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生温かい風に揺らされたカーテンが頬をくすぐる。
授業中の教室内は先生の声を除いて静まり帰っていて、誰かが雑談でも始めれば、それがどれほどの小さな声であろうと頭に響くノイズとなるだろう。けれどグラウンドではどこかのクラスが体育の授業を受けている。声援の声やバットがボールを弾く気持ちの良い音が聞こえてくるのに、不思議とそれは邪魔にならない。蝉の鳴き声や扇風機が働く音と同じ、ただの効果音だ。
聞かなくてはならない授業の内容もそう。タブレットを両手で持ち、物語の内容を読み上げる先生の低い声は思考の妨げにならず、意識は一枚のプリントに向けている。
進路希望調査。提出期限は今日。
第三志望まで書かなくてはならないそれを埋めることが出来ず、考えることを苦手とする頭はいっぱいになっていた。諦めてペンを置いて、腕を枕に突っ伏す。頭を休める時間も必要だ。
「……と……もと……榎本未羽!」
「はい!」
全身に突き刺さる声が反射的に椅子を引かせた。クスクスと笑うクラスメートを見渡すと、いたたまれない気持ちになる。ホームランを打ったらしい喜びの声がグラウンドから聞こえてきた。
「休み時間まであと十五分我慢しなさい。立ったついでに続き読んで」
寝る体勢に入っていたのだから、続きがどこだか分かるわけがない。だからこそ先生も説教を踏まえたいじわるのつもりで言ったのだろう。
読めなくとも正直に告げることは出来ず、ゆっくりとタブレットを持ち上げた。授業終わりのチャイムが今この瞬間に鳴ってくれれば私のピンチは救われるのに。
そんな不満を時計に対して抱いたときだ。二十四時間、一年中サイレントマナーモードにしているタブレットが無音でメッセージを受信した。開けずとも、その内容は小さく表示される。
『第三段落の三行目!』
送ってくれた友人をチラリと見ると、右手にピースサイン。続けて彼女から送られてきたメッセージはスタンプ。これは開けないと見られないけれど、多分おはようスタンプだと思っている。
(ありがとう)
お礼の言葉と欠伸のスタンプで返信する前に音読を済ませる。読めなかったら嫌みの一つでも言われただろう。きちんと続きから読んだことで先生はそれ以上何も言わなかった。再び椅子に座ったときには、もう笑いの声は一つも無くなっていた。
『また遅くまで本読んでたの? この本オススメだよー! 私は映画で観たから読んでないけど』
笑みが零れ落ちるのをグッと堪える。先生の目が黒板に向けられているのを確認して、返信の文章をフリックで打ち込んだ。
『じゃあ私も映画から手をつけようかな。放課後観てみるよ!』
私は何日もかけてゆっくりと本を読む方が好きだけれど、映画好きの友達は一刻も早く語りたいだろう。映画を観た後、気に入ったら買って読めばいい。本は直ぐには逃げない。電子書籍なら売り切れる心配もない。
(あと十分……)
性格には八分か、七分か。授業が終わるまで何をしようか。
机の上にあるプリントに目を向けた。第一希望の欄に「大学進学」と走り書きする。
その後はタブレットを持って電子書籍のリーダーを開けた。読みかけの本の続きでも読んでいよう。
そう思ったのに。
(いいの。あれで提出しよう)
適当に書いた進路が頭に引っ掛かかっている。本の内容に集中出来なかった。
将来の夢なんて、考えたところで意味はないのに。
◇◇◇◇◇
終礼が終わると、掃除を始める生徒、部活に行く生徒、速やかに帰宅する生徒、教室で友達と雑談をしてからのんびりと帰宅する生徒にそれぞれ分かれる。
掃除当番が帰った後の、人の少ない静かな放課後が私は好きだ。吹奏楽部の各生徒達による練習音が響き渡っているこの時間。渡り廊下を抜けた先、一つのガラスの戸を越えると、防音設備が施されているわけでもないのにオーボエの音もトランペットの音も耳に入らなくなる。
入学した当初から放課後の図書室通いは日課のようなものだ。図書委員と司書が座っている受付の横を通り過ぎて視聴覚コーナーの方へ足を進め、教えて貰った映画のタイトルを検索機に打ち込む。無ければレンタルしようという考えは杞憂に終わった。
場面に表示された棚の番号を記憶すれば、あとはそこから探すだけ。
(洋画コーナーの左から六番目の棚……あった!)
幾つも並んでいるDVDを一つずつ指で辿り、目的の一枚を探す。この作業が割と苦手で、つい見落としてしまうことは珍しくない。今日は運が良いようで、観たい映画は直ぐに見つかった。
この棚の近くにもパソコンはいくつもあるけれど、あえてそこは選ばない。CDやDVDの棚から遠い、周囲が本棚で固められている付近の机が利用者の少ないお気に入りの場所だからだ。何度もディスクを入れ替える音楽鑑賞が目的であれば不便な場所だけれど映画を観る場合はそうでもなく、人が背後を行き来することがない分、下校時刻まで気が散ることなく集中出来る。それも今だけだろうけど。
(視聴覚室になったら、ここも人が増えるのかな)
電子書籍が普及により紙書籍は徐々に数をなくし、長い年月をかけて図書室という場所も各地の学校から消えている。この学校の図書室もとうとう失われることが決定し、もうすぐ視聴覚室となる。嘆く声もあったらしいが、私は楽しみだ。
紙書籍よりは電子書籍が好きで、紙書籍よりは映画が好きで、音楽を聴くことも嫌いじゃない。
図書室で貸し出せるタブレットには既にいくつもの電子書籍が納められているけれど、それが数倍に渡って数が増えるというのだから、楽しみでないわけがない。
備え付けられているヘッド本を装着して、ディスクをパソコンのドライブに入れた。一分と待たずして画面が変わり、音量を程よいものに調節する。これを忘れると音が耳を突き破ることがある。
(学校の図書室でタダで観れるのは良いんだけど、気に入ったやつは買うこと多いし、お財布に優しくはないんだよね)
果たしてこの映画は財布を痛めつける者になるのか、私の期待を外れるものになるのか。
十分程度の時間が過ぎて、そこに答えは出た。
終わりで裏切られることはなく、映像はエンディングに切り替わる。
(良かった……!)
友人同士で楽しみながらの鑑賞ならまだしも、一人で泣いている姿は誰かに見られたら恥ずかしい。急いで涙を拭き取った。
(映画だとカットされている部分もあるだろうし、これは原作の方も読まないと)
スタッフロールを聴きながら、あとで電子書籍をカートに入れようと決める。アルファベットで記された人の名を一つずつ読もうという気は起きないけれど、流れる文字列を見ながら今は何もせずエンディングを聴きたい。
音楽が鳴り止んでこそ現実に引き戻されるから、それまでは……。
余韻に浸っていると、最終下校時刻だと知らせるチャイムによって悲しくも邪魔された。ここは映画館ではなく学校だから仕方がない。
(エンディングも最後まで聴きたかったんだけどな)
時計の針が示す時刻を見て、余裕はなさそうだと判断した。まだ曲は終わっていないけれど、電源を落として片付ける。DVDを幾つか借りて帰りたいからだ。選ぶ時間を考慮すれば最後まで聴いている時間はない。
気になる一枚を棚から取り出すと、直ぐ横にあった本も釣られて引っ張り出された。背表紙を床に叩きつけた一冊は中の本文まで痛めつける状態にはならず、裏表紙を地に付け大人しくなる。
(本棚に余裕がないからってDVDと本を同じ棚に入れないでよ)
ここはDVD棚と本棚の境。直ぐ隣の棚が本棚であるというのに、この一冊だけ収まりきらなかったのかDVD棚に収められている。
(可哀想に……)
一冊だけ仲間はずれにされているというだけでなく、この本の姿にも同情を誘われる。
沢山読まれた結果なのか、悪い扱いを受けてきたことによるものか、その両方なのかは分からないけれどハードカバーは激しく劣化していて、破れた背表紙は無くなっているに等しい。ページも抜けているものが多いようで、後方の数ページは糊で繋がれず挟み込まれている。奥付らしいページは失われたようだ。
(貸し出し禁書シールはなし)
図書室の本は一冊一冊に番号を付けて管理されていて、本の背表紙にそのシールが貼られていればタイトルが分からなくとも貸し出しが許される。このような姿にされるまで多くの人の手に取られただろう本が少しばかり気になったのと同時に、戻すのが煩わしくなるほどに時計を見て焦りが込み上がる。
深く考えず、それを受付カウンターに差し出して貸し出しの手続きをした。鞄に入れたその本は手に持っていたときよりも重く感じて、持ち帰っている最中に軽く後悔をした。
(こんなに重いのに、つまらなかったら最悪だな……)
紙の本は重く、場所を取る。今は電子書籍の時代だ。紙書籍を買う人はおろか読む人も少ない。
夜、ベッドの上で借りてきたそれを広げた。ページが抜けている以上は内容にも期待出来ない。持ち帰る際に労力を消費した分、読まないという選択は勿体なく感じた。
五分。十分。
十五分ほど読み進めた頃には目を見開け、感情は別のものに変化した。
(この本……)
読まないなんて勿体ない。
同じ言葉のそれは、意味が違う。
2
欠伸が我慢出来なかった口を手で押さえながら、開館されていない図書室の返却口に借りた本を入れた。授業の時間を全て夢の中で過ごしている間、外では怒声が響き渡っていた気がする。それが誰に対してのものか、深い眠りの底に意識は沈み、脳は理解することだ出来なかった。
その日の放課後、担任に職員室へ呼び出されるまでは。
「各科目の先生達から、お前の授業態度が悪いとクレームが来ている」
不服な顔を隠せているかどうか、鏡がない今は分からない。
(寝ているだけなら誰にも迷惑はかからないじゃない)
先生達はよほど授業を聞いて欲しいらしい。授業中に叱る行為が周囲の迷惑になるというのに、それをさせている方が悪いという。どちらも悪いか。
「そんなことしていたら、なりたい職業に就けないぞ」
どうせ就けないよ。
「すみませんでした」
頑張って良い学校に行ったって、そこになりたい職業はない。私には夢がないから。
強いて言うなら、本を読んだり映画を観たりして過ごしたい。そんなことで収入が得られる世の中ではない。
長いようで短い説教の後、いつもより遅くなってしまったけれど変わらず図書室に向かった。嵩張るからと、今朝返却したあの本を、もう一度読もうと思って探す。
(ない……)
元の場所に本はなかった。
(まだ戻されていないのかな)
返却された本がひとまず収められる棚にあるだろうか。司書の人がまだ仕事を終えていないのかもしれない。
返却棚を見に行こうと身体の向きを変えた。珍しくも周囲に人の気配が現われる。
「そこにあった本なら今はないよ」
つい先ほどまで、そこには誰もいないと思っていた。ましてや二メートルも離れていない右隣の距離にいる、誰かの存在に気付かなかったなんて。
同じ制服を身に纏う彼が声をかけた対象は自分であっているのかどうか、念のため反対側に顔を向ける。
「赤い本を探しているんだよね? 榎本未羽さん」
その心配は続けられた言葉によって、杞憂に終わった。
どうして名前知ってるの? 目で訴える。
知らないところ、知らない人達の間で話題になっていたのなら気分のいいものではない。
好意的な顔を出来ていなかっただろう。警戒心が露わになっていたように思う。けれど、彼はこちらのそんな様子に顔色一つ変えなかった。視線で訴えた問いかけにも気付かない。