◆五の巻

 茶碗の付喪神はちょっと意地が悪い。
「結局帰らなかったな」と楽しそうに笑う。
 伽夜は口を尖らせた。
「仕方ありません。お忙しいんですから」
 今夜は涼月が早く帰って夕食を一緒にとると、黒木から聞いていた。
 フミが張り切っていつも以上におめかしをして彼の帰りを待ったが、残念ながら彼は帰らなかったのである。
 高遠家では急ぎの伝達に鳥を使う。
 鳥の足首についていた手紙には【用事ができた。食事を先に取るように】と書いてあったそうだ。
 鳥は一見普通の鳥に見えるが実はあやかしだ。
 あるとき鳥が、伽夜に『鬼っ子』と話しかけた。
 今日も黒木に手紙を渡したあと、鳥は伽夜の部屋に来て『鬼っ子、鬼っ子』と鳴き、伽夜が庭から拾っておいた赤い木の実をあげると、ガツガツと頬張って、飛んでいった。
 茶碗のあやかしは茶碗から、坊主頭の顔だけニョキっと出してにやにやと伽夜を見る。
「お前、痩せ我慢をしているんだろう?」
「そんなことないですよ? ひとりでも美味しくいただきました」
 この家の人々はみんな優しい。ひとりで食事を取る伽夜が寂しくないようにと、蓄音機で音楽をかけてくれたり、『旦那様は忙し過ぎです』と伽夜の代わりに文句を言ってくれたりする。
 伽夜としても正直寂しいが、涼月が忙しいのはわかっている。
 寂しいくらい我慢するのは妻の勤めだと納得している。痩せ我慢とは違う。
「そんなの一生懸命作ったところで、使ってもらえないかもしれないぞ?」
「いいんです。気持ちなんですから」
 時刻は間も無く 丑 (うし)三つ時。
 急ぐわけではないが、今夜はなんとなく眠れそうもなく、伽夜は手元の電気をつけて手作業をしていた。
 ちまちまと作っているのは組み紐だ。
 フミに頼んで用意してもらった紐に、祖母が残してくれた九尾の狐の衣の縁を解き紐に編み込んでいる。
 紐もそのまま使わず瓢箪の酒に浸して乾燥させている。母が伽夜に残したものなら、危険を避け守護する力があるはずだ。少なくとも涼月も飲んだのだから、彼の体にも害はないだろう。
 組み紐の途中に通した石は黒水晶だ。幼い頃に祖母がくれた御守り袋に付いていた石である。きっと意味があるはず。
 彼の健康と無事を願う自分の想いを込めて編み、手首か足首にでも付けてもらえたらいいなと思い立った。付けてもらえないかもしれないけれど、無事でいてほしいという願いは届くと信じたい。
「相手にしてもらえないのにか?」
 伽夜はにっこりと微笑んだ。
「朝食をご一緒できるんですもの、それだけで私は十分です」
「ほぉ、いいのか、妾に負けても」
 今夜の茶碗は随分食い下がる。
 やれやれと手を止めた伽夜が答えるようとする前に、屏風の付喪神が「いい加減におし!」と茶碗を叱りつけた。
「おだまり! 本人がいいって言ってるんだからいいんだよ!」
 叱られた茶碗は顔半分を茶碗に引っ込めたり、またにょきっと出たり。その様子がおもしろい。
 くすくす笑いながら、伽夜は今朝の散歩を思い出す。
 満開の八重桜の下で彼と微笑み合った。
 ささやかかもしれないが、自分にはあんなふうに幸せな時間がときどきあるだけでいい。それですら、もったいないくらいだと思う。
 両手で包み込めるくらいの、小さな幸せで十分だ。
 この家の中で、慎ましく過ごせればそれだけで満足だけれど、もしかするとそれすらも贅沢なのか。
(私は、忌むべき鬼の……)
 その後もやいのやいのと付喪神が騒ぐなか、伽夜はひとり溜め息をつく。
「ん?」
 ぴたりと付喪神が話を止める。
 ふと気づけば、階下が騒がしい。
 すでに人の時間からあやかしの時間に変わっているのに、どうかしたのか。キクヱが黒木など使用人たちの動揺する声が聞こえてきた。
「どうかしたのかしら」
 伽夜は耳を澄ませたが、くぐもった声は聞こえても内容までは聞き取れない。
 胸騒ぎが止まらない。屏風が「血の匂いがする」と言ったのを聞き、伽夜は、居ても立っても居られず部屋を出た。