて、即座に観戦を中止。熱で朦朧として幻覚じみたものまで見ていたのだから当たり前だ。怪我人の処置の準備を整えて臨戦体制となっていた大川先生に有無を言わさずにベッドに転がされ、そのまま寝落ち。
怪我した上に当日病気になるとか、私は球技大会に呪われているのだろうか…?と真剣に悩みたくなるほどの運の悪さだ。
私の沈んだ気分とは裏腹に、大川先生は元気よくカーテンを開けると、にっこりと目を細めた。
「よしよし、大丈夫そうですね。今スポーツドリンクとか飲めそうかしら?」
「はい。」
「親御さんに連絡したんですけどね。ちょっと仕事の手が離せないから五時くらいになっちゃうそうなんです。それまではここでお休みしましょうか。」
小さな紙コップに、経口補給液を注いで手渡す大川先生。私はゆっくりとベッドに起き直って、そっと紙コップを受け取った。
「……あの、球技大会の方は……?」
「うーん。私はタイムスケジュールをよく知りませんんが、平均してみなさん三回戦目くらいだと思いますよ。さっき二回戦目のバスケで捻挫患者が出ましたから。」
「三回戦……。」
このくらい進んでくると、上位リーグに進むかどうかが決定される頃だ。
私はぼんやりと重い頭を枕に戻して、飲み干した紙コップを先生に返す。そのままカーテンの奥へ消えそうになった大川先生に、私は思い切って声をかけた。
「あの!先生!」
大川先生は、くるりと振り返ってこちらを見た。
「…球技大会、一試合だけ観戦してもいいですか。…その、知り合いが出るんですけれども。」
「うーん。」
大川先生は、困ったように私の顔を見下ろした。私は恥ずかしくなって、目を逸らした。…わかっている。無理な注文だ。私がここから出れば、友達に感染るかもしれない。または、私の病気が悪化することも考えられる。そして、その責任は全て学校側に被される。
「…御免なさいね。」
申し訳なさそうに眉をハの字にする大川先生。私はハイ、と蚊の鳴くような声で答えた。
「友達に連絡して、撮影してもらえるように頼みますか?今日は写真部以外にもカメラが特別に貸し出されていますし。」
「……いえ。大丈夫です。そういうの、あまり好きじゃなさそうな人なので。」
「そうですか。」
大川先生が、静かに微笑んで、カーテンの向こうへ去る。
一人ぼっちになった私は、天井を見上げたまま、ゆっくりと両手で顔を覆った。
静かに瞼を閉じる。
しっとりと雨に濡れたように冷たい暗闇に浸る。
夢に、奈落の底へと、転がり落ちてゆく。
眠りという魔物を介して、私は旅をする。
会いにゆく。
赤い糸がつながっている、その向こう岸へ。
「—————ねえ、イチローくん?」
私が見つけたのは、赤い夜だった。
真っ赤な月を抱いているのは、“私“の影。闇夜を塗り変えるほどの鮮やかな紅は、彼女の心臓から流れ出す血の色だった。
本当に、宇宙の天体を撫でることができるほどに。空を血の海で満たすことができるほどに、大きかったのだ。私という存在は。
「なぎちゃん?」
地面には、銀の砂のように撒かれた天の川の星屑が降り積もっている。そこに埋もれそうになっている小さな男の子—————イチローくんは、怯えたように私の目を見つめ返した。
私はその目をまっすぐに見つめ返して、問うた。
「イチローくんは、太陽が好きなの?」
「うん。大好きだよ。」
「どうして?」
「そりゃあ、とっても雄々しく、美しく、真っ赤に命を燃やして光り輝くからだよ。」
イチローくんは、滑らかに言葉を紡ぎながら、時々うっと詰まりそうになるような、不思議な喋り方をしていた。震える手を胸に掻き抱き、病的に青白い肌を隠すように俯きながら、歪んだ表情でこちらを見ている。
「太陽が燃え尽きた時、イチローくんはどうするの?」
「そんなの、ありえないよ。太陽は永遠なんだよ。」
「それは違うよ。」
私がそう言った瞬間、イチローくんが、小さく息を呑んだ気配が伝わってきた。
「違う。この世に永遠はない。」
私が“私”を手招きすると、彼女はゆっくりと舞い降りて、私のそばに寄り添った。
「光ある時、そこに影あり。」
“私” が賛同の意を示して、頷く。
「生ある時、そこに死あり。」
“私” が鷹揚に手を広げて、血を流し続ける心臓をあらわにする。
「希望ある時、そこに絶望あり。」
“私” が蜘蛛のような手を天に差しあげて、頭を抱える。
「故に、永遠は存在しない。」
絶望したような表情で私を見上げるイチローくん。ああ、悪いことをしてしまったかな、と思う。いやしかし、これは必要なことだ。過去に引き摺られたままでは、未来に進むことが出来ない。無論人間の心は一枚岩ではないのだから、泥に塗れた悲哀や後悔を清算する程度で、全てが解決することは稀だ。
しかし、マイナス地点から進む人にとっては、これが第一歩だ。
…私は恵まれている。
本当にそう思う。心から、こんなに幸せな人間は世界にいないと思う。
何故か?
私は、この世界の全てを慈くしむ祈りの心を持っている。
光、闇、生、死、希望、絶望。全てを呑み下して包み込み、宇宙という名の薄青い海のヴェールで覆い尽くす。
もう、私はとっくに“世界“という枠組みすら超越しているのだから。
“私たち“は努めて優しく語りかけた。
「「しかし、案ずるな。」」
おもむろに私は、“私”を迎え入れた。重なり合い、溶け合い、白い小魚と宇宙の海が、真の意味で一体化する。
『迷いある時、そこに必ず悟りあり。』
幾重にも混ざり合う響きが、天地を轟かせる。
津波のごとき大波が、地を裂き噴き出し溶岩流のように流れだし、轟音と共に隕石のような飛沫を巻き上げた。
『今宵を、よく覚えておけ。』
踊り狂う真紅の海。
この世紀末のような光景は、ずっと昔に予言がなされていた。
—————残念。正解は、『僕たちの色』でした!
イチローくんが、なぜあんな言葉を口走ったのか、今でもよくわからない。それでもあれは、大切な思い出であり続ける。彼と、私の、始まりと終わりの記憶。
『びくともしなかった壁も、崩れる時が来る。岩や煉瓦の如く堅牢な壁に見えていたものが単なる幻であり、柔らかな布でできていたことに気づく時がやって来る。大切なことは、ただ一つ。』
“私たち“は包み込むように世界を抱きしめた。
『————よく、見ること。』
刹那。
イチローくんが、ぐんと立ち上がった。背筋を伸ばし、頭を上げ、どんどん伸びてゆく。まるで鎌首をもたげた蛇のように、どこまでも伸びてゆく。
あぁ、やはり彼は蛇神様だった。森の中で白い体躯を波打たせ、清らかに、そして恐ろしく、出会う者に祝福と信仰を与えてゆく。
あはは、と“私たち“は笑った。
あはは!あはは!わっはっは!
簾のように藤の花が咲き乱れる。
そうだ。これは結界だ。
万人を受け入れる寺がここにあることを示す、メッセージ。
人も、精霊も。光も。闇も。
みんなで世界中を揺らして笑い続ける。
『見よ。そこに死んだ太陽がいる。』
“私たち“の言葉に、一郎くんは挑戦するように頷いた。
暗黒の穴が、ぽっかりと空いている。
ぐちゃぐちゃに嵐が吹き荒れるこの世界の中心に、ただ静かに存在する穴。
それはゆっくりと、近づいてきていた。
衝突する。
いつかこの宇宙にぶつかって、何もかもを呑み込んでしまうだろう。
『あれを何とかできるのは、お前しかいない。ちょうど、私が“私“を何とかしたように。』
一郎くんは、もう一度頷いた。
その瞳に宿った覚悟の色に、私はこれなら安心かと肩の力を抜く。
“私たち“の見ている前で、一郎くんは両手を広げる。
優しく受け止めるように。
まっすぐに天を見つめ、親鳥が雛鳥を見るかのような慈しみの視線で、この世界全てを見渡す。
「さあ…おいで。」
彼が静かに呟いた、その刹那。彼の胸を目掛けて、死んだ太陽が落っこちた。
眠るように目を閉じる。
“彼ら“の表情は、この上なく安らかだった。
球技大会は、大いに盛り上がったらしい。
らしい、というのは私はそれを観戦することが出来なかったからだ。
球技大会の後、私はまた山に行った。
私はふと麓の藤の花の群れを見上げて、驚いた。薄紫色の花は一年中狂い咲いているように見えていたのだが、そうではなかったことを知ったからだ。咲いているように見えただけで、夏には枯れたし、秋や冬には花どころか葉すらもなかったのだ。そうして、今ふわりと香る独特の甘い香は、また季節が巡って藤の春がやってきたことを語るもの。まだまだ蕾も多いが、だんだんと咲き始めているようだ。
それでは、今まで見ていた藤神山の麓の藤は何だったのか?
それは、ただの幻だ。どんな精霊が悪戯をしているのかはわからないが、とにかく本当に咲いているわけではない。
私は一郎くんの手を借りずとも、山を歩けるようになっていた。五感をきちんと働かせてよく注意を凝らせば、本能的に危ないものと安全なものは見分けられる。今回のように、藤の花の様子を見るだけで、今までの藤の景色が偽物であったことが何となくわかったりもする。
また、いつか訪れた寺の本堂には、精霊の種類や特徴が記述された古い本なども並んでいた。それを読んだ私は、一年前よりもこの山の不思議について詳しくなっていた。
ふと、私は山路の真ん中で立ち止まる。
みずみずしい野草の若芽が生え始めた山路の端に、小さな石の祠が立っている。
赤い襟巻き。指人形のように小さなお地蔵様が、地面に埋まっている。とにかくシンプルを体現したようなかまくら型の祠だ。ええと、これは確か……
「……石ころ地蔵さま、だったっけ。」
私はちょっと考えて、そしてザクザクと落ち葉を踏んでそこまで行くと、ゆっくり腰をかがめた。鞄を置いて居住まいを正し、丁寧に手を合わせる。目を閉じて静かにお祈りをした。
沈黙を捧げるように。
ひたすらに祈りを捧げる。
具体的な言葉は特に思い浮かばなかった。
………そもそもが、言葉で頼み事をするような神様ではない。
『石ころ地蔵』
迷える者を、光明へと導く神様。昔、山で道に迷った修行僧に、とある石ころがコロコロ転がりながら先導して寺まで送り届けてくれた伝説があるのだという。
悩み事、迷い事。解決したい問題は山積みで、いつだって綺麗さっぱり片付いてくれるということがない。
誰かと比べないように頑張っても、どうしても比べてしまう自分がいる。
それならばと、この世のあらゆるものを超越したような気分になってみて、しかしそれを貫けずに己の無力さに打ちひしがれる。
泣きたくなるほど、世の中は残酷だ。
こんなにも私に幸せを与えて下さったのに。勉強が出来て、運動が出来て、人に好かれる性格を持ち、粘り強い性質と責任感、素晴らしい家族や友人に囲まれているのに。
肝心の悩み苦しみからは、逃げることを許してくれない。
だから、お門違いなのだ。
あれを解決してください。これの道筋を示してください。それをどうすれば良いか教えてください。どんなふうに生きたらいいですか。
そうやってすがったところで、また進んだ先の別の道に迷うだけなのだ。
だから、私はただ祈る。
見ていてください。
私は白く平和な小魚です。
宇宙という海に溶けて、ゆっくりと泳いでゆく魚です。
凪いだ海の野原に生きる、のんびりした魚。
しかし、そこには裏側の物語があるのです。
表面に“凪”ある時、裏側に“嵐”あり。
ひっくり返った私の魂が見せた夢は、荒波と流星と悪魔の血に揉まれる恐ろしい場所でした。
私は人間です。
私は精霊です。
私は海です。
私は海に生きる精霊という名の人間なのです。
小さくなってしまったこの世の中で、大きな物語を紡いでみたい。
無限に流れ行く運命に打ちひしがれる自分を、そっと抱き上げてあげられる神様でいたい。
見ていてください。
私は、これからも進んでいきます。
……墓標に手を合わせるように、静かに祈る。そしてそのまま、沈黙に祈る。祈り続ける。
どれくらい経っただろうか。風に揺れる黄緑色の草の群れに、すっと背の高い影が差した。私はパンパンとスカートの土を払うと、振り向いて立ち上がる。
「…………。」
「……見たらわかるかもしれないけど…ちょっとお祈りをしていたんだ。一郎くんも、石ころさまに会いに来たの?」
「………うん。」
一郎くんは、山桜の樹の影に隠れるように佇んでいた。まるで隠れん坊をする子供のように。黒い僧侶服を身に纏い、水辺に棲む白蛇のように気高い雰囲気を纏った、幼い獣のように。はらはらと舞い散る桜の花びらに包まれて、儚き大樹の光に溶けてしまいそうだった。
そう。彼は弱く、儚く、魂に闇を潜ませる存在。ただの人間。それでも、そうだとしても、彼は主なのだ。誰よりもこの山に親しみ、藤笠の寺の次なる住職となる人間。
私は静かに微笑むと、ちょっと迷ってから、ゆっくり口を開いて一郎くんに語りかけた。
「…私ね、来年の文理選択、理系に決めたよ。医者を目指す。」
「…………。」
「大変な道かもしれないし、失敗するかもしれないし、また悩んで小悪魔に魅入られるような真似をするかもしれない。覚悟も何にもない。それでも、進んでみるよ。」
「………。」
一郎くんは、まっすぐ私の目を見つめていた。
黙ったまま、じっと見つめて。そして、ふっと笑った。
—————花の綻ぶような、笑み。
優しい、柔しい、初めて見た、彼の笑顔だった。
「僕は学校を変える。ここからかなり遠いけれど、良い通信制の高校を見つけんだ。」
「……よかった。……お互いに頑張ろうね。」
「無論。」
春の風が吹き荒れる。ざあっとなぶられた互いの黒髪が森に靡き、桜吹雪に揉みくちゃにされる。我知らずに目頭に涙が浮いて、あぁそうか、と私は笑う。
寂しいのだ。
悲しいのだ。
切ないのだ。
私はこれから、一郎くんと離れることが寂しいのだ。
あんなにも特別な感情を抱いたこともあったのに、何もかもが過去の遠い思い出となった今が、悲しいのだ。
そして、こうして新たな一歩を踏み出すお互いの悲壮な覚悟が、切ないのだ。
(こんなことなら、後先考えずに告白していればよかったのかもしれないなぁ。)
燃えるような憧れは、いつの間にか消え去っていた。
小悪魔にかどわかされて幻に逃げ、地面に這い蹲って泣いていた彼に怒った時から、私の熱はゆっくりと冷め出したのだ。もちろん元々生涯の伴侶となるつもりは全くなかったし、そうしても私は幸せにはなれないだろうという、半ば確信めいた勘があった。だから全てに遠慮していたし、余計に思考が拗れていつも彼のことを考えるようになっていたのだろう。
……けれど、もう私は彼を特別だと思うことはない。ただの、ちょっと変わってるだけの、普通の男の子だ。
この胸のうちに秘めて、そして知られることなく散っていった想い。ちょっと寂しい。けれど、そんな恋も良いかもしれないな、とふと思った。
この寺を訪れるのは、きっと一、二年に一度くらいになるだろう。休憩が必要だと思った時に、ここで少し魂の洗濯をするのだ。そこで、また鬼やら何やらに出会って、化かされそうになったり、不可思議な幸せを手に入れたりする。藤の結界を潜り、万人に開かれた場であるという寺で手を合わせ、そうしてまた帰ってゆく。
そうして一郎くんと私は、大人になってゆく。
いつかお互いの伴侶でも連れて挨拶をして、昔を懐かしむ。
「……春だな。」
「そうだね。」
春だ。桜咲き、涙と別れ、出会いと喜びの季節。ぐるぐると巡る輪廻の中で、地球はまわる。
あぁ、気が狂ってしまいそう。
もう、みんな狂っているのかもしれない。
酔って、夢みて、絶望し、羽目なんか外しまくって狂喜乱舞して喜んで。
——————だから、私の見たこれも、ただの夢だったのかもしれない。
「青いよ、なぎちゃん。」
「……え?」
私が見上げた空は、青かった。
森の樹々も、青かった。
驚いて一郎くんを振り返ると、真っ青なインクに浸かって出て来たばかりのような一郎くんがいた。
自分の体を見下ろす。
……ブルーベリージュースよりも鮮やかで、燃える星のように美しく、おばあちゃんの手の甲に浮き出た静脈のように雄々しい、青色。
「私たちの色、だね。」
「うん。」
真っ青な桜吹雪がくるくる廻る。
三月三十一日。
嵐のようだった高校一年生の夢が、終わりを告げた。