「はい」
「まったくお前はグズね。今まで何していたの?」
叔母がそういえば、萌子が続ける。
「芝生の上にゴミが落ちているわ。お客様がいらっしゃるっていうのに」
立ち上がった萌子が、芝生ではなく石畳の隙間に落ちている木の枝を踏みつけ「ほら」と指をさす。
「早く拾いなさい。お客様が怪我をしたらどうするの」
「はい……」
落ちている木の枝に近づいて腰を下ろし、手を伸ばすが枝は掴めない。
萌子が踏んでいるのだから取れるはずがないのだ。
「ほら、早く」
仕方なく手を汚しながら枝の下に指を入れる。
朝のうち降った雨で土は濡れている。指先が湿った土に触れてひやりとした。
下から掬い上げるように掴むには掴めたが、枝は踏まれているためにビクともしない。
靴でぐいぐいと踏みつけられ指が赤くなる。
伽夜は苦痛に唇を噛んで耐えた。
「本当に、なにをやってものろまね」
萌子は伽夜の肩を押し、伽夜は転がった。
コロコロと笑った萌子は、笑い疲れたといわんばかりに大きな溜め息をつき、起き上がる伽夜を蔑んだ目で見下ろす。
叔母や萌子にとって、伽夜は家族はおろか親戚でもなく、住まわせてあげている素性のわからない卑しい娘でしかない。
「でもよかったわ。その辛気臭い顔を見るのももう終わりだもの」
よろよろと立ち上がった伽夜は頭を下げる。
「いままで、お世話になりました」
着物の袖にべったりとついた泥が目に入り、悲しさを堪えて唇を噛んだ。
「泥だらけじゃない。みっともないわね。おお嫌だ」
伽夜を睨んだ叔母が、これみよがしに大きな溜め息をつく。
「すみません……」
萌子が突き飛ばしたせいで、伽夜はなにも悪くない。
だが、この家で正論は通用しないのだ。伽夜は存在自体が悪なのだから。
「萌子のおかげで、お前のような忌まわしい者でも公爵家に嫁ぐことができるんだよ?」
縁談は当初、萌子にきた。
だが、化け物屋敷の鬼などには嫁ぎたくないと萌子は泣き叫び、叔父夫婦も嫌がった。伽夜はあくまで身代わりである。
「高遠家もお前じゃ不足だろうが、まあせいぜい追い出されないようにがんばるんだね」
不足と言われても当然だだと思った。たとえ鬼でも美しい娘の方がいいに決まっている。
高遠家では萌子ではなく伽夜が行くと知っているのだろうか。
もしかしたら、なぜ萌子ではないのかと玄関先で追い出されるかもしれない。
悲しみの上から不安が降りてくる。
「さあ、行きましょう萌子。ドレスを着替えなきゃ」
「はい、お母様」
「早く手を洗いなさい。卑しい臭いがついてしまったじゃない」
キャア、と大袈裟に声を上げながら萌子は手を振り、玄関へと走っていく。
萌子の後ろから優雅に歩いていく叔母を見送ると、残った伽夜は、あらためて着物や袴の具合を確かた。
手の汚れは洗えばすぐに落ちるから構わない。だが着物や袴は急いで洗っても、明日には乾かないだろう。
縁談相手の家に行き、追い出されない限りそのまま相手の家で暮らすよう言われているので、持てるものはすべて持っていかなくてはならないのにどうしたものか。
置いていけば捨てられてしまう。
女学校に着ていく着物はほとんどが萌子のお下がりだ。柄や着心地が気に入らないと萌子が着ない着物を〝借りている〟。返したところで、どうせ捨てられるだけだが、いずれにせよ伽夜の衣ではないから持ってはいけないのだ。
今着ているのは祖母がくれた着物と袴である。大事に大事にしてきて、今日は卒業式だからと着たのに……。
よく見れば汚れただけでなく転がった先の低木の枝に引っかかり切れてしまっていた。
(どうしよう……)
「伽夜お嬢様」
途方に暮れたまま振り返ると、フミがいた。
「急いでお着替えを。私がなんとかしますから」
フミは二十三歳。伽夜は子どもの頃から姉のように慕っている。
「ありがとうフミ」
フミに寄り添われながら途中、井戸水で手を洗い部屋に向かう。
ふと、フミの袖口から見えた腕が赤く腫れあがっているのが見えた。
「腕、どうしたの?」
フミは慌てて腕を隠し、微笑む。
「なんでもございませんよ」
きっと気分屋の叔母に難癖をつけられ折檻されたに違いない。
「お嬢様こそ、手が」
萌子に踏まれた手は、泥は取れても痛々しく真っ赤になっている。
「大丈夫よ、血は出ていないもの」
多分、一晩寝れば治る。
「そうそうフミ、女学校のお友達にもらった軟膏があるの」
手を伸ばした手提げ袋は泥がついてしまったが、中は無事だった。
「はい。使って。お別れにフミにあげようと思っていたのよ。手荒れや擦り傷に効くんですって」
「お嬢様」
見る見るうちにフミの目が滲む。
「フミにはお世話になったのに、こんな物しかなくて」
「そんな、ありがとうございます、お嬢様――。明日の朝は早いのですから、今日ばかりはゆっくりお休みになってください」
「大丈夫よ。まだ明るいうちは私もしっかり働くわ」
伽夜がやらなければ誰かの仕事が増えるのだ。それが心苦しい。
フミは「そんな」と、涙を拭う。
「ねえフミ。私、楽しかったわ。フミやみんなに優しくしてもらって。一緒に汗を流したのはいい思い出よ。最後まで一緒に働かせて」
この先、自分がいなくなったら、誰が掃き掃除と裁縫をするのだろう。叔父はここ数年で使用人を半分にまで減らしている。今でこそ余裕はないというのに。
すっかり変わってしまったこの屋敷に未練はないとはいえ、それだけが気がかりだった。
「お嬢様。お幸せになってくださいませね」
「ありがとう」
フミの優しさに、伽夜は微笑み返す。
幸せになれるだろうか。鬼の屋敷でも――。