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(さて、どうしたものか……)
 高遠涼月は内ポケットから懐中時計を取り出した。
 春のうららかな日差しを浴びて、手にした時計がキラリと光る。
 柱時計と懐中時計の時刻を合わせ見れば、午前十一時十分。どちらもまったく同じ時刻。遅くとも十時半には来るとわかっていたから、四十分近く待たせてしまったようだ。
 喉を潤してから謝ろうと思ったが、その隙もない。
 ひと口飲んだコーヒーをテーブルに置き、小さく溜め息をつく。
 気を取り直して顔を上げた先、テーブルを挟んで向かいの席にいるのは、玉森家の令嬢、玉森伽夜、十七歳。
『申し訳ございません。――秘密でございます』
 そう言ったまま彼女は行儀良く三つ指を揃え、ずっと頭を下げている。
(はぁ……)
 密かに溜め息をつき、涼月は彼女を観察した。
 公爵家の令嬢らしく美しい着物を着て、髪の上半分をふっくらと後ろで結い、大きなリボンをつけている。女学校を卒業したばかりの彼女は前髪を下ろしているせいか、少女のような幼さが残って見えた。
 とはいえ、帝国の決まりで女性は十六になれば結婚できる。十分大人だ。
 十日ほどここで生活し、問題なければ結婚する約束になっているが……。
 挨拶もそこそこに、彼女は思いがけないことを言った。
『お願いがございます。嫁が無理でしたら、使用人で構いません。私を雇っていただけませんでしょうか』
 涼月は仮面の奥で眉を顰め、涼しげな目を怪訝そうに細めて考えた。
 聞き違いだったのかもしれないと思い。『給金?』と聞き返したが、彼女は働きに見合う額でいいと答えたのだから、勘違いではないのだろう。
「女中と同じように、か?」
 確認のために聞いた。
「はい」
 顔を上げた伽夜は、真剣な目をして真っ直ぐ涼月を見つ返してくる。
 見たところ、ごく普通の令嬢に見えるし、言葉遣いも仕草も様子もなんら変わったところはない。
 さて困った。
 この縁談はただ舞い込んだわけではない。
 ひと月ほど前、昨年亡くなった祖母の遺品から手紙が出てきた。
【涼月、玉森家の娘を嫁にもらいなさい】
 玉森家も、高遠家のように異能を持つ一族と言われているが、最近は分家を含めそんな話は聞こえてこない。
 半世紀前までは、玉森家に限らず、人前でも異能を見せる華族は十を超えた。
 だが、現在はまったく聞かない。
 異能が必要なくなるほど便利な世の中になったのもあるが――。

 最大の理由は五十年ほどの前の事件だ。
 日本橋で血がカラカラに抜けた若い女の遺骸が、河原に放置されるるという事件が続いた。
 犯人は 不知火(しらぬい)侯爵。鬼の末裔で人を幻惑する異能をもった男だった。
 男の家からは若い女の血を溜めた風呂があったという。
 侯爵は死刑。不知火家は官位を剥奪されたが、その事件を機に、異能に対する世間の目が変わった。西洋の魔女狩りのように、屋敷には石が投げ込まれ、駕籠が襲われて中にいた華族の令嬢が撲殺される事件が起きた。
 犯人はごく平凡な庶民。娘を不知火侯爵に殺された父親で、世間は犯人のほうに同情した。
 以来、多くの家では異能を封印し、異能のない者が家長になるなどして、平和に生きる道を選んだのである。
 高遠家の異能は、あやかしの力を封じる異能であるため事なきを得たが、玉森家はあやかしを見知し会話を交わすという異能であったため、世間の目は厳しかったはず。
 そんな事情ゆえ、異能を封印したのだろう。

 いずれにせよ現在の玉森公爵に異能の気配はまったくない。
 高遠家では金融業を営んでいるため、彼らの懐事情には詳しく、手に取るようにわかっている。
 玉森公爵は金遣いが荒く、そのくせ働くという概念がないようで、財産は減る一方だ。広大な土地を持っていたはずだが、彼らの代になり早くも半分近く失っている。
 ある意味人間らしい俗物だといえる。
 異能がある者はくだらぬ欲に流されはしない。玉森公爵にもいくらかでも異能があれば、そこまで落ちぶれなかっただろう。
 だが、涼月はさほど気に留めなかった。
 華族の結婚は家同士のものであり、自由な恋愛による結婚は 野合(やごう)として侮蔑される世である。涼月自身、恋愛に興味もなく、祖母の遺言に従うだけだ。
 遺言をもとに、仲介人を立て玉森家に縁談をもちかけた。
 当初、嫁になる娘は萌子だとばかり思っていた。
 というのも、舞踏会で見かける玉森家の娘は萌子だけだった。
 萌子という娘は公爵家自慢の娘らしく、華やかで男たちに人気があった。玉森萌子と聞けば女性に興味のない涼月でさえその名を知っていたほど有名である。
 公爵家に娘がもうひとりいると知ったのは、仲介人を通してだ。
『伽夜様とおっしゃるお嬢様です。人見知りが強く邸に引きこもっておいでのようですが、女学校にも通いひととおりの教育は受けているそうですので、公爵家の嫁として問題はないかと……』
 仲介に入った男爵は、心苦しそうにそう言った。
 玉森家の血を引く娘であれば、涼月としてはなんの問題もない。迎えるのは伽夜と決まったのである。

 そして、迎えた今日。
 目の前にいるのは玉森伽夜だ。
 伽夜は華やかな萌子とは似ても似つかない。むしろ真逆という第一印象である。
 萌子は原色の薔薇のようにはっきりとした目鼻立ちだが、伽夜は可憐な娘だ。
 穏やかな目もと。高くはないが形のいい鼻。微笑みを浮かべた頬と小さな唇。透けるように白い肌。細い首から察するに痩せているようだが、庭に咲く桔梗のように凛とした美しい娘である。
 薄い水色の着物は先代から伝わる品なのか、歴史と伝統を感じさせた。
 最近の流行りである派手な色でなく、古典的だが随所に刺繍が施されている上質な着物であり、彼女のように初々しい娘によく似合っている。
 涼月は並外れて記憶力がいい。ひと目でも見ていれば覚えがありそうなのに、目にした記憶はなかった。
 たおやかな美人ゆえ噂のひとつもあってよさそうだが、名前も耳にしたことがないので、おそらく彼女は一度も表に出てきていないのだろう。
 いろいろと変だ。
 仲介人は人見知りが強い娘だと言っていたが、それにしてはしっかりとしているように見える。
(給金とはな)
 良家の令嬢の嗜みとして、金を口にするのは下品とされる。
 金というのは、湯水のようにどこからか自然に湧いてくるものと信じて疑わない。良くも悪くもそれが涼月の知る深窓の令嬢だ。
 金銭的に落ちぶれてきたとはいえ、仮にも公爵家の娘が、金を口にするとは。
 うつむいているゆえに表情が見えないが、いったいどんな顔をして、給金などと言いだしたのか、ふつふつと興味が湧いた。
「ひとまず座って」
「はい……」
 涼月はあらためて伽夜をしげしげと見た。
 ゆっくりと椅子に腰を下ろし顔を上げた彼女は、臆する様子も見せず、まっすぐ涼月の瞳を見返す。
 どこまでも真剣に訴える目だ。
「どうかお願いいたします」
 再び頭を下げる様子から深刻さが伺える。
 さてどうしたものか。
 高遠の屋敷は大きく広い。部屋数も物置部屋を除いても両手両足の指に余るほどあるし、敷地は広く、庭園があり、入り口はさらにそのずっと先。二階南側の部屋から見渡しても門が見えないほど遠い。
 住み込みの使用人は男十人。女が十五人。母屋の西には使用人用の建物もあり、部屋は余っている。
 通いの使用人も入れると三十人。それでも屋敷の構えにしては少ない方だが、信用できる者しか近くに置きたくない。いくらか人数を増やしてほしいと執事に言われてはいるが、だからといって話は別である。
 玉森公爵家の令嬢を女中にできるわけがない。
 わかっているだろうに、なんの気まぐれか。
 伽夜の目的がわからないので、涼月はひとまず話を合わせた。
「それで、君はなにができる?」
「掃除、洗濯、お裁縫。お料理もいくらかは」
 より一層ジッと伽夜を見つめ、なるほど、と目を閉じる。
 自信があるところをみると経験があるのだろう。
 深窓の令嬢にはありえない話だが、玉森家の教育方針なのか。
 しばし考えこみ、ゆっくり瞼を上げると伽夜と目が合った。彼女は相変わらず真っ直ぐに見つめ返してくる。
 純粋な瞳で――。
「金の使い道は、言えないのだな?」
「はい。申し訳ございません」
 項垂れて、消え入りそうな声だが、しっかりとした意志を感じる。
 秘密か、と心で呟いた。
 こんなふうに堂々と、秘密を宣言されたのは初めてだ。
(おもしろい)
 涼月はわずかに口角を上げる。
 なにやら愉快だった。
「君、ダンスはできる?」
 突然ダンスと言われて面食らったのか、顔を上げた伽夜は怪訝そうに「はい」とうなずく。
「どこで覚えた?」
「女学校の友人から教えてもらいました」
 鹿鳴館での舞踏会で、まともに踊れる女性は少ない。今のところ踊れるのは芸妓あがりか、海外での在住経験がある女性のみだ。
 念のためダンスを教えてくれたという友人の名を聞き納得した。その家なら知っている。夫人は留学の経験があり、ダンスが上手く英語やドイツ語も堪能な女性である。
「外国語は話せるか?」
「英語、ドイツ語は日常会話なら。フランス語も少し」
 涼月はうなずき立ち上がリ、壁際にある蓄音機に向かう。
「では、踊ってみよう」