***
伽夜に見送られ玄関を出た涼月は車に乗ると、黒木を振り返って表情を一転させた。
「急ごう」
「そうですね、四十分ほど遅れています」
涼月は束の間眉をひそめる。
伽夜に時間があると言ったのは嘘だ。
あきらかに元気がない様子が気にかかり、散歩に誘ったのである。
毎朝、伽夜を前にすると、薄氷の上を渡るような気持ちになる。元気なのか、困った様子はないか。一挙手一投足に目が離せない。
「伽夜様になにかありましたか?」
「――わからない」
大きな理由はなさそうだが……。
ざわざわと胸が騒ぐ。
心を覗けないのは思ったより厄介だ。
愉快だと思っていたのは最初のうちだけ。今はそんな余裕がない。
これまで涼月は、他人の気持ちを考えずにきた。
知ろうと思えばいつでも心を覗けるし、わざわざ覗かなくても、まとう空気である程度わかる。
問題を抱えていたり、よからぬことを企んでいれば、体全体から滲み出る負の波動が周りに不安を誘発し、その空気が涼月の五感に伝わってくるのだ。
誰も気づかないうちに対応するため、気遣いができる人だと思われているが、実は違う。
問題が大きくなる前に、摘み取っているだけである。
だが伽夜にたいしては、涼月の異能は無力だ。
普通の人のように、伽夜が気落ちしているとわかるだけで、原因を知ろうにもなにも掴めない。
ならば、本人になんとか言葉にさせようとするが、伽夜は口数が少ない。
遠慮深く、他人への迷惑を強く意識し過ぎるゆえに、困っていても平気なふりをする。
「キクヱからなにか聞いていないか?」
「お元気がなさそうだとキクヱも気にかけているようですが」
伽夜はちゃんと昼寝をしているのか、最近、夕食はとれているのかと聞いているうちに「ご執心ですね」と、黒木が薄く微笑んだ。
「伽夜の力がわからないうちは油断できないからな」
伽夜は感受性が強すぎる。
あの華奢な体で、力が暴走したらどうなるか。気が気じゃない。
屋敷には結界を張っている。
邪悪なあやかしは入れない。高遠家にいるあやかしは、いたずらはしても悪心はない。付喪神も同じだ。
伽夜に付喪神をつけているのは、伽夜を守るためでもある。
初夜に口づけをしたのは、万が一に備え、伽夜の体に気力を送るため。
もとよりこの結婚はあくまで儀礼的なものに過ぎなかった。
ときどき抱き、異能を持つ子が生まれれば高遠家を継がせ、そうでないならば分家より異能のあるものを跡取りを養子に迎える。それだけのこと。
だが、伽夜には、涼月が予想していなかった異能がある。
玉森家の異能に加えて、もし本当に酒呑童子の娘なら、秘めた異能は計り知れない。
伽夜には瓢箪は母が遺したと言ったが、瓢箪そのものは酒呑童子のものだ。
毎日酒を飲むように言ったのは、伽夜の身を守る力になるはずだからである。そうでなければ伽夜宛に残さないはず。
付喪神に酒呑童子の酒、すべて伽夜を守るためだ。
あやかしに対して感受性が強いのは危険が伴う。
凶悪なあやかしは人の中に入り込む力があるが、ごく普通の人間に入ったところで、同化はできず、力は半減される。
それゆえにわざわざ憑りつきはしない。
しかし、異能を持つ人間が器となると、話は変わってくる。己が持つ力のほかに異能まで手に入れる。おまけに感受性が強ければ同化も可能といわれている。
伽夜の異能がなんであれ、邪悪なあやかしの力を弾き返すほど強ければ心配ないが、とにかくはっきりするまで気にかけ、寄り添わねばならないのだ。
「厄介だな――」
気が抜けない。
「伽夜様がですか?」
涼月は半ば上の空のまま、うなずく。
伽夜の記憶の封印が解けない方がいいのか。封印が解けて、力を自覚させた方がいいのか。それもわからない。
おまけに伽夜の心は、どうしても覗けないのだ。
抱いて本当の夫婦になればあるいはと思ったが気が引けてやめた。結婚したとはいえ伽夜の心を無視するわけにはいかない。
(約束の一年のうちに、心を開いてくれればいいが……)
左右に首を振った涼月は、長い息を吐く。
「厄介なだけですか?」
怪訝そうに、涼月は黒木を振り向いた。
「どういう意味だ」
「伽夜様は純粋な方ですね。そして、とても優しい」
なにが言いたいのかと、視線の端で黒木を見た。
「それで?」
「我慢強さが気になります」
「どう気になる?」
苛立たしげに性急に聞いた涼月は、体ごと黒木を向く。
先ほどからずっと、彼はなにか言いたげだ。
「あくまで私見ですが、伽夜様はいつか出ていくつもりなのではないでしょうか」
(なに?)
一年の約束はふたりだけの秘密であるはず。
「なぜそう思う?」
「人は居場所を見つけたら少しずつ物を増やすと思うのですが、伽夜様はなにも欲しがらないのです」
それは確かにそうだ。必要なものはないかと聞いても、伽夜は『なにも』とにっこり微笑むだけである。
でも、だからといって。
「風呂敷ひと包みで、そのままふらりと出ていってしまうような……。涼月様はそうは思われませんか?」
ひとまずそれを止めるために契約結婚という方法をとったというのに。
フミも呼んで気持ちはいくらか落ち着いたとばかり思っていた。
伽夜の夢がなにかはわからないが、邸を出て行かなければ叶えられない夢なのか。
出ていく時期を一年先送りにしただけなのか。
心を開いてもらおうと涼月なりに努力している。緊張感が解けるよう、優しく声をかけているつもりだ。
(これ以上どうしろと?)
もとより涼月は華族のなかでも最高位の公爵家に生まれ、人に気を使う立場にないのである。
人々は、向こうから寄ってきて心を見せた。
こんなことで悩むのは初めてである。
「なぜだ」と、言わずにはいられなかった。
「来たばかりのときならいざ知らず、今はフミもいる。寂しくもなく、なにも不自由ないはずなのに、なぜ出て行く必要がある」
付喪神の話をするときも楽しそうだ。
心が読めなくてもそれくらいはわかる。この屋敷を怖がって辞めていった使用人とは違う。伽夜はあやかしを怖がってはおらず、むしろ親しんでいる。
「わかりません。涼月様がそう思われないなら、私の気のせいなんでしょう。申し訳ありません」
黒木は苦笑して口を閉ざした。
「いや、責めているわけじゃないんだ。気にかかることがあれば言って欲しい」
涼月は溜め息混じりにかぶりを振る。
「まだ日も浅いですし。――もう少しお二人の時間を取れるといいのでしょうが」
わかっていると吐き出しそうになり、言葉を飲み込んだ。これ以上黒木にあたったところでどうにもならない。
昨日もおとといも、キクヱから『もう少し伽夜様と一緒に、お過ごしできないのですか?』と言われている。
『伽夜が来てからずっと、朝食を共にしているではないか』
以前は朝食を取らずに出かけたりしていた。毎朝必ず家で朝食を取るだけでも涼月にとっては大きな変化であるが、それでもまだ足りないらしい。
『呉服屋を呼んだり、気にかけているぞ? ほかになにが足りないんだ?』
キクヱは『それはわかっておりますが』と、表情を曇らせるのである。
車窓から外に目を向けると、手を繋ぐ家族連れが見えた。
真ん中にようやく歩き始めた子がいて、父と母が両脇から微笑んで見守っている。少し離れた後ろには、笑いながら肩を並べて歩く男女。
今日はやけに目に痛い。
「ともに過ごす時間とは、それほど大切なものなのか」
多くの感情を見てきたせいか、人との距離をとるようになった。
美しい心に触れれば癒されるが、そういう機会はひどく少ない。ほとんどが欲にまみれ、不満を吐き出し、不平に満ちている。
人から離れて静かにひとり、心を無にして過ごす時間を大事にしてきた。
誰かと過ごす時間が大切という意味がよくわからない。
(そういえば、フミを迎えに行ったとき。話をしないとわからないと思ったな)
忙しさにかまけて忘れていた。
「温もりは、ともに過ごさなければ感じられません。心の距離を縮めるのは温もりなのではないでしょうか」
生意気言ってすみませんと黒木は眉尻を下げた。
「温もりか……」
漏れた長い溜め息とともに、こめかみに指を添える。
「――今日の夕食は家で取る」
とりあえずキクヱや黒木の進言に従い、なるべく一緒にいるしかない。
「わかりました」
今夜は満月だ。
雲がなければ、あやかしどもの動きは鈍い。夕食をともにして伽夜の近くにいよう。
(考えられるすべてをしてみるか)
涼月は恋愛感情を抱いたことはないが、必要に応じて女たちを誘惑してきた。
どうすれば女が喜ぶのかはわかっている。
瞳を見つめて微笑みかけ、まずは安心させるのが肝要だ。なにかの折に物を贈り、話をよく聞き、身につけている物を似合うと褒めて『君だけだ』と囁けば、心を震わせる。
情報を得られるのは君だけだという意味だが、彼女たちには深い意味など関係ない。嘘だろうが本当だろうが、女にはその言葉のみが大切なのだ。
顎をすくい唇を重ね、それから先はどの女も大差ない。
(どこまで通じるかわからないが、まあなんとかなるだろう。幼さが残るとはいえ伽夜も女だ)
いくらか気が軽くなったところで、高遠家が創業した第九銀行に到着した。
黒木とは銀行の前で別れた。彼には引き続き玉森家について調べるよう指示してある。
伽夜が両親と暮らした場所が知りたい。
それだけでもわかれば、父親について検討がつくかもしれない。
先代の公爵夫妻は、伽夜と母親を迎えに行ったときに、必ず使用人を伴っているはずだ。フミの後に雇った元玉森の使用人、守三から、心当たりがある人物を聞いてある。
黒木は彼らに会いに行く。
伽夜が無くした記憶の片鱗が、その場所にあるはずだ。
「遅くなった」
「お待ちしておりました。高遠様」
さあこちらへと急かされるように廊下を進む。
会議室に入って間もなく、説明を受けた涼月はうんざりとした溜め息をついた。
忌々しさを隠さず、席につく面々を睨めつける。
「相手が誰であろうと相応の担保がなければ貸さない。それだけじゃないのか?」
静まり返った会議室で、涼月の声だけが冷ややかに響く。
彼を待っていたのは大口の融資決済だ。
長いテーブルには両側に五人ずつ並んでいて、半数以上は涼月よりも年上の役員や幹部だが、皆気配を消さんばかりに俯いている。
鶴の一声を待っていると言わんばかりの彼らの態度を、涼月は冷ややかに見回す。
規定通り突っぱねればいいだけのはずが、誰もそれをできない。頭取以下、保身に走るばかりで責任を取りたくないのだろう。
書類の上に置いた指先で、コツコツとテーブルを叩き、涼月は瞼を閉じた。
第九銀行は涼月の祖父が総監役として設立から関わっているため、今もって取締役会長として名を連ねている。
だが、涼月には時間的余裕がない。すべての役職から降り、完全に身を引きたいというのが、一貫して変わらぬ姿勢である。
これを機に手を引こうかと思いかけたとき。
「相手が侯爵家なので……」
ようやく頭取が口を開いた。
負債の申し込みは 公家 (くげ)の出身の堀ノ内侯爵。
「当行には関係ない。融資を受けられなければ爵位が保てぬというなら、返上しろと言えばいい」
「で、ですが」
堀ノ内は宮家に近しい家である。たとえ間接的でも宮家が関わってくるとなると、気が重いのだろう。ぴたりと口を閉ざしてしまう気持ちもわからなくもない。
だが、それを盾にするような朽ちた土壌は崩さなければならない。銀行は華族のための慈善事業ではないのだ。
「あの家には曜変天目茶碗がある」
堀ノ内侯爵家自慢の家宝だ。国宝とも言われている。残る担保はそれくらいしかない、
「それを担保に一年という期限をつければ妥当だろう」
曜変天目というつぶやきとともに会議室がざわつくが、構わず涼月は席を立った。
「あ、あの。それは厳しすぎるのでは」
ドアノブに掛けた手を止め、振り返る涼月の目は、より一層氷のように冷たく光った。
一同は凍りついたように固まる。
「何度煮え湯を飲まされたら気が済むんだ? 堀ノ内自動車には優秀な社員がいる。彼らに実権を渡せば半年でめどが立つだろう。それができないなら倒産の道をひた走るしかないのは明白だ」
堀ノ内自動車を私物化している堀ノ内伯爵が悪の根源である。どんなに手を差し伸べても根元が腐っていればどうにもならない。
「それができないようなら、金輪際、高遠家は手を引く」
言うだけ言って扉を閉じた。
玄関に向かって廊下を進むと「会長」と呼びながら慌てたように秘書が走ってくる。
「今日はこちらに?」
「いや、帰る」
「そうですか……」
彼は今年三十になる。帝国大学を主席で卒業した優秀な人材だ。普段から冷静沈着な彼が眉を歪ませるには、それなりの理由があるはず。
「どうした?」
「実は、鬼束伯爵の周辺で少し気になる話を耳にしまして」
鬼束と聞いて、涼月は束の間考え込む。
昨夜、邪悪な鬼を捕り逃したが、鬼が消えたその先にある屋敷は、鬼束伯爵邸だ。
「当行に限らず融資を断られた華族は、鬼束伯爵を頼っているらしいんです。どうやら伯爵の方から積極的に接触してくるとか」
聞き捨てならない報告だった。
「わかった。詳しく話を聞こう」 廊下を戻り、会議室の前を通ると、微かだが声が聞こえた。
『高遠会長には心がない』
『わたしはあの人が鬼に見える』
秘書にも聞こえたらしい。気まずそうにちらりと涼月を見た。
「あ、あの……。お気になさらないでください」
涼月は口角をうっすらと上げる。
(心がない、か)
ちらりと秘書を見た涼月は、淡々とうなずく。
「彼らが言う通りだ。気にするまでもない」
自嘲するわけでなく、確かにそうだと思う。
妻をも嘘の囁きで誘惑しようというのだから、心などないのだと。
自分の心の在処など考えたこともないが――。
(人の心を覗くうち、俺は自分の心を無くしたんだ)
***
その夜、結局涼月は夕食の時間に帰らなかった。
いったん帰ってから出直すつもりでいたが、気づけば執務室で日暮れを迎えていて、空を見上げれば雲が月を隠している。
あと一年あると、自分に言い聞かせた。
黒木が言うように伽夜が出ていこうと思っていたとしても、今日明日ではないだろう。鬼は待ってくれないが、伽夜とはまたゆっくり夜を過ごせばいいと割り切った。
鬼束伯爵の屋敷も気になる。少し離れた場所で車を待たせ、黒いマントを羽織った涼月は夜の街を進んだ。
ガス燈が照らす大通りは人が行き交っている。
だが路地に入っていくと住宅から漏れる光だけになり、だんだんとその光もまばらになる。
鬼を取り逃した場所でいったん立ち止まり、気配を伺った。
なにも残っていないのを確認し先に進む。
やがて高い門が見えてきた。
鬼束伯爵家だ。
遠い昔、鬼束一族は鬼と通じ合えるという異能を持っていた。
現伯爵は完全に否定しているが、鬼を討伐する陰陽師一族である高遠家には、千年の記録が蔵に眠っている。
記録にはしっかりと残っていた。今から九百年ほど前の記述だ。
【鬼を囲い人心を惑わす】
鬼束家は公家であった。一度は官位を 褫奪 され、帝都から離れた。
その後、戦時における功績により再び表に戻っている。鬼神の働きであったというが、高遠の記録によれば鬼を使役したのではないかという疑いがある。
現伯爵は、涼月の三歳年下だ。
癖のある赤毛が際立つ美しい男である。
涼月が異能を使うことも、ましてや異能の種類も使い方も知っている者はいない。鬼束も知らないはずだ。
だが、何度か鬼束の内面を覗こうと試みたが、彼は涼月と視線が合うと必ず逸らす。
まるでわかっているかのように、会話を交わしているときも、鼻や口元などに視線をずらすのだ。
薄く微笑む彼の横顔を思い浮かべ、涼月は屋敷をじっと見た。
◆五の巻
茶碗の付喪神はちょっと意地が悪い。
「結局帰らなかったな」と楽しそうに笑う。
伽夜は口を尖らせた。
「仕方ありません。お忙しいんですから」
今夜は涼月が早く帰って夕食を一緒にとると、黒木から聞いていた。
フミが張り切っていつも以上におめかしをして彼の帰りを待ったが、残念ながら彼は帰らなかったのである。
高遠家では急ぎの伝達に鳥を使う。
鳥の足首についていた手紙には【用事ができた。食事を先に取るように】と書いてあったそうだ。
鳥は一見普通の鳥に見えるが実はあやかしだ。
あるとき鳥が、伽夜に『鬼っ子』と話しかけた。
今日も黒木に手紙を渡したあと、鳥は伽夜の部屋に来て『鬼っ子、鬼っ子』と鳴き、伽夜が庭から拾っておいた赤い木の実をあげると、ガツガツと頬張って、飛んでいった。
茶碗のあやかしは茶碗から、坊主頭の顔だけニョキっと出してにやにやと伽夜を見る。
「お前、痩せ我慢をしているんだろう?」
「そんなことないですよ? ひとりでも美味しくいただきました」
この家の人々はみんな優しい。ひとりで食事を取る伽夜が寂しくないようにと、蓄音機で音楽をかけてくれたり、『旦那様は忙し過ぎです』と伽夜の代わりに文句を言ってくれたりする。
伽夜としても正直寂しいが、涼月が忙しいのはわかっている。
寂しいくらい我慢するのは妻の勤めだと納得している。痩せ我慢とは違う。
「そんなの一生懸命作ったところで、使ってもらえないかもしれないぞ?」
「いいんです。気持ちなんですから」
時刻は間も無く 丑 (うし)三つ時。
急ぐわけではないが、今夜はなんとなく眠れそうもなく、伽夜は手元の電気をつけて手作業をしていた。
ちまちまと作っているのは組み紐だ。
フミに頼んで用意してもらった紐に、祖母が残してくれた九尾の狐の衣の縁を解き紐に編み込んでいる。
紐もそのまま使わず瓢箪の酒に浸して乾燥させている。母が伽夜に残したものなら、危険を避け守護する力があるはずだ。少なくとも涼月も飲んだのだから、彼の体にも害はないだろう。
組み紐の途中に通した石は黒水晶だ。幼い頃に祖母がくれた御守り袋に付いていた石である。きっと意味があるはず。
彼の健康と無事を願う自分の想いを込めて編み、手首か足首にでも付けてもらえたらいいなと思い立った。付けてもらえないかもしれないけれど、無事でいてほしいという願いは届くと信じたい。
「相手にしてもらえないのにか?」
伽夜はにっこりと微笑んだ。
「朝食をご一緒できるんですもの、それだけで私は十分です」
「ほぉ、いいのか、妾に負けても」
今夜の茶碗は随分食い下がる。
やれやれと手を止めた伽夜が答えるようとする前に、屏風の付喪神が「いい加減におし!」と茶碗を叱りつけた。
「おだまり! 本人がいいって言ってるんだからいいんだよ!」
叱られた茶碗は顔半分を茶碗に引っ込めたり、またにょきっと出たり。その様子がおもしろい。
くすくす笑いながら、伽夜は今朝の散歩を思い出す。
満開の八重桜の下で彼と微笑み合った。
ささやかかもしれないが、自分にはあんなふうに幸せな時間がときどきあるだけでいい。それですら、もったいないくらいだと思う。
両手で包み込めるくらいの、小さな幸せで十分だ。
この家の中で、慎ましく過ごせればそれだけで満足だけれど、もしかするとそれすらも贅沢なのか。
(私は、忌むべき鬼の……)
その後もやいのやいのと付喪神が騒ぐなか、伽夜はひとり溜め息をつく。
「ん?」
ぴたりと付喪神が話を止める。
ふと気づけば、階下が騒がしい。
すでに人の時間からあやかしの時間に変わっているのに、どうかしたのか。キクヱが黒木など使用人たちの動揺する声が聞こえてきた。
「どうかしたのかしら」
伽夜は耳を澄ませたが、くぐもった声は聞こえても内容までは聞き取れない。
胸騒ぎが止まらない。屏風が「血の匂いがする」と言ったのを聞き、伽夜は、居ても立っても居られず部屋を出た。
すると、わずかな灯りだけのはずの一階に煌々と電気がついている。
階段を下り、皆の声がする居間に入ると――。
「あっ!」
思わず声を挙げた。
振り返った涼月の左腕から血が流れている。
黒木が手にしているマントは黒いので血はわからないが、だらりと裂けていて、シャツ一枚になった涼月の左の袖は破れ血まみれだ。
「り、涼月様?」
「心配ないよ。少し切ってしまっただけだから」
涼月は伽夜に微笑むが、キクヱが巻いている包帯はみるみる赤くなる。心配せずにはいられない。
もしや、あやかしに襲われたのだろうかと息を呑んだ。
「暴漢と間違われてしまってね」
「では人に?」
「ああそうだ。だが、向こうも悪くはない。こちらの不注意だから」
間もなく医者が来るからと心配ないと言われ、促されるまま伽夜はフミと一緒に自分の部屋に戻った。
「フミ、涼月様は本当に大丈夫なの? あんなに血が出ているのに」
伽夜はフミを覗き込んだ。
表情からなにも見逃さないとばかりに、瞬きもせず。
「お願いよ、正直に言って」
「大丈夫でございますよ、服についた血は止血する前の血だそうです。ご主人様の指はちゃんと動くから心配はないと黒木様がおっしゃっていました」
フミは力強く頷き、伽夜の目をしっかりと見つめ返す。
「伽夜様、大丈夫です」
緊張の糸が切れて、伽夜はぺたんと床に尻餅をついた。
「温かい飲み物を持ってきますね」
「ああ……。ありがとう」
フミは部屋を出ると屏風から付喪神の声がする。
「鬼退治に行って、怪我をしたんだね」
付喪神はフミが気になるのか、姿を変えないまま話を続けた。
「珍しいこともあるもんだ」
「あやかしではないの。涼月様は、人に切られたって」
付喪神は答えない。
間もなく戻ってきたフミが「さあどうぞ」とカップを差し出した。
「温めた牛乳です。気持ちが落ち着きますよ」
「ありがとう」
ひと口飲み込むと、緊張でかじかんでいた身体がじんわりと温かくなってくる。
「驚きましたね」
「ええ……」
フミが背中をさすってくれる。
「使用人部屋の鈴が鳴り響いて。――初日に説明を聞いてはいたのですが、まさかこんなにすぐに聞くとは思いませんでした」
火急を知らせる大きな鈴が使用人たちが住む建物の廊下についている。その鈴がなったときは、何時であろうと皆、母屋に駆け付ける決まりになっていた。
鈴の存在は伽夜も聞いているが、
「ああいうこと。ときどきあるのかしら」
血に濡れた涼月を見て、伽夜は気を失いそうになるほど驚いたが、涼月本人はもちろん、キクヱもほかの使用人も淡々としていて、動揺しているのは伽夜だけに見えたのだ。
「私も気になって聞いてみたのですが、鈴が鳴ったのは五年ぶりだそうです。五年前は近所の火事だったそうで事なきを得たそうですが」
「じゃあ、涼月様がお怪我をしたのは、よくある事ではないのね?」
「ええ。私が聞いた女中の話によると、かすり傷はあっても、医者を呼ぶほどのお怪我は初めてのようです」
彼が深夜にあやかしを成敗していると付喪神から聞いている。頻繁に危険な目に遭ってもおかしくないし、皆の落ち着いた様子から、てっきりときどき怪我をしているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
付喪神も〝珍しい〟と言っていたから、怪我をするようなことは滅多にないんだろう。
(いったいなにがあったの?)
涼月が言うように相手が人なら、それはそれで怖い。
「伽夜様は物音で起きてしまったのですか?」
「なんとなく寝付けなくて。そうしたら声が聞こえてきて、気になって下りたの」
「そうでしたか。私が伽夜様を起こそうか迷っていると、ご主人様が起こさないようにとおっしゃったのですよ。心配ないからって」
瞳を曇らせた伽夜は、俯いて膝に目を落とした。
そんな気遣いはうれしくない。たとえ結果的に軽く済んだとしても、すぐに知りたいし、今だって涼月の側にいたかった。
(でも、私がいてもなにもできないし、邪魔にしかならない)
立派な公爵夫人なら、こんなときは動揺せずきっと毅然としているに違いないのだ。
誰も困らせてはいけないと、伽夜は気持ちを強くして顔を上げた。
「フミ、私はもう大丈夫よ。涼月様もそれほど心配ないようだし、寝るわ」
起きていても皆に心配をかけるだけだ。
笑顔を向けて床に就く伽夜に、フミは「そうですね。ゆっくりお休みなさいませ」と布団を掛ける。
「朝になれば事情もわかるでしょうから」
「うん」
もう子どもではない。寝つくまでいてくれるというフミに心配ないと笑ってみせた。
電気を消してフミが部屋から出ていくと、部屋は静まり返った。
階下から小さな物音が聞こえるだけで、もう人の声は聞こえない。茶碗も屏風も話しかけてはこない。
(お医者様は来たのかしら)
カーテンの隙間から差し込んでくる月明かりを見つめ、伽夜は付喪神との話を思い返す。
付喪神は伽夜を〝鬼の娘〟と呼ぶ。
『毎晩その酒を飲んでいるせいか、鬼の匂いが強くなってきたな。ぷんぷんするぞ』
最初の頃は、父があやかしの鬼だとは思いもせず、鬼の娘と言われても聞き流していた。
伽夜にとっての鬼は叔父一家である。そんな気持ちを見透かされたのかと思っていたのだ。
でも、違う。
自分は多分、鬼の娘なのだ。
母が身を隠した理由も、額に不自然な形の花の痣があるのも、父が鬼だから。
『私って、鬼なの?』
おとといの夜、思いきって付喪神に聞いてみた。
『お前は人だ』
『でも、鬼の娘なんでしょう?』
それならば、自分には邪悪な鬼の血が流れている。
『なにが悲しいんだ』
『鬼は残酷で、邪悪だと……』
付喪神は憤慨したように言った。
『人だって十分残酷で邪悪だ。人はあやかしばかりを悪くいう』
それからはへそを曲げてしまい、しばらく口をきいてくれなかった。
今夜ようやく機嫌を直したようで、瓢箪のお酒を飲んでいると『酒呑童子の酒なのに』と言ってきたのだ。
『ごの瓢箪のお酒は、酒呑童子のお酒なの?』
『そうさ。色男でね、最強の鬼だ』
どういう鬼かと聞くと、女性たちに愛された世にも美しい少年が、激しい嫉妬を向けられて鬼になったという話も教えてくれた。
『屏風は会ったことがあるの?』
『あるよ。二百年くらい前かな。あたしが京の都にいた頃だね』
人間の風貌をした綺麗な男だったという。
『私のお父様は酒呑童子なの?』
『そこまではわからないよ。鬼の匂いはどれもおんなじだ。でもその瓢箪があるんだから、そうなんじゃないのかい』
伽夜のような鬼の子がほかにもいるのかとも聞いた。
『いるだろ。会ったことはないが、夜行をしていると、風に乗って匂うときがあるからね。伽夜とよく似た匂いだよ』
聞けば付喪神はときどき物から抜け出し、丑三つ時の街を歩いているらしい。
ちらりと屏風を振り向いたが、付喪神がいる気配はない。
姿は見えなくても、いるときは気配がする。息づかいのようなものを感じるのだが、今はまったく感じなかった。
夜行に出掛けたのか。
(私とよく似た匂いの人……)
会ってみたいと思った。
付喪神に連れて行ってもらおうか、でもどうやって?と、考え込んだとき。
「伽夜」
涼月の声がした。
「はい?」
慌てて上半身を起こし、扉へと急ぐ。
開けると涼月が立っていた。
寝間着を着ているので腕の傷は見えない。
「眠くなければ、俺の部屋で少し話をしないか?」
「は、はい」
涼月は怪我をしていない右手を伽夜の背中に回し「心配かけてしまったね」と眉尻を下げる。
「いえ、それよりも傷のほうは?」
「血は止まった。べったりと薬を塗ってもらったし、痛み止めを飲んだからもう大丈夫だよ」
涼月の部屋に入るのは、祝言を挙げた夜以来だ。
南の大きな窓から月の光が入っていてテーブルや椅子を照らしている。
そういえばあのときも満月の夜だった。
月の光を浴びながら口づけを交わしたあの夜が、とても遠く感じ、切ない気持ちとともに瞼を伏せる。
窓を開けた涼月は、小さなテーブルの上にあるキュウリをとり、伽夜に差し出した。
「今日は河童がいるようだ」
「え、河童?」
慌てて池を見下ろしたがなにも見えない。
涼月は「見ていてごらん」とキュウリを半分に折り、池に向かって投げた。
キュウリが池に落ちる手前で、中から飛び出してきたなにかがキュウリを掴み、池のほとりで丸くなる。
月明かりなので色までははっきりわからないが、猿のように小さい。
そして頭の上に皿があり中の水が月を映している。月は半分雲に隠れていて、形はいびつだ。
初め見る河童は予想に反して少しも怖くはなかった。それどころか懐かしい気さえした。
「投げてごらん」
わくわくしながらキュウリを折り、ポンと投げた。
すると別の河童が出てきて、さっきと同じようにキュウリを掴み池の縁に出てくる。
河童は並んでキュウリを食べ、涼月が残りのキュウリを投げると縁に座っている河童が飛びついて、伽夜も投げるともう一匹がキュウリを受け取った。
月が完全に雲から出ると、河童たちは池の中に消えていく。
そのとき、「くぅー」と高い鳴き声のようなものが聞こえた。
「今のは?」
「河童が礼を言ったんだろう」
「かわいい」
河童のおかげで、塞いでいた気持ちが晴れた。
そしてなにより元気そうな涼月に会えたのがうれしい。
これでぐっすり眠れそうだと心が軽くなる。
「伽夜、今夜はここで一緒に寝よう」
(えっ……)
思いがけない誘いにトクンと心臓が跳ねる。
「この腕だからなにもしないよ、伽夜を抱いて寝れば気が和む」
うれしかった。
(気が和む……。そう思ってくれるのですか?)
断る理由などなく、涼月に手を引かれて伽夜は一緒にベッドに入った。
涼月のベッドは大きい。大人が三人並んで寝ても、余裕なほどだ。
枕を背もたれにするようにして上半身を起こし、横になった涼月は、怪我をしていない右腕で、伽夜を抱き寄せた。
涼月の首元に頬を寄せた伽夜は、それだけで胸がいっぱいになる。
ほのかに漂う涼月の香。すっきりとした丁子の匂いを感じながら、そっと彼の胸に手をあてると、穏やかな呼吸が伝わってくる。
まるでひとつになったようで、胸の奥がキュンと疼く。
「あやかし退治はしばらく休みだな」
ハッとした。やはり涼月はあやかしの退治に出かけていたのか。
怪我の理由が知りたい。伽夜は首を上げて、一言一句を聞き逃さないよう耳を澄ました。
「最近ずっと追いかけている邪悪な鬼がいてね。日本橋で起きた殺人事件を知っているだろう?」
「はい」
伽夜がまだ女学校に通っていた一月。吉原の遊女がなぜか日本橋で遺体となって見つかった。
あけぼの色に染まる街で、雪の上に広がった赤い襦袢と長い黒髪。
女性は間もなく年季が明ける遊女で、危険を犯して逃げる理由が見つからないとされた。
吉原から日本橋まで徒歩で一時間ほどかかる。裸足だし、その派手な衣装のままというのは普通に考えておかしい。
殺害され車や馬車で連れ去られたとしても、なぜわざわざ目立つ場所に遺棄したのか。
数々の疑問があるうえに、心臓だけがなくなっていたとわかり、大騒ぎになった。
「あれはやはり、あやかしの仕業だったのですか?」
世間では鬼の仕業に違いないと噂れたが、あえて伽夜はあやかしと言った。
できれば鬼の仕業ではないと思いたかったのだ。
「そうだ。若い女の心臓を喰らう鬼だ」
鬼という言葉に、ズキッと胸が痛み、思わず「鬼……」と呟いた。
しかも心臓を喰らう鬼と聞いて、恐怖に息を呑む。
「人と同じで鬼にもいろいろいるからね」
鬼にもいろいろ……。
「悪い鬼ばかりでは、ない?」
「ああ。人には興味を示さない鬼もいる」
なるほどと密かに胸をなで下ろす。
酒呑童子もそうであってほしい。もう少し鬼について聞きたいが、今はそれよりも彼の怪我だ。
いったいなにが起きたのか。
「それで? その悪鬼を見つけたのですか?」
涼月はうなずく。
「その鬼が残した気配を頼りに探し歩いていたんだ。ようやく見つけても、すばしっこいやつでね。それでも今日ようやく倒せたよ」
「すごい! すごいです!」
日本橋の事件の後にも、同じ日本橋で同じような遺体が見つかり、新聞で大騒ぎになっている。
その恐ろしい犯人を彼は倒したのだ。
「お怪我は、そのときではないんですか?」
涼月は動きを確かめるように負傷した左手を上げ、指を動かす。
「鬼を倒して気を抜いてしまったんだ。後ろから警備員が近づいていたのに気づかなかった。近くに華族の屋敷があってね」
ではやはり、彼を襲ったのは人なのか。
「異能がなければあやかしは見えない。鬼が消える直前の黒い煙はごく普通の人間でも見えるが、闇夜ではそれも見えない。深夜にうろつく黒装束男は不審に思われて当然だからね。警備員の行動は当然だ」
「それで、襲われてどうなったのですか?」
「面倒だから逃げてきた」
「えっ」
驚いた伽夜は体を起こす。
涼月はクスッと笑うが、笑い事ではない。それでは疑われたままだ。
「黒いマントに黒い帽子を被り、口元まで黒い布で覆い隠していたから誰も俺だとはわからない。その警備員を納得させるには警察を呼び、あやかしの仕業だと証明しなければならないだろう?」
「ああ……、そうですね」
涼月は異能を公けにしていない。
「警察にはいろいろと協力しているから問題はないが、倒したあやかしが日本橋の事件の犯人だと新聞屋が嗅ぎつければどうなると思う? 我が家に人々が押しかけてきて大変な騒ぎになるだろう」
新聞屋と聞いて伽夜はハッとした。それは困る。なにかのはずみで伽夜の出生の秘密が明るみになってしまうかもしれない。
だが、だからと言って……。
「人々の平和のために悪いあやかしと戦っているのに、不審者と誤解されたままだなんて」
そんなのあんまりだ。
「悲しいです」
うつむく伽夜の頬に、涼月の右手が伸びる。
「大丈夫だよ。こんなことは二度と起きない。人前で戦うときは、人にあやかしの姿が見えるよう先に術をかけておくからね」
頬から下りた指が、伽夜の顎をすくい、唇が重なる。
本当は戦わないでほしい。
「泣かないで、伽夜。――しばらく夜は出かけないようにする」
「本当ですか?」
「ああ。毎晩、伽夜と一緒にいよう。夕食をとってこのベッドで抱き合って眠るんだ」
(涼月様……)
心は熱く震えるのに、胸の中から悲しみが消えない。
心臓を喰らう鬼。
人に興味を示さない鬼もいるというが、酒呑童子はどうなのか。
涼月に聞きたいが、なにを聞いても受け止めるだけの勇気はなかった。
次の夜。
お風呂に入った伽夜はいったん自分の部屋に来た。
涼月はすでに自分の部屋にいる。
待たせてはいけないような、いそいそと行くのも恥ずかしいような、揺れる気持ちに心が揺れた。
「なんだ。今日も行ってしまうのかい?」
屏風の付喪神が「寂しいねぇ」と溜め息をつく。
「これからしばらくは涼月様と一緒に寝ることになったの」
「ふぅん」
「彼は怪我をしているから」
だから一緒に布団に入っても、なにもしないのよと、心の中で言い訳をする。
聞かれてもいないのに。
「まぁ、あいつも伽夜が一緒のほうがなにかと好都合だろうし」
「それはどういう意味?」
「お前が忘れたものだよ」
それでも意味がわからずもう一度聞き返すと。
「酒呑童子を倒せば、鬼を支配したも同じだろ?」
茶碗がそう言った。
(えっ? ――私を通して、酒呑童子を倒す)