私はダンスのメンバーを他の人に変わってもらった。ギプスをつけながら手拍子をするだけでは、舞台の上からみんなを笑わせるという目的を叶えることはできない。練習の時もただの足手纏いにしかなれないと理解しているから、私は振り付けを考えることから全てを他の人たちに一任することにした。幸い、協力先である体育委員会に何人か興味を示す男子がいて、そのうちの一人が快く追加の仕事を引き受けてくれた。
同じ理由で、球技大会の選手も棄権することになった。バスケもバレーも、ドッヂボールも、足を動かさずにプレーすることは不可能だ。

みんな笑って許してくれた。
私の怪我を心配し、完全に折れたわけではなくただのヒビだと説明すればホッとした表情を浮かべ、「お大事に」の一言を残して離れていった。

みんな、優しい。
誰も球技大会前に怪我をした私に、非難の表情を向けることはない。むしろ、励ましてくれる。そして、危険で古い石階段を放置していた学校を責める。

誰もが優しい。しかし、私の棄権を本気で惜しむ人も、いないのだった。私が必要だと、心の底から私の存在を欲してくれる人は誰もいない。

—————胸が痛い。苦しい。

まるで、ずっとずっと盤石だった大地の巌が裂け、土砂降りの雨に草木が涙を流すよう。アリの巣が潰されて、花々を飛び回っていた蛾が溺れ、胡麻粒のような虫たちの声にならない悲鳴が上がる。

—————脚が痛い。辛い。

…骨にヒビが入ったからだ。当然だろう。こんなことくらいで、私の心は折れない。私はじんじん響く鈍痛くらいで参るような、やわな人間じゃないのだ。
そう叱咤してみても、この身が千切れて消えてゆくような胸の痛みは消えない。まるで、はるばる遠路を旅してきた川の水が海に注ぎ込んだ瞬間、自分の身が溶けてなくなってしまうかのような。自分という存在の小ささを、否応なしに実感させられたかのような気分ではないか。

——————私の取り柄の一つは、運動神経が抜群に良いことだったのに。

特にバスケットボール。強豪校だった中学の部活で鍛えたその技には、自信があった。
歌が平均より少し上手だったり、英語が得意だったり、たまに冗談を言ってみんなを笑わせることができたり、鏡文字を書いたり。そんなちょっとした特技のようなものは色々あるけれど、特に尖っていたのはスポーツだった。だからそれで、みんなに貢献したかった。

——————私は、みんなの役に立ちたいのに。

私の晴れ舞台になるはずだった球技大会。私のことをみんなが称賛し、ありがとうの言葉で揉みくちゃにして、私の貢献のお陰でクラスが高い順位を取る。運動に秀でているのは私だけじゃなくて沢山いるのだから、このクラスならば優勝だって目じゃなかったかもしれない。
それも、もう無理だ。
このクラスにはバスケ経験者は私しかいなかった。バレーの経験者はもともといない。これでは女子の順位が下がる。そして、男女総合で競い合う球技大会において、優勝を狙うことはまず不可能になったと考えて良い。

—————私のせいで。

授業の内容も、頭に入らなかった。休み時間も、学活も、何もかも終わって、終業の鐘が鳴るまでずっと。

私はただただ呆然としていた。
いや、唖然としていたと言っても良いかもしれない。
なぜこんなにも私が傷ついているのか、自分が全くわからなかった。今は人生百年時代。この高校一年の冬に怪我をした程度、私の人生に何はほとんど何の影響も及ぼさない程度のアクシデントだ。
別に気にするほどのことじゃない。
友達も、それを理解している。体育祭でも文化祭でもなく、ちょっとした最後の余興の球技大会。熱くなって、我を忘れて、自分自身の感情に振り回されて。そんな風に終える行事ではない。ただ良い思い出が出来れば良いのだ。何年も後から振り返って、わいわいと笑顔で語り合えるような、そんな記憶の束を作る。

それだけで、良いはずなのに。

宇宙という海で、こんなにもちっぽけな小魚が、もがいている。

そこに、鈴の響きを纏う銀の霞が、私を抱き込んで優しく囁く。姉の導きの言葉だ。

————ほうら、“私”を囲ってる手を離してごらんなさい。宇宙には自分と他人との境界線なんて存在しないのよ。ね、そうすれば楽になるわ。

私は泣いた。涙を出さずに泣いた。そして、母親に縋る幼子のように、ただただ己の想いをぶつけた。不安と心細さに塗れた、ただの泣き言を。

だめだよ。銀ちゃん。虚しくなるだけ。もっと辛くなるだけ。
天地自然のエネルギーの塊とか、宇宙の海とか、……頑張って想像しようとしているけど駄目なんだよ。私は独りぼっちで瞑想をしたことなんかないんだから。目を閉じるだけで、暗い闇の奥底から悪魔が手招きしてくるような気分になる。怖いんだよ。私はやっぱり、ただの弱くて脆い小魚にすぎないだよ。



「———ねえ、なぎちゃん?」


………え?

私はゆっくりと、顔を上げた。そこにいたのは……

「…あのう、ちょっと時間ある?」

おさげに桃色縁眼鏡。大きな手提げを右手に、左手に通学鞄を提げている。人の良さそうな微笑みに、小柄で風が吹けば飛ばされてしまいそうな華奢な体。クラス随一の絵描きにして、私の一番の友達。

「……あ。」
「だ、大丈夫?なぎちゃん、体調悪いの?」
「…………恵里ちゃん。」
「ほほほ本当に大丈夫?!保健室連れて行こうか?!」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと色々あって疲れたからぼーっとしてただけだよ。」

牧田恵里ちゃん。
五月ごろに話しかけてくれた時から、私たちは休み時間に喋り、放課後には一緒に帰路につくほどの関係になっていた。おそらく唯一の“親友“と呼べる友達。そんな彼女が、慌てたように私を見下ろしていた。
私はあまりお喋りするような気分ではなかったが、あまり心配されても困る。安心させるように微笑むと、恵里ちゃんが、ほっとしたように肩の力を抜く。

「……とりあえず、今日はもう帰って休んだほうがいいみたいだね。」
「うーん。そうしたいのは山々だけど、ほら、まだ松葉杖で帰宅は難しいから。親が仕事を終えて車を回すまで、図書室かどっかで時間を潰そうと思ってる。」
「あぁそっか……。」

……言えない。いや、言いたくない。
おかしな妄想に身を焦がし、悩みとも言えない悩みで泣きそうになっていた、こんな不甲斐ない自分の姿を。私を憧れだと言って慕ってくれる、恵里ちゃんに見せたくない。これは私の見栄で。猫被りで。そして、ちっぽけな欲張りの証。
それくらいは、許してほしいのだ。
見逃してほしいのだ。

「なぎちゃんが帰るの、何時くらいになりそう?」
「なるだけ仕事は早めに切り上げるって言ってたから、多分六時前後だよ。もしその時間も過ぎるようなら、図書室閉まっちゃうから自習室に移動しようかな。」
「ふんふん、なるほど。」

恵里ちゃんはまるで、りんごのうさぎだ。
みずみずしい果実のような純真さと、美しさ。子供が安心して近寄っていける大人しさと、可愛らしさ。ナイフ一本で編み出される芸術的でユーモラスな仕掛けは、日本伝統のものなのだろうか。絵筆一本、チョーク一本、鉛筆一本、とにかく画材さえあれば夢の世界への扉を開く彼女の生き様と、よく似ているではないか。

私は眩しく恵里ちゃんを見上げる。
彼女は、煌いている。他の誰よりも。私は出会った時からずっと、彼女の素晴らしさを認めている。
それでも、私たちの関係は、絶対に対等にはなれなかった。私を慕う彼女と、それを広い懐で受け止める私。寂しくないといえば嘘になる。本当の意味での心の通い合いは、一度だってなかったかもしれない。私は悩みを聞いてばかりで、彼女は話してばかり。助けを呼ぶのはいつも彼女で、私が泣きついたことは一度もない。
…でも、それでいいと思っていた。それで、許してほしいとも思っていた。

なぜなら。
あなたが、初めての。
————私が持つことの出来た、“妹分”、だったのだから。


「—————美術室に、来てみない?」

恵里ちゃんは顎に手を当てて少し悩んだ後、そう言った。

「本当はこの後、オンライン英会話講演会に誘うつもりだったんだけど。でも、疲れてるなら。」

彼女の困ったような微笑みは、なんだかいつもと違うように思えた。静かな影のある、幾層にも包まれたヴェールの下の、さらに化粧に覆われた、花嫁さまの微笑み。
……この時、私はなんとなく感じた。

涙を出さずに泣いていたのは、きっと私だけではなかったことを。







私がふと顔を上げると、真っ暗な闇が広がっていた。
樹々が点々と生えているところに薄ぼんやりと青い狐火が灯っている。淡い桃色の縞模様に目を凝らせば、静かな川のせせらぎ。岸の向こう側には黄緑色に煌めく草原。

神々の住まう、最果ての国。根の国。
死んだ人間はそこへ落ち、死霊となって漂い続ける。


「私、黒い絵の具が好きなの。」
「…………。」
「でも、白も好きかもしれない。すぐにチューブが空っぽになっちゃうんだ。」

油絵の具と、キャンバス。
中学校までの授業ではついぞ扱うことのなかった画材。その大きさと迫力、質量感に、私はほうっと息をついた。恐る恐る覗き込んで、私は静かに呟いた。

「すごい。絵の具が盛り上がってて…デコボコまではっきり見える。」
「油絵ってそういうものなんだよ。水彩絵の具と違って、どんどん上から塗り重ねていっていいの。」
「そうなの…?」
「そう。だから、いつまで経っても完成しない。画面を塗り尽くしたからおしまい、みたいなのはなくて。より複雑に、色を足して、塗って、重ねて、変化してゆくもの。」
「面白いね。」
「うんうん。あとは、こんなのもあるよ?」

恵里ちゃんが、奥の部屋の乾燥棚から、少し小さめのキャンバスを取り出してくる。
私は覗き込んだ。

……骨。
牛の骨の頭。
命を失った骸が、画面の真ん中に。

土の上に転がる、巨大な青白い牛の骸骨だ。不気味なモチーフのように思えるのに、絵から漂う雰囲気は神聖で静かなものだった。生前は目玉が嵌っていたのであろう真っ黒な穴の縁に、はえが一匹、止まっている。それはまるで団子にまぶされた胡麻のようにごく自然なものだった。

「どう……?」
「……綺麗だと、思ったよ。死って、こんなに美しく描けるモチーフなんだね。」
「……そう。ありがとう。」

さらに、何枚かの絵が目の前に並ぶ。基本は油絵だったが、水墨画も混ざっていた。陸に打ち上げられた魚の目玉から、涙が滴る絵。死んだ赤子の墓を荒らす天狗の絵。

例外はない。
…全てが、“死“に関係のある作品だった。

「こんなにたくさん、全部授業時間外に描いたの?」
「うん。ほとんど毎日放課後は残ってるから。」
「そっか。」

…そうだろう。こんな不気味なテーマで縛られた作品群を描いていたことを、クラスメイトは愚か、一番近しい友達であった私でさえ知らなかった。彼女が人前で、授業中で描くものはもっと、明るく楽しい絵だ。

「ねえ、なぎちゃんも描いてみない?」
「……私は無理だよ。下手くそだから。」
「それでも。私はなぎちゃんと一緒に絵が描きたいの。だからここに連れてきた。…いつもダンス部とか委員会とかで忙しそうで誘えなかったから、今がチャンスかなって思ったの。……ほら、ね?」

恵里ちゃんが、冗談めかして微笑むと、私の脚を見下ろす。
確かに私の脚は白いギプスでぐるぐる巻きで、ダンスどころはない。私は苦笑いを浮かべて、渋々、といった調子で頷いた。

…………ちょっと絵が描きたくてうずうずしていた気持ちは、胸の中にこっそり仕舞っておこうと思う。


絵の具を絞る。
筆を動かす。
色を伸ばす。
紅を引く。
白を重ねる。
黄の点を撃ち込む。
描くのは、どこかの海の野だった。
薄緑色の刃を持った風が、円弧を描いて吹き荒れる。シケだ。しかしどんなに外側が吹き荒れていても、波はまっすぐ平な水平線。頑固で強靭な、絶対の一直線。

光り輝く星々の散る夕焼け空を、衝突した隕石と雨雲と嵐が吹き荒んでめちゃくちゃにしている。
リズムもメロディも何もない、自然界の暴力。
人はこれを、黙って受け入れるしかない。
どうかやめてください。容赦してくださいと、ひれ伏して祈ることしかできない。
無心に祈る。
心が溶けて、大地と一緒になってしまうまで。

————何時間、描き続けただろうか。

鐘の鳴る音で、私たちは顔を上げた。恵里ちゃんも、『根の国』の構築にひたすら没頭していたようだった。二人してはっと顔を上げて、目を見合わせる。
私は自分の目にうっすら涙が浮かんでいるのに気づいて、慌てて瞬きして誤魔化した。

「………。」
「………。」

二人とも無言だった。
椅子を立って、片付けを始める。結局、一度も顧問の先生や他の部員は来なかった。美術はゆるい部活の代表だから、これで通常運転なのだろうか。
私自身はコツコツとにかく継続することを信条にしているので、普段なら少し眉を顰めることだったが、今日ばかりはありがたかった。

美術室は、画材の独特の匂いがする。壁一面に絵が飾られていて、彫刻がずらり。薄暗い黄昏時の光が差し込んでいるこの場所は、異様な静けさが支配している。

「……帰ろうか。」
「うん。」

私たちの会話はあまりなかった。
絵を描く。
あの閉鎖的な空間で、ずっと。
二人隣に並んでいながら、完璧に独立して他者の介入できない孤独な作業を行う。

一度も味わったことのない経験だった。しかし、私たちは確かに何かを嗅ぎ合った。

なぜ、恵里ちゃんが一緒に絵を描こうと言ったのか。普段は誰にも見せないはずの絵を私に見せたのか。
その真意を測ることは私にできない。けれども、私は理屈抜きで恵里ちゃんに感謝したいと思った。

カッツンカッツンと松葉杖をついて廊下を歩く。
私は、ふうっと息を吸うと、静かに尋ねた。

「……球技大会の黒板アート、私も手伝っていいかな?」

恵里ちゃんは驚いたように私の方を見た。そして、ほうけたような表情そのままで、うん、と頷いた。

「大歓迎だよ。」

恵里ちゃんはそう言うと、にっこりと微笑んだ。