どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
  
  
「誰にも迷惑をかけないように」

 私は常に鉄の仮面をつけている。その方が楽だから。いつでも笑顔な仮面の下にある本当の私の気持ちに誰も気づかないから。いい子でいられるから、、、みんなだってそうでしょ?周りに合わせて笑っているでしょ?でもね、私からしてみればみんなが付けてるのはガラスの仮面。私が付けてるのは鉄の仮面。
 







 
 
 見渡す限り青い空が広がり、高い建物はひとつもない。澄んだ空気に豊かな緑、そんなここは日本有数の米の産地であり私の住む町。多くの自然に恵まれて綺麗な空気で溢れているはずなのに、なぜかいつもうまく呼吸ができていない気がする毎日。

 この地で過ごしてきて十六年、私は高校一年生となった。学校までは歩いて毎日一時間。バスも電車も通らない。道路の周りはどこも田、田、田、たまーに家。家から学校までの景色はずっと変わらず、とにかく田んぼの中を歩く。  


「わっ!!!そんな下向いて歩いたら危ないよ」
 可愛らしい声に似合わず後ろからドンっと、とても強い力で背中を押された。
「ごめんごめんっ、ちょっと考え事をしてたの。真樹ちゃん、おはよう!」

 背中を押してきたのは生まれた頃から一緒で、親友の真樹ちゃん。この町の町長さんの娘で、ちょっとおバカだけど、とにかく可愛い。

「そうだ!昨日のドラマ見た??目白蓮、相変わらずかっこよかったし、ストーリーもめっちゃ泣けたー。」
「みたみた!あれは号泣だった。もう目白担になりそう!」

 目白蓮とは今を輝くアイドルグループのうちの一人でとにかく格好良い。


『ドンッッ!』
 本日二度目の背中へのアタック。さっきの真樹ちゃんのよりもずっと強くて痛い。

「お前ら道の真ん中でうるさい。」
 後ろを向くと、手ぶらで仁王立ちしている雄介がいた。雄介も真樹ちゃんと一緒で私の幼馴染だ。どうやらさっき私に投げられたものは、雄介のバックだったようだ。カバンの中の水筒が背中にあたってズキズキする。

「どうせ私たちしかいないんだからいいじゃない。田んぼの中の蛙さんにまで気を遣えって言うわけ?」
 真樹ちゃんのナイスなツッコミに殺られ、雄介は威勢を失いモジモジ何か言っている。



 雄介に仕返ししてやろうと勢いよく、私は雄介のカバンを持ってに走り出す。続いて真樹ちゃんも、少し意地悪な笑みを浮かべて走り出す。カバンが取られたことに気づいた雄介も急いで走り出す。

 こんな平和な毎日の連続。過疎化が進んでいるこの地域で生まれた私達は気づいた頃にはいつも一緒だった。そして今日も、いつも通りの一日の始まりだ。



 『キーンコーンカーンコーン』
 朝のチャイム。クラスメイトは、ほとんど小学校から一緒のメンバー。私と雄介、真樹ちゃんは同じ一年一組だ。まあ子供が少なすぎて一クラスしかないので当たり前だけど、、、担任の先生も去年と変わらず、まるめがねで腰の曲がった石本先生。ちなみに通称は「もっちゃん」。いつも話す前に「えー」という。

「えー先日の定期テストの結果がでたから上位者発表を行います。えー総合得点三位は荻原雄介。えー二位は三条琴音。えーそして一位は吉田こまち。えーよく頑張りました。えー引き続き頑張ってくださいね。」

(良かった。一位だ。これでまた家族に喜んでもらえる。安心してもらえる。次も頑張らなくちゃ。一位を取り続けなきゃ。)

 私が良い行いをしたり、良い点数をとると周りの人達は、とても喜んでくれる。でも私がわがままを言ったり悪い成績をとるとみんなを困らせて悲しませてしまう。だから私はみんなが理想とする私であり続けることに決めている。

 いつも明るくて笑顔で完璧な私を演じるのだ。
 
 






『ガラガラガラガラ』
 教室の扉が開く。すらっと背の高い整った顔の男子が入ってきた。髪の毛は、まるで麦の穂ような綺麗な黄金色。みんな彼から目が離せなくなった。

「こんにちは。カナダから来た浜田日向です。この見た目ですが、お父さんがカナダと日本のハーフでお母さんは純日本人なので、ほぼ日本人です!日本語もちゃんと話せるのでたくさん話しかけて下さい!これからよろしくお願いします。」

 数秒間沈黙が続く。みんな私と一緒で、現状をまだ理解できていないようだ。転校生なんてこの十七年間生きてきて、ドラマでしかみたことがない。こんな山奥に転校してくる人は、まずいない。その上、透き通るような青空色の目!カナダから来たって!頭がついていかない!

 数秒後、何人かの人の頭の整理がつき、パラパラと拍手が起こりはじめた。それに続いて他のみんなもハッとして拍手を始める。

 そして、いつの間にかみんなの力強い拍手が教室中に響いていた。今までにこんなにも大音量の拍手はあっただろうか。いや、きっと雄介が空手で全国三位をとって全校生徒の前で表彰された時でさえ、こんなにも大きな拍手ではなかったような気がする。

「じゃあ浜田の席は吉田の隣な」
 吉田さんの隣の席なんだ、吉田さんってどの席だっけ、、なぜかみんながこっちをみている。

 あれ、私は吉田こまち。ということは、私の隣の席か!衝撃が大きすぎて自分の苗字まで忘れかけるとは。それにしても、まるで漫画みたいな展開。転校生が隣の席に来るなんて、私は漫画の主人公のポジションではないか!

 これは、これは、もしかして、恋の予感!?なーんちゃって!

「吉田さん、よろしくね」
 カナダで暮らしていたとは思えないほど綺麗な日本語。
「浜田くん、よろしく!日本語、日本人より上手!」
「お母さんは完璧日本人だから、家では日本語しか使わないんだ。」
「そうなんd、」
「ほら!そこの二人!私の話をしっかり聞きなさい。」
 もっちゃんは自分の話を生徒が聞いてないとすぐに怒る。

 そういえば前読んだ漫画だと、ヒロインは転校生に一目惚れしてたな、、ああなんか浜田くんにキラキラフィルターがかかっているようにみえてきた。すごく綺麗な顔。鼻が高い!まつ毛長い!目も、目の中に空が広がっているような綺麗な青色ですごく綺麗。

「僕の顔に何かついてる?」
 浜田くんはそう言って微笑んだ。
「あ!ううん、何もついてないけど、すごい綺麗な顔だなって思って、、、」
 浜田くんは頬が赤くして
「なんか照れるから、今こっちみないで」
 そう言って、必死で赤くなった顔を隠した。

 そんな姿みたらこっちまで照れるじゃん、、でも浜田くんの顔や雰囲気はすごく懐かしいような、安心するような、どこかで会ったような気がするような、、。

「ねぇ私たち会ったことある?」
「吉田さんに会ってたら、忘れるはずがない。初対面の人のことを、こんなにガン見して来るんだから」
 浜田くんはニヤついている。
「その言い方じゃあ私が変な人みたいじゃない、、なんかムカつく!」
 心で思っていたことをつい言ってしまっていた。しかも大きな声で。みんながこちらを向いている。

 こんな感情、いつもは心の中で閉じ込められるのに。

「吉田うるさいぞ!罰で今日は放課後、離れの校舎の資料室の整理をしろ!」
 もっちゃんの堪忍袋の緒を切ってしまったようだ。はあ、嘘でしょ、、、離れの校舎は数年前からほとんど使われなくなり今は近所の子供達が肝試しに使っている。そんな所の資料をなんで整理しなきゃいけないの。

 浜田くんが申し訳なさそうにこっちを見る。つい目を逸らしてしまった。別に浜田くんは悪くない。もっちゃんが短気すぎるのがいけないんだよ。



 放課後になり離れの校舎へ向かった。まだ夕方だというのに太陽の光が当たっていても、どこか不気味で薄暗い。でもここで怖がったら、もっちゃんに負けた気がして悔しい、、、。そう思いながら校舎へ入っていく。

 資料室は一階の一番奥。さっさと終わらせようとドアを開ける。『ギィィィィ』不気味な音が部屋中に響く。部屋の中は驚いたことにとても綺麗だった。この学校では悪い事をした生徒は大抵この資料室の整理をさせられる。結構みんな頻繁に怒られて掃除をさせられているのかもしれない。もう整理する書類もなくて、帰ろうとしたその瞬間、、

『カサカサ』
 とても嫌な音と共にヤツが現れた。Gだ。私が世界で一番怖いものだ。急いで逃げようとしたが遅かった。ヤツは翼を広げて部屋中を飛び回った。
「キャーーーーーーー」
 大声で叫んでその場で疼くまる。

 その時だった。


『ギィィィィ』


 ドアが開いた。そこには浜田くんが息を切らして立っていた。肩がすごく上下している。とても真剣な顔つきでこちらをみている。

「何があったの?僕のせいで居残りさせられてるから、申し訳なくてずっとこの建物の外で待ってた。そしたら悲鳴が聞こえて、、、」


「ヤツが現れたの」
「ヤツ?」
「Gよ」
「G?」
「ゴキブリよ!!」

 彼の顔から血の気が引いた。そして、まるで世界の終わりのような顔をしてこちらを見る。
「僕はゴキブリだけはダメなんだ、、。」

 彼がそう言った瞬間私たちを嘲笑うかのようにヤツが私たちの上を飛び回りはじめた。私たちはニ人で疼くまり身を寄せ合い、ただ耐えるしかなかった。しばらくしてヤツは気が済んだのか飛ぶのをやめてテクテクとドアから外へ出て行った。

「いなくなったよ」

 耳元で少し低い彼の声が響いた。その声は転校生の挨拶の時のように緊張はなく、私を小馬鹿にした時のような意地悪な感じでもなく、とても穏やかで、私を包み込むようで、なんだかむず痒かった。胸の奥がむずむずした。顔を上げると夕焼けと彼の満面の笑みが重なってとても眩しかった。辺りにヤツがいた痕跡はない。
 
 私は思わず
 「やったー!!!」  
 と叫んで彼を抱きしめた。

「痛い痛い、首が絞まるよ。こまちはゴリラ並みの怪力なんだから。」
「ちょっと出会って初日で何よそれ!あなただって男のくせにゴキブリも退治できないなんてはずかしーい。」
 口答えができなくなった彼は少し不貞腐れて口を尖らせている。しばらく沈黙が続き、彼が言った。

「ごめんね。僕のせいでこんな部屋の整理させられて。」
 思っていたよりも素直に、彼は私に謝った。
「本当に大変だったんだからね!許さないから。」
 彼は一瞬とても悲しそうな顔を浮かべたが、直ぐに私が本気では怒っていない事に気づいたようだ。

「許してよーーーー」
「やーだねっ」

 そう言って私は走って資料室から出た。後ろから彼の笑い声がどんどん近くなってくる。

 こりゃダメだ。彼に勝てないと悟った私は、走るのをやめた。すると

『ドンッ』

 耳にかかる吐息。顔にかかる金色の髪。背中から伝わる体温。私が急に止まったから、彼はブレーキがかけられなかったようだ。勢いよく私に衝突してきた。疲れ切ってしまったのかそのまま後ろから私を抱きしめる。これだから海外生活が長い人は困る。人との距離感がまるで違う。私は彼の行動に戸惑った。心臓は今までにないスピードで欠けてゆく。

 私、汗臭くないかな。今までそんなこと気にしたこともなったのに、何故か彼の前では変なところは見せたくないと思った。心にはむず痒さがずっと残ったままだ。

 私がくるりと振り返ると、少し息を乱しながらこちらをじっと見ている彼の姿があった。彼の目に吸い込まれて私も彼をじっと見つめた。

 まるで二人だけの世界になったかのような感覚に陥った。とてもゆっくり時間が流れる。もしかしたらたったの三秒ほどだったのかもしれない。しかし、私にとってこの時間は永遠に続くように感じた。一時間ほど見つめあっていたような感覚だったのだ。

 うまく言えないけれど、彼の目の中には私の居場所があるような気がした。

 しばらくして彼はクシャッと笑って「帰ろう」と言った。


 帰り道、私たちは一言も話さなかった。気まずかったとかそういうわけではなく、話さなくても彼とは何かが繋がっているように感じることができたのだ。会って一日で繋がりなど馬鹿げてる。けれど、なぜかそんな気がしたのだ。

 彼と話す時は、何も気にせずに話すことができる。人前であんな大声で叫んだのも、人をあんなにからかったのも、嫌な思いをさせてしまうかもしれないと、いつもどこか躊躇している自分がいたのに、、、その自分はどこへ行ってしまったのだろうか。
 


 



 
 それから私と彼が仲良くなるのに時間はかからなかった。お互いからかいあって、笑い合って、馬鹿にし合って楽しい毎日を送っていた。こんなにも心を許せている相手はほとんどいない。彼は私の心の中にぎゅうぎゅうに閉じ込められているものたちを、どんどん解放していくのだ。










 そうしていくうちに彼と出会ってから一年ほどたった。

 高校二年生になったある日、日誌だった私と彼は、放課後の教室に二人きりになった。途中まではいつものように、くだらない話をしていたが、途中から家族の話になった。思えば彼の家庭の事情を私はほとんど知らなかった。そこで、私が彼の家族について聞くと、とても楽しそうに彼は自分の家族の話をした。

 私と同じ一人っ子だと言うこと。お父さんの仕事の都合で日本に来ることになったこと。小さい頃に両親が色々な国に旅行に連れて行ってくれたこと。昔チワワを飼っていたこと。 

 そして彼の両親の馴れ初めまで!彼の両親の父親はどちらも起業家で、彼の父はカナダの会社、母は日本の会社の社長の子供だったそうだ。そして、それぞれの親が自分達の会社を海外進出させるために、子供たちを結婚させたそうだ。しかし、政略結婚とは思えないほど両親はラブラブなのだとか、、、って流石に彼も、他人の私に話し過ぎだよね、もうっ。

 でも、話を聞いていると彼がとても愛されて育ったのが伝わってきた。

「こまちは?」

 彼がとても興味津々で聞いてきたので、私も自分の家の話をした。

 祖父母と父と暮らしていること。母は私を産んですぐに死んでしまったから、母のことは全く覚えていないこと。実家は代々米農家をしていること。

 あぁ、私も人に言えないな。休みなく自分の事について話し続けている。そして私の両親の馴れ初めまでこの口は今話し始めようとしているのを、阻止することができない。私ってこんなにおしゃべりだったっけ、、、


 私の父は、実はこの町でも有名な(まあもともと小さな町なのだが)不良だった。米農家を継がなければならないという決められた未来に当時、好奇心旺盛なうえに頭の良かった父は不満を感じて、いつも両親に反発していたそうだ。そして高校を中退。家を出て東京へ上京しアルバイトを転々として生活を繋いでいた。

 ある時、父がお蕎麦屋さんでバイトしていた時期にそこのお客さんだった母と出会ったそうだ。母は当時お嬢様学校の生徒だったが、父に一目惚れし、毎日のように父のバイト先だったお蕎麦屋さんを訪れていたそうだ。そして母が告白し、二人は付き合い始めた。

 二人が付き合い始めてから二年が経ち、母は高校卒業と同時に親の猛反対を無視して家を飛び出し、父と同棲を始めた。家賃が月三万のアパート暮らし。支払いが間に合わず、電気やガスが止められそうになったこともあったそうだが、そんな生活の中でも二人は幸せな毎日を過ごしていた。

 そして母は私を身籠った。しかし当時、田舎から飛び出してきて仕事も定まっていなかった不良の父と、お嬢様として生まれ大切に育てられた母との関係への世間の当たりは強かった。妊娠を親に報告した母だったが、堕ろせと言われ続けたそうだ。子どもを産んでも一切の援助はしない、縁を切る。とまで言われたそうだ。しかし母は、親の反対を推し切って私を産み、亡くなった。

 その後、父は絶縁状態となっていた自分の実家へ戻った。米農家を継ぐから、自分の子供を育てるのを手伝って欲しいと何度も何度も謝り、頼み込んだそうだ。自分一人でこの子を育てて、辛い思いをさせてしまうことは絶対にしたくない、と。

 そのことを話してくれた時の父はとても苦しそうで悲しそうで、、今でもその顔を、忘れることはできない。その時以外で私は母の話を聞いたことはない。




 そんな私の話を聞いた彼は、とても驚いた表情でこちらを見ている。そして一粒だけ涙をこぼした。
「え!どうしたの!?」
「いや、ごめん、、何だか、出てきちゃった。ごめん。こういう時になんて言葉をかけていいのかもわからない。」
「全然大丈夫だよ!おじいちゃんもおばあちゃんもすごく大切に育ててくれて、寂しい思いをしたことはなかったから。生まれた頃からお隣さんの雄介とも一緒だったから一人だったことはないし!」


 どうしてだろう。本当にそう思っているはずなのに、そう思っているのに。瞬きをすれば大粒の涙が溢れそうなほど、私の目には涙が溜まっていた。

 彼のじっと何も言わずに私を見る視線を感じて、気づいた時には私の口から言葉が溢れていた。

「本当はすごく羨ましかった。幼稚園生の時、みんなお母さんがお迎えに来てお母さんと手を繋いで、今日の夜ご飯は何がいいかとかそういう話をして帰ったり、夜に眠れないとお母さんが抱きしめてくれて子守唄を歌ってくれたり、おやすみのキスをしてくれたり、、、

 授業参観もみんなお母さんに来て欲しくないって文句を言いながらも、お母さんが来ると、とっても嬉しそうな顔をするの。私はいつもおばあちゃんが来てくれた。おばあちゃんが育ててくれたのは本当に嬉しいし感謝してるけど、私にはお母さんっていう存在がどんなものなのか分からないの。

 抱きしめてくれる温もりも、香りも知らない。

 そして、何よりお母さんは私を産まなければ、きっと死なずにすんだ。私はお父さんが愛した人を奪ってしまった。

 誰もこんなこと思ってないって分かってるの。だけどね、たまに思っちゃうんだ。私が生まれてこなければって、私がお母さんを殺したんだって。自分にお母さんがいない悲しみも大きいけど、大好きなお父さんからお母さんを奪ってしまった申し訳なさも大きい。  

 だからその分、私は良い子でいないといけないの。良い子でありたいの。祖父母やお父さんのために。だけど、そんな生き方が辛いって思っちゃう。全部投げ出したくなる。弱いんだ、私。」

 初めて人の前で弱音を吐いてしまった。今までつけていた鉄の仮面が、ずり落ちて私の素顔が晒された。口角は下がり、眉間に皺がより、笑顔に戻そうとしても落ちてしまった仮面を拾って付け直すことができない。物心がついた時からずっと外さなかった、外れなかった鉄の仮面。もうあんな重い仮面をつける力は今の私には残っていなかった。

 そして私はふっと力が抜けて、その場で崩れ落ちた。すると、彼は椅子から立ち上がって私の隣に来て私を抱きしめて言った。

「こまちは何にも悪くない。  

 こまちが生まれてきてくれて、お母さんはきっとすごく嬉しかったはずだよ。こまちはお母さんとお腹にいる間の少ない間だったけど、一緒に暮らしてたんだよ。その時間はお母さんにとってもこまちにとっても一生分の宝物じゃない?その幸せな時間が消えることはないし、覚えてはいなくても、その思い出はこまちの中で生き続けてるはずだよ。こんなのドラマによくあるセリフだよって感じだと思うけど、お母さんはこまちの中で生き続けてるんだよ。きっと、、、。 

 だからって、やっぱり辛くなることもあると思う。 

 良い子でいなくて良いんだよ、なんて綺麗事は僕からは言えない。

 そんな簡単なことじゃないと思うから。それができたらこまちは困っていないと思うから。でもさ、苦しくなったら僕に言って、なんでも聞くから。聞くことはできるから。  

 全員の前でずっと『明るく元気な頭のいい完璧な吉田さん』でいなくたって良いんだよ。泣いたっていいんだよ。僕には八つ当たりだってして良いよ。だから僕の相談にものってよ。そしたらwin-winでしょ?  

 あとね、僕は今毎日とても楽しいんだ。僕がここにきてからの一年くらいの間、こまちと一緒にいれて楽しいことばかりだ。いつも君は僕を笑顔にしてくれる。こまちのお母さんに感謝しないとね。こまちを産んでくれてありがとうって。」

 彼はそう言って教室の窓からオレンジ色に染まった空の彼方をみていた。

 お母さんがいない悲しみは決して消えることはない。でも私を大切に思ってくれる人はたくさんいるんだよね。今までだってそうだったけど、彼の言葉で改めて気づくことができた。

 なんだかすごく温かい気持ちになった。

 そう思うと胸がいっぱいになった。



 
「あ!そういえば!こまちの家って米農家なの?」
「、、、」
 彼は急にこっちキラキラした目を向けてそう言った。

「ハハハハハッ急に話変わったね、あーやっぱり面白いね、浜田くん。うん、米農家だよ」
「あ、ごめんよく空気読めないって言われる、。僕カナダ住んでたから、いつもパンばっかりでお米を食べたことほとんどなかったんだよね。、」
「え、!もったいない。うちの米は日本一っていつもお父さんが言ってるよ。」
「そうなんだ!食べてみたい!でも、僕のおじさんは小麦農家で、おじさんが作るパンはすーーごく美味しいんだよ。」
「そうなんだ!でもうちの米の方がきっとおいしいよ!」
「いやーうちのパンに勝るものはないから、ごめんねっ」
「いやいやうちの方が!」
「いや!うちの方が!」 

『、、、』

「なんか馬鹿みたいだね」
「元気出た?」
「もうお陰で元気百パーセントだよ!ありがとね」
「よかった。でもうちのパンが世界一だから!」
「まだそれ続けんの?うちの米は宇宙一だからね!!」

「はいはい、、、なんか、こまち最近笑うようになったよね、良かった良かった。」 
「え?何言ってるの。前から笑ってるじゃん、」
「いや、なんか今まではみんなのために笑ってたんじゃない?言い方難しいけど、自分自身は楽しそうじゃない笑顔っていうか、いつも誰かに向けられた笑顔って感じに見えた。口は笑ってるけど、どこか悲しそうで、、、でも最近はすごく楽しそう!自分が楽しくて、楽しいから笑ってるって感じ!ごめん失礼なこと言ってるかも、、、」

「、、、いや、その通りだと思う。いつでも笑顔でいようって決めてるの。いや、決めてたの。でも最近はそんなこと気にしなくても自然と笑ってるの。前ほど笑わなきゃって思わなくなったかも、、、」
「その笑顔の方が僕は好きだよ。あ、!でも、だからってずっと心からの笑顔でいてってわけじゃなくて、、。泣いて怒ってそれで笑ってさ、、こまちだってただの十七歳の高校生なんだから」
「ありがとう。今はなんだか体が軽くなった気分!身体?いや心なのかな。ずっと欲しかった言葉をもらえた気がする。」

 そんな会話をしていたら、気づけばもう外は暗くなっていた。帰り道になんの話をしたかは覚えていない。どうせくだらない馬鹿話だっただろう。でも今までで一番ふわふわしてて心も足取りも軽かったような気がした。

 彼に出会えて良かった。
 





「明日から夏休みだからといって、みんな浮かれないように」 

 もっちゃんの声がチャイムと共に教室に響く。いや、チャイムにかき消されて彼の声は全く響いていなかった気もする。それはともかく、気づけばもう高校二年生の夏休みが始まろうとしていた。

 夏休みは毎年私と真樹ちゃんと雄介の幼なじみの三家でキャンプをする。それが、私にとって夏休みの唯一の楽しみだ。夏休みは家の手伝いばかりさせられるからあまり好きではない。毎日畑に行って稲の様子を確かめて、水の調節をする。うちは畑がとても大きいので家族全員で仕事をしなければならない。


「お前今年は肉当番すんなよ!」
 私が自分の席で教科書を鞄に詰めていると、雄介が帰り際に私の頭をくしゃっと掻き乱して、見下すように言ってきた。

「こまちのせいで去年は肉が炭になっちゃったもんね、あーあ、お肉食べたかったなぁ」
 前の席の真樹ちゃんも、私に背を向けて前の黒板の方を向いたまま嫌味を言ってきた。

 そう。去年は私が張り切ってキャンプでのバーベキューの肉焼き係を受け持った。が、ほとんど全て焦がし、最後に真樹ちゃんが焼いた数枚をみんなで分けることになったのだ。

「はいはい、わかってますよーだ、今年は食べる係でいきまーす!」
「それはいつものことだろ」
 いっつも雄介は一言余計だ。

「何の話してるの?」
「おー浜田。こいつの料理力が壊滅的って話してたとこ。それより早く帰ろーぜ」
「え、、こまち料理できないの?米農家の娘なのに?」
「別にできるし!おにぎり作れるし!てか米農家関係無いし!」

 私はいつもおばあちゃんが家にいるので、自分で料理をすることはほとんどなかった。なので、包丁を使うのも、いまだに怖い。

「あ、そうだ浜田くんもキャンプ来ない?私の親の別荘地でやるんだけど、」
 そう、真樹ちゃんのお父さんは町長さんで、お母さんは地主の娘で、この町ではお金持ちで有名だ。毎年離れたところにある別荘地でキャンプ会を開いてくれる。

「え!何それ楽しそう!僕も行っていいの?」
「もちろん!ご家族もぜひ予定が合うようならきてね!」

「全っ然話違うけどさあ、浜田の家ってお父さんとお母さん、どっちが外国人なの?」
 雄介が言った。

 確かに、、。私はてっきり彼にそっくりの太陽の光に反射するブロンドの髪の毛と、相手を引き込む空色の目のお母さんがいるに違いないと頭の中で思っていた。すらっとした長い手足に、笑うとくしゃっとする目尻。そんな人が彼のお母さんだと思っていた。

「あぁ父さんが日本人とカナダ人のハーフなんだ。だから僕はクォーターだよ。あれ、1番初めの自己紹介で言ったはずだけど、誰も覚えてないのかよ!」
「うそ、お前そんなこと言ってたっけ、、クォーターってなんか、ピザみたいだな!」

 多分誰一人、絵画の中から出てきたかのような、この青年の登場に動揺しすぎて、話の内容なんて全く入っていなかった。

「だから名前は完璧日本人なんだね」
「俺、初めて名前聞いた時、ウィリアムとかマイケルとかジョージとか、そんな感じかと思ってたのに結構普通でがっかりしたわ」

 相変わらず雄介は一言余計だ。

「雄介くんひどーい。僕泣いちゃう!」
「なんだよ浜田、まじきっもい、こっちくんなよ」
「そんなこと言って、僕にかまってもらえて嬉しいんでしょ、ん?」

 そう言って彼は雄介に飛びかかった。彼が雄介に抱きつこうとするのを雄介は必死に抵抗してるが、その顔はとても楽しそうな笑顔で溢れている。雄介は先ほども言ったように、一言余計で、思ったことをすぐ口に出す性格なので、友達関係がうまくいかないこともあった。しかし、近頃は彼の人柄のおかげで前より笑顔が増えた気がする。私と真樹ちゃん以外の人とも頻繁に話すようになってきて、とても楽しそうだ。


『ドンドンドンドン』

 突然、ものすごい大きな足音が響き出した。気づけば教室の中には私たち四人しか残っていなかった。

「もしかして、この足音は、、」
 真樹ちゃんが眉間にしわをよせて、不安そうな顔をしている。

「うん、この足音は絶対にあの人だ、、」
 私も真樹ちゃんの真似をして眉間にしわをよせる。

「走るぞお前ら!はやく!」

 雄介がリュックを勢いよく背負い、ドアへと走り出した。それに続いてみんな走り出す。廊下に出ると数メートル先からあの人が鬼の形相でガニ股歩きでこちらへ向かってきている。

「お前らいつまで教室残ってんだ!完全下校の時刻とっくに過ぎてんだぞ!」

 足音の正体は体育科の剛山先生だった、、、先生の大きな体から出てきた大きな声が廊下中を、いや、校舎中を震わせた。

 剛山先生は最近好意を寄せていた保健室の峯田先生から振られてしまい、機嫌がとても悪い。もとから短気だった性格に拍車がかかり、ほんの些細なことですぐにこじつけに走り、生徒たちを怒っている。今月中でこの小さな学校の生徒たちの中の三十六人もの生徒が生徒指導室へ呼ばれる羽目になった。 

 ちなみにここ、晴嵐高校は生徒数約百五十名だ。とにかく、あの人に捕まったら面倒なことになる。

「こっちだ!走るぞ!ついてこい!」

 雄介が剛山先生に背を向けて、廊下を走り出す。それに続けて、私たちも走り出す。後ろから剛山先生が逃走中のハンターのように追いかけてくる。さすが体育教師。私たちとの距離を一気に縮めてくる。

 しかし、最近は振られてしまったことがきっかけで暴食を繰り返しているらしく、筋肉で逞しかった体は、脂肪で包み込まれてしまっていて、体が重そうだ。すぐに力尽きて脇腹を抑えて息切れし始めた。

 そんな姿を見た私たちは、堪えきれずに大爆笑。それでも長い長い廊下を私たちは休むことなく走り続ける。あれ、廊下ってこんなに長かったっけ、、

「痩せたら峯田先生も振り向いてくれるんじゃないですかー?」

 雄介が大きな声で剛山先生を挑発する。すると、スイッチが入った剛山先生はまた力を取り戻し、こちらへ迫ってくる。

 まーたはじまった、雄介の余計な一言。どんどん剛山先生の姿が迫ってきて大きくなり、威圧感で飲み込まれそうだ。

「二手に別れよう」

 彼はそう言うと私の手を引っ張って、ある部屋に引き込んだ。それは運命だったのか偶然だったのか。入った部屋は音楽室だった。

「ほんとに雄介の口は余計なことしか話さないんだから!」
 私は雄介への怒りを音楽室の壁に貼ってあったベートーヴェンに向かって放った。
「こまちと雄介はほんとに仲良しだね。」
 彼が口元を軽く抑えてプッと笑いながら言った。
「あんな人と仲良くなんてないんだからやめてよね!」
「ごめんごめん。結婚したら、いい夫婦になりそうだなって思ってさ。」

『ズキっ』

 胸が少し痛くなった。彼にはそんなこと言ってほしくなかった。あんな人と夫婦だなんて、ありえない!

 そんなモヤっとした気持ちを懐かしい優しい音楽がかき消してゆく。彼がピアノを弾き始めたのだ。夕日に照らされた彼は本当に絵になる。私はついそんな彼の姿にみとれてしまった。

 私の熱い視線に彼が気づいた。
「ん?どうかした?」


私ははっとして咄嗟に言った。
「どうかしたじゃないよ!剛山先生まだ近くにいるかもしれないでしょ。」
「結構前にここを通り過ぎて行ったのがドアの隙間から見えたよ。僕優等生だから、そんなヘマしないよ。」

 爽やかにニコッと笑う彼に、もうイラつきも起こらなかった。夕日に照らされている姿が本当に美し過ぎて、、、もういちいち夕日邪魔なんだよ!

「なんの曲弾いてるの?」
「some where over the rainbow。オズの魔法使いの曲。お母さんが小さい頃よく歌ってたんだ。英語で唯一歌える曲なんだって。」
「なんか私も聞いたことある気がする!」

 なぜかとても懐かしい気持ちになった。どこかで聞いたことがあったのかな。いや、でも。彼には会った時から懐かしさを感じていた。ずっと昔から知っていたような。とても安心感がある。

 しかし、いつも私の胸を高鳴らせるのも彼だけだ。彼に会ってから、どんどん自分のなかの塗り絵が色塗られていく。背景しか塗られていなかった塗り絵のメインの絵が色付けられるように、自分の感情がどんどん華やかになっているのを感じる。


「ねえ、浜田くん。キャンプ来なよ」

 咄嗟に自分の口から出ていた言葉に私はとても驚いていた。確かに、彼といると楽しいからもちろん来て欲しいとは思っていたけれど、まさかこんな無意識に言葉に出るまでとは。なんだか恥ずかしくなってきた。

「こまちは、僕にきて欲しいの?どうして?」

 彼が少しいじわるそうな笑みを浮かべてこっちを見ている。私がそういうことを言うのが苦手な性格だってこと、きっと気づいてるはずなのに、、、

「こまちが来て欲しいって言ってくれたら行こっかなー」
「え、、いじわるっ」
「じゃあ行かないかな。幼馴染三人組に入れてもらうのも申し訳ないし。」

 絶対彼が来た方がより楽しくなる。もっともっと一緒にいる時間が欲しい。彼を知りたい。彼の笑顔がみたい。なんでだろう。彼にそばにいて欲しいの。でもそんなこと恥ずかしくて言えないよ。

 私は目線を下に向けて静かにただただその場に立っていた。

 すると、彼がピアノの椅子から立ち上がってこちらに向かって歩いてきた。彼が近づいてくる。何かさっきの返事をしなければいけないのに、言葉が出てこない。気がつけば私の目の前は、綺麗な夕日はなく、彼のシャツで埋まっていた。
「こまちってまつ毛長いよね。背小さいね、かわいい。」
「、、、!!!!」

 私は咄嗟に後退りした。急にかわいいだなんて。おじいちゃんにしか言われたことなかったのに。少し警戒しながら、ちらっと彼の方をみた。

「やった。やっとこっち見た。」
 顔が熱い。あぁきっと今りんごみたいに、真っ赤なんだろうな。またバカにされるんだろうな。恥ずかしい。

「バカにしないでよね。そういうの慣れてないんだから。」
 私と二十センチ以上は身長差がある彼の顔を見上げながらそう言った。こんなにも背が高かったっけ。私の顔の位置はまだ彼の胸ぐらいだ。

「こんなことこまちにしか言わないよ。こまちしかかわいいって思わない。」

 そう言って彼はまたニコッと笑った。ドキッとした。心臓の音が尋常じゃない。彼が冗談で言ったのか本気で言ったのか分からない。いや冗談か。危うく勘違いするところだった。そういえば彼は海外育ちだ。これが日常的な会話なのかもしれない。彼といると自分に彼が恋愛感情を抱いてるんじゃないかってたまに勘違いしそうになる。自惚れるな自分。

 気づけばさっきまで私たちを照らしていた夕日は沈んでいた。あれ、そういえば今日はお父さんの手伝いをする日じゃなかったっけ、、、どうしよう!

「帰らなきゃ、、、帰るね!家の手伝いする日だった!」
「まじか!じゃあ僕今日自転車だから送って行くよ。後ろ乗りなよ。」
「いいの?私重いから、浜田くん漕げないんじゃない?」
「それは、、あるかも、、、なーんて、嘘だよ余裕余裕。」

 実際本当に彼は余裕そうに私を乗せて自転車を漕いでいた。実は憧れてたんだよね。二人乗りの自転車。彼はものすごい勢いで自転車を漕いだ。彼の小麦色の髪の毛を揺らした後に、私の黒い髪と赤い頬を撫でる風は、彼の香りを含んでいて、何故かやっぱり懐かしい気持ちになった。



 七月三十日。私がこの日を忘れることはない。

 この日は待ちに待ったキャンプの日。真樹ちゃん一家と雄介一家、私とお父さん、そして彼と彼のお母さん。彼のお父さんは仕事が忙しくて参加できないらしく、去年よりも二人増えてのキャンプ会となった。別荘地まではそれぞれ各自で向かうことになっていた。彼と彼のお母さんは私のお父さんの車がまだ人数に余裕があるので、一緒に乗って行くことになった。


 私と父が家の駐車場で車の中で待っていると大きな荷物を持った青年と、可愛らしい女性がこちらへ向かって歩いてきた。

 父はとても驚いた顔をしていた。

「そういえば!言ってなかったね。浜田くんはクォーター?ってやつで、カナダ人の血が流れてるんだよ。」
「、、、」
「え、お父さん?聞いてる?」
「あ、あぁ、そうだったんだな、父さんびっくりしちゃったよ。」

 そう言う父の笑顔はとてもひきつっていた。

『コンコンコン』

 彼が車をノックした。私は車から降りた。
「おはよう!お母さんもおはようございます!荷物トランクに入れてあげないとね、ほらお父さんも手伝ってあげて!」

 そう父に呼びかけても車から降りてくる気配がない。私が運転席のドアを開けると、うつむいて青ざめた顔の父がいた。

「お父さん!荷物重いんだから手伝ってってば!」
「こまち大丈夫だよ!そんなに重いものも入ってないし。」
「ええそうよ。お父さんは運転してくださるのだから。うちの息子はこんなにひょろくみえて力持ちなのよ!」

 彼は車の後方へ向かっていった。私もすぐに彼の背中を追いかけて荷物を入れる手伝いをした。
「ごめんね、お父さん、いつもは誰よりも先に動いて人の手助けをするような人なのに。今日は何だかいつもと違う。」
「大丈夫だよ本当に。そんな日だってあるよね。」
 彼はそう言ってひょいっと荷物を持って、トランクに荷物を詰める。


 荷物を詰め終わり車に乗ろうと車の前方へ向かうと私の父と彼の母が見つめ合っていた。まるで時が止まっているかのように二人は目を逸らさずただお互いをみている。数秒経過して彼の母が言った。

「あなた、、、なの?どうしてここにいるの?」
「ここが俺の実家だからだよ。逆にそれはこっちのセリフだ。」
「私は、夫の仕事の関係でここに住むことになったの。まさか、、、あなたの実家がここだったなんて。ちゃんと聞いておけば良かったわ。」

 何の話をしているのか全くわからなかった。彼も状況が理解できていないようで、私たちは二人の様子をただ見ているだけだった。しばらくして父が私たちが荷物を詰め終わり、すぐそばに立っていたことに気づいた。

「こまち、、、聞いてたのか、、?」
「こまち。あぁこまちなのね。会いたくなかった。会わないために離れたのに。、、、ああ、ずっと会いたかった。」
 彼の母がそう言って私を抱きしめた。

 意味がわからなかった。どうして私を抱きしめているのか。会いたくなかっただの、会いたかっただのと言われても、初対面の相手にどうしてそんなこと言われているのか。

「えっと、、、ごめんなさい。どこかでお会いしましたか?私何かしましたか?」


「こまち、。その人はお前の母親だよ。」


 聞き間違えだろう。そうに違いない。私の母は私を産んで死んだんだ。お父さんはそう言ったじゃないか。それが実は死んでませんー生きてましたーなんて許される話じゃないし、ぶっ飛んでる。

「何言ってるの?お母さんは私を産んで死んだって前言ってたじゃない!」

「約束、、守ってくれてたんだね。」
 彼の母が泣きそうな笑顔でつぶやいた。

「ねえ母さん。何言ってるの?何でこまちのお父さんとそんな知人みたいに話しているの?今何が起こってるの?何も分からない。」
 彼は小さな子供のように自分の母に向かって言った。

「、、、」 

 彼の母は何も言わない。言わないというよりも、言えないと言った方が良いだろうか。そんな様子だった。

「こまちも君も一旦車に入りなさい。今から全てを話すから。」
 私も彼も何が何だか全く状況が分からなかったが、とりあえず車の中へ入った。

 父が話しはじめた。いつも陽気な父だが、静かに、ひとつひとつの言葉に重みを感じさせるような口調だった。

「こまち。さっきも言ったが、お前の母親は生きている。ここにいる。今まで嘘をつき続けていた。本当に申し訳ない。

 こまちに昔に話した母さんとの馴れ初めのことは覚えているか?あれは途中までは本当の話なんだ。けれど、こまちを産んだ後も母さんは生き続けていた。ただな、母さんは大きな会社の社長の一人娘だったんだ。だから、母さんの結婚相手は家柄も良くて、立派な人でなければならなかった。こんなどこから来たかも分からない不良の男との結婚は許してもらえるはずもなかったんだ。」

 父は今にも泣き出しそうだった。声は震え、顔はずっと下を向いていた。さっきまでほとんど何も話さなかった彼の母が口を開いた。

「私は父親に男手ひとつで育てられたの。家族は父だけだった。

 父は社長だったけれど、仕事が忙しくてもご飯はなるべく一緒に食べたり、旅行へも連れて行ってくれたり。授業参観や学校行事も部下に頭を下げて、仕事を抜け出して応援に来てくれた。そんな優しい父が大好きだった。

 でもね、こまちちゃん。あなたのお父さんを好きになってしまった。父には猛反対されたわ。でも自分の家とは縁を切ってでも、あなたのお父さんと生きていく決心をしてあなたをこの体に授かったわ。

 そんな時、、、あなたが産まれる直前のことだった。今まで全く連絡すらつかなかった父が病院へ来て私に土下座して言ったの。『その子はあの男に任せて私の元に戻ってくるんだ。お前には幸せになってほしいんだ、私の近くで。こんなの私のわがままだということは分かっている。でも、あの男とでは、この先きっとお前は苦労することになる。私の選んだ相手なら温かい穏やかな毎日をきっと遅れる。きっと幸せになれる。最後の親孝行だと思って戻ってきてくれ。大切な娘よ。』

 そう言って泣きながら父にお願いされた。私はどちらも選べなかった。けれど、この人生で誰よりも愛情を注いでくれて、産まれてからずっと私を愛してくれた父を裏切ることもできなかったの。そしてあなたとあなたのお父さんを、裏切った。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 そう言って彼の母、いや私の母は車の助手席から私の座っている後部席へ振り返り深く頭を下げた。そして話を続けた。

「今から話す話は言い訳でしかないわ、、、。

 私の母は私を産んですぐに私と私の父を捨てて他の男の人のところへ行ってしまったの。だから私は母に会ったことはないし、顔も知らない。父から母についての話を聞いたこともない。

 ただ残っているのは自分は捨てられたんだっていう事実だけ。何で捨てたの?私のことは大切じゃなかったの?毎日のようにそう思って過ごしてきた。いつか戻ってきてくれるかも。私のことがやっぱり大切だったって、、、そう言って走ってきて抱きしめてくれるんじゃないかって。でもそんなことはなくて、ずっと苦しいままだった。

 結局、私もあなたに同じことをしてしまった。そして、、、もう二度と会わないのなら、いっそ私がいなくなったったことにしてしまえば、あなたは私みたいな思いをしなくていいんじゃないかってそう思ったの。期待をしても報われない辛さを知っていたから。

 あなたには一生合わないってあなたのお父さんとも約束していたのよ。まさかカナダから引っ越してきたこの町にあなた達がいるなんて思いもしなかった。これだけ広い世の中でまさか出会うことがあるなんて。

 でも、、、会いたかった。こまち。私の大切な大切な娘。」

 そう言って母は泣き崩れた。全てが繋がった。なぜ彼に懐かしさを感じたのか。彼といると安心するのか。あの歌を懐かしく思ったのか。

 それは、、血が繋がっていたからか。同じ母親を持つからか。それにしてもぶっ飛んでる。ショックを受ける暇もないくらい情報が入ってくる。もうなんて応答すればいいかなんて分からない。

「ねえ母さん。僕を過剰なほど愛してくれたのは、こまちと僕を重ねていたからなの?たまに、ふと僕をみて今にも泣き出しそうな顔になるのも、僕と同じくらいの歳の女の子を悲しそうな目でみるのも、いつもこまちのことを考えていたからなんでしょ?

 なんかそんな気はしてたよ。何か秘密を抱えているのかなって。ねえ、僕と僕の父さんはどうなっちゃうの。僕たちのことはしょうがなく愛していたの?愛してくれていなかったの?決められた相手だからイヤイヤ結婚したんでしょ、、、。これはさ、いくら何でもないよ。」

 そう言って彼は高らかに笑った。涙を流しながら。引きつった笑顔で。

「ごめん。頭冷やしてくる。」
 彼は車から出て行った。

「待って日向、待って、、、。」
 母の言葉は届いていたのか、届いていなかったのか、車の窓から見える彼の姿はどんどん遠くなっていく。どこまで歩いて行ってしまうのだろうか。

「日向のことはもちろん愛しているわ。あの子のお父さんのことも。あの子のお父さんも、ある会社の社長の息子さんだった。父に決められた相手で、ちょうどお互いの会社がそれぞれ事業を拡大したかったから、お互いの会社のための結婚であったのは事実よ。

 でも私の旦那さん、、、日向のお父さんは、私の抱えている事情を全て知っても私を受け入れてくれた。私が一人で抱え込むことじゃないと言って、いつも近くで私を元気づけてくれた。そんな彼と過ごす日々は本当に幸せなものだった。日向が産まれてからはもっと。

 もちろん外国での子育ては大変なことも多くて辛い日もあった。けれど、日向の笑顔がいつも私の心を和ませてくれた。あの子の笑顔には人を幸せにする力があるの。私も何度日向に救われたことか。

 愛してる。

 日向がいない私の人生なんて考えられない。でもそんな日々の中でこまち、そしてあなた。あなた達を忘れた日は一度もないわ。元気にしているかしら。こまちにお友達はできたかしら。どんな子に育ったのかしら。そんな想像を膨らませても合うことなんて出来ないのに。

 こうも思った。一緒に育てたかった。離れたくなかった。でも、もちろん連絡手段は全て絶っていたし、知ることなんて一生ないはずだったのに。」

 そう言って母は悲しそうな顔を浮かべた。



「さっきから、、、。さっきからどうしてあなたが被害者みたいな言い方で話しているんですか?今一番傷ついてるのは浜田くんと私です。あなた達のとった行動によって今苦しい思いをしているのは私たちも同じです。しかも私たちにはどうすることもできないし、できなかったじゃないですか。ただ生きていただけなのに!

 どうして、、どうして、、、ごめんなさい。私も頭冷やしてきます。」

 そう言って私は車から勢いよく飛び出した。車は私の家の駐車場でずっと止まっていた。


 私はあんなことが言いたかったわけではない。父も母も悪いわけじゃないのは分かっている。けれど母が私を選んでいたら、、なんてことまで考えてしまう自分がいて、とっても苦しくなる。そんな苦しさを紛らわせるために夢中で走る。走り続ける。


 どれほど走っただろうか。気づけば学校に来ていた。うちの学校は部活動などがないため、夏休み中は学校の中はほとんど誰もいない。数人の先生たちが新学期に向けての授業準備をしているくらいだ。

 そして、うちの学校は校門の所の柵が低いので簡単に入ることができる。私はひょいっと柵を飛び越えて学校へ侵入し、校舎へと入っていく。

 勝手に彼が近くにいる気がしていた。廊下を歩いていると、また懐かしいピアノの音がした。あの曲だ。私たちの母が唯一歌うことができる洋楽。ピアノということは音楽室から聞こえてきてるはずだ。私はもっと速く走り始めた。彼にすごく会いたかった。

 音楽室のドアを開けると、そこには笑顔で、泣きながらピアノを弾く彼の姿があった。なんて美しくて悲しい音色。彼にとっては大切な思い出の曲。一曲弾き終わると彼は音楽室の窓の外を、、、ずっとずっと遠くを見ながら言った。

「こまちに言うことじゃないんだけどさ、今まで母さんが、僕に向けてくれた愛は僕だけに向けられてるんだって思っていたかった。けど、あの愛の矢印は僕を通してこまちにも向けられていたものだったんだ。それはしょうがないことなんだけどさ、辛いよね、やっぱり。

 ねえこまち、いつも母さんから見えていた僕の隣には君がいたんだね。」

 笑ってそう話す彼の目にはやっぱり涙が溜まっていた。親に嘘をつかれ続けてきて、とっても辛いだろう。私にも分かるよ、でも私の辛さは、君とは違う辛さだろうから。

 「分かるよ」なんて言って中途半端に慰めることはできない。


「私さ、酷いこと言ってきちゃった。被害者面すんなって。こっちが被害者だって。でもさ、きっと誰も悪くないんだよね。だからみんなが苦しいんだよね。お父さん達が嘘をついたのも、私たちを守るためで、、傷つけないためで。」
「そうなんだよな、きっと。誰か一人が極悪人で、その人を責められたらどれだけ楽だったか。誰も悪くないからこそ誰かを責めることなんてできない。どうすることもできない。誰かを守るための嘘は、その嘘がバレた時、一番傷つけたくないはずだったその相手を一番傷つけることになるのかもしれない。


 彼の言うとおりだ。父も母も私が辛い思いをしないで生きていく最善策をとったはずだったんだろう。

 誰かを守るための、、よく言われる「ついても良い嘘」なんて、結局は存在しないのかもしれない。


 彼の姿を朝日が照らしている。夕日に照らされているときよりもすっきりと爽やかな輝きがある。でも早朝だからか、少し冷たくて寂しげだ。
 
 そういえば、今日はキャンプのはずだったんだ。キャンプ場にそれぞれ朝早く行って、向こうで全員集合して日の出をみるのが毎年の恒例だったっけ。

「ねえ、私の今までは何だったんだろう。みんなに心配かけないために努力してきて、いつも笑顔でいるために重い仮面被ってきて、、」

「、、、。分からない。」

「いや、みんなのためじゃないか。自分のためだったんだ、きっと。みんなに心配かけないようにとかじゃなくて、母親がいないからこんな子に育ったんだとか、環境が恵まれなかったから出来が悪い子でもしょうがないとか周りに思われたくなかったのかな。見栄っ張りだからさ!私」

 そう言ってせいいっぱい笑ってみせた。結局は家族を言い訳に、私はすごいんだって自慢したかっただけなのかも。みんなに褒めて欲しかっただけなのかも。あの子は大変なのによく頑張ってるねって。

「そっか、、。ごめんね。僕は何にも言えない。今何か言ったら誰かをを責めてしまうかもしれない。何を言い出すか分からない。でもこまちは絶対に何も悪くないよ。これだけは言える。

 ただ、君は本当にずっと仮面を被っていた?きっと素の君のままで笑えている時だってあったはずだよ。辛かった思いをした分、たくさん愛されて幸せだった時間もあったんだから。幸せな思い出を大切に生きていこうよ。僕たち。」

 過去を恨んだってどうにもならない。それは分かってるけど、そんなすんなりと受け入れられない自分もいる。だけどそうだよね。悲しい思い出を引きずってたら、これからの人生がもったいない。

「僕たちって言っても、僕は何にも知らなかったから、悲しい思いなんて今までしてないんだけどね。今事実を知って少し悲しい気持ちになっただけ。ピュアホワイトだった画用紙がオフホワイトになった感じ。」

 彼はそう言ってぷっと笑った。真剣なのに、笑っていた。何ちゃらホワイトなんて格好つけた自分が恥ずかしかったのだろうか。顔が赤く紅潮している。

「どういうこと?何ちゃらホワイトって、、なんか格好つけてて逆に格好悪いよ、、、もうしんみりしてたのが一気に吹き飛んじゃったね。」

 そう言って私も笑った。私たちを照らす太陽はさっきよりも高く昇ってきて明るく元気に輝いていた。

「キャンプのはずだよね、今日。日の出はみんなで見れなかったけど、はやく戻らないと!キャンプ行こう!」
「そうだね。うちのお父さん、きっと今頃涙ボロボロの鼻水ぐしょぐしょだから、行ってあげないと。」

 手のかかる父をもったものだ。父は強面な見た目とは裏腹に、とっても傷つきやすい。そしてとっても優しい人なんだ。はやく会いたくなってきた。もういいよって、そう言ってあげないと。父が一人で抱え込まないように。きっと子どもに嘘をつき続けるのも辛かっただろう。

「どっちがはやく車まで戻れるか競争だ!」
 そう言って彼が走り出した。

「ちょっと!待ってよ!自分勝手!ずるーい!」
 私も咄嗟に走り出した。

 彼といると楽しいな。好きだな。あぁそっか。彼を好きになってしまったのか、私は。血の繋がった兄妹なのに。




 学校から出ようと校門の柵をひょいっと乗り越えると、こちらへ向かって剛山先生が歩いてきていた。なんてタイミング、、、。

「おい!誰だ!学校が休みなのにいたずらで入ったのか!」

 そう怒鳴りながらこちらへ歩いてくる。競争で少しリードしていた彼が走るのを止め、少しこちらへ戻ってきて私の手を握って、また走り出した。あれ、なんかこれデジャブ、、、。前もあったな、こんなこと。私、優等生なはずなのに、二回も剛山先生に追いかけ回されることになるなんて。


 どれほど走っただろう。さすがに剛山先生は私たちを追いかけるのを諦めたらしい。姿がみえない。

 彼に繋がれた手が熱い。



「好きだよ。」
 気づいたらそう言っていた。自分でも驚いた。まさかポロッとこんなことを言ってしまうなんて。でも彼からの返事にさらに驚いた。

「僕もだよ。君に会ってから僕の世界は変わった。明るくなった。君に会った瞬間、ビビッと何かが走ったんだ。」

 顔が熱い。彼をみれない。ただ、その言葉が嬉しくてたまらない。嬉しくてたまらないのに、私たちはどうにもなれない。

「私もだよ。あなたが教室に入ってきてから色がついたの。私の人生に。」
 そう言って顔を見上げると頬を赤く染めた彼の姿があった。二人でしばらく見つめあった。しばらくして彼が言った。

「僕たちはどうにもなることはできない。君に出会わなければこんな思いをお互いしなくて良かったのかもしれない。でも、君がいなければ僕の人生は今までと変わらず何か物足りない、寂しい人生だったかもしれない。君に出会えたことの方が僕にとっては幸せなんだ。

 そして、これからの人生では君以上に好きになれる人ときっと出会ってみせるよ!って思いたいけど、こまちと血が繋がっていたなんて急な事実に全く追いつけないし、悔しいし、ごちゃごちゃな感情が心にいるのが本音、、。」

「私もだよ。あなたが私の仮面を外してくれた。悲しい時は泣いてもいいんだよって教えてくれた。今まで苦しかった。あなたのおかげで世界が広く感じるようになった。ありがとう。

 私もあなた以上の人を探してみせる、、、。それしか私たちには方法はないもんね。」


 それから私たちは手を繋いでゆっくりと車に戻った。この時間がずっと続けばいいと願いながら、、、。

 道端の蛙たちは私たちの、このほんの少しの幸せな時間を祝福するかのようにいつもよりも大きな声で鳴いているように感じた。風に揺られた木や草も拍手をしているかのようにワサワサ音を立ている。


 車に戻ると車の外で父と母が立って待っていた。父はやっぱり大号泣していた。二人とも私たちが戻ってきた姿がみえた途端、こちらへ走ってきて、ぎゅっと私たちを抱きしめて

「ごめんね」

「ごめんね」

 何度も何度もそう言って抱きしめた。

 何分経っただろうか。ずっと、ぎゅっと、力強く私たちを抱きしめて、ひたすら謝り続ける父と母。私は二人が抱きしめている手をどけて言った。

「もう!いつまで湿っぽいことしてるの!はやくキャンプ行こうよ!みんな待ってるんだから!真樹ちゃんから電話がすごいたくさん来てるんだからね!」

 そう言って私は怒った顔をした後に、ニコッと微笑んだ。こんなにも大切にされてたんだなぁとギュッと抱きしめてくれた手から伝わってきた。

「母さん。さっきはごめんね。もう大丈夫だよ。母さんの気持ちはちゃんと伝わってるから。」
「ごめんね日向。あなたが大切だったの。愛しているから何も言えなかった。そしてこまち。あなたも私の大切な娘です。形としてはあなたを捨てたことになるし、それは事実だから言い訳になってしまうけれど、あなたも愛してる。」

 そう言って涙を浮かべた母の顔は、彼にそっくりだった。そんな母の顔を見てると私まで涙が出そうになった。
「私もごめんなさい。あんな酷いとこ言って、、、」
 私は母に深く頭を下げて、誤った。

「被害者ぶるな」なんて、あんなことを言いたかったわけじゃない。でも本当はそんなこと思っていなくても酷いことを言ってしまう時がきっと誰でもある。いや、ほんの少し思ってしまったことが普段なら自制できていても、気持ちが不安定になると自分自身でコントロールできなくなってしまうのだろう。

 そうして言葉となって放たれた、心の奥底の黒い感情を受けた相手は、一生消えない感じてしまうこともあるかもしれない。

 放ってしまった側も罪悪感で押し潰されてしまうかもしれない。

 今後どれほど技術が進歩しても、言葉ほど人間を狂わせ、苦しめる武器は開発されないだろう。そして、言葉ほど人間を救うことのできる道具もないのであろう。
 

「よし!じゃあキャンプ場に向かうか!みんな車乗れよ!」


 大きな父の声が私の頭の中に響き渡った。


 私は必死に泣きそうな顔を隠して車に乗った。父がアクセルを踏み、車が動き始める。目の前の太陽に向かって。


日の出を迎え、昇ってきた太陽は眩しくって明るくって、こんな明るい未来が私たちに待っていたらいいな、なんて思ったりして。

 これからが私の、私たちの新しい人生がスタートだ。
 
 







 

 誰かを守るためについた嘘が、守りたかったその相手を傷つけてしまうこともある。

 やり場のない怒りや悲しみを抱えなければいけないこともある。 

 自己保身の為に、そして自己肯定の為ににとった行動が逆に自分を傷つけて苦しめてしまうこともある。

 そんな時に、誰か一人でも話せる相手を持つこと。辛い時に、静かに話を聞いて、自分を認めてくれる人がいること。それが何より生きていく上で大切なのかもしれない。

 誰にでも悩みはあって、誰かを苦しめたいわけじゃなくても、誰かを苦しめてしまうことがある。誰かを責められないからこそ、負の感情を抱く自分が嫌になることがある。でも、ただ隣にいてくれる人がいるだけで、こんなにも温かい気持ちになるんだって彼に会ってから、私は気づくことができた。

 そして、前よりもここの空気がおいしく感じるようになった。 

 少しだけ息がしやすくなった気がした。