◆一の巻
 
 
 桜の花びらが春色の着物の肩にパラリと落ち着いた。
 指先で一枚掴み、ふぅーと空に向けて飛ばした玉森(たまもり)伽夜(かよ)は、溜め息をつく。

 今日は女学校卒業の日。式典が終わり、そこかしこで生徒たちが別れを偲んでいる。
「あの子たち、さっそく花嫁修行ですって」
 五人の生徒が輪になって楽しそうに話をしている横を、伽夜は通り過ぎる。
 女学生らしく結い大きなリボンをつけている黒髪が風になびく。
 微笑んでいるように優しげな黒目がちの瞳。控え目ながら鼻筋は通り、小さな唇は紅を塗ったように赤い。肌は白く、痩せているのもあるが細い首が儚く見えた。

 伽夜の耳に聞こえてきたのは花嫁衣装の話だった。
 ある子が西洋風にするといい、別の子はやはり白無垢に憧れると言っていた。
 帝国での女性の地位は低い。華族の娘に生まれても爵位は継げないし、こうして学校に通える女性は裕福な家の娘だけだ。
 せっかく学校に通っても生徒のほとんどが、卒業と同時に結婚するか結婚を待つばかり。その結婚も自分では決められない。華族の縁談は家同士で決めるのである。
 よき人に恵まれればいいが、地位の高い男性は横暴だったり公然と愛人を囲う男性も多い。
 それでもまだ、人ならばいいほうだろう――。

 伽夜も結婚を控えるひとり。明日には結婚相手の家に送られるが、伽夜の結婚は少し事情が違う。
 結婚相手は高遠公爵家の当主、高遠涼月。年齢は二十五歳。
 高遠家の屋敷はかなり大きいらしいが、うっそうと木々が生い茂り、化け物の棲まう邸と言われている。
 一日でクビになった使用人は数知れず。そのまま行方知れずの者もいるという。

 彼自身にも恐ろしい噂があった。
 髪は金色に近く、フードを目深に被るか、目もとを仮面で被るかしている。仮面の下には醜い火傷の痕があるとか、あやかしに噛まれた傷があるとか。
 金融業や貿易業と手広く営んでいるが、情に厚いとか人に優しいという声は聞こえてこない。
 返済が滞りそうになるとすかさずやってきて、荒くれ者を雇い強引な取り立てをしており、借金の代わりに女子どもを連れ去るという。
 極めつけは親殺しの噂だ。彼の両親は車の事故で三年前にイギリスで亡くなったというが、彼の仕業だと疑う人までいる。
 耳に入ってくるのは恐ろしい話ばかり。

(血も涙もない仮面の鬼、か……)
 残酷な人間よりはいっそ鬼の方がいいかもしれないと、伽夜は自分に言い聞かせる。人でなければ、あきらめもつくだろう。
 鬼だろうが冷酷な人だろうが、ほかに道はないのだ。
 黒目がちの瞳を曇らせ、伽夜は深い溜め息を落としながら急ぎ足で進む。

(早く帰らなくちゃ)
 伽夜には友人と別れを惜しむ時間はない。校門を出ると迎えの人力車に乗った。
 人力車が走り出すと、ようやくホッとして校舎を振り返る。
 校門脇にある大きな枝垂れ桜が風に揺れている。
 ここに来れば友だちもいるし、勉強も好きだった。なにもかもが楽しかった女学校。本当に毎日が幸せだった。
 だが、そんな幸せの日々も終わりである。

 伽夜は玉森公爵家の娘で、今年十八歳になった。
 実の両親はいない。
 母は十七歳のある日、公爵家を出奔し行方知れずになったらしい。
 その母は、伽夜が七歳の時に死期を悟り実家に手紙を送り、駆けつけた伽夜の祖父母が到着したときはすでに遅く、虫の息で伽夜を祖父母に託し、そのまま帰らぬ人となった。
 母と伽夜が住んでいたのは山間にある白い洋館だったそうだ。
 祖父母の話では、慎ましいながらも幸せに暮らしていた様子がうかがえたという。
 だが、なぜそこにいるのか。
 伽夜の父親は誰なのか。なにで生計を立てていたのか。
 すべて謎に包まれている。
『伽夜と申します』
 まだ温かい母の亡骸の横で、七歳の少女は、三つ指を揃えた綺麗な挨拶をしたという。
『伽夜。父はどうした?』
『ととさまは、わかりません』
 そう答えたというが、伽夜はなにも覚えていない、
『厨房にある米や野菜はどうした?』
『毎夜。どなたかが届けてくださいました』
 祖父母は伽夜を連れて帰り、以降公爵家の孫として育てられた。
 伽夜は母によく似ていたらしい。祖父母は生い立ちを不気味がったりもせずに、大切にしてくれた。女学校にも入学させてくれたが、五年前、祖父が亡くなると状況は一転する。
 玉森家の当主は叔父に変わった。叔父一家は別の屋敷に居を構えていたが、公爵家の当主となると同時に一家で屋敷に入ったのだ。
 祖父母は伽夜の出身を隠したものの、父親がはっきりしない。もとより選民意識が強く、権威的な性格な叔父夫婦に、伽夜を受け入れる気持ちはなかった。
 同居初日から『父親もわからぬ卑しい娘』と言って憚らなかったのである。
 祖母が存命のうちは守ってくれたが、四年前に祖母が亡くなってからは敷地内にある使用人用の別棟に押しやられ、伽夜は食事も使用人と同じになり。彼らと等しく働くようになった。
 それでも女学校を卒業まで通えたのは、祖母が卒業までにかかる費用の全額を前納しておいてくれたという理由と、公爵家としての体面を保つという叔父の思惑もあったからだろう。
 
 人力車が屋敷の門に到着する。
 中に入ると車は止まり、伽夜は降りた。
「伽夜お嬢様、ご卒業おめでとうございます」
  俥夫(しゃふ)捨吉(すてきち) が頭に巻いた鉢巻を取って頭を下げた。
「今までありがとう。捨吉」
 伽夜が人力車を使えるのは女学校に行くときだけだ。
 これもまた体裁を気にする叔父のおかげともいえる。ついでに言えば、叔父一家が人力車を使うときは、乗ったまま門をくぐり玄関まで進むが、伽夜にそれは許されない。門を閉め、外からは敷地内が見えなくなったところで、降りなければならないのだった。
「大奥様も草葉の陰でお喜びでございましょう」
 捨吉は目に涙を溜める。
 今年四十歳になった彼は、親の代から玉森家の御用達らしい。伽夜の祖父母は人格者だったゆえに、結婚も子どもができたときもなにかと面倒を見てもらったらしく、祖父母の話になると決まって涙を流す。
「明日は、お車で行かれるのですよね?」
「ええ。だから捨吉と会うのもこれが最後だと思うわ」
「そうでしたか……。お嬢様、どうかいつまでもお元気で」
 大きな体を小さくして、捨吉はまた泣いた。
「捨吉もね。あ、そうだわ。これをお世話になったお礼に」
 奥様かお嬢様にと続けようとしたが言葉に詰まる。
 手にした髪飾りは、伽夜がこの屋敷に来て間もない頃祖母に買ってもらったとても古いものだ。こんな時代遅れの物をもらってもうれしくはないだろう。
 でも、今の伽夜には渡せる物がほかにない。
「なんの足しにもならいと思うけれど、私の気持ちよ」
「お嬢様。わしらなんぞに、もったいのおございますよ。ありがとうございます」
 捨吉は、また涙を流しながら喜んでくれた。
 伽夜が置かれいる今の状況を、捨吉もよくわかっている。大事そうに両手で受け取り、何度も礼を言い頭を下げた。

 捨吉に見送られながら、伽夜は中へと進む。
 伽夜が入ったのは正面の入り口だが、玄関へと続く石畳は進めない。使用人がそうするように、大木の木陰へと入っていく。
 祖父母の代では和風だった庭園は、叔父の代になってガラリと変わった。
 池は大理石で囲った噴水になり、庭木や草花が四季を彩っていた植え込みは掘り起こされて芝生に変えられた。新たに造られた温室には、外国から輸入された派手な花が咲いている。
 ふと、昔の庭が懐かしくなった。
 祖母と手を繋いで鯉に餌をやり、草花の名前を教わり。
『おばあさま、このお花、キレイ』
『これはリンドウよ。伽夜の母も、リンドウが好きだったわ』
『かかさまも?』
 どこか寂しそうにうなずいた祖母。
 この家を離れても、懐かしく思い出すのは、祖母と散歩をしたあの頃の庭だろう。今の庭も美しいとは思うが、叔父家族が楽しむ場所だ。伽夜を受け入れてくれる温かい庭ではない。

(懐かしんでいる時間はないわ)
 明るいうちに急いで着替えて、まずは掃き掃除をしなければと急ぎ足になる。
 今夜はお客さまが来ると言っていたから、その前に塵ひとつなく綺麗にしなきゃならない。
 和風庭園は花や葉が落ちていても自然に溶け込んでいたが、刈り込んだ芝生の庭ではそうはいかない。一度は朝早くに済ませているが、春風が花びらやいろいろなものを飛ばすので油断できないのだ。
 そのあとは廊下の床磨きもあるから時間に余裕はないのである。
 足早に進むと、叔母とその娘、萌子が大きなパラソルの下でお茶を飲んでいた。
 ふたりとも着物ではなく、流行りのドレスを着ている。叔母は薄い紫色のドレス。伽夜のひとつ年上の萌子は赤いドレスだ。
 広がる芝生の上で、そこだけが色が違う。浮き出るように華やかで咲き誇る大輪の薔薇のようだ。
 叔母も美人だが、萌子の美しさは十八歳にしてすでに社交界を凌駕すると言われている。
 眩しそうに目を細めた伽夜は、邪魔にならないよう静かに頭を下げて通り過ぎようとしたが、叔母に「お待ち」と呼び止められた。