今日の懇親会は上手くいったが少し疲れた。部長になってからはこういう機会が増えたが、ようやく慣れてもきた。2次会は表参道の会社で使っているバーに行った。1次会で既に相手の部下と付き添っていた僕の部下は帰した。2次会では部長同士で差しでの話もできた。
飲みニケーションはあまり好きではないが一定の効果もあることは認めている。僕は駆け引きなしの本音で話し合える関係が一番だと思っている。話の裏の裏まで読もうとすると疲れてくる。まずは自分が本音で話すことが大事かも知れないが、徐々に信頼関係を構築していくしかない。店で車を呼んでもらってお客を乗せて見送った。これで終わりだ。
どうしようか車を呼んで帰ろうか、まだ10時を少し回ったところだ。家に帰っても誰もいない。酔いを醒ますために少し歩きたいと思った。もう秋も半ば、外に出ると清々しい風が吹いている。晴れてはいるがここでは星が見えない。
専務の話では、接待は昔とは違いこのごろは回数もかける金額も減ってきたとのことだ。時代の趨勢だとか。とはいうものの気を使う。せっかく招待したのだから楽しんで良い印象を持って帰ってもらいたい。この地位になると招待したりされたりだが、招待されたときはできるだけ楽しそうに振舞うようにしている。いずれにしても気疲れする。
細い路地の途中に古いドアのスナックがあった。中の様子を窺うと歌声はしない。どういう訳か入ってみる気になった。ドアを開けるとこじんまりした店内には客が二人ばかりいたが、落ち着いた雰囲気だった。
空いている止まり木に腰を落とす。カウンターの中にいたママとおぼしき若い女性がおしぼりを持ってきた。どこかで見たような顔だと思った。ああ、亜里沙! 髪を短くしていたが、間違いなく亜里沙だった。
僕が驚いたようにじっと見ているので、彼女も僕を見つめた。ママは一瞬驚いた様子だったが、すぐにほほ笑んで「いらしゃいませ」と言った。
僕はどう言っていいか分からずに「こんばんは、ここは初めてです」と言うと「はじめまして、ママの寺尾 凛です」と言って、名刺を差し出した。返礼に僕も名刺を出した。ママはそれを両手で受け取ってじっと見ている。
「良いところにお勤めなんですね」
「そうかな、なんとか子供を育てていけるくらいの給料はくれたからね」
「お子さんは何人なんですか?」
「娘が一人いるけど、今年の3月に大学を卒業した。就職して大阪に住んでいるので、今は一人暮らしだ」
「奥様は?」
「10年前に無くした」
「そうだったんですか、お寂しいですね」
「家へ帰っても誰もいないので、ぶらぶらしていて偶然にここに寄せてもらった」
「ありがとうございます。これからもご贔屓にお願いします」
「水割りを作ってくれる、薄めで頼みます」
「もう随分飲まれているんですか?」
「今日は招待する側だったから、そんなに飲んでいないけど、少し疲れた。ここが3次会かな」
他愛のない初めての客としての会話が進む。
「ここはいつからやっているの?」
「この店は随分昔からあったと聞いていますが、私が勤めたのは2年前です。オーナーが高齢で引退したいと言うので、1年前にここを譲り受けました」
「一人でやっているの?」
「ええ、細々と。お陰さまでお馴染みさんも段々増えてきました」
カウンターの二人連れのお客が帰ると言っている。丁寧に挨拶してドアの外まで出て見送っている。客商売は大変だ。
ママは戻るとすぐに看板の明かりを落としてドアをロックした。でもまだ11時くらいだ。
「お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「お世話になったのはこちらの方だよ、いつも癒されていたから」
「山路さんは本名だったんですね」
「君の名前は」
「名刺のとおりです」
「凛か、良い名前だね、響きがよくて」
「今日はゆっくりしていってください」
「急にいなくなったので、心配していたよ。身体を壊したのではないかとね」
「あの仕事に急に嫌気が差して、それにいつまでも続けることができないのは分かっていましたから」
「確かにそうだね、早く足を洗ってよかったかもしれないね」
「でもね、改めて働くとなると、どうしてもこういう水商売しかなかったの」
「水商売も立派な職業だ、あの仕事も人を癒してくれる立派な職業だと思うけど」
「普通の人はそうは思わないわ」
「人それぞれだからしかたがないさ」
「世間の目は厳しいのよ」
「僕は気持ちが沈んでいる時に癒してもらって随分助かった」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「独り身?」
「私なんかを相手にしてくれる人はいません」
「もしそうなら、どうかな、僕と付き合ってくれないか?」
「付き合うって?」
「普通に付き合うってことだけど、仕事の休みの日にデートするとかそういうこと」
「私、男の人と普通に付き合ったことがないんです。男の人とはあの場所だけで、外では決して会わなかったし、会わないことにしていました」
「どうして?」
「店が禁止していたこともあるけど、情が移るといけないから」
「あくまで仕事上の関係としておきたかったの? きっと君のプライドがそうさせたんだね」
「いえ、先輩からもそう言われたからです」
「そういうものなんだ」
「悪い男に騙されないためと言われました」
「今はどうなの?」
「やはりお店以外でお客さんとお会いしたことはありません」
「それで付き合ってくれるの? 僕はよい男ではないかもしれないけど、君を騙したりはしない。普通に付き合いたいと思っているだけだ」
「しばらく考えさせていただくわ」
「いいよ、待っているから考えてみてほしい。だから今日はこれで帰る」
「もう帰るんですか、ゆっくりしていって下さい」
「また来てもいいかな? 君とのことは誰にも話すことはないから心配しないでいい。でも昔のことを思い出すから来てほしくないと思っているなら、もう二度と来ないと約束する」
「また来てください、お返事はその時にします」
「じゃあ、お会計お願いします。それと車を呼んでくれる?」
「お呼びしますが、大通りまで出ないといけませんけど」
「それでいいから、呼んでくれる」
凜は車を呼んでくれた。しばらくして大通りの車が待っているところまで送ってくれた。
久しぶりに会ったが、あのころと雰囲気は少しも変わっていない。少し陰のある美しさはそのままだった。髪形を変えているが、自ら放つ雰囲気までは変えられないと思った。
飲みニケーションはあまり好きではないが一定の効果もあることは認めている。僕は駆け引きなしの本音で話し合える関係が一番だと思っている。話の裏の裏まで読もうとすると疲れてくる。まずは自分が本音で話すことが大事かも知れないが、徐々に信頼関係を構築していくしかない。店で車を呼んでもらってお客を乗せて見送った。これで終わりだ。
どうしようか車を呼んで帰ろうか、まだ10時を少し回ったところだ。家に帰っても誰もいない。酔いを醒ますために少し歩きたいと思った。もう秋も半ば、外に出ると清々しい風が吹いている。晴れてはいるがここでは星が見えない。
専務の話では、接待は昔とは違いこのごろは回数もかける金額も減ってきたとのことだ。時代の趨勢だとか。とはいうものの気を使う。せっかく招待したのだから楽しんで良い印象を持って帰ってもらいたい。この地位になると招待したりされたりだが、招待されたときはできるだけ楽しそうに振舞うようにしている。いずれにしても気疲れする。
細い路地の途中に古いドアのスナックがあった。中の様子を窺うと歌声はしない。どういう訳か入ってみる気になった。ドアを開けるとこじんまりした店内には客が二人ばかりいたが、落ち着いた雰囲気だった。
空いている止まり木に腰を落とす。カウンターの中にいたママとおぼしき若い女性がおしぼりを持ってきた。どこかで見たような顔だと思った。ああ、亜里沙! 髪を短くしていたが、間違いなく亜里沙だった。
僕が驚いたようにじっと見ているので、彼女も僕を見つめた。ママは一瞬驚いた様子だったが、すぐにほほ笑んで「いらしゃいませ」と言った。
僕はどう言っていいか分からずに「こんばんは、ここは初めてです」と言うと「はじめまして、ママの寺尾 凛です」と言って、名刺を差し出した。返礼に僕も名刺を出した。ママはそれを両手で受け取ってじっと見ている。
「良いところにお勤めなんですね」
「そうかな、なんとか子供を育てていけるくらいの給料はくれたからね」
「お子さんは何人なんですか?」
「娘が一人いるけど、今年の3月に大学を卒業した。就職して大阪に住んでいるので、今は一人暮らしだ」
「奥様は?」
「10年前に無くした」
「そうだったんですか、お寂しいですね」
「家へ帰っても誰もいないので、ぶらぶらしていて偶然にここに寄せてもらった」
「ありがとうございます。これからもご贔屓にお願いします」
「水割りを作ってくれる、薄めで頼みます」
「もう随分飲まれているんですか?」
「今日は招待する側だったから、そんなに飲んでいないけど、少し疲れた。ここが3次会かな」
他愛のない初めての客としての会話が進む。
「ここはいつからやっているの?」
「この店は随分昔からあったと聞いていますが、私が勤めたのは2年前です。オーナーが高齢で引退したいと言うので、1年前にここを譲り受けました」
「一人でやっているの?」
「ええ、細々と。お陰さまでお馴染みさんも段々増えてきました」
カウンターの二人連れのお客が帰ると言っている。丁寧に挨拶してドアの外まで出て見送っている。客商売は大変だ。
ママは戻るとすぐに看板の明かりを落としてドアをロックした。でもまだ11時くらいだ。
「お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「お世話になったのはこちらの方だよ、いつも癒されていたから」
「山路さんは本名だったんですね」
「君の名前は」
「名刺のとおりです」
「凛か、良い名前だね、響きがよくて」
「今日はゆっくりしていってください」
「急にいなくなったので、心配していたよ。身体を壊したのではないかとね」
「あの仕事に急に嫌気が差して、それにいつまでも続けることができないのは分かっていましたから」
「確かにそうだね、早く足を洗ってよかったかもしれないね」
「でもね、改めて働くとなると、どうしてもこういう水商売しかなかったの」
「水商売も立派な職業だ、あの仕事も人を癒してくれる立派な職業だと思うけど」
「普通の人はそうは思わないわ」
「人それぞれだからしかたがないさ」
「世間の目は厳しいのよ」
「僕は気持ちが沈んでいる時に癒してもらって随分助かった」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「独り身?」
「私なんかを相手にしてくれる人はいません」
「もしそうなら、どうかな、僕と付き合ってくれないか?」
「付き合うって?」
「普通に付き合うってことだけど、仕事の休みの日にデートするとかそういうこと」
「私、男の人と普通に付き合ったことがないんです。男の人とはあの場所だけで、外では決して会わなかったし、会わないことにしていました」
「どうして?」
「店が禁止していたこともあるけど、情が移るといけないから」
「あくまで仕事上の関係としておきたかったの? きっと君のプライドがそうさせたんだね」
「いえ、先輩からもそう言われたからです」
「そういうものなんだ」
「悪い男に騙されないためと言われました」
「今はどうなの?」
「やはりお店以外でお客さんとお会いしたことはありません」
「それで付き合ってくれるの? 僕はよい男ではないかもしれないけど、君を騙したりはしない。普通に付き合いたいと思っているだけだ」
「しばらく考えさせていただくわ」
「いいよ、待っているから考えてみてほしい。だから今日はこれで帰る」
「もう帰るんですか、ゆっくりしていって下さい」
「また来てもいいかな? 君とのことは誰にも話すことはないから心配しないでいい。でも昔のことを思い出すから来てほしくないと思っているなら、もう二度と来ないと約束する」
「また来てください、お返事はその時にします」
「じゃあ、お会計お願いします。それと車を呼んでくれる?」
「お呼びしますが、大通りまで出ないといけませんけど」
「それでいいから、呼んでくれる」
凜は車を呼んでくれた。しばらくして大通りの車が待っているところまで送ってくれた。
久しぶりに会ったが、あのころと雰囲気は少しも変わっていない。少し陰のある美しさはそのままだった。髪形を変えているが、自ら放つ雰囲気までは変えられないと思った。