伽夜は不自由さを感じている。
 海棠杏が思うように、自由な外出が必要なら。それであの悲しげな表情が消えるのなら。出かけたらいい。しっかりと警備をつければ問題ないだろう。日中ならあやかしに襲われる心配もない。
 そんなことを思いつつ、ふと隣に座っている伽夜を見れば、彼女は物珍しそうに外の景色を見ていた。
 玉森公爵の言葉を信じるわけじゃないが、ああいう賑やかで華やかな場所は苦手なのかと思っていたが、どうなんだろう。

「舞踏会疲れたか?」
 振り向く伽夜はにっこりと微笑む。
「いいえ、大丈夫です」
 穏やかでいい笑顔だ。
 誰を紹介しても、今のような笑顔でそつなく挨拶を交わしていた。
 少し恥ずかしそうに控えめであった分、好感度は高かったと思う。皆褒めていたし、公爵夫人として点数をつければ満点のお披露目である。
 無理をしていなかったとは思うが、実際はどうなのか。
 相変わらず伽夜の心は読めない。

「ならいいが」
「正直言うと少し疲れました。でも、それ以上にとても楽しかったです」
 友達に会えたから?と聞こうとして、やめておいた。
 伽夜は心からうれしそうに見える。それで十分だ。
「海棠さんとたまに出かけるといい」
 ハッとしたように伽夜は目を見開くいた後、にっこりと微笑んだ。
「はい」
 そんなにうれしいかと、涼月は苦笑した。
(止めたつもりはなかったが、やはり遠慮していたのか)
 もしかすると金の心配をしているのかもしれない。給金が欲しいと言ったくらいだと思いあたった。
 そういえばと思った。使用人でいいと言い出したとき、伽夜は秘密だと言った。夢を叶えるためと後に聞いたが、もしかすると自由を得るための資金が欲しいのか。
 黒木が心配をしていた通り、今も伽夜はやはり高遠を出ていくつもりでいる?
 嫌な予感に、ぞわりと悪寒が走る。
「出かけるときは、必ずフミを連れて行くように」
「はい。わかりました」
 フミだけでは心配だ。伽夜の外出のために、玉森家に出入りしていた俥夫、捨吉という男を専属で雇おう。フミの話では人柄もいいようだ。俥夫の体力があれば用心棒もできるだろうし。
「ところで、なにを熱心に見ているんだ?」
「ガス燈で照らされる夜の銀座を見るのは初めてなので」
「ああ……」
(そうだったか)
 公爵家の令嬢ならば、親に連れられて舞踏会や宴に出かけるものだが、伽夜は捨て置かれていたのだった。
 考えてもみなかったが、伽夜は夜の街を知らないのだ。

「今度、レストランで食事をしよう」
 たまには着飾った伽夜を連れて夜の街を歩くのもいいかもしれない。
「はい。あ、でも御膳所の方々が」
 うれしそうな表情が一瞬で気遣わしげになる。
 伽夜はいつもそうだ。人の気持ちになってあれこれ考える。少しは自分の心配もしてほしいのに。
「俺も伽夜もいなければ賄いを作るだけで済む。いい休みになるだろう」
「あ、そうか、そうですね」
 彼女が来る前は、涼月が家で夕食を取らない日も頻繁にあった。作り甲斐がないと嘆いていた料理人も、今は伽夜のためにあれこれと研究して張り切っているようだ。
 高遠家の使用人は皆、伽夜を歓迎している。公爵家の令嬢であるのに腰が低く、いつも穏やかだ。おまけに可憐で美しい。いるだけで屋敷が華やぐ。
 不満があるとすれば、すぐに手伝おうとすることくらいか。
「伽夜、我が家は皆、変化を楽しむ余裕がある者ばかりだ。気にしなくていい。君はもっともっと我儘を覚えなきゃいけないな」
 さっそく戸惑う伽夜の手を握る。
「さあ、我儘の練習をしよう。なにか言ってごらん?」
「え、で、でも」
「なにかあるだろう?」
 困惑顔の伽夜は上目遣いにちらりと涼月を見て、頬を膨らませた。
「涼月さんは案外いじわるですね」
「ほぅ、どこが?」
 顔を覗き込むと、くすくす笑った伽夜は「では――」と、ジッと涼月を見た。

「では――。私と、離縁してくださいませ」

 時間が止まったような気がした。
「な……」
「冗談でございますよ」
 あははと楽しそうに笑う伽夜の様子から察するに、冗談のようだが――。
 声が出なかった。
 呼吸も心臓も止まったかもしれない。
「こいつめ」
 睨むと伽夜は「ごめんなさい」とまた笑う。
 両手で捕まえるように抱きしめて耳元で囁いた。
「今度そんな冗談を言ったら――」
 言ったら……。
(俺はどうしようと言うんだ?)
「――今後、食後のデザートは抜きだ」
 それは悲しいと笑う伽夜の肩を、涼月は抱き寄せた。
『公爵の新妻でしたか』
 鬼束の挑戦的な目が忘れられなかったせいかもしれない。
 彼の心を覗こうとして、またしてもすぐ目を逸らされてしまったが、心を覗くまでもなくわかる。
 鬼束が伽夜を見る目の輝きは、ほかの女を見る目とは明らかに違っていた。
 海棠杏に話しかけられたせいで、束の間だが伽夜と鬼束はふたりきりにしてしまったのが悔やまれる。
 なぜ、鬼束は玉森家に行ったのか。
(伽夜が欲しいのか?)
 こみ上げる怒りが欲情に変わる。
「伽夜? 鬼束となにを話していた?」
 顎をすくい、潤んだ瞳の伽夜に問いかけた。
「ドレスを、褒められました」
 心が見えないなら身体に聞こうと、加虐的な念に囚われる。
「本当に? それだけか?」
 うなずく伽夜の唇を吸う。
『 悋気 (りんき)ですか? あなたらしくもない』
 鬼束の声が脳裏をよぎり、
 この胸で燃える炎がなんであれ、伽夜はお前には渡さないと心で返した。

(伽夜、離縁など絶対に許さない)
◆七の巻
 
「捨吉まで雇ってくださるとは思わなかったわ」
「ええ、本当に。喜ばしいです」
 伽夜とフミが乗る人力車を引いている俥夫は、玉森家でよく頼んでいた捨吉だ。
 舞踏会の三日後、高遠家に捨吉が来た。
 捨吉は、伽夜が女学校を卒業してから、玉森家には出入りしていないそうだ。
 玉森家の御用達ではあっても専属ではなかったのもあるが、常々フミに『伽夜お嬢様がお気の毒だ』と不満をこぼしていただけに、思うところがあったのだろう。専属で雇うとまで言われたのを断ったらしい。
 とはいえ、その分収入が減った。妻も子もいる身なので、虚勢を張っても辛かったに違いない。
 黒木から高遠家で働いてほしいと頼まれ、フミのほかにも玉森家をクビになった者もいると聞き、ホッとしたように膝から崩れ落ちたという。
 伽夜の顔を見たときは涙を流して喜んだのは言うまでもない。
「フミが推薦してくれたの?」
「ええ。ご主人様が用心棒にもなれる人を探していたのですよ。捨吉は空き時間で武道も習うそうです」
「すごいわ。頼もしいわね」
 フミが「捨吉さん、伽夜様が頼もしいって」と声を張り上げる。
 話が聞こえたのか、捨吉が「安心してくださいませっ!」と威勢のいい声をあげた。
「よかったです。伽夜様がこうして出かけるようになられて」
 人力車に揺られながら、フミはうれしそうに伽夜を振り返る。
 捨吉が来た次の日から伽夜はさっそく出かけていて、つい先日は杏と演劇を見に行ったし、今日はフミと買い物だ。
 いままで遊びにいくのは自分には贅沢だと思っていた。。
 着物などいろいろ買ってもらっているだけで十分だったし、自由に動き回るのは、一年後に離婚してからでいいと。
「外にでると、気持ちも晴れ晴れとしますでしょう?」
「そうね」
 邸に籠もるのも苦痛じゃないが、こうして人力車に揺られていると、胸が躍るのは事実だ。街はどんどん新しいものができていくし活気に溢れている。
「涼月さんに私は遠慮深すぎるって言われたわ。もっとこうしたいああしたいって我儘を言えって」
 本当に優しい人だと思う。我儘になれと勧められるとは、夢にも思わなかった。
「そうですよ。伽夜様はもっと我儘を言わなければいけません」
 伽夜は思わず笑う。
「私、そんなに我慢しているように見える?」
「そうではありませんが、とにかく遠慮はおやめくださいね」
 特に遠慮しているつもりはないので、涼月にも同じように聞くと、お小遣いを渡された。
『じゃあこれで、いいなと思うものを買っておいで』
 買い物は夏物の洋服と靴。一着だけのつもりでいたが、フミがそれだけではダメだと言う。
『ご主人様から最低でも五着は買うようにと申しつけられているのですよ』
 それならばと靴も五足買った。
「私は幸せ者ね」
 優しい夫に、親切な使用人たち。
 できることなら、このまま皆と幸せな毎日を過ごしたいと思う。もし自分が〝普通〟の女性であるならば、その夢は叶えられたか。
「もっともっと、伽夜様にはたくさんの幸せが待っておりますよ」
 なにも知らないフミが微笑む。
「そうね――。ありがとう、フミ」
 だが自分の出生の秘密を片時も忘れない伽夜は小さく微笑む。
(私には、フミが思っている幸せとは別の未来が待っているの)
 これから予定通り甘味処に寄る。杏に教えてもらったと言ったが、本当は杏にはどんな店か聞いただけだ。

 実はそこで、秘密の待ち合わせをしている。
 相手は、鬼束伯爵。
 杏も涼月も、誰も知らないが、舞踏会でのわずかな時間に、伽夜は鬼束伯爵と話をした。
 そして、約束したのだ。
『酒呑童子に会いたいんです。どこにいるか教えてくださいませんか』
 彼は、桜田門の近くの甘味処の名前を告げた。五がつく日の午後三時にはその店にいると。
【あなたが来るまで通います。待ち合わせの場所はそのときに】
 今日は五日で時刻は午後の三時。鬼束伯爵がいるはずだ。

 人力車が止まり捨吉が振り向く。
「着きました」
 去年開店したばかりという甘味処は、女性達で賑わっていた。
「いらっしゃいませ」
 給仕の女性達は、ヒダのついた桃色のエプロンをしていて皆かわいらしい。こういうお店で働くのもいいな、と密かに思いつつ、ぐるりと店内をする見回した。
「こちらへどうぞ」
 案内された窓際の二人がけの席に座わる。
「素敵なお店ですね」
「そうね」と答えながら、もう一度見回した。
 男性も何人かいるようだが鬼束伯爵の姿ない。
(これから来るのかしら……)
 五がつく日というだけで、今日必ずというわけじゃない。焦らず気楽にしようと、そっと息を吐く。
「私まで申し訳ないです」
 フミが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
 こういう場合、玉森家では外で待たされる。俥夫の捨吉は外で待つのは仕方がないとしても、女中もそうだった。雨の日も、寒い雪の日だろうとも。主人と店に入って同じテーブルにつくなど考えられなかった。
 だが、伽夜が誘ったのだ。
「あの、私は、お茶だけで」
「そんな寂しいことを言わないで。涼月さんからもフミも一緒にと言われているのよ? 私ひとりじゃ、あんみつだっておいしくいただけないわ」
 恐縮するフミを追い立ててあれこれメニューに悩み、伽夜はアイスクリームが乗ったあんみつを、フミはぜんざいを頼む。
 外で待っている捨吉のためと、屋敷にいる使用人たちのお土産の大福も別に頼んだ。
 お土産はほかにも、百貨店で女中たちにハンドクリームを買った。自分への買い物より、お土産を買うほうが楽しい。
 今も、ぜんざいに瞳を輝かせるフミを見るのがうれしかった。
「伽夜さま、とっても美味しいです!」
 ぜんざいは見た目も美しかった。団子が二種類入っている。
「お抹茶入りの白玉の苦味が、粒あんの甘さとちょうどよくて」
「私のアイスクリームも、とっても滑らかで美味しいわよ」
 言わずもがなあんみつも目にも口にも美味しい。
 早くも次回が楽しみだなどと言いながら、伽夜は鬼束伯爵を待つ。
 フミと話をしつつ、きっと来ると信じてゆっくり食べたつもりだが、所詮はおやつだ。あっさりと食べ終わってしまった。
 時刻はすでに四時近い。
 今日はもう会えないかとあきらめた。五がつく日は十日後にくるのだから。
(また来ればいいわ……)
  フミが会計を済ませに行き、伽夜がひと足先に出ようそのとき。扉を手を伸ばした伽夜は、ハッとした。
「これはこれは、偶然ですね」
 扉が開き、入って来たのは鬼束伯爵である。
 伯爵は彼に似た明るい髪の若い女性と一緒だった。学校帰りなのか、袴姿の女学生である。
「妹です。あんみつが食べたいとせがまれましてね」
「初めまして、高遠家の伯爵夫人ですよね。握手をしていただいてもいいですか?」
 明るい髪をした利発な感じの、美しい女の子だ。
 ドキドキしながら差し出された手を握る。
「初めまして、高遠伽夜です」
「この前の舞踏会で、あなたのダンスに感動したらしく、家に帰ってもずっとあなたの話だったんですよ」
 途中からフミも加わり簡単な会話を交わして店を出た。
「伽夜様、先ほどの方は」
「舞踏会で会った鬼束伯爵。妹さんは今初めてお会いしたわ」
 フミはお美しいご兄妹ですねと感心する。
 本当ねと相槌を打ちながら、伽夜は焦る気持ちを落ち着かせ、右手を握りしめた。
 手の中には伯爵の妹と握手をしたときに渡された小さな紙がある。
 これで酒呑童子へ一歩近づいた?
 

***
 
 
 それから三日後――。
 伽夜は朝から食欲があまりなかった。
「食べないのか?」
 ハッとして顔を上げると、涼月が心配そうに見ていた。
「少し体調が」
 涼月はすかさず立ちあがり伽夜の額に手をあてる。
「ん……。熱はないようだな」
 ないはずだ。伽夜は体調が悪いわけじゃない。あくまでそのふりをしているだけだ。
 食欲がないのは本当だけれど。
「大丈夫です。少し寝れば治りますから」
 心配そうな涼月ににっこりと微笑みかけ、玄関で見送った。
 彼の乗る車が見えなくなると、危うく涙が込み上げそうになり、必死に息を止める。
 今生の別れというわけじゃない。
 どうなるかはわからないが、すべて彼やこの家のため。明るい未来のためなのだから、涙は禁物だと自分に言い聞かせる。
 それから夕方までは自分の部屋で過ごした。
 涼月に贈る御守りの紐を仕上げなければならない。
 黙々と作業を進め、ようやく出来上がった頃、フミがお茶を持ってきた。
「伽夜様、具合はどうですか?」
「随分よくなったけれど、今日はやっぱり早く寝るわ」
「わかりました。先にお食事にしましょう。ご主人様には私から伝えておきますね。ゆっくりお休みになってください」
 フミに嘘をつくのは気が引けたが、ほかに理由が浮かばなかった。
 部屋に食事を持ってきてもらい、床につく。
 涼月と顔を合わせて嘘をつく自信はないので、寝たふりをしてやり過ごそうと決めている。
 舞踏会に行って以来、涼月は少し変わったと思う。眼差しも抱き寄せる腕の力も、燃えるような熱を帯びていて、彼自身も持て余しているように感じるのは、気のせいか。
『君の心が見えない』
 夕べ、おやすみの口づけの後、つぶやくように彼は言った。
 舞踏会の帰りの車の中で、離縁したいなどとつまらない冗談を言ったからかもしれない。あのとき彼は言葉を失っていたから。
 まさかあんなに驚くとは、想像だにしなかった。
 いつも冷静な彼だから、淡々とやり過ごすと思ったのに。
 離縁したらその後はどうするんだとか、冗談半分でも落ち着いて聞いてくれたなら、もう少し具体的に話をするつもりだった。
 だが、一瞬とはいえ目を見開いて絶句する彼を前にして、伽夜は笑うしかなかった。
(最初から一年の約束なのに……。私は鬼の娘だから、いつかは離縁しなきゃいけないから)
 実は冗談じゃなく本気だったと、彼は知らないままだ……。
 
 鬼束伯爵の言葉を思いだす。
 舞踏会で会った彼はふたりきりになったとき『俺も鬼の眷属だよ』と短く言った。
『君もそうだろう? 同じ匂いがするからすぐにわかった』
 それだけでも十分驚いたのに、彼はずばり父を言い当てたのだ。
『ん? この匂いは、まさか。酒呑童子の?』
 咄嗟に聞き返した。
『酒呑童子を知っているんですか?』
『知っているもなにも、彼は我々鬼の首長じゃないか』
 涼月が杏と話をしている間の短い会話だった。
 そして最後に、彼はこうも言ったのだ。

『でもどうして高遠と? あいつは鬼の敵なのに』
 とにかく急いで真相を確かめなきゃいけない。
 うやむやなままでは、彼や周りのみんなを不幸にしてしまう。まだ間に合うはずだと自分に言い聞かせた。
 舞踏会には萌子も叔父夫婦ときていた。
 涼月に手を引かれて一緒に挨拶をしたが、萌子は両親の後ろに隠れるようにして、怒りに燃える目で伽夜を睨んだ。
 許さないという声が耳の中まで届くような鋭い目を思い出し、気持ちが暗くなる。
 叔父夫婦と会話をしている涼月には見えない角度で、萌子は伽夜だけを睨んでいたから、彼は彼女の憎悪に気づいていない。
 祝言を挙げて間もなく、一度だけ外出した伽夜は萌子に会っている。
 フミが気にしていた通り、キクヱに連れられて舞踏会に着るドレスを作りに行ったときだ。
 萌子は叔母とドレスを受け取りに来たのかちょうど帰るところで、なにも知らないキクヱが『まあ偶然ですね』と明るく声をかけた。
 涼月から口頭では結婚しようと言われていたものの、その時点ではまだ確信がもてず不安を抱えていた。
『ごきげんよう。こちらへは?』と聞く叔母を前に、伽夜はなんと挨拶したらいいかわからずにいると、キクヱがすかさず『今日は伽夜様の舞踏会のドレスの注文に』と答えてくれたのである。
 叔母は皮肉めいた冷たい目で『あらそう、よかったわね』と伽夜を睨み、行ってしまったが、萌子は違った。

『お前、調子に乗っていると、鬼の娘だと世間にバラすわよ』
 キクヱがわずかに伽夜から離れた隙の出来事だ。
『お祖母さまとお父様が話しているのを聞いたのよ。お前の母親は怪しい異能があって、ついには鬼の娘を生んだってね。お前は卑しい鬼の娘なんだ』
『え? なにを言っているの?』
 萌子は、伽夜の額の痣が証拠だと言った。
『高遠伯爵の銀行も研究所もなにもかも、お前のせいで潰れるよ。暴動が起きて屋敷も壊されるだろうね』
 萌子の目は本気だった。
() 月のうちに離縁しないと、そうなるよ』
 それが、フミにも言っていない真実だ。

 早いもので、もうひと月経ってしまった。
(急がなきゃいけない)
 玉森家で躊躇なく伽夜の頬を叩いたように。これ見よがしに伽夜の大切な物を壊したように。萌子に迷いはない。
 自分にできるのは、高遠家を守ること。
 まずは父が本当に酒呑童子なのか、真相を確かめなければ。
 丑三つ時までは時間がある。
 少し寝ようと思ううち、眠りに落ちていたらしい。
 付喪神の話し声にハッとして目覚めた。
「今何時?」
「もうそろそろ丑三つ時だよ」
 六時間ほど寝ていたようだ。
「鬼退治が様子を見にきていたよ」
「そうでしたか」
 涼月が来たのは、伽夜が床について間もなくだったらしい。
「あいつになにかされたのかい?」
「いいえ、なにも?」
 なぜそんな質問をするのかと聞くと、彼は謝っていたという。
「神妙な顔で『すまない』ってね」
 胸がチクリと痛んだ。
(謝らなきゃいけないのは私の方なのに)
「私は涼月さんに感謝こそすれ、謝られるような心当たりなんて、ひとつもありませんよ」
「まったくお前はいつもそうだ」
 彼の様子を詳しく聞きたかったが話込んでいる余裕はない。
 戻るつもりでいるが、どうなるかわからない。
 鬼束伯爵がどんな人かもわからないし、酒呑童子が父でなければ殺されてしまうかもしれないのだ……。
 気を取り直して急いで涼月宛の手紙をしたため、今日完成したお守りの紐を一緒に置く。
 作っておいた動きやすい服に着替え、昼間のうちに用意した綱を取り出す。
「さっきからなにをしているんだい?」
「ちょっと夜の散歩よ。明るくなる前に帰ってくるわね」
 屏風の付喪神が髪についた牡丹を揺らしながら首を傾げる。
「散歩? あたしらと一緒に行くんじゃないのかい?」
「今夜はまずひとりで行ってみるわ」
 この日のために付喪神には夜の散歩がうらやましいと言ってある。あなたたちのように、深夜の街を歩いてみたいと。

 そっと窓を開け、梯子のようになっている綱を下ろす。
 闇夜に浮かぶのは細い三日月、ひと目に付きにくく家出には絶好の夜だ。
 伽夜は迷いもせず、紐を伝って下りた。
 無事に庭に着き、念のためぶら下がる綱を見上げたが、壁と同じ色の紐のおかげで、思った通り目立たない。
 伽夜は風呂敷を背負い、足早に使用人用の通用口から通りへ出た。
 丑三つ時に歩く人はいない。
 少し前の伽夜なら、こんな時間にひとりで外を歩くなんて、恐ろしくて考えただけで震えただろう。
 でも、今は少しも怖くない。
 酒呑童子に会いたいという思いが恐怖に勝っている。
 瓢箪の酒を飲み始めてひと月、実は僅かだが両親と過ごした日々の記憶を取り戻していた。
『伽夜も、ととさまみたいなツノがほしい』
 記憶の中の父は優しい笑顔で笑っている。
 父の頭にツノは生えていたが、それ以外は人間とまったく変わらない見た目の、素敵な人だ。
 彼は実の父なのか?
 養父である可能性はないのか。
(ととさまに早く会いたい)
 ガス燈の明かりを避けながら、その一心でひた走る。
 向かうのは、鬼束伯爵の妹から渡された紙に書いてあった場所。
 屋敷から北へ向かった先にある川沿いの道だ。
【丑三つ時に、柳姫の下で車を停めて待っています】
 柳姫とは女のあやかしが棲みついているといわれている大きなしだれ柳の木だ。
 角を曲ったところで、柳姫の下に停まる車が見えた。
 約束通り彼は来てくれた。
 ホッと胸を撫でおろす伽夜が近づくと、車の扉が開き、黒いマントの男が降りてきた。
 鬼束伯爵である。
「さあ、乗って」
「はい、ありがとうございます。あの、ここからどれくらいですか?」
「遠くはないよ。一時間ほど走れば着く」
 よかった。
 夜明け前に帰り、今夜のことは知られたくない。
 高遠家を出るときは、離縁をしてもらい正式な形で出たいと思っている。
 そうでないと迷惑をかけてしまう。妻が家出をしたのでは、高遠家の恥だ。お世話になったのにそれでは申し訳ない。
「どうしても今夜のうちに帰りたいので」
 鬼束伯爵はうなずく。
「俺も誘拐犯にはなりたくないからね」
 クスッと笑う伯爵の笑顔に密かに胸を撫で下ろす。
 ほんの数回しか会っていないし、正直彼がどういう人かわからない。もし悪人だった場合、それこそ高遠家に迷惑をかけてしまうが、不思議なほど伽夜には自信があった。
 鬼束伯爵の瞳は嘘をついていないと思うのだ。

 車が走り出し、伽夜は後ろを振り返った。
 誰も追いかけてこない。
 見つかった場合、自分はいいが鬼束に迷惑をかけてしまう。それはどうしても避けたい。
 あらためて鬼束伯爵を振り向くと、彼は首を傾げて伽夜を見ていた。
「ご自分で運転なさるのですね」
「秘密にしたいときはね」
 酒呑童子に会いに行くなど誰にも知られたくないだろうと納得する。
「さあ、早速だが、どうして高遠と結婚することになったんだい?」
「高遠の祖母の遺言だと聞きました」
 眉間をひそめた鬼束は「なぜ高遠公爵夫人が」と考え込む。
「実は君に縁談を申し込みに玉森に行ったんだが、すでに君はいなかった」
「えっ?」
 伽夜は目を剥いて驚いた。
「鬼の娘を探していた。手掛かりは額にある梅の花」
 鬼束は伽夜の額を見る。
「君の額に花の痣があるという噂を聞いたんだが……」
 今は見えないはず。
 だが、見透かされるような気がして背中がヒヤリとする。
 それにしても。
 額に梅の花がある娘といえば、どう考えても伽夜に違いない。
 叔父に不気味でみっともないから隠せと言われていた。
 なので親友の杏にも見せていない。いったいどこからそんな話が漏れたのか。叔父夫婦に萌子、ほかに玉森の使用人ならば伽夜の額の痣を知ってはいるが。

 鬼束伯爵は伽夜の額を見て「違うようだ」とひとりごちる。
「でも間違いなく、君は鬼の匂いがするのに」
 実は痣はあると言ったらどうなるのだろう。
 少し迷ったが、ひとまず黙っておいた。彼と結婚するつもりはないから。
「あの……。その痣にはどういう意味が?」
「祖父が今わの際で言ったんだ。額に梅の花のある娘を探して鬼束家に迎えろと。その娘は計り知れない力を秘めているとね」

 ――計り知れない力?
「父が酒呑童子に言われたらしい。その娘を守れと」
「守れ、ですか?」
 結婚と守れとでは意味が違うと思うが。
「ああ、そうだよ。鬼束に迎え入れて、大事に守るつもりだったんだ」
 そういう意味かと納得したが、同時に混乱した。
 祖母は高遠家に伽夜を託し、おそらく父である酒呑童子は鬼束家に伽夜を託したことになる。
「それで、君は」
「は、はい?」
 混乱していた伽夜はハッとして鬼束伯爵を振り向いた。
「酒呑童子に会ってどうするつもり?」
「どうもしません。ただ、会いたいんです」
 本当に父なのかと確かめたい。
 そして、なぜ覚えていないのか。無くした記憶も取り戻したい。今夜の望みはそれだけだ。
 いずれ無事に涼月と離縁したら、一緒に暮らせないかと頼んでみようと思う。
 人を喰らう鬼と父が関係あるなら、近くにいて止めなきゃいけないから。
 わずかな記憶に残っている父ならば、優しいはずだが、たとえ命に代えても止める。それが人として生まれた自分の責務に違いない。
 伽夜の思いを知らない鬼束は「まあ会うのはいいことだ」とうなづく。
 これ以上質問される前にと、今度は伽夜が質問をする。
「あの、鬼束家は鬼の家系なのですか?」
 彼は「もちろんだ」と眉をひそめた。わかりきったことだと言わんばかりに。
「我が一族は誇り高い赤鬼の血が入っている。五十年前の粛清で生き残るために鬼の気配を消さざるをえなかったが。――玉森は九尾の狐だろう?」
「はい。そういう言い伝えがあると聞いています。証拠はありませんが」
 風呂敷に包んでいる輝く衣が脳裏をよぎったが、その話をするほどまだ彼を信用していない。
「君の母が受け継いだようだな。今の公爵にその気配はないし、君と違って萌子という娘の方はなんの匂いも感じない」
 そうなのか、と伽夜はぼんやりと思った。
 萌子と伽夜は従姉妹なのに、子どもの頃から似ても似つかないふたりだった。
 考え方も好みも。顔や表情も。何もかも違う。
 ふと空を見上げる。
 雲がでてきたようで、月も星も見えなかった。
 今頃萌子はぐっすりと眠っているだろう。
 自分も異能などなければ夢の中のはずだと伽夜は思う。
 付喪神とも話せず座敷童や河童も見れず。今となっては彼らに出会えないのは寂しいと思うが、それが普通なのだ。
 そうであれば、ずっと涼月のそばにいられたのか。
 こんなふうに、まるであやかしのように夜行などせず、彼の腕に抱かれたまま、幸せな夢を見て……。

 でも、普通の娘だったら彼は結婚してくれなかったのかもしれない。
 彼はなぜ、自分と結婚したのだろう。
 やはり、酒呑童子を倒すためなのか……。

「このまま高遠家にいるつもりなのか?」
「それは」
 言葉を濁した。
「あの男は、君を足がかりに鬼を封じ込めるつもりだ」
 ズキッと心に刃が刺さる。
「でもそれは、悪い鬼が――」
 彼は鬼にもいろいろいると言っていた。
 人間のように。
 酒呑童子はいい鬼かもしれない。よくはなくても少なくとも悪行は重ねていないと信じたい。
 通り魔や惨殺事件という信じられないような凶悪事件が起きると、新聞や世間は鬼やあやかしの仕業だと決めつけるが、
 結果的にはごく普通の人間が犯人の場合が多い。
「君は考えないか? 人の残酷さを。鬼とどう違う?」
「同じだと思います。残酷な人だっている」
 人は皆、人間の仕業だと信じたくないのだ。
 鬼が人に乗り移ったとか、あやかしに取り憑かれたと思えば、同じ人としていくらか気が楽になるから。
「ただ私、一度も鬼に会ったことがないんです。鬼の眷属だという人も鬼束さんが初めてで」
「そうか。あやかしは? さっき柳姫は見えたか?」
「見えました。桜の枝を持っていましたね。――紙が、付け文でしょうか」
 言い伝えは聞いていたが実際に見たのは初めてだ。
 柳姫は男の首を持っていると言われていたが、彼女が手にしていたのは桜だった。
「ああ、そうだよ。彼女は男に騙されてあの川に身を投げた。桜の枝に男からの恋文が括られている」
 そんな話をしているうちに車は街を外れ、鬱蒼と木が生い茂る森に近づいていく。
「あの森の中に酒呑童子はいる」
 伽夜は大きく息を吸う。
 いよいよだ。
 幼き頃、ととさまと呼んだツノのある男性が、酒呑童子かどうか――。
 森の麓で、鬼束は車を止めた。
 車のエンジンを止め、ライトが消えると、
 あたりは静寂に包まれる。
「ひとまず、ここで降りよう。あとは呼びかけて待つしかない」
 伽夜は頷き、車を降りる。
 同じく車を降りた鬼束は森に向かって声を張り上げた。

「酒呑童子は、いらっしゃるか!」

 その隣で風呂敷包みを抱きかかえた伽夜は、『ととさま、会いに来ました』と、強く願う。
 また雲が動き、月が隠れた。
 刹那、ふと体が浮いた感覚がした。
「伽夜さん、伽夜さん!」
 見えない力で、伽夜の体が宙を飛び、
 鬼束の声が一言ずつ小さくなる。
 不思議なことに伽夜は車から出ていて、慌てたように車を降りてきた鬼束を見下ろしていた。
 あっと思う間もなく、瞬きをする間に移動し、気づいたときには部屋の中にいた。
 洋館の造りの、天井が高く荘厳な部屋だ。
 伽夜はふかふかの椅子に座っている。
 そして――。

「大きくなったな、伽夜」

 記憶の中の父が、目の前の大きな一人掛けの大きな黒い椅子に座っている。
 傍らの丸いテーブルには、大きな瓢箪がひとつ。
 長い脚を組み、片方のひじ掛けに肘をあてている。
 人間となんら変わらないように見えるが、よく見ればツノがあり、手の爪は黒くて長い。
 髪は黒いが燃えているように毛先が上に向かって波打っている。鼻は高く目は赤黒い不思議な色だ。着物と洋装を合わせたような不思議な恰好だが、胸を打つほどとても素敵だ。
「ととさま? あなた様は私の父ですか?」
 言ったものの、聞くまでもなく伽夜はひと目で確信した。
 目もとが伽夜にそっくりだ。
「ああ、そうだ」
 思わず駆け寄ると、そのまま抱きしめられた。
 懐かしい甘い香りに包まれた。瓢箪の酒の匂いによく似ている。
「額の花が隠れたところをみると、陰陽師の嫁になったか」
「そうです、高遠涼月とおっしゃる方です」
「鬼の嫁になっていれば、花はより赤くなるはずだからな」
 選んだのが高遠でも鬼束でも、ふたつとも正解だったのか?
 聞きたいことがたくさんある。
「ととさま、私の結婚は高遠家の遺言だと言われたのですが、ご存知でしたか?」
「高遠とはそういう約束だった。人として幸せになるために陰陽師と一緒の方がいいとな。それが無理なら鬼の嫁にと言っておいた」
 とはいえ鬼は人に恐れられている。
「一緒に来た男は鬼の眷属のはずだが?」
「ええ、そうです。ととさまに会いたくてお願いしたんです。あの方は、おじいさまに私を守るよう言われたとか」
 体を離した酒呑童子は「ああ、頼んでおいた」と言って、伽夜をじっと見る。
 よく見れば燃えるような赤い目だった。
「小夜子によく似ているな」
 伽夜の髪を撫でながら、酒呑童子は微笑み、何度もうなづく。
 そして、伽夜が持ってきた風呂敷包みを引き寄せ開けた。
「懐かしいな。この衣は小夜子が糸から作った……」
「かかさまが、この衣を?」
 その優しい表情は父そのものだった。
「ああ、そうだ。九尾の狐が残した糸を使ってな。――小夜子はお前によく似た美しい娘だった」
 父は懐かしそうに、遠い目をする。

「あれは心の臓が弱かった。実家に戻るよう言ったが小夜子が嫌がった」
「かかさまは、心臓が弱って?」
 頷いた父は「心の臓の病だけはどうすることもできなかった」と、深い溜め息を落とす。
「どうして私の記憶を消したのですか? 私はその頃を覚えていないのです」
 記憶を封印した理由は母にそうして欲しいと頼まれたと言う。
「小夜子でないとわからないが、おそらく、子どものお前が生きやすいようにしたんだろう」
 生きやすいように……。
(鬼の子だって知られないように?)
 あやかしの中でも鬼は、ずっと恐れられている。
 五十年前の騒動の元凶、不知火侯爵が鬼の末裔だったのが尾を引いているのだ。

「思い出したいか?」
「はい」
「 我 (われ)の知る記憶なら呼び覚ませる」
 酒呑童子が伽夜に息を吹きかけると、頭の中になにかが満ちていくような感覚になる。
 母と父とここで笑いながら夕食を共にした。
 鬼は陽の光を嫌うために、三人で弁当を持ち出掛けるのはいつも、月が細い夜で、星が綺麗だった。
 あたたかい温もりに包まれた幸せな日々。
 伽夜の頬には涙が伝う。
「ととさま、伽夜もここにいていいですか?」
「お前の母はそれを望んでおらぬ」
 ずっとここにいたいと思った。
 酒呑童子の娘だとわかった以上、高遠家に戻っては迷惑がかかる。

「なにがあった? 幸せではないのか?」
 伽夜の頬を流れる涙を拭い、酒呑童子が眉をひそめる。
「なにも。とても幸せです。ただ、私も鬼ならば人の世界にいてはいけないのかと」
 高遠家にいては迷惑をかけるだけの存在になってしまう。
 でも、本当の気持ちは言えない。父である酒呑童子の存在を否定するような気がして。

「ダメ? かかさまもそうしたでしょ?」
 母は人の社会よりも、父を選んだ。
「お前は我の娘ではあるが、人間だ。会いたければ、いつでもまた会いに来ればいい」
「でも」
 父は立ち上がった。
 背が高い。涼月よりも更に頭ひとつは高く、肩幅も広い。無造作に着崩した黒い衣から、筋肉が盛り上がる胸板が見える。
 その逞しい姿はまさに鬼の首長を思わせた。

「お前がそれでよくても、もう遅いようだ」
 そう言うと、壁際の棚から細い棒のようなものを取り「結婚祝いだ」と、伽夜に差し出した。
 見たところ扇子に見える。
 親骨は金属のようだがとても軽い。持ち手から上の方にたくさんの宝石がついていた。
 開けば薔薇の絵が描いてある美しい扇子である。
「ありがとう……、ととさま」
「お前以外のものは重たくて持てない。その扇子を高く掲げ、強く強く願えば、俺が必ず駆けつける」
 そのほか、なにものかに襲われたときの使い方などいくつか説明すると「さあ行くぞ」と伽夜の手を引いた。
「え?」
「このままでは、やつらのどちらかが死んでしまう」
 なんのことかと思う間もなかった。
 伽夜は気を失った。
◆八の巻

 もぬけの殻の伽夜の部屋で、涼月は呆然と立ち尽くした。
 
 丑三つ時、なんとなく胸が騒ぎ窓を開けた。
 涼月の部屋の丸く迫り出した窓からは伽夜の部屋の窓が見える。
 伽夜の部屋の窓は開いていて、よく見れば綱のようなものが垂れていた。
 慌てて入った部屋に、伽夜の姿はない。窓辺に駆け寄れば、綱の様子から、外部からではなく伽夜自身が垂らしたようであると思われた。

「これはどういうことだ」
 ぎろりと睨まれた屏風はカタカタと震える。
「さ、散歩だって。朝までにはちゃんと帰ってくるよ」
 屏風の付喪神は恐怖のあまり屏風から飛び出し、屏風の後ろに隠れた。
 鬼の形相で涼月が睨んでいるからだ。
「なんのためにお前達をここに置いていると思っている!」
 今度は茶碗が睨まれてカタカタと震えた。
「だ、大丈夫だよ、鬼の娘なんだから」
「いつだ。伽夜はいつ出ていった?」
「ついさっきだよ、丑三つ時さ」
 茶碗から目だけを出した付喪神が答える。
 ふと、棚の上にある【涼月さんへ】という手紙を見つけた。
 封筒を開けると、手紙と紐が入っている。
 紐は月の光を浴びてキラキラと光り、その様子から、伽夜が受け取った狐の衣から糸を使ったとわかる。途中に入れて編み込んでいる宝石がなにであるかはわからないが、力を感じた。
 取り急ぎ手紙を開く。

【涼月様へ
 これを読んでいるということは、私が出かけたと気づいたか、もしくは私が帰らなかったのでしょう。
 でも心配しないでください。私は自分の意志で父に会いに行きます。
 私は高遠家に来て、幸せを知りました。
 もう大丈夫です。
 この幸せを胸に、生きていけます。
 もし私が帰らなければ、どうぞ。遠慮なく離縁してください
 ずっと、高遠家の人々と、涼月様の幸せを願っています。 伽夜】

 ぎゅっと手紙を掴んだ涼月は、紐を手首に巻き、付喪神を振り返る。
「伽夜に何かあったら、お前達は消す」
 ヒィという付喪神の悲鳴を背に、全身に異能をたぎらせた涼月は伽夜の部屋の窓からひらりと外に飛び降りた。
 着地でしゃがみ込み、立ち上がった涼月の瞳は金色に変わっている。
 ひたひたと庭を走り、馬を引き、気を集中させ通りに出ると、あたりの気配を探った。
 わずかに感じた伽夜の匂いを頼りに進み、行き着いた先は、川沿いの大きなしだれ柳。
 風にそよぐ葉の中に、柳姫が見え隠れする。
「ここに鬼の娘は来なかったか?」
 柳姫はゆっくりとうなづく。
 このあやかしは失意のままときを重ねているうちに声を失ったらしい。
「どこに向かった?」
 手にした桜の枝を北の方角に向けた。
 その先を真っ直ぐに進むと森に出る。言い伝えでは酒呑童子がいると言われる場所のひとつだ。
 黒木が調べた情報と一致する。
 伽夜の母はその森にいたという話を親から伝え聞いたという者がいたのだ。
 その情報をもとに、涼月も一度森の麓まで行ったが、中に入るとなぜかまた麓に出てしまったのだ。
 酒呑童子は、本来なら京都の大江山にいる。
 ここにいるとしてもほんのいっときだ。それがいつかは行ってみないとわからないと言われている。
 とにかく行くしかない。