球技大会は、大いに盛り上がったらしい。
らしい、というのは私はそれを観戦することが出来なかったからだ。
球技大会の後、私はまた山に行った。
私はふと麓の藤の花の群れを見上げて、驚いた。薄紫色の花は一年中狂い咲いているように見えていたのだが、そうではなかったことを知ったからだ。咲いているように見えただけで、夏には枯れたし、秋や冬には花どころか葉すらもなかったのだ。そうして、今ふわりと香る独特の甘い香は、また季節が巡って藤の春がやってきたことを語るもの。まだまだ蕾も多いが、だんだんと咲き始めているようだ。
それでは、今まで見ていた藤神山の麓の藤は何だったのか?
それは、ただの幻だ。どんな精霊が悪戯をしているのかはわからないが、とにかく本当に咲いているわけではない。
私は一郎くんの手を借りずとも、山を歩けるようになっていた。五感をきちんと働かせてよく注意を凝らせば、本能的に危ないものと安全なものは見分けられる。今回のように、藤の花の様子を見るだけで、今までの藤の景色が偽物であったことが何となくわかったりもする。
また、いつか訪れた寺の本堂には、精霊の種類や特徴が記述された古い本なども並んでいた。それを読んだ私は、一年前よりもこの山の不思議について詳しくなっていた。
ふと、私は山路の真ん中で立ち止まる。
みずみずしい野草の若芽が生え始めた山路の端に、小さな石の祠が立っている。
赤い襟巻き。指人形のように小さなお地蔵様が、地面に埋まっている。とにかくシンプルを体現したようなかまくら型の祠だ。ええと、これは確か……
「……石ころ地蔵さま、だったっけ。」
私はちょっと考えて、そしてザクザクと落ち葉を踏んでそこまで行くと、ゆっくり腰をかがめた。鞄を置いて居住まいを正し、丁寧に手を合わせる。目を閉じて静かにお祈りをした。
沈黙を捧げるように。
ひたすらに祈りを捧げる。
具体的な言葉は特に思い浮かばなかった。
………そもそもが、言葉で頼み事をするような神様ではない。
『石ころ地蔵』
迷える者を、光明へと導く神様。昔、山で道に迷った修行僧に、とある石ころがコロコロ転がりながら先導して寺まで送り届けてくれた伝説があるのだという。
悩み事、迷い事。解決したい問題は山積みで、いつだって綺麗さっぱり片付いてくれるということがない。
誰かと比べないように頑張っても、どうしても比べてしまう自分がいる。
それならばと、この世のあらゆるものを超越したような気分になってみて、しかしそれを貫けずに己の無力さに打ちひしがれる。
泣きたくなるほど、世の中は残酷だ。
こんなにも私に幸せを与えて下さったのに。勉強が出来て、運動が出来て、人に好かれる性格を持ち、粘り強い性質と責任感、素晴らしい家族や友人に囲まれているのに。
肝心の悩み苦しみからは、逃げることを許してくれない。
だから、お門違いなのだ。
あれを解決してください。これの道筋を示してください。それをどうすれば良いか教えてください。どんなふうに生きたらいいですか。
そうやってすがったところで、また進んだ先の別の道に迷うだけなのだ。
だから、私はただ祈る。
見ていてください。
私は白く平和な小魚です。
宇宙という海に溶けて、ゆっくりと泳いでゆく魚です。
凪いだ海の野原に生きる、のんびりした魚。
しかし、そこには裏側の物語があるのです。
表面に“凪”ある時、裏側に“嵐”あり。
ひっくり返った私の魂が見せた夢は、荒波と流星と悪魔の血に揉まれる恐ろしい場所でした。
私は人間です。
私は精霊です。
私は海です。
私は海に生きる精霊という名の人間なのです。
小さくなってしまったこの世の中で、大きな物語を紡いでみたい。
無限に流れ行く運命に打ちひしがれる自分を、そっと抱き上げてあげられる神様でいたい。
見ていてください。
私は、これからも進んでいきます。
……墓標に手を合わせるように、静かに祈る。そしてそのまま、沈黙に祈る。祈り続ける。
どれくらい経っただろうか。風に揺れる黄緑色の草の群れに、すっと背の高い影が差した。私はパンパンとスカートの土を払うと、振り向いて立ち上がる。
「…………。」
「……見たらわかるかもしれないけど…ちょっとお祈りをしていたんだ。一郎くんも、石ころさまに会いに来たの?」
「………うん。」
一郎くんは、山桜の樹の影に隠れるように佇んでいた。まるで隠れん坊をする子供のように。黒い僧侶服を身に纏い、水辺に棲む白蛇のように気高い雰囲気を纏った、幼い獣のように。はらはらと舞い散る桜の花びらに包まれて、儚き大樹の光に溶けてしまいそうだった。
そう。彼は弱く、儚く、魂に闇を潜ませる存在。ただの人間。それでも、そうだとしても、彼は主なのだ。誰よりもこの山に親しみ、藤笠の寺の次なる住職となる人間。
私は静かに微笑むと、ちょっと迷ってから、ゆっくり口を開いて一郎くんに語りかけた。
「…私ね、来年の文理選択、理系に決めたよ。医者を目指す。」
「…………。」
「大変な道かもしれないし、失敗するかもしれないし、また悩んで小悪魔に魅入られるような真似をするかもしれない。覚悟も何にもない。それでも、進んでみるよ。」
「………。」
一郎くんは、まっすぐ私の目を見つめていた。
黙ったまま、じっと見つめて。そして、ふっと笑った。
—————花の綻ぶような、笑み。
優しい、柔しい、初めて見た、彼の笑顔だった。
「僕は学校を変える。ここからかなり遠いけれど、良い通信制の高校を見つけんだ。」
「……よかった。……お互いに頑張ろうね。」
「無論。」
春の風が吹き荒れる。ざあっとなぶられた互いの黒髪が森に靡き、桜吹雪に揉みくちゃにされる。我知らずに目頭に涙が浮いて、あぁそうか、と私は笑う。
寂しいのだ。
悲しいのだ。
切ないのだ。
私はこれから、一郎くんと離れることが寂しいのだ。
あんなにも特別な感情を抱いたこともあったのに、何もかもが過去の遠い思い出となった今が、悲しいのだ。
そして、こうして新たな一歩を踏み出すお互いの悲壮な覚悟が、切ないのだ。
(こんなことなら、後先考えずに告白していればよかったのかもしれないなぁ。)
燃えるような憧れは、いつの間にか消え去っていた。
小悪魔にかどわかされて幻に逃げ、地面に這い蹲って泣いていた彼に怒った時から、私の熱はゆっくりと冷め出したのだ。もちろん元々生涯の伴侶となるつもりは全くなかったし、そうしても私は幸せにはなれないだろうという、半ば確信めいた勘があった。だから全てに遠慮していたし、余計に思考が拗れていつも彼のことを考えるようになっていたのだろう。
……けれど、もう私は彼を特別だと思うことはない。ただの、ちょっと変わってるだけの、普通の男の子だ。
この胸のうちに秘めて、そして知られることなく散っていった想い。ちょっと寂しい。けれど、そんな恋も良いかもしれないな、とふと思った。
この寺を訪れるのは、きっと一、二年に一度くらいになるだろう。休憩が必要だと思った時に、ここで少し魂の洗濯をするのだ。そこで、また鬼やら何やらに出会って、化かされそうになったり、不可思議な幸せを手に入れたりする。藤の結界を潜り、万人に開かれた場であるという寺で手を合わせ、そうしてまた帰ってゆく。
そうして一郎くんと私は、大人になってゆく。
いつかお互いの伴侶でも連れて挨拶をして、昔を懐かしむ。
「……春だな。」
「そうだね。」
春だ。桜咲き、涙と別れ、出会いと喜びの季節。ぐるぐると巡る輪廻の中で、地球はまわる。
あぁ、気が狂ってしまいそう。
もう、みんな狂っているのかもしれない。
酔って、夢みて、絶望し、羽目なんか外しまくって狂喜乱舞して喜んで。
——————だから、私の見たこれも、ただの夢だったのかもしれない。
「青いよ、なぎちゃん。」
「……え?」
私が見上げた空は、青かった。
森の樹々も、青かった。
驚いて一郎くんを振り返ると、真っ青なインクに浸かって出て来たばかりのような一郎くんがいた。
自分の体を見下ろす。
……ブルーベリージュースよりも鮮やかで、燃える星のように美しく、おばあちゃんの手の甲に浮き出た静脈のように雄々しい、青色。
「私たちの色、だね。」
「うん。」
真っ青な桜吹雪がくるくる廻る。
三月三十一日。
嵐のようだった高校一年生の夢が、終わりを告げた。