◆ 序
その時代、帝国にははっきりとした身分があった。
主に国を動かしていたのは、華族という、いくつかの特権階級を与えられたほんのひと握りの人々である。
血統を重んじてきた彼らの中には、不思議な力を持つ一族がいた。
ここ高遠家もそう噂されているが、彼らの持つ力がどういったものかは誰も知らない。
◆一の巻
桜の花びらが春色の着物の肩にパラリと落ち着いた。
指先で一枚掴み、ふぅーと空に向けて飛ばした玉森伽夜は、溜め息をつく。
今日は女学校卒業の日。式典が終わり、そこかしこで生徒たちが別れを偲んでいる。
「あの子たち、さっそく花嫁修行ですって」
五人の生徒が輪になって楽しそうに話をしている横を、伽夜は通り過ぎる。
女学生らしく結い大きなリボンをつけている黒髪が風になびく。
微笑んでいるように優しげな黒目がちの瞳。控え目ながら鼻筋は通り、小さな唇は紅を塗ったように赤い。肌は白く、痩せているのもあるが細い首が儚く見えた。
伽夜の耳に聞こえてきたのは花嫁衣装の話だった。
ある子が西洋風にするといい、別の子はやはり白無垢に憧れると言っていた。
帝国での女性の地位は低い。華族の娘に生まれても爵位は継げないし、こうして学校に通える女性は裕福な家の娘だけだ。
せっかく学校に通っても生徒のほとんどが、卒業と同時に結婚するか結婚を待つばかり。その結婚も自分では決められない。華族の縁談は家同士で決めるのである。
よき人に恵まれればいいが、地位の高い男性は横暴だったり公然と愛人を囲う男性も多い。
それでもまだ、人ならばいいほうだろう――。
伽夜も結婚を控えるひとり。明日には結婚相手の家に送られるが、伽夜の結婚は少し事情が違う。
結婚相手は高遠公爵家の当主、高遠涼月。年齢は二十五歳。
高遠家の屋敷はかなり大きいらしいが、うっそうと木々が生い茂り、化け物の棲まう邸と言われている。
一日でクビになった使用人は数知れず。そのまま行方知れずの者もいるという。
彼自身にも恐ろしい噂があった。
髪は金色に近く、フードを目深に被るか、目もとを仮面で被るかしている。仮面の下には醜い火傷の痕があるとか、あやかしに噛まれた傷があるとか。
金融業や貿易業と手広く営んでいるが、情に厚いとか人に優しいという声は聞こえてこない。
返済が滞りそうになるとすかさずやってきて、荒くれ者を雇い強引な取り立てをしており、借金の代わりに女子どもを連れ去るという。
極めつけは親殺しの噂だ。彼の両親は車の事故で三年前にイギリスで亡くなったというが、彼の仕業だと疑う人までいる。
耳に入ってくるのは恐ろしい話ばかり。
(血も涙もない仮面の鬼、か……)
残酷な人間よりはいっそ鬼の方がいいかもしれないと、伽夜は自分に言い聞かせる。人でなければ、あきらめもつくだろう。
鬼だろうが冷酷な人だろうが、ほかに道はないのだ。
黒目がちの瞳を曇らせ、伽夜は深い溜め息を落としながら急ぎ足で進む。
(早く帰らなくちゃ)
伽夜には友人と別れを惜しむ時間はない。校門を出ると迎えの人力車に乗った。
人力車が走り出すと、ようやくホッとして校舎を振り返る。
校門脇にある大きな枝垂れ桜が風に揺れている。
ここに来れば友だちもいるし、勉強も好きだった。なにもかもが楽しかった女学校。本当に毎日が幸せだった。
だが、そんな幸せの日々も終わりである。
伽夜は玉森公爵家の娘で、今年十八歳になった。
実の両親はいない。
母は十七歳のある日、公爵家を出奔し行方知れずになったらしい。
その母は、伽夜が七歳の時に死期を悟り実家に手紙を送り、駆けつけた伽夜の祖父母が到着したときはすでに遅く、虫の息で伽夜を祖父母に託し、そのまま帰らぬ人となった。
母と伽夜が住んでいたのは山間にある白い洋館だったそうだ。
祖父母の話では、慎ましいながらも幸せに暮らしていた様子がうかがえたという。
だが、なぜそこにいるのか。
伽夜の父親は誰なのか。なにで生計を立てていたのか。
すべて謎に包まれている。
『伽夜と申します』
まだ温かい母の亡骸の横で、七歳の少女は、三つ指を揃えた綺麗な挨拶をしたという。
『伽夜。父はどうした?』
『ととさまは、わかりません』
そう答えたというが、伽夜はなにも覚えていない、
『厨房にある米や野菜はどうした?』
『毎夜。どなたかが届けてくださいました』
祖父母は伽夜を連れて帰り、以降公爵家の孫として育てられた。
伽夜は母によく似ていたらしい。祖父母は生い立ちを不気味がったりもせずに、大切にしてくれた。女学校にも入学させてくれたが、五年前、祖父が亡くなると状況は一転する。
玉森家の当主は叔父に変わった。叔父一家は別の屋敷に居を構えていたが、公爵家の当主となると同時に一家で屋敷に入ったのだ。
祖父母は伽夜の出身を隠したものの、父親がはっきりしない。もとより選民意識が強く、権威的な性格な叔父夫婦に、伽夜を受け入れる気持ちはなかった。
同居初日から『父親もわからぬ卑しい娘』と言って憚らなかったのである。
祖母が存命のうちは守ってくれたが、四年前に祖母が亡くなってからは敷地内にある使用人用の別棟に押しやられ、伽夜は食事も使用人と同じになり。彼らと等しく働くようになった。
それでも女学校を卒業まで通えたのは、祖母が卒業までにかかる費用の全額を前納しておいてくれたという理由と、公爵家としての体面を保つという叔父の思惑もあったからだろう。
人力車が屋敷の門に到着する。
中に入ると車は止まり、伽夜は降りた。
「伽夜お嬢様、ご卒業おめでとうございます」
俥夫 の 捨吉 が頭に巻いた鉢巻を取って頭を下げた。
「今までありがとう。捨吉」
伽夜が人力車を使えるのは女学校に行くときだけだ。
これもまた体裁を気にする叔父のおかげともいえる。ついでに言えば、叔父一家が人力車を使うときは、乗ったまま門をくぐり玄関まで進むが、伽夜にそれは許されない。門を閉め、外からは敷地内が見えなくなったところで、降りなければならないのだった。
「大奥様も草葉の陰でお喜びでございましょう」
捨吉は目に涙を溜める。
今年四十歳になった彼は、親の代から玉森家の御用達らしい。伽夜の祖父母は人格者だったゆえに、結婚も子どもができたときもなにかと面倒を見てもらったらしく、祖父母の話になると決まって涙を流す。
「明日は、お車で行かれるのですよね?」
「ええ。だから捨吉と会うのもこれが最後だと思うわ」
「そうでしたか……。お嬢様、どうかいつまでもお元気で」
大きな体を小さくして、捨吉はまた泣いた。
「捨吉もね。あ、そうだわ。これをお世話になったお礼に」
奥様かお嬢様にと続けようとしたが言葉に詰まる。
手にした髪飾りは、伽夜がこの屋敷に来て間もない頃祖母に買ってもらったとても古いものだ。こんな時代遅れの物をもらってもうれしくはないだろう。
でも、今の伽夜には渡せる物がほかにない。
「なんの足しにもならいと思うけれど、私の気持ちよ」
「お嬢様。わしらなんぞに、もったいのおございますよ。ありがとうございます」
捨吉は、また涙を流しながら喜んでくれた。
伽夜が置かれいる今の状況を、捨吉もよくわかっている。大事そうに両手で受け取り、何度も礼を言い頭を下げた。
捨吉に見送られながら、伽夜は中へと進む。
伽夜が入ったのは正面の入り口だが、玄関へと続く石畳は進めない。使用人がそうするように、大木の木陰へと入っていく。
祖父母の代では和風だった庭園は、叔父の代になってガラリと変わった。
池は大理石で囲った噴水になり、庭木や草花が四季を彩っていた植え込みは掘り起こされて芝生に変えられた。新たに造られた温室には、外国から輸入された派手な花が咲いている。
ふと、昔の庭が懐かしくなった。
祖母と手を繋いで鯉に餌をやり、草花の名前を教わり。
『おばあさま、このお花、キレイ』
『これはリンドウよ。伽夜の母も、リンドウが好きだったわ』
『かかさまも?』
どこか寂しそうにうなずいた祖母。
この家を離れても、懐かしく思い出すのは、祖母と散歩をしたあの頃の庭だろう。今の庭も美しいとは思うが、叔父家族が楽しむ場所だ。伽夜を受け入れてくれる温かい庭ではない。
(懐かしんでいる時間はないわ)
明るいうちに急いで着替えて、まずは掃き掃除をしなければと急ぎ足になる。
今夜はお客さまが来ると言っていたから、その前に塵ひとつなく綺麗にしなきゃならない。
和風庭園は花や葉が落ちていても自然に溶け込んでいたが、刈り込んだ芝生の庭ではそうはいかない。一度は朝早くに済ませているが、春風が花びらやいろいろなものを飛ばすので油断できないのだ。
そのあとは廊下の床磨きもあるから時間に余裕はないのである。
足早に進むと、叔母とその娘、萌子が大きなパラソルの下でお茶を飲んでいた。
ふたりとも着物ではなく、流行りのドレスを着ている。叔母は薄い紫色のドレス。伽夜のひとつ年上の萌子は赤いドレスだ。
広がる芝生の上で、そこだけが色が違う。浮き出るように華やかで咲き誇る大輪の薔薇のようだ。
叔母も美人だが、萌子の美しさは十八歳にしてすでに社交界を凌駕すると言われている。
眩しそうに目を細めた伽夜は、邪魔にならないよう静かに頭を下げて通り過ぎようとしたが、叔母に「お待ち」と呼び止められた。
「はい」
「まったくお前はグズね。今まで何していたの?」
叔母がそういえば、萌子が続ける。
「芝生の上にゴミが落ちているわ。お客様がいらっしゃるっていうのに」
立ち上がった萌子が、芝生ではなく石畳の隙間に落ちている木の枝を踏みつけ「ほら」と指をさす。
「早く拾いなさい。お客様が怪我をしたらどうするの」
「はい……」
落ちている木の枝に近づいて腰を下ろし、手を伸ばすが枝は掴めない。
萌子が踏んでいるのだから取れるはずがないのだ。
「ほら、早く」
仕方なく手を汚しながら枝の下に指を入れる。
朝のうち降った雨で土は濡れている。指先が湿った土に触れてひやりとした。
下から掬い上げるように掴むには掴めたが、枝は踏まれているためにビクともしない。
靴でぐいぐいと踏みつけられ指が赤くなる。
伽夜は苦痛に唇を噛んで耐えた。
「本当に、なにをやってものろまね」
萌子は伽夜の肩を押し、伽夜は転がった。
コロコロと笑った萌子は、笑い疲れたといわんばかりに大きな溜め息をつき、起き上がる伽夜を蔑んだ目で見下ろす。
叔母や萌子にとって、伽夜は家族はおろか親戚でもなく、住まわせてあげている素性のわからない卑しい娘でしかない。
「でもよかったわ。その辛気臭い顔を見るのももう終わりだもの」
よろよろと立ち上がった伽夜は頭を下げる。
「いままで、お世話になりました」
着物の袖にべったりとついた泥が目に入り、悲しさを堪えて唇を噛んだ。
「泥だらけじゃない。みっともないわね。おお嫌だ」
伽夜を睨んだ叔母が、これみよがしに大きな溜め息をつく。
「すみません……」
萌子が突き飛ばしたせいで、伽夜はなにも悪くない。
だが、この家で正論は通用しないのだ。伽夜は存在自体が悪なのだから。
「萌子のおかげで、お前のような忌まわしい者でも公爵家に嫁ぐことができるんだよ?」
縁談は当初、萌子にきた。
だが、化け物屋敷の鬼などには嫁ぎたくないと萌子は泣き叫び、叔父夫婦も嫌がった。伽夜はあくまで身代わりである。
「高遠家もお前じゃ不足だろうが、まあせいぜい追い出されないようにがんばるんだね」
不足と言われても当然だだと思った。たとえ鬼でも美しい娘の方がいいに決まっている。
高遠家では萌子ではなく伽夜が行くと知っているのだろうか。
もしかしたら、なぜ萌子ではないのかと玄関先で追い出されるかもしれない。
悲しみの上から不安が降りてくる。
「さあ、行きましょう萌子。ドレスを着替えなきゃ」
「はい、お母様」
「早く手を洗いなさい。卑しい臭いがついてしまったじゃない」
キャア、と大袈裟に声を上げながら萌子は手を振り、玄関へと走っていく。
萌子の後ろから優雅に歩いていく叔母を見送ると、残った伽夜は、あらためて着物や袴の具合を確かた。
手の汚れは洗えばすぐに落ちるから構わない。だが着物や袴は急いで洗っても、明日には乾かないだろう。
縁談相手の家に行き、追い出されない限りそのまま相手の家で暮らすよう言われているので、持てるものはすべて持っていかなくてはならないのにどうしたものか。
置いていけば捨てられてしまう。
女学校に着ていく着物はほとんどが萌子のお下がりだ。柄や着心地が気に入らないと萌子が着ない着物を〝借りている〟。返したところで、どうせ捨てられるだけだが、いずれにせよ伽夜の衣ではないから持ってはいけないのだ。
今着ているのは祖母がくれた着物と袴である。大事に大事にしてきて、今日は卒業式だからと着たのに……。
よく見れば汚れただけでなく転がった先の低木の枝に引っかかり切れてしまっていた。
(どうしよう……)
「伽夜お嬢様」
途方に暮れたまま振り返ると、フミがいた。
「急いでお着替えを。私がなんとかしますから」
フミは二十三歳。伽夜は子どもの頃から姉のように慕っている。
「ありがとうフミ」
フミに寄り添われながら途中、井戸水で手を洗い部屋に向かう。
ふと、フミの袖口から見えた腕が赤く腫れあがっているのが見えた。
「腕、どうしたの?」
フミは慌てて腕を隠し、微笑む。
「なんでもございませんよ」
きっと気分屋の叔母に難癖をつけられ折檻されたに違いない。
「お嬢様こそ、手が」
萌子に踏まれた手は、泥は取れても痛々しく真っ赤になっている。
「大丈夫よ、血は出ていないもの」
多分、一晩寝れば治る。
「そうそうフミ、女学校のお友達にもらった軟膏があるの」
手を伸ばした手提げ袋は泥がついてしまったが、中は無事だった。
「はい。使って。お別れにフミにあげようと思っていたのよ。手荒れや擦り傷に効くんですって」
「お嬢様」
見る見るうちにフミの目が滲む。
「フミにはお世話になったのに、こんな物しかなくて」
「そんな、ありがとうございます、お嬢様――。明日の朝は早いのですから、今日ばかりはゆっくりお休みになってください」
「大丈夫よ。まだ明るいうちは私もしっかり働くわ」
伽夜がやらなければ誰かの仕事が増えるのだ。それが心苦しい。
フミは「そんな」と、涙を拭う。
「ねえフミ。私、楽しかったわ。フミやみんなに優しくしてもらって。一緒に汗を流したのはいい思い出よ。最後まで一緒に働かせて」
この先、自分がいなくなったら、誰が掃き掃除と裁縫をするのだろう。叔父はここ数年で使用人を半分にまで減らしている。今でこそ余裕はないというのに。
すっかり変わってしまったこの屋敷に未練はないとはいえ、それだけが気がかりだった。
「お嬢様。お幸せになってくださいませね」
「ありがとう」
フミの優しさに、伽夜は微笑み返す。
幸せになれるだろうか。鬼の屋敷でも――。
***
明くる朝、遠巻きにした使用人たちに見送られ、伽夜は叔父と一緒に車に乗った。
(みんな、元気でね)
フミもほかの使用人達も皆ひっそりと泣いている。
朝方声をあげて泣いた使用人が叔母に厳しく折檻された。だから泣かないでほしいと思うが、伽夜の目にも涙が光る。
彼らの姿が小さくなり、やがて見えなくなるまで、伽夜は車の窓を振り返った。
叔父はもともと口が少ない。会話もなく車に揺られながら、膝の上の風呂敷包みをギュッと握り締める。
伽夜の生活は質素だ。たいしたものはない。
昨日汚してしまった着物と袴は、しっかりと乾いてからフミが高遠の邸に届けてくれると言ってくれた。包みの中は幾らかの着替えのほかは祖母の形見の帯締めと、母の形見の小さな髪飾りだけ。
高遠家から身一つでいいと言われたらしく、言葉通りに吝嗇家の叔父はなにも用意はしてくれなかった。
ふと、朝食を思い出す。
(美味しいパンだったなぁ)
今朝もいつものように明け方に起きて掃き掃除をしていると、叔父に朝食を一緒に取るようにと呼ばれた。
最後の晩餐ならぬ最後の朝食。叔母と萌子はとても不満気だったが、叔父なりの配慮らしい。
スープにこんがりと焼けたパン。野菜だけでなく卵焼きやハムが添えられ、果物もつくという贅沢な洋食だった。
伽夜の普段の朝食は具のないおにぎりひとつだし、祖父母がいた頃は和食である。叔父達は普段ああいった朝食を取っていたのかと、ぼんやり思う。
「伽夜、余計なことは言うなよ。お前はわたしの娘としか先方には言っていない」
「はい」
この時代、妾も多かったせいか養子や養女は珍しくない。女学校にも通っていたから詮索はされないはずだ。そしてなによりも――。
もし両親の秘密がわかってしまったら、どうなるのか。
恐怖からくる緊張が背筋に走る。
『いいかい伽夜。戻ってきたら、助田様に嫁がせるからね』
今朝、叔母に挨拶をするとそう言われた。
『助田様……?』
『お前はもともと助田様に嫁がせる予定だったんだ。まあどうせこの縁談に高遠様は乗り気じゃないし、すぐに追い返されるだろうから、そのまま助田様のところへ連れて行くよ』
助田は子爵だ。おそらく歳は五十近い。
何度も再婚を重ねていて、その度に妻は早逝している。残忍な嗜好があり、妻たちは痛めつけられたまま死んだらしいと、女学校で噂になっていた。使用人も何人も行方知れずになっているという。
単なる噂ではないと思ったのは、助田が玉森家に来たときだ。
今から半月ほど前、珍しく伽夜は母家に呼ばれ、夕食を共にとった。叔父夫婦はいたが、なぜか萌子はおらず、助田がテーブルの向かいの席にいた。
『ほぉ、これは美しい……』
そのとき助田が向けた蛇のような眼差しを忘れられない。
残忍に光る目を思い出し、ぞわぞわと鳥肌がたった。
伽夜は腕をさすり、ふぅっとゆっくり息を吐く。
前門の虎後門の狼ならぬ、前門の鬼、後門の蛇か。蛇は嫌だ。どうせならならば鬼がいいと思った。
(私だって、あやかしの娘かもしれないんだもの)
気持ちを切り替えようと車窓から外を見た。
車に乗るのは初めてのせいか、街の景色がいつもと違ってみえる。
ワンピースやブラウスにスカートという洋装の若い女性も多い。帽子をかぶり、髪も短かかったりして、時代の最先端をいく彼女たちは溌剌としている。仕事中なのか、颯爽と歩く姿が眩しい。
できるなら彼女たちのように働きたかった。誰にも迷惑をかけず、自分の力で。
そしていつか、父を捜したい。父が本当にあやかしだとしても……。
こみ上げる思いに涙が溢れそうになり、伽夜は風呂敷包みをきゅっと握り締めた。
賑わう通りから離れ、住宅地を進み車は減速する。
高遠家に到着したらしく、大きな門構えである屋敷の前で、車が止まった。
屋根がある歴史を思わせる木造の門。
樹木がうっそうと生い茂る、あやかしどもが棲まう家という噂通り、どこまでも続く高い築地塀の上から高木がいくつも見えた。
いよいよかと思うと緊張感から、指先が震えてくる。
車を降りると、叔父が「いつきても不気味な家だ」と吐き捨てるように言った。
門が開き案内されて進むと、洋装の男性が歩いてくる。
「いらっしゃいませ玉森様。主は急ぎの用で出かけておりますが、すぐに戻りますので、中でお待ちください」
「そうか。では、私はここで失礼する」
男性が驚くのも構わず、叔父は伽夜に「行きなさい」と告げ背中を向けた。
叔父を追いかける男性と叔父を振り返って見つめ、ぽつんとその場に残った伽夜は、まるで捨て猫になったようだと思った。
運が良ければ拾ってもらえるが、悪ければ――。
あてもなくどこかに行くしかない。
玉森にはもう二度と戻りたくない。助田子爵のところに送られるくらいなら、どこかで野垂れ死んだほうがましだ。
いっそあやかしにでもなって、この美しい庭に棲みつけたらいいのに。
つらつら考えながら進む縁側の廊下から、伽夜は庭を見つめた。
樹木は多いが、噂に聞くような鬱蒼とした感じではなかった。
日差しが程よく地面を照らしていて明るいし、妖しい化け物などいそうもない。手入れが行き届いていて、むしろ邪悪なものは入り込めないだろうと思う。
噂というのは、やはりあてにならないものだ。
(見事なお庭だわ)
こんもりとした築山があり、うねるように水が流れ池へと続いている。水面を縁取る岩と苔と草。さらさらと岩の間を落ちる水音が、伽夜の座る席まで聞こえてきそうだ。
池の上へとせり出すように枝垂れ桜が揺れている。
その先の木はイロハモミジか。秋になれば赤や黄色に色づく美しい紅葉が見れるはず。
池に落ちた桜の花弁が水の輪をつくる様子も美しく、伽夜は感嘆の溜め息をつく。
昨日今日できる庭ではない。何十年、あるいは何百年かけてできあがったであろう歴史を思わせる。
高遠家は平安時代から続く名家であると聞く。
京の都から帝都に移り住んでどれくらい経つのかわからないが、石に貼り付いた苔、ごつごつとした太い幹。すべてが長い年月を思わせた。
邸も立派である。
西洋風だった玉森家とは違い、高遠家は和洋折衷で、どちらかといえば和風寄りの二階建てだ。部屋数は想像できない。とてもたくさんあるには違いないが。
柱や梁の艶もだが、調度品もかなりの年代ものばかりであり、そのせいかとても落ち着いた雰囲気が漂っている。
まだ足を踏み入れてわずかしか経っていないのに、この屋敷は建物といい庭といい、なんとなく居心地よく感じた。
「どうぞ、こちらにおかけください」
「はい。ありがとうございます」
伽夜はぽつんと一人きりで、猫足の椅子に座った。
高遠涼月は、数々の事業を経営しているゆえ、多忙なのだろう。朝から仕事に出掛けているらしい。
叔父は結局帰ってしまった。
車を降りる前に、叔父に念を押されている。
『今日から高遠家がいいと言う日まで、お前が高遠家の嫁として務まるかどうかの見習い期間だ。玉森家の者として粗相のないようにするんだぞ』
『はい。わかりました』
伽夜は池を見つめながら、見送りに出てくれたフミやほかの使用人たちの涙を思い浮かべた。
祖父母がいなくなってからの毎日はつらい日々ではあったが、フミや優しい使用人達が一緒だったおかげで寂しくはなかった。
でも、今日からは一人きりだ。
心細さに身を縮め、膝の上の風呂敷包みを握りしめる。
ボーンボーンと大きな音にハッとして顔を上げれば、柱時計が十一時を指している。
ここに通されてから、三十分以上が経っていた。
(やはり私がお気に召さないのかしら……)
高遠家は、萌子を望んでいた。
『聞いたと思うけど、高遠様は私をお望みなのよ』
萌子からもそう聞いている。
『私はあんな仮面を被った恐ろしい化け物みたいな人は絶対に嫌。化け物同士、お前にぴったりでしょう?』
萌子のように美しい娘を期待していたに違いない。話が違うとお怒りで、だから叔父は逃げるように帰ってしまったのか。
もし、このまま会ってももらえず帰されたらどうしようと、次々に不安が襲ってくる。
助田の目を再び思い出し、恐怖にごくりと喉が音を立てた。
とにかく二度と玉森には帰りたくない。
不安に震える腕をさすりながら、いっそ、使用人としてでもいいからこの家に置いてもらえないだろうかと思った。
仕事は嫌いじゃない。つらい水仕事でもいいから、この美しい家にいたい。夢中で働けば寂しさくらい乗り越えられる。
藁にもすがりたい気持ちで唇を噛んだとき「お待たせいたしました」と執事が現れた。
「間もなく涼月様がお見えになります」
「はい。ありがとうございます」
執事は三十代と思われる、淡々と落ち着いた雰囲気の男性だ。
「伽夜様、コーヒーは召し上がりますか?」
「いえ。飲んだことはありません」
「そうですか。では紅茶をお入れしましょう」
執事は、伽夜がほとんど口にしなかった冷めたお茶を、盆に乗せる。
「あっ、すみません」
せっかく入れてもらった緑茶を無駄にしてしまった。
「お気になさらず」
にっこりと微笑んだ彼が扉の向こう側に消えると、微かに男性の話し声が聞こえた。
いよいよだ。
それから更に十分ほど立って扉が開き、背の高い若い男性が入って来た。
椅子から立ち上がった伽夜の背丈よりも、頭ひとつ高い。そして――。
伽夜は彼を見てハッとした。
(本当に仮面を被っているわ……)
噂で聞いていた噂通り、高遠涼月は顔の頬から上が隠れるような黒い仮面をつけている。
だが、よく見ればとても麗しい人だ。
実業家らしい三揃いの洋装に身を包んでいるが、腰の位置が高くて脚が長い。すらりとした体躯には洋装がよく似合っている。
意志が強そうに結んだ唇、高い鼻梁、いくらか長めの髪は、噂通り金色とまではいかないが明るい茶色だ。
そして、なによりも驚いたのは目。
黒い仮面は目のところが穴が開いている。気のせいか光があたった瞬間、仮面に隠れた瞳が金色に光ったように見えた。
彼は伽夜の正面の席に向かって歩き、椅子に腰を下ろす。
背もたれが高くてゆったりとした肘掛けがある西洋風の椅子が、彼の雰囲気にとても似合っていた。
正面からだと彼の目ははっきりと見えた。
瞳は金色ではなく、 榛色である。
さっき金色に見えたのは錯覚だったのか。
(それにしても、とても綺麗な瞳だわ)
ジッと見つめていたと気づき、頬を赤らめた伽夜は慌てて頭を下げた。
「玉森伽夜と申します」
「高遠涼月だ」
再び執事が現れて、焼き菓子の乗った皿をテーブルの上に置く。焼きたてなのか、濃厚なバターが混ざった甘い香りがふわりと漂った。
伽夜の前に紅茶のカップを置き、ポットからとくとくと紅茶を注ぐ。
涼月のほうには黒い液体の入ったカップを置いた。初めて嗅ぐ芳醇な香りに、これがコーヒーなのか。
さっそくカップを手にした涼月を見つめながら、伽夜は決意を新たに大きく息を吸う。先に言わなければならない。――断られる前に。
勇気を奮い起こし、立ち上がった。
「お願いがございます。私では役不足でしたら、使用人で構いません。私を雇っていただけませんでしょうか?」
切実な気持ちのまま訴える。
「雑巾がけでも庭掃除でもなんでもします。――ただ、望みはひとつだけ。使用人としていくらかでもお給金さえ頂ければ、それだけで十分でございます」
言うだけ言って頭を下げた。
女中としてちゃんとやっていけるはず。今までも日の出とともに起きて働いてきた。水仕事も慣れれば上手くなる。だからどうか。
唇を噛んで返事を待った。
「給金?」
「はい。働きに見合う額で結構です、わずかでも……」
うつむいたままジッと返事を待った。
だが、涼月はなかなか答えない。
いきなりお金の話までして、ずうずうしいと思われたかと、羞恥心と同時に悲しくなる。
でも、恥ずかしがってはいられない。どうしても必要なのだ。せめて数日、安宿に泊まれるだけでいい。それだけあれば、ほかに仕事を探せる。
一文無しではさすがに不安だから――。
沈黙に耐えかね顔を上げると、涼月はゆったりと口を開いた。
「それで、給金をどうする? 玉森家に送るのか」
「いいえ。そうではありません。玉森家とはまったく関係がありません。私個人の問題なのです」
玉森がお金に困っているのかと思われたら困るので、それだけは否定した。
「ではなにに使うのだ?」
「それは――」
ずっとここで働けるなら、むしろお給金はいらない。
だが、そうはいかないだろう。
公爵家の娘が、嫁ぐはずの家で使用人として働いているなどと、世間体を気にする叔父が黙っているはずもなく、きっと連れ帰されてしまう。
働くにしても、いつまでもここにいては迷惑になる。
短期間でいい。宿に泊まれるだけのお金をもらえれば、あとはきっとなんとかなる。食堂や店員など求人の貼り紙も見た記憶があるから。住み込みの働き口もきっとあるはず。
とはいえ、それは言えない、
「申し訳ございません――秘密でございます。ほんの数日でもかまいませんから」
そう答えるしかなかった。
***
(さて、どうしたものか……)
高遠涼月は内ポケットから懐中時計を取り出した。
春のうららかな日差しを浴びて、手にした時計がキラリと光る。
柱時計と懐中時計の時刻を合わせ見れば、午前十一時十分。どちらもまったく同じ時刻。遅くとも十時半には来るとわかっていたから、四十分近く待たせてしまったようだ。
喉を潤してから謝ろうと思ったが、その隙もない。
ひと口飲んだコーヒーをテーブルに置き、小さく溜め息をつく。
気を取り直して顔を上げた先、テーブルを挟んで向かいの席にいるのは、玉森家の令嬢、玉森伽夜、十七歳。
『申し訳ございません。――秘密でございます』
そう言ったまま彼女は行儀良く三つ指を揃え、ずっと頭を下げている。
(はぁ……)
密かに溜め息をつき、涼月は彼女を観察した。
公爵家の令嬢らしく美しい着物を着て、髪の上半分をふっくらと後ろで結い、大きなリボンをつけている。女学校を卒業したばかりの彼女は前髪を下ろしているせいか、少女のような幼さが残って見えた。
とはいえ、帝国の決まりで女性は十六になれば結婚できる。十分大人だ。
十日ほどここで生活し、問題なければ結婚する約束になっているが……。
挨拶もそこそこに、彼女は思いがけないことを言った。
『お願いがございます。嫁が無理でしたら、使用人で構いません。私を雇っていただけませんでしょうか』
涼月は仮面の奥で眉を顰め、涼しげな目を怪訝そうに細めて考えた。
聞き違いだったのかもしれないと思い。『給金?』と聞き返したが、彼女は働きに見合う額でいいと答えたのだから、勘違いではないのだろう。
「女中と同じように、か?」
確認のために聞いた。
「はい」
顔を上げた伽夜は、真剣な目をして真っ直ぐ涼月を見つ返してくる。
見たところ、ごく普通の令嬢に見えるし、言葉遣いも仕草も様子もなんら変わったところはない。
さて困った。
この縁談はただ舞い込んだわけではない。
ひと月ほど前、昨年亡くなった祖母の遺品から手紙が出てきた。
【涼月、玉森家の娘を嫁にもらいなさい】
玉森家も、高遠家のように異能を持つ一族と言われているが、最近は分家を含めそんな話は聞こえてこない。
半世紀前までは、玉森家に限らず、人前でも異能を見せる華族は十を超えた。
だが、現在はまったく聞かない。
異能が必要なくなるほど便利な世の中になったのもあるが――。
最大の理由は五十年ほどの前の事件だ。
日本橋で血がカラカラに抜けた若い女の遺骸が、河原に放置されるるという事件が続いた。
犯人は 不知火侯爵。鬼の末裔で人を幻惑する異能をもった男だった。
男の家からは若い女の血を溜めた風呂があったという。
侯爵は死刑。不知火家は官位を剥奪されたが、その事件を機に、異能に対する世間の目が変わった。西洋の魔女狩りのように、屋敷には石が投げ込まれ、駕籠が襲われて中にいた華族の令嬢が撲殺される事件が起きた。
犯人はごく平凡な庶民。娘を不知火侯爵に殺された父親で、世間は犯人のほうに同情した。
以来、多くの家では異能を封印し、異能のない者が家長になるなどして、平和に生きる道を選んだのである。
高遠家の異能は、あやかしの力を封じる異能であるため事なきを得たが、玉森家はあやかしを見知し会話を交わすという異能であったため、世間の目は厳しかったはず。
そんな事情ゆえ、異能を封印したのだろう。
いずれにせよ現在の玉森公爵に異能の気配はまったくない。
高遠家では金融業を営んでいるため、彼らの懐事情には詳しく、手に取るようにわかっている。
玉森公爵は金遣いが荒く、そのくせ働くという概念がないようで、財産は減る一方だ。広大な土地を持っていたはずだが、彼らの代になり早くも半分近く失っている。
ある意味人間らしい俗物だといえる。
異能がある者はくだらぬ欲に流されはしない。玉森公爵にもいくらかでも異能があれば、そこまで落ちぶれなかっただろう。
だが、涼月はさほど気に留めなかった。
華族の結婚は家同士のものであり、自由な恋愛による結婚は 野合として侮蔑される世である。涼月自身、恋愛に興味もなく、祖母の遺言に従うだけだ。
遺言をもとに、仲介人を立て玉森家に縁談をもちかけた。
当初、嫁になる娘は萌子だとばかり思っていた。
というのも、舞踏会で見かける玉森家の娘は萌子だけだった。
萌子という娘は公爵家自慢の娘らしく、華やかで男たちに人気があった。玉森萌子と聞けば女性に興味のない涼月でさえその名を知っていたほど有名である。
公爵家に娘がもうひとりいると知ったのは、仲介人を通してだ。
『伽夜様とおっしゃるお嬢様です。人見知りが強く邸に引きこもっておいでのようですが、女学校にも通いひととおりの教育は受けているそうですので、公爵家の嫁として問題はないかと……』
仲介に入った男爵は、心苦しそうにそう言った。
玉森家の血を引く娘であれば、涼月としてはなんの問題もない。迎えるのは伽夜と決まったのである。
そして、迎えた今日。
目の前にいるのは玉森伽夜だ。
伽夜は華やかな萌子とは似ても似つかない。むしろ真逆という第一印象である。
萌子は原色の薔薇のようにはっきりとした目鼻立ちだが、伽夜は可憐な娘だ。
穏やかな目もと。高くはないが形のいい鼻。微笑みを浮かべた頬と小さな唇。透けるように白い肌。細い首から察するに痩せているようだが、庭に咲く桔梗のように凛とした美しい娘である。
薄い水色の着物は先代から伝わる品なのか、歴史と伝統を感じさせた。
最近の流行りである派手な色でなく、古典的だが随所に刺繍が施されている上質な着物であり、彼女のように初々しい娘によく似合っている。
涼月は並外れて記憶力がいい。ひと目でも見ていれば覚えがありそうなのに、目にした記憶はなかった。
たおやかな美人ゆえ噂のひとつもあってよさそうだが、名前も耳にしたことがないので、おそらく彼女は一度も表に出てきていないのだろう。
いろいろと変だ。
仲介人は人見知りが強い娘だと言っていたが、それにしてはしっかりとしているように見える。
(給金とはな)
良家の令嬢の嗜みとして、金を口にするのは下品とされる。
金というのは、湯水のようにどこからか自然に湧いてくるものと信じて疑わない。良くも悪くもそれが涼月の知る深窓の令嬢だ。
金銭的に落ちぶれてきたとはいえ、仮にも公爵家の娘が、金を口にするとは。
うつむいているゆえに表情が見えないが、いったいどんな顔をして、給金などと言いだしたのか、ふつふつと興味が湧いた。
「ひとまず座って」
「はい……」
涼月はあらためて伽夜をしげしげと見た。
ゆっくりと椅子に腰を下ろし顔を上げた彼女は、臆する様子も見せず、まっすぐ涼月の瞳を見返す。
どこまでも真剣に訴える目だ。
「どうかお願いいたします」
再び頭を下げる様子から深刻さが伺える。
さてどうしたものか。
高遠の屋敷は大きく広い。部屋数も物置部屋を除いても両手両足の指に余るほどあるし、敷地は広く、庭園があり、入り口はさらにそのずっと先。二階南側の部屋から見渡しても門が見えないほど遠い。
住み込みの使用人は男十人。女が十五人。母屋の西には使用人用の建物もあり、部屋は余っている。
通いの使用人も入れると三十人。それでも屋敷の構えにしては少ない方だが、信用できる者しか近くに置きたくない。いくらか人数を増やしてほしいと執事に言われてはいるが、だからといって話は別である。
玉森公爵家の令嬢を女中にできるわけがない。
わかっているだろうに、なんの気まぐれか。
伽夜の目的がわからないので、涼月はひとまず話を合わせた。
「それで、君はなにができる?」
「掃除、洗濯、お裁縫。お料理もいくらかは」
より一層ジッと伽夜を見つめ、なるほど、と目を閉じる。
自信があるところをみると経験があるのだろう。
深窓の令嬢にはありえない話だが、玉森家の教育方針なのか。
しばし考えこみ、ゆっくり瞼を上げると伽夜と目が合った。彼女は相変わらず真っ直ぐに見つめ返してくる。
純粋な瞳で――。
「金の使い道は、言えないのだな?」
「はい。申し訳ございません」
項垂れて、消え入りそうな声だが、しっかりとした意志を感じる。
秘密か、と心で呟いた。
こんなふうに堂々と、秘密を宣言されたのは初めてだ。
(おもしろい)
涼月はわずかに口角を上げる。
なにやら愉快だった。
「君、ダンスはできる?」
突然ダンスと言われて面食らったのか、顔を上げた伽夜は怪訝そうに「はい」とうなずく。
「どこで覚えた?」
「女学校の友人から教えてもらいました」
鹿鳴館での舞踏会で、まともに踊れる女性は少ない。今のところ踊れるのは芸妓あがりか、海外での在住経験がある女性のみだ。
念のためダンスを教えてくれたという友人の名を聞き納得した。その家なら知っている。夫人は留学の経験があり、ダンスが上手く英語やドイツ語も堪能な女性である。
「外国語は話せるか?」
「英語、ドイツ語は日常会話なら。フランス語も少し」
涼月はうなずき立ち上がリ、壁際にある蓄音機に向かう。
「では、踊ってみよう」