蛇と魚とウミノナギ



私はダンスのメンバーを他の人に変わってもらった。ギプスをつけながら手拍子をするだけでは、舞台の上からみんなを笑わせるという目的を叶えることはできない。練習の時もただの足手纏いにしかなれないと理解しているから、私は振り付けを考えることから全てを他の人たちに一任することにした。幸い、協力先である体育委員会に何人か興味を示す男子がいて、そのうちの一人が快く追加の仕事を引き受けてくれた。
同じ理由で、球技大会の選手も棄権することになった。バスケもバレーも、ドッヂボールも、足を動かさずにプレーすることは不可能だ。

みんな笑って許してくれた。
私の怪我を心配し、完全に折れたわけではなくただのヒビだと説明すればホッとした表情を浮かべ、「お大事に」の一言を残して離れていった。

みんな、優しい。
誰も球技大会前に怪我をした私に、非難の表情を向けることはない。むしろ、励ましてくれる。そして、危険で古い石階段を放置していた学校を責める。

誰もが優しい。しかし、私の棄権を本気で惜しむ人も、いないのだった。私が必要だと、心の底から私の存在を欲してくれる人は誰もいない。

—————胸が痛い。苦しい。

まるで、ずっとずっと盤石だった大地の巌が裂け、土砂降りの雨に草木が涙を流すよう。アリの巣が潰されて、花々を飛び回っていた蛾が溺れ、胡麻粒のような虫たちの声にならない悲鳴が上がる。

—————脚が痛い。辛い。

…骨にヒビが入ったからだ。当然だろう。こんなことくらいで、私の心は折れない。私はじんじん響く鈍痛くらいで参るような、やわな人間じゃないのだ。
そう叱咤してみても、この身が千切れて消えてゆくような胸の痛みは消えない。まるで、はるばる遠路を旅してきた川の水が海に注ぎ込んだ瞬間、自分の身が溶けてなくなってしまうかのような。自分という存在の小ささを、否応なしに実感させられたかのような気分ではないか。

——————私の取り柄の一つは、運動神経が抜群に良いことだったのに。

特にバスケットボール。強豪校だった中学の部活で鍛えたその技には、自信があった。
歌が平均より少し上手だったり、英語が得意だったり、たまに冗談を言ってみんなを笑わせることができたり、鏡文字を書いたり。そんなちょっとした特技のようなものは色々あるけれど、特に尖っていたのはスポーツだった。だからそれで、みんなに貢献したかった。

——————私は、みんなの役に立ちたいのに。

私の晴れ舞台になるはずだった球技大会。私のことをみんなが称賛し、ありがとうの言葉で揉みくちゃにして、私の貢献のお陰でクラスが高い順位を取る。運動に秀でているのは私だけじゃなくて沢山いるのだから、このクラスならば優勝だって目じゃなかったかもしれない。
それも、もう無理だ。
このクラスにはバスケ経験者は私しかいなかった。バレーの経験者はもともといない。これでは女子の順位が下がる。そして、男女総合で競い合う球技大会において、優勝を狙うことはまず不可能になったと考えて良い。

—————私のせいで。

授業の内容も、頭に入らなかった。休み時間も、学活も、何もかも終わって、終業の鐘が鳴るまでずっと。

私はただただ呆然としていた。
いや、唖然としていたと言っても良いかもしれない。
なぜこんなにも私が傷ついているのか、自分が全くわからなかった。今は人生百年時代。この高校一年の冬に怪我をした程度、私の人生に何はほとんど何の影響も及ぼさない程度のアクシデントだ。
別に気にするほどのことじゃない。
友達も、それを理解している。体育祭でも文化祭でもなく、ちょっとした最後の余興の球技大会。熱くなって、我を忘れて、自分自身の感情に振り回されて。そんな風に終える行事ではない。ただ良い思い出が出来れば良いのだ。何年も後から振り返って、わいわいと笑顔で語り合えるような、そんな記憶の束を作る。

それだけで、良いはずなのに。

宇宙という海で、こんなにもちっぽけな小魚が、もがいている。

そこに、鈴の響きを纏う銀の霞が、私を抱き込んで優しく囁く。姉の導きの言葉だ。

————ほうら、“私”を囲ってる手を離してごらんなさい。宇宙には自分と他人との境界線なんて存在しないのよ。ね、そうすれば楽になるわ。

私は泣いた。涙を出さずに泣いた。そして、母親に縋る幼子のように、ただただ己の想いをぶつけた。不安と心細さに塗れた、ただの泣き言を。

だめだよ。銀ちゃん。虚しくなるだけ。もっと辛くなるだけ。
天地自然のエネルギーの塊とか、宇宙の海とか、……頑張って想像しようとしているけど駄目なんだよ。私は独りぼっちで瞑想をしたことなんかないんだから。目を閉じるだけで、暗い闇の奥底から悪魔が手招きしてくるような気分になる。怖いんだよ。私はやっぱり、ただの弱くて脆い小魚にすぎないだよ。



「———ねえ、なぎちゃん?」


………え?

私はゆっくりと、顔を上げた。そこにいたのは……

「…あのう、ちょっと時間ある?」

おさげに桃色縁眼鏡。大きな手提げを右手に、左手に通学鞄を提げている。人の良さそうな微笑みに、小柄で風が吹けば飛ばされてしまいそうな華奢な体。クラス随一の絵描きにして、私の一番の友達。

「……あ。」
「だ、大丈夫?なぎちゃん、体調悪いの?」
「…………恵里ちゃん。」
「ほほほ本当に大丈夫?!保健室連れて行こうか?!」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと色々あって疲れたからぼーっとしてただけだよ。」

牧田恵里ちゃん。
五月ごろに話しかけてくれた時から、私たちは休み時間に喋り、放課後には一緒に帰路につくほどの関係になっていた。おそらく唯一の“親友“と呼べる友達。そんな彼女が、慌てたように私を見下ろしていた。
私はあまりお喋りするような気分ではなかったが、あまり心配されても困る。安心させるように微笑むと、恵里ちゃんが、ほっとしたように肩の力を抜く。

「……とりあえず、今日はもう帰って休んだほうがいいみたいだね。」
「うーん。そうしたいのは山々だけど、ほら、まだ松葉杖で帰宅は難しいから。親が仕事を終えて車を回すまで、図書室かどっかで時間を潰そうと思ってる。」
「あぁそっか……。」

……言えない。いや、言いたくない。
おかしな妄想に身を焦がし、悩みとも言えない悩みで泣きそうになっていた、こんな不甲斐ない自分の姿を。私を憧れだと言って慕ってくれる、恵里ちゃんに見せたくない。これは私の見栄で。猫被りで。そして、ちっぽけな欲張りの証。
それくらいは、許してほしいのだ。
見逃してほしいのだ。

「なぎちゃんが帰るの、何時くらいになりそう?」
「なるだけ仕事は早めに切り上げるって言ってたから、多分六時前後だよ。もしその時間も過ぎるようなら、図書室閉まっちゃうから自習室に移動しようかな。」
「ふんふん、なるほど。」

恵里ちゃんはまるで、りんごのうさぎだ。
みずみずしい果実のような純真さと、美しさ。子供が安心して近寄っていける大人しさと、可愛らしさ。ナイフ一本で編み出される芸術的でユーモラスな仕掛けは、日本伝統のものなのだろうか。絵筆一本、チョーク一本、鉛筆一本、とにかく画材さえあれば夢の世界への扉を開く彼女の生き様と、よく似ているではないか。

私は眩しく恵里ちゃんを見上げる。
彼女は、煌いている。他の誰よりも。私は出会った時からずっと、彼女の素晴らしさを認めている。
それでも、私たちの関係は、絶対に対等にはなれなかった。私を慕う彼女と、それを広い懐で受け止める私。寂しくないといえば嘘になる。本当の意味での心の通い合いは、一度だってなかったかもしれない。私は悩みを聞いてばかりで、彼女は話してばかり。助けを呼ぶのはいつも彼女で、私が泣きついたことは一度もない。
…でも、それでいいと思っていた。それで、許してほしいとも思っていた。

なぜなら。
あなたが、初めての。
————私が持つことの出来た、“妹分”、だったのだから。


「—————美術室に、来てみない?」

恵里ちゃんは顎に手を当てて少し悩んだ後、そう言った。

「本当はこの後、オンライン英会話講演会に誘うつもりだったんだけど。でも、疲れてるなら。」

彼女の困ったような微笑みは、なんだかいつもと違うように思えた。静かな影のある、幾層にも包まれたヴェールの下の、さらに化粧に覆われた、花嫁さまの微笑み。
……この時、私はなんとなく感じた。

涙を出さずに泣いていたのは、きっと私だけではなかったことを。







私がふと顔を上げると、真っ暗な闇が広がっていた。
樹々が点々と生えているところに薄ぼんやりと青い狐火が灯っている。淡い桃色の縞模様に目を凝らせば、静かな川のせせらぎ。岸の向こう側には黄緑色に煌めく草原。

神々の住まう、最果ての国。根の国。
死んだ人間はそこへ落ち、死霊となって漂い続ける。


「私、黒い絵の具が好きなの。」
「…………。」
「でも、白も好きかもしれない。すぐにチューブが空っぽになっちゃうんだ。」

油絵の具と、キャンバス。
中学校までの授業ではついぞ扱うことのなかった画材。その大きさと迫力、質量感に、私はほうっと息をついた。恐る恐る覗き込んで、私は静かに呟いた。

「すごい。絵の具が盛り上がってて…デコボコまではっきり見える。」
「油絵ってそういうものなんだよ。水彩絵の具と違って、どんどん上から塗り重ねていっていいの。」
「そうなの…?」
「そう。だから、いつまで経っても完成しない。画面を塗り尽くしたからおしまい、みたいなのはなくて。より複雑に、色を足して、塗って、重ねて、変化してゆくもの。」
「面白いね。」
「うんうん。あとは、こんなのもあるよ?」

恵里ちゃんが、奥の部屋の乾燥棚から、少し小さめのキャンバスを取り出してくる。
私は覗き込んだ。

……骨。
牛の骨の頭。
命を失った骸が、画面の真ん中に。

土の上に転がる、巨大な青白い牛の骸骨だ。不気味なモチーフのように思えるのに、絵から漂う雰囲気は神聖で静かなものだった。生前は目玉が嵌っていたのであろう真っ黒な穴の縁に、はえが一匹、止まっている。それはまるで団子にまぶされた胡麻のようにごく自然なものだった。

「どう……?」
「……綺麗だと、思ったよ。死って、こんなに美しく描けるモチーフなんだね。」
「……そう。ありがとう。」

さらに、何枚かの絵が目の前に並ぶ。基本は油絵だったが、水墨画も混ざっていた。陸に打ち上げられた魚の目玉から、涙が滴る絵。死んだ赤子の墓を荒らす天狗の絵。

例外はない。
…全てが、“死“に関係のある作品だった。

「こんなにたくさん、全部授業時間外に描いたの?」
「うん。ほとんど毎日放課後は残ってるから。」
「そっか。」

…そうだろう。こんな不気味なテーマで縛られた作品群を描いていたことを、クラスメイトは愚か、一番近しい友達であった私でさえ知らなかった。彼女が人前で、授業中で描くものはもっと、明るく楽しい絵だ。

「ねえ、なぎちゃんも描いてみない?」
「……私は無理だよ。下手くそだから。」
「それでも。私はなぎちゃんと一緒に絵が描きたいの。だからここに連れてきた。…いつもダンス部とか委員会とかで忙しそうで誘えなかったから、今がチャンスかなって思ったの。……ほら、ね?」

恵里ちゃんが、冗談めかして微笑むと、私の脚を見下ろす。
確かに私の脚は白いギプスでぐるぐる巻きで、ダンスどころはない。私は苦笑いを浮かべて、渋々、といった調子で頷いた。

…………ちょっと絵が描きたくてうずうずしていた気持ちは、胸の中にこっそり仕舞っておこうと思う。


絵の具を絞る。
筆を動かす。
色を伸ばす。
紅を引く。
白を重ねる。
黄の点を撃ち込む。
描くのは、どこかの海の野だった。
薄緑色の刃を持った風が、円弧を描いて吹き荒れる。シケだ。しかしどんなに外側が吹き荒れていても、波はまっすぐ平な水平線。頑固で強靭な、絶対の一直線。

光り輝く星々の散る夕焼け空を、衝突した隕石と雨雲と嵐が吹き荒んでめちゃくちゃにしている。
リズムもメロディも何もない、自然界の暴力。
人はこれを、黙って受け入れるしかない。
どうかやめてください。容赦してくださいと、ひれ伏して祈ることしかできない。
無心に祈る。
心が溶けて、大地と一緒になってしまうまで。

————何時間、描き続けただろうか。

鐘の鳴る音で、私たちは顔を上げた。恵里ちゃんも、『根の国』の構築にひたすら没頭していたようだった。二人してはっと顔を上げて、目を見合わせる。
私は自分の目にうっすら涙が浮かんでいるのに気づいて、慌てて瞬きして誤魔化した。

「………。」
「………。」

二人とも無言だった。
椅子を立って、片付けを始める。結局、一度も顧問の先生や他の部員は来なかった。美術はゆるい部活の代表だから、これで通常運転なのだろうか。
私自身はコツコツとにかく継続することを信条にしているので、普段なら少し眉を顰めることだったが、今日ばかりはありがたかった。

美術室は、画材の独特の匂いがする。壁一面に絵が飾られていて、彫刻がずらり。薄暗い黄昏時の光が差し込んでいるこの場所は、異様な静けさが支配している。

「……帰ろうか。」
「うん。」

私たちの会話はあまりなかった。
絵を描く。
あの閉鎖的な空間で、ずっと。
二人隣に並んでいながら、完璧に独立して他者の介入できない孤独な作業を行う。

一度も味わったことのない経験だった。しかし、私たちは確かに何かを嗅ぎ合った。

なぜ、恵里ちゃんが一緒に絵を描こうと言ったのか。普段は誰にも見せないはずの絵を私に見せたのか。
その真意を測ることは私にできない。けれども、私は理屈抜きで恵里ちゃんに感謝したいと思った。

カッツンカッツンと松葉杖をついて廊下を歩く。
私は、ふうっと息を吸うと、静かに尋ねた。

「……球技大会の黒板アート、私も手伝っていいかな?」

恵里ちゃんは驚いたように私の方を見た。そして、ほうけたような表情そのままで、うん、と頷いた。

「大歓迎だよ。」

恵里ちゃんはそう言うと、にっこりと微笑んだ。




翼を広げたペガサス。
水色のたてがみが風に舞い、神々しいまでの太陽の輪を背に負っている。
波打つ草原には、色とりどりの花が咲き乱れる。

ふわふわと地に足がついていないような感覚は、まだ続いていた。けれども、これは遠い国の出来事ではなかった。歴とした目の前の現実で、砂上の楼閣のような揺らめく幻ではない。

私は放課後の教室に残って、恵里ちゃんとスケッチブックを覗き込んでいた。
球技大会はいよいよ明日に迫っている。体育館からは威勢の良い自主練習の掛け声が聞こえてくる。遠くから響いてくる足音や声は、薄暗い教室に飛び込んでくることはなく、廊下と隔てる壁やドアにはっきりと阻まれれているようだった。
窓の外を見ると、藍色と桃色の混ざったような夕焼け空が広がっている。もうそろそろ日も長くなり始めているが、まだまだこの時間は暗いらしい。冬が終わり、春が始まる。机や椅子の影は中途半端に長く伸びていた。

「———ここは、明日みんなが追加のイラスト描いたり、メッセージとか全員分の名前を書き込んだりするために残しておく余白?」

私はスケッチブックのある一部分、ペガサスの翼の下にぽっかりと空いた空白を指さしながら、恵里ちゃんに尋ねる。
恵里ちゃんは、色鉛筆をくるくる回しながら頷いた。

「うん。…それで、私が大体の輪郭を描くから、中身の色塗りは全部お願いしてもいい?」
「そうする。でも、多分この上の方は……」
「そこは私が椅子に乗って描くから大丈夫だよ。」

スケッチブックの中身は、黒板アートの計画書。
恵里ちゃんが球技大会において、おそらく全精力を注ぎ込む段階。このクラスの非常識な黒板アートのレベルの高さは他クラスまで響き渡り、行事のたびに写真を撮りにカメラを携えてくる人が後を絶たない。

恵里ちゃんは本気だ。
最初に気合いを入れてしまったので引っ込みがつかない、などといった消極的な理由ではなく、毎回全身全霊をかけて黒板に向き合っている。

麒麟、人魚、ケンタウルス、そしてペガサス。主役はいつでも幻獣だった。
体育祭で初めて麒麟を見せつけられた時は唖然とするばかりだったクラスメイトも慣れたもので、二回目からは投票で黒板アートのテーマにする幻獣を決めるようになった。
想像上の生物が大迫力の威容で黒板に現れる。強さと誇りと希望に溢れた、命を燃やし尽くして輝く〈魂〉(ソウル)の象徴。恵里ちゃんの十八番。

生と死は紙一重。生きるということは、死ぬということ。死ぬということは、生きるということ。

恵里ちゃんは文字通り、命をかけて絵を描く。
人生をかけて、己を表現し続ける。

「……私が足手纏いになるようだったら、遠慮なく言ってね。」

私が言うと、恵里ちゃんはブンブンと首を振った。

「そんなことないよ。なぎちゃんに手伝ってもらえるだけで、私は嬉しいよ。」
「………ありがとう。」

誠実で、真っ白な女の子。
そう思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。
白があるということは、黒もあるということ。ものに絶対の色はない。彩度も明度も色の種類もいくらでも変化して、時の経つごとに複雑に移り変わってゆくものなのかもしれない。

私は息を吸って、今まさにチョークを取ろうとする恵里ちゃんに呼びかけた。

「恵里ちゃん。」
「どうしたの?」
「本当に、ありがとう。」

涙を拭って、笑いかける。

何気なく振り向いた恵里ちゃんが、驚いたように立ちすくんだ。

………あぁ、そうだった。泣き顔を見せたのは、初めてだったかもしれない。実のところ、私はものすごく泣き虫なのだけれど。
困ったようにオロオロしている恵里ちゃんの前で、私は静かに言葉を紡いだ。

「……ガルーガルの蜜樽。」
「え、…な、なぎちゃん…?」
「いつか、ちょっと変わった人に聞いたことわざでね。“自分の手の届く範囲“って意味らしいんだ。人には分相応ってものがある。ただ、私ができることをすればそれで良いんだ、ってね。………だけど、実践するのは結構難しい。頭ではきちんとわかっている。でも、みんな欲張りだから、自分の分の蜜を躍起になって増やそうとするし、減れば誰かに奪われたような気がして必要以上に落ち込んだり憎悪したりする。」

私は恵里ちゃんの目をまっすぐに見て、言葉を続けた。

「それなのに。恵里ちゃんは、私に優しくしてくれただけじゃなくて、あまつさえ自分自身の蜜を分けてくれた。黒板アートは一人でやっていたのが誇りだったはずなのに、私っていう第三者が介入することに文句一つ言わずに頷いてくれた。美術室に誘ってくれたのも嬉しかったよ。…私は怪我して球技大会に出られなくなって、みんなに申し訳が立たない…って鬱気味になってたけど、今はだいぶ救われた気分になってる。だから————

私は胸に手を当て、静かに目を閉じる。

—————本当に、ありがとう。」

私が言い切った瞬間、教室の空気が変わったのを感じた。
まるで麗日な春の風が吹きこんだかのような……いや、文字通りに、あたたかな春の空気が部屋を満たしたのだ。のぼせたようなあたたかさ。そしてあっという間に塗り替わる景色。

「えっ…?…え、ええ?!」

恵里ちゃんが叫ぶ。無理もない。
私たちは、飛んでいた。
真っ青な空に、ぷかぷかと浮かぶ綿飴のような白い雲。背景には、ニコニコと優しく照らす金色の太陽。
冬の格好でセーターなど着ていると、じわりと汗が滲んでくるぐらいの春の気温。

「…どう、恵里ちゃん?」

私は自分の背中に生えた翼を大きくはためかせて、バタバタもがいている恵里ちゃんの手を取った。
彼女の背中にも私と同じように、真っ白で大きな翼が生えている。

「どうって!?なぎちゃん?!何コレぇえ?!」
「恵里ちゃんの絵だよ。」
「絵?!ペガサスの飛んでる絵ですかあぁあ?!」
「うん。」

ちょっと落ち着かせた方がいいな、と私は判断して、手近な雲の上にふわりとおりることにした。正直に言って、私もこの事態を予想していたわけではない。ただ、驚いてはいなかった。何が起こったのか正確なところを把握しているかと言われればそうではないが、これがちょっとした夢の世界だということはわかる。そして、私がそれを作り出したのだということも。
なぜわかるのか?
わかるから、としか言いようがない。

私にはわかる。この世界のどこかに、ペガサスがいる。今私たちが乗っている雲の上から飛び降りて、真っ逆さまに地面まで落ちて行けば、お花畑に舞い降りることができる。そしてそこで、翼を広げたペガサスに会うことができる。私には確信がある。なぜなら、ここは恵里ちゃんのスケッチブックの中身……を私の想像で補って具現させたイメージの場だ。

恵里ちゃんをいざなって、波打つ雲の海へ舞い降りる。おっかなびっくり着地した恵里ちゃんを押し倒して、二人して勢いよくゴロンと寝転がる。背中がぽふん、と跳ねた。雲はまるで、ふわふわのお布団だ。きゃっと小さく叫んだ恵里ちゃんも、だんだんと事態を把握してきたようだった。
目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。最後にフーッと息を吐いて、私を見上げた。

「…あの。これ、なぎちゃんの作った幻?」
「そうだよ。」
「なぎちゃんが幻術使えるなんて知らなかった……もしかして、忍者だったの?」
「ふふふ。そんなわけないよ。夢幻をちょっと具現化するくらい、誰にでもできることだよ。」
「そ、そうなの…?」

私は少し落ち着いたらしい恵里ちゃんに、静かに語りかけた。

「ねえ、天を見て。」
「天……。」
「太陽が燃えている。私たちを照らすために、身を焦がして燃えている。」
「………。」
「あれも、いつか死んじゃうんだよね。」

太陽さえも、永遠ではない。命あるものは、いつか必ず、燃え尽きる。
当たり前の理論だ。
宇宙に生きる私たちはちっぽけな存在で、ほとんどこの世界の秘密の何も知ることのないままに、その生を終える。何千年も、何億年も、私たちはリレーをしながら命を繋いできた。その一つ一つに悩みがあり、苦しみがあり。幸せがあり、喜びがあり。
命。
当人にとっては世界一大切なものなのに、あっけなく散ってゆく。
矛盾。
全てには裏表がある。
正と負がある。

「だから、恵里ちゃんは怖いんだよね。」

私は恵里ちゃんの目を見つめた。
くるりと起き直って、そして手を取る。

「大丈夫だよ。私がついてる。」

目を見開く恵里ちゃんと一緒に、雲の海へと頭から突っ込む。そして引き摺り込んだ。奈落へ落ちる。闇の中。雲の底。真っ白で眩しい世界の、裏の顔。真っ逆さまに、落ちてゆく。

—————そこは、根の国だった。

いつか見た、恵里ちゃんの油絵の世界。
真っ暗闇の中、棒のようにまばらに佇む樹々の影。仄青く狐火が揺らめいている。あれは全て、死者の魂なのだろうか。不気味に思えるそれらも、落ち着いてよく目を凝らせば、だんだんと心が安らかになってくるような不思議な気配を纏っている。

…“彼“の言うことは本当だった。

私はぎゅっと握ってきた恵里ちゃんの手を、握り返した。

「大丈夫だよ。怖がらなくても、大丈夫。」
「…………。」
「恵里ちゃんは世界中のどこに行ってもやっていけると思う。それぐらいにすごい人だよ。心から尊敬してる。」

色褪せた闇の中に時折ぼんやりと浮かび上がる、植物や川や岩の煌めきを見る。そのはっとするほどの神々しい美しさよ。闇の中の光というものは、こうも尊いものなのか。私は思わず唇を三日月型に引き上げて微笑んだ。ゆっくりと、口を開く。

「それでも不安とか心配ごとがあったら、こうやって絵に描ける。そうして描いて描きまくって、その絵にすら一人で向き合うのが怖くなったときは—————

——————友達を頼っていい。」

……彼の、一郎くんの言葉。
人を守ると決めた時。そして、守るべき者を抱いた時。私たちは、信じられないほどの勇気を手にするんだ。と。

お決まりの、少年漫画やアクション映画なんかでよく登場する、陳腐な台詞に思えるかもしれない。しかし、これは真実だ。まごうことなき、世の真理だ。

(今、私は怖くない。)

恵里ちゃんの力になりたいと願い、その言いようのない不安に寄り添いたいと祈り。表も裏も魅力的な彼女を励まそうとして、その魂の描く絵画に飛び込んだ時。しっかりと握りしめてくる彼女の手の温かさは、聳え立つ山のごとく巨大でな勇気を産み出した。

「………ありがとう。なぎちゃん。」
「ううん。こちらこそ。」


気付けば、私たちは薄暗い教室へと戻ってきていた。目の前には何も書かれていない黒板。後ろの教卓には、開いたスケッチブックが無造作においてある。
隣を向くとそこにはしっかり恵里ちゃんがいて、私はほっと安心した。夢から醒めたらどうなるか少し不安だったが、元通りの現実に戻って来れたようだ。
……いや。一つだけ変わったことがある。目の前の恵里ちゃんは、表情から何かが抜け落ちて、スッキリした笑顔を浮かべていた。黒く丁寧に編み込まれた二本のおさげまでもが、力を抜いてすとんとまっすぐに流れ落ちているかのよう。
恵里ちゃんは、私と顔を見合わせると、優しく目を細めた。

「………ありがとう。」
「…………。」

恵里ちゃんは白いチョークを持つと、くるりと振り返って黒板に向き直った。

「………この黒板は、今までとは違うものにする。」
「……………。」
「……見ていてね。」

うっすらと闇夜が忍び寄る。仄暗い教室の中、黒板の上に踊り現れた幻の獣の咆哮が響き渡った。




三月十一日。球技大会、当日。
学校に登校してきた生徒たちは、誰かが買ってきたリンゴジュースとオレンジジュースを紙コップで飲み放題にしていた。
教室に入るなり前黒板に集まり、群がって感嘆の声を上げたり、文字やイラストを書き加えたりし始める。そこに振る舞われるジュースやお菓子。朝っぱらからお祭りの空気で盛り上がり、羽目を外して楽しみまくる。普段真面目な生徒が多い代わりに、弾けるとすごい。ここの行事はいつもそんな感じだ。

恵里ちゃんのペガサスは、毎度お馴染みの大喝采を浴び、恥ずかしがった本人が真っ赤になってお手洗いに逃げてしまった。

—————この黒板は、いつもと違うものにする。

そう言った恵里ちゃんの声を、私は忘れない。彼女は確かに、何かを振り切ったのだ。
私は静かに黒板を見上げる。光に溢れた青と白が輝いている。お花畑の丘に色が溢れ、金色の太陽が燃えている。神々しく、勢いのある絵画。
別に、以前までの絵と何かが違うわけではないように見える。実際、いつも彼女はこんな風に命の希望に満ちた絵を描いていたし、こんな風にエネルギーに溢れた絵で人の称賛を浴びていた。

ただ、描いている時の恵里ちゃんの表情が、違った。
あんな風に迷いなく。まるで神様からの啓示を受けたかのようにぐいぐいと。

「………おはよう。」
「おはよう。一郎くん、頑張ってね。」

私は一人一人のもとに、リンゴジュースを配って回っていた。すでに登校していた一郎くんは、すうっといつにも増して血の下がった青白い顔で自席に付いていた。まるで吐きそうだ。

「……ボールはお団子だよ。」

私はそう言って微笑むと、提げていたビニール袋から和菓子屋で買ってきた三色団子を取り出した。目を丸くする一郎くんに悪戯っぽく笑うと、私はそれを差し出した。

「…ありがとう。」

呟くように一郎くんは言って、団子を受け取った。どうすればいいかわからない、といった困惑の色を目に浮かべている。私は苦笑して言った。

「これでちょっとは恩返しになるかなって思って。」
「………恩返し?」
「ほら…。精霊関係で、何度も危ない目に遭いそうになった私を助けてくれたでしょう。」

そうかもしれない、と一郎くんは呟いた。そうだよ、と私は力強く返した。
私の手にはもう松葉杖はない。ぐるぐる巻きのギプスはあるけれど、少しずつ自力で歩けるようにはなっていた。私は一郎くんに背を向けると、ジュースを待つ次のクラスメイトのところへゆっくりと歩き出した。

「————生徒の移動を開始します。呼ばれたクラスから順にアリーナへ集合してください。」

……ついに、球技大会が始まる。





「これより、球技大会を開会いたします!みなさん正々堂々と闘い抜きましょう!」
「「「おおー!!!」」」

体育委員会委員長の掛け声で、球技大会が幕を開ける。これからアリーナ、格技室、そして運動場、テニスコートが開放されてトーナメント戦が始まるのだ。まだまだ誰も熱戦の実感のわかないフワフワした空気。とりあえずアリーナに集まって開会式に参加しているものの、どこに移動したらいいのかすらわからない。そんな曖昧な空気の中、舞台上で叫んでいた委員長が、おもむろにジャージを脱ぎ捨てる。

………青と白の鮮やかな服が姿を現した。

お?と首を傾げる観衆たち。その目の前で、舞台袖からわらわらと追加で五人。
みなおかしな格好に身を包んでいる。

「……何が始まるんだろう?」
「うーん。お笑いかな?」
「………いや、なんか踊るっぽいよ。」

ざわめく生徒の前で、舞台に並んだ六人が珍妙なポーズをとって構える。
タカターン!!
大音量で曲が流れ出すと、みんながオォーッと歓声を上げた。そして広がる笑いの波。どう考えても幼児向けのダンスを、微妙に洗練された振り付けでコミカルに踊るダンス部&体育委員の有志たち。
特に知り合いが踊っている生徒たちは、指を指して友達に教えながら盛り上がっていた。

「よかったね。なぎちゃん。」

不意に、隣から声がかかった。
恵里ちゃんが、舞台を眩しそうに眺めながら、ニコニコと私に向かって微笑んでいた。

「……うん。」
「みんな喜んでるよ。」

私は頷いて、恵里ちゃんに向かって静かな笑みを浮かべた。

(…私は今、幸せだ。)

心から、そう思う。
私は今、とても嬉しいと感じている。あの壇上に上がれず、ダンスを踊れず、羽を折られたペガサスのように惨めな気分だった私。それなのに、影の舞台で私が力添えしたことが実現すると、今までの鬱気分が嘘だったかのように晴れていた。

————そうか。

私は合点した。

————私は、誰かの役に立たなきゃいけない人間だったんだ。

途端に、スッキリした。
闇が晴れたように、もやもやが取り払われた。

私は妹としてこの世に生を受けた。これがそもそもの、皮肉だったのだ。いつも誰かに世話をされて、上から目線にものを言う大人と半分大人の姉に囲まれて。誰かの役に立つことで個を世に認めさせたかった私は、いつも押し潰されそうになって喘いでいた。
いつも満たされなかった。どんなに人の役に立とうと努力しても、“自分は誰かの世話になるものだ”という私自身の無意識の思い込みに縛りつけられて、自由に泳ぐことができなくなっていた。

だから、姉が羨ましかった。

産まれたその時から、“誰かを守る“という役職についているあの人が、羨ましかった。

それでも。

いや、だからこそ。

「……ありがとう。銀ちゃん。」

小さな小さな呟きは、みんなの発する歓声に呑まれて揉み消される。私は俯いて、目に浮かんだ涙を拭った。

「私を、守ってくれて。ありがとう。」

素直に微笑むことができた。
だって。姉のおかげで。彼女の背中をずっと追いかけていたからこそ私は。
妹の心を持ち、理想の姉とはなんたるかをも知る、最強の姉になれる。

「—————今度は、私がこの宇宙全部を守る番だよ。」

——————刹那。群集が純白に、アリーナ全部が真っ赤な夜に染まった。

神が降臨する。
鴉が騒がしく鳴いて、バサバサと飛び交う。
そこには巨大な影があった。このアリーナ全てを多い尽くしてもまだ足りないくらいの深い暗黒の影法師。闇の仮面に顔を覆い、心臓から血を流して泣いている。それには顔がない。名前もない。悪魔であり、同時に天使でもある。太陽の光であり、月の闇である。
これを何と呼べばいいのか。

“神“。
これしかないだろう。

神の周りには、剥がれ落ちたペンキのように、裂けた空間が穴を開けている。きっと、隠されていたのだ。私自身が、景色を塗って、油絵のように何度も重ねて、塗り固めて。巧妙に隠していた。

……ああ、よくもまあこんなに大きなものを、私は隠したものだ。

しかも、自分自身に対して。

私はふらりと立ち上がると、自嘲気味に笑った。
ずっと探していたのに、見つからないわけだ。なんといったって、自分自身が隠していたのだから。
私は“私の心”に向かって丁寧にお辞儀をすると、迎え入れるように手を広げた。

「見つけたよ。“私“。」






目を覚ますと、そこは白い天井だった。

「あれ…?」

私は布団を跳ね除けて起き上がろうとして……やけに頭が重いのに気がついた。喉がカラカラに乾いていて、熱を帯びた瞳がぼんやり霞んでいる。
自分を囲んでいるのは、クリーム色のカーテンで仕切られた小さな部屋だった。

「あら。目が覚めたかしら。」

カーテンを引いて現れたのは、看護教諭の大川先生。……と、そこまでいって私はようやく事態を思い出した。
38℃の熱を出して保健室へ担ぎ込まれたのだ。ちょっと変だな、と思っても放置していたのがよくなかったらしい。青い顔をしてふらふらになっている私に恵里ちゃんが気づいて、即座に観戦を中止。熱で朦朧として幻覚じみたものまで見ていたのだから当たり前だ。怪我人の処置の準備を整えて臨戦体制となっていた大川先生に有無を言わさずにベッドに転がされ、そのまま寝落ち。

怪我した上に当日病気になるとか、私は球技大会に呪われているのだろうか…?と真剣に悩みたくなるほどの運の悪さだ。
私の沈んだ気分とは裏腹に、大川先生は元気よくカーテンを開けると、にっこりと目を細めた。

「よしよし、大丈夫そうですね。今スポーツドリンクとか飲めそうかしら?」
「はい。」
「親御さんに連絡したんですけどね。ちょっと仕事の手が離せないから五時くらいになっちゃうそうなんです。それまではここでお休みしましょうか。」

小さな紙コップに、経口補給液を注いで手渡す大川先生。私はゆっくりとベッドに起き直って、そっと紙コップを受け取った。

「……あの、球技大会の方は……?」
「うーん。私はタイムスケジュールをよく知りませんんが、平均してみなさん三回戦目くらいだと思いますよ。さっき二回戦目のバスケで捻挫患者が出ましたから。」
「三回戦……。」

このくらい進んでくると、上位リーグに進むかどうかが決定される頃だ。
私はぼんやりと重い頭を枕に戻して、飲み干した紙コップを先生に返す。そのままカーテンの奥へ消えそうになった大川先生に、私は思い切って声をかけた。

「あの!先生!」

大川先生は、くるりと振り返ってこちらを見た。

「…球技大会、一試合だけ観戦してもいいですか。…その、知り合いが出るんですけれども。」
「うーん。」

大川先生は、困ったように私の顔を見下ろした。私は恥ずかしくなって、目を逸らした。…わかっている。無理な注文だ。私がここから出れば、友達に感染るかもしれない。または、私の病気が悪化することも考えられる。そして、その責任は全て学校側に被される。

「…御免なさいね。」

申し訳なさそうに眉をハの字にする大川先生。私はハイ、と蚊の鳴くような声で答えた。

「友達に連絡して、撮影してもらえるように頼みますか?今日は写真部以外にもカメラが特別に貸し出されていますし。」
「……いえ。大丈夫です。そういうの、あまり好きじゃなさそうな人なので。」
「そうですか。」

大川先生が、静かに微笑んで、カーテンの向こうへ去る。
一人ぼっちになった私は、天井を見上げたまま、ゆっくりと両手で顔を覆った。


静かに瞼を閉じる。
しっとりと雨に濡れたように冷たい暗闇に浸る。
夢に、奈落の底へと、転がり落ちてゆく。
眠りという魔物を介して、私は旅をする。
会いにゆく。
赤い糸がつながっている、その向こう岸へ。

「—————ねえ、イチローくん?」

私が見つけたのは、赤い夜だった。
真っ赤な月を抱いているのは、“私“の影。闇夜を塗り変えるほどの鮮やかな紅は、彼女の心臓から流れ出す血の色だった。

本当に、宇宙の天体を撫でることができるほどに。空を血の海で満たすことができるほどに、大きかったのだ。私という存在は。

「なぎちゃん?」

地面には、銀の砂のように撒かれた天の川の星屑が降り積もっている。そこに埋もれそうになっている小さな男の子—————イチローくんは、怯えたように私の目を見つめ返した。
私はその目をまっすぐに見つめ返して、問うた。

「イチローくんは、太陽が好きなの?」
「うん。大好きだよ。」
「どうして?」
「そりゃあ、とっても雄々しく、美しく、真っ赤に命を燃やして光り輝くからだよ。」

イチローくんは、滑らかに言葉を紡ぎながら、時々うっと詰まりそうになるような、不思議な喋り方をしていた。震える手を胸に掻き抱き、病的に青白い肌を隠すように俯きながら、歪んだ表情でこちらを見ている。

「太陽が燃え尽きた時、イチローくんはどうするの?」
「そんなの、ありえないよ。太陽は永遠なんだよ。」
「それは違うよ。」

私がそう言った瞬間、イチローくんが、小さく息を呑んだ気配が伝わってきた。

「違う。この世に永遠はない。」

私が“私”を手招きすると、彼女はゆっくりと舞い降りて、私のそばに寄り添った。

「光ある時、そこに影あり。」

“私” が賛同の意を示して、頷く。

「生ある時、そこに死あり。」

“私” が鷹揚に手を広げて、血を流し続ける心臓をあらわにする。

「希望ある時、そこに絶望あり。」

“私” が蜘蛛のような手を天に差しあげて、頭を抱える。

「故に、永遠は存在しない。」

絶望したような表情で私を見上げるイチローくん。ああ、悪いことをしてしまったかな、と思う。いやしかし、これは必要なことだ。過去に引き摺られたままでは、未来に進むことが出来ない。無論人間の心は一枚岩ではないのだから、泥に塗れた悲哀や後悔を清算する程度で、全てが解決することは稀だ。
しかし、マイナス地点から進む人にとっては、これが第一歩だ。

…私は恵まれている。
本当にそう思う。心から、こんなに幸せな人間は世界にいないと思う。
何故か?
私は、この世界の全てを慈くしむ祈りの心を持っている。
光、闇、生、死、希望、絶望。全てを呑み下して包み込み、宇宙という名の薄青い海のヴェールで覆い尽くす。
もう、私はとっくに“世界“という枠組みすら超越しているのだから。

“私たち“は努めて優しく語りかけた。

「「しかし、案ずるな。」」

おもむろに私は、“私”を迎え入れた。重なり合い、溶け合い、白い小魚と宇宙の海が、真の意味で一体化する。

『迷いある時、そこに必ず悟りあり。』

幾重にも混ざり合う響きが、天地を轟かせる。
津波のごとき大波が、地を裂き噴き出し溶岩流のように流れだし、轟音と共に隕石のような飛沫を巻き上げた。

『今宵を、よく覚えておけ。』

踊り狂う真紅の海。
この世紀末のような光景は、ずっと昔に予言がなされていた。

—————残念。正解は、『僕たちの色』でした!

イチローくんが、なぜあんな言葉を口走ったのか、今でもよくわからない。それでもあれは、大切な思い出であり続ける。彼と、私の、始まりと終わりの記憶。

『びくともしなかった壁も、崩れる時が来る。岩や煉瓦の如く堅牢な壁に見えていたものが単なる幻であり、柔らかな布でできていたことに気づく時がやって来る。大切なことは、ただ一つ。』

“私たち“は包み込むように世界を抱きしめた。

『————よく、見ること。』

刹那。
イチローくんが、ぐんと立ち上がった。背筋を伸ばし、頭を上げ、どんどん伸びてゆく。まるで鎌首をもたげた蛇のように、どこまでも伸びてゆく。
あぁ、やはり彼は蛇神様だった。森の中で白い体躯を波打たせ、清らかに、そして恐ろしく、出会う者に祝福と信仰を与えてゆく。

あはは、と“私たち“は笑った。

あはは!あはは!わっはっは!
簾のように藤の花が咲き乱れる。
そうだ。これは結界だ。
万人を受け入れる寺がここにあることを示す、メッセージ。
人も、精霊も。光も。闇も。
みんなで世界中を揺らして笑い続ける。

『見よ。そこに死んだ太陽がいる。』

“私たち“の言葉に、一郎くんは挑戦するように頷いた。
暗黒の穴が、ぽっかりと空いている。
ぐちゃぐちゃに嵐が吹き荒れるこの世界の中心に、ただ静かに存在する穴。
それはゆっくりと、近づいてきていた。
衝突する。
いつかこの宇宙にぶつかって、何もかもを呑み込んでしまうだろう。

『あれを何とかできるのは、お前しかいない。ちょうど、私が“私“を何とかしたように。』

一郎くんは、もう一度頷いた。
その瞳に宿った覚悟の色に、私はこれなら安心かと肩の力を抜く。

“私たち“の見ている前で、一郎くんは両手を広げる。
優しく受け止めるように。
まっすぐに天を見つめ、親鳥が雛鳥を見るかのような慈しみの視線で、この世界全てを見渡す。

「さあ…おいで。」

彼が静かに呟いた、その刹那。彼の胸を目掛けて、死んだ太陽が落っこちた。

眠るように目を閉じる。
“彼ら“の表情は、この上なく安らかだった。



球技大会は、大いに盛り上がったらしい。
らしい、というのは私はそれを観戦することが出来なかったからだ。

球技大会の後、私はまた山に行った。
私はふと麓の藤の花の群れを見上げて、驚いた。薄紫色の花は一年中狂い咲いているように見えていたのだが、そうではなかったことを知ったからだ。咲いているように見えただけで、夏には枯れたし、秋や冬には花どころか葉すらもなかったのだ。そうして、今ふわりと香る独特の甘い香は、また季節が巡って藤の春がやってきたことを語るもの。まだまだ蕾も多いが、だんだんと咲き始めているようだ。

それでは、今まで見ていた藤神山の麓の藤は何だったのか?
それは、ただの幻だ。どんな精霊が悪戯をしているのかはわからないが、とにかく本当に咲いているわけではない。

私は一郎くんの手を借りずとも、山を歩けるようになっていた。五感をきちんと働かせてよく注意を凝らせば、本能的に危ないものと安全なものは見分けられる。今回のように、藤の花の様子を見るだけで、今までの藤の景色が偽物であったことが何となくわかったりもする。
また、いつか訪れた寺の本堂には、精霊の種類や特徴が記述された古い本なども並んでいた。それを読んだ私は、一年前よりもこの山の不思議について詳しくなっていた。

ふと、私は山路の真ん中で立ち止まる。
みずみずしい野草の若芽が生え始めた山路の端に、小さな石の祠が立っている。
赤い襟巻き。指人形のように小さなお地蔵様が、地面に埋まっている。とにかくシンプルを体現したようなかまくら型の祠だ。ええと、これは確か……

「……石ころ地蔵さま、だったっけ。」

私はちょっと考えて、そしてザクザクと落ち葉を踏んでそこまで行くと、ゆっくり腰をかがめた。鞄を置いて居住まいを正し、丁寧に手を合わせる。目を閉じて静かにお祈りをした。
沈黙を捧げるように。
ひたすらに祈りを捧げる。
具体的な言葉は特に思い浮かばなかった。

………そもそもが、言葉で頼み事をするような神様ではない。

『石ころ地蔵』

迷える者を、光明へと導く神様。昔、山で道に迷った修行僧に、とある石ころがコロコロ転がりながら先導して寺まで送り届けてくれた伝説があるのだという。

悩み事、迷い事。解決したい問題は山積みで、いつだって綺麗さっぱり片付いてくれるということがない。
誰かと比べないように頑張っても、どうしても比べてしまう自分がいる。
それならばと、この世のあらゆるものを超越したような気分になってみて、しかしそれを貫けずに己の無力さに打ちひしがれる。

泣きたくなるほど、世の中は残酷だ。
こんなにも私に幸せを与えて下さったのに。勉強が出来て、運動が出来て、人に好かれる性格を持ち、粘り強い性質と責任感、素晴らしい家族や友人に囲まれているのに。
肝心の悩み苦しみからは、逃げることを許してくれない。

だから、お門違いなのだ。
あれを解決してください。これの道筋を示してください。それをどうすれば良いか教えてください。どんなふうに生きたらいいですか。
そうやってすがったところで、また進んだ先の別の道に迷うだけなのだ。

だから、私はただ祈る。


見ていてください。
私は白く平和な小魚です。
宇宙という海に溶けて、ゆっくりと泳いでゆく魚です。
凪いだ海の野原に生きる、のんびりした魚。

しかし、そこには裏側の物語があるのです。

表面に“凪”ある時、裏側に“嵐”あり。
ひっくり返った私の魂が見せた夢は、荒波と流星と悪魔の血に揉まれる恐ろしい場所でした。

私は人間です。
私は精霊です。
私は海です。

私は海に生きる精霊という名の人間なのです。
小さくなってしまったこの世の中で、大きな物語を紡いでみたい。
無限に流れ行く運命に打ちひしがれる自分を、そっと抱き上げてあげられる神様でいたい。

見ていてください。
私は、これからも進んでいきます。


……墓標に手を合わせるように、静かに祈る。そしてそのまま、沈黙に祈る。祈り続ける。

どれくらい経っただろうか。風に揺れる黄緑色の草の群れに、すっと背の高い影が差した。私はパンパンとスカートの土を払うと、振り向いて立ち上がる。

「…………。」
「……見たらわかるかもしれないけど…ちょっとお祈りをしていたんだ。一郎くんも、石ころさまに会いに来たの?」
「………うん。」

一郎くんは、山桜の樹の影に隠れるように佇んでいた。まるで隠れん坊をする子供のように。黒い僧侶服を身に纏い、水辺に棲む白蛇のように気高い雰囲気を纏った、幼い獣のように。はらはらと舞い散る桜の花びらに包まれて、儚き大樹の光に溶けてしまいそうだった。
そう。彼は弱く、儚く、魂に闇を潜ませる存在。ただの人間。それでも、そうだとしても、彼は主なのだ。誰よりもこの山に親しみ、藤笠の寺の次なる住職となる人間。
私は静かに微笑むと、ちょっと迷ってから、ゆっくり口を開いて一郎くんに語りかけた。

「…私ね、来年の文理選択、理系に決めたよ。医者を目指す。」
「…………。」
「大変な道かもしれないし、失敗するかもしれないし、また悩んで小悪魔に魅入られるような真似をするかもしれない。覚悟も何にもない。それでも、進んでみるよ。」
「………。」

一郎くんは、まっすぐ私の目を見つめていた。
黙ったまま、じっと見つめて。そして、ふっと笑った。

—————花の綻ぶような、笑み。

優しい、柔しい、初めて見た、彼の笑顔だった。

「僕は学校を変える。ここからかなり遠いけれど、良い通信制の高校を見つけんだ。」
「……よかった。……お互いに頑張ろうね。」
「無論。」

春の風が吹き荒れる。ざあっとなぶられた互いの黒髪が森に靡き、桜吹雪に揉みくちゃにされる。我知らずに目頭に涙が浮いて、あぁそうか、と私は笑う。

寂しいのだ。
悲しいのだ。
切ないのだ。

私はこれから、一郎くんと離れることが寂しいのだ。
あんなにも特別な感情を抱いたこともあったのに、何もかもが過去の遠い思い出となった今が、悲しいのだ。
そして、こうして新たな一歩を踏み出すお互いの悲壮な覚悟が、切ないのだ。

(こんなことなら、後先考えずに告白していればよかったのかもしれないなぁ。)

燃えるような憧れは、いつの間にか消え去っていた。
小悪魔にかどわかされて幻に逃げ、地面に這い蹲って泣いていた彼に怒った時から、私の熱はゆっくりと冷め出したのだ。もちろん元々生涯の伴侶となるつもりは全くなかったし、そうしても私は幸せにはなれないだろうという、半ば確信めいた勘があった。だから全てに遠慮していたし、余計に思考が拗れていつも彼のことを考えるようになっていたのだろう。

……けれど、もう私は彼を特別だと思うことはない。ただの、ちょっと変わってるだけの、普通の男の子だ。

この胸のうちに秘めて、そして知られることなく散っていった想い。ちょっと寂しい。けれど、そんな恋も良いかもしれないな、とふと思った。

この寺を訪れるのは、きっと一、二年に一度くらいになるだろう。休憩が必要だと思った時に、ここで少し魂の洗濯をするのだ。そこで、また鬼やら何やらに出会って、化かされそうになったり、不可思議な幸せを手に入れたりする。藤の結界を潜り、万人に開かれた場であるという寺で手を合わせ、そうしてまた帰ってゆく。

そうして一郎くんと私は、大人になってゆく。

いつかお互いの伴侶でも連れて挨拶をして、昔を懐かしむ。


「……春だな。」
「そうだね。」

春だ。桜咲き、涙と別れ、出会いと喜びの季節。ぐるぐると巡る輪廻の中で、地球はまわる。
あぁ、気が狂ってしまいそう。
もう、みんな狂っているのかもしれない。
酔って、夢みて、絶望し、羽目なんか外しまくって狂喜乱舞して喜んで。

——————だから、私の見たこれも、ただの夢だったのかもしれない。

「青いよ、なぎちゃん。」
「……え?」

私が見上げた空は、青かった。
森の樹々も、青かった。
驚いて一郎くんを振り返ると、真っ青なインクに浸かって出て来たばかりのような一郎くんがいた。
自分の体を見下ろす。

……ブルーベリージュースよりも鮮やかで、燃える星のように美しく、おばあちゃんの手の甲に浮き出た静脈のように雄々しい、青色。

「私たちの色、だね。」
「うん。」

真っ青な桜吹雪がくるくる廻る。
三月三十一日。
嵐のようだった高校一年生の夢が、終わりを告げた。

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