***

 目が覚めて、最初に伽夜の目に映ったのは、涼月の心配そうな顔だった。
「私……」
「君の父上がここまで送ってくれた」
 ととさまが? と慌てて起き上がろうとして止められた。
「少し休んだ方がいい。急な移動に体が驚いているはずだ」
「はい」
 夢ではなかったのかと、重たい頭で考える。
 最後の記憶は『さあ行くぞ』と手を引かれ『このままでは――』と言う途中で、ふわりと抱き上げられた感覚の中で気を失っていった。
「あの、父は?」
「夜明け前に帰られた」
 鬼は明るい光を嫌う。
 もう少し話をしたかった。いろいろ聞きたかったのに、いざとなるとなにも聞けなかったような気がする。
 それでも父との記憶は取り戻せた。
 楽しそうな母と力強くて頼もしい父。鬼やあやかしが家に遊びにきて伽夜はよく河童の子どもと遊んだ。
 楽しかった日々。
 視界が涙で歪むと。涼月が伽夜も手を握った。
「ごめんなさい。でも、ここに帰るつもりだったの」
 どうしてここに涼月がいるのかわからないが、彼の話から察するに彼は酒呑童子と会ったのだろう。
「いいんだ。無事でよかった」
 ふと、枕元にある扇子が目についた。
 手を伸ばすと「それは?」と聞かれ、父にもらったのだと答えた。
「私以外の者にはとても重たいそうです」
 伽夜には箸のように軽く感じられる。
「持ってみますか?」
「ああ」
 繋いでいた手を外し、涼月の手に乗せると彼も手はベッドに落ちる。
「本当だ。これは相当重たい」
 彼はあらためて扇子を持ち上げるが手に力を込めているようだった。
「少なくとも普通の人間では持てない」
「この扇子を高く掲げて念を込めると、父が駆けつけてくれるそうです」
「ほぉ」
 今すぐに使ってみたい。
 もっともっと一緒にいたかった。
 それでも父は鬼だ。涼月の敵である。
 溢れる思いが涙になって溢れてくる。
 止められず両手で目元を覆った。

「君の父上は最強の鬼だが、人に悪さはしない。最強といわれる理由は人に対してではなくあやかし界でのこと」
 伽夜が顔を上げると、涙を拭い、涼月は頬に口づけをする。
「鬼は鬼だが山にいる鬼と、市中に出回る鬼は違う。酒呑童子は山にいる」
「父は、悪鬼ではないのですね」
 涼月は「もちろんだ」と、うなずく。
「伽夜、すまなかった」
 涼月は肩を落としてうなだれる。
(えっ?)
「自分が情けない」
 そういえば彼が謝っていたと付喪神が言っていたのを思い出し、慌てて起き上がって彼の腕を掴んだ。

「どうして謝るのですか? 涼月さんには感謝こそすれ、なにも」
 涼月は伽夜の腕を解き、そのまま伽夜を抱きしめた。
「君の気持ちを思いやれない自分が歯痒いんだ。すまない」
「そんな。私こそごめんなさい」
 なにも言えずにいた。
 こんなふうに心配してくれるとは思わなかったから。
「私――」
 たとえ狐で鬼の娘でも。長く一緒にいられなくても。
 どれほど涼月を想っているか、それだけは伝えておこうと思い口を開くと。
「伽夜、俺はお前が好きだ」
 先に涼月がそう言った。
 唖然とする伽夜の髪に涼月は頬擦りをする。
 今、彼は何と言ったのか。
 驚きのあまり息を呑んだ。胸は高鳴り、耳を疑う。
「この気持ちをどう伝えていいかわからない」
 ゆっくりと体を離した涼月は、伽夜の頬を両手で包む。
「夕べ、伽夜の部屋から綱が降りていると気づいたとき、心臓が止まるかと思った」
「そんな……」
 帰るつもりでいたし、見つかった場合は考えないようにしていたのだ。
 考えてしまうと行動できなかったから。
「君がなにに悩んでいるのか。頼むから教えてくれないか。一緒に悩ませてくれ」
「涼月様も私に教えてくれますか?」
 うなずいた彼に伽夜もこくりとうなずき返す。
「私はあなたの重荷になっていませんか?」
 自分が鬼の娘であり、それを知っている人もいる。もし世間に知られてしまったら高貴な高遠家に傷がついてしまうと告げた。
「鬼の娘で狐の私が高遠家にいるわけにはいきません」
 真剣に訴えた。
「私はこの家を守りたいんです」
 あなたが私を好いてくれる以上に何倍も私はあなたが好きだからと、心で続ける。
「伽夜。俺は天狗の血を引いているんだよ。陰陽師の血だけじゃない。大天狗の末裔でもある。しかも伽夜以上にあやかしの血の方が濃い」
 人の心を読めて、やろうと思えば心を操る力もあると教えてくれた。
 悪鬼を消すだけが力ではないのだと。
「俺のすべてを知るものは一族の者しかいない。黒木はある程度知っているが、それだけだ。キクヱも知らない。悪鬼を倒しあやかしの力を封じる陰陽師だと彼らは思っている。読心術については気分のいいものではないし、滅多に使いはしないが」
 本人にとっては残酷な異能だと、伽夜は思う。
 人の心は、美徳よりも醜さの方が際立つはず。
 自分を振り返ってみてもそうだ。
 玉森にいた頃は、どうして辛くあたるの?どうして酷い物言いをするの?どうしてどうしてと叔父一家に対する不満や悲しみばかりだったから。
 知りたくもない自分への憎悪も目にするかもしれない。強い心を持っていなければ、闇に引きずられるだろう。
 そういえばとふと思う。
 心も読まれていたから、昨夜の外出もわかってしまったのかと。
 ならばもう隠す必要がない。
「この家に来てすぐドレスを作りに行ったとき、萌子に会って、三月のうちに離縁しなければ、私が鬼の娘だと世間に公表すると言われました。舞踏会で萌子の憎悪に満ちた目を見て、もうダメだと、どうしようもなくて」
 彼の目には萌子に対する恐怖やどうしようもない不安がみえていたはずだ。

「そうだったのか」
 初めて知ったような響きに不思議に思い、首を傾げた。
 あの日以来ずっと萌子に言われた言葉が頭から離れなかった。少しでも心を読めばわかっていただろうに。
「伽夜。君の心だけは見えないんだ」
「え? そう、なのですか?」
 嘘をつくとも思えず、混乱する。
「何度も覗こうとしたが、どうしても読めない。伽夜だけなんだ」
「私が、鬼の娘だからなんでしょうか。それとも狐だから?」
「どうだろう。正直よくわからない」
 読めないとなると。
(じゃあ、今私が言った萌子の話は知らなかったの?)
「とにかく、もう心配いらない。君は何もしていないし、責められるはずがないんだ。そもそも彼女が口外すれば困るのは玉森家だ。玉森にはあやかしの異能があると言っているようなものだからね」
「でも母が父に拐かされたと言われたら……」
 なにも返せない。

 父と母は春の山で出会ったという。
 桜を見に出掛け、急な雨で岩陰で雨宿りをしていて、猪に襲われそうになったところを父が助けた。
 母は父に礼を言いに再び岩に向かい、ふたりは恋に落ちた。
 父から聞いた美しい恋を世間に伝えようもない。

「少なくとも九尾の狐の眷属でなければ鬼に近づけない。普通の人間は鬼の姿すら見えないだろう?」

 ああそうかと、伽夜はハッとした。
 拐かされるとしたら、普通は取り憑かれるか殺されるかのどちらかだ。
 普通の人間は、鬼と心を通わせる (すべ) はない。
「伽夜の母にその力があるとなれば一族の問題だ。公爵だけ知らぬ存ぜぬは通じない」
 確かにそうだ。
 萌子がそれをどう思っているかは別として、玉森家の血に違いないのだから。

「責められるとしたら玉森家なのですね?」
「そうだ。我が家は陰陽師一族、仮に君が鬼の娘であろうと異能を消すと宣言すれば世間は信じる。それだけの実績と信用を我が家は積んでいるんだよ」
 涼月は警察官が立ち合い、犯罪者から取り憑いたあやかしを祓って消すという仕事もしていると言った。
「夜になるとよく出掛けるのにはそういう理由もある」
(夜、出掛ける理由?)

 伽夜は思い切って聞いてみた。
「女性のところでは、ないのですか?」
「女性? ああ、もしかして妾でもいると思ったか?」
 伽夜はこくりと頷いた。
「いないよ。今までも、これからも」
「それじゃ……」
 涼月はうなずく。
「俺には伽夜しかいない」
 ほかに女性はおらず、鬼の娘でも迷惑をかけない? と、伽夜は心で何度も繰り返した。
「なにも心配ない。もし玉森萌子が何かしたところで高遠はびくともしない。妻である君を含めてね」
 力強い微笑みに、緊張の糸が切れる。
 ホッとすると同時に涙が溢れた。
「もう大丈夫だ。なにも心配ない」
 強く強く抱き寄せられ、伽夜は心からようやく心から安心できた。
◆九の巻

(かわいそうに、嫁に来てまでそんな思いをしていたのか)
 涼月は車の中から空を見つめ伽夜の涙を思い浮かべた。

「お体は大丈夫ですか?」
 振り向くと黒木が気遣わしげにジッと見ていた。
「ああ。もう大丈夫だ」
 伽夜が夜中に家を出たのは三日前。
 深夜の騒動を家の者はなにも知らない。黒木もだ。
 朝方目覚めた伽夜と話をした後、涼月はホッとしたように眠りについた。鬼束との戦いで、かつてないほど体力を消耗していたらしく、伽夜のベッドに入ったまま丸一日、一度も目を覚さずに眠りこけたのである。
 目覚めると伽夜が心配そうに覗き込んでいた。
『伽夜』と声をかけると彼女は泣き崩れ、キクヱが大慌てで黒木を呼びに行き、それはもう大変な騒ぎだったらしい。
 あやかしとの戦いに疲れ半日寝続けたときはあるが、一日中というのは今回初めてだ。それほど鬼束との戦いは熾烈を極めた。
 俺もまだまだだなと反省しつつ、苦笑する。
「心配かけたな。すまない」
「何かありましたか? 実は先日、夜明け前に、伽夜様の窓が開いているのに気づき、なにものかが見えたような……。その後すぐ涼月様も顔を出されたのを確認したので安心していたのですが」
「そうだったのか。実は酒呑童子が来てな。少し話をした」
 黒木はギョッとしたように目を剥く。
「酒呑童子? 京の都にいるのではないんですか」
「気まぐれに来るらしい」

 黒木は高遠の遠縁にあたる家の出だ。
 異能があっても不思議はない。あやかしも付喪神もはっきりと見えはしないようだが、気配を感じる程度に鋭い勘を持つ。
「伽夜の父は酒呑童子だ」と短く耳打ちした。
 黒木は無言のまま、深刻な表情でうなずく。
「全力で守ると決めた。よろしく頼む」
「わかりました」
 一年契約ではなく、永遠にと想いを伝えた。
 伽夜の悩みも胸の内もよく聞き、心が溶け合った実感がある。

 酒呑童子からも話を聞けた。
『伽夜にはどんな力が?』
『小夜子が残した〝癒し〟の力だ。お前はすでに実感しているだろう?』
 伽夜を抱きしめると全身に力が漲る感覚を覚えるのは気のせいではなかった。
 手首に巻いた紐に目を落とす。
 伽夜だけでなく、この紐にも回復させる力があるのかもしれない。
 体中にあった細かい擦り傷は、丸一日寝ている間に跡形もなく消えた。
 夕べ心を通わせ伽夜を抱いた。すると深手の傷も消えたのだ……。
 伽夜は宝だ。
 そう思うだけで、胸が燃えるように熱くなる。

『私は高遠の嫁として、鬼の娘であるのを卑下していました』
『それは違うぞ。酒呑童子は誇り高い鬼の首長だ。高遠の力にはなっても、力を削ぎはしない』
 伽夜はうれしそうに微笑んだ。
『ありがとうございます。ととさまにも言われたのです。遠慮と卑下は違うと。私は両親を誇りに思います』

 だからこそ許せない。
「それで、玉森にはどういったご用件で?」
 これから伽夜の実家、玉森家に行く。
「後悔させてやろうと思ってね」
 黒木は当然だと言わんばかりに大きくうなずく。
「聞けば聞くほど酷い話であったからな」
 フミや捨吉だけではない。御膳所の料理人に黒木が聞いた話によれば、伯爵夫人や萌子から、伽夜には使用人と同じ食事を出すよう指示されていたという。
 朝の握り飯はともかく、野菜の切れ端の味噌汁とイワシだけという食事。たとえ使用人であっても、酷い扱いである。
『一度だけお夕食に伽夜様が呼ばれたそうですが、そのときのお客様は助田子爵だったそうです。公爵夫人は助田子爵と伽夜お嬢様を結婚させようとしていたと、後になって聞きました』
 助田は純血種の人間ではあるが、人の形をした悪の塊だ。いっそ人でなければ斬首できるものを。 いずれにせよ助田の悪い噂を玉森公爵夫人が知らないはずはない。
 怒りのまま、拳を握る。
(絶対に許さない)
 公爵には、訪問を前触れしてある。
 訪問の理由は言っていない。

 間もなく車は玉森公爵家に到着した。
 涼月が玉森家に来るのはこれで二度目。一度目は結婚を決めたとき、結納金をもって訪れた。
 門をくぐり、車は中に入っていく。
 前回は関心もなかったので見もしなかったが、今回は車の窓越しにジッと庭を見つめた。
 ここにもかつては、善良なあやかしが多くいたはずである。
 だが、今は形跡もない。
 最近の流行りの芝を敷き詰め、噴水のある洋風の池がある。
 手入れはされているようだが、よく見れば表向きの体裁だけを整えた庭だ。高木が植えられた先は暗く光が差し込んでいない。
 今のこの屋敷に棲むとしたら、それはあやかしではなく悪霊だろう。
「使用人も憂鬱そうだな」
 庭師が暗い表情で庭木の手入れをしているのが見えた。
「長くいた者も。伽夜様がこの家を出たのをきっかけに随分辞めてしまったそうです。残っている者はほかに行く宛のない者ばかり。最近は安い給料で若い者を使い捨てにしているそうで」
 長い溜め息を漏らし、車は止まる。

 出迎えには公爵夫人と萌子が出てきた。
 ふたりとも洋装で、冗談のように着飾り、満面に笑みを浮かべている。
「いらっしゃいませ」
 挨拶をしながら萌子の心を覗く。
〝きっと伽夜と離縁する話だわ。そうしたら私が代わりに――〟
 伽夜へのどす黒い嫉妬の炎が燃える、うんざりするほどの卑しい心だ。
 公爵夫人の心は覗くまでもない。萌子と同じ目をしている。
 西洋風の居間に通されて間もなく玉森公爵が現れた。
 公爵は茶色の三揃いという、普通の洋装である。
 当然のように同席している萌子には苦笑を禁じ得ないが、今日ばかりはその方が都合いい。
 ひと通り他愛ない会話を交わし、三人の心をさらりと読む。
 公爵は一応話が通じそうだと見極め、出されたコーヒーを飲んだ。
「して、今日はどのようなご用件で」
 さあいよいよかと萌子と公爵夫人の瞳が輝く。
「実は念のため話しておこうと思いましてね。伽夜ですが」
「伽夜……。あの子がなにか」
 公爵にはいくらか伽夜を気遣う気持ちがあるらしく、重苦しそうに心が揺れた。
「伽夜の両親について調べましてね」
 ギョッとしたように公爵が目を見開く。
 それもそのはず、伽夜の異能に公爵は気づいていないが、玉森家の異能、伽夜の母については秘密を通したいはず。
「伽夜が自分の父が鬼なのではないかと、不安がっていましてね」
「ま、まさかそんな。我が家は五十年前に異能を捨てました。高遠家にも縁のある京都の――」
 五十年前、異能を捨てると誓った華族は、京都の有名寺院で異能を捨てる儀式を行った。
 実は形だけだ。その寺院と異能を持つ華族が話し合い、多額の布施と引き換えに、異能を捨てたという声明を出したのだ。
 異能を持つ華族の間だけでの公然の秘密である。
「はい。わかっていますよ。玉森家は異能を捨てたのですよね」
 公爵は「ええ、ええ」と大きくうなずく。
「万がいち伽夜が鬼の娘となると、伽夜の母親はあやかしと通じる狐になります。人は鬼の姿は見えませんからね。――玉森は今でも九尾の狐の眷属となり、しかも鬼を引き寄せる」
「滅相もない!」
 立ち上がらんばかりに公爵は否定した。
「ですよね。そのような噂になれば、萌子さんは……」
 そこまで言って涼月は萌子をチラリと見た。

 言わんとする意味がわかったのか、萌子は真っ青になっている。
 玉森に今でも九尾の狐の血が流れているとわかれば、萌子は誰とも結婚できず尼になるくらいしか道はない。玉森家は分家から男子を立てて引き継ぐ話が進んでいるはずだが、それも白紙になる。つまり玉森家は断絶するのだ。
「た、高遠さん、伽夜が何を心配しているのかわかりませんが」
「念のため言っておきますが、我が家は陰陽師一族、万がいち伽夜に異能の兆しがあれば祓っておきますので心配はありません。世間も納得するでしょう。私には名実ともに、それだけの力がありますから」
 伯爵は大きくうなずく。
「ええ、ええ。ですが、伽夜には異能などありません」
「そうですね。伽夜に異能はありません。伽夜の母は病がちで田舎に篭り、担当の医者と結婚した。そう聞いていますが、それでいいのですよね?」
 敢えて萌子をジッと見た。
「萌子さん、どうですか?」
「わ、私は……」
 突然萌子は泣き出した。
 慌てた公爵夫人が萌子の肩を抱き「も、申し訳ありません。失礼させていただきます」と連れていく。

(とりあえず、これくらいでいいか)
 涼月は大きく溜め息をつき、立ち上がった。
「この家での伽夜に対する仕打ち。いく人もの元使用人から聞きました。挙句、伽夜を鬼の娘と脅迫するとは。――玉森を存続させたいなら、公爵」
「は、はい?」
「夫人と娘の口を厳重に塞ぐべきですね」
 公爵は震えている。
 肝の小ささに呆れるばかりだ。
「も、申し訳ない」
「今後伽夜には一切関わらないと約束してください。まあ反故にされてもこの家が世間に潰されるだけですし、わたしは伽夜以外助けません。それだけを言いに来ました」
 最悪の気分で入った玉森家だが、出るときはその分晴々としていた。
「このまま鬼束に向かうぞ」
「えっ?」
 あの夜の決着がついていない。
 伽夜は涼月と鬼束が戦ったのはおろか、顔を合わせたことすら知らないままだ。
 彼女の気配を頼りにあの山の麓に辿り着き、酒呑童子が気を失った伽夜を抱いて現れたとだけ言ってある。
「なにかありましたか?」
「鬼束には異能がある。酒呑童子を伽夜に合わせたのは鬼束だ」
 黒木はピクリと眉を歪める。
「やはり」
 融資を断られた華族に金を融通し、見返りに貴族院の票を集めようとしているらしい。
 なにを企んでいるのかわからないが、これから長い戦いになりそうだ。
「今後あの男を伽夜には絶対に近づけるな」
「はい。わかりました」
 鬼束邸は玉森邸から離れている。地図にすれば、ちょうど高遠邸を挟んで一直線に反対側だ。
 おまけに玉森は高遠に近い。高遠を警戒するあまり、伽夜の存在を見つけられずにいたんだろう。
 鬼束家のほかの一族は京都にいて、帝都にいる鬼束は伯爵の要だけだ。母と妹の三人で暮らしている。
 さっき玉森公爵を問い詰めた。
『鬼束要から縁談がありませんでしたか?』
『えっと……』
 玉森公爵は言葉を濁した。
 恐らく鬼束から口止めされていたのだろう。
 彼が玉森家を訪れたのは伽夜が、高遠家にきた次の日だったらしい。まさか女学校卒業と同時に高遠家に出されたとは思わなかったようだ。
 公爵一家が伽夜を邪魔者扱いしたから早々に出したわけだが、結果的にそれがよかった。
 鬼束は伽夜の額の痣を気にかけていたという。
 涼月が痣を消す前に伽夜と会っていれば、どんな条件を出してでも縁談を進めたに違いない。
 酒呑童子が俺でなければ赤鬼に伽夜を預けると言った。
 今は鬼束も完全に伽夜の素性に気づいたはず。簡単にあきらめるとは思えない。
 つらつら考えるうち、車は鬼束邸に到着した。
 突然の訪問なので、会えるかどうかはわからないが、黒木が車から降りて訪問を伝えに向かう。
 ひとまず涼月も車から降りた。
 晴れていた空が、いつの間にかどんよりと曇っている。すぐにでも雨が降りそうだ。
 鬼束邸は通りからはまったく中が見えない。
 高く囲う塀と、見上げるほど高い鉄格子のような門。涼月はその門の前に立った。
 日本橋の悪鬼を追い詰めたのはこの屋敷の近く。この位置からも見える北側の通りだ。
 鬼束を疑ったが、あれは鬼束とは関係ない。
 というのも、酒呑童子は伽夜の相手を涼月でなければ鬼束要にしようとしたと聞いたからだ。酒呑童子が人に近い愛娘を悪鬼に預けるとは思えない。
 鬼束は、少なくとも人は襲わない鬼の眷属に違いないだろう。
「お会いになるそうです」
 黒木の言葉と同時に、内側から門が開く。
 車を外で待たせて、邸まで歩くことにした。
 この屋敷は新しい。五十年前の騒動時に鬼束一族はいったん京都に戻り、東京に戻ってきたのは十年前。スキャンダルにより爵位を返上した華族からこの屋敷をそっくり買い取っている。
 薔薇が咲く洋風の庭は所々に高木があるが日当たりが良い明るい庭だ。
 ここにあやかしはいない。少なくとも今は。
 正面に見える母屋は白い西洋の城のような外観の建物である。
「ようこそ。いらっしゃいませ高遠様」
 明るくにこやかな使用人に迎えられた。
「当主は少々体調を崩しておりまして、お茶でも飲みながら少しお待ちいただけますでしょうか」
 黒木は客間の手前にある控えの間に案内され、涼月が通された部屋は南に面した明るく広い客間である。
 ソファーに腰を沈め、出されたコーヒーを飲みながら鬼束要を待った。
 部屋をぐるりと見回しても、使用人の心を読んでも、なにも怪しさはない。彼は完璧なまでに、異能の影すら隠しているようだ。
 鬼束要はガウンを羽織って現れた。
「やあ公爵、どうしました?」
「具合が悪いところ申し訳ない。特に用事があるわけではないが、通りかかったのでね」
 向かいのソファーに腰を下ろした彼は、すでに異能を涼月に見せたせいか、今日は目を逸さなかった。
 心は読めなかった。鬼束要の心はぽっかりと空いた暗闇のようにしか見えない。
 それがわかっているのだろう、彼はにやりと口角を上げる。
「〝見せたくない〟のでね」
 なるほど、〝跳ね返す〟異能を持っていると言いたいらしい。
「随分、つらそうだが」
 あちこち傷が見える。手の甲に、組んだ脚の先。顔色も悪く疲れて見える。先の戦いで相当負傷したようだ。
 対して涼月はすでに完治している。伽夜の力のおかげで。
 鬼束はフンと鼻で笑い、コーヒーカップに手を伸ばす。
「伽夜には君と会った話はしていない。そのつもりでいて欲しい」
 ちらりと涼月を見た彼は、小さく頷いた。
 これみよがしの舌打ちともに「合うわけないのに」と呟くように吐き出す。
「それは心外だな。俺たち夫婦は愛し合っているし、お父上にも祝いをもらったが?」
 コーヒーを飲みながら眉をひそめた彼は、カップを置くと大きな溜め息をついた。
「のろけに来たわけですか」
「あと、もうひとつ。この辺りで、鬼を見失ったことがあってね」
 じっと見つめると、鬼束は真顔で見つめ返してきた。
「それがなにか? 我が家に鬼がいるとでも?」
「なにか知らないかと思いましてね」
 彼は憮然として再び溜め息をつく。
「もし探したいならどうぞ? だが、酷い言われようだ。我が家は長い間風評に苦しまされてきたのに、まだそんなことを言う〝異能〟の者がいるとはね」
 微かだが目線に怒気を強めた彼が『調子に乗るなよ』と脳内に直接声を送ってきた。
 なるほど、そんな異能もあるらしい。
『お前、天狗だろ』
 それには答えず席を立つ。
 実際のところ、この屋敷内に鬼の気配はない。
 ただし目の前の鬼束はもまた、意識的に気配を隠しているが。
「それじゃ失礼する。お疲れのところすまなかった」
「いーえ」
 二度と近づくなとは言わなかった。
『お前に伽夜はやらない』と、念を送ると、鬼束は鼻で笑った。
 油断はできないが、彼も人社会で生きている。
 無謀な真似はしないだろう。

***

「伽夜様、とってもお美しいですよ。空色がこのようにお似合いになるとは」

 季節は移ろい、夏になった。
 ドレスは涼しげに白を基調として薄い空の色の柄が入っている。胸元と腰の盛り上がったバッスルには小さな赤や黄色の花を飾りがつき、濃い水色のリボンが大きく垂れる。
 背中に垂れる髪にも小花が咲き、上品で華やかな装いだ。
 瞳を輝かせるフミに、伽夜は恥ずかしそうに「ありがとう」と礼を言う。

 今夜は鹿鳴館の舞踏会に行く。
「準備はどう?」
 振り返ると微笑みを浮かべた涼月がいて、彼はまず伽夜の全身に目を走らせかぶりを振る。
「やっぱり似合いませんか?」
 自分には派手だったかと不安になる伽夜の腰に手を伸ばし、涼月は「その逆だ」と笑う。
「あまりにも綺麗で、君を舞踏会に連れていくのが不安になる」
 フミとキクヱが口に手をあててクスクスと微笑む。
 妻を愛する気持ちをまったく隠そうとしない主人と、いつになっても慣れずに頬を染める女主人を前に微笑まずにはいられないようだ。
 父と会った明くる日の朝、涼月にすべてを話して以来、伽夜にはなんの不安もない。
 
 あの後、フミと寄った甘味処で叔母の玉森公爵夫人と萌子に偶然会ったが、夫人は伽夜たちの会計も済ませ、おまけに邸の皆さんへと大福と団子のお土産までくれた。
 萌子は終始うつむき加減で、最後に『今までごめんなさい』と謝ってきたのである。
 なにがあったかわからないが、もう彼女たちはなにもしないと実感はできた。
 フミは『どんなに謝っても伽夜様へ酷い仕打ちをした罪は消えません』と憤っていたが、それでも伽夜には、安堵の微笑みを見せた。
『よかったですね、伽夜様』
『ええ。謝ってくれるとは夢にも思わなかったわ』
 涼月にその話をすると「君の両親について確認に行ったんだよ」と微笑んだ。
『君の母は田舎で療養中に医師と恋に落ちたそうだ』
 すべてを知っている彼がわざわざそんなふうに言う意味が、伽夜にはわかった。
 彼は釘を刺しに行ってくれたのだ。

 優しく頼もしい夫を見上げる。
「さあ、行こうか」
「はい」
 鹿鳴館は今日も賑やかだ。
 杏は今夜も鬼束伯爵と一緒にいた。
 舞踏会ではよく一緒にいるが、杏が言うには恋人ではなく気が合う友人らしい。
 今はもう鬼束と伽夜は挨拶を交わすだけだ。
 あの後、舞踏会で会ったときにさりげなくお礼を言ったが、他人行儀な距離を保っている。
 彼の方も伽夜に近づいてはこなかった。
 彼と涼月の間に流れるピリピリした緊張感は気になるが、ひとまず気づかぬふりを通している。
 黒木からも、男同士の問題ですからお気にせずにと言われたし、伽夜としても藪蛇で鬼束に迷惑をかけたくない。
 今の距離感がちょうどいい。

「伽夜」
 呼びかけられて顎を上げると、涼月の甘い瞳と目が合った。
「幸せか?」
「ええ、もちろん」
 こんなふうに愛する夫とダンスを踊る時間が、幸せでないはずもない。
 伽夜は「誰よりも幸せですよ」と、つけ加える。
「愛してる」
 耳元で涼月が囁いた。
 答える代わりに伽夜は涼月の瞳を見つめ返す。
 たとえ心が見えなくても、涼月しか映っていない瞳から想いは伝わるはずだと思う。
 心は相変わらず熱いけれど、息苦しさはない。
 どんなに好きになってもいいと知ったときから、悲しみを連れて苦しみもどこかに消えた。
 もう、この気持ちを止めなくていいのだ。
 燃えるほど好きになってもかまわない。
 
 大好きです。あなた。
 ずっと私を離さないで。
 伽夜はにっこりと微笑みながら、そう強く願った。



ー完ー

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