「君は見送りはしなくていい」
「え、で、ですが、ひと言お礼を」
 叔父夫婦にいい思い出はないけれど、今回の縁談は叔父夫婦が進めてくれた。お礼かたがた見送りたいと思ったのに。
「お礼は朝言ったから十分だ。公爵とは話もあるし、君は休みなさい」
 そう言われては無理を言えず「はい」と引き下がった。
「伽夜様、ひとまずこちらにおかけください」
 キクヱに進められるまま、縁側に出て庭に面した椅子に腰を下ろし、ホッと息を吐く。
(仮初の妻とはいえ、本当に私は高遠伽夜になったのね)

 この結婚は、実は一年間という条件つきの結婚だ。
 涼月はゆっくりと話を聞いてくれたのである。
『話してくれないか? なんのためにお金が必要なのか』
 彼の低い声は、心を包み込むように響き、伽夜は聞かれるまま正直に答えた。
 自分には夢あり、叶えるために自由の身になりたいのだと。
『雲を掴むような夢ですが……。一生をかけてでも叶えたいんです』
 夢の内容までは言えなかったが、お金はひとまず自立のために使いたいと答えた。
 いろいろと話すなかで、涼月が提案してきた。
『ひとまず一年、妻として暮らしてみないか?』
 それこそ夢のような提案だった。
『たとえ一年でも舞踏会でダンスを踊ってくれる妻がいてくれると助かる。君のように外国語もダンスもできる女性はなかなかいないんだ』
 伽夜は女学校での成績はよかった。
 涼月の話によると、ダンスを踊れる貴族女性は少ないらしい。
 考えてみれば、女学校でも授業でダンスは教えてくれなかった。杏は卒業後に就職するという近代的な女性だが、ほかの生徒たちは社交ダンスを恥ずかしいと躊躇っていた。
『男性と手を繋ぐなんて嫌だわ』
 確かに叔母は踊れないし、萌子は踊れるが語学はできない。
 それに、一年あれば色々と考えられるし、玉森とも縁が切れる。
 女中ではないから叔父夫婦からの苦情の心配もないし、一年かけて仕事先を見つければいい。
 高遠家に迷惑をかけずに済むのだ。

(一年間、妻として精一杯がんばらなきゃ)
 語学の勉強を続けようと決意したそのとき、ふいに部屋の隅の方から、キャッキャと声がした。
 女性の声にも聞こえるが人とは違う声の響きに、ああまたかと思う。
 今朝、この衣装を身につけて奥の間でひとりになったときも、不思議な声を耳にした。
『ほぉ、馬子にも衣装じゃの』
 振り返っても人はおらず、大きな壺があるだけ。
 すると、今度は別の方角から違う声がした。
『この 女子(おなご) 、いろんな匂いがするな。狐に、鬼?』
 そこには棚があり、歴史のありそうな花器や茶碗などが並んでいた。どう考えても人が入り込む隙間はない。
 伽夜はたまらず『どなた?』と誰にともなく声をかけた。
『ほぉ、やはり聞こえるか』
『ええ、聞こえます』と答えた。
 不思議ではあったが、怖くはなかった。
 高遠家は不思議な力があるというから、こんなこともあるのだろうと思っただけだ。
『伽夜と申します。これからよろしくお願いします』
 立ち上がり、壺と棚に向かって頭を下げた。
 そのときも今聞こえたような笑い声がしたのである。
(やっぱり、あやかしなのかしら。姿は見えないけれど)
 そういえば、彼の異能についてもわからないままだ。
 あやかしと関係があるのかしら……。
 などと思いつつ首を傾げていると、扉が開く音がした。
「伽夜」
 振り返ると、涼月がいた。

 見送りが済んだらしい。
 あらためて見る花婿姿の彼はとても素敵だ。背が高くて脚が長く、肩幅も広いから洋装も和装も本当によく似合う。
 今日からこの人が自分の夫なのだと思うと、狐に摘ままれたような気持ちだった。
 この邸にいるあやかしが幻でも見せているのかと思うほど。