私は店仕舞いすることが決まったと山路さんに電話した。結婚と引越しの約束をしてから1か月ほど経っていた。店は昔親しかった仲間に譲渡することにした。それで引越しの日を決めた。
足を洗ってからは昔の仲間とはずっと連絡を絶っていた。仲良くしてくれた人やお世話になった人、面倒を見てくれた店の支配人などにも一切連絡を取らなかった。きっぱりと過去と決別するためと新しい生活を邪魔されないためだった。
ただ、ひとつだけ、スナックの前のオーナーとの約束があった。もし店を閉めるか譲りたいと思ったときには、昔の仲間に譲ってほしいと言われた。前のオーナーは、過去のある私がここで生きていけるようにと破格な値段で店の権利を譲ってくれた。
私は同い年だった「恵梨香」を探すことにした。彼女は最後の店の仲間で私と同じような理由からその店に移ってきていた。私とは気が合って時々一緒に飲みに行ったりしていたので気心は知れている。譲るのなら彼女をおいてほかに考えられなかった。そして彼女の器量なら店を引き継げると思った。
ただ、「恵梨香」は源氏名で本名も分からない。店に電話するとそのときの支配人がまだいたので「恵梨香」とようやく連絡をとることができた。足を洗いたいのならあなたに店を譲るというとすぐに譲り受けたいと言った。
すぐに店に来てもらって、引継ぎのために2週間ばかり店に通ってもらった。「恵梨香」はすぐに要領を覚えて店を引き継いでくれた。
彼女には前のオーナーからの約束を話して、同じようにそれを守ることを約束してもらった。それから、今後は一切連絡しないし、あなたのことを口外しないし、かかわらないとも伝えた。彼女はそれを承知した。
それに初めから彼女には、私が店を手放す理由や、これからどうするのか、どこで暮らすのかも一切話さなかった。「恵梨香」もそれを聞こうとしなかった。彼女にはその理由がよく分かっていた。
私は3月初めの日曜日に彼のマンションへ引っ越した。不要なものは「恵梨香」と相談して残してきたので、荷物は多くはなかった。二人の寝室とリビングにすべて収まった。
私は自分のセミダブルのベッドを持って来たいと山路さんに頼んだ。彼のもセミダブルだから2つ入れると寝室がベッドでいっぱいになる。まあ、いいかと、受け入れてくれた。これでゆっくり眠れる。私の衣類もクローゼットにすべて収まった。二人でソファーに座って一息入れる。
「ここにはもう死んだ妻のものは何一つないから」
「私は気にしていないけど、それであなたはいいの?」
「元々ここへは持ってきていなかったから。それにはじめは君に死んだ妻の面影を求めていたが、そのうちに思いが君自身に移って行った。今は君しか思い浮かばないようになった。君がいれば十分だ」
「そんなものかしら、『去る者は日々に疎し』ですか?」
「今の君との生活を大切にしたいだけさ。思い出の中で生きていくのは辛いものだからね」
「私も今日一日を大切にして生きていきたい。長い年月といえども今日の積み重ねですもの」
「君も昔のことはすべて忘れて今を生きていけばいい。何も怖がることはない。僕はこれからずっとそばにいて君を守る。だからそばにいてほしい」
「分かっています。もう決してそばを離れません」
引っ越した日から私は夕食を作った。二人で部屋にいたかったし、外出するのがいやだった。
「お好み焼のほかに是非食べていただきたいものがあります」
「何?」
「手づくりの餃子ですが、お嫌いですか」
「いや、餃子は嫌いじゃない。是非食べてみたい」
「これも父が好きだったんですが、それでもいいですか」
「もちろん、そんなこと気にしないでいいから」
「じゃあ、作ります。材料は仕入れて来てあります」
私は餃子を作って焼いた。ニンニクを入れてもいいかと聞くと大丈夫の答えが返ってきた。出来上がると結構な数になった。それから二人はビールで引越し祝いの乾杯をする。
「すみません、今日の料理はこれだけです。引越をしたばかりでこれしか準備できなくて」
「ビールと合うから、これだけで十分だね」
「食べてみてください」
「おいしい。味付けがいいからいくらでも食べられそうだ」
「あの時、ニンニクの匂いが気になりませんか」
「二人とも食べたのだから気にしなくていいんじゃないか」
「それならいいんですけど」
「私の餃子を喜んでもらえてよかった」
「僕とお父さんと重ね合わせている?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「僕と同じ返事だね」
「すみません、どうしてもあなたに父の面影を見てしまうのです。私ってファザコンですね」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「また、そんな」
「娘と言うのはファザコンなものだと思う。一番身近にいた男性だからね。父親が好きな女性は男性を見る目があると思う」
「私自身は男性を見る目があるとは思っていませんけど」
「でも僕の申し込みを受け入れた」
「見る目があるっていうことを言いたいんですか?」
「すぐには分からないかもしれないけど、そのうち見る目があったと分かると思うし、分かるようにしたい」
「お願します」
山路さんが約束していたとおり、次の日に彼は休暇を取ってくれた。そして、二人で近くの区の特別出張所に婚姻届を出しに行った。
それから、結婚指輪を買いに出かけた。私は印だけの簡単なものでよいといったけれども彼は自分の気に入ったデザインのものを選んだ。私もそれが気に入った。1週間くらいで出来上がると言う。
足を洗ってからは昔の仲間とはずっと連絡を絶っていた。仲良くしてくれた人やお世話になった人、面倒を見てくれた店の支配人などにも一切連絡を取らなかった。きっぱりと過去と決別するためと新しい生活を邪魔されないためだった。
ただ、ひとつだけ、スナックの前のオーナーとの約束があった。もし店を閉めるか譲りたいと思ったときには、昔の仲間に譲ってほしいと言われた。前のオーナーは、過去のある私がここで生きていけるようにと破格な値段で店の権利を譲ってくれた。
私は同い年だった「恵梨香」を探すことにした。彼女は最後の店の仲間で私と同じような理由からその店に移ってきていた。私とは気が合って時々一緒に飲みに行ったりしていたので気心は知れている。譲るのなら彼女をおいてほかに考えられなかった。そして彼女の器量なら店を引き継げると思った。
ただ、「恵梨香」は源氏名で本名も分からない。店に電話するとそのときの支配人がまだいたので「恵梨香」とようやく連絡をとることができた。足を洗いたいのならあなたに店を譲るというとすぐに譲り受けたいと言った。
すぐに店に来てもらって、引継ぎのために2週間ばかり店に通ってもらった。「恵梨香」はすぐに要領を覚えて店を引き継いでくれた。
彼女には前のオーナーからの約束を話して、同じようにそれを守ることを約束してもらった。それから、今後は一切連絡しないし、あなたのことを口外しないし、かかわらないとも伝えた。彼女はそれを承知した。
それに初めから彼女には、私が店を手放す理由や、これからどうするのか、どこで暮らすのかも一切話さなかった。「恵梨香」もそれを聞こうとしなかった。彼女にはその理由がよく分かっていた。
私は3月初めの日曜日に彼のマンションへ引っ越した。不要なものは「恵梨香」と相談して残してきたので、荷物は多くはなかった。二人の寝室とリビングにすべて収まった。
私は自分のセミダブルのベッドを持って来たいと山路さんに頼んだ。彼のもセミダブルだから2つ入れると寝室がベッドでいっぱいになる。まあ、いいかと、受け入れてくれた。これでゆっくり眠れる。私の衣類もクローゼットにすべて収まった。二人でソファーに座って一息入れる。
「ここにはもう死んだ妻のものは何一つないから」
「私は気にしていないけど、それであなたはいいの?」
「元々ここへは持ってきていなかったから。それにはじめは君に死んだ妻の面影を求めていたが、そのうちに思いが君自身に移って行った。今は君しか思い浮かばないようになった。君がいれば十分だ」
「そんなものかしら、『去る者は日々に疎し』ですか?」
「今の君との生活を大切にしたいだけさ。思い出の中で生きていくのは辛いものだからね」
「私も今日一日を大切にして生きていきたい。長い年月といえども今日の積み重ねですもの」
「君も昔のことはすべて忘れて今を生きていけばいい。何も怖がることはない。僕はこれからずっとそばにいて君を守る。だからそばにいてほしい」
「分かっています。もう決してそばを離れません」
引っ越した日から私は夕食を作った。二人で部屋にいたかったし、外出するのがいやだった。
「お好み焼のほかに是非食べていただきたいものがあります」
「何?」
「手づくりの餃子ですが、お嫌いですか」
「いや、餃子は嫌いじゃない。是非食べてみたい」
「これも父が好きだったんですが、それでもいいですか」
「もちろん、そんなこと気にしないでいいから」
「じゃあ、作ります。材料は仕入れて来てあります」
私は餃子を作って焼いた。ニンニクを入れてもいいかと聞くと大丈夫の答えが返ってきた。出来上がると結構な数になった。それから二人はビールで引越し祝いの乾杯をする。
「すみません、今日の料理はこれだけです。引越をしたばかりでこれしか準備できなくて」
「ビールと合うから、これだけで十分だね」
「食べてみてください」
「おいしい。味付けがいいからいくらでも食べられそうだ」
「あの時、ニンニクの匂いが気になりませんか」
「二人とも食べたのだから気にしなくていいんじゃないか」
「それならいいんですけど」
「私の餃子を喜んでもらえてよかった」
「僕とお父さんと重ね合わせている?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「僕と同じ返事だね」
「すみません、どうしてもあなたに父の面影を見てしまうのです。私ってファザコンですね」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「また、そんな」
「娘と言うのはファザコンなものだと思う。一番身近にいた男性だからね。父親が好きな女性は男性を見る目があると思う」
「私自身は男性を見る目があるとは思っていませんけど」
「でも僕の申し込みを受け入れた」
「見る目があるっていうことを言いたいんですか?」
「すぐには分からないかもしれないけど、そのうち見る目があったと分かると思うし、分かるようにしたい」
「お願します」
山路さんが約束していたとおり、次の日に彼は休暇を取ってくれた。そして、二人で近くの区の特別出張所に婚姻届を出しに行った。
それから、結婚指輪を買いに出かけた。私は印だけの簡単なものでよいといったけれども彼は自分の気に入ったデザインのものを選んだ。私もそれが気に入った。1週間くらいで出来上がると言う。