夕日が輝く中、幼い私は知らない女性と話しているようだった。
『夕日はね、オレンジ色じゃないんだよ』
やはり、彼女の顔には靄がかかっていて、誰なのか確認する事は出来なかった。
「オレンジ色だよ?」
『感じ方は人それぞれなの、それを誰かが強調する事はいけないことなんだよ。だから、自分を大切にしてね』
「じぶんを、たいせつに?」
幼い私は、彼女の言ってる意味を理解することは出来なかった。
『ああ、私にも美桜ちゃんと同じくらいの息子がいるんだ。私はいつも同じ言葉を伝えている!』
女性はガッツポーズを作って、歯をにっと出して笑った気がした。
その後も、彼女とは色んなお話をした。
途中から、会話にも靄がかかってしまい、どんな話をしたか聞き取れなかった。
けれど、彼女の言う言葉ひとつひとつは、とても重みがあって、当時の私はあの人みたいになりたいと思っただろう。
そしてまた、この前の夢と同様、私達は居眠り運転の車に撥ねられた。

私はゆっくりと起き上がり、この前よりも冷静に目覚めることが出来た。
それでも、朝からセミの鳴き声がうるさい。
夏の朝というのは、暑苦しさとうるささが両方襲いかかってくるから憂鬱な気分になる。
セミだって頑張って生きているのは知っているけれども。
私は今日の夢を思い出す。ほとんどの夢は起きた時に忘れてしまうけれど、あの女性の夢だけは鮮明に覚えていることが出来る。
また、あの夢か。
あの女性は一体誰なのだろう。
まず、あの夢は現実に起こったことなのだろうか。でも、あんな大事な事があったなら、いくら幼い私でも覚えているだろうに。
私は色んな思考を回転させて考えるものの、結果が出ないのが目に見えていたため、考えるのをやめる。まだ眠っている体を起こすために台所に向かった。

「おはよう、お母さん」
すでに起きて家事をしていたお母さんに話しかけた。
「ああ、なんだ美桜か、早いわね」
お母さんはそそくさと動いていく。
いつもはこんなに急いでやってないのに、今日はなにかあるのだろうか。
「今日なんかあるの?」
私は洗面台に向かいながら、お母さんに訊ねる。
「なにって…覚えてないの?今日はお盆よ、行かなきゃいけない場所があるって教えたじゃない」
「行かなきゃいけない場所?」
そういえば、結構前にそんな事言われた記憶がある。言われなければ思い出す事さえ危うかった。
「ええ、だから洗濯物とか先にやっておきたいのよ」
よいしょっと言って、お母さんは洗濯物を運んでいってしまった。
遠くから、早く準備しちゃいなさーいという声が聞こえてきたため、私は顔を洗った後、自分で用意した朝食を頂いた。
その後すぐ服を着替え、お母さんの車に乗り込んだ。こうして2人で車に乗るのすら久しぶりだった。いつも私の休日は勉強しろという命令に従う他なかったから。
そんなお母さんが、今日は自ら私を外に出した。その事実だけでも驚きだったのに、到着した場所を見た途端、驚きを隠せなかった。
だって、私には関係のない場所だったから。
「お墓…?」
私はわけも分からず、胸元に仏花を大切に抱えているお母さんの後をついて行くことしか出来なかった。
到着した仏壇の前に立ち、私は1度手を合わせる。
「お母さん、誰のお墓?」
「昔、あなたを助けてくれた人のよ」
それを聞いた途端、私は今朝の夢を思い出した。もしかして、あれは本当にあった出来事だというのだろうか。
という事は、この人は私のせいで亡くなってしまったということなのか。
「じゃあ、私のせいで」
息を整える事に必死になる私の肩を掴み、お母さんが落ち着いた声で告げた。
「美桜のせいじゃない」
私を安心させるための嘘の言葉だというのは、お母さんの手の震えや汗の数、目の動きから見て明らかだった。
やっぱり、私のせいなんだ。
夢であったことに一安心した自分を恨みたい。
私の手は汗でいっぱいだった。スカートの横を掴み、行き場のない気持ちをそこにぶつけた。この思いを誰に伝えればいいのだろうか。
呆然とした私を見て、お母さんはおでこに手を添え、空を見上げた。
「やっぱり、伝えなきゃよかった…」
呟くように放ったその言葉には、後悔の思いがこもっていた。唇を噛み締め、震えていた。
伝えていなかったら、私はこの人に謝る事のないまま、知らないまま、生きていっていたのだろう。
お母さんが深呼吸をして、準備を始める。
お花を添え、線香を置いた後、もう一度手を合わせた私達。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。
今の私は、あなたに助けてもらった命に相応しい人生を送れているのでしょうか。
正直、送れていると思えません。
時々、私は生きてる意味はあるのかと思ってしまう時があります。そんな時は、ある男の子が思い留めてくれます。
私もいつか、その人のようになれるように頑張りたいと思います。
本当に、ありがとうございます。
お母さんの帰ろうかという言葉で、私は我に返った感覚だった。
「…あれ?」
その場を後にしようとした時、私の耳が見覚えのない男性の声を捉えた。
「あ、ご無沙汰しています」
お母さんがその人に向かって、深々とお辞儀をしたのを見て、私も慌てて頭を下げる。
「顔を上げてください」
男性は優しい声でそう言った。
綺麗で高い鼻に、スタイルのいい身体、きりっとした眉と目、そして、吸い込まれる綺麗な瞳。この男性は、どこか高嶺君に似ていたというのが、第一印象だった。
「美桜、挨拶して」
「あ、うん。鈴岡美桜です、初めまして」
「美桜って…そうか、君が」
男性は綺麗な瞳を見開いた。
「大きくなったね」
彼は、昔の私を知っているのだろうか。
どこかで会っていたのかもしれない、私が覚えていないだけで。
「ありがとうございます」
「美桜、先車行ってなさい」
お母さんが私に車の鍵を渡してきて、そう告げた後、2人はなにか話し始めてしまった。
私は彼らを背に車へと向かい、エンジンをかけた。
張り詰めていた緊張が、体から抜けていった。
背もたれに寄りかかり、息を漏らした。
「名前、言ってなかったな」
私は静かな車の中で、ひとり呟いた。
苗字でも分かれば、なにか手がかりを見つけられたかもしれないのに。
10分くらいした後、お母さんが戻ってきた。
「何話してたの?」
「挨拶とかだけだよ」
なにか隠された気がしたけれど、追求しても教えてくれないんだろうなと思い、私は興味なさげに返事をし、家に着くまでずっと窓越しの景色を眺めていた。
家に着いた私は、手洗いうがいをした後、ベッドに寝っ転がった。
埃が少しだけ舞ったけれど、気にせずそのまま目を瞑る。
高嶺君に、会いたいな。
私はそんな願望を心の中で唱える。
早く夏休みが終わればいいのに。
どうせ夏期講習とかがあるのだから、いつもの生活とあまり変わらない。
高嶺君と出会うまで、放課後はいつも勉強していたから、屋上に通い始めてから成績が少しだけ落ちてしまった。
お母さんにはいつも放課後勉強していることにしているから、今まで通りにしているのにどうして成績が下がるんだと怒られた時があった。
それでも、放課後というのは、唯一高嶺君と話せる貴重な時間なのである。だからあの時間を邪魔されたくない。
それでも嘘をついているという心苦しさから、私は机に向かった。
夏休み明けにすぐ模試があるから、そのために勉強しておこう。
私は英語の問題集や単語帳を開いて、シャーペンを動かしていく。
キリの良いところで伸びをし、時計を確認すると、すでに短い針が4の数字を過ぎていた。
私は疲れの溜まった顔を鏡で確認する。
お姉ちゃんとの差を思い知らされ、私は小さな苛立ちを覚える。
いつもみたいに、小さな苛立ちは痛みで飛ばしてしまえばいい。そう思った私は、自分の爪を皮に食い込ませる。
少しの激痛が体中を駆け巡り、私は歯をぎりぎりと噛み締めた。
先程の醜い感情が消えた事を確認し、手の力を抜いた。
模試が終われば、文化祭の準備が始まる。
毎年私は先生からの信頼によっていつもまとめ役を任される。
今年も去年から引き継いだ評判からか、担任からの信頼が深い。
ずっと同じ立ち位置を維持している私にとって、不服でない結果だった。
やる事がなくなった私は、机の横にある本棚から小説を取って読み始めた。
この小説のあらすじは、主人公の女の子が悩みを抱えた男子と出会い、一緒に寄り添い、ぶつかり、結ばれるという在り来りな物語。
こんな素敵な出会い、小説だけだろうという、つまらない感想が最初だった。
それでも読み始めるにつれて、男の子の悩みに共感し、時間を忘れてページを捲っていた。
続きが気になる大事な場面というところで、お母さんの声が現実へと私を手繰り寄せた。
私は栞を挟み、お母さんの元へ向かった。
「どうしたの?」
「今日の事で、言いたいことがあるのよ」
今日も夜勤があるのだろう。いつでも出れるようにしているためなのか、すでにおめかしを済ませていたお母さんの姿があった。
いつも以上に真剣な母の姿に、唾をごくりの飲み込んだ。
「今日会った男性は、亡くなった女性の旦那さんでね、昔お葬式で1回会ってるの」
「……」
私は相槌すら打たず、真剣な眼差しをお母さんに向けた。
「彼には息子さんがいて、美桜と同い年だそうよ」
私は息を呑んだ。私と同い年の男の子から、お母さんを奪ってしまったという事実に。
「私はいつ、事故に遭ったの?」
初めて、自ら質問をした。
自分で、この出来事に区切りを打たなければならないと、向き合わなければならないと思ったから。
「やっぱり、思い出してないのね」
お母さんは眉を八の字にして、悲しみの表情を浮かばせた。
思い出していないというお母さんの言葉の意味が分からず、私は首を傾げた。
「いい?美桜。あなたは、当時の記憶を失っているの」
「え…?」
「目の前で、自分を助けてくれた人が亡くなったのを見たからなのか、あなたはその場で気を失っていたわ」
「そう、なんだ」
「記憶を失っていると言っても、断片的なものだってお医者さんが言ってた。日常に支障はないって教えてくれたから、記憶を思い出すかそのまま塞ぎ込んでおくかは、私に委ねるって」
その時、初めてお母さんは涙を流した。
ずっと、苦しかったんだろう。
私が思い出しても、その責任から私がおかしくなってしまうのを恐れて。
「私は思い出させない事を望んだわ。それでも、やっぱり助けてくれた女性のためにも、その事実を受け止めて生きて欲しいって思った」
「うん…」
私がお母さんの立場でも、その選択をしただろう。自分が生きているのは、その人のおかげなんだって知って欲しいから。
命はとても儚くて、脆くて、一瞬で消えてしまう時があるということを知って欲しいから。
だからこそ、自分の命を大切にして生きて欲しいと。
「でもまだ幼いあなたに言うには、私の心が許さなかった。だったら、あなたが成長して、事実に受け止められるようになってからって決めたの」
お母さんは綺麗に整えたメイクが崩れ落ちるのも気にせず、涙をハンカチで拭った。
「そう、だったんだね」
私の知らないところで、お母さんがこんなにも闘ってくれていることを知らなかった。
だからあんなにも過保護だったんだと、今までのお母さんの言動が1本の線で繋がった。
昔私が事故に遭ったからこそ、もう失いたくないという思いが、今のお母さんを作り上げてしまったんだ。
私は今まで、厳しくすぎるとかもっと自由にしてほしいとか、お母さんに対して酷い考えを持ってしまう時があった。
もっと早く知っていたら、なんて後悔しても無意味な考えが浮かんできた。
「お母さん、私は大丈夫だから、泣き止んで」
そう言った私は、お母さんの背中をゆっくりと、優しく摩った。
「あの時、美桜を1人で買い物に行かせた私が悪かったわ…本当にごめんなさい」
しっかり者の美桜なら、ひとりで買い物に行かせても大丈夫だと思った昔のお母さん。
たくさんの偶然が重なって起きた事故だった。
お母さんが私を1人で買い物を行かせた事。
私が迷子になってしまった事。
迷子になった私を助けてくれたのがその女性だった事。
居眠り運転の自動車が、いつも使う道路が点検によって使えなくなり、私達がいた道路を通りかかってしまった事。
そんないくつもの偶然が繋がって、ひとつの悲劇を生んでしまったのだと。
「お母さん、ありがとう」
私は、自分のせいで亡くなってしまった女性への謝罪を込めた涙をたくさん流した。
初めて、本当のお母さんを見た気がした。

夏休み最終日。私は汗をかきながら、学校に向かっていた。ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭う。
もう既に学校と塾の夏期講習は終わり、私は晴れて自由の身、と言いたいところだが、夏休みが終わればすぐに模試があるため、私はお母さんに言われて勉強しに行かなければならなくなってしまったのだ。
夏休みとはいえ、学校に入るためには制服を着なければならない。ワイシャツが私の汗を吸い込み、変にベタついて気分が悪く、苛立ちを感じてしまう。
私はため息をこぼすも、トラックの騒音にかき消された。
学校の側を歩いていると、校庭から野球部の男子の気合いに満ちた声が聞こえてきた。
こんな暑い中、怪我をしないために長袖長ズボンを着て動くなんて、私には到底無理だろう。
見ているだけで暑くなってしまった私は、図書館の涼しい空間を求めて、自然と足を速くしていたのだった。

図書館に着いて、座る場所を決めようと館内を見渡していると、見覚えのある子が座って読書をしていた。
私は彼女のそばに駆け寄り、話しかけた。
「久美!」
私は夏休みに入ってから1度も会うことがなかった友人と会えて喜んでしまい、図書館にいるということを忘れてしまっていた。
私は久美にしーっ!と言われて、口を抑える。
「久しぶりだね」
私は声の大きさを下げて、久美の隣に座った。
「久しぶり」
彼女は眼鏡をくいっとあげて、笑顔を作った。
図書館まで来て読書だろうか。
たしか彼女の家は下の子がたくさんいるらしいから、集中出来ないのかもしれない。
弟や妹がいない私にとっては、とても羨ましいことであるのだけれど。
「美桜ちゃんは勉強?」
「うん、そのつもり」
「偉いなー、私宿題以外やらない人だから」
へらへらと後頭部に手を添えて笑う彼女は、同性の私から見ても、とても可愛らしかった。
久しぶりに会った彼女と話したい事がたくさんあって、私達は図書館にも関わらず会話を弾ませてしまった。
私は周りの視線を気にして、場所を変える提案をする。ついでに、一緒にご飯を食べる事になった。彼女も同意して、私達は中庭のベンチへ移動した。
彼女にだけは、私と高嶺君の関係を話しても大丈夫だと確信していた。
「実はね、私、高嶺君の事好きなの」
私は久美の反応が怖くて、手を握り締める。
「え?知ってたけど」
彼女は卵焼きを食べようとした手を止め、逆になんで知らないと思っていたのかと驚かれた。
「だって、私言ってなかったじゃん」
「教室であんなに見てたら誰でも分かるよ」
私が、見ていた?高嶺君を?
「え…私、見てた?」
「うん、がっつり」
「嘘…」
私は自分が無自覚に彼を見つめていたという事実に、腰が抜けそうになった。
「いつくらいから?」
「結構前だよ、んーとね、4月末くらい?」
4月末って、私と彼が屋上で出会った時くらいじゃない。そんな前から、私は彼を好きだったのだろうか。少なくとも私が彼を好きだと自覚した時は体育祭だったから、5月末だった気がする。
たしかに、彼は素直すぎる性格から、周りに嫌われていた。普段屋上で一緒に過ごしているからこそ、彼が嫌われる理由が分からない。私も屋上で出会うまではそう思っていたけれど、ちゃんと向き合えば、彼にも優しく素敵な一面があるということに気付けるはずだ。
彼の言葉の裏には、優しさが含まれているということに。
「そうだったんだね」
私は朝コンビニで買っておいたサンドイッチを頬張る。
「にしても、最初は疑っちゃったんだ」
どうしてだろうか。
「美桜ちゃんって、真面目な人がタイプだと思ってたからさ」
そう言われた時、胸がチクリと痛んだ。
悪気がなかったのは分かっているけれど、どうして私のタイプを勝手に決められなければならないのだろう。
どうして勝手にそう思うのだろう。
そんな偏見が、その人を縛っているということに気付いて欲しい。
そう願っても、私から言うことはなかった。
高嶺君に、いつもそうやって素直に言えばいいのにって言われたけれど、人はそんな簡単に変わることなんて出来ないんだよ。
そんな簡単に変われたら、この世の中に悪いことなんて何一つ起こらないじゃないか。
私は笑顔を貼り付けて、
「私にもタイプくらいあるって」
と言いながら笑った。
私達は木漏れ日を浴びながら、その後もお互いの夏休みの生活について話した。
高嶺君と海に行った事は話さなかった。
2人だけの秘密にしたかったから。

昼食を済ませ、久美は予定があるからと言って帰ってしまった。
私は勉強する気になれず、学校を散策する事にした。
私の学校は大きいから、まだ行ったことのない場所が存在する。棟が違ったりすると、3年間で行かない場所もたくさんあるらしい。
私はそんな場所も行ってみたくなり、荷物を教室に置いて、貴重品をポケットにしまい、冒険への1歩を踏み出した。

ほとんどのクラスは西棟にあり、私も西棟を利用している。普段行かない東棟に行くことに決めた。
夏休み終わりということもあり、人気が全然ない。みんな、最後の休みを堪能しているのだろう。
それに比べて、私は勉強しろと言われる毎日。
門限は1時間だけ延びたけれど、他の人と比べてしまうとやっぱり窮屈なのには変わりない。
それに、成績に関しては変化なく言われる毎日だ。
私はどこへ行くなどの目的もなく、ただひたすらに歩いた。
先生しか使わなそうな資料室や、使われなくなったであろう教室があった。
この学校の生徒数は、昔に比べて減っていると聞いた事がある。今はすべての生徒が東棟に収まるから、使われなくなったのだろう。
私は寂しく感じた。昔は生徒で賑わっていた教室が、今はもぬけの殻のようだったから。
もしかしたら、この教室はずっと生徒を待っているのかもしれない。
昔の明るい時間を求めて。
私は目を伏せ、ゆっくりと扉を閉じた。
徐々に進んで行くと、美術室を見つけた。
この美術室は美術部しか使わないらしい。
開いていた扉を覗くと、そこには数人の美術部であろう生徒が自由に過ごしていた。
読書をしている人、スマホをいじっている人、きちんと絵を描いている人。
高嶺君の姿を探したけれど、彼は今日いないみたいだった。
「入部したいの?」
いやにも優しそうなオーラを放つ男の人が、私を入部したい生徒だと思ったらしく、話しかけてきた。
ここで入部じゃないと言っても、どうして覗いていたのか聞かれるのが面倒だったため、少し言葉を濁しながら答えた。
「なにか部活に入ろうと思っていて、色んな部活を見学しています」
模範解答のような私の返答に、彼は疑いもせず、ゆっくりしてってねと優しい笑顔を見せてくれた。罪悪感に押し潰されるも、今の発言を撤回できるはずがなく、私は軽く会釈をして中へと入る。
過去に受賞した事ある作品が、壁にずらっと並べ飾られていた。
私はそれを一つ一つ、じっくりと眺める。
今まで繋いできた美術部の歴史が、この壁に飾られていって、いつか全ての作品で埋め尽くされる日が来ると思うと、なんだか私が喜びの思いを膨らませていた。
秋の紅葉を描いていたり、冬の湖、部活動をしている風景、そして、1番新しいところには、桜の木と2人組の男女が写っている絵が飾られていた。額縁の下に目を移動させ、著者を確認する。そこには高嶺瞬と書かれていた。
あまりの美しさに、私は目を奪われていた。
どれくらい時が経っただろうか。
屋上から見えていた桜の木を描いていたのは知っていた。ずっと隣で見ていたから。
でも、私達も一緒に描かれていると思っていなかった私は、息を呑んでしまう。
「綺麗…」
溢れ出てしまった綺麗という言葉。
この絵の中の私達は、とても楽しそうだった。
私は彼に話しかけていて、彼は優しい笑顔でそれに答えるというのが絵を見ていて分かった。
どれくらい時間が経ったか分からなかったけれど、先程話しかけてくれた部長の声によって我に返った私は、急いで帰る支度をしたのだった。