賑わう通りから離れ、住宅地を進み車は減速する。
高遠家に到着したらしく、大きな門構えである屋敷の前で、車が止まった。
屋根がある歴史を思わせる木造の門。
樹木がうっそうと生い茂る、あやかしどもが棲まう家という噂通り、どこまでも続く高い築地塀の上から高木がいくつも見えた。
いよいよかと思うと緊張感から、指先が震えてくる。
車を降りると、叔父が「いつきても不気味な家だ」と吐き捨てるように言った。
門が開き案内されて進むと、洋装の男性が歩いてくる。
「いらっしゃいませ玉森様。主は急ぎの用で出かけておりますが、すぐに戻りますので、中でお待ちください」
「そうか。では、私はここで失礼する」
男性が驚くのも構わず、叔父は伽夜に「行きなさい」と告げ背中を向けた。
叔父を追いかける男性と叔父を振り返って見つめ、ぽつんとその場に残った伽夜は、まるで捨て猫になったようだと思った。
運が良ければ拾ってもらえるが、悪ければ――。
あてもなくどこかに行くしかない。
玉森にはもう二度と戻りたくない。助田子爵のところに送られるくらいなら、どこかで野垂れ死んだほうがましだ。
いっそあやかしにでもなって、この美しい庭に棲みつけたらいいのに。
つらつら考えながら進む縁側の廊下から、伽夜は庭を見つめた。
樹木は多いが、噂に聞くような鬱蒼とした感じではなかった。
日差しが程よく地面を照らしていて明るいし、妖しい化け物などいそうもない。手入れが行き届いていて、むしろ邪悪なものは入り込めないだろうと思う。
噂というのは、やはりあてにならないものだ。
(見事なお庭だわ)
こんもりとした築山があり、うねるように水が流れ池へと続いている。水面を縁取る岩と苔と草。さらさらと岩の間を落ちる水音が、伽夜の座る席まで聞こえてきそうだ。
池の上へとせり出すように枝垂れ桜が揺れている。
その先の木はイロハモミジか。秋になれば赤や黄色に色づく美しい紅葉が見れるはず。
池に落ちた桜の花弁が水の輪をつくる様子も美しく、伽夜は感嘆の溜め息をつく。
昨日今日できる庭ではない。何十年、あるいは何百年かけてできあがったであろう歴史を思わせる。
高遠家は平安時代から続く名家であると聞く。
京の都から帝都に移り住んでどれくらい経つのかわからないが、石に貼り付いた苔、ごつごつとした太い幹。すべてが長い年月を思わせた。
邸も立派である。
西洋風だった玉森家とは違い、高遠家は和洋折衷で、どちらかといえば和風寄りの二階建てだ。部屋数は想像できない。とてもたくさんあるには違いないが。
柱や梁の艶もだが、調度品もかなりの年代ものばかりであり、そのせいかとても落ち着いた雰囲気が漂っている。
まだ足を踏み入れてわずかしか経っていないのに、この屋敷は建物といい庭といい、なんとなく居心地よく感じた。
「どうぞ、こちらにおかけください」
「はい。ありがとうございます」
伽夜はぽつんと一人きりで、猫足の椅子に座った。
高遠涼月は、数々の事業を経営しているゆえ、多忙なのだろう。朝から仕事に出掛けているらしい。
叔父は結局帰ってしまった。
車を降りる前に、叔父に念を押されている。
『今日から高遠家がいいと言う日まで、お前が高遠家の嫁として務まるかどうかの見習い期間だ。玉森家の者として粗相のないようにするんだぞ』
『はい。わかりました』
伽夜は池を見つめながら、見送りに出てくれたフミやほかの使用人たちの涙を思い浮かべた。
祖父母がいなくなってからの毎日はつらい日々ではあったが、フミや優しい使用人達が一緒だったおかげで寂しくはなかった。
でも、今日からは一人きりだ。
心細さに身を縮め、膝の上の風呂敷包みを握りしめる。
ボーンボーンと大きな音にハッとして顔を上げれば、柱時計が十一時を指している。
ここに通されてから、三十分以上が経っていた。
(やはり私がお気に召さないのかしら……)
高遠家は、萌子を望んでいた。
『聞いたと思うけど、高遠様は私をお望みなのよ』
萌子からもそう聞いている。
『私はあんな仮面を被った恐ろしい化け物みたいな人は絶対に嫌。化け物同士、お前にぴったりでしょう?』
萌子のように美しい娘を期待していたに違いない。話が違うとお怒りで、だから叔父は逃げるように帰ってしまったのか。
もし、このまま会ってももらえず帰されたらどうしようと、次々に不安が襲ってくる。
助田の目を再び思い出し、恐怖にごくりと喉が音を立てた。
とにかく二度と玉森には帰りたくない。
不安に震える腕をさすりながら、いっそ、使用人としてでもいいからこの家に置いてもらえないだろうかと思った。
仕事は嫌いじゃない。つらい水仕事でもいいから、この美しい家にいたい。夢中で働けば寂しさくらい乗り越えられる。
藁にもすがりたい気持ちで唇を噛んだとき「お待たせいたしました」と執事が現れた。
「間もなく涼月様がお見えになります」
「はい。ありがとうございます」
執事は三十代と思われる、淡々と落ち着いた雰囲気の男性だ。
「伽夜様、コーヒーは召し上がりますか?」
「いえ。飲んだことはありません」
「そうですか。では紅茶をお入れしましょう」
執事は、伽夜がほとんど口にしなかった冷めたお茶を、盆に乗せる。
「あっ、すみません」
せっかく入れてもらった緑茶を無駄にしてしまった。
「お気になさらず」
にっこりと微笑んだ彼が扉の向こう側に消えると、微かに男性の話し声が聞こえた。
いよいよだ。
それから更に十分ほど立って扉が開き、背の高い若い男性が入って来た。
椅子から立ち上がった伽夜の背丈よりも、頭ひとつ高い。そして――。
伽夜は彼を見てハッとした。
(本当に仮面を被っているわ……)
噂で聞いていた噂通り、高遠涼月は顔の頬から上が隠れるような黒い仮面をつけている。
だが、よく見ればとても麗しい人だ。
実業家らしい三揃いの洋装に身を包んでいるが、腰の位置が高くて脚が長い。すらりとした体躯には洋装がよく似合っている。
意志が強そうに結んだ唇、高い鼻梁、いくらか長めの髪は、噂通り金色とまではいかないが明るい茶色だ。
そして、なによりも驚いたのは目。
黒い仮面は目のところが穴が開いている。気のせいか光があたった瞬間、仮面に隠れた瞳が金色に光ったように見えた。
彼は伽夜の正面の席に向かって歩き、椅子に腰を下ろす。
背もたれが高くてゆったりとした肘掛けがある西洋風の椅子が、彼の雰囲気にとても似合っていた。
正面からだと彼の目ははっきりと見えた。
瞳は金色ではなく、 榛色である。
さっき金色に見えたのは錯覚だったのか。
(それにしても、とても綺麗な瞳だわ)
ジッと見つめていたと気づき、頬を赤らめた伽夜は慌てて頭を下げた。
「玉森伽夜と申します」
「高遠涼月だ」
再び執事が現れて、焼き菓子の乗った皿をテーブルの上に置く。焼きたてなのか、濃厚なバターが混ざった甘い香りがふわりと漂った。
伽夜の前に紅茶のカップを置き、ポットからとくとくと紅茶を注ぐ。
涼月のほうには黒い液体の入ったカップを置いた。初めて嗅ぐ芳醇な香りに、これがコーヒーなのか。
さっそくカップを手にした涼月を見つめながら、伽夜は決意を新たに大きく息を吸う。先に言わなければならない。――断られる前に。
勇気を奮い起こし、立ち上がった。
「お願いがございます。私では役不足でしたら、使用人で構いません。私を雇っていただけませんでしょうか?」
切実な気持ちのまま訴える。
「雑巾がけでも庭掃除でもなんでもします。――ただ、望みはひとつだけ。使用人としていくらかでもお給金さえ頂ければ、それだけで十分でございます」
言うだけ言って頭を下げた。
女中としてちゃんとやっていけるはず。今までも日の出とともに起きて働いてきた。水仕事も慣れれば上手くなる。だからどうか。
唇を噛んで返事を待った。
「給金?」
「はい。働きに見合う額で結構です、わずかでも……」
うつむいたままジッと返事を待った。
だが、涼月はなかなか答えない。
いきなりお金の話までして、ずうずうしいと思われたかと、羞恥心と同時に悲しくなる。
でも、恥ずかしがってはいられない。どうしても必要なのだ。せめて数日、安宿に泊まれるだけでいい。それだけあれば、ほかに仕事を探せる。
一文無しではさすがに不安だから――。
沈黙に耐えかね顔を上げると、涼月はゆったりと口を開いた。
「それで、給金をどうする? 玉森家に送るのか」
「いいえ。そうではありません。玉森家とはまったく関係がありません。私個人の問題なのです」
玉森がお金に困っているのかと思われたら困るので、それだけは否定した。
「ではなにに使うのだ?」
「それは――」
ずっとここで働けるなら、むしろお給金はいらない。
だが、そうはいかないだろう。
公爵家の娘が、嫁ぐはずの家で使用人として働いているなどと、世間体を気にする叔父が黙っているはずもなく、きっと連れ帰されてしまう。
働くにしても、いつまでもここにいては迷惑になる。
短期間でいい。宿に泊まれるだけのお金をもらえれば、あとはきっとなんとかなる。食堂や店員など求人の貼り紙も見た記憶があるから。住み込みの働き口もきっとあるはず。
とはいえ、それは言えない、
「申し訳ございません――秘密でございます。ほんの数日でもかまいませんから」
そう答えるしかなかった。