すると、わずかな灯りだけのはずの一階に煌々と電気がついている。
 階段を下り、皆の声がする居間に入ると――。
「あっ!」
 思わず声を挙げた。
 振り返った涼月の左腕から血が流れている。
 黒木が手にしているマントは黒いので血はわからないが、だらりと裂けていて、シャツ一枚になった涼月の左の袖は破れ血まみれだ。
「り、涼月様?」
「心配ないよ。少し切ってしまっただけだから」
 涼月は伽夜に微笑むが、キクヱが巻いている包帯はみるみる赤くなる。心配せずにはいられない。
 もしや、あやかしに襲われたのだろうかと息を呑んだ。
「暴漢と間違われてしまってね」
「では人に?」
「ああそうだ。だが、向こうも悪くはない。こちらの不注意だから」
 間もなく医者が来るからと心配ないと言われ、促されるまま伽夜はフミと一緒に自分の部屋に戻った。
 
「フミ、涼月様は本当に大丈夫なの? あんなに血が出ているのに」
 伽夜はフミを覗き込んだ。
 表情からなにも見逃さないとばかりに、瞬きもせず。
「お願いよ、正直に言って」
「大丈夫でございますよ、服についた血は止血する前の血だそうです。ご主人様の指はちゃんと動くから心配はないと黒木様がおっしゃっていました」
 フミは力強く頷き、伽夜の目をしっかりと見つめ返す。
「伽夜様、大丈夫です」
 緊張の糸が切れて、伽夜はぺたんと床に尻餅をついた。
「温かい飲み物を持ってきますね」
「ああ……。ありがとう」
 フミは部屋を出ると屏風から付喪神の声がする。
「鬼退治に行って、怪我をしたんだね」
 付喪神はフミが気になるのか、姿を変えないまま話を続けた。
「珍しいこともあるもんだ」
「あやかしではないの。涼月様は、人に切られたって」
 付喪神は答えない。
 間もなく戻ってきたフミが「さあどうぞ」とカップを差し出した。
「温めた牛乳です。気持ちが落ち着きますよ」
「ありがとう」
 ひと口飲み込むと、緊張でかじかんでいた身体がじんわりと温かくなってくる。
「驚きましたね」
「ええ……」
 フミが背中をさすってくれる。
「使用人部屋の鈴が鳴り響いて。――初日に説明を聞いてはいたのですが、まさかこんなにすぐに聞くとは思いませんでした」
 火急を知らせる大きな鈴が使用人たちが住む建物の廊下についている。その鈴がなったときは、何時であろうと皆、母屋に駆け付ける決まりになっていた。
 鈴の存在は伽夜も聞いているが、
「ああいうこと。ときどきあるのかしら」
 血に濡れた涼月を見て、伽夜は気を失いそうになるほど驚いたが、涼月本人はもちろん、キクヱもほかの使用人も淡々としていて、動揺しているのは伽夜だけに見えたのだ。
「私も気になって聞いてみたのですが、鈴が鳴ったのは五年ぶりだそうです。五年前は近所の火事だったそうで事なきを得たそうですが」
「じゃあ、涼月様がお怪我をしたのは、よくある事ではないのね?」
「ええ。私が聞いた女中の話によると、かすり傷はあっても、医者を呼ぶほどのお怪我は初めてのようです」
 彼が深夜にあやかしを成敗していると付喪神から聞いている。頻繁に危険な目に遭ってもおかしくないし、皆の落ち着いた様子から、てっきりときどき怪我をしているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
 付喪神も〝珍しい〟と言っていたから、怪我をするようなことは滅多にないんだろう。
(いったいなにがあったの?)
 涼月が言うように相手が人なら、それはそれで怖い。
「伽夜様は物音で起きてしまったのですか?」
「なんとなく寝付けなくて。そうしたら声が聞こえてきて、気になって下りたの」
「そうでしたか。私が伽夜様を起こそうか迷っていると、ご主人様が起こさないようにとおっしゃったのですよ。心配ないからって」
 瞳を曇らせた伽夜は、俯いて膝に目を落とした。
 そんな気遣いはうれしくない。たとえ結果的に軽く済んだとしても、すぐに知りたいし、今だって涼月の側にいたかった。
(でも、私がいてもなにもできないし、邪魔にしかならない)
 立派な公爵夫人なら、こんなときは動揺せずきっと毅然としているに違いないのだ。
 誰も困らせてはいけないと、伽夜は気持ちを強くして顔を上げた。
「フミ、私はもう大丈夫よ。涼月様もそれほど心配ないようだし、寝るわ」
 起きていても皆に心配をかけるだけだ。
 笑顔を向けて床に就く伽夜に、フミは「そうですね。ゆっくりお休みなさいませ」と布団を掛ける。
「朝になれば事情もわかるでしょうから」
「うん」
 もう子どもではない。寝つくまでいてくれるというフミに心配ないと笑ってみせた。

 電気を消してフミが部屋から出ていくと、部屋は静まり返った。
 階下から小さな物音が聞こえるだけで、もう人の声は聞こえない。茶碗も屏風も話しかけてはこない。
(お医者様は来たのかしら)
 カーテンの隙間から差し込んでくる月明かりを見つめ、伽夜は付喪神との話を思い返す。
 付喪神は伽夜を〝鬼の娘〟と呼ぶ。
『毎晩その酒を飲んでいるせいか、鬼の匂いが強くなってきたな。ぷんぷんするぞ』
 最初の頃は、父があやかしの鬼だとは思いもせず、鬼の娘と言われても聞き流していた。
 伽夜にとっての鬼は叔父一家である。そんな気持ちを見透かされたのかと思っていたのだ。
 でも、違う。
 自分は多分、鬼の娘なのだ。
 母が身を隠した理由も、額に不自然な形の花の痣があるのも、父が鬼だから。

『私って、鬼なの?』
 おとといの夜、思いきって付喪神に聞いてみた。
『お前は人だ』
『でも、鬼の娘なんでしょう?』
 それならば、自分には邪悪な鬼の血が流れている。
『なにが悲しいんだ』
『鬼は残酷で、邪悪だと……』
 付喪神は憤慨したように言った。
『人だって十分残酷で邪悪だ。人はあやかしばかりを悪くいう』
 それからはへそを曲げてしまい、しばらく口をきいてくれなかった。
 今夜ようやく機嫌を直したようで、瓢箪のお酒を飲んでいると『酒呑童子の酒なのに』と言ってきたのだ。
『ごの瓢箪のお酒は、酒呑童子のお酒なの?』
『そうさ。色男でね、最強の鬼だ』
 どういう鬼かと聞くと、女性たちに愛された世にも美しい少年が、激しい嫉妬を向けられて鬼になったという話も教えてくれた。
『屏風は会ったことがあるの?』
『あるよ。二百年くらい前かな。あたしが京の都にいた頃だね』
 人間の風貌をした綺麗な男だったという。
『私のお父様は酒呑童子なの?』
『そこまではわからないよ。鬼の匂いはどれもおんなじだ。でもその瓢箪があるんだから、そうなんじゃないのかい』
 伽夜のような鬼の子がほかにもいるのかとも聞いた。
『いるだろ。会ったことはないが、夜行をしていると、風に乗って匂うときがあるからね。伽夜とよく似た匂いだよ』