桜が散り、緑に変わった。
季節が過ぎて、夏が訪れた。
セミの鳴き声、野球部の掛け声、青空、太陽、汗ばんだ制服。
「迷惑をかけないで夏休みを過ごすように」
先生の気だるそうな声が、暑苦しい教室に響いた。
席替えをして、私は高嶺君と離れてしまった。
“好き”と自覚した運動会の日から、私は前のように素直に居られなくなってしまった。
明日から、夏休みが始まる。高嶺君に会えなくなるのだろうか。彼は夏休み何をするのだろうか。
休みといっても、宿題は出るし、任意授業も参加するし、お母さんの家事の手伝いをしなければならないのだから、私にとって普段の日常よりも過酷な期間なのだ。
どこが休みだよなんて思ってしまうけど、なにも変える事は出来ないから諦めた。
そして私は今も屋上に通っている。
彼は桜の絵を完成させて、コンクールに応募したとか。
なんせ今日結果が発表されるらしい。
応募したのは私じゃないのに、私が一日中ドキドキしてしまっていた。
当の本人は普通に眠っていたけれど。
それにしても、どうして毎日あんなに眠いのだろうか。今日聞いてみよう。


「どうしていつも寝てるの?」
私は絵を書いている彼に話しかけた。
彼は華麗に動かしていた手を止め、目線をこちらへと向けた。
「秘密にしてくれると誓うか?」
「え?うん」
彼の顔が少しだけ近づいてきて、ドキッとしてしまった。
「バイト、してるから」
バイト…?
確かに、うちの学校は一応進学校という名で通っているから、バイトは禁止だ。
「先生は知ってるの?」
「ああ」
先生が許可をしているというのは、なにか特別な事情があるのだろう。
「どうしてバイトしてるの?」
「俺、美大に行きたいんだ。だから、学費を稼がなきゃいけなくてな」
彼は頬っぺを人差し指で小さくかいた。
美大。私も大学を調べ始めてきてるから、色々と目にする事が増えた。
たしか、他の大学よりも学費が高かった気がする。それに、画材のお金もかかるとか。
「偉いね、高嶺君は」
私なんて、まだ大学すら決まっていないし、お金の事も考えていなかった。
まだ高校生で同い年の彼が、遠くにいるように感じた。
「お母さんと約束したからな」
彼がお母さんの話をする時、彼の瞳はとても寂しそうになる。どこか遠くを眺めていて、消えていってしまいそうなほどに。
「俺の絵は魔法だと、そう言っていた」
「うん、高嶺君の絵には、凄い力がある」
元気が出る、勇気が出る。そしてなにより、見てみて気持ちが良い。
美術館に行っても、正直なにが楽しいのか分からなかった。それでも、彼が描いた絵には、見た人を幸せに出来る力があると思う。
「ありがとう」
綺麗な瞳がこっちを見た。
まるで、全てを吸い込んでしまうブラックホールみたい。
「あ、そういえば!」
彼はきょとんと顔を傾かせた。最近の彼は、昔の時よりも明らかに表情が豊かになった。
私の前だけだったらいいな、なんて思っていたり。
「コンクールどうだった?!」
私は体を前のめりにし、彼の返答を待つ。
「受賞した」
意外にも彼は淡々と告げた。いや、彼の性格からして、喜ぶという感情はあるのかないのか。
「そっか…凄いね、うん、凄いよ」
私は目を輝かせながら、呪文のように凄いと呟いていた。
「美大に入るなら、受賞して当たり前だ」
受賞が当たり前なんて、彼の口からしか聞けないだろうな。
「あのさ」
彼が周りの空気の雰囲気を変えて、私に聞いてきた。
「なに?」
「あいつらとはどうなったんだ」
私には、あいつらという代名詞が誰なのか分かってしまった。おそらく、里音と百合のこと。
「うーん、大丈夫って言いたいとこなんだけどね」
私は後ろ髪を片手でくしゃくしゃにしながら、はははと小さく笑う。
それでも、彼の表情がどんどん暗くなっているのが見てわかったから、私も真剣に答えた。
彼が今まで私に聞かなかったのは、私に無理をさせないため。その優しさだけで嬉しかった。
「あの後ね」
私はこの1ヶ月間にあった出来事を、そのまま彼に伝えた。
あの後呼び出されて、2人に悪口を言われた事。
縁を切ろうと言われた事。
これからも友達でいたいと言ったけれど、大嫌いと言われてしまった事。
その後も話しかけようとしたけれど、避けられている事。
いつの間にか泣いていた私に、彼はハンカチを貸してくれた。
「ありがと…」
放課後とはいえど日が伸びた空には、大きな太陽がいる。
夏の風が吹いた。木々の緑の葉がさらさらと揺れている。
「なんで俺を頼らなかった」
彼は少しだけ怒っていた。怒りと悔しさと、悲しみの表情をしていた。
「ごめんなさい、でも、私の問題だから」
ありがとうと、私は彼に告げた。
そんなに優しくされたら、期待してしまう。
彼の優しさは当たり前のこと。分かっていても、どんどん好きになっていく自分が嫌。
彼は小さくため息をついた。
「夏休み、気晴らしに、海に行かないか」
髪をかき乱す彼の姿は、裏を返せば照れているということ。
恥ずかしがりながらも誘ってくれたことが、とても嬉しい。
「別にいいけど」
また私は可愛くない返答をしてしまった。
いつも心の中で私反省会を開いている。
素直に「行きたい」って言えたらいいのに。
「なら…ん」
そう言うと、彼は鞄から携帯を取り出して顎でくいっと示した。
連絡先を交換するということなのだろうか。
私の思考が一瞬だけ停止した。私は慌てて鞄から自分の携帯を取り出して、彼と交換する。
運動会の時に里音に言っていた言葉が頭に浮かんだ。
『俺は自分が交換したいと思った相手としか、交換しない』
そんな彼が、自ら私と交換しようとしてくれた事が、何よりも嬉しくて愛おしい。
高嶺君は私を喜ばせるのが得意みたいだ。
「予定とかはこっちで話し合おう」
「そうだね、楽しみ」
嬉しみのあまり、私の口から「楽しみ」という言葉がもれてしまった。
彼はなにも気にしていないらしい、私はほっと胸を撫で下ろした。
可愛い洋服でも、買いに行こうかな。
いつも夏休みが来ると憂鬱でしかないけれど、彼のおかげで楽しく過ごせそうだ。


夏休みが始まって少し経った頃。
暑さはどんどん増していくし、セミの声もうるさくなっていく。
私は目覚ましを止め、体を起こす。
朝から最悪だ。
私はため息を出す。それでも重い体を起きあげて、今日のために買っておいた白色のワンピースを体に重ね、全身鏡の前で確認する。
よし、大丈夫そう。
今日は高嶺君と海に行く日。
私たちの予定が合ったのがこの日しかなかったからだ。お互い勉強や部活で会える日が思っていた以上に減ってしまい、少し落胆していたところ、彼が今日を提案してくれた。
彼はいつもタイミングが良い。私が悲しんでいる時だったら、嬉しい事を言ってくれる。恐らく彼は無意識だろうけれど。
いつもは暑くてセミロングの髪をポニーテールに結んでいるけれど、今日はおめかしをするため、下ろす事に決めた。
ヘアアイロンを引き出しから出し、買ってからあんまり使った事のないメイク道具を用意する。スマホでメイク動画を見ながら挑戦してみた。
数十分後、普段していないわりに上手に出来ることが出来て、自然と鼻歌を歌っていた私。
メイクって、こんなに楽しいんだ。
私の顔は、中の上くらい。可愛いとも可愛くないとも言われない、中途半端な顔だ。
そんな私を守ってくれるかのような役割を、メイクはしてくれているみたい。
可愛くなるって、とても心地よい。
ワンピースを来て、髪をヘアアイロンに通していく。もともとストレートヘアである私の髪は苦戦することなく、綺麗に完成することが出来た。
大体の準備を終え、時計を確認すると、家を出る予定だった時間よりも結構前だった。
『12時に駅集合』
まるで業務連絡かのように言われた言葉。
楽しみだねとか言ってくれてもいいのに。
私はスマホ越しにムスッとしていた。でも、このクールさが彼の良い所だと心の中で唱える。
今はちょうど10時半。
お昼ご飯は食べてくるのだろうか。
軽くおにぎりでも作っていこうかな。
そう思った私は早速台所に向かう。
幸いな事に朝のお米が半分以上残っていて、私は冷蔵庫にあった具材に使えそうな物を取り出す。
昆布、鮭、ツナ、あとは…塩。
なんとか4種類作れそうだ。
私はキッチンラップをちょうどおにぎりを包めるくらいの大きさに切っていく。
米を平に乗せ、真ん中に具材を置いていく。
高嶺君はなんの具材が好きなんだろう。
いくらとかだったら可愛いな。
私はおにぎりを握りながら、そんな妄想を膨らませていく。
4つのおにぎりを握り終わった後、ランチボックスに詰めていく。食後のデザートに果物でも入れておこう。
1時間くらいで準備することが出来た私は、散歩がてら集合場所に向かう事に決めた。早めに着くことに悪いことはない。
そう思い、鞄を肩にかけて、おにぎりの入ったバッグを掴み、お母さんに挨拶しようとした時。
「お母さーん、いってきまーす」
2階で洗濯物を畳んでいたお母さんに聞こえるように、大きな声で叫んだ。
お母さんは上から物凄い音を立てて降りてきた。なにか、悪いことをしただろうか。
私は訳の分からない彼女の怒りの原因が分からなくて、でも怖くて、私の体の全体がどくどくと脈立っている。
靴を履いた私の元に来たお母さんは私の顔の目の前にあるテストを見せつけてきた。
「ちょっと美桜!なんなのよこの点数は!」
お母さんの顔が、どんどん赤く染まっていく。
あのテストはたしか、塾の夏期講習の時に受けた小テスト。
でもあれは、私がお母さんに1週間くらい前に見せようとしていたものだ。それでもいつもみたいに『後でね』と言われたまま、見ようともしれくれなかった。
今更言われても、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
早く行かないと、彼を待たせる事になるというのに。
それでも、お母さんに反抗しちゃだめ。
今まで育ててくれたんだから、反抗するなんて最低な事、したくなんかない。
「遊んでる暇があるなら、勉強しなさい!」
お母さんの怒りは収まることなく、土足でずかずかと私の心を汚していく。
心の中に、どろどろとした暗い感情が流れ込んでくる。
反抗しちゃだめなのに、お母さんにとって完璧な娘でいなきゃだめなのに。
私は、私を制御出来なくなっていた。
今までの思いが、まるで滝のように流れ始めた。
多分いつか、こうやって反抗する時がきたんだと思う。それが今日だっただけの話。
「私だって、頑張ったよ!この前正直に点数落ちた事伝えようとしたのに、聞いてくれなかったのはお母さんじゃん!なんでいつも私を見てくれないの?!私の事なんてどうでもいいくせに、分かったような口聞かないでよ!」
私は自分のありのままの気持ちを伝えた。
言葉にしてしまった後に、言い過ぎた、と思った。思ってもない事まで伝えてしまった。
お母さんに自分の想いを伝えたのは、いつぶりだろうか。
お母さんも私の行動にびっくりして、目を見開いている。
ごめんなさい、反抗したいわけじゃないの。
ただ、私を見て欲しいだけなんだよ。褒めて欲しいだけなんだよ。
いつも、お母さんの自慢のお姉ちゃん。私もいつか、そこの立場になれるように頑張ってるんだよ。
結果に繋がっていなくても、勉強してるんだよ、私だって努力してるんだよ。
ちゃんと、過程もみてほしい。
決して、努力してないわけじゃない。
私は、時が止まったように驚いて動かないお母さんを背に、家を飛び出した。
お母さんは我に返ったのか、私の名前を叫んでいた。

ごめん、お母さん。
こんな娘で。なにも出来ないくせに反抗してごめんなさい。それでも、お母さんが正しいとも思えないの。今までずっと、そう思っていた。いつか、私の口から言わずとも、気付いてくれる日を期待してたけど、そんな日は現れなかった。裏切られたって言いたいわけじゃない。別に私が勝手に期待しただけだから、裏切られたという表現は違うと思うから。
肩を下ろし、下を向いて歩いていた私の足元に、1枚の緑の葉がひらひらと落ちてくる。
上を見上げると、緑の世界が広がっていた。
里音と百合とこの桜並木を歩いた日々が懐かしく感じる。まだあの日から半年も経っていないというのに。
仲直りを出来ずに夏休みを迎えてしまった。
たしかに、仲良くなったら連絡先教えて欲しいと言われていたけれど、その時はまだ連絡先を交換していなかったし、第一私と高嶺君の2人の放課後の時間を邪魔されたくなんてなかった。
あの日の桜はとても綺麗だったけれど、今は緑で生い茂っている。
桜は1年で極わずかしか咲く期間がないからこそ、こんなにも称えられているのだろうか。
見た目の美しさ、彩りの良さ、香り。
桜を見ただけで1日頑張ろうと思えるし、ずっと見ていても飽きない。
素直に、羨ましいと思ってしまった。
青空もそうだけれど、誰かにとって幸せにさせられることが出来る人になりたい。
これは、私がずっと願ってきたこと。
私は上から舞い降りてきた緑色の葉っぱを掴む。私はいつ、桜を咲かせることが出来るのだろうか。
ネガティブになっていた自分の思考をかき消して、私は集合場所へと急いだ。

腕時計を確認すると、ちょうど集合時間に着いた。待たせる側になるなら、待つ側になった方がよい。
私は辺りを見渡して、高嶺君らしき人がいないか確認してみる。彼は他の人よりも身長が高いから、見つけやすい。
集合場所は私達の学校の最寄り駅の前。お昼集合という理由もあり、少し人混みが激しい。
大きな時計台の下と言われているけれど、これはここまで来るのにも一苦労しそうだ。
私は高嶺君に、集合場所を変更するべきだということを連絡しようとした時。
私の目の前が影で覆い尽くされた。
私はスマホから目を離すと、そこには息を少しだけ荒くしている高嶺君が立っていた。
「悪い、遅れた」
息を整えながら、彼は謝罪を告げた。
遅れたって、まだ集合時間から5分くらいしか経っていないのだけれど。
そういう律儀なところがなんだか可愛くて、私はクスッと笑ってしまった。
彼は笑われたことに拗ねてしまったのか、行くぞと言って、私の手首を掴んだ。
人混みの中移動するんだから、はぐれないようにしているだけだ、そうに決まっている。
ドキドキと、私の心臓がうるさくなっていく。彼に伝わってしまうのではないかという不安はすぐにかき消された。なぜなら、彼の耳が少し赤く染まっていたから。
私と同じ気持ちだったら嬉しいな、なんて思ってしまう。
改札のところまでずっと繋いでくれた手首だけが、とても熱かった。
私達が出発した駅から、今から向かう海がある駅までは1本で2時間程度。
私達が乗った時、お昼にも関わらず人が結構いたため、ドアの付近で立っていることにした。
黒いズボンに、白のTシャツに、銀のネックレス。シンプルだけれど、彼が着るとまるでモデルのようだ。
実際、電車に乗っている他の女の子達が彼を見ながらヒソヒソと話している。
「鈴岡、服似合ってる」
彼が私の顔を覗いて言ってきた。さっきまでこっちを見てきた彼女達は、今の言葉が聞こえたのか、『彼女いたね』と落胆していた。
彼女じゃないんだけど。
でももし、そうなれたらどんなに幸せだろう。
少し経った頃、席が空かないまま、人の多い駅に止まった。私達の反対側のドアが開き、続々と人が入ってきた。
あまりの勢いに私は反応出来なくて、躓いてしまった。
そんな時、私の肩に彼の大きな手が支えとなってくれて、さらにドアの方に移動させてくれた。彼が私を守るように包み込んでくれた。
まるで、少女漫画のワンシーンのようだ。
手首を掴まれた時よりも彼との距離が近くて、私は俯く。
彼の香りが、私の鼻を刺激する。
ああ、私の好きな匂いだ。
昔どこかで、匂いは人の感情を落ち着かせたり、行動を変化されるというのを聞いた事がある。
家を出る時のお母さんとの出来事が、私の心の中に少しだけ渦巻いていたけれど、今彼の香りを嗅いで、なんだか落ち着いてきた。
そんな時、人気の都会な駅に到着したため、大勢の人達が降りていった。
たくさんの空席が出来たため、私たちは端のふたつを座らせてもらった。
景色がどんどんと変わっていく。
それと同時に、私の心情も変わっていく。
先程までの楽しい気分から、お母さんへの罪悪感が増してゆく。
私は無意識にため息を出していたらしく、高嶺君が心配してくれた。
「なんかあったのか?」
「……」
「俺には弱音吐いてもいいんだ」
彼が優しく微笑んだ。
彼の笑顔が、優しさが、私の心を満たしていく。
小さなその一言だけで、私は嬉しかった。
「実はね」
彼はなにも言わず、ただ静かに相槌を打ってくれるだけだった。でも、それだけで充分。
「お母さんと成績の事で揉めちゃって」
「うん」
「酷い事言ったまま、家出てきちゃったの」
「……」
「私だって、お母さんの自慢の娘になりたいよ、それでも最近、お母さんが絶対に正しいって思えなくなってきちゃって、反抗しちゃってた」
「謝りたいという思いはあるのか?」
「もちろんあるよ…でも、これで私が謝ったら今までと同じだと思うの、お互い、変われないって」
今までのままだと、お母さんも私も変わる事なんて出来ない。
「それでも、自分が伝えたいと思った時に伝えなきゃ、後悔するぞ」
「え…?」
「伝えられずに、一生後悔しないように」
明日は必ずあるとは限らないと、そう付け足した彼は、とても悲しそうだった。
「だから、勇気を出して言ってみるのも、悪くないんだぞ」
そう言った彼は、私の髪を軽くぽんと撫でる。
「うん、ありがと…」
私は俯き、照れている事と泣きそうになっている事をばれないように頷いた。
「そういえば」
私は少し重くなった雰囲気を変えようと思い、話題を出した。
「どうして高嶺君は絵を描こうと思ったの?」
「お母さんが画家だったんだ。それをずっと見て育ってきたから、俺も描くようになってただけだ」
「そうなんだね」
画家“だった”と過去形だったのが少し気になったけれど、私はなにも言わなかった。
「俺は将来、誰かを幸せに出来る絵を描きたいんだ、お母さんのように」
「高嶺君なら、きっと大丈夫だよ」
今日の私は、やけに素直だ。
それでも、恥ずかしいと思わなかった。
「俺さ、調べてみたんだ」
「何を?」
「鈴岡のお母さんについて」
高嶺君が、そこまで考えてくれてると思っていなかった私は少しだけ目を見開く。
「多分だけど、教育虐待かもしれない」
「教育虐待?」
「ああ、教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうことらしい」
たしかに、彼が教えてくれた“教育虐待”について。それはお母さんに当てはまる部分があると言えるだろう。
他の家よりも勉強について厳しいし、少し点数や順位が下がっただけでも怒られてしまう。
そしてなにより、テストで高嶺君に勝てていない時。彼が1位で私が2位というのが今まで続いていたから、お母さんは私のテストの時になると焦りや苛立ちを感じているというのが、見ただけでも分かってしまう。
人差し指をとんとんと叩いたり、ため息の数がいつも以上に増えていたり。
私は人一倍他人のそういう細かい部分に気付いてしまうから、それがプレッシャーとなっているというのも事実。
「そうなのかな…」
「話を聞く限りだとな」
でも、と彼は続けて告げた。
「今まで育ててくれたのも事実だから、それで嫌うのは違うと思う。その部分だけ見ると怖いとか嫌いとか思うかもしれないけれど、全体をちゃんと見れば、そんな人でも良いところは必ずある。人というのは尊い存在だから」
彼の言葉は、本当に凄い。
学校の先生よりも、テレビに出てる人の言葉よりも、心の底からじんわりと温かくしてくれる。どんな人生を歩んだら、高校生がこんな言葉を発せられるのだろうか。
人間は尊い。当たり前だけど忘れてしまう大切な事を、彼はいつも教えてくれる。
いじめ、嫌がらせ、SNSの誹謗中傷など、今の世界はそういうものがありふれている。
心の傷というものは一生その子の心に残るということを忘れてはならないのだ。
どうしていじめというのが存在するのだろうか。被害者は加害者になにかしただろうか。
どうか、みんなが幸せになれる世界がくることを、私は願う。
「そうだね、自分達の命は、凄い確率で生まれているというのを、忘れちゃだめだよね」
私は彼に言われて、改めて気付くことが出来たけれど、この世界にはそんな当たり前を気付いていない人がいるんだ。彼がいなければ私もそっち側にいたんだ。
「高嶺君はすごいなあ」
私は呟くようにそっと告げた。
腕と足を伸ばし、固まっている体を起こした。
「俺は鈴岡の方がすごいと思う」
私のどこが凄いのだろう。
お母さんを怒らせているし、成績だってあなたの方が上だというのに。
「親のために頑張れるというのは、そうそうできる事じゃない。その努力はいつか、鈴岡を助けてくれるんだよ」
彼は小さくクスリと笑う。そしてまた、私の頭を撫でてくれた。
「あと少しで着くぞ」
彼は、私の頭に置いてあった手を下に移動し、私の手の平を握ってくれた。
たとえ優しさでも、それだけで私は幸せ。
さっきは手首だったけれど、今は手の平だという些細な事でさえ、とても嬉しい。
この幸せを、どうやって彼に返せばいいのだろうか。今の私にはまだ分からないけれど、いつか彼のためになることがあったら、その時はこの身を捧げて恩返ししよう。

海の綺麗な音色が、私達の静かな世界を奏でている。
小さな波が、きたりいったりしている。
「綺麗だね」
「ああ、普段東京にいたら見れない景色だな」
「あ、高嶺君はご飯食べてきちゃった?」
おにぎりを作ってきたことを忘れていた。
それに、彼がお昼を食べてきたかどうかという事を聞きそびれていた。
時間もあれだし食べてきてるだろうか。
「いや、12時集合だったから食べてきてない」
そういえばお腹空いたなと、彼がお腹を抑えながら呟いた。
「実はね、おにぎり作ってきたの」
私はそう言いながら、腕にかけていたランチボックスを彼に差し出す。
彼はそれを受け取り、中身を出した。
家族以外に自分の手作りを渡したのは初めてだったので、感想が気になってしまう。
彼はいただきますと手を合わせてから、おにぎりを頬張った。
「うん…美味しいな」
目をきらきらとさせながら、彼はひとくち、またひとくちと食べていって、あっという間にひとつを食べ終えてしまった。
「よかったあ…」
私は肩の荷が下りたような感覚に陥る。
私もひとつだけ鞄からおにぎりを出して、頬張った。
我ながら、結構上手くできたなと微笑ましく思う。
全て食べ終えた私達は、浜辺に座りながら、静かに音を立てている波を眺める。
私がぼーっと海を見つめていると、彼はリュックからスケッチブックを取り出した。
「絵、描くの?」
「ああ、さすがにキャンパスは持ってこれなかったから、下書きだけでもしておこうと思ってな」
「そっか、頑張って」
心の底にあったしこりを、波がもっていってくれたかのように、私の体は浄化されていく。
今日くらい、門限破ってもいいかな。
でも、一応連絡しておこう。
私は連絡する相手が1人増えたアプリを開き、お母さんに連絡をした。
『今日は遅くに帰ります。友達といるから、心配しないでください』
こんな素っ気ないメッセージを送るのは初めてだ。いつもは、相手がどう思うかという事を考えてきたので、私が怒っていると思わせないためにびっくりマークを必ず付けたり、絵文字を付けたりしている。
私はそうやって気を遣っているというのに、友達はいつも冷たく返信する。
それが怒っているというわけではないということは分かっているけれど、こっちはそう思わせることさえさせてないというのに、なんでそっちは何も考えてくれないんだろうと。
そんな悲劇のヒロイン地味た考えをしている私は、誰かに相談することが出来なかった。
それでも、いつの日か高嶺君に言った事がある。そんな時彼は、『それも鈴岡の良い所なんだな、他人以上に優しく出来る人は、いつか必ず優しさが返ってくる』それを信じていれば報われる日がくるはずだと、君はそう言ったね。
見返りを求めない人はいない。
人間はどんな人でも欲に塗れている。
そんな自分が恥ずかしいと思う時がある。どうして私はこんなにも見返りを求めてしまうのだろうかと。
そんな私を、それが当たり前だと、みんなそうであると教えてくれた君。
そんな時、握りしめていた私のスマホが、ブーブーと振動した。
『わかった、でも帰ったらきちんと話してもらうからね、気を付けて』
スマホに写った文面は、いつもより素っ気ない。それでも、遅くなると伝えたら、承諾してくれた。普段の私なら、聞くまでもない、どうせ聞いても怒られるだけだと勝手に決めつけて、聞いてすらいなかっただろう。
私が勝手にレッテルを貼っていただけだということに気付き、止まっていた歯車が動き出したように感じた私だった。
それでも、人はすぐに変われないというのも事実であって。
だからこそ、人生があるんだと思う。
自分を好きになるために。
私が思うに、人生とは、人と関わるにつれてたくさんの自分を知っていくことになる。その時、新しい出会いには良しも悪しもがあるから、嫌いな自分に出会ってしまう時があると思う。そんな自分を好きになるまでの過程が人生であって、幸せを感じたり、悔しさを感じたりして、生きていくんだと私は思う。
最後に自分の人生が、辛かったこともたくさんあったけれど、楽しいことが勝れば、それでもういいじゃないか。
結局は、最後に笑ったもん勝ちだ。
私は目線を、海から彼に向ける。
スケッチブックには、もうすでに海だと分かるくらいの構造が出来上がっていた。
彼はさらさらと滑らかに手を動かしていく。
私は風景を描くことが苦手だから、正直すごいなと思った。どこから描けばいいか分からないというのが本音だ。
「どうかしたか?」
彼は手を止め、顔をこちらに向けて訊ねた。
「ううん、気にしないで描いてていいよ」
「そう言われても、気になるものは気になってしまうだろ」
「たしかにそうだね」
私は、はははと疲れ気味に笑う。
疲れているわけではないのだけれど、海のゆったりとした波を見ていたら眠くなってきてしまった。
スマホで時間を確認すると、時刻は午後の4時へとさしかかろうとしていた。
夕日ももうそろそろ水平線に被さっていくだろう。
彼は描くのをやめ、スケッチブックを閉じた。
「そろそろ帰るか」
私の門限を気にしてくれたのか、彼が気を遣って帰ることを考えてくれた。
私は立ち上がろうとしている彼の袖を掴み、こう言った。
「もう少しだけ、いたい」
夕焼けが見たいだけだからと、付け加えて。
「でも鈴岡、お母さんが」
「その件は大丈夫だから。私達がいたいと思った時間までここにいよ」
「なら、問題ないか」
彼はもう一度腰を下ろし、海を眺める。
「海ってすごいよな」
「海が?」
「地球の7割が海だと言われている中、飽きられることなんてなく、ずっと長い間愛されているんだ」
「たしかに…?」
彼の言う事は難しい時が多い。
だから理解出来る時が少ないし、なんだか大人と話してる気分だ。それでもいつか、彼の言葉が理解出来る日が来ればいいなと私は思った。
海のさざ波の音だけが、私達の耳を刺激する。
「高嶺君の家って、どんな感じ?」
「俺の家、か…考えた事ないな。強いて言うなら、放任主義って感じだな」
自由な感じだと、そう付け加えて。
「そっか…いいなあ」
「そうか?」
「うん、私の知らない世界をたくさん知ってそうだなって思う」
私は7時以降の世界を知らない。
それに比べて、門限がない彼は色んな世界を知る機会があって羨ましいと、私は思った。
「俺は鈴岡が羨ましい」
「毎日の生活が縛られてるんだよ?」
「ああ、それでも、それは大切にされている証拠だと思う。愛の表現が違うだけで、それは愛されているっていう事なんじゃないかな」
自由な彼が羨ましいと思う私。
縛りが、愛されている証拠だと思う君。
私達は結局、ないものねだりの生き物なんだ。
お互いが持っていないものを欲しがってしまう生き物なんだ。
どうせそれを手に入れる事が出来ないのなら、今自分が持っている中で、幸せを見つけるしかないんじゃないのだろうか。
「ねえ、高嶺君」
「どうした?」
「私が今から言う事、笑わないで聞いて欲しいの」
「…わかった」
初めて人に明かす、自分の心の奥底の想い。
自分の穢らわしい部分を晒すというのは、お互い居心地の良いものではないだろう。でも、彼には知って欲しいと思った。彼なら、素直な彼の気持ちを伝えてくれると思ったから。
変に気を遣われるより、全然よかった。
「私はね、昔からお姉ちゃんと比べられてきたの」
私はいつも比べられて、いつも負けていた。
「だからね、褒められるっていうのが本当に少なくて」
「うん」
「いつの間にか、自分のためにじゃなくて、お母さんに褒められるために、頑張ってたの」
「……」
「勉強に関してなんか、高いのは当たり前で褒めてくれない。でも低い時はいつも怒られるの。私はね、ただ頑張ったねって言われたいだけなのに」
彼を見る事は出来なかった。
どんな表情をしていたのか、どんな気持ちで聞いていたのか、私は知らなかった。
彼が私よりも悲しく辛い立場にいる事を知らずに、私は自分の事しか考えないで、彼に話していたんだという事に。
「そう、だったんだな」
いつも正直に全てを伝える彼が、歯切れの悪い言い方をしていた。
私は不思議に思い、眉間にしわを寄せる。
「いつか、褒めてもらえるといいな」
私が求めていた答えと、違っていた。
なんだか、少しだけ遠ざけられた気分だ。
そんなこと言えるはずがない私は、ありがとうとだけ告げた。
久しぶりに、彼に対して作り笑いを見せた瞬間だった。
刹那、夕日が水平線に沈んでいくのが見えた。
オレンジ色が、空に広がっていく。
初めて屋上で会った日も、こんな感じで夕日が輝いていたのが懐かしい。
あの日の私は、彼とこんなにも親しくなると思っていなかっただろう。ましてや、異性として好きになるなんて。
夕日が私達を照らしていく。
「昔お母さんに、夕日はオレンジ色だけじゃないんだよって教えてくれた事があったんだ」
それなら、私も聞いたことがある。
昔に、誰かから言われた事がある気がする。
「最初はオレンジ色にしか見えないじゃんって思っていたけど、絵を描くようになってからは、その言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした」
彼はいつもみたいに、綺麗な瞳を遠くに向けていた。夕日が反射して、彼の瞳がオレンジ色に輝いていた。
「みんながオレンジだと言うからオレンジ色なんだと、俺は思ってた。でも本当は、自分の感じた思いをかき消す必要はないと、伝えたかったんだと思う」
周りに合わせなくてもいい、本当の自分を大切にしろと、お母さんは俺に気付いて欲しかったんだと思う。彼はそう言いながら、夕日で煌めく海を眺めていた。
黄昏時。それは、夕焼けで薄暗い中、相手の顔が分からなくなり、「誰ですか?」と問いかける時間帯の事。
この時間を、空間を黄昏時と呼ぶんだろうか。
私はどんなに薄暗くなっても、彼が高嶺君だと気付く事が出来るだろう。
「周りに合わせなくていい、か」
完璧に演じる私にとって、本当の自分を大切にすることを忘れていた。
中学のあの日から、私は、本当の自分を見失っている。自分では分かっていても、今更変えることなんて出来るはずがない。
昔から、誰かの1番になりたかった。
お母さんにとってでもいいし、友達にとってでもいい。
誰よりも大切にされたい。
それでも、私を大切にしてくれる人なんていなかった。友達に見捨てられ、奴隷みたいだと言われ、嫌いだと告げられた。
私の味方なんて、誰一人いないんだ。
「俺は鈴岡の味方だ」
まるで、私の心を見透かしたかのようなタイミングで、彼はそう言った。
頑張れとか、大丈夫だよとか、そんな上辺だけの気持ちよりも、彼の言葉には重みがあって、私を安心させてくれる。本当にそうしてくれるんだという思いがある。
やっぱり彼は、私を喜ばせるのが得意らしい。
「ふふ、ありがと」
誰かの1番じゃなくて、彼の1番になりたい。
そう願っていた。
「そろそろ、帰ろっか」
私は立ち上がり、伸びをする。
ずっと座っていたから、腰が痛かった。
彼も立ち上がって、不安定な砂浜から私を守るかのように、自然と手を繋いでくれた。