***

 明くる朝、遠巻きにした使用人たちに見送られ、伽夜は叔父と一緒に車に乗った。
(みんな、元気でね)
 フミもほかの使用人達も皆ひっそりと泣いている。
 朝方声をあげて泣いた使用人が叔母に厳しく折檻された。だから泣かないでほしいと思うが、伽夜の目にも涙が光る。
 彼らの姿が小さくなり、やがて見えなくなるまで、伽夜は車の窓を振り返った。
 叔父はもともと口が少ない。会話もなく車に揺られながら、膝の上の風呂敷包みをギュッと握り締める。
 伽夜の生活は質素だ。たいしたものはない。
 昨日汚してしまった着物と袴は、しっかりと乾いてからフミが高遠の邸に届けてくれると言ってくれた。包みの中は幾らかの着替えのほかは祖母の形見の帯締めと、母の形見の小さな髪飾りだけ。
 高遠家から身一つでいいと言われたらしく、言葉通りに吝嗇家の叔父はなにも用意はしてくれなかった。
 ふと、朝食を思い出す。
(美味しいパンだったなぁ)
 今朝もいつものように明け方に起きて掃き掃除をしていると、叔父に朝食を一緒に取るようにと呼ばれた。
 最後の晩餐ならぬ最後の朝食。叔母と萌子はとても不満気だったが、叔父なりの配慮らしい。
 スープにこんがりと焼けたパン。野菜だけでなく卵焼きやハムが添えられ、果物もつくという贅沢な洋食だった。
 伽夜の普段の朝食は具のないおにぎりひとつだし、祖父母がいた頃は和食である。叔父達は普段ああいった朝食を取っていたのかと、ぼんやり思う。
「伽夜、余計なことは言うなよ。お前はわたしの娘としか先方には言っていない」
「はい」
 この時代、妾も多かったせいか養子や養女は珍しくない。女学校にも通っていたから詮索はされないはずだ。そしてなによりも――。
 もし両親の秘密がわかってしまったら、どうなるのか。
 恐怖からくる緊張が背筋に走る。
『いいかい伽夜。戻ってきたら、助田様に嫁がせるからね』
 今朝、叔母に挨拶をするとそう言われた。
『助田様……?』
『お前はもともと助田様に嫁がせる予定だったんだ。まあどうせこの縁談に高遠様は乗り気じゃないし、すぐに追い返されるだろうから、そのまま助田様のところへ連れて行くよ』
 助田は子爵だ。おそらく歳は五十近い。
 何度も再婚を重ねていて、その度に妻は早逝している。残忍な嗜好があり、妻たちは痛めつけられたまま死んだらしいと、女学校で噂になっていた。使用人も何人も行方知れずになっているという。
 単なる噂ではないと思ったのは、助田が玉森家に来たときだ。
 今から半月ほど前、珍しく伽夜は母家に呼ばれ、夕食を共にとった。叔父夫婦はいたが、なぜか萌子はおらず、助田がテーブルの向かいの席にいた。
『ほぉ、これは美しい……』
 そのとき助田が向けた蛇のような眼差しを忘れられない。
 残忍に光る目を思い出し、ぞわぞわと鳥肌がたった。
 伽夜は腕をさすり、ふぅっとゆっくり息を吐く。
 前門の虎後門の狼ならぬ、前門の鬼、後門の蛇か。蛇は嫌だ。どうせならならば鬼がいいと思った。
(私だって、あやかしの娘かもしれないんだもの)
 気持ちを切り替えようと車窓から外を見た。
 車に乗るのは初めてのせいか、街の景色がいつもと違ってみえる。
 ワンピースやブラウスにスカートという洋装の若い女性も多い。帽子をかぶり、髪も短かかったりして、時代の最先端をいく彼女たちは溌剌としている。仕事中なのか、颯爽と歩く姿が眩しい。
 できるなら彼女たちのように働きたかった。誰にも迷惑をかけず、自分の力で。
 そしていつか、父を捜したい。父が本当にあやかしだとしても……。
 こみ上げる思いに涙が溢れそうになり、伽夜は風呂敷包みをきゅっと握り締めた。

 賑わう通りから離れ、住宅地を進み車は減速する。
 高遠家に到着したらしく、大きな門構えである屋敷の前で、車が止まった。
 屋根がある歴史を思わせる木造の門。
 樹木がうっそうと生い茂る、あやかしどもが棲まう家という噂通り、どこまでも続く高い築地塀の上から高木がいくつも見えた。
 いよいよかと思うと緊張感から、指先が震えてくる。
 車を降りると、叔父が「いつきても不気味な家だ」と吐き捨てるように言った。
 門が開き案内されて進むと、洋装の男性が歩いてくる。
「いらっしゃいませ玉森様。(あるじ)は急ぎの用で出かけておりますが、すぐに戻りますので、中でお待ちください」
「そうか。では、私はここで失礼する」
 男性が驚くのも構わず、叔父は伽夜に「行きなさい」と告げ背中を向けた。
 叔父を追いかける男性と叔父を振り返って見つめ、ぽつんとその場に残った伽夜は、まるで捨て猫になったようだと思った。
 運が良ければ拾ってもらえるが、悪ければ――。
 あてもなくどこかに行くしかない。
 玉森にはもう二度と戻りたくない。助田子爵のところに送られるくらいなら、どこかで野垂れ死んだほうがましだ。
 いっそあやかしにでもなって、この美しい庭に棲みつけたらいいのに。

 つらつら考えながら進む縁側の廊下から、伽夜は庭を見つめた。
 樹木は多いが、噂に聞くような鬱蒼とした感じではなかった。
 日差しが程よく地面を照らしていて明るいし、妖しい化け物などいそうもない。手入れが行き届いていて、むしろ邪悪なものは入り込めないだろうと思う。
 噂というのは、やはりあてにならないものだ。

(見事なお庭だわ)
 こんもりとした築山があり、うねるように水が流れ池へと続いている。水面を縁取る岩と苔と草。さらさらと岩の間を落ちる水音が、伽夜の座る席まで聞こえてきそうだ。
 池の上へとせり出すように枝垂れ桜が揺れている。
 その先の木はイロハモミジか。秋になれば赤や黄色に色づく美しい紅葉が見れるはず。
 池に落ちた桜の花弁が水の輪をつくる様子も美しく、伽夜は感嘆の溜め息をつく。
 昨日今日できる庭ではない。何十年、あるいは何百年かけてできあがったであろう歴史を思わせる。
 高遠家は平安時代から続く名家であると聞く。
 京の都から帝都に移り住んでどれくらい経つのかわからないが、石に貼り付いた苔、ごつごつとした太い幹。すべてが長い年月を思わせた。
 邸も立派である。
 西洋風だった玉森家とは違い、高遠家は和洋折衷で、どちらかといえば和風寄りの二階建てだ。部屋数は想像できない。とてもたくさんあるには違いないが。
 柱や梁の艶もだが、調度品もかなりの年代ものばかりであり、そのせいかとても落ち着いた雰囲気が漂っている。
 まだ足を踏み入れてわずかしか経っていないのに、この屋敷は建物といい庭といい、なんとなく居心地よく感じた。
「どうぞ、こちらにおかけください」
「はい。ありがとうございます」
 伽夜はぽつんと一人きりで、猫足の椅子に座った。
 高遠涼月は、数々の事業を経営しているゆえ、多忙なのだろう。朝から仕事に出掛けているらしい。
 叔父は結局帰ってしまった。
 車を降りる前に、叔父に念を押されている。
『今日から高遠家がいいと言う日まで、お前が高遠家の嫁として務まるかどうかの見習い期間だ。玉森家の者として粗相のないようにするんだぞ』
『はい。わかりました』
 伽夜は池を見つめながら、見送りに出てくれたフミやほかの使用人たちの涙を思い浮かべた。
 祖父母がいなくなってからの毎日はつらい日々ではあったが、フミや優しい使用人達が一緒だったおかげで寂しくはなかった。
 でも、今日からは一人きりだ。
 心細さに身を縮め、膝の上の風呂敷包みを握りしめる。
 ボーンボーンと大きな音にハッとして顔を上げれば、柱時計が十一時を指している。
 ここに通されてから、三十分以上が経っていた。
(やはり私がお気に召さないのかしら……)
 高遠家は、萌子を望んでいた。
『聞いたと思うけど、高遠様は私をお望みなのよ』
 萌子からもそう聞いている。
『私はあんな仮面を被った恐ろしい化け物みたいな人は絶対に嫌。化け物同士、お前にぴったりでしょう?』
 萌子のように美しい娘を期待していたに違いない。話が違うとお怒りで、だから叔父は逃げるように帰ってしまったのか。
 もし、このまま会ってももらえず帰されたらどうしようと、次々に不安が襲ってくる。
 助田の目を再び思い出し、恐怖にごくりと喉が音を立てた。
 とにかく二度と玉森には帰りたくない。
 不安に震える腕をさすりながら、いっそ、使用人としてでもいいからこの家に置いてもらえないだろうかと思った。
 仕事は嫌いじゃない。つらい水仕事でもいいから、この美しい家にいたい。夢中で働けば寂しさくらい乗り越えられる。
 藁にもすがりたい気持ちで唇を噛んだとき「お待たせいたしました」と執事が現れた。
「間もなく涼月様がお見えになります」
「はい。ありがとうございます」
 執事は三十代と思われる、淡々と落ち着いた雰囲気の男性だ。
「伽夜様、コーヒーは召し上がりますか?」
「いえ。飲んだことはありません」
「そうですか。では紅茶をお入れしましょう」
 執事は、伽夜がほとんど口にしなかった冷めたお茶を、盆に乗せる。
「あっ、すみません」
 せっかく入れてもらった緑茶を無駄にしてしまった。
「お気になさらず」
 にっこりと微笑んだ彼が扉の向こう側に消えると、微かに男性の話し声が聞こえた。
 いよいよだ。
 それから更に十分ほど立って扉が開き、背の高い若い男性が入って来た。
 椅子から立ち上がった伽夜の背丈よりも、頭ひとつ高い。そして――。
 伽夜は彼を見てハッとした。
(本当に仮面を被っているわ……)
 噂で聞いていた噂通り、高遠涼月は顔の頬から上が隠れるような黒い仮面をつけている。

 だが、よく見ればとても麗しい人だ。
 実業家らしい三揃いの洋装に身を包んでいるが、腰の位置が高くて脚が長い。すらりとした体躯には洋装がよく似合っている。
 意志が強そうに結んだ唇、高い鼻梁、いくらか長めの髪は、噂通り金色とまではいかないが明るい茶色だ。
 そして、なによりも驚いたのは目。
 黒い仮面は目のところが穴が開いている。気のせいか光があたった瞬間、仮面に隠れた瞳が金色に光ったように見えた。
 彼は伽夜の正面の席に向かって歩き、椅子に腰を下ろす。
 背もたれが高くてゆったりとした肘掛けがある西洋風の椅子が、彼の雰囲気にとても似合っていた。

 正面からだと彼の目ははっきりと見えた。
 瞳は金色ではなく、 (はしばみ)色である。
 さっき金色に見えたのは錯覚だったのか。
(それにしても、とても綺麗な瞳だわ)
 ジッと見つめていたと気づき、頬を赤らめた伽夜は慌てて頭を下げた。
「玉森伽夜と申します」
「高遠涼月だ」
 再び執事が現れて、焼き菓子の乗った皿をテーブルの上に置く。焼きたてなのか、濃厚なバターが混ざった甘い香りがふわりと漂った。
 伽夜の前に紅茶のカップを置き、ポットからとくとくと紅茶を注ぐ。
 涼月のほうには黒い液体の入ったカップを置いた。初めて嗅ぐ芳醇な香りに、これがコーヒーなのか。
 さっそくカップを手にした涼月を見つめながら、伽夜は決意を新たに大きく息を吸う。先に言わなければならない。――断られる前に。
 勇気を奮い起こし、立ち上がった。
「お願いがございます。私では役不足でしたら、使用人で構いません。私を雇っていただけませんでしょうか?」
 切実な気持ちのまま訴える。
「雑巾がけでも庭掃除でもなんでもします。――ただ、望みはひとつだけ。使用人としていくらかでもお給金さえ頂ければ、それだけで十分でございます」
 言うだけ言って頭を下げた。
 女中としてちゃんとやっていけるはず。今までも日の出とともに起きて働いてきた。水仕事も慣れれば上手くなる。だからどうか。
 唇を噛んで返事を待った。
「給金?」
「はい。働きに見合う額で結構です、わずかでも……」
 うつむいたままジッと返事を待った。
 だが、涼月はなかなか答えない。
 いきなりお金の話までして、ずうずうしいと思われたかと、羞恥心と同時に悲しくなる。
 でも、恥ずかしがってはいられない。どうしても必要なのだ。せめて数日、安宿に泊まれるだけでいい。それだけあれば、ほかに仕事を探せる。
 一文無しではさすがに不安だから――。
 沈黙に耐えかね顔を上げると、涼月はゆったりと口を開いた。
「それで、給金をどうする? 玉森家に送るのか」
「いいえ。そうではありません。玉森家とはまったく関係がありません。私個人の問題なのです」
 玉森がお金に困っているのかと思われたら困るので、それだけは否定した。
「ではなにに使うのだ?」
「それは――」
 ずっとここで働けるなら、むしろお給金はいらない。
 だが、そうはいかないだろう。
 公爵家の娘が、嫁ぐはずの家で使用人として働いているなどと、世間体を気にする叔父が黙っているはずもなく、きっと連れ帰されてしまう。
 働くにしても、いつまでもここにいては迷惑になる。
 短期間でいい。宿に泊まれるだけのお金をもらえれば、あとはきっとなんとかなる。食堂や店員など求人の貼り紙も見た記憶があるから。住み込みの働き口もきっとあるはず。
 とはいえ、それは言えない、
「申し訳ございません――秘密でございます。ほんの数日でもかまいませんから」
 そう答えるしかなかった。

***


(さて、どうしたものか……)
 高遠涼月は内ポケットから懐中時計を取り出した。
 春のうららかな日差しを浴びて、手にした時計がキラリと光る。
 柱時計と懐中時計の時刻を合わせ見れば、午前十一時十分。どちらもまったく同じ時刻。遅くとも十時半には来るとわかっていたから、四十分近く待たせてしまったようだ。
 喉を潤してから謝ろうと思ったが、その隙もない。
 ひと口飲んだコーヒーをテーブルに置き、小さく溜め息をつく。
 気を取り直して顔を上げた先、テーブルを挟んで向かいの席にいるのは、玉森家の令嬢、玉森伽夜、十七歳。
『申し訳ございません。――秘密でございます』
 そう言ったまま彼女は行儀良く三つ指を揃え、ずっと頭を下げている。
(はぁ……)
 密かに溜め息をつき、涼月は彼女を観察した。
 公爵家の令嬢らしく美しい着物を着て、髪の上半分をふっくらと後ろで結い、大きなリボンをつけている。女学校を卒業したばかりの彼女は前髪を下ろしているせいか、少女のような幼さが残って見えた。
 とはいえ、帝国の決まりで女性は十六になれば結婚できる。十分大人だ。
 十日ほどここで生活し、問題なければ結婚する約束になっているが……。
 挨拶もそこそこに、彼女は思いがけないことを言った。
『お願いがございます。嫁が無理でしたら、使用人で構いません。私を雇っていただけませんでしょうか』
 涼月は仮面の奥で眉を顰め、涼しげな目を怪訝そうに細めて考えた。
 聞き違いだったのかもしれないと思い。『給金?』と聞き返したが、彼女は働きに見合う額でいいと答えたのだから、勘違いではないのだろう。
「女中と同じように、か?」
 確認のために聞いた。
「はい」
 顔を上げた伽夜は、真剣な目をして真っ直ぐ涼月を見つ返してくる。
 見たところ、ごく普通の令嬢に見えるし、言葉遣いも仕草も様子もなんら変わったところはない。
 さて困った。
 この縁談はただ舞い込んだわけではない。
 ひと月ほど前、昨年亡くなった祖母の遺品から手紙が出てきた。
【涼月、玉森家の娘を嫁にもらいなさい】
 玉森家も、高遠家のように異能を持つ一族と言われているが、最近は分家を含めそんな話は聞こえてこない。
 半世紀前までは、玉森家に限らず、人前でも異能を見せる華族は十を超えた。
 だが、現在はまったく聞かない。
 異能が必要なくなるほど便利な世の中になったのもあるが――。

 最大の理由は五十年ほどの前の事件だ。
 日本橋で血がカラカラに抜けた若い女の遺骸が、河原に放置されるるという事件が続いた。
 犯人は 不知火(しらぬい)侯爵。鬼の末裔で人を幻惑する異能をもった男だった。
 男の家からは若い女の血を溜めた風呂があったという。
 侯爵は死刑。不知火家は官位を剥奪されたが、その事件を機に、異能に対する世間の目が変わった。西洋の魔女狩りのように、屋敷には石が投げ込まれ、駕籠が襲われて中にいた華族の令嬢が撲殺される事件が起きた。
 犯人はごく平凡な庶民。娘を不知火侯爵に殺された父親で、世間は犯人のほうに同情した。
 以来、多くの家では異能を封印し、異能のない者が家長になるなどして、平和に生きる道を選んだのである。
 高遠家の異能は、あやかしの力を封じる異能であるため事なきを得たが、玉森家はあやかしを見知し会話を交わすという異能であったため、世間の目は厳しかったはず。
 そんな事情ゆえ、異能を封印したのだろう。

 いずれにせよ現在の玉森公爵に異能の気配はまったくない。
 高遠家では金融業を営んでいるため、彼らの懐事情には詳しく、手に取るようにわかっている。
 玉森公爵は金遣いが荒く、そのくせ働くという概念がないようで、財産は減る一方だ。広大な土地を持っていたはずだが、彼らの代になり早くも半分近く失っている。
 ある意味人間らしい俗物だといえる。
 異能がある者はくだらぬ欲に流されはしない。玉森公爵にもいくらかでも異能があれば、そこまで落ちぶれなかっただろう。
 だが、涼月はさほど気に留めなかった。
 華族の結婚は家同士のものであり、自由な恋愛による結婚は 野合(やごう)として侮蔑される世である。涼月自身、恋愛に興味もなく、祖母の遺言に従うだけだ。
 遺言をもとに、仲介人を立て玉森家に縁談をもちかけた。
 当初、嫁になる娘は萌子だとばかり思っていた。
 というのも、舞踏会で見かける玉森家の娘は萌子だけだった。
 萌子という娘は公爵家自慢の娘らしく、華やかで男たちに人気があった。玉森萌子と聞けば女性に興味のない涼月でさえその名を知っていたほど有名である。
 公爵家に娘がもうひとりいると知ったのは、仲介人を通してだ。
『伽夜様とおっしゃるお嬢様です。人見知りが強く邸に引きこもっておいでのようですが、女学校にも通いひととおりの教育は受けているそうですので、公爵家の嫁として問題はないかと……』
 仲介に入った男爵は、心苦しそうにそう言った。
 玉森家の血を引く娘であれば、涼月としてはなんの問題もない。迎えるのは伽夜と決まったのである。

 そして、迎えた今日。
 目の前にいるのは玉森伽夜だ。
 伽夜は華やかな萌子とは似ても似つかない。むしろ真逆という第一印象である。
 萌子は原色の薔薇のようにはっきりとした目鼻立ちだが、伽夜は可憐な娘だ。
 穏やかな目もと。高くはないが形のいい鼻。微笑みを浮かべた頬と小さな唇。透けるように白い肌。細い首から察するに痩せているようだが、庭に咲く桔梗のように凛とした美しい娘である。
 薄い水色の着物は先代から伝わる品なのか、歴史と伝統を感じさせた。
 最近の流行りである派手な色でなく、古典的だが随所に刺繍が施されている上質な着物であり、彼女のように初々しい娘によく似合っている。
 涼月は並外れて記憶力がいい。ひと目でも見ていれば覚えがありそうなのに、目にした記憶はなかった。
 たおやかな美人ゆえ噂のひとつもあってよさそうだが、名前も耳にしたことがないので、おそらく彼女は一度も表に出てきていないのだろう。
 いろいろと変だ。
 仲介人は人見知りが強い娘だと言っていたが、それにしてはしっかりとしているように見える。
(給金とはな)
 良家の令嬢の嗜みとして、金を口にするのは下品とされる。
 金というのは、湯水のようにどこからか自然に湧いてくるものと信じて疑わない。良くも悪くもそれが涼月の知る深窓の令嬢だ。
 金銭的に落ちぶれてきたとはいえ、仮にも公爵家の娘が、金を口にするとは。
 うつむいているゆえに表情が見えないが、いったいどんな顔をして、給金などと言いだしたのか、ふつふつと興味が湧いた。
「ひとまず座って」
「はい……」
 涼月はあらためて伽夜をしげしげと見た。
 ゆっくりと椅子に腰を下ろし顔を上げた彼女は、臆する様子も見せず、まっすぐ涼月の瞳を見返す。
 どこまでも真剣に訴える目だ。
「どうかお願いいたします」
 再び頭を下げる様子から深刻さが伺える。
 さてどうしたものか。
 高遠の屋敷は大きく広い。部屋数も物置部屋を除いても両手両足の指に余るほどあるし、敷地は広く、庭園があり、入り口はさらにそのずっと先。二階南側の部屋から見渡しても門が見えないほど遠い。
 住み込みの使用人は男十人。女が十五人。母屋の西には使用人用の建物もあり、部屋は余っている。
 通いの使用人も入れると三十人。それでも屋敷の構えにしては少ない方だが、信用できる者しか近くに置きたくない。いくらか人数を増やしてほしいと執事に言われてはいるが、だからといって話は別である。
 玉森公爵家の令嬢を女中にできるわけがない。
 わかっているだろうに、なんの気まぐれか。
 伽夜の目的がわからないので、涼月はひとまず話を合わせた。
「それで、君はなにができる?」
「掃除、洗濯、お裁縫。お料理もいくらかは」
 より一層ジッと伽夜を見つめ、なるほど、と目を閉じる。
 自信があるところをみると経験があるのだろう。
 深窓の令嬢にはありえない話だが、玉森家の教育方針なのか。
 しばし考えこみ、ゆっくり瞼を上げると伽夜と目が合った。彼女は相変わらず真っ直ぐに見つめ返してくる。
 純粋な瞳で――。
「金の使い道は、言えないのだな?」
「はい。申し訳ございません」
 項垂れて、消え入りそうな声だが、しっかりとした意志を感じる。
 秘密か、と心で呟いた。
 こんなふうに堂々と、秘密を宣言されたのは初めてだ。
(おもしろい)
 涼月はわずかに口角を上げる。
 なにやら愉快だった。
「君、ダンスはできる?」
 突然ダンスと言われて面食らったのか、顔を上げた伽夜は怪訝そうに「はい」とうなずく。
「どこで覚えた?」
「女学校の友人から教えてもらいました」
 鹿鳴館での舞踏会で、まともに踊れる女性は少ない。今のところ踊れるのは芸妓あがりか、海外での在住経験がある女性のみだ。
 念のためダンスを教えてくれたという友人の名を聞き納得した。その家なら知っている。夫人は留学の経験があり、ダンスが上手く英語やドイツ語も堪能な女性である。
「外国語は話せるか?」
「英語、ドイツ語は日常会話なら。フランス語も少し」
 涼月はうなずき立ち上がリ、壁際にある蓄音機に向かう。
「では、踊ってみよう」
◆二の巻

 邸の二階。自室に入った涼月は、窓際に立ち考え込んだ。
 ダンスのあと、伽夜がおずおずと声をかけてきたのである。
『実は、あともう一つ言って起きたいことが……』
 給金以外にも、なにか欲しいものでもあるのかと思ったが、そうではなかった。
 彼女は戸惑いながら前髪をずらして額を見せたのだ。
 額には不思議な痣があった。
 痣は、まるで紅梅が額に貼りついたような綺麗な形をしており、なんとなく痣に吸い寄せられるようにして、涼月は指先を伸ばした。
 するとみるみる薄くなり、痣は消えたのである。
(あの娘。もしかして、異能があるのか?)
 失礼しますと、黒木が入ってきた。

「黒木、彼女をどう思う?」
「おとなしい方ですね」
 印象はその通りなので、ひとまず涼月はうなづく。
「公爵家の令嬢にしては、荷物がほとんどないのが気になります」
 伽夜が大事そうに結び目を握っていた風呂敷包みを思い浮かべた。
 結婚前ゆえ嫁入り道具とはいかないまでも、長持のひとつぐらいは持ってくるかと思ったが、伽夜は小さな風呂敷包みひとつで来た。
「玉森公爵は、まるで突き返せといわんばかりのような態度でした。それも気になります」
 約束の時間に遅れた涼月が悪いのだが、当然公爵も待っていると思った。
 黒木には『粗相がありましたらいつでも帰してください』とにこやかに言ったという。娘へのいたわりはいっさい感じなかったらしい。
「ほかにもお嬢様を望む家があるとか。随分と強気なご様子で」
 公爵は結納金をあてにしているはずだが、好条件を提示されているということか。
「そうか。実は――」
 涼月は伽夜の発言を黒木にひと通り聞かせた。
「女中? 伽夜様ご本人が女中をすると?」
「ああそうだ」
 黒木も訳がわからないようだ。「それはいったい」と、考え込む。
「キクヱに確認してみるといい。伽夜の手は女中のように荒れている。体も痩せているし、化粧で誤魔化しているが顔色も悪い」
 ダンスを踊ったときに、涼月自身が感じた。
 伽夜の手は深層の令嬢にしては硬すぎる。例えば武道に通じた女性ならありえるが、彼女に武道の心得がない。
『女学校で少しだけ武道を習いました』
 彼女はそう言ったが、その程度で手が硬くはならない。
「思い詰めた様子だった」
「となると、家に帰るくらいなら女中になる道を選びたいと、いうわけですね」
 涼月は再びうなずいた。ほかの理由が想像できない。
「よほど帰りたくない事情があるんだろう」
 仲人役の男爵の家で、玉森公爵と一度会っている。
『外には出たがらない娘でして。おとなしいのが取り柄ですから、よく申しつけは聞きますのでご安心を』
 彼は言い訳のようにまくし立てていた。
 涼月には女姉妹がいないので、華族の令嬢との接点は限られている。舞踏会などに出てこなければ、どんな顔かもまったくわからない。
 皆が皆舞踏会が好きなわけではないから、伽夜について表立った情報が少ないとしても、別段不思議はなかった。
「少し調べましょうか?」
「ああ、頼む」

 黒木が部屋を出ると、涼月はあらためて庭園を見下ろした。
 涼月の書斎兼部屋は二階の南向き東南の角にあり、庭園のほぼ全体が見渡せる。
 窓枠に腰を下ろし、池を見つめながら考えた。
(無関心過ぎたか)
 深く溜め息をついた涼月は、にっこりと微笑む伽夜を思い浮かべた。
 彼女に対して嫌な印象は受けなかったが――。
 しかし「なぜ見えないのか」と、ひとりごちた。
 涼月の異能のひとつに、人の心の中を見るという力がある。
 高遠一族でも同じ異能を持つ者しか知らない、秘めた異能だ。
 なにかと便利だが、人の心を覗くのは気分のいいことではなく、疲労を伴うので、要所要所でしか使わない。
 それに、あえて覗こうとしなくても強い思いは身体全体から滲み出て見える。
 例えば玉森公爵のように強欲ならば、体をまとう欲望が見えるのだ。金が欲しい、女、宝石、もっともっと――。
 伽夜を纏う空気は静かで穏やかであり、滲み出る感情は見えなかった。
 そればかりか、彼女の心を覗こうとしたが、彼女の内面は明るい光に満ちているだけで、喜怒哀楽のどれも見えなかったのである。
 触れればなにか見えるかと思いダンスに誘ったが、やはりなにも見えなかった。
 こんなことは初めてだ。
 しかも結婚相手がそうだとは……。
 だが、不安は感じない。
 むしろ愉快に思ったくらいだ。

 伽夜の内面を満たすのは、邪悪なものを跳ね返すほどの眩しいほどの光だ。もし彼女に異能があるとしても、悪しきものではないだろう。
(ひとまずよく話を聞いてみるか……)
 できるだけ伽夜の願いを叶えてあげたいと思った。
 もし結婚が嫌だとしても、仮初めならどうか。
 後に離縁しても玉森家に帰らなくてもいいように、生活に困らない十分なだけの金を渡せば、彼女は望み通り夢に向かって進めるだろう。
 慰謝料のほかに高遠家所有の別荘を渡してもいい。浅草にこじんまりとしたちょうどいい家がある。伽夜が喜びそうな庭もあるから気に入るはずだ。
(たとえば一年)
 なぜ、心が見えないのか。伽夜に異能があるかどうかを含めて。祖母が玉森家にこだわった理由も、一年もあればわかるだろう。

***


 何事もなく十日が過ぎ。
 伽夜は高遠家の嫁として迎えられた。

 親族だけの祝言。と言っても高遠家からは、京都から一族の者がふたり出席したのみで、玉森家もそれに合わせて伽夜の叔父夫婦のみが出席しただけのこじんまりとした式である。
 涼月が伽夜に用意した白無垢は、高遠家に代々伝わる由緒ある着物らしく、裾に錦糸銀糸で不思議な柄が施されている美しい着物だった。

 緊張の三三九度が終わっても、無言のまま食事をするという気詰まりな時間が続いたが、伽夜以外の出席者はなんとも思っていないのか、黙々と食事をしている。
 式を執り行った部屋は、普段、食後にくつろぐ居間よりも西にあり、ひとりずつ膳が用意されてゆったりと座っているが、部屋の三分の一にも満たないという広い和室だ。

 障子は開け放たれていて、縁側の先の庭から風にそよぐ枝の音が聞こえてきた。
 鹿威しがカーンと響く。
 今日は天気がいい。明るい外に目を向ければ、コデマリの白い花とヤマブキの黄色い花が風に揺れる様が見えて、思わず頬が緩む。
 日を追う毎に、伽夜はますますこの庭が好きになっていく。
 朝露に濡れた様子は清々しく、昼は光を浴びて水面が煌めき、迫り出した桜の花びらが落ちて回る池。夜は夜で、石灯籠に火が入る夜とまったく別の顔を見せてくれる。
 夏になれば蛍が舞うという。
 どこか非現実を思わせる庭と、自分の置かれている今の状況は、似ているような気がする。
 こうして白無垢を着ていても、結婚するという実感はなく、今日という日も水面に浮かぶ陽炎のようだと思う。

 そっと隣にいる涼月を見た。
 彼は御膳に盃を手にしている。
 肩幅が広いので紋付袴がよく似合っているが、相変わらず目もとに仮面をつけている。
 仮面のせいで表情がわかりにくく、誤解されるのかもしれない。
 実はとても優しい人なのに。
 涼月じゃなければ、初日に追い出されていたと思う。
 萌子のように美しくもなく、不気味な痣に持参金なし。断られる理由ならいろいろ挙げられるのに、好かれる理由が思い浮かばなかったが、彼はダンスに価値を見いだしてくれたのだ。
(あん)のおかげね……)

 女学校の休み時間。リズムを口ずさみながら、親友の杏に教えてもらってふたりでよく踊った。
『杏、ダンスって楽しいのね』
『でしょう? 心がウキウキするの。私も大好きよ。伽夜も素敵なドレスを着て鹿鳴館で踊るときがくるわ』
 杏はそう言ったが、舞踏会なんて遠い夢の世界だと思っていた。
『西洋のお姫様みたいに?』
『そうよ。王子様と出会うの』
 夢のまた夢だ。そんな未来はこないとあきらめていたが、ただ踊るだけでよかった。クスクス笑い合って、踊っているときだけは夢をみられた。
 杏は小学校からの大事な親友である。
 卒業の少し前に『このハンドクリームとってもいいの。気に入っているのよ。たくさんもらったから伽夜にもあげるわ』と、クリームをたくさんくれた。
 そのクリームが手荒れに聞く高価な軟膏だと知ったのは新聞の広告を見たからだ。
 多分、彼女は伽夜を取り巻く環境の変化に気づいていたに違いない。
 新しい着物を着なくなり、お直しした継ぎはぎの着物になると、杏は裁縫が上手だと褒めてくれた。ブーツが切れていても、気づかぬふりをしてくれたのは彼女の優しさだ。
 女学校で杏と過ごす時間がなかったら、とっくに心が折れていたと思う。
 夢を見ることすらあきらめた一生を送っていたに違いない。
(明日ゆっくりと時間をかけて、杏に手紙を書こう)
 たくさんのお礼を込めて、今度、舞踏会で会いましょうと。
 自分にも王子様が現れたと言ったら、杏はとても喜んでくれるだろう。
 飛び跳ねるようにして喜ぶ彼女の姿を想像し、思わず顔が綻んだ。
(私の王子様は、とても優しい方よ)

 伽夜は、涼月とのダンスを思い起こした。
 緊張もあって上手には踊れなかった。脚がもつれて転びそうになったりして。てっきりがっかりされたと思ったのに、彼は微笑んで『上出来だ』と言ってくれたのだ。
『着物なのに無理をさせてしまったね』と優しい言葉もかけてくれた。
 噂ではとても冷酷な人だと聞いていたし、第一印象もそのように見えたが、話をしてみると違った。むしろ逆の印象である。

 つらつらと思ううち、会食に時間は過ぎ、形ばかりの挨拶をしてお開きになった。
「君は見送りはしなくていい」
「え、で、ですが、ひと言お礼を」
 叔父夫婦にいい思い出はないけれど、今回の縁談は叔父夫婦が進めてくれた。お礼かたがた見送りたいと思ったのに。
「お礼は朝言ったから十分だ。公爵とは話もあるし、君は休みなさい」
 そう言われては無理を言えず「はい」と引き下がった。
「伽夜様、ひとまずこちらにおかけください」
 キクヱに進められるまま、縁側に出て庭に面した椅子に腰を下ろし、ホッと息を吐く。
(仮初の妻とはいえ、本当に私は高遠伽夜になったのね)

 この結婚は、実は一年間という条件つきの結婚だ。
 涼月はゆっくりと話を聞いてくれたのである。
『話してくれないか? なんのためにお金が必要なのか』
 彼の低い声は、心を包み込むように響き、伽夜は聞かれるまま正直に答えた。
 自分には夢あり、叶えるために自由の身になりたいのだと。
『雲を掴むような夢ですが……。一生をかけてでも叶えたいんです』
 夢の内容までは言えなかったが、お金はひとまず自立のために使いたいと答えた。
 いろいろと話すなかで、涼月が提案してきた。
『ひとまず一年、妻として暮らしてみないか?』
 それこそ夢のような提案だった。
『たとえ一年でも舞踏会でダンスを踊ってくれる妻がいてくれると助かる。君のように外国語もダンスもできる女性はなかなかいないんだ』
 伽夜は女学校での成績はよかった。
 涼月の話によると、ダンスを踊れる貴族女性は少ないらしい。
 考えてみれば、女学校でも授業でダンスは教えてくれなかった。杏は卒業後に就職するという近代的な女性だが、ほかの生徒たちは社交ダンスを恥ずかしいと躊躇っていた。
『男性と手を繋ぐなんて嫌だわ』
 確かに叔母は踊れないし、萌子は踊れるが語学はできない。
 それに、一年あれば色々と考えられるし、玉森とも縁が切れる。
 女中ではないから叔父夫婦からの苦情の心配もないし、一年かけて仕事先を見つければいい。
 高遠家に迷惑をかけずに済むのだ。

(一年間、妻として精一杯がんばらなきゃ)
 語学の勉強を続けようと決意したそのとき、ふいに部屋の隅の方から、キャッキャと声がした。
 女性の声にも聞こえるが人とは違う声の響きに、ああまたかと思う。
 今朝、この衣装を身につけて奥の間でひとりになったときも、不思議な声を耳にした。
『ほぉ、馬子にも衣装じゃの』
 振り返っても人はおらず、大きな壺があるだけ。
 すると、今度は別の方角から違う声がした。
『この 女子(おなご) 、いろんな匂いがするな。狐に、鬼?』
 そこには棚があり、歴史のありそうな花器や茶碗などが並んでいた。どう考えても人が入り込む隙間はない。
 伽夜はたまらず『どなた?』と誰にともなく声をかけた。
『ほぉ、やはり聞こえるか』
『ええ、聞こえます』と答えた。
 不思議ではあったが、怖くはなかった。
 高遠家は不思議な力があるというから、こんなこともあるのだろうと思っただけだ。
『伽夜と申します。これからよろしくお願いします』
 立ち上がり、壺と棚に向かって頭を下げた。
 そのときも今聞こえたような笑い声がしたのである。
(やっぱり、あやかしなのかしら。姿は見えないけれど)
 そういえば、彼の異能についてもわからないままだ。
 あやかしと関係があるのかしら……。
 などと思いつつ首を傾げていると、扉が開く音がした。
「伽夜」
 振り返ると、涼月がいた。

 見送りが済んだらしい。
 あらためて見る花婿姿の彼はとても素敵だ。背が高くて脚が長く、肩幅も広いから洋装も和装も本当によく似合う。
 今日からこの人が自分の夫なのだと思うと、狐に摘ままれたような気持ちだった。
 この邸にいるあやかしが幻でも見せているのかと思うほど。
「君は白無垢がよく似合うな」
 にっこりと涼月が微笑んだ。
(あっ……)
 まさかの褒め言葉に心が跳ねる。

 今日までの十日、彼とは滅多に顔を合わせなかった。
 食事を同席したのも数える程度しかなく、やはり気が変わって追い出されてしまうのかと、ずっと不安だったくらいだ。
 今朝、白無垢姿で涼月に挨拶をしたときも『今日はよろしく』と言われただけだったのに。

「疲れただろう?」
「い、いえ」
「お腹空いただろう。着替えが済んだら、食事を済ませるといい」
「はい」
 それだけ言うと、涼月は背を向けて行ってしまったが、伽夜の心はじんわりと温かくなる。

 彼は気づいてくれていたのだ。
 式の最中、緊張で喉を通らないのもあったが、白無垢では上手く手が伸ばせない。それに、万が一にも着物を汚してはいけないと、いっさい箸を伸ばさなかった。
(ありがとうございます。涼月様こそ。紋付袴がすごく似合ってますよ)
 扉の向こうに消えた涼月に心の中で呟くと、入れ替わるようにキクヱが顔を出した。
「伽夜さま、まるでお人形のようにお美しいですよ」
 にこにこと微笑む彼女はこの家の女中頭だ。
「ありがとうございます」
「私などに敬語はおやめくださいませ。今日から正式に、伽夜さまはこのお邸の女主人なのですから」
 キクヱは「礼なら、ありがとうで十分うれしいです」と言う。
 涼月から、一年という約束はふたりだけの秘密だと言われているから、キクヱも本当の妻だと思って接してくれる。それが心苦しく、戸惑ってしまう。
「まだまだ素敵な白無垢姿を見ていたいところですが、着替えましょうか」
「はい」
 白無垢は普段の着物と違って、自分ひとりでは脱ぎ着ができない。奥の間に行き、使用人たちに手伝ってもらいながら着替えるのだ。

「さあ、こちらへどうぞ」
 齢五十になると思われる彼女は、着物の袖をたすき掛けにして、てきぱきと動く。
「今日は洋装になさいますか?」
「えっ、で、でも私……」
 伽夜は洋装をしたことがない。
 ここに来てからもずっと着物を着ていた。
 それに洋装というのは、現代的な働く女性か着るか、舞踏会など宴に呼ばれたときに着るドレスだけだと思っていた。
 困っていると、キクヱがにっこりと微笑む。
「軽くて楽ですよ? 普段から着慣れておかないと、いざというときにお困りになるでしょうから」
「あ、そ、そうですね」
 言われてみればその通り、家で戸惑う分にはいいが涼月に恥をかかせたのでは申し訳ない。
「急いでお作りしましたので、お体に合うかどうか」
 聞けば、見よう見まねでキクヱや女中たちで縫い作ったワンピースというものらしい。
「舞踏会にお召しになるドレスは、ギュッとお腹を締めて、腰にバッスルというふっくらした裳のようなものもつけるので動きづらいですが」
 洋装を着せながら、キクヱはひとつひとつ丁寧に教えてくれる。
 着慣れない洋装だが、実際に着てみると、着物のように袖が邪魔にならず、動きやすかった。
 春らしい白と濃淡がついた桜色の服で、胸元に大きいリボンが一つ、その下にもいくつか並んでいるリボンがかわいい。
「まあお似合いです」
「ありがとう」

 キクヱはなにかにつけて褒める。
 その度に伽夜は祖母を思い出す。祖母も『伽夜はおりこうね』『伽夜は美人さんね』とよく褒めてくれた。
「ドレスに慣れるよう裾は長めにしてありますから、階段に気をつけてくださいね」
「はい」
 裾の長い洋装は階段の上り下りに気をつけないと、裾を踏みそうになってしまう。そっとスカートを摘んで、そろりそろりと降りる。
 途中クゥーッとお腹が鳴り、伽夜は慌ててお腹に手をあて頬を染めた。
 幸い聞こえる位置に人はいない。ホッとしてまた歩を進める。
 高遠家に来てから、一番の楽しみは食事だ。
 見た目も手が込んでいて、なにを食べても美味しい。式で出された食事も、鯛の焼き物のほか、お肉料理もあって、美味しそうなのに食べられないのが残念だったのだ。
 伽夜は自分が食が細いのだと、この家にきて初めて自覚した。
『伽夜様、食事は健康のもとです。ゆっくりでいいですから少しずつ食べる量を増やしましょうね』
 キクヱに言われたことを思い浮かべながら扉を開けると、食事の席には涼月がいた。
 顔を上げた彼が新聞を畳むと、キクヱがそれを受け取る。
「来たか」
「あの、もしかしてご一緒に?」
 時刻はすでに午後の二時。
「仏頂面を前にして、食べた気がしなかったからね」
 涼月は薄く笑みを浮かべる。
「食べながら、今日はゆっくり話をしよう」
「あ、はい」
 よかったと胸が弾む。もしかしたら今日も、もう顔を合わせないかと思っていたから。

 涼月も洋装に着替えていた。
 長い脚にはパンツがぴったりだし、袖がたっぷりとした白いシャツがよく似合っている。髪の色も明るく瞳の色が黒ではないせいか、海外も物語に出てくる王子様のようだ。
 緊張を胸に、背筋を伸ばして椅子に浅く腰を下ろすと間もなく、食事が運ばれてきた。
 おそらく気軽に食べられるようにとの配慮だろう。ひと口の大きさに整えられた卵焼きやお肉など、重箱の中に詰めてある。
「この数日はなにを?」
「はい。お裁縫をしたり、茶道のお稽古をして過ごしておりました」

 本当は自分の部屋の掃除など、身の回りだけでも自分でしたいと思っていた。
 でも、キクヱに止められ、これならばと渡されたのが裁縫だったのだ。裁縫と言っても刺繍である。できあがっていくにつれ楽しくて夢中になってしまう。
「裁縫は楽しいか?」
 思わずフッと笑ったのを見られたらしい。
「はい。とても楽しいです」
 伽夜は恥ずかしそうに頬を染める。

「あの……。ありがとうございます」
「ん?」
 呉服屋が来て着物をたくさん作り、本屋が来て本もたくさん買ってもらった。キクヱの話によれば、服も本も、最低でも十は買うように涼月から指示されたとか。
「着物も本も、たくさん買いました」
 ここ数日は、毎日訪れてくる様々な御用聞きを相手に、買い物に明け暮れるような日々だったのである。

「今後も定期的に買うといい。好きなものを好きなだけ」
 伽夜は目を丸くした。
(えっ、好きなだけ?)
「君は公爵夫人なんだ」
「あ、は、はい……」

「贅沢を覚えるのも仕事のうちだと思えばいい」
 わかりましたと答えたものの、伽夜からすれば、すでに贅沢な毎日だ。贅沢を覚えるにはなにをすればいいのか。
 唖然とする伽夜を尻目に、涼月は食事を始める。
 伽夜も考えるのをやめ、箸を進めることにした。
 鮑に鯛。赤い伊勢海老。いつも以上に、目を見張るほど豪華だ。せめて残さないで食べるのが自分にできるお礼だと思い、味わいながら飲み込んでいく。
 口の中には旨味が広がり、胸は幸福感でいっぱいになる。
(美味しい料理って、人を幸せにするのね)
 思わず頷いていると、クスッと笑う声がした。
 顔を上げると涼月が見ている。

「美味しそうに食べるね」
 火がついたように赤くなり、慌てて頬に手をあてた。
「と、とても美味しくて」
「それはよかった。料理人が喜ぶな」
「毎日が驚きです。本当に素晴らしいです」
 今は和食だが、シチューのような洋食のときもある。肉を食べる習慣がなかったので、恐る恐る食べたビーフシチューの美味しさは忘れられない。
 伽夜はもとから粗末な食事だったが、叔父たちもここまで豪華な食事はしていないだろう。
「たくさん食べるといい」
「はい。ありがとうございます」
 ありがとうは余計だと涼月が笑った。
「君はもう、この家の女主人だ」

 彼は仮初めの妻にも、女主人の権限を与えてくれるのだろうか。
 戸惑いながら、伽夜はあらためて礼を言った。
「白無垢。とても、うれしかったです」
 キクヱから高遠家に代々伝わる白無垢だと聞いた。
 形ばかりの花嫁なのに、大切な着物を着させてくれたのだ。
「当然だよ。高遠家の花嫁なんだから」
 申し訳なくて、瞼を伏せる。
 本当は父親が誰かもわからない半端ものだというのに、彼は知らない。
 額の痣は告白したが、出生の秘密は隠したままだ。
 一年後、この家をでるときにすべてを話して謝ろうと思っているが、本来ならたとえ一年でも妻になる資格はない。
 罪悪感に苛まれながら、最後の葛きりに箸を伸ばすと、甘いはずの黒蜜が苦く感じた。

「気づいたと思うが、我が家は人手が足りない。そこで君に頼みがあるんだが」
 ハッとした。家事を手伝って欲しいと頼まれるに違いないと。
 仕事がある方が気が楽である。思わず笑顔になる。
「はい、なんなりとおっしゃってください」

「誰か、君が信用できる者はいないか?」
 思いがけない質問に伽夜は首を傾げた。
「信用できる人? えっと。使用人、ですか?」
 涼月はうなずく。
「少なくともふたりほど欲しい。邸の中の仕事をする女中と、外の仕事をする下男」

 予想外の頼みだった。
「えっと、私がお手伝いしますが」
「君の仕事は女主人という立場に慣れることだ」
 しゅんとする伽夜に涼月は優しく声をかける。

「玉森家で君の身の回りの世話をしていた女中は? 一緒に来るかと思ったのだが」
 あ、そうかと言っている意味がわかり、伽夜は瞳を揺らして伏せた。
 公爵令嬢なら普通は専属の女中がいる。萌子にもいた。どの女中も長続きはしなかったが。
 涼月は伽夜にも当然、女中がいたと思っているのだろう。

「わ、私は、変わり者でしたから……」
 玉森家で虐げられていたとは言えない。
 叔父にも叔母からも、余計なことを言うなと釘を刺されているし、もしそんな話が漏れ聞こえてきたときは、今いる使用人を全員クビにすると言い渡された。
 さりとて上手く嘘をつける自信もなく、視線を落としたまま再び葛きりに手を伸ばす。
 なにかを食べている間は返事をせずに済む。

「フミという女中はどうだった? 最近玉森家を辞めたらしいのだが」
 フミと聞いて、伽夜は慌てて葛きりを飲み込んだ。
「ど、どうしてですか? フミはどうして」
「伽夜? 落ち着いて」

 驚きのあまり腰を浮かせていた。
「あ、すみません」
 落ち着いてはいられないが、腰を沈め、水をひと口飲む。
「フミはよい女中だったのか?」
「はい、もちろんです。私は姉のように彼女を慕っておりました。優しくて働き者で――。でも、なぜでしょう。フミは母親が病気だから働かなきゃいけないのに」

 フミは女中の仕事が好きだと言っていた。
(自分から辞めるはずはないわ)
 叔母にいわれのない折檻をされても『先代の奥様へのご恩がありますから』と無理をしてでも明るく笑った。
 伽夜がこの家に来てすぐ、泥で汚れ洗った祖母の形見の着物を、乾かして届けてくるたのだ。
 そのときもなにも言っていなかった。
『伽夜さま、お幸せそうで良かったです』
 新しい着物を着て使用人に大事にされている様子に、フミは涙を流して喜んでくれた。

 フミも他家で働いた方がいいと勧めたかったが、女中が他家の女中になる場合は、もとの家の主人からの紹介状か、もしくは問い合わせがある。叔父夫婦が快く書いてくれるとも思えず、伽夜はただ慰めるしかできなかった。
 この十日あまりの間になにがあったのか。
 伽夜は叔父夫婦に約束した通り、玉森家について悪い話は言っていない。娘ではないことも、女中のように働いていたことも秘密にしているのに。

 それに今日、叔父夫婦の様子は変わりなかったと思う。
 心配だ。フミの母になにかあったのだろうかと気を揉み、膝の上で手を握りしめる。
 これからフミの家に様子見に行きたいと言ったらまずいだろうか。
 思いあぐねて顔を上げると、涼月がにっこりと微笑む。

「うちに来てもらったらどうだろう?」
 聞き違いかと思った。
「え? フミを、こちらの女中に、していただけるのですか?」
 涼月は大きくうなずく。
「君がいい人だというなら安心だ」
「あ、ありがとうございます。フミはとてもいい女中です。一生懸命働いてくれます」
 伽夜はたまらず涙を浮かべた。