◆二の巻

 邸の二階。自室に入った涼月は、窓際に立ち考え込んだ。
 ダンスのあと、伽夜がおずおずと声をかけてきたのである。
『実は、あともう一つ言って起きたいことが……』
 給金以外にも、なにか欲しいものでもあるのかと思ったが、そうではなかった。
 彼女は戸惑いながら前髪をずらして額を見せたのだ。
 額には不思議な痣があった。
 痣は、まるで紅梅が額に貼りついたような綺麗な形をしており、なんとなく痣に吸い寄せられるようにして、涼月は指先を伸ばした。
 するとみるみる薄くなり、痣は消えたのである。
(あの娘。もしかして、異能があるのか?)
 失礼しますと、黒木が入ってきた。

「黒木、彼女をどう思う?」
「おとなしい方ですね」
 印象はその通りなので、ひとまず涼月はうなづく。
「公爵家の令嬢にしては、荷物がほとんどないのが気になります」
 伽夜が大事そうに結び目を握っていた風呂敷包みを思い浮かべた。
 結婚前ゆえ嫁入り道具とはいかないまでも、長持のひとつぐらいは持ってくるかと思ったが、伽夜は小さな風呂敷包みひとつで来た。
「玉森公爵は、まるで突き返せといわんばかりのような態度でした。それも気になります」
 約束の時間に遅れた涼月が悪いのだが、当然公爵も待っていると思った。
 黒木には『粗相がありましたらいつでも帰してください』とにこやかに言ったという。娘へのいたわりはいっさい感じなかったらしい。
「ほかにもお嬢様を望む家があるとか。随分と強気なご様子で」
 公爵は結納金をあてにしているはずだが、好条件を提示されているということか。
「そうか。実は――」
 涼月は伽夜の発言を黒木にひと通り聞かせた。
「女中? 伽夜様ご本人が女中をすると?」
「ああそうだ」
 黒木も訳がわからないようだ。「それはいったい」と、考え込む。
「キクヱに確認してみるといい。伽夜の手は女中のように荒れている。体も痩せているし、化粧で誤魔化しているが顔色も悪い」
 ダンスを踊ったときに、涼月自身が感じた。
 伽夜の手は深層の令嬢にしては硬すぎる。例えば武道に通じた女性ならありえるが、彼女に武道の心得がない。
『女学校で少しだけ武道を習いました』
 彼女はそう言ったが、その程度で手が硬くはならない。
「思い詰めた様子だった」
「となると、家に帰るくらいなら女中になる道を選びたいと、いうわけですね」
 涼月は再びうなずいた。ほかの理由が想像できない。
「よほど帰りたくない事情があるんだろう」
 仲人役の男爵の家で、玉森公爵と一度会っている。
『外には出たがらない娘でして。おとなしいのが取り柄ですから、よく申しつけは聞きますのでご安心を』
 彼は言い訳のようにまくし立てていた。
 涼月には女姉妹がいないので、華族の令嬢との接点は限られている。舞踏会などに出てこなければ、どんな顔かもまったくわからない。
 皆が皆舞踏会が好きなわけではないから、伽夜について表立った情報が少ないとしても、別段不思議はなかった。
「少し調べましょうか?」
「ああ、頼む」

 黒木が部屋を出ると、涼月はあらためて庭園を見下ろした。
 涼月の書斎兼部屋は二階の南向き東南の角にあり、庭園のほぼ全体が見渡せる。
 窓枠に腰を下ろし、池を見つめながら考えた。
(無関心過ぎたか)
 深く溜め息をついた涼月は、にっこりと微笑む伽夜を思い浮かべた。
 彼女に対して嫌な印象は受けなかったが――。
 しかし「なぜ見えないのか」と、ひとりごちた。
 涼月の異能のひとつに、人の心の中を見るという力がある。
 高遠一族でも同じ異能を持つ者しか知らない、秘めた異能だ。
 なにかと便利だが、人の心を覗くのは気分のいいことではなく、疲労を伴うので、要所要所でしか使わない。
 それに、あえて覗こうとしなくても強い思いは身体全体から滲み出て見える。
 例えば玉森公爵のように強欲ならば、体をまとう欲望が見えるのだ。金が欲しい、女、宝石、もっともっと――。
 伽夜を纏う空気は静かで穏やかであり、滲み出る感情は見えなかった。
 そればかりか、彼女の心を覗こうとしたが、彼女の内面は明るい光に満ちているだけで、喜怒哀楽のどれも見えなかったのである。
 触れればなにか見えるかと思いダンスに誘ったが、やはりなにも見えなかった。
 こんなことは初めてだ。
 しかも結婚相手がそうだとは……。
 だが、不安は感じない。
 むしろ愉快に思ったくらいだ。

 伽夜の内面を満たすのは、邪悪なものを跳ね返すほどの眩しいほどの光だ。もし彼女に異能があるとしても、悪しきものではないだろう。
(ひとまずよく話を聞いてみるか……)
 できるだけ伽夜の願いを叶えてあげたいと思った。
 もし結婚が嫌だとしても、仮初めならどうか。
 後に離縁しても玉森家に帰らなくてもいいように、生活に困らない十分なだけの金を渡せば、彼女は望み通り夢に向かって進めるだろう。
 慰謝料のほかに高遠家所有の別荘を渡してもいい。浅草にこじんまりとしたちょうどいい家がある。伽夜が喜びそうな庭もあるから気に入るはずだ。
(たとえば一年)
 なぜ、心が見えないのか。伽夜に異能があるかどうかを含めて。祖母が玉森家にこだわった理由も、一年もあればわかるだろう。