農家の朝は早い。今朝も4時にはビニールハウスに入り、ミニトマトを収穫して次々とパックに詰めていく。ラベルシールを貼って、ポップを作るのも全部ボク一人だ。
市役所の隣できた商業施設のにぎわいの森のおかげで、物販は伸びている。今まで赤字だった経営が先月からようやく少しだけ黒字になった。心配なのはこの施設の人気がどれくらい続くか、だ。
今日も一通り準備が出来たら、軽バンに商品を載せ、地元の直売所やスーパーのミニトマト販売スペースに陳列する。
そして、急いで自宅に戻って物販一式を載せ、にぎわいの森に向かう。
ツキカさん、今日はどんな服装で来るのかな?
途中、雨が降り出し、ツキカさんが傘を忘れていないか心配になる。いなべ市は鈴鹿山脈の麓にあり、晴れの日でも時折、天候が急変する。
にぎわいの森に着いて手早く物販の準備を終えると、ひたすらツキカさんの笑顔が見えるのを待った。
すると反対側から、冷ややかな声が聞こえる。
「また、今日も販売するんですか?」
声の方に顔を向けると、昨日ワインを手にしていた嫌な感じの男性がいた。
「はい」
「あくまでご相談なんですが、例えばもう、そろそろここで販売を独占するのは止めて、ほかの場所を探していただくというのはいかがですか?」
「え? 失礼ですが、市役所の方ですよね?」
「はい。市の産業振興課の一橋と申します。このにぎわいの森の管理を担当しています」
「ちゃんと立田農家組合を通して市の許可は取っていますよ」
「はい、それは存じております。ただ……」
「何ですか?」
「市民の方からご意見をいただいて困ったことがありましてね。そろそろ、ここからご遠慮いただけると嬉しいな、と思うのですが、ご納得いただけないでをしょうか?」
かなり攻撃的な内容だ。この売場を失ったら、また赤字に転落するので食い下がるしかない。
「ということは、ボク以外にもにぎわいの森で出している4つの露店全部、締め出しになるんですか?」
「締め出しだなんてやめてくださいよ。先ほども申しましたとおり、あくまで相談ですよ。それに、率直に言いますと、他の組合はそんな問題はないです」
「なぜ、ボクだけ?」
「市民さん、もっとストレートに言いますと議員さんからもらった意見です。ここの実態は、まあ、あなたの独占じゃないですか?」
「待ってください。あっちで加工品の露店を出している数店もそれぞれの組合を通して同じように許可をもらっていて、公平に対応されているんですよね」
「あっちの組合のように、露店でたくさんの組合員が商品を出し合って、売上を分配するのはいいですが、あなたは、ほぼここを独占状態ですよね?」
「それは、うちの組合でボク以外に販売したい希望者がいないから、たまたまボクの独占のような状態になっているだけです」
「立田農家組合さんは、かなりのご高齢な方ばかりで、あなたしか担える人がいないですから、実質、独占ですね」
こんな酷い沙汰があるだろうか。
こっちは市のルールを守って許可を取ったのに、後から言いがかりをするとは。
しかし、組合長の斉藤さんから、市の職員を絶対に怒らせるな、と指導されている。一度へそを曲げると、何かの理由をつけて組合の補助金までも削減されかねない。
「お願いします。ここを失ったら、とても経営を維持できません。何とぞ、お許ください」
ただひたすら、頭を下げる。ケンカもできず、不様だ。
「しかし、市はすべてに対し公平でないといけませんし、お察しいただけないですか?」
殴ってやりたいが、そんなことをしたらそれこそ終わりだ。
「何とぞ、何とぞ」
その不様な状況を、傘を差したツキカさんが遠くから見ていた。バツが悪いと思ったのか神妙な面持ちで、会釈をして通り過ぎる。
「まあ、あくまで強制はできないのでご検討くださいよ。でも、できるだけ早く答えを教えてください。では」
こちらの意を汲み取ろうともせず、一橋という男は去る。こちらに出せる答えに、選択肢などない。ただの脅しではないか。
すると、一橋はツキカさんの後ろ姿を見て笑顔になった。
「おーい、ツキカちゃーん」
振り向いたツキカさんも、一橋を見て笑顔になる。その笑顔がボクの心を引き裂いた。
「来週から異同で、うちの課に来るんだよね。辞令を見て、ビックリしたよ」
「はい、よろしくお願いします」
人事異動? 今の時期に?
「じゃ、俺の代わりに、露店の担当してよ」
「え?」
そして、ツキカさんはボクを見て、困惑した。
このままではツキカさんまでボクの敵になる。そう考えただけで、もうたくさんだった。
すぐにすべてを撤収し、ボクは自宅に帰って真っ暗な部屋に閉じこもった。
なんて、惨めで、ボクはちっぽけな存在なんだ。ただ、一生懸命に生きているだけなのに。ただ、親を安心させたくて、社会の中で必死にもがいているだけなのに。
ボクには、何もない。45という年齢なのに、発言力も、経済力も、存在価値も、夢もない。唯一の希望であったツキカさんの毎朝の笑顔までも失った。
社会が嫌になって、自分も嫌になって、泣いてしまった。こんないい歳なのに。悔しくて涙が止まらなかった。
市役所の隣できた商業施設のにぎわいの森のおかげで、物販は伸びている。今まで赤字だった経営が先月からようやく少しだけ黒字になった。心配なのはこの施設の人気がどれくらい続くか、だ。
今日も一通り準備が出来たら、軽バンに商品を載せ、地元の直売所やスーパーのミニトマト販売スペースに陳列する。
そして、急いで自宅に戻って物販一式を載せ、にぎわいの森に向かう。
ツキカさん、今日はどんな服装で来るのかな?
途中、雨が降り出し、ツキカさんが傘を忘れていないか心配になる。いなべ市は鈴鹿山脈の麓にあり、晴れの日でも時折、天候が急変する。
にぎわいの森に着いて手早く物販の準備を終えると、ひたすらツキカさんの笑顔が見えるのを待った。
すると反対側から、冷ややかな声が聞こえる。
「また、今日も販売するんですか?」
声の方に顔を向けると、昨日ワインを手にしていた嫌な感じの男性がいた。
「はい」
「あくまでご相談なんですが、例えばもう、そろそろここで販売を独占するのは止めて、ほかの場所を探していただくというのはいかがですか?」
「え? 失礼ですが、市役所の方ですよね?」
「はい。市の産業振興課の一橋と申します。このにぎわいの森の管理を担当しています」
「ちゃんと立田農家組合を通して市の許可は取っていますよ」
「はい、それは存じております。ただ……」
「何ですか?」
「市民の方からご意見をいただいて困ったことがありましてね。そろそろ、ここからご遠慮いただけると嬉しいな、と思うのですが、ご納得いただけないでをしょうか?」
かなり攻撃的な内容だ。この売場を失ったら、また赤字に転落するので食い下がるしかない。
「ということは、ボク以外にもにぎわいの森で出している4つの露店全部、締め出しになるんですか?」
「締め出しだなんてやめてくださいよ。先ほども申しましたとおり、あくまで相談ですよ。それに、率直に言いますと、他の組合はそんな問題はないです」
「なぜ、ボクだけ?」
「市民さん、もっとストレートに言いますと議員さんからもらった意見です。ここの実態は、まあ、あなたの独占じゃないですか?」
「待ってください。あっちで加工品の露店を出している数店もそれぞれの組合を通して同じように許可をもらっていて、公平に対応されているんですよね」
「あっちの組合のように、露店でたくさんの組合員が商品を出し合って、売上を分配するのはいいですが、あなたは、ほぼここを独占状態ですよね?」
「それは、うちの組合でボク以外に販売したい希望者がいないから、たまたまボクの独占のような状態になっているだけです」
「立田農家組合さんは、かなりのご高齢な方ばかりで、あなたしか担える人がいないですから、実質、独占ですね」
こんな酷い沙汰があるだろうか。
こっちは市のルールを守って許可を取ったのに、後から言いがかりをするとは。
しかし、組合長の斉藤さんから、市の職員を絶対に怒らせるな、と指導されている。一度へそを曲げると、何かの理由をつけて組合の補助金までも削減されかねない。
「お願いします。ここを失ったら、とても経営を維持できません。何とぞ、お許ください」
ただひたすら、頭を下げる。ケンカもできず、不様だ。
「しかし、市はすべてに対し公平でないといけませんし、お察しいただけないですか?」
殴ってやりたいが、そんなことをしたらそれこそ終わりだ。
「何とぞ、何とぞ」
その不様な状況を、傘を差したツキカさんが遠くから見ていた。バツが悪いと思ったのか神妙な面持ちで、会釈をして通り過ぎる。
「まあ、あくまで強制はできないのでご検討くださいよ。でも、できるだけ早く答えを教えてください。では」
こちらの意を汲み取ろうともせず、一橋という男は去る。こちらに出せる答えに、選択肢などない。ただの脅しではないか。
すると、一橋はツキカさんの後ろ姿を見て笑顔になった。
「おーい、ツキカちゃーん」
振り向いたツキカさんも、一橋を見て笑顔になる。その笑顔がボクの心を引き裂いた。
「来週から異同で、うちの課に来るんだよね。辞令を見て、ビックリしたよ」
「はい、よろしくお願いします」
人事異動? 今の時期に?
「じゃ、俺の代わりに、露店の担当してよ」
「え?」
そして、ツキカさんはボクを見て、困惑した。
このままではツキカさんまでボクの敵になる。そう考えただけで、もうたくさんだった。
すぐにすべてを撤収し、ボクは自宅に帰って真っ暗な部屋に閉じこもった。
なんて、惨めで、ボクはちっぽけな存在なんだ。ただ、一生懸命に生きているだけなのに。ただ、親を安心させたくて、社会の中で必死にもがいているだけなのに。
ボクには、何もない。45という年齢なのに、発言力も、経済力も、存在価値も、夢もない。唯一の希望であったツキカさんの毎朝の笑顔までも失った。
社会が嫌になって、自分も嫌になって、泣いてしまった。こんないい歳なのに。悔しくて涙が止まらなかった。