始業式が始まって、2週間程経った頃。
雨が降ることなく、無事に桜も一昨日満開を迎えたところ。
クラスに慣れてきた私は、隣の席の神田久美と仲良くなった。ボブの髪を内巻きにしていて、丸眼鏡をかけている。小柄で可愛らしい女の子だ。彼女とは読書好きという趣味が合い、意気投合したのだ。それに凄く明るいというわけではないから、一緒にいて落ち着くところが、彼女の良い所でもある。本人はもっと明るくなりたいと思っているようだが。
友達も出来、みんなからの信頼も持たれてきていて、去年と同じ立ち位置になるのは時間の問題だろう。
そして私はまたみんなのお願い役に周り、感謝される事でしか自分を保てない人間になる。
嫌なわけじゃないけれど、みんなから信頼されるのとは反比例に自分自身が嫌になるだけ。
それでも、楽しい日々を過ごしている。
――左隣の奴がいることを覗いては。
怖いという話は本当で、まるで自分の周りに騎士をおいているみたいだ。
しかも噂通り授業中は寝ていて、先生に当てられた時は授業を妨げている。私が1番嫌いなタイプの人間だ。自分が良ければ周りを考えないなんて、自己中にも程がある。みんながみんな、あなたみたいに教科書を見て理解できる人間じゃないのに。
私は小さなため息をこぼし、残りの板書を済ませた。
少し疲労感を感じた直後、6時間目の終わりの告げるチャイムが鳴り響いた。
今日の数学の授業が自分の苦手分野だったため、理解することが出来なかった。
今日は塾もないから図書館で勉強していこう。
そう決めた私に、クラスメイトとひとりが話しかけてきた。彼女は莉乃ちゃん。誰もが認める可愛い系の女の子だ。そんな彼女が、目を泳がせながら私の元へきた。
「あのね、美桜ちゃん。私今日掃除当番なんだけど、彼氏と放課後に遊ぶ約束しちゃってて、だからその…」
彼女はもじもじとしながら、私にそう言ってきた。
―ああ、変わってほしいってことね。
変わって欲しいなら変わってほしいと素直にお願いすればいいのに、どうしてこっちが察しなければならないのだろうか。
たしかにこのクラスで代わりにそういう雑用をやってくれそうとアンケートをとったら、私の名前が1番にあがるだろう。
だって私は、みんなにとっての完璧な存在である生徒だから。
それでも、あなたのデートと私の勉強、どっちが大切かなんて、誰に聞いても私の勉強の方が大事と答えるに決まってる。
溢れ出そうになったため息を胃に戻し、私は笑顔を作って答えた。
「もちろんいいよ、楽しんでおいで」
今の私の笑顔に違和感はないだろうか。引きつっていないか心配だったけど、彼女の明るい表情を見たら、大丈夫だったのだと安堵した。
私は無意識に、手をぐーにしていて、爪が手のひらにくい込んでしまっていた。痛いけれど、この苛立ちを落ち着かせるくらいの、丁度いい痛さだった。
教室を見渡すと、私の他に掃除当番の4人と、放課後の予定を立てているであろううるさい男女集団だけだった。うるさいから早く出ていってほしい。掃除当番のみんなも話してないでもっとテキパキと動いてよ、私の勉強時間を奪わないで。
私の心の中で、苛立ちや負の感情が渦巻き始めていた。これ以上積み重ねたら、心の器から溢れ出してしまいそう。私はまた手のひらに爪をくい込ませた。痛いけれど、深呼吸の仕方を教えてくれたみたいに、空気を吸う事が出来た。
ほとんどの床を私が掃除して、ようやく図書館に行くことが出来る。
私はリュックサックと教科書を持って、教室の扉を1歩踏み出した。
階段を登っていると、上の方から大きな荷物を持っている男子生徒が大変そうに登っている姿が視界に入った。
私は首を傾げて少し観察していると、運んでいたのは美術のキャンパス。左手には筆を入れているであろう茶色い箱を握っていた。
手伝うべきだろうか。
でも必要なかったら恥をかくだけ。
人間というのは1度迷いを感じてしまったら判断力が低下するらしい。その言葉通り、私が決断する前に彼は4階へと辿り着いてしまっていた。
心の中ですぐに声をかけなかった事を謝る。
そう思っていた直後、彼はさらに上へと登ろうとしていた。あの先は屋上へ繋がる扉しかないはずなのに。そして屋上は立ち入り禁止。
私は、彼が許可なしに屋上に侵入しようとしていると思い込み、彼の後ろを着いていった。
先輩だろうと、後輩だろうと、叱ってやる。
みんなにとっての、完璧な存在でいるために。
こういう時だけは正義感を見せるのが私だ。叱る勇気があるなら、助ける勇気だってあっていいはずなんだけどな。
少し開いている扉の隙間から、彼の様子を伺う。もともと屋上にあるベンチに腰を下ろし、キャンパスを立てて絵の具をパレットに出している。
私は今だと思い、ゆっくりと彼の背後に進む。
「屋上は立ち入り禁止ですよ!」
私は怒りを込めた言葉を彼に告げる。
彼はビクッと少しだけ驚いて、私の方へと体を回転させた。
…は?え、ちょっと待って。
どうして、あんたが。
「…鈴岡か、驚かすなよ」
彼は初日と同じ目を私に向ける。
「た、高嶺君…だったのね」
「だったらなんだよ」
彼は色素の薄い綺麗な髪を、片手でくしゃくしゃとかいた。
やばい、怖い。怒られる。
そう思っていた私は、言葉を発することも出来ず、体を硬直させていた。
「あ、あの…」
邪魔してごめんなさい、そう続けて言おうとした時、彼の言葉が私の言葉を遮った。
「許可は取ってある」
「…え?」
「だから、先生から許可は取ってあるから、大丈夫だ」
許可、取ってたんだ。自分の正義感で勝手に勘違いしていた事がとても恥ずかしくなり、穴があったら入りたい。
「そう、だったんですね、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ?」
彼は本当に訳が分からないとでもいうように、眉をひそめている。
「あ、勝手に屋上に行ってるって思っちゃってたから…」
私には言い訳など考える余地もなく、彼は彼自身の思いをぶつけてきた。
「勘違いなんて誰にだってあるんだから、すぐそうやって謝るのはやめろ、想いのこもっていない謝罪は、された側を不快にさせるだけだ」
別にそこまで言わなくてもいいじゃない。
なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないの。
「うん、ごめ…あ、わかった」
やっぱり苦手だ。まるで喧嘩が得意な不良少年と話している感覚に陥る。いつもの私じゃ居られなくなるこの感じが、気持ち悪い。
帰るタイミングを失ってしまった私は、空気のような存在になって、彼の行動を観察していた。
彼は絵を描く準備をしながら、ちらちらと私の方を見てくる。
なにかまた不快な思いをさせてしまっているのかな、と思った私に彼はこう言った。
「そんな後ろから見られても気が散る」
気が散るなんて、初めて言われた。
まだ特に仲良くもない人間に、気が散るなんて言える神経を疑いたい。
さっきまで怖がっていたのが嘘のように、私の中のなにかが爆発した。
「なにが気が散るよ、別に私がしたいようにしてるだけなんだけど」
私はあからさまな態度で怒りを顕にしたセリフを彼に告げた。
「教室でもそうやって、自分の思いを伝えればいいじゃないか」
「え?」
「どうしていつも、自分を犠牲にする」
なんでそんな事を言うんだろう。
彼には、私の行動が見透かされているみたいで怖い。
本当の私は、醜くて、最低で、なんの取り柄のない人間だという事がばれそうで、怖い。
その綺麗な瞳は、なんでも見えてしまいそうだ。私とは違う。
「お前はどこか、母さんに似ている」
え、母さん?
「なに、私って、そんな老けてる?」
「そういう意味じゃない、自分の事を考えないで他人を優先するところが、そっくりだ」
違うよ、私はそんな綺麗な人間じゃない。
自分の事しか考えてないよ、自分の存在価値を見出すために、他人が必要だっただけ。
「素敵なお母さんなんだね」
「ああ、俺の憧れの人だ」
そう言っている彼の目はとても輝いていた。「邪魔しないなら、ここにいてもいい」
私は彼の言葉が理解出来なくて、首を傾げた。「屋上はとても心地よい、鈴岡がいたければ好きなだけいるといい」
彼の口から、そんな言葉が出てくるなんて、去年の私では知り得なかっただろう。
「あ、ありがと」
一匹狼と聞いていたから、もっとガードが固いのかと思っていたが、案外彼から優しくしてくれて、私の頭は混乱状態になっていた。多分だけど、私と同じように噂だけで彼が怖い人物と思っている人が、怖い彼を作り出してしまっているのかもしれない。
屋上に来て1時間くらい経った頃。
彼も話しかけてこないし、私も話しかけない。
この状況ではそれが暗黙のルールのようなものになっている気がする。
いつも誰かといる時、話さなければならないという義務があると思う。一緒にいるんだから、会話をしなければ相手だってつまらないと感じてしまうから。
でもそれは、私にとってはとても疲労な事。
話題を考える事も、相手の顔色を窺う事も、相手の話を聞く事も、全てがめんどくさい。
ただ、私が顔に出さないだけなんだ。
でも彼が、邪魔をしないならと言ってくれたおかげで、話さなくていい今がとても心地よい。
夕日が、私達をオレンジ色に照らす。
昔どこかで、夕日はオレンジ色だけではなく、他の色も混ざっていると聞いた事があるけれど、私にはオレンジ色にしか見えない。いつか、その人が言っていた色が見れたらいいな。
私は視線を、夕焼けから彼の方へと移す。
さっきまでは真っ白だったキャンパスに、色が塗られていく。
桜…を描いてるようだ。
彼も桜が好きなのかななんて、聞けば分かることを心の中で考えた。聞く勇気はないけれど。
今日、ここで彼に話しかけてよかった。
嫌いだけれど、この静けさが私を私でいさせてくれる。ずっと前に失ってしまった本当の私を、引っ張りだそうとしてくれる。
家でもクラスでもいい子ちゃんな私にとっての、安らぎの場。
もっと、ここにいたい。
この風を、この空を、嫌いな彼を、もっと眺めていたい。
絵を描いている彼は、どんな彼よりも美しい。
みんながそれを知らないなんて、優越感に浸ってしまいそうになる。
誰かの1番になりたい私は、そんな卑怯な考えをしてしまう私なんだ。こんな私が、大嫌い。
「同じ桜なのに、こんなにも違うなんてね」
ボソッと、小さな声でそう呟いた。私は自嘲し、唇を噛み締める。
「鈴岡だって頑張ってるだろ」
「え?」
「俺からしたら、あの桜みたいに綺麗に輝いているように見えるけど」
今、綺麗に輝いて見える、って言ったよね。
スマホの真っ黒なオフ画面で、自分の顔を確認する。頬と耳が少し赤くなっていた。
ううん、きっと、夕日のせい。
「俺はお前が、羨ましいよ」
「私からしたら、高嶺君の方が羨ましいよ」
「俺が?どこを見てそう言えるんだ」
「それは…」
自分の考えが言えることと、それと、誰もが認める綺麗な容姿だよって、私も正直に言えればいいのに。
私は自分の口から彼を褒めるのが嫌だったのか、恥ずかしかったのか分からなかった。
「言いたいことは言っていいんだ、明日言えばいい、なんてのは言い訳なんだ。その“明日”なんて絶対存在するわけでもないんだから」
高校生の口から聞くような言葉じゃないと、私は思った。まるで昔、そのような経験をしたかのように話した彼。
悲しそうで、それでも悔しそうで。
高嶺君が過去に何があったのか知らないけれど、もしそうならなんて辛いのだろう。
何も言えなくなった私は、門限を言い訳に帰る事を告げた。
「…ごめん、帰るね」
「ああ、気をつけろよ」
明日もここに来ていいかな、でも迷惑かもしれない。
門限があるはずなのに突っ立っている私に気付いて、悟った彼が髪をかきながら言った。
「来たいなら、明日も来ればいい」
「来たい、です」
「邪魔はするなよ」
さっきと同様、彼の口からは同じ言葉。
邪魔だとか、気が散ると言われた時は少し腹がたったけど、なぜか今は何も感じない。
私はくすりと笑って、その場を後にした。
やっぱり、彼のことがわからない。
睨むくせに、優しくなるし。
邪魔するなって言ってきても、私の気持ちを悟って明日から来てもいいなんて言うし。
それでも、まだ青空が広がっていた頃にこの扉を通った時と彼の印象が少しだけ変わった気がする。不思議な事はまだたくさんあるけど。
問題が解けるのは、まだまだ先になりそうだ。
高嶺君にさよならを告げた頃には、既にもう夜の帳が降りていた。
それにしても、今日は色んな事があった。
彼と話した事や、学校で禁止とされている屋上に入ったこと。
彼はいつ帰るのだろうか。もう既に日は落ちているから、さすがにもう帰らないと親から怒られるだろうに。
いつもより時間の流れがとても早かったのは、きっと屋上が心地良かったからに決まっている。
学校から家までは歩いて15分程度。
いつもはもう少し明るくて通行人が2、3人いるが、今日は誰1人いない。
春とはいえ、寒がりである私にとって夜は肌寒い。私は自分の息で両手を温める。
耳にイヤホンを差し込み、お気に入りのリストから適当に曲をタップして流す。
帰りたくないというのが、本音。
あんな息が詰まる場所、帰りたいなんて思う方がおかしい。
いや、おかしいのは私の“家族関係”の方か。
家に帰りたい人だっているよね。
それとは反対に帰りたくない人だっている。
私が後者だっただけの話。
私は少しだけボロくなったローファーで、石ころを蹴る。永遠に出てくるため息も、この石ころのように蹴り飛ばせたらいいのに。
私の家を一言で例えるなら、私は即答で鳥籠と答えるだろう。
私のお母さんは、子供への束縛と勉学に激しい。
まるで操り人形のように私を操作する。
私と母を繋げている糸は、とても強力で、切る事が難しい。
それでも反抗出来ず、いい子を演じている私は、足を止める方法を知らないまま、家の前へと辿り着いてしまった。
「…ただいま」
「ちょっと美桜、いつもより遅いじゃない、遅くなる時は連絡してっていつも言ってるでしょ」
まったくと言ってお母さんはため息を零した。
「ごめんなさい」
いつもこうだ。何かと文句を言って私を謝らせる。反抗したとしても「親に対してなんて言葉を使うの!」と、親と特権であるセリフを使うだろう。だからこそ、私はなにも言い返したりせずに謝って済ませる。それが一番の有効な手段だから。
「夕飯はもうテーブルに置いてあるから。食べ終わったら他の食器も洗っといてちょうだい」
お母さんは服を着替えながら、私なんて見る気もせずに淡々と告げた。
「ねぇお母さん、私ね小テストで」
「後にしてくれる?お母さん忙しいの」
「…わかった」
私は学校と同じ偽りの笑顔をお母さんに向けた。迷惑がかからない完璧な“娘”でいなくちゃ。私のお姉ちゃんは高校卒業してから一人暮らしを始めた。そこから大学に通っていて、とても入ることが難しい偏差値の高い大学に受かったから、親戚からもたくさん褒められているのを見てきた。勉強も出来て、お母さんから貰った綺麗な目と鼻、お父さんからもらった身長の高い綺麗なスタイル。妹からみても自慢の姉だし、私にも優しくしてくれる、大好きなお姉ちゃん。それでもね、やっぱり、比べられるのは辛い。私だって頑張ってるのに、お姉ちゃんはさらに上の成績をとるから、私が頑張っていないみたいになってしまう。
いつもパートで忙しいのもわかる。家事もやってくれて、仕事もしてくれて、私が安心して暮らしているのは、お母さんの存在が大きいのだって、分かってる。
それでもね、私はただ、褒められたいだけなんだよ。この小テスト、クラスで2人しか満点じゃなかったんだよ、凄いでしょ?
「ちゃんと勉強しとくのよ、行ってきます」
「…うん、行ってらっしゃい」
気をつけてねと言おうとした私の言葉は、お母さんが閉めた扉の音によって遮られた。
私は部屋に荷物を置いて、制服から部屋着に着替えた後、お母さんが作り置きしてくれたご飯を電子レンジに入れた。
テレビの音だけが、私を包んでいる。
黙々とご飯を食べ、流れ続けているニュースを右から左へと流し通す。
「ご馳走様でした」
誰にも聞こえていなくとも、挨拶や礼儀は欠かさず丁寧に想いを込めて。
私のお父さんが良く言っていた言葉だ。この家族の中で唯一穏やかな雰囲気を身に纏っていたお父さん。自由奔放なお姉ちゃんに、いつも忙しそうなお母さん、そんなお母さんから褒められるために全てに一生懸命な私。
幼い時の記憶しかないけれど、曖昧な思い出でも優しさが伝わってくる笑顔を向けてくれているお父さん。
私もお父さんみたいな、本当の笑顔を誰かに向けられる日は来るのかな。
家族全員分の食器を片付けた後、自分の部屋に閉じこもり、引き出しから日記を取り出す。
やっぱり、ここは息苦しい。
私が小学校にあがると同時に、お父さんとお母さんが離婚して、お父さんが出ていく形になった。随分と長い間会っていない。残っているのは、昔みんなで行った動物園での集合写真。
私はこれを胸の前へと持っていき、目を瞑った。どうかもう一度、この家族がひとつになりますように、そう願って。
ベッドに寝っ転がりたい気分だったが、日記は1度でもさぼると続かなくなるから、疲労を担っている重たい体を動かして椅子に座る。
「えーと、今日は…」
高嶺君と初めてきちんと話したこと。
高嶺君が絵を描いていること。
高嶺君がみんなが言うほど怖い人じゃなかったということ。
高嶺君の事が、嫌いから苦手に変わったこと。
これからも屋上で、一緒に過ごせるようになったこと。
私は、今日あった出来事を書いていった。全て書き終わって伸びをする。背中の骨が少しだけ音を鳴らした。ふーっと深呼吸をして、横にある鏡で自分の顔を見てみたら、自然の笑みが出来ていて、自分でも驚いた。
心の底から、本当の笑顔を見せたのは、いつぶりだろう。
どうして自分が今、笑えていられているのか分からなかった。
彼のことを少しだけ知ることが出来たからだろうか。
どんなに考えても答えを出すことが出来ないと思った私は、体をベッドの上へと放り投げる。
いつも変化ない日々を送っていた私にとって、今日の出来事は衝撃すぎたため、体も疲れていたらしく、私はすぐ眠りに落ちる事ができた。
車のタイヤが急ブレーキを踏んだのか、とても甲高い音が、静かな空間に響き渡った。
あれ、私、なんで。
道路に叩きつけられたはずなのに、なぜか体に痛みを感じていなかった。
そして、誰かが私を包んで守ってくれた事がわかった。
私を守ってくれた女性。顔に靄がかかっていて、誰なのかわからないけれど、どんどん温もりが消えていくのが肌に伝わってきた。
どうしよう、どうしよう。
私が、私さえいなければ。
この人は死ななかったのに。
私が、殺しちゃったんだ。
その途端、私の周りの世界が崩れ落ち、暗闇へと変わった。
「どうか、あの子の事、よろしくね」
あの子って、誰の事ですか。
その子にとってあなたは、とても大切な人なんですよね、でも、私が奪ってしまった。
「そうだね、でも私がしたくてした事だから」
でも、私がいなかったら、あなたはその子との未来があったんですよね。
「あれが私の運命だったんだよ」
どうして、そんなにも簡単に“死”を受け入れられるんですか。
「……」
私を助けてくれた女性はなにも言わず、でも、少しだけ微笑んだ気がした。
私は思いきり起き上がった。
夢だった事に一安心し、安堵の息をもらす。
まだ太陽の光がカーテンの隙間から入り込んでいなかった。時間を確認すると、午前4時。
最近寝不足だったから、今日こそゆっくり眠れると思っていた私にとって、憂鬱な朝を迎えてしまった。
2度寝すると次に起きる時気分が悪くなってしまうのを分かっていたので、私はゆっくりと体を起こし、リビングへと向かった。
みんなまだ寝ていて、物音をたてないようにゆっくりと動き、毎日の習慣である白湯を飲んだ。
早起きも案外悪くないかもしれない。今日はちょっと早すぎたけれど。
私はマグカップを濯ぎ、部屋へ戻った後、今日見た夢について考えた。
あの女性は、一体誰だったのだろう。
夢にしては、現実味がありすぎていた。
あの夢自体、どういったものだったのかすら理解しがたい。
最近の私には、わからないものがありすぎている。頭がパンクしてしまいそうだ。
そう思っていると、カーテンの隙間から光が入り込んできた。
私は急いでカーテンを開け、ベランダへ飛び出す。そこには、さっきまで青く広がっていた世界に、オレンジ色のペンキを垂れ流したみたいな、そんな世界があった。
「綺麗…」
日の出を見たのは久しぶりだ。
確か前は、お父さんがいた時。みんなで温泉に行って、早く起きてしまった私に、お父さんが日の出を見せに連れて行ってくれた。
今は何をしているのかも、どこにいるのかも知らない私のお父さん。
いつも夜遅くまで起きてなにか作業をしていたが、今日は早く寝て早く起きれたので、いつもとは違う世界を知ることが出来た。
私は朝の清々しい空気を肺へと流し込み、使い古した二酸化炭素を流し出した。
なんだが気分まですっきりして、とても気持ち良い。
私は部屋に戻り、昨日解くことを忘れていた数学の問題にとりかかった。
高嶺君と屋上で出会ってから、約1ヶ月が経った頃。
私は今日、いつも以上にたくさんのため息を零していた。
6時間目のホームルーム。体育着に着替え、私達は校庭に集合させられた。来週の体育祭に備えて練習するとか。
先生が朝にこの事を言ったから、6時間ずっと
緊張と不安、焦りと恐怖。
どうして、こんな危険なことをわざわざしなければならないのだろう。
縄が一定に地面に叩きつけられ、パンッ!という銃声のような音を響かせる。
本当に、嫌だ。
私はみんなからすると、なんでも出来る優等生。そう思われているだろう。
それでも唯一苦手なものが、運動。
良く先生は言う。“努力すれば”って。
でもそれは元々出来る人がさらに出来るようになるためのものでしょ。
私には到底こなせそうにないものばかり。
運動の中で1番嫌いなのが、縄を使う競技。
どうしてあんな1本の長い紐を飛んだりしなければいけないんだろう。あの行為になんの意味があるというのだ。足を引っ掛けて怪我をする事を考えないのか、先生は。
私も今日何回目かもわからないため息を零す。
「美桜ちゃん、大丈夫?」
私の耳が久美の心配している声を捉えた。
「うん、大丈夫」
みんなが見ていなくとも、誰にも弱音を吐いたりしちゃいけない。
だって私は――誰から見ても完璧な存在でいなければならないから。ひとつでも誰かに弱音を吐いてしまえば、それが人から人へ伝わって、完璧ではなくなってしまう。もしそうなったら、私は誰からも褒められない。
それでも競技が始まってしまえば出来ない事がばれてしまう。
恥をかくわけにはいかないのに。
私がどんなにやりたくないと願っても、時間が止まってくれるわけでも、大雨が降ってくれるというわけでもない。
神様は、助けてはくれない。
いろんな負の感情を感じていたからだろうか、視界が揺れている気がする。
足に力が、入らない。
体が、脳の言う事を聞いてくれない。まるで、誰かに体を乗っ取られている感覚だった。
もう立てない。そう思った刹那、誰かが私の体を支えてくれた。久美かな、誰だろう。
とにかく、後でお礼を伝えなきゃ。
その後、私は意識を失った。
重い瞼をゆっくりと開ける。
なにが起こったのか分からなくて、周りを見渡すと、そこには白い天井が広がっていた。
あれ、私、何を。
まだ意識が朦朧としている私に向けられたであろう、聞き馴染みのある声。
「あ、起きたか」
声のした方向へと頭と目線を移動させる。
「たか、みねくん」
どれくらい眠っていたか分からない私の声は掠れていて、彼の耳に届いたかすら危うかった。
「ん、水」
「…ありがと」
彼は読んでいた小説をぱたんと閉じて、私に水のペットボトルを渡してくれた。
眼鏡をして本を読んでいた姿は、まるでなにかの絵画のようだった。
絶対、口にはしないけれど。
「今何時?!」
私は勢い良く起き上がって、彼に尋ねた。
眠っていた私の脳が急に動いた事にびっくりして、頭痛を招いた。
ズキッとしたものの今はそれどころではない。ここ、保健室の明かりはいつも通りついているが、なんだが普段より暗く感じる。
もし門限である7時を過ぎてしまっていたら、お母さんに怒られてしまう。1度怒ったお母さんを元通りにするのは、長い付き合いの私でも難しい。
彼は自分の腕時計で確認し、
「6時31分だ」
と教えてくれた。
今から急いで走れば、余裕を持って帰ることができる。しかし、さっきまで寝ていた体に、もともと体力のない私が走れるだろうか。
「ごめん、高嶺君、私帰るね」
私は軽く身だしなみを整えて、その場を後にしようとした。
「無茶するな、お前貧血で倒れたんだぞ」
彼は眉をぐいっと中に寄せて、私の手首を掴んできた。もう少し休んでいけという言葉を続けて。
心配してくれるのはありがたい。今までの彼への偏見だったら、ありえない事だから。
時間がないのに。
彼の力は、やっぱり男の子なんだなと思うほど、強かった。
振り払いたいのに、私を心配してくれる彼にそんなこと出来ない。
「私、門限があって、だからその、帰らなきゃ」
「体調を無視してまで守らなきゃいけないことなのか?」
「…そうだよ、お母さんとの決まりだから」
「そんなのおかしい、そんなのはただの縛りだ。」
分かってる、だからその先を言わないで。
「その約束に愛なんてない、ただ自分の思い通りに操作しやすくするための」
図星を言われた事と焦りで、私の情緒はおかしくなっていた。
「そんなの私が1番分かってる!でもどうしろって言うの?お母さんに反抗すればいいの?普通の高校生はもっと遅くまで遊んでるよって?普通って何、私が普通じゃないみたいじゃん…」
私自身が、1番わかっている。
私がおかしいだなんて、分かってる。
お母さんが考えた門限や約束事に、私への愛がないって事くらい。
それでも、守らなきゃ褒めて貰えないんだもん。偉いって言ってもらえないから。
だから、こうするしか方法はないのに。
それなのに私は、彼がずっと手を握ってくれればいいのにって、願っている。
彼が私をずっとこのまま行かせなければいいのにって、思っちゃってる。
今まで私は、門限破ったことなんてない。
それが私にとってもお母さんにとっても、“当たり前”のことだから。
高嶺君、ごめんね、私が起きるまで待っててくれたのに、八つ当たりなんかして。
いつも自由な君が羨ましい。
なんでも出来ちゃう君が羨ましい。
私の持っていないものを持ってて、羨ましい。
怖いって言われてるくせに、ばか正直になんでも言っちゃうくせに、みんなから眼差しを与えられてるのが羨ましい。
だからこそ、私は君に嫉妬してしまう。
正反対の君だから、なんでも出来ちゃう君だから、私の気持ちなんて分かるわけない。
「高嶺君なんて、お母さんからもお父さんからも、たくさんの愛情をもらってるんでしょ…?なに不自由なく、なんでも手に入れてるくせに、知ったような口聞かないで!」
私の言葉を聞いた彼は、今まで見た事もない、悲しい顔をしていた。
「高嶺君のこと、ずっとずっと嫌いだった」
なんでも持ってるあなたに、同情なんてされたくない。
過去形を使ったのは、彼を傷つけないためじゃない。自分で自分を許せるようにしたかったから。
「…ごめん」
私は彼の手を振り払って、勢いよく保健室を後にした。
私はだるく重い体を一生懸命動かし、門限の5分前に家の前に着くことが出来た。
制服が汗を染み込ませ、気持ちが悪い。
呼吸が上手く出来なくて、苦しい。
それでも、お母さんを心配させてはいけない。
「た、ただいまあ」
「ちょっと美桜!遅くなる時は連絡してっていつも言っているでしょう?!」
私に靴を脱ぐ瞬間も与えず血相を変えたお母さんは、この前と同じように、まったくと言ってため息をついた。
門限、過ぎてないんだからいいじゃん。そう思っていても、私の喉はそんな言葉を通すわけがなくて、無理やり飲み込むしかなかった。
「ごめんなさい」
「大体ね、お母さんが忙しいの分かってるでしょ?なにか手伝おうとか考えたりしないわけ?まったく、どこで育て方を間違えたのかしら」
お母さんはもう一度、さきほどよりも大きなため息を出した。
「…ごめんなさい」
私は、その言葉しか話せない人形のように、ただただ謝るしか出来なかった。
反抗したら、もっと駄目な子と思われるかもしれないから。
もういいわ、部屋行きなさいと呆れたとでも言わんばかりな感情がこもった言葉を吐き捨てられた。
もう一度私はごめんなさいと言ったけれど、お母さんのスリッパを引きずる音と、ため息で掻き消された。
私はなるべく音を立てないように靴を脱いで、部屋へ繋がっている階段を登った。
バタンと扉を閉めた音が、静寂な私の部屋に響き渡った。
体の力が抜けてしまい、私は扉の傍で蹲った。
心の隅で安心を感じていた自分に驚く。
全身が鳥肌になっていて、さっきお母さんに言われた言葉が頭の中をぐるぐると回っている。
“どこで育て方を間違えたのかしら”。
どうして私は頑張っても結果に繋がらないのだろう。
どうしてこんなにも、お姉ちゃんと違うのだろう。容姿も、学問も、なにもかも。
私はお母さんにとって、“失敗作”なのかな。
自分でもなぜか納得してしまって、ふっと笑った。学校でも最近は上手くいかないし、家でもお母さんから褒められず、怒らせてばかり。
私の味方なんて、誰一人いないんだ。
目頭がじんと熱くなるのを感じた。
その時ふと、高嶺君の顔が浮かんできた。
どうしてここで彼の顔が浮かんでくるのだろう。最低な事を自分から言ってしまったのに。私は頭を左右に振って、彼の顔をかき消した。
きっともう、彼も私の事を嫌いになっただろう。ただ彼は私のことを心配していただけなのに、私が勝手に怒って、傷つけたから。
いつも、私の生活や物事を考える時にはお母さんがいる。
何をしたら褒めてくれるだろうかとか、自分を犠牲にしてでも、お母さんの顔色を窺って生きてきた。
友達と遊んだ時だって、他の子はまだ残ると決めた時に、私は門限があるからという理由でいつも途中退出している。
それが普通だと思っていたし、私の中で習慣になってしまっているから、これから変える事は出来ないだろう。
友達は門限を普通に破っている日はあるし、それを悪いことだとも思っていなさそうだった。
私はどうしてお母さんとの約束事を破る事が出来るのか理解出来なかった。
いくら高校生だからって、まだ大人じゃない。
大人の階段を登っている段階だと言うけれど、私は、私達は、何一つ変わっていないのだ。
だから心配をかけたらいけないし、不安にさせないようにするのが当たり前。
大切な家族なんだから。
でも私の家族とは少し違うと思う。
私の母は、世間の目にとても敏感だ。
子供の事を、私の事を、自分を見せる商品としか思っていないだろう。
私が良いことをすれば賞賛が、私が悪いことをすれば罰があるのと同じように。
いつからだろう、お母さんがこんな風になってしまったのは。
昔はちゃんと私自身を愛してくれていたと思う。絵を描いたら、自分の時間を割いて見てくれてたし、一緒に遊んでくれてた。
それでも、凄いね、上手だねって褒めてくれたのは、極わずかだった。
でもお姉ちゃんは違った。
私がテストで99点を取ったら、お姉ちゃんは100点を取る。
だから私は頑張った。お姉ちゃんを越して、お母さんが私を認めてくれるまで。
いくら頑張っても、私の望んた日は訪れなかった。お姉ちゃんより努力したと言い切れる、それでも勝てなかった。
それから私はずっとお母さんに囚われている。
自分で自分が嫌になる。
昔のことを考えていたせいで、私の心の中は暗く悲しい感情が、土砂崩れのように流れ、渦巻き、支配していた。
どうして私だけって、何度思っただろう。
私はただ、褒められたいだけなのに。
私の頬に、一筋の涙がつたった。
鼻を啜り、涙を拭いた。
私は立ち上がり、日記に書くために椅子に腰を下ろした。
練習が嫌で倒れたこと。
高嶺君が助けてくれたこと。
心配してくれた高嶺君に、八つ当たりしてしまったこと。
お母さんに怒られたこと。
手に力が入ってしまい、シャー芯が折れてしまった。こんなにも脆い芯は、私の心に似ている。それでも、誰かの役に立っていることだけは、違うかな。
私はベッドに倒れ込んで、そのまま寝落ちてしまった。
体育祭当日。
私の学校では、毎年近くの競技場を貸し切って行っている。
私が倒れた日、お母さんに怒られたけれど、次の日は何事もなかったかのように接してきたため、一安心だった。だからといって、またそんな日があるかもしれないと思うと怖い。だから私はあの日以上に顔色を窺って生活している。苦じゃないと言えば嘘になるけど、完璧な娘でいるためには、辛いことも乗り越えなければならないと自分に言い聞かせている。
競技場に到着すると、私のクラスの椅子がある場所へと移動し、久美と合流した。
「今日は、頑張ろうね」
久美は運動が得意だから、とても楽しみにしていた。失礼だが、見た目とは反対な得意分野に驚いた私だった。
高嶺君に合わせる顔がない。
あの日以降、彼は学校を休んでいた。
すぐに謝りたかったが、風邪をひいたらしい。
先生によると、彼は今日の体育祭に参加するんだとか。
ちゃんと決意したはずでも、やっぱり怖い。拒絶されるのではないかと。
席に座っていると、後ろがざわざわし始めた。振り返ると、案の定高嶺君が到着したようだ。
一瞬、目が合った、と思う。
それでも彼にすぐ逸らされてしまった。
やっぱり、怒ってるよね。
私は肩を落とし、元の体勢に戻した。
あと少しで始まる、地獄の時間。
みんなの楽しそうな空気とは裏腹に、私の空気はどんどん暗くなっていく。
みんなが楽しんでいるということは、その空気を私のせいで壊すわけにはいかない。
緊張で吐きそうだ。
「生徒の皆さんは競技広場に集まって下さい」
競技場に響く、始まりの声。
生徒達がどんどん広場へと集まっていく。
私も向かおうとした時に、ちょうど高嶺君とタイミングが合ってしまった。
やっぱり、謝るべきだよね。
私は、横を歩いている彼に話しかけた。
「あの、高嶺君」
「…なんだ」
久しぶりに聞いた、彼の声。
「私が倒れた日、酷い事言ってごめんなさい」
私は取り繕うなく、頭を下げて謝った。
幸いほとんどの生徒がもう先に行っていて、今の私達の現状に驚く生徒はいなかった。
「頭をあげてくれ」
彼は綺麗な茶髪の髪の毛は掻き乱した。
私は素直に頭を上げて彼の言葉に耳を傾けた。
「なんとも思ってないって言えば嘘になるけれど、謝るのは俺のほうだ、あの後、反省してた」
「ううん」
そんな私の震えた言葉は、彼の耳に届いていなかったらしい。
「家族の形はそれぞれなのに、俺の考えを押し付けていた」
私は小さく相槌を打つ。
「俺は鈴岡が羨ましいよ」
初めて屋上で出会った日と、同じ言葉を口にした。私は見上げ、彼の表情を眺める。保健室で私が言い放った後と同じ顔をしていた。
「俺の母親は…いや、なんでもない」
「…そっか」
続きを聞くのは、また今度でいい。
なんでも言葉にしてしまう彼が思いとどまった事だから、私には待つことしか出来ないんだと悟ったから。
だからいつか、続きを聞かせてね。
私達は広場に向かい、開会式が始まった。
私は結局、久美に大縄が苦手な事を告げた。彼女はコツを教えてくれて、それでも出来なかった私を後ろからタイミング良く体を押してくれたので、大縄を無事終わらせる事が出来た。
どんなイベントにもハプニングが起こるというのは本当らしい。
「おい!拓海が足挫いたらしい!」
1番後ろの方から、クラスのうるさい男子の声が聞こえてきた。
拓海というのは、私のクラスの男女混合リレーのアンカーを務める予定だった、足の速い男子のことだ。みんなが不安からざわつき始める。
誰が代役やんのとか、もう負け確じゃんとか、ネガティブな感情が、みんなの口から溢れている。
男子の代役は男子しかできない、私がどうにかできる状況じゃないのは、目に見えていた。
そんな時、みんなの耳が私が聞き馴染みのある声を捕らえた。
「俺が出る」
さっきよりもざわめきが増すのが伝わった。
「いやでも…」
ひとりの男子がそう言うと、
「じゃあお前が出るのか?」
と、高嶺君のいつもより少し低い声が、みんなの緊張感を高まらせた気がした。
「そういうわけじゃないけど」
「誰もいないでうじうじ悩んでいる暇があるなら、もっと動こうとしろよ。自分がやる勇気がないなら、口出しをするな。勇気ある人間こそ、初めて参加する権利がある」
異論はないな、と高嶺君がみんなに問う。
言い返せなくなった男子が、悔しそうにしながらも頷いた。
その様子を確認した高嶺君は、アナウンスのリレーの選手の呼び掛けに応じ、この場を後にした。
みんなの混乱の思いを置き去りにして。
あいつって走れるのかと呆気にとられている男子や、高嶺君が走ってるの見てみたいと目をハートにしている女子がいた。
私はこの場から飛び出して、去っていった彼の元へと走った。
「たか、みねくん…!」
人が少しいた通路で彼を見つけた私は、振り返った彼と目を合わせた。
サラサラの髪や、綺麗な瞳、筋の通った綺麗な鼻、スタイルの良い体、全てを兼ね備えた容姿は、私には眩しすぎる。
「ほんとに、大丈夫なの?」
「昔から、走るのは得意だからな」
運動も出来る事を、誰よりも先に知れたような気がして、なんだか嬉しい。
「そうなんだ、ありがとね」
「なにが?」
彼は不思議そうに眉間に皺を寄せた。
「私じゃ、あの状況変えられなかった」
みんなの不安をかき消せる言葉を、私は知らなかった。
「鈴岡は全部自分の仕事だと思っているのか?」
どういうことだろう。
「別に誰も、お前に変えてもらいたいなんて思っていない。鈴岡は色々背負いすぎなんだよ」
それは、私を必要としていないと言っているようだった。
「それって、私は必要ないってこと?」
今までの努力を、ばかにされたようだった。
「違う、もっと俺を頼れと言っているんだ」
そう言った彼は、サラサラの髪をくしゃっとかき乱した。
「もう、行かなきゃ」
彼はくいっと体を反対側に回し、すたすたと歩いていってしまった。
少しだけ、彼の耳が赤かった気がした。
「いちについて、よーい、ドン!」
アナウンスの声が、みんなの閑静とした空気を壊した。
その瞬間、各クラスが応援歌を歌い、リズムに乗って手やクリアメガホンを叩いている。
私のクラスの1番手は、野球部の長島君。
いつも明るくて、みんなの気合いを引っ張ってくれる、どんな事にも全力な男の子。
彼は惜しくも2位で2番手の女子、春夏ちゃんにバトンを繋いだ。
彼女はクラスの人気者でいつも笑っている、見ていて癒される女の子。
順位を変える事は出来なかったが、3位との間を広げ、3番手の男の子、高井君にバトンを渡す。
彼が半周の所に到着した頃、足が絡まって転けてしまった。徐々に他の選手が彼を抜かしていく。
体の細胞が、どくどくと脈打っている。
クラスの雰囲気が、明らかに下がったのが伝わってきたから。
高井君は急いで立ち上がり、5位に下がったまま、女子陸上部のエース、美波ちゃんにバトンを渡した。
彼女はぐんぐんとスピードを上げる、それと比例して、クラスのみんなの明るさを増していった。
美波ちゃんが3位へと順位を上げ、アンカーの高嶺君にバトンを繋いだ。
私はごくりと唾を飲み込む。緊張のあまり手に汗を握っていた。
高峯君なら、大丈夫。
みんなの空気が変わったのが、肌で感じた。
不安を抱いている人、期待の眼差しをむけている人、たくさんの感情が混じりあったこの空間は、全て高嶺君が支配している。
彼がバトンを受け取り、長くしなやかな足が前へ前へと進んでいく。
2位の人を抜かすと、私達のクラスだけではなく、他クラスまでもが喝采に包まれた。
彼の綺麗なフォームが、髪が、瞳が、みんなの視線の先にいる。
胸がチクリと痛い。どうしてなのかは分からなかった。
1位の人と高嶺君が横に並び、お互いが譲らずといった接戦が始まり、残り少しでゴールという場所で、私は無意識の内に叫んでいた。
「頑張れー!」
少しだけ、彼がこっちを見た気がした。
彼の綺麗な瞳が、私を捉えた。
次の瞬間、高嶺君はさらにスピードを上げ、追い抜いて、フィニッシュテープを舞らせた。
その刹那、一瞬だけ会場は無音に包まれ、誰かの叫びに連なるように、この場は歓声に包まれた。
私の後ろの女子達がかっこいいだのイケメンだの叫び、あいつ速すぎたろと豆鉄砲を食らった鳩のようになっている男子がいた。
私はこの胸の高鳴りを必死に抑え込む。
ああ、よかった。
凄い、凄いよ高嶺君。
目の前でテープを切り抜いた彼は、休憩所へと移動していた。
私は1番最初にお祝いしたくて、休憩所へと向かった。
向かっている途中、少しだけ開いた女子トイレの扉から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
里音と百合。
私は久しぶりに話をしたくて、扉を開けようとした時だった。
「てかさ、さっきの聞いた?」
いつもより少しだけ低い里音の声が、静かな空間を暗闇に変える。
「何が?」
「美桜が叫んでたじゃん」
突然私の名前が出てきて、体をぴくりと強ばらせる。
叫んでいたというのは、高嶺君への応援のやつだろう。
「頑張れーだって、自分の事漫画のヒロインって思ってんのかな」
鼻で小馬鹿にするように笑った里音の声は、今まど聞いた事がなかった。
「里音が高嶺の事好きって知ってて、あれはないよね」
「それなー、まじ有り得ない、仲良くなったなら連絡先教えろって言ったのに」
里音はため息をついた後、続けて言った。
「美桜はただの駒でしかないのにね、私がしたくないことしてくれるし。宿題写させてくれるし。そういうとこは良かったんだけどなあ」
なに、それ。それってまるで。
「奴隷的な?」
彼女の最後の言葉を聞いた途端、力が入らなくなった。
胸が、体が、痛い。呼吸が出来ない。
いつも私に優しかった、あの時の彼女は全部、偽りだったというのか。
私をただの、奴隷としか思っていない彼女が、本当の里音なのだろうか。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、信じたくない。
私はみんなから好かれて、頼られて、先生からも信頼があって、そんな完璧な生徒なのに。
奴隷になりたいんじゃない、私だってあんなことやりたくない。
それでも、褒められたいから、すごいねって言われたいから。
誰の1番になりたい、から。
私は結局、ひとりぼっち。
悲しむ気力すらなく、その場を後にしようとした時。
「鈴岡?」
休憩所から戻ってきた、みんなのヒーロー。
今の話、聞かれたかもしれない。失望されたかもしれない。どうしよう。
私は扉の奥から音が消えた空気が、とてつもなく怖かった。
「…美桜?」
俯いていた私の前の扉がゆっくり開き、私の名前を呼んだ。
「今の話、聞いてたの?」
声は明るいけれど、顔が笑っていなかった。
「いや、あの…え、と」
私は体育着のズボンの横をぎゅっと握る。
手汗で気持ち悪かった手のひらが、少しだけマシになった。
私が口を開く前に、里音は態度を一変して高嶺君の前に立った。
「高嶺君!リレー、凄かった!」
さっきの低い声は、どこにいったのだろうか。
「…ああ」
彼の表情は、初めて席が隣になったと分かった時と同じ顔をしていた。
まるで、相手を拒絶するような。
そういえば、私の時は普通に話してくれてたな。どうしてなのだろうか。
ふと、初めて屋上に行った時の会話を思い出した。私が、高嶺君のお母さんに似ていると言っていたから、私と話す時は普通なのかな。
高嶺君のお母さんに会ってみたいなと、私は思った。
「それでね、高嶺君、連絡先でも」
里音が頑張ってアプローチしている横で、百合は私をきつく睨んでいる。
「俺は自分が交換したいと思った相手としか、交換しない」
相変わらず表情は変えていないけれど、いつもの辛口発言はそのまんまだ。
「それに、俺は鈴岡に話があるんだ」
「は…美桜に?」
「ああ、早くどこか行ってくれないか」
可愛い里音の顔が、漫画ならりんごのように真っ赤になっていただろう。
彼女は百合を連れてズカズカと行ってしまった。
「鈴岡」
「…なに?」
「お前の応援、聞こえたぞ」
「あっそ…」
彼が素直な言葉を言う時、私は逆に素直になれなくなる。
最近の私はおかしい。彼の前ではいつも素直でいられたのに、今はきつく返す事しか出来ない。おめでとうって、言えればいいのに。
「誰かから応援されたのは、久しぶりだった」
彼は遠くを眺め、目をほんの少しだけ泳がせた。
「だから、ありがとう」
彼が、少しだけ笑った。
この日、私は初めて彼の笑顔を見た。
ああ、彼が好きだと思った。思ってしまった。
私の持ってないものを持っている彼。
完璧な容姿、なんでもこなせる才能、誰もが憧れるスタイル、綺麗な瞳、筋が通っている高い鼻、太陽当たればいつも以上に茶髪が輝き、風に吹かれればさらさらと揺れる髪。
そしてなにより、私だけが知っている絵を描く時の横顔と、照れる時に髪の毛をくしゃくしゃとかき乱す行動。
全てが愛おしいと、心の底から思った。
嫌いだったのに。苦手だったのに。
いつの間にか、こんなにも君を好きになっていた。
桜が散り、緑に変わった。
季節が過ぎて、夏が訪れた。
セミの鳴き声、野球部の掛け声、青空、太陽、汗ばんだ制服。
「迷惑をかけないで夏休みを過ごすように」
先生の気だるそうな声が、暑苦しい教室に響いた。
席替えをして、私は高嶺君と離れてしまった。
“好き”と自覚した運動会の日から、私は前のように素直に居られなくなってしまった。
明日から、夏休みが始まる。高嶺君に会えなくなるのだろうか。彼は夏休み何をするのだろうか。
休みといっても、宿題は出るし、任意授業も参加するし、お母さんの家事の手伝いをしなければならないのだから、私にとって普段の日常よりも過酷な期間なのだ。
どこが休みだよなんて思ってしまうけど、なにも変える事は出来ないから諦めた。
そして私は今も屋上に通っている。
彼は桜の絵を完成させて、コンクールに応募したとか。
なんせ今日結果が発表されるらしい。
応募したのは私じゃないのに、私が一日中ドキドキしてしまっていた。
当の本人は普通に眠っていたけれど。
それにしても、どうして毎日あんなに眠いのだろうか。今日聞いてみよう。
「どうしていつも寝てるの?」
私は絵を書いている彼に話しかけた。
彼は華麗に動かしていた手を止め、目線をこちらへと向けた。
「秘密にしてくれると誓うか?」
「え?うん」
彼の顔が少しだけ近づいてきて、ドキッとしてしまった。
「バイト、してるから」
バイト…?
確かに、うちの学校は一応進学校という名で通っているから、バイトは禁止だ。
「先生は知ってるの?」
「ああ」
先生が許可をしているというのは、なにか特別な事情があるのだろう。
「どうしてバイトしてるの?」
「俺、美大に行きたいんだ。だから、学費を稼がなきゃいけなくてな」
彼は頬っぺを人差し指で小さくかいた。
美大。私も大学を調べ始めてきてるから、色々と目にする事が増えた。
たしか、他の大学よりも学費が高かった気がする。それに、画材のお金もかかるとか。
「偉いね、高嶺君は」
私なんて、まだ大学すら決まっていないし、お金の事も考えていなかった。
まだ高校生で同い年の彼が、遠くにいるように感じた。
「お母さんと約束したからな」
彼がお母さんの話をする時、彼の瞳はとても寂しそうになる。どこか遠くを眺めていて、消えていってしまいそうなほどに。
「俺の絵は魔法だと、そう言っていた」
「うん、高嶺君の絵には、凄い力がある」
元気が出る、勇気が出る。そしてなにより、見てみて気持ちが良い。
美術館に行っても、正直なにが楽しいのか分からなかった。それでも、彼が描いた絵には、見た人を幸せに出来る力があると思う。
「ありがとう」
綺麗な瞳がこっちを見た。
まるで、全てを吸い込んでしまうブラックホールみたい。
「あ、そういえば!」
彼はきょとんと顔を傾かせた。最近の彼は、昔の時よりも明らかに表情が豊かになった。
私の前だけだったらいいな、なんて思っていたり。
「コンクールどうだった?!」
私は体を前のめりにし、彼の返答を待つ。
「受賞した」
意外にも彼は淡々と告げた。いや、彼の性格からして、喜ぶという感情はあるのかないのか。
「そっか…凄いね、うん、凄いよ」
私は目を輝かせながら、呪文のように凄いと呟いていた。
「美大に入るなら、受賞して当たり前だ」
受賞が当たり前なんて、彼の口からしか聞けないだろうな。
「あのさ」
彼が周りの空気の雰囲気を変えて、私に聞いてきた。
「なに?」
「あいつらとはどうなったんだ」
私には、あいつらという代名詞が誰なのか分かってしまった。おそらく、里音と百合のこと。
「うーん、大丈夫って言いたいとこなんだけどね」
私は後ろ髪を片手でくしゃくしゃにしながら、はははと小さく笑う。
それでも、彼の表情がどんどん暗くなっているのが見てわかったから、私も真剣に答えた。
彼が今まで私に聞かなかったのは、私に無理をさせないため。その優しさだけで嬉しかった。
「あの後ね」
私はこの1ヶ月間にあった出来事を、そのまま彼に伝えた。
あの後呼び出されて、2人に悪口を言われた事。
縁を切ろうと言われた事。
これからも友達でいたいと言ったけれど、大嫌いと言われてしまった事。
その後も話しかけようとしたけれど、避けられている事。
いつの間にか泣いていた私に、彼はハンカチを貸してくれた。
「ありがと…」
放課後とはいえど日が伸びた空には、大きな太陽がいる。
夏の風が吹いた。木々の緑の葉がさらさらと揺れている。
「なんで俺を頼らなかった」
彼は少しだけ怒っていた。怒りと悔しさと、悲しみの表情をしていた。
「ごめんなさい、でも、私の問題だから」
ありがとうと、私は彼に告げた。
そんなに優しくされたら、期待してしまう。
彼の優しさは当たり前のこと。分かっていても、どんどん好きになっていく自分が嫌。
彼は小さくため息をついた。
「夏休み、気晴らしに、海に行かないか」
髪をかき乱す彼の姿は、裏を返せば照れているということ。
恥ずかしがりながらも誘ってくれたことが、とても嬉しい。
「別にいいけど」
また私は可愛くない返答をしてしまった。
いつも心の中で私反省会を開いている。
素直に「行きたい」って言えたらいいのに。
「なら…ん」
そう言うと、彼は鞄から携帯を取り出して顎でくいっと示した。
連絡先を交換するということなのだろうか。
私の思考が一瞬だけ停止した。私は慌てて鞄から自分の携帯を取り出して、彼と交換する。
運動会の時に里音に言っていた言葉が頭に浮かんだ。
『俺は自分が交換したいと思った相手としか、交換しない』
そんな彼が、自ら私と交換しようとしてくれた事が、何よりも嬉しくて愛おしい。
高嶺君は私を喜ばせるのが得意みたいだ。
「予定とかはこっちで話し合おう」
「そうだね、楽しみ」
嬉しみのあまり、私の口から「楽しみ」という言葉がもれてしまった。
彼はなにも気にしていないらしい、私はほっと胸を撫で下ろした。
可愛い洋服でも、買いに行こうかな。
いつも夏休みが来ると憂鬱でしかないけれど、彼のおかげで楽しく過ごせそうだ。
夏休みが始まって少し経った頃。
暑さはどんどん増していくし、セミの声もうるさくなっていく。
私は目覚ましを止め、体を起こす。
朝から最悪だ。
私はため息を出す。それでも重い体を起きあげて、今日のために買っておいた白色のワンピースを体に重ね、全身鏡の前で確認する。
よし、大丈夫そう。
今日は高嶺君と海に行く日。
私たちの予定が合ったのがこの日しかなかったからだ。お互い勉強や部活で会える日が思っていた以上に減ってしまい、少し落胆していたところ、彼が今日を提案してくれた。
彼はいつもタイミングが良い。私が悲しんでいる時だったら、嬉しい事を言ってくれる。恐らく彼は無意識だろうけれど。
いつもは暑くてセミロングの髪をポニーテールに結んでいるけれど、今日はおめかしをするため、下ろす事に決めた。
ヘアアイロンを引き出しから出し、買ってからあんまり使った事のないメイク道具を用意する。スマホでメイク動画を見ながら挑戦してみた。
数十分後、普段していないわりに上手に出来ることが出来て、自然と鼻歌を歌っていた私。
メイクって、こんなに楽しいんだ。
私の顔は、中の上くらい。可愛いとも可愛くないとも言われない、中途半端な顔だ。
そんな私を守ってくれるかのような役割を、メイクはしてくれているみたい。
可愛くなるって、とても心地よい。
ワンピースを来て、髪をヘアアイロンに通していく。もともとストレートヘアである私の髪は苦戦することなく、綺麗に完成することが出来た。
大体の準備を終え、時計を確認すると、家を出る予定だった時間よりも結構前だった。
『12時に駅集合』
まるで業務連絡かのように言われた言葉。
楽しみだねとか言ってくれてもいいのに。
私はスマホ越しにムスッとしていた。でも、このクールさが彼の良い所だと心の中で唱える。
今はちょうど10時半。
お昼ご飯は食べてくるのだろうか。
軽くおにぎりでも作っていこうかな。
そう思った私は早速台所に向かう。
幸いな事に朝のお米が半分以上残っていて、私は冷蔵庫にあった具材に使えそうな物を取り出す。
昆布、鮭、ツナ、あとは…塩。
なんとか4種類作れそうだ。
私はキッチンラップをちょうどおにぎりを包めるくらいの大きさに切っていく。
米を平に乗せ、真ん中に具材を置いていく。
高嶺君はなんの具材が好きなんだろう。
いくらとかだったら可愛いな。
私はおにぎりを握りながら、そんな妄想を膨らませていく。
4つのおにぎりを握り終わった後、ランチボックスに詰めていく。食後のデザートに果物でも入れておこう。
1時間くらいで準備することが出来た私は、散歩がてら集合場所に向かう事に決めた。早めに着くことに悪いことはない。
そう思い、鞄を肩にかけて、おにぎりの入ったバッグを掴み、お母さんに挨拶しようとした時。
「お母さーん、いってきまーす」
2階で洗濯物を畳んでいたお母さんに聞こえるように、大きな声で叫んだ。
お母さんは上から物凄い音を立てて降りてきた。なにか、悪いことをしただろうか。
私は訳の分からない彼女の怒りの原因が分からなくて、でも怖くて、私の体の全体がどくどくと脈立っている。
靴を履いた私の元に来たお母さんは私の顔の目の前にあるテストを見せつけてきた。
「ちょっと美桜!なんなのよこの点数は!」
お母さんの顔が、どんどん赤く染まっていく。
あのテストはたしか、塾の夏期講習の時に受けた小テスト。
でもあれは、私がお母さんに1週間くらい前に見せようとしていたものだ。それでもいつもみたいに『後でね』と言われたまま、見ようともしれくれなかった。
今更言われても、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
早く行かないと、彼を待たせる事になるというのに。
それでも、お母さんに反抗しちゃだめ。
今まで育ててくれたんだから、反抗するなんて最低な事、したくなんかない。
「遊んでる暇があるなら、勉強しなさい!」
お母さんの怒りは収まることなく、土足でずかずかと私の心を汚していく。
心の中に、どろどろとした暗い感情が流れ込んでくる。
反抗しちゃだめなのに、お母さんにとって完璧な娘でいなきゃだめなのに。
私は、私を制御出来なくなっていた。
今までの思いが、まるで滝のように流れ始めた。
多分いつか、こうやって反抗する時がきたんだと思う。それが今日だっただけの話。
「私だって、頑張ったよ!この前正直に点数落ちた事伝えようとしたのに、聞いてくれなかったのはお母さんじゃん!なんでいつも私を見てくれないの?!私の事なんてどうでもいいくせに、分かったような口聞かないでよ!」
私は自分のありのままの気持ちを伝えた。
言葉にしてしまった後に、言い過ぎた、と思った。思ってもない事まで伝えてしまった。
お母さんに自分の想いを伝えたのは、いつぶりだろうか。
お母さんも私の行動にびっくりして、目を見開いている。
ごめんなさい、反抗したいわけじゃないの。
ただ、私を見て欲しいだけなんだよ。褒めて欲しいだけなんだよ。
いつも、お母さんの自慢のお姉ちゃん。私もいつか、そこの立場になれるように頑張ってるんだよ。
結果に繋がっていなくても、勉強してるんだよ、私だって努力してるんだよ。
ちゃんと、過程もみてほしい。
決して、努力してないわけじゃない。
私は、時が止まったように驚いて動かないお母さんを背に、家を飛び出した。
お母さんは我に返ったのか、私の名前を叫んでいた。
ごめん、お母さん。
こんな娘で。なにも出来ないくせに反抗してごめんなさい。それでも、お母さんが正しいとも思えないの。今までずっと、そう思っていた。いつか、私の口から言わずとも、気付いてくれる日を期待してたけど、そんな日は現れなかった。裏切られたって言いたいわけじゃない。別に私が勝手に期待しただけだから、裏切られたという表現は違うと思うから。
肩を下ろし、下を向いて歩いていた私の足元に、1枚の緑の葉がひらひらと落ちてくる。
上を見上げると、緑の世界が広がっていた。
里音と百合とこの桜並木を歩いた日々が懐かしく感じる。まだあの日から半年も経っていないというのに。
仲直りを出来ずに夏休みを迎えてしまった。
たしかに、仲良くなったら連絡先教えて欲しいと言われていたけれど、その時はまだ連絡先を交換していなかったし、第一私と高嶺君の2人の放課後の時間を邪魔されたくなんてなかった。
あの日の桜はとても綺麗だったけれど、今は緑で生い茂っている。
桜は1年で極わずかしか咲く期間がないからこそ、こんなにも称えられているのだろうか。
見た目の美しさ、彩りの良さ、香り。
桜を見ただけで1日頑張ろうと思えるし、ずっと見ていても飽きない。
素直に、羨ましいと思ってしまった。
青空もそうだけれど、誰かにとって幸せにさせられることが出来る人になりたい。
これは、私がずっと願ってきたこと。
私は上から舞い降りてきた緑色の葉っぱを掴む。私はいつ、桜を咲かせることが出来るのだろうか。
ネガティブになっていた自分の思考をかき消して、私は集合場所へと急いだ。
腕時計を確認すると、ちょうど集合時間に着いた。待たせる側になるなら、待つ側になった方がよい。
私は辺りを見渡して、高嶺君らしき人がいないか確認してみる。彼は他の人よりも身長が高いから、見つけやすい。
集合場所は私達の学校の最寄り駅の前。お昼集合という理由もあり、少し人混みが激しい。
大きな時計台の下と言われているけれど、これはここまで来るのにも一苦労しそうだ。
私は高嶺君に、集合場所を変更するべきだということを連絡しようとした時。
私の目の前が影で覆い尽くされた。
私はスマホから目を離すと、そこには息を少しだけ荒くしている高嶺君が立っていた。
「悪い、遅れた」
息を整えながら、彼は謝罪を告げた。
遅れたって、まだ集合時間から5分くらいしか経っていないのだけれど。
そういう律儀なところがなんだか可愛くて、私はクスッと笑ってしまった。
彼は笑われたことに拗ねてしまったのか、行くぞと言って、私の手首を掴んだ。
人混みの中移動するんだから、はぐれないようにしているだけだ、そうに決まっている。
ドキドキと、私の心臓がうるさくなっていく。彼に伝わってしまうのではないかという不安はすぐにかき消された。なぜなら、彼の耳が少し赤く染まっていたから。
私と同じ気持ちだったら嬉しいな、なんて思ってしまう。
改札のところまでずっと繋いでくれた手首だけが、とても熱かった。
私達が出発した駅から、今から向かう海がある駅までは1本で2時間程度。
私達が乗った時、お昼にも関わらず人が結構いたため、ドアの付近で立っていることにした。
黒いズボンに、白のTシャツに、銀のネックレス。シンプルだけれど、彼が着るとまるでモデルのようだ。
実際、電車に乗っている他の女の子達が彼を見ながらヒソヒソと話している。
「鈴岡、服似合ってる」
彼が私の顔を覗いて言ってきた。さっきまでこっちを見てきた彼女達は、今の言葉が聞こえたのか、『彼女いたね』と落胆していた。
彼女じゃないんだけど。
でももし、そうなれたらどんなに幸せだろう。
少し経った頃、席が空かないまま、人の多い駅に止まった。私達の反対側のドアが開き、続々と人が入ってきた。
あまりの勢いに私は反応出来なくて、躓いてしまった。
そんな時、私の肩に彼の大きな手が支えとなってくれて、さらにドアの方に移動させてくれた。彼が私を守るように包み込んでくれた。
まるで、少女漫画のワンシーンのようだ。
手首を掴まれた時よりも彼との距離が近くて、私は俯く。
彼の香りが、私の鼻を刺激する。
ああ、私の好きな匂いだ。
昔どこかで、匂いは人の感情を落ち着かせたり、行動を変化されるというのを聞いた事がある。
家を出る時のお母さんとの出来事が、私の心の中に少しだけ渦巻いていたけれど、今彼の香りを嗅いで、なんだか落ち着いてきた。
そんな時、人気の都会な駅に到着したため、大勢の人達が降りていった。
たくさんの空席が出来たため、私たちは端のふたつを座らせてもらった。
景色がどんどんと変わっていく。
それと同時に、私の心情も変わっていく。
先程までの楽しい気分から、お母さんへの罪悪感が増してゆく。
私は無意識にため息を出していたらしく、高嶺君が心配してくれた。
「なんかあったのか?」
「……」
「俺には弱音吐いてもいいんだ」
彼が優しく微笑んだ。
彼の笑顔が、優しさが、私の心を満たしていく。
小さなその一言だけで、私は嬉しかった。
「実はね」
彼はなにも言わず、ただ静かに相槌を打ってくれるだけだった。でも、それだけで充分。
「お母さんと成績の事で揉めちゃって」
「うん」
「酷い事言ったまま、家出てきちゃったの」
「……」
「私だって、お母さんの自慢の娘になりたいよ、それでも最近、お母さんが絶対に正しいって思えなくなってきちゃって、反抗しちゃってた」
「謝りたいという思いはあるのか?」
「もちろんあるよ…でも、これで私が謝ったら今までと同じだと思うの、お互い、変われないって」
今までのままだと、お母さんも私も変わる事なんて出来ない。
「それでも、自分が伝えたいと思った時に伝えなきゃ、後悔するぞ」
「え…?」
「伝えられずに、一生後悔しないように」
明日は必ずあるとは限らないと、そう付け足した彼は、とても悲しそうだった。
「だから、勇気を出して言ってみるのも、悪くないんだぞ」
そう言った彼は、私の髪を軽くぽんと撫でる。
「うん、ありがと…」
私は俯き、照れている事と泣きそうになっている事をばれないように頷いた。
「そういえば」
私は少し重くなった雰囲気を変えようと思い、話題を出した。
「どうして高嶺君は絵を描こうと思ったの?」
「お母さんが画家だったんだ。それをずっと見て育ってきたから、俺も描くようになってただけだ」
「そうなんだね」
画家“だった”と過去形だったのが少し気になったけれど、私はなにも言わなかった。
「俺は将来、誰かを幸せに出来る絵を描きたいんだ、お母さんのように」
「高嶺君なら、きっと大丈夫だよ」
今日の私は、やけに素直だ。
それでも、恥ずかしいと思わなかった。
「俺さ、調べてみたんだ」
「何を?」
「鈴岡のお母さんについて」
高嶺君が、そこまで考えてくれてると思っていなかった私は少しだけ目を見開く。
「多分だけど、教育虐待かもしれない」
「教育虐待?」
「ああ、教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうことらしい」
たしかに、彼が教えてくれた“教育虐待”について。それはお母さんに当てはまる部分があると言えるだろう。
他の家よりも勉強について厳しいし、少し点数や順位が下がっただけでも怒られてしまう。
そしてなにより、テストで高嶺君に勝てていない時。彼が1位で私が2位というのが今まで続いていたから、お母さんは私のテストの時になると焦りや苛立ちを感じているというのが、見ただけでも分かってしまう。
人差し指をとんとんと叩いたり、ため息の数がいつも以上に増えていたり。
私は人一倍他人のそういう細かい部分に気付いてしまうから、それがプレッシャーとなっているというのも事実。
「そうなのかな…」
「話を聞く限りだとな」
でも、と彼は続けて告げた。
「今まで育ててくれたのも事実だから、それで嫌うのは違うと思う。その部分だけ見ると怖いとか嫌いとか思うかもしれないけれど、全体をちゃんと見れば、そんな人でも良いところは必ずある。人というのは尊い存在だから」
彼の言葉は、本当に凄い。
学校の先生よりも、テレビに出てる人の言葉よりも、心の底からじんわりと温かくしてくれる。どんな人生を歩んだら、高校生がこんな言葉を発せられるのだろうか。
人間は尊い。当たり前だけど忘れてしまう大切な事を、彼はいつも教えてくれる。
いじめ、嫌がらせ、SNSの誹謗中傷など、今の世界はそういうものがありふれている。
心の傷というものは一生その子の心に残るということを忘れてはならないのだ。
どうしていじめというのが存在するのだろうか。被害者は加害者になにかしただろうか。
どうか、みんなが幸せになれる世界がくることを、私は願う。
「そうだね、自分達の命は、凄い確率で生まれているというのを、忘れちゃだめだよね」
私は彼に言われて、改めて気付くことが出来たけれど、この世界にはそんな当たり前を気付いていない人がいるんだ。彼がいなければ私もそっち側にいたんだ。
「高嶺君はすごいなあ」
私は呟くようにそっと告げた。
腕と足を伸ばし、固まっている体を起こした。
「俺は鈴岡の方がすごいと思う」
私のどこが凄いのだろう。
お母さんを怒らせているし、成績だってあなたの方が上だというのに。
「親のために頑張れるというのは、そうそうできる事じゃない。その努力はいつか、鈴岡を助けてくれるんだよ」
彼は小さくクスリと笑う。そしてまた、私の頭を撫でてくれた。
「あと少しで着くぞ」
彼は、私の頭に置いてあった手を下に移動し、私の手の平を握ってくれた。
たとえ優しさでも、それだけで私は幸せ。
さっきは手首だったけれど、今は手の平だという些細な事でさえ、とても嬉しい。
この幸せを、どうやって彼に返せばいいのだろうか。今の私にはまだ分からないけれど、いつか彼のためになることがあったら、その時はこの身を捧げて恩返ししよう。
海の綺麗な音色が、私達の静かな世界を奏でている。
小さな波が、きたりいったりしている。
「綺麗だね」
「ああ、普段東京にいたら見れない景色だな」
「あ、高嶺君はご飯食べてきちゃった?」
おにぎりを作ってきたことを忘れていた。
それに、彼がお昼を食べてきたかどうかという事を聞きそびれていた。
時間もあれだし食べてきてるだろうか。
「いや、12時集合だったから食べてきてない」
そういえばお腹空いたなと、彼がお腹を抑えながら呟いた。
「実はね、おにぎり作ってきたの」
私はそう言いながら、腕にかけていたランチボックスを彼に差し出す。
彼はそれを受け取り、中身を出した。
家族以外に自分の手作りを渡したのは初めてだったので、感想が気になってしまう。
彼はいただきますと手を合わせてから、おにぎりを頬張った。
「うん…美味しいな」
目をきらきらとさせながら、彼はひとくち、またひとくちと食べていって、あっという間にひとつを食べ終えてしまった。
「よかったあ…」
私は肩の荷が下りたような感覚に陥る。
私もひとつだけ鞄からおにぎりを出して、頬張った。
我ながら、結構上手くできたなと微笑ましく思う。
全て食べ終えた私達は、浜辺に座りながら、静かに音を立てている波を眺める。
私がぼーっと海を見つめていると、彼はリュックからスケッチブックを取り出した。
「絵、描くの?」
「ああ、さすがにキャンパスは持ってこれなかったから、下書きだけでもしておこうと思ってな」
「そっか、頑張って」
心の底にあったしこりを、波がもっていってくれたかのように、私の体は浄化されていく。
今日くらい、門限破ってもいいかな。
でも、一応連絡しておこう。
私は連絡する相手が1人増えたアプリを開き、お母さんに連絡をした。
『今日は遅くに帰ります。友達といるから、心配しないでください』
こんな素っ気ないメッセージを送るのは初めてだ。いつもは、相手がどう思うかという事を考えてきたので、私が怒っていると思わせないためにびっくりマークを必ず付けたり、絵文字を付けたりしている。
私はそうやって気を遣っているというのに、友達はいつも冷たく返信する。
それが怒っているというわけではないということは分かっているけれど、こっちはそう思わせることさえさせてないというのに、なんでそっちは何も考えてくれないんだろうと。
そんな悲劇のヒロイン地味た考えをしている私は、誰かに相談することが出来なかった。
それでも、いつの日か高嶺君に言った事がある。そんな時彼は、『それも鈴岡の良い所なんだな、他人以上に優しく出来る人は、いつか必ず優しさが返ってくる』それを信じていれば報われる日がくるはずだと、君はそう言ったね。
見返りを求めない人はいない。
人間はどんな人でも欲に塗れている。
そんな自分が恥ずかしいと思う時がある。どうして私はこんなにも見返りを求めてしまうのだろうかと。
そんな私を、それが当たり前だと、みんなそうであると教えてくれた君。
そんな時、握りしめていた私のスマホが、ブーブーと振動した。
『わかった、でも帰ったらきちんと話してもらうからね、気を付けて』
スマホに写った文面は、いつもより素っ気ない。それでも、遅くなると伝えたら、承諾してくれた。普段の私なら、聞くまでもない、どうせ聞いても怒られるだけだと勝手に決めつけて、聞いてすらいなかっただろう。
私が勝手にレッテルを貼っていただけだということに気付き、止まっていた歯車が動き出したように感じた私だった。
それでも、人はすぐに変われないというのも事実であって。
だからこそ、人生があるんだと思う。
自分を好きになるために。
私が思うに、人生とは、人と関わるにつれてたくさんの自分を知っていくことになる。その時、新しい出会いには良しも悪しもがあるから、嫌いな自分に出会ってしまう時があると思う。そんな自分を好きになるまでの過程が人生であって、幸せを感じたり、悔しさを感じたりして、生きていくんだと私は思う。
最後に自分の人生が、辛かったこともたくさんあったけれど、楽しいことが勝れば、それでもういいじゃないか。
結局は、最後に笑ったもん勝ちだ。
私は目線を、海から彼に向ける。
スケッチブックには、もうすでに海だと分かるくらいの構造が出来上がっていた。
彼はさらさらと滑らかに手を動かしていく。
私は風景を描くことが苦手だから、正直すごいなと思った。どこから描けばいいか分からないというのが本音だ。
「どうかしたか?」
彼は手を止め、顔をこちらに向けて訊ねた。
「ううん、気にしないで描いてていいよ」
「そう言われても、気になるものは気になってしまうだろ」
「たしかにそうだね」
私は、はははと疲れ気味に笑う。
疲れているわけではないのだけれど、海のゆったりとした波を見ていたら眠くなってきてしまった。
スマホで時間を確認すると、時刻は午後の4時へとさしかかろうとしていた。
夕日ももうそろそろ水平線に被さっていくだろう。
彼は描くのをやめ、スケッチブックを閉じた。
「そろそろ帰るか」
私の門限を気にしてくれたのか、彼が気を遣って帰ることを考えてくれた。
私は立ち上がろうとしている彼の袖を掴み、こう言った。
「もう少しだけ、いたい」
夕焼けが見たいだけだからと、付け加えて。
「でも鈴岡、お母さんが」
「その件は大丈夫だから。私達がいたいと思った時間までここにいよ」
「なら、問題ないか」
彼はもう一度腰を下ろし、海を眺める。
「海ってすごいよな」
「海が?」
「地球の7割が海だと言われている中、飽きられることなんてなく、ずっと長い間愛されているんだ」
「たしかに…?」
彼の言う事は難しい時が多い。
だから理解出来る時が少ないし、なんだか大人と話してる気分だ。それでもいつか、彼の言葉が理解出来る日が来ればいいなと私は思った。
海のさざ波の音だけが、私達の耳を刺激する。
「高嶺君の家って、どんな感じ?」
「俺の家、か…考えた事ないな。強いて言うなら、放任主義って感じだな」
自由な感じだと、そう付け加えて。
「そっか…いいなあ」
「そうか?」
「うん、私の知らない世界をたくさん知ってそうだなって思う」
私は7時以降の世界を知らない。
それに比べて、門限がない彼は色んな世界を知る機会があって羨ましいと、私は思った。
「俺は鈴岡が羨ましい」
「毎日の生活が縛られてるんだよ?」
「ああ、それでも、それは大切にされている証拠だと思う。愛の表現が違うだけで、それは愛されているっていう事なんじゃないかな」
自由な彼が羨ましいと思う私。
縛りが、愛されている証拠だと思う君。
私達は結局、ないものねだりの生き物なんだ。
お互いが持っていないものを欲しがってしまう生き物なんだ。
どうせそれを手に入れる事が出来ないのなら、今自分が持っている中で、幸せを見つけるしかないんじゃないのだろうか。
「ねえ、高嶺君」
「どうした?」
「私が今から言う事、笑わないで聞いて欲しいの」
「…わかった」
初めて人に明かす、自分の心の奥底の想い。
自分の穢らわしい部分を晒すというのは、お互い居心地の良いものではないだろう。でも、彼には知って欲しいと思った。彼なら、素直な彼の気持ちを伝えてくれると思ったから。
変に気を遣われるより、全然よかった。
「私はね、昔からお姉ちゃんと比べられてきたの」
私はいつも比べられて、いつも負けていた。
「だからね、褒められるっていうのが本当に少なくて」
「うん」
「いつの間にか、自分のためにじゃなくて、お母さんに褒められるために、頑張ってたの」
「……」
「勉強に関してなんか、高いのは当たり前で褒めてくれない。でも低い時はいつも怒られるの。私はね、ただ頑張ったねって言われたいだけなのに」
彼を見る事は出来なかった。
どんな表情をしていたのか、どんな気持ちで聞いていたのか、私は知らなかった。
彼が私よりも悲しく辛い立場にいる事を知らずに、私は自分の事しか考えないで、彼に話していたんだという事に。
「そう、だったんだな」
いつも正直に全てを伝える彼が、歯切れの悪い言い方をしていた。
私は不思議に思い、眉間にしわを寄せる。
「いつか、褒めてもらえるといいな」
私が求めていた答えと、違っていた。
なんだか、少しだけ遠ざけられた気分だ。
そんなこと言えるはずがない私は、ありがとうとだけ告げた。
久しぶりに、彼に対して作り笑いを見せた瞬間だった。
刹那、夕日が水平線に沈んでいくのが見えた。
オレンジ色が、空に広がっていく。
初めて屋上で会った日も、こんな感じで夕日が輝いていたのが懐かしい。
あの日の私は、彼とこんなにも親しくなると思っていなかっただろう。ましてや、異性として好きになるなんて。
夕日が私達を照らしていく。
「昔お母さんに、夕日はオレンジ色だけじゃないんだよって教えてくれた事があったんだ」
それなら、私も聞いたことがある。
昔に、誰かから言われた事がある気がする。
「最初はオレンジ色にしか見えないじゃんって思っていたけど、絵を描くようになってからは、その言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした」
彼はいつもみたいに、綺麗な瞳を遠くに向けていた。夕日が反射して、彼の瞳がオレンジ色に輝いていた。
「みんながオレンジだと言うからオレンジ色なんだと、俺は思ってた。でも本当は、自分の感じた思いをかき消す必要はないと、伝えたかったんだと思う」
周りに合わせなくてもいい、本当の自分を大切にしろと、お母さんは俺に気付いて欲しかったんだと思う。彼はそう言いながら、夕日で煌めく海を眺めていた。
黄昏時。それは、夕焼けで薄暗い中、相手の顔が分からなくなり、「誰ですか?」と問いかける時間帯の事。
この時間を、空間を黄昏時と呼ぶんだろうか。
私はどんなに薄暗くなっても、彼が高嶺君だと気付く事が出来るだろう。
「周りに合わせなくていい、か」
完璧に演じる私にとって、本当の自分を大切にすることを忘れていた。
中学のあの日から、私は、本当の自分を見失っている。自分では分かっていても、今更変えることなんて出来るはずがない。
昔から、誰かの1番になりたかった。
お母さんにとってでもいいし、友達にとってでもいい。
誰よりも大切にされたい。
それでも、私を大切にしてくれる人なんていなかった。友達に見捨てられ、奴隷みたいだと言われ、嫌いだと告げられた。
私の味方なんて、誰一人いないんだ。
「俺は鈴岡の味方だ」
まるで、私の心を見透かしたかのようなタイミングで、彼はそう言った。
頑張れとか、大丈夫だよとか、そんな上辺だけの気持ちよりも、彼の言葉には重みがあって、私を安心させてくれる。本当にそうしてくれるんだという思いがある。
やっぱり彼は、私を喜ばせるのが得意らしい。
「ふふ、ありがと」
誰かの1番じゃなくて、彼の1番になりたい。
そう願っていた。
「そろそろ、帰ろっか」
私は立ち上がり、伸びをする。
ずっと座っていたから、腰が痛かった。
彼も立ち上がって、不安定な砂浜から私を守るかのように、自然と手を繋いでくれた。
夕日が輝く中、幼い私は知らない女性と話しているようだった。
『夕日はね、オレンジ色じゃないんだよ』
やはり、彼女の顔には靄がかかっていて、誰なのか確認する事は出来なかった。
「オレンジ色だよ?」
『感じ方は人それぞれなの、それを誰かが強調する事はいけないことなんだよ。だから、自分を大切にしてね』
「じぶんを、たいせつに?」
幼い私は、彼女の言ってる意味を理解することは出来なかった。
『ああ、私にも美桜ちゃんと同じくらいの息子がいるんだ。私はいつも同じ言葉を伝えている!』
女性はガッツポーズを作って、歯をにっと出して笑った気がした。
その後も、彼女とは色んなお話をした。
途中から、会話にも靄がかかってしまい、どんな話をしたか聞き取れなかった。
けれど、彼女の言う言葉ひとつひとつは、とても重みがあって、当時の私はあの人みたいになりたいと思っただろう。
そしてまた、この前の夢と同様、私達は居眠り運転の車に撥ねられた。
私はゆっくりと起き上がり、この前よりも冷静に目覚めることが出来た。
それでも、朝からセミの鳴き声がうるさい。
夏の朝というのは、暑苦しさとうるささが両方襲いかかってくるから憂鬱な気分になる。
セミだって頑張って生きているのは知っているけれども。
私は今日の夢を思い出す。ほとんどの夢は起きた時に忘れてしまうけれど、あの女性の夢だけは鮮明に覚えていることが出来る。
また、あの夢か。
あの女性は一体誰なのだろう。
まず、あの夢は現実に起こったことなのだろうか。でも、あんな大事な事があったなら、いくら幼い私でも覚えているだろうに。
私は色んな思考を回転させて考えるものの、結果が出ないのが目に見えていたため、考えるのをやめる。まだ眠っている体を起こすために台所に向かった。
「おはよう、お母さん」
すでに起きて家事をしていたお母さんに話しかけた。
「ああ、なんだ美桜か、早いわね」
お母さんはそそくさと動いていく。
いつもはこんなに急いでやってないのに、今日はなにかあるのだろうか。
「今日なんかあるの?」
私は洗面台に向かいながら、お母さんに訊ねる。
「なにって…覚えてないの?今日はお盆よ、行かなきゃいけない場所があるって教えたじゃない」
「行かなきゃいけない場所?」
そういえば、結構前にそんな事言われた記憶がある。言われなければ思い出す事さえ危うかった。
「ええ、だから洗濯物とか先にやっておきたいのよ」
よいしょっと言って、お母さんは洗濯物を運んでいってしまった。
遠くから、早く準備しちゃいなさーいという声が聞こえてきたため、私は顔を洗った後、自分で用意した朝食を頂いた。
その後すぐ服を着替え、お母さんの車に乗り込んだ。こうして2人で車に乗るのすら久しぶりだった。いつも私の休日は勉強しろという命令に従う他なかったから。
そんなお母さんが、今日は自ら私を外に出した。その事実だけでも驚きだったのに、到着した場所を見た途端、驚きを隠せなかった。
だって、私には関係のない場所だったから。
「お墓…?」
私はわけも分からず、胸元に仏花を大切に抱えているお母さんの後をついて行くことしか出来なかった。
到着した仏壇の前に立ち、私は1度手を合わせる。
「お母さん、誰のお墓?」
「昔、あなたを助けてくれた人のよ」
それを聞いた途端、私は今朝の夢を思い出した。もしかして、あれは本当にあった出来事だというのだろうか。
という事は、この人は私のせいで亡くなってしまったということなのか。
「じゃあ、私のせいで」
息を整える事に必死になる私の肩を掴み、お母さんが落ち着いた声で告げた。
「美桜のせいじゃない」
私を安心させるための嘘の言葉だというのは、お母さんの手の震えや汗の数、目の動きから見て明らかだった。
やっぱり、私のせいなんだ。
夢であったことに一安心した自分を恨みたい。
私の手は汗でいっぱいだった。スカートの横を掴み、行き場のない気持ちをそこにぶつけた。この思いを誰に伝えればいいのだろうか。
呆然とした私を見て、お母さんはおでこに手を添え、空を見上げた。
「やっぱり、伝えなきゃよかった…」
呟くように放ったその言葉には、後悔の思いがこもっていた。唇を噛み締め、震えていた。
伝えていなかったら、私はこの人に謝る事のないまま、知らないまま、生きていっていたのだろう。
お母さんが深呼吸をして、準備を始める。
お花を添え、線香を置いた後、もう一度手を合わせた私達。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。
今の私は、あなたに助けてもらった命に相応しい人生を送れているのでしょうか。
正直、送れていると思えません。
時々、私は生きてる意味はあるのかと思ってしまう時があります。そんな時は、ある男の子が思い留めてくれます。
私もいつか、その人のようになれるように頑張りたいと思います。
本当に、ありがとうございます。
お母さんの帰ろうかという言葉で、私は我に返った感覚だった。
「…あれ?」
その場を後にしようとした時、私の耳が見覚えのない男性の声を捉えた。
「あ、ご無沙汰しています」
お母さんがその人に向かって、深々とお辞儀をしたのを見て、私も慌てて頭を下げる。
「顔を上げてください」
男性は優しい声でそう言った。
綺麗で高い鼻に、スタイルのいい身体、きりっとした眉と目、そして、吸い込まれる綺麗な瞳。この男性は、どこか高嶺君に似ていたというのが、第一印象だった。
「美桜、挨拶して」
「あ、うん。鈴岡美桜です、初めまして」
「美桜って…そうか、君が」
男性は綺麗な瞳を見開いた。
「大きくなったね」
彼は、昔の私を知っているのだろうか。
どこかで会っていたのかもしれない、私が覚えていないだけで。
「ありがとうございます」
「美桜、先車行ってなさい」
お母さんが私に車の鍵を渡してきて、そう告げた後、2人はなにか話し始めてしまった。
私は彼らを背に車へと向かい、エンジンをかけた。
張り詰めていた緊張が、体から抜けていった。
背もたれに寄りかかり、息を漏らした。
「名前、言ってなかったな」
私は静かな車の中で、ひとり呟いた。
苗字でも分かれば、なにか手がかりを見つけられたかもしれないのに。
10分くらいした後、お母さんが戻ってきた。
「何話してたの?」
「挨拶とかだけだよ」
なにか隠された気がしたけれど、追求しても教えてくれないんだろうなと思い、私は興味なさげに返事をし、家に着くまでずっと窓越しの景色を眺めていた。
家に着いた私は、手洗いうがいをした後、ベッドに寝っ転がった。
埃が少しだけ舞ったけれど、気にせずそのまま目を瞑る。
高嶺君に、会いたいな。
私はそんな願望を心の中で唱える。
早く夏休みが終わればいいのに。
どうせ夏期講習とかがあるのだから、いつもの生活とあまり変わらない。
高嶺君と出会うまで、放課後はいつも勉強していたから、屋上に通い始めてから成績が少しだけ落ちてしまった。
お母さんにはいつも放課後勉強していることにしているから、今まで通りにしているのにどうして成績が下がるんだと怒られた時があった。
それでも、放課後というのは、唯一高嶺君と話せる貴重な時間なのである。だからあの時間を邪魔されたくない。
それでも嘘をついているという心苦しさから、私は机に向かった。
夏休み明けにすぐ模試があるから、そのために勉強しておこう。
私は英語の問題集や単語帳を開いて、シャーペンを動かしていく。
キリの良いところで伸びをし、時計を確認すると、すでに短い針が4の数字を過ぎていた。
私は疲れの溜まった顔を鏡で確認する。
お姉ちゃんとの差を思い知らされ、私は小さな苛立ちを覚える。
いつもみたいに、小さな苛立ちは痛みで飛ばしてしまえばいい。そう思った私は、自分の爪を皮に食い込ませる。
少しの激痛が体中を駆け巡り、私は歯をぎりぎりと噛み締めた。
先程の醜い感情が消えた事を確認し、手の力を抜いた。
模試が終われば、文化祭の準備が始まる。
毎年私は先生からの信頼によっていつもまとめ役を任される。
今年も去年から引き継いだ評判からか、担任からの信頼が深い。
ずっと同じ立ち位置を維持している私にとって、不服でない結果だった。
やる事がなくなった私は、机の横にある本棚から小説を取って読み始めた。
この小説のあらすじは、主人公の女の子が悩みを抱えた男子と出会い、一緒に寄り添い、ぶつかり、結ばれるという在り来りな物語。
こんな素敵な出会い、小説だけだろうという、つまらない感想が最初だった。
それでも読み始めるにつれて、男の子の悩みに共感し、時間を忘れてページを捲っていた。
続きが気になる大事な場面というところで、お母さんの声が現実へと私を手繰り寄せた。
私は栞を挟み、お母さんの元へ向かった。
「どうしたの?」
「今日の事で、言いたいことがあるのよ」
今日も夜勤があるのだろう。いつでも出れるようにしているためなのか、すでにおめかしを済ませていたお母さんの姿があった。
いつも以上に真剣な母の姿に、唾をごくりの飲み込んだ。
「今日会った男性は、亡くなった女性の旦那さんでね、昔お葬式で1回会ってるの」
「……」
私は相槌すら打たず、真剣な眼差しをお母さんに向けた。
「彼には息子さんがいて、美桜と同い年だそうよ」
私は息を呑んだ。私と同い年の男の子から、お母さんを奪ってしまったという事実に。
「私はいつ、事故に遭ったの?」
初めて、自ら質問をした。
自分で、この出来事に区切りを打たなければならないと、向き合わなければならないと思ったから。
「やっぱり、思い出してないのね」
お母さんは眉を八の字にして、悲しみの表情を浮かばせた。
思い出していないというお母さんの言葉の意味が分からず、私は首を傾げた。
「いい?美桜。あなたは、当時の記憶を失っているの」
「え…?」
「目の前で、自分を助けてくれた人が亡くなったのを見たからなのか、あなたはその場で気を失っていたわ」
「そう、なんだ」
「記憶を失っていると言っても、断片的なものだってお医者さんが言ってた。日常に支障はないって教えてくれたから、記憶を思い出すかそのまま塞ぎ込んでおくかは、私に委ねるって」
その時、初めてお母さんは涙を流した。
ずっと、苦しかったんだろう。
私が思い出しても、その責任から私がおかしくなってしまうのを恐れて。
「私は思い出させない事を望んだわ。それでも、やっぱり助けてくれた女性のためにも、その事実を受け止めて生きて欲しいって思った」
「うん…」
私がお母さんの立場でも、その選択をしただろう。自分が生きているのは、その人のおかげなんだって知って欲しいから。
命はとても儚くて、脆くて、一瞬で消えてしまう時があるということを知って欲しいから。
だからこそ、自分の命を大切にして生きて欲しいと。
「でもまだ幼いあなたに言うには、私の心が許さなかった。だったら、あなたが成長して、事実に受け止められるようになってからって決めたの」
お母さんは綺麗に整えたメイクが崩れ落ちるのも気にせず、涙をハンカチで拭った。
「そう、だったんだね」
私の知らないところで、お母さんがこんなにも闘ってくれていることを知らなかった。
だからあんなにも過保護だったんだと、今までのお母さんの言動が1本の線で繋がった。
昔私が事故に遭ったからこそ、もう失いたくないという思いが、今のお母さんを作り上げてしまったんだ。
私は今まで、厳しくすぎるとかもっと自由にしてほしいとか、お母さんに対して酷い考えを持ってしまう時があった。
もっと早く知っていたら、なんて後悔しても無意味な考えが浮かんできた。
「お母さん、私は大丈夫だから、泣き止んで」
そう言った私は、お母さんの背中をゆっくりと、優しく摩った。
「あの時、美桜を1人で買い物に行かせた私が悪かったわ…本当にごめんなさい」
しっかり者の美桜なら、ひとりで買い物に行かせても大丈夫だと思った昔のお母さん。
たくさんの偶然が重なって起きた事故だった。
お母さんが私を1人で買い物を行かせた事。
私が迷子になってしまった事。
迷子になった私を助けてくれたのがその女性だった事。
居眠り運転の自動車が、いつも使う道路が点検によって使えなくなり、私達がいた道路を通りかかってしまった事。
そんないくつもの偶然が繋がって、ひとつの悲劇を生んでしまったのだと。
「お母さん、ありがとう」
私は、自分のせいで亡くなってしまった女性への謝罪を込めた涙をたくさん流した。
初めて、本当のお母さんを見た気がした。
夏休み最終日。私は汗をかきながら、学校に向かっていた。ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭う。
もう既に学校と塾の夏期講習は終わり、私は晴れて自由の身、と言いたいところだが、夏休みが終わればすぐに模試があるため、私はお母さんに言われて勉強しに行かなければならなくなってしまったのだ。
夏休みとはいえ、学校に入るためには制服を着なければならない。ワイシャツが私の汗を吸い込み、変にベタついて気分が悪く、苛立ちを感じてしまう。
私はため息をこぼすも、トラックの騒音にかき消された。
学校の側を歩いていると、校庭から野球部の男子の気合いに満ちた声が聞こえてきた。
こんな暑い中、怪我をしないために長袖長ズボンを着て動くなんて、私には到底無理だろう。
見ているだけで暑くなってしまった私は、図書館の涼しい空間を求めて、自然と足を速くしていたのだった。
図書館に着いて、座る場所を決めようと館内を見渡していると、見覚えのある子が座って読書をしていた。
私は彼女のそばに駆け寄り、話しかけた。
「久美!」
私は夏休みに入ってから1度も会うことがなかった友人と会えて喜んでしまい、図書館にいるということを忘れてしまっていた。
私は久美にしーっ!と言われて、口を抑える。
「久しぶりだね」
私は声の大きさを下げて、久美の隣に座った。
「久しぶり」
彼女は眼鏡をくいっとあげて、笑顔を作った。
図書館まで来て読書だろうか。
たしか彼女の家は下の子がたくさんいるらしいから、集中出来ないのかもしれない。
弟や妹がいない私にとっては、とても羨ましいことであるのだけれど。
「美桜ちゃんは勉強?」
「うん、そのつもり」
「偉いなー、私宿題以外やらない人だから」
へらへらと後頭部に手を添えて笑う彼女は、同性の私から見ても、とても可愛らしかった。
久しぶりに会った彼女と話したい事がたくさんあって、私達は図書館にも関わらず会話を弾ませてしまった。
私は周りの視線を気にして、場所を変える提案をする。ついでに、一緒にご飯を食べる事になった。彼女も同意して、私達は中庭のベンチへ移動した。
彼女にだけは、私と高嶺君の関係を話しても大丈夫だと確信していた。
「実はね、私、高嶺君の事好きなの」
私は久美の反応が怖くて、手を握り締める。
「え?知ってたけど」
彼女は卵焼きを食べようとした手を止め、逆になんで知らないと思っていたのかと驚かれた。
「だって、私言ってなかったじゃん」
「教室であんなに見てたら誰でも分かるよ」
私が、見ていた?高嶺君を?
「え…私、見てた?」
「うん、がっつり」
「嘘…」
私は自分が無自覚に彼を見つめていたという事実に、腰が抜けそうになった。
「いつくらいから?」
「結構前だよ、んーとね、4月末くらい?」
4月末って、私と彼が屋上で出会った時くらいじゃない。そんな前から、私は彼を好きだったのだろうか。少なくとも私が彼を好きだと自覚した時は体育祭だったから、5月末だった気がする。
たしかに、彼は素直すぎる性格から、周りに嫌われていた。普段屋上で一緒に過ごしているからこそ、彼が嫌われる理由が分からない。私も屋上で出会うまではそう思っていたけれど、ちゃんと向き合えば、彼にも優しく素敵な一面があるということに気付けるはずだ。
彼の言葉の裏には、優しさが含まれているということに。
「そうだったんだね」
私は朝コンビニで買っておいたサンドイッチを頬張る。
「にしても、最初は疑っちゃったんだ」
どうしてだろうか。
「美桜ちゃんって、真面目な人がタイプだと思ってたからさ」
そう言われた時、胸がチクリと痛んだ。
悪気がなかったのは分かっているけれど、どうして私のタイプを勝手に決められなければならないのだろう。
どうして勝手にそう思うのだろう。
そんな偏見が、その人を縛っているということに気付いて欲しい。
そう願っても、私から言うことはなかった。
高嶺君に、いつもそうやって素直に言えばいいのにって言われたけれど、人はそんな簡単に変わることなんて出来ないんだよ。
そんな簡単に変われたら、この世の中に悪いことなんて何一つ起こらないじゃないか。
私は笑顔を貼り付けて、
「私にもタイプくらいあるって」
と言いながら笑った。
私達は木漏れ日を浴びながら、その後もお互いの夏休みの生活について話した。
高嶺君と海に行った事は話さなかった。
2人だけの秘密にしたかったから。
昼食を済ませ、久美は予定があるからと言って帰ってしまった。
私は勉強する気になれず、学校を散策する事にした。
私の学校は大きいから、まだ行ったことのない場所が存在する。棟が違ったりすると、3年間で行かない場所もたくさんあるらしい。
私はそんな場所も行ってみたくなり、荷物を教室に置いて、貴重品をポケットにしまい、冒険への1歩を踏み出した。
ほとんどのクラスは西棟にあり、私も西棟を利用している。普段行かない東棟に行くことに決めた。
夏休み終わりということもあり、人気が全然ない。みんな、最後の休みを堪能しているのだろう。
それに比べて、私は勉強しろと言われる毎日。
門限は1時間だけ延びたけれど、他の人と比べてしまうとやっぱり窮屈なのには変わりない。
それに、成績に関しては変化なく言われる毎日だ。
私はどこへ行くなどの目的もなく、ただひたすらに歩いた。
先生しか使わなそうな資料室や、使われなくなったであろう教室があった。
この学校の生徒数は、昔に比べて減っていると聞いた事がある。今はすべての生徒が東棟に収まるから、使われなくなったのだろう。
私は寂しく感じた。昔は生徒で賑わっていた教室が、今はもぬけの殻のようだったから。
もしかしたら、この教室はずっと生徒を待っているのかもしれない。
昔の明るい時間を求めて。
私は目を伏せ、ゆっくりと扉を閉じた。
徐々に進んで行くと、美術室を見つけた。
この美術室は美術部しか使わないらしい。
開いていた扉を覗くと、そこには数人の美術部であろう生徒が自由に過ごしていた。
読書をしている人、スマホをいじっている人、きちんと絵を描いている人。
高嶺君の姿を探したけれど、彼は今日いないみたいだった。
「入部したいの?」
いやにも優しそうなオーラを放つ男の人が、私を入部したい生徒だと思ったらしく、話しかけてきた。
ここで入部じゃないと言っても、どうして覗いていたのか聞かれるのが面倒だったため、少し言葉を濁しながら答えた。
「なにか部活に入ろうと思っていて、色んな部活を見学しています」
模範解答のような私の返答に、彼は疑いもせず、ゆっくりしてってねと優しい笑顔を見せてくれた。罪悪感に押し潰されるも、今の発言を撤回できるはずがなく、私は軽く会釈をして中へと入る。
過去に受賞した事ある作品が、壁にずらっと並べ飾られていた。
私はそれを一つ一つ、じっくりと眺める。
今まで繋いできた美術部の歴史が、この壁に飾られていって、いつか全ての作品で埋め尽くされる日が来ると思うと、なんだか私が喜びの思いを膨らませていた。
秋の紅葉を描いていたり、冬の湖、部活動をしている風景、そして、1番新しいところには、桜の木と2人組の男女が写っている絵が飾られていた。額縁の下に目を移動させ、著者を確認する。そこには高嶺瞬と書かれていた。
あまりの美しさに、私は目を奪われていた。
どれくらい時が経っただろうか。
屋上から見えていた桜の木を描いていたのは知っていた。ずっと隣で見ていたから。
でも、私達も一緒に描かれていると思っていなかった私は、息を呑んでしまう。
「綺麗…」
溢れ出てしまった綺麗という言葉。
この絵の中の私達は、とても楽しそうだった。
私は彼に話しかけていて、彼は優しい笑顔でそれに答えるというのが絵を見ていて分かった。
どれくらい時間が経ったか分からなかったけれど、先程話しかけてくれた部長の声によって我に返った私は、急いで帰る支度をしたのだった。
長く暑い夏休みが終わり、私達は今、頭を抱えているところだった。
ここは…なんだっけ。
放課後勉強しなくなってから、私の成績は少しずつ落ちていっていた。
お母さんは前よりも不満そうな顔をするようになり、私の心は徐々に期待によって押し潰されてしまいそう。
今回のテストはマーク式だから、分からなければ適当に塗りつぶしておこう。
問題の解き方を考えていたら、終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。私は急いでマークの中を漆黒に染めた。
「それじゃあ、後ろから回収して」
先生の言葉を合図に、みんなはペンを置いて解答用紙を集める。
夏休みに勉強する時間が増え、今回はまだ大丈夫だろう。周りのみんなも、普段2位の私が2桁を取り始めて、興味を持っているらしい。
数学、国語、英語の3科目の模試を終わらせ、私達は文化祭について話すことになった。
「鈴岡ー、ちょっと来い」
「なんでしょう」
私は先生に呼ばれ、まとめ役を頼まれた。
「ほとんどの流れは鈴岡に任せるから、頼んだぞ」
普段無気力の先生が自ら話を進めるはずがないと思っていたが、まさかここまでとは。
本当になにもやる気がないんだなと肩を下ろす。
それでも任せてくれたという事実が嬉しくて、私は資料を受け取り、笑顔で肯定の返事をした。
「任せて下さい」
私は脱力しているクラスメイトの前に立ち、静かにするように要請する。
「今から文化祭について話し合いたいと思います」
なにかやりたいものの案がある人いませんか、と私はみんなに問いかける。
みんなテストの悪さからなのか、やる気のない目を私に向けてきた。
分かっていたけれど、教室が静寂に包まれる。
喉まで上がってきた溜め息を、私は押し殺す。
みんなの前で溜め息なんて、嫌味のようだ。
私は偽りの笑顔を貼り付け、もう一度訊ねた。
「なんでもいいの、やりたいこととか、したいことでも」
なるべく明るい声で言うと、1人の明るい女の子が「お化け屋敷なんてどうですかー」と鏡で自分の顔を確認しながら言ってきた。
苛立ちの矛先が彼女にいく前に、私は黒板にお化け屋敷と書いて、他の案を聞いてみた。チョークの端が少しだけ粉々に壊れた。
彼女が言ったからか、他の人も色々と出してくれて安心だ。
こういう時はいつも高嶺君が発言をしている。私は窓側の席になった彼に視線を向け、助けを求めようとしたけれど、高嶺君は頬杖をついて、雨の降りそうな空を眺めていた。
開いていた窓から入り込んできた風が、彼の髪をさらさらと靡かせた。
一通り集まったところで、多数決を求め、私はもう一度声を上げる。
「じゃあこの中から、やりたいものひとつ選んで手を挙げてください」
全ての票を集め終え、集計したところ、このクラスは接戦でカフェをすることになった。
女子は男子に可愛い姿を見せようと思っているのか、髪型どうしようなどと自分の世界に入っていた。さっきまでなにもやろうとしなかったくせに。
私は誰にも聞こえないように小さな溜め息を出した。
「このクラスはカフェに決まりました、異論ないですか?」
「ありませーん」
1部の男子が返答してくれて、私は自分の仕事をこなし終えた。
「先生、決まりました」
クラスにも来ず、職員室でコーヒーを飲んでいた私の担任は、本当にだらしない。
「おお、早いな。助かったよ」
「私たちのクラスはカフェになりました。大丈夫ですよね?」
私はお金の問題など考えずにクラスのみんなに聞いていた事を思い出し、緊張の糸を張り巡らせる。
「準備費で収まるならなんでもいいぞー」
その準備費がいくらなのかを教えて欲しいのに。私が聞く前に教えてあげるという気遣いはできないのか。
私は握っていた資料にしわを作る。
「準備費はいくらくらいですか?」
「大体1万から2万くらいだと思うけど」
大雑把すぎるにも程がある。
1万から2万って、結構な差があるというのに。
誰もがやる気なく、私までもが面倒くさく感じてくる。私が頑張っても、ついてきてくれる人は極わずかなのが、目に見えてしまったから。
反論する事さえ億劫になった私は、先生にお礼を言って職員室を後にした。
すでに解散していたクラスメイトに挨拶をして、私は屋上に向かう。
錆びた扉を開けると、耳を刺激する甲高い音が響き渡る。
「高嶺君…!」
いつもはキャンパスを立てて絵を描いている彼が、ベンチに座りながら青空を眺めている姿はとても珍しかった。
一緒に海へ行ったあの日以来話していなかったため、話すのが久々だった。
せっかく連絡先を交換したのだから、なにか送ろうと悩んだ末、迷惑をかけてしまうのではないかという葛藤から変化することなく、夏休みが終わっていた。
「…鈴岡」
いつもはっきりしている彼が、歯切れの悪い言い方をしてきた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
彼はすぐに目を逸らし、青空を眺め始めた。
まるで、最初の彼と話しているみたいだ。
彼の目には、光がなかった。
「なあ鈴岡」
私は首を傾げ、言葉の続きを待った。
「少しの間、屋上に、来ないで欲しい」
彼の言っている事が理解出来ず、私は口をぽかんと開けてしまう。
「ど、どういうこと?」
冷静を保っているように見せるために、私は彼に理由を問いただした。
「ただ、来ないで欲しいんだ」
そんな説明で、わかったなんて言えるわけがない。
どうしてこんなにも拒絶されているのだろう。
なにか私が悪い事をしたなら、言って欲しい。
だからどうか、拒む事だけはやめて欲しい。
そんな私の願いは叶う事無く、彼はそれだけを告げて屋上を後にした。
まるで台風のような出来事に困惑する。
私達が出会った日は綺麗な桜が咲いていたけれど、今は誰にも見られない緑色の葉へと変化し、いつの間にか地面に舞い落ちていた。
まるで、私と高嶺君みたいだ。
私はなにも考える事が出来ず、彼が座っていたところに座った。彼が見ていた世界を確認したかった。けれどやっぱり、いつもと変わりない。
彼の世界だから、世界はあんなにも美しく写っているんだろうなと美桜は思った。
でなければ、あんなに美しい作品を描く事は出来ないだろう。
「どうして…」
どうして、彼は私を拒んだのだろう。
私の頬に、一筋の涙が流れる。
それは留まることを知らずに、次々と溢れ出てきてしまった。
私は握り拳を顔に当て、小さく嗚咽を吐いた。
いつもは私達2人を照らす太陽が、今日は黒い雲によって閉ざされていたのだった。
高嶺君から拒絶されたあの日から、1週間が経った。一緒に過ごしていた時の1週間はあっという間だったのに、今週はとてつもなく長く感じた。
私の席は廊下側で、彼は窓側という、話しかけずらい場所になってしまった。
席替えする前は、たまに授業中に話したりしたけれど、今はそれすらも無くなってしまっている。
彼は起きている時の方が少ないのだけれど。
数学担当の先生の、眠くなるような内容が、左から右へと通り過ぎる。
私は手に顎をのせ、目だけを彼の方へと向けた。私を悩ませている張本人はすやすやと眠っている。
ほとんど毎日、夜勤のバイトをしていると言っていた。いつも授業中に寝ているのはそのせいだと。
彼は将来、親に迷惑をかけないように今から働いてお金を貯めておくと教えてくれたけれど、私が彼の生活をしたら、確実に単位を落としていただろう。彼が産まれ持った才能が、彼自身をあんな風に苦しめているのではないのだらうか。
私はその考えをすぐに頭の中から消した。たとえ彼が教科書を見ただけで内容を理解できる能力を持ち合わせていなくても、彼は自分の身を削ってまで、努力していただろう。
彼は、そんな芯を持っている人だから。
突然数学の先生がチョークを思いきり置いて、彼の元へずかずかと歩いていった。
私は驚き、手から頭を離して、2人の状況に見入ってしまっていた。
「高嶺!なんだその態度は!」
そういえば、数学の先生は歳はいっているけれど今年から配属された人だと言っていた気がする。私の担任のことだから、高嶺君の事情を伝え忘れているというのも過言ではない。
他の生徒達も、彼らを見つめている。
高嶺君は目を擦りながら起き上がった。場違いかもしれないけれど、それすらも可愛いと思い、軽く口元がにやけてしまう。
「ふわぁ、なんですか」
欠伸をしながら返答した彼を見て、さらに先生は顔を赤くした。怒りの籠った彼の声が、先生の声と対決する。
「なんですかとはなんだ!先生に向かって!失礼だと思わんのか!」
「俺の事情も知らないで」
初めて聞く、彼の怒りのこもった低い声。
彼はいつも寝ているけれど、先生に反抗したことは1度もなかった。他の先生は彼の現状を理解していたし、彼が寝ている事に対して明らかに甘かったのもたしか。
彼は椅子を思いきりしまい、ものすごい大きな音を立てて教室を出ていった。
みんなも、彼のあんな姿を見るのが初めてだったから驚いていた。もちろん、私も。
クラスメイトは、授業の妨害をしないからという理由で今まで高嶺君がいくら寝ていてもなにも言ってこなかった。しかし今回はいつもと違う。彼が反抗し、教室を出ていったというのを目の当たりにしたのだ。
先生は先程よりも赤くなった顔を彼に向け、暴言を吐いた後授業へと戻った。
彼を追いかけたい。それでも、私自身は彼に拒まれている。どうすればいいのだろうか。
私は結局答えを出せないまま授業の終わりを迎えてしまう。6限目を終わらせた私達には、遊ぶ時間などない、文化祭の準備を始めなければならないのだ。
私は彼を引き戻すために彼の元へ向かおうとするけれど、誰かが私の足を止めた。
「美桜ちゃん」
私の名前を呼んだのは久美だった。
「どうしたの?」
私は彼を探したいという気持ちを押し殺し、彼女の問いかけを待った。
「文化祭でやるカフェについてなんだけど」
私はすでにいくつかのグループに分けていたのだ。そこで決めても争いの元になるのは目に見えていたし、仲良い子同士でやったら話しておわりになりそうだなと考えたからだ。
久美は装飾係。たしか高嶺君も同じ係だった。彼が選ばれた理由は多分、身長が高いから高いところの装飾をやりやすくするためだろうと勝手な想像を膨らませる。
久美は装飾の費用と、場所を私に相談してきて、私はそれに指示を出した。
その後もいくつかの生徒に質問されたけれど、全部手紙で確認できることなんだから、そっちで見て欲しい。私はあなた達のためにいる存在じゃないのだから。文句の言葉が、私の頭の中を駆け巡った。それでも、必ず最後には「ありがとう」とか「さすが美桜」と言われるだけで、貼り付けの笑顔を簡単に作ることができる。我ながらちょろいなと感じた。
みんなが自ら進めようとしてくれたのがありがたい。私は少し落ち着いた時間に入り、一息つくことが出来た。
私は高嶺君を探しに、彼が行きそうな場所を目指した。私が屋上に向かうと少しだけ扉が開いていたことから、彼はここにいると考え、私はドアノブを握る力を緩める。
もし、また拒まれたらどうしよう。
でも、これは文化祭に関わる大切な事だから私だろうが関係ない。仕事として、話しかけるだけだ。私は心の中で現実から逃げていた。
私は深呼吸をして、意を決してドアを開けた。
そこには、先週と同じように空を眺める彼の姿があった。
「高嶺君…」
「…来るなって言っただろ」
「そうなんだけど…文化祭についてのことで」
昔の高嶺君と話している気分だった。怖くて、怒っているような。でももう私は知っている。彼がとても優しいということを。
彼は私の名前を呼び、私の言葉を遮る。
「鈴岡」
「…なに?」
私の声が少し震えていた。彼が今から言う事が、わかってしまったから。
「もうお前と話したくない」
彼は冷たい目をこちらに向けた。その瞬間、私は身動きをとれなくなってしまった。
私の知ってる、高嶺君じゃないと思った。
私の口から、言葉が出てこなかった。
ただ震えを抑えることに全てを費やし、彼の続ける言葉に耳を傾ける。
「屋上にも来ないで欲しい」
―鈴岡がいたければ好きなだけいるといい―
そう言ったのは、そう言ってくれたのは、君なんだよ?
あの時は、まだお母さんとあんまり良くなくて、いつも成績について言われてて心が折れそうだった。
でもあなたがこの言葉をくれたから、私は前よりも、上を向いて歩けている。
今思えば、屋上が好きだったんじゃなくて、あなたといるこの時間が、とても好きだったんだと私は思う。
私の頬には、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「なんで…」
理由を教えて欲しい。私が、今までみたいにここに来てはいけない理由を。
私の涙を見た彼は、目を見開いて、少しだけ体をこちらに向けた。
でも、それ以上の言葉はなかった。
言いすぎたとか、ごめんとか、謝罪は求めていないけれど、ただ何も言わず、俯いていた。
まるで自分の体じゃないみたいに、私の体は動き出していた。屋上を飛び出し、廊下を走って、走って、走り続けた。
いつも優等生の私が、廊下を走るなんて行為をするはずがなく、心の中には小さな罪悪感が生まれた。
息が続かなくなり、立ち止まった教室は、不運なことにも美術室だった。
私は膝に手をつき、呼吸を整える。
頬の涙を袖で思いきり拭き、美術室に入った。
幸いな事に、今日は誰1人いなかった。
こんな姿を見られなくて済んだ私は、胸をなで下ろす。
里音や百合とも上手くいかず、悲しんでいた私に寄り添ってくれたのはいつも、高嶺君だった。彼は小さく、それでも太い私の心の支えだったのだと、失ってから気付いた。
大切なものは、失ってから気付くものだとよく聞くけれど、私は今、身に染みて感じた。
例を言うなら、水。これは当たり前に存在しているけれど、災害などに遭い、水すらも手に入れられない時が来たら、その人は初めて水の大切さを知るだろう。
私は席に腰を下ろし、美術室全体を観察した。
今、なにかに没頭しなければ、涙がさらに溢れ出てしまいそうだったから。
木の匂い、絵の具の香り、筆の数。
少し汚らしい感じが、私は好きだった。
机に絵の具が付いていても、これは努力の証だと思うし、筆の先がばさばさしていても、一生懸命描いたんだということが伝わるから。
そして私は、彼の絵を見つめる。
彼の目には、私達があんな風に見えていたんだと思うと、嬉しかった。なぜなら、絵の中の私達の周りには、桜の花びらが舞っているし、2人とも笑顔だから。幸せそうだったから。
そう思うだけで、私の心は救われる。だからこそ、今彼が私を嫌う理由を見つけることが出来ないのだ。
時計を確認すると、もうすでに4時を過ぎていた。私は5時から塾があったのを思い出し、急いで美術室を出た。
教室が、夕日に照らされていた。
月日が流れ、私達のクラスは文化祭の1週間前を迎えた。残り1週間と言っても、明後日から連休に入ってしまうため、準備期間は今日と明日と前日の3日間だといっても過言ではない。毎年文化祭前は休日が続くので、今日から文化祭までは、準備のために登校するという定になっているらしい。
正直に言うと、最悪な状態だった。
みんなカフェだから〜とか言って、何一つやろうとしない。
強いて言うなら、装飾係だけがしっかりやってくれていた。教室をカフェのように見せるために、色々な飾り物を作ってくれたり、とても助かっている。
意外なことに、装飾係を引っ張ってくれているのが久美だったのだ。何故だか分からないけれど、久美が最近明るくなり、前よりも楽しそうな日々を過ごしているのが見ているだけで伝わってきた。
どうしてなのか問い詰めようとするけれど、いつも誤魔化されてしまう。
そして高嶺君は、久美とよく話すようになった。同じ装飾係という事もあるけれど、それ以外でも話しているという事を久美本人から聞いていた。
私とは話さないくせに、久美とは話すんだという嫉妬や悲哀の感情が心の中を渦巻いた。
「高嶺君って、美術部なんだね〜」
眼鏡越しの彼女の目は輝きに満ちていた。
彼女は最近、高嶺君の話しかしなくなった。
それに、彼が美術部という事は、私の方が前から知っていた。そんな変なプライドを心の中で唱える。
それに、彼が美術部だということは不思議な事にあんまり知られていない。
その中で久美が彼の口から聞いたのだったら、相当仲良くなったのだろう。
私は無意識の内に爪を手のひらに食い込ませていた。刺激が足りないと思い、少しだけ強くすると、思った以上に痛くて、顔を顰める。
久美が心配してくれたが、私は偽りの笑顔を貼り付けて、大丈夫だと答えた。
てのひらを確認すると、少しだけ血が出てきてしまっていた。
私は御手洗に行くと伝え、彼女のもとを去った。あれ以上一緒にすると、罪のない久美を妬んでしまう。羨ましいと思ってしまう。そう思ったから。
久美は眼鏡をしているけれど、凄く可愛いのだ。一般的にいう可愛いとは違うかもしれないけれど、彼女が放つオーラというのだろうか、それがとても安心する。優しさに満ち溢れているから、一緒にいて落ち着くのだ。
私は手を洗って血を流し落として、久美のもとに戻ろうとした時だった。
教室に入るドアから見えた、2人の姿。
久美の机に、高嶺君が隣に立って何かを話している。恐らくだけれど、彼から久美の所へ行ったのだろう。
私がこの場から逃げようとした時に、ちょうど久美が私に気付いてしまった。
彼女には私が高嶺君のことを好きだと伝えているから、気を遣ってくれたんだと思う。
「美桜ちゃーん!」
彼女は笑顔で私に手を振ってくる。
久美の言葉に、彼が瞬時に反応して、私を見てきた。久しぶりに彼と目があった気がした。
そう思ったのも束の間、彼は目を泳がせ、すぐに逸らした。その後、久美に挨拶をしてその場から離れていってしまった。
私は泣きそうになるのを必死に抑え、彼女のもとに戻った。
好きな人から避けられるというのは、こんなにも辛いんだと、私は初めて知った。
「…ただいま」
「おかえり、美桜ちゃん」
久美は何かを察したのか、少し気まずそうにしていたけれど、意を決したのか、私に訊ねてきた。
「高嶺君と、なにかあったの?」
こんなにも避けられていて、なにもない方がおかしいと思ったけれど、彼女に心配させるわけにもいかなかったので、私は心の中で葛藤した末、言わないという方を選んだ。
「別に、なにもないよ」
「…そっか」
彼女は、少し悲しそうな顔をしながら笑った。
「あのね、美桜ちゃん」
「どうしたの?」
彼女の雰囲気からして、とても大切な事なんだというのが肌で感じた。
私は唾をごくりと飲む。
「私ね、実は」
彼女が勇気を出して言おうとした時だった。
「鈴岡ー、ちょっと来い」
この前と同様、急に現れた先生は、私は呼んで久美の話を遮ってしまった。
「ごめん久美、後ででも大丈夫?」
「うん!全然!」
私は彼女に謝罪のポーズを見せ、先生のところへ向かった。
「どうかしたんですか?」
「みんなのやる気のなさ、どうにかなんないのか?あと3日だぞ?」
先生はなにもしないくせに、文句だけを私にぶつけてきた。
だったら先生から言ってよ、という言葉が頭に過ぎる。
私は溢れ出るため息を精一杯戻しこみ、すみませんと告げた。私が悪いわけじゃないけど、謝るのが手っ取り早いというのを学んだから。
「俺の期待を裏切らないでくれよ」
先生はため息まじりの台詞を私に言った。ため息をだしたいのは私だ。そっちが勝手に期待しただけで、私はなにも裏切るという行為をしていないというのに。
それでも、優等生の私が反抗することなんてなく、ただひたすらに謝った。
先生は皆に一言も言わず、教室を後にした。
「ごめん、久美」
「おかえりなさい」
「それで、言いたい事って?」
お昼休みの今、私達は準備をせず自由に過ごしている。お昼休みじゃなくてもやらない人はいるけれど。
「…言っても、怒らない?」
「怒らないよ」
怒りたくても、怒れなくなってしまったのだ。
「私、高嶺君の事、好きになっちゃったみたいなの」
「え…?」
「ごめん、奪いたかったわけじゃないの」
ほんとに好きになるつもりはなかった、美桜ちゃんが高嶺君を好きだと聞いた時、全力で応援しようとしていたと、早口で付け加えて。
最近の久美が楽しそうながら、やっと分かった。全ての行動に合点がいった。
「今回話し始めて、美桜ちゃんが高嶺君を好きになる理由が分かったっていうか」
理由が分かったから、好きになったっていうの?
私は訳が分からなかった。
どうしてそんなに、友達の好きな人を好きになることが出来るのだろうか。
私の心の奥底に閉まっておいた記憶が、走馬灯のように駆け巡ってきた。
鮮明に覚えている、苦い思い出。
私が中学3年生の時、本当に好きな人がいた。
彼は優しくて、面白くて、でもちょっぴりドジで、そこがまた愛おしくて。
今思えば、特別じゃなかったというのは分かっている。それでもその時の私は、勘違いをして、自分が特別にされていると思ってしまっていた。彼の視線をたまに感じる時があって、勝手に期待する日もあったくらいに。
彼の事は中1の時から好きで、それは幼なじみである遥香にしか言っていなかった。私は今まで異性を好きになった事がなくて、いわゆる初恋というやつだ。最初は外見で好きになったけれど、今は内面も大好きだと言いきれた。
初めての恋に戸惑うこともあったけれど、毎日彼のために頑張ろうと思えた日々だった。
遥香も私の初恋を応援してくれていたし、私も彼女の事を信頼していた。
だからこそ、私は彼女の気持ちに気付くことが出来なかった。自分の視野がとても狭くなっていることにすら、気付けていなかったのだ。
ずっと片思いをして2年が経ち、私と遥香と、好きな人が同じクラスになった。
私は喜び、遥香も同じように喜んだ。
人間関係は作ることや保つことは大変だけれど、壊れるのは一瞬だということを、身に染みて感じた瞬間だった。
「ねぇ、美桜」
「どした?」
「実はね、私も、彼の事好きになっちゃったの。美桜が彼の事好きだって言ってくれた時から、私も意識するようになっちゃって…」
私は彼女がなにを言っているのか理解出来なかった。遥香は涙目になりながら、続けて話そうとする。泣きたいのは私だったのいうのに。
「それでね昨日、彼から告白されちゃって」
彼女の頬に涙が零れる。どうして、遥香が泣くのだろうか。
お願い、続きを言わないで。
そんな私の微かな願いは、遥香の言葉で壊された。
「付き合う事になったの」
当時の私は、その時の出来事が1本で繋がった感覚に陥った。
彼がよくこっちを見ていたのは、私でなくて遥香を見ていたという事。
遊びに誘ってくれたのも、遥香が一緒に来ることを知っていたからだという事。
私の所へ来てくれた時は、必ず傍に遥香がいたという事に。
その全ての事を悟った私は、遥香と言い争ってしまい、今も疎遠になっている。
その時から私は、大切な友達と好きな人が被った時、どうすればいいかを考えていた。
でも、私は思う。
実際、恋愛したら、そのような心の中の考えなんて忘れてしまうのではないかと。
自分が好きになって、その人と結ばれたいと思うように、もう1人の子も、そんな人と結ばれたいと思うのは、自分が1番理解出来るのではないだろうか。
被ってしまったのなら、お互いを蹴り落とすのではなくて、助け合い、報われた方を祝福すればいいと。
でもこんなのは持論に過ぎず、現実はそう上手くいかない。
昔の私の行動が、正しいとも誤っているとも思わない。
人生に正解などないのだから。
自分がその時選んだ道が誤っていると思うのなら、今後の糧にすればいい。
自分がその時選んだ道が正しいと思うのなら、その思いを忘れずに生きていけばいい。
恋愛というものは、たくさんの学びや楽しみ、辛さがある事を知った3年間だった。
誰にも話していない過去が、激流のように、鮮明に流れ込んできた。
「…美桜ちゃん?」
「あ、ああ。そっか」
私は冷静を保とうと努力するも、なかなか上手く呂律が回らない。
「それでね、提案なんだけど」
彼女の言う“提案”というものが、どんなものなのか想像つかなくて、怖かった。
「私は今、高嶺君と上手くいってて、美桜ちゃんと高嶺君は上手くいってないじゃん?」
私の知ってる久美じゃなくなっている気がした。恋というのは、こんなにも人を変えてしまうというのか。
「だから、私文化祭で告白する。美桜ちゃんには、応援してほしい」
彼女の真剣な目が、私を、私だけを捉えていた。逸らすことの許されない、恐怖の時間だった。
彼女は、私が断れない性格だというのを知っていて言っているのだろうか。
「え、っと…」
「美桜ちゃんには、報われて欲しい。だから新しい恋を探そ?」
どうして、久美にそんな事を決められなければならないのだろうか。そう、不思議でならなかった。
先に好きになったのは私だし、彼女が真似をしたというのに。
中学以来、私は友達に反抗した。
「ごめん、私も好きだから、譲れない」
「…え?」
久美は目を見開いた。彼女は、私が絶対首を縦に振ると思ったのだろう。
でも、私だって人間だ。欲求だって感じる。
「私だって、諦めたくない」
私ははっきりと、彼女の目を見てそう答えた。
「どうして?!今仲良くないんでしょ?!」
まるで別人のように、彼女は怒り狂った。
久美の声は、今まで聞いたことないくらい大きくて、教室中に響き渡り、みんなの視線が集まった。
これ、私が悪いみたいになるじゃない。
そう思った私は、久美に場所の変更を申し出た。彼女の手首を掴んで連れていこうとしたら、思いっきり振り払われてしまった。
「美桜ちゃん、なんでも持ってるくせに」
急になにを言い出すんだろう。
私は眉間にしわを寄せる。
「どうして全部もってるくせに、私の大切な人も取ろうとするの?」
私の大切な人って…。反吐が出そうになるくらい、彼女の言動は理解出来なかった。
私の方が先に好きになったというのに。
取ろうとしてるのはあなたの方じゃない。
視界の中に高嶺君がいて、こちらを見ていた。
表情までは読み取ることが出来ないけれど、自分が原因で争っているとは1ミリも思っていないだろう。
久美は周りの反応も気にせず、黙っている私を前に言葉を続ける。
「みんなからの信頼もあって、いつも輪の中心にいて、成績も良くて」
私だって、努力して手に入れた地位なんだということを分かって欲しい。
偶然に、手に入ったわけではないという事を。
でもそれは、彼女に言っても伝わらないんだろうなと私は思った。
だからこそ、私はなにも言わない。
それに、昔みたいに反抗したら、もう二度と、話す事がなくなってしまうかもしれない。こうやって言われているけれど、久美は私にとって大切な友達だ。だからこそ失いたくない。
みんなの視線の先には、私達がいる。
教室中に小さな囁き声がいくつもあった。
久美ってあんな子だったの?とか、美桜ちゃん大丈夫かなとか。
今までの信頼度的に、私が有利になってしまうのは分かりきっている事だった。
そして、私達だけだった世界の結界が、1人のクラスメイトによって壊された。
「久美ちゃん、この空気どうしてくれんの?」
呆れ顔をした一軍の女の子達。
久美は、はっと我を返したのか、少しずつ目を泳がせていく。
さっきまで強気だった彼女の肩が、どんどんと小さくなっていくのが見ていて伝わった。
一軍の女子達にはいつも宿題を見せてあげてるし、休日もたまに出かける仲だから、仲裁に入ってくれたと思いたい。
友達だから、来てくれたと素直に思えたらどんなにいいか。私の頭の隅には、里音の言葉がずっと住み着いていた。
―奴隷的な?―
頭の中でこの言葉を反芻してしまったせいか、小さな立ちくらみが起こる。
私は机に手をつき、自分の体を支えた。
「ご、ごめんなさ」
「うちらの文化祭、台無しにするつもり?」
みんな彼女達には頭が上がらない。暗黙のルールのようなものが、ここには存在していた。
たしかに、久美の言動がこのクラスの雰囲気を明らかに暗くしていた。それでも、もともとあなた達だって話しながら準備もしていなかったじゃないか。
「ち、ちが!悪いのは美桜ちゃんだもん!」
彼女の人差し指が、私の顔を指した。
リーダー的存在の愛莉が、顔を向けず、瞳だけこっちに動かした。
愛莉は大きなため息をついた。久美の肩がびくりと震えた。
「見てる限り美桜悪くなくね?あんたが勝手に怒鳴ってただけじゃん」
愛莉は、鼻で嘲笑うような顔をした。
久美は黙り込み、下唇を噛んでいた。
そして、この場の空気を負けたのか、教室を出ていってしまった。
1粒の涙と、「美桜ちゃんのこと、本当はずっとずっと嫌いだった」という言葉を残して。
私が昔、高嶺君に言ってしまった言葉が、頭の中で再生される。
あの時の私は感情に身を任していて、言っていけない事を言ってしまったと後悔した。
あの時は私が彼に言った側だったけれど、言われる側になるとこんなにも辛いのかと思った。
彼は私に悲しませないために、気にしていないふりをしていたのではないかと。
高嶺君を羨ましいと思っていた私が、彼に告げた言葉。
私を羨ましいと思っていた久美が、私に告げた言葉。
人はみな、自分には持ってないものを持ってる人間を羨ましいと思い、互いに嫉妬するのだろうと私は思った。
去っていった彼女を追いかけるべきなのか、クラスに残るべきなのか。
私の頭の中ではそんな2択を問われていた。
私も悪かった。すぐに、言ってくれてありがとうと、お互い悔いが残らないように頑張ろうねって、言えてたら。
そしたら、遥香とも違う未来が開かれていたかもしれない。
また、同じ過ちを繰り返していたのだ。
人は、次に失敗しないように1度の失敗があるというのに。
私がこの場を立ち去って追いかけようとした時、誰かが私の肩を抑え、前に出た。
「高、嶺くん」
どうして、あなたが追いかけようとするの。
久美の事、好きなの…?
あんなに必死な顔、初めて見た。
私の知らないあなたの瞳には、久美が写っているんだね。
まるで、心に大きな穴がぽっかり空いたような感覚になった。
さっきまでひそひそと話していたみんなが、今度は驚きの声を発した。
「なんで高嶺君が?!」
「高嶺君って久美ちゃんの事好きなの?」
やめて、それ以上、言わないで。
中学のトラウマが頭に蘇る。また、友達と好きな人が結ばれる未来を想像してしまった。
みんながその言葉を言う度に、それが事実と認識していく脳を、私は大きく揺さぶる。
「てかさ、美桜」
愛莉のいつもより低い声が、教室を静寂に包ませた。
「里音から聞いたんだけど、あんた里音の好きなやつ奪ったんだってね」
さっきまで、味方のように話していた彼女が、まるで悪女のように見えてしまう。
愛莉の里音は中学からの親友だと、去年里音から聞いていた。そこから私も愛莉と話すようになり、今年同じクラスになれたというわけだ。
「さっき久美ちゃんの事言ったけどさ、ほんとは両方あんたが悪いんじゃないの?」
「え…?違う!私はただ…」
ここで、高嶺君の名前を出すわけにはいかない。これ以上嫌われないためにも、迷惑をかけちゃいけないんだと、心に植え付ける。
「ただ、なに?」
愛莉は腕を組み、私に話を続けるように顎でくいっと命令してきた。
「……」
私は次の言葉が見つからず、黙り込んでしまった。これを肯定だと受け取ったのか、愛莉の顔が崩れた。
「里音悲しんでたんだからね、ほんと最低」
横にいた彼女の友達も「人の好きな人奪うとかありえな」と続けて言ってきた。
クラスのみんなも、愛莉の言葉を聞いてから、私に向ける視線の意味が変わってきた。
心配の目から、引き気味の目へと。
私の言葉が、喉の奥で詰まっていた。
反論したいけれど、声がでない。
「あんたなんか最初から友達じゃないから」
鼻で笑った彼女は、私を睨んでから教室を後にした。
残された私と、最悪な空気。
「みんなごめ」
私がみんなに謝罪をしようとしたけれど、誰も私の方を見ていなかった。
ほんの一瞬で私が空気のようになった。
頭が真っ白になり、なにも考えられなかった。
今まで、ずっと私を頼ってたじゃん。
今まで、ずっと私と仲良くしてたじゃん。
今まで、みんなが困った時助けてたじゃん。
たくさんの私の努力の積み重ねが、水の泡となった瞬間だった。
私を無視して、みんなは先程までサボっていた文化祭の準備をし始めた。
私がお願いした時、やらなかったくせに。
どうして私の人生は、小説の物語のように上手くいかないのだろうか。
私はこんなにも頑張っているというのに。
教室の雰囲気に耐えきれず、私も教室を後にした。
他のクラスの楽しそうな声が、私の耳に入ってくる。本当なら、私がもっと上手くやっていたら、みんなの思い出があんな風に楽しいものになっていたというのに。
私は1人廊下を歩く。
ローファーの踵の音が、静かな道に音を咲かせた。
どうすれば正解だったのだろうか。
中学の過ちと、今回の過ちを繰り返しても尚、正しい答えが分からないままだった。
行く宛てを考えずに歩いていた私は、徐々に人気のないところに来ていた。
生徒の声がすでに聞こえなくなっていて、私は目の前にある空き教室に入って時間潰しをしようと考えた刹那。
廊下から開ける事の出来るスモークガラスの窓に、2人の人影が映っていた。
ほとんどの生徒は文化祭準備であろうと空き教室を使わないので、幽霊かと思った私は、教室の扉をゆっくりと開けた。
そこには、私が1番見慣れている2人の姿があった。
何かを話しているけれど、会話は聞き取れなかった。
私は急いでその場を後にする。
誰も来ないであろう東棟の階段に、ずっと座っていた。高嶺君が来てくれると、久美の時と同じように追いかけてきてくれると、小さな期待を込めて。スカートに、1粒の涙が零れ落ちたのだった。
長い1週間が終わって、私達は文化祭を迎えた。
ずっと憂鬱な気持ちでいたからか、この1週間体調が優れていなかった。風邪ではないけれど、体が重く感じる。恐らく気持ちの問題だろう。
あの日以降、私はクラスから疎外された。
高嶺君と目が合っても、逸らされるばかり。
みんなが準備をしている中で、私は自分の存在を消し、教室の隅に身を潜めた。
男子は関わると面倒くさそうだからという理由で話しかけてこない。
女子は、愛莉が言っていた“好きな人を取る”という言葉を気にしているのか、私を怖がっている様子だった。
私が好きなのは、高嶺君だけだというのに。
無視をしてくるくせに、私が隅でぼーっとしていると、なぜ手伝わないのかと怒る人達。
さらには、先生に告げ口をした人もいたみたいだった。
あの事件の次の日の準備の時に、私は先生から呼ばれ、なぜサボっているのかと問いただされた。
たくさんのため息を目の前でつかれ、挙句には、「鈴岡には幻滅したぞ」と言われてしまった。ただ謝る事しか出来なかった私を置いて、職員室に帰っていった先生。
今までは、周りしか気にしていなかった私が、幻滅という言葉を言われても、なんとも思わないくらい、私の心は閉ざされていた。
1人取り残された私に向けられた、笑いの声。
「鈴岡が怒られる姿って新鮮だよな」
「幻滅だってさ、かわいそー」
思ってもないくせに、可哀想なんて言葉を使うな。可哀想っていうのは、心のどこかで自分じゃなくてよかったという思いがあるのだから。
人の言葉は凄い。その人の本当の思いを知ることが出来るから。
それに気付いてしまう私の性格上、この世界に私は合っていないのかもしれない。
私はみんなから嫌われた。
手のひらを返したような態度を取るみんなを前に、私はもう人を信じる事が出来なくなってしまった。
中学時代には疎遠になった幼なじみ。
高一の時にできた友達には奴隷扱いされていたという事。
今はみんなから嫌われているという事。
よく、不幸の後は必ず幸せがくるというけれど、私の心にはそんな言葉に信憑性など存在しなかった。だって、私にはまだ幸せが来ていないのだから。
こういう幸せが来る回数も、生まれつき決まっているものだと私は思う。
誰しもが、あの子は自分より幸せそうだと、自分を卑下してしまう事がある。
それが事実だと考えると、その幸せの数は人によって決まっているのだと考えてしまう。
私はそれが少ない方の人間だったという事。
私と同様、1人になった久美は、1人で黙々と装飾している。装飾係の子達は彼女に話しかけない、ただ1人を除いては。
私はもともとまとめ役だったから、みんなを引っ張っていけばいいけれど、もう私は誰からも必要とされていない。
今は高嶺君がみんなを引っ張っているというのが事実である。
彼はもともと目立つ事は嫌いだったから、静かに過ごしていたけれど、私が嫌われてからは彼が代わりにやってくれている。
彼は私を助けるとかは考えていないだろうけれど。
「料理係!現状報告!」
彼が資料を持ちながら、眼鏡をかけて指示を出している。
そんな姿がとてもかっこよかった。
他の女子達も、最近の彼の変化に気付いたらしく、かっこいいとか付き合いたいとか呟いていた。
今回カフェという題だが、私達は装飾係、料理係、宣伝係、ウェイター係などがある。
その中で1番難しいのが料理係。
これは文化祭当日だけ頑張ればいいというだけでなく、もとから料理が出来る人を集めなければならなかったからだ。
お客様に出すということは、美味しくないものを出すわけにはいかないから。
それでもなんとか私が集め、頑張ってくれていたのだ。私はそんな彼女達の努力を、見捨ててしまったという事実を認めたくなかった。
「大丈夫そうよ」
オムライスやパンケーキなど、多くの種類の料理法を勉強してくれたみたいだ。
感謝の気持ちだけでも、伝えたかったというのが本音だった。
「あと少しで学校に客が入ってくる」
みんなが、彼の言葉に耳を傾けている。私が話していた時とは大違いのクラスの雰囲気に、度肝を抜かれた。
彼の言葉には、真実しかないからこそ、頑張ろうと思える。意気込みをもらえる。
もう私だけが知っている彼じゃなくなっていってるのが嫌だった。
「俺達は出来る限りの事をやった、良い思い出に出来るように、全力を尽くそう」
彼がみんなに向けて放ったメッセージ。
彼が言い終えた瞬間、クラス中が歓声に包まれる。私と久美以外のみんなが、笑顔だった。
それぞれの仕事に就けと、彼がみんなに大きな声でそう言った。
仕事のない私は、楽しそうなみんなの中にいたくないと思い、幸せに溢れた教室を後にした。
ドアのところで少し振り返った私は、みんなの注目の的となった彼と、目が合った気がした。今度は、私から目を先に逸らした。
「るーるらーらーる」
私は好きな曲のサビ部分を鼻歌で歌う。
廊下の壁を指でなぞり、ゆっくりと足を前に出して進んでいく。
私は1人抜け出し、東棟の階段に身を潜めた。
私なんかが抜けても、誰も気付かないだろうし、ましてや空気が明るくなるんだろうなと、期待に満ち溢れている教室を思い浮かべる。
私は頬杖をつき、唇を噛み締める。
湧き上がってくるたくさんの負の感情が、私の体を、心を、支配していく。
この1週間で、こんなにも変わってしまった世界が、私はまだ夢としか思えなかった。
それくらい、私にとって非現実的な出来事だったのだから。
みんなから嫌われるなんて、思ってもみなかった。
今回の出来事を体験して、人間という存在が怖くて仕方なかった。
人は自分のためにしか生きられない。どんなに優しい人でも、心のどこかでは必ず見えない闇がある。
よくよく考えてみれば、私はもともと好かれていなかったのかもしれない。優等生という殻を身につけている私は、みんなから良いような駒としか見えていなかったのだと。
みんなが話しかけてくるのは、なにか頼み事をされる時だけだったという事が、今になって気付いてしまった。
客観視すれば、自分がどのような局面にいるのかということが分かるというのに、私はその時の幸福で満足してしまっていた。だから、視野がとてつもなく狭くなっていたのだ。
どんな事にも終わりがくる。
それは悲しい事だけれど、次に進む1歩だと私は思う。出会い、別れ、そしてまた出会いがある。そうやって人間は生きていくのだ。
春が来て、桜が散り、夏がくる。
秋の肌寒い風が吹き、雪が降る。
そして雪が熔けて、春が訪れる。
日本という世界は、本当に綺麗だなと思う。
季節を感じ、また新たな世界を旅する。
知らない自分と出会い、友と喜び、悲しみ、称え合う。
こんなにも素晴らしい世界を生きることが出来ている私達は、とても幸せなのだと感じる。
当たり前というものは、身近だからこそ、その大切さや美しさを見失ってしまう。
どんなに美しいものがあったとしても、それが当たり前に存在するなら、それは誰の目にも止まらない。そのような小さな幸せにどのくらい早く気付けるかが大切なのだと思う。
時間は有限なのだから。
気が付けば、私の涙が瞼に溢れそうになっていた。目頭がじんと熱くなる。
私は優しく涙を拭い、体を小さく縮こめる。
太陽の光が、横にある小さな窓から入り込んできた。
この場所は、今の私にとっての、憩いの場となっている。
時刻は10時13分。もうすでに、生徒の親や近所の人が入ってきているだろう。
私は小さなため息をこぼす。誰も来ない静かなこの場所で、儚く消えていった。
私は重い体をゆっくりと持ち上げる。
大きく伸びをすると、久しぶりに動いて悲鳴をあげているかのように骨の音が小さく鳴った。
私は息をはいて、西棟へと戻ることを決意した。途中で投げ出す事が、1番嫌だったから。
教室を覗くと、そこにはたくさんの人が来ていた。他校の生徒だったり、在校生であったり、はたまたご老人であったりなど、そこには笑顔が満ちていた。
辺りを見回していると、そこにはウェイター姿の高嶺君が料理を運んでいた。おそらく、あまりの人の多さに、ウェイターが足りず、優しい彼だから、まとめ役且つ忙しいウェイターも引き受けたのだろう。
普段は制服姿だし、夏休みに海に行った時のはラフな私服だったから、あんな彼を見るのは初めてだった。
かっこいいなと、見惚れてしまう。
さっきまで曇っていた私の心に、太陽が現れたかのような気持ちになった。
私は無意識のうちに彼の元へ向かっていた。
拒絶される恐怖は、なかった。
「高嶺君」
彼は目を見開き、すぐに眉間にしわをよせた。
「なんだよ」
「私にも、手伝える事はないかな」
汗を袖で拭った彼は、私にこう言った。
「そんぐらい自分で考えろ、今、誰がどこで鈴岡を必要としているのか」
辛辣な言葉だったけれど、嫌な気分だとは思わなかった。そして、久しぶりに名前を呼ばれた事が、何よりも嬉しかった。
「私を必要としている場所…」
彼の綺麗な瞳が、なんの迷いのない瞳が、私だけを見つめていた。
私は探偵のように、高嶺君が言っている言葉の意味を閃かせる。
「料理係の人達、手伝ってくる!」
彼だけが知っている、私の得意分野。
彼には昔、ほんの少しだけ話した事がある。
家に帰っても家事をしなければならないから、勉強する時間がないということを。
それを、覚えていてくれたんだと私は思った。
「ああ」
お互いが、前のように自然と話せていた。
それでもやっぱり、彼と私には、大きな溝が出来ていたのも事実だった。
「なにか、私に出来ることある?!」
裏側に急いで駆けつけ、私はみんなに問う。
「え…美桜ちゃん?」
今まで空気となっていた私が急に現れたのだから、誰でも驚くだろう。
案の定1人の料理係の子がびっくりしていて、口が閉じなくなっていた。
彼女は我に返って、私にこう言った。
「実は、1人火傷しちゃった子がいて、人手が足りてないの」
彼女は手際よく料理をしながら、私と話している。
「そっか、ごめんなさい」
「どうして?」
「私は途中でみんなを見捨ててしまった、頑張ろうって決めてたのに、私はまた逃げてしまったから」
こんな事、彼女に言っても困らせるだけなのは分かっていた。それでも、この気持ちを誰かにぶつけなきゃ、私の心がもたなかった。
「私はね」
彼女は料理を作り終え、他の生徒にお品物を渡した。
「いつも、自分の気持ちを言うことが出来なかったんだ。全部言ってしまったら、相手を傷付けてしまうって知っちゃったから」
彼女が語る言葉は、まるで私の鏡のようだった。過去の私と境遇が似ていたから。
私は過去に自分のありのままの気持ちを伝え、傷付けてしまい、みんなを救う存在になるために努力した側の人間。
彼女もまた、過去に誰かを傷つけてしまったのだろう。それでも私とは逆に、誰かを傷付けるくらいなら、発言を控えようと心の窓に鍵をかけた側の人間。
似たような過去を持っていても、その時の選択によって、人はこんなにも未来が変わってしまうのだということが、身に染みて感じる。
たった一つの行動が、自分達の将来を簡単に変えてしまうのだ。
それは、良い方向に行くかも、悪い方向に行くかも分からない。
最終的なゴールを幸せにするために、私達は日々選択して生きているのだと思う。
その選択によっては、別れがあり、そして出会いがある。
この世界には多くの人がいる。その中で同じ国に生まれ、同じ環境化で成長して、出会い、友達になる。それ以上を求めるなら、恋人だ。
恋人は、お互いが好きにならなければ結ばれることのない。たくさんの人がいる中で、お互いが相手を想うというのは、奇跡に近いだろう。
私は、彼女の言葉に相槌を打ち、ただ静かに見守った。
「だからね、私はいつも美桜ちゃんが羨ましかったんだよ。みんなから必要とされてて、私とは真逆だったから」
「うん」
「でも先週、美桜ちゃんはみんなから悪い目で見られるようになったよね。あ、悪く言ってるわけじゃないよ?」
「うん、分かってるよ」
「だから、私と同じなんだってちょっとほっとしてたのも事実なの、ごめんね。」
私は小さく頷いた。人は、自分の弱い部分と同じ人間を探し求める。
私達は違うけれど、みんな同じ。
説明するのは難しいけれど、言いたいことは、自分を守れるのは自分しかいないのだということ。
みんな、自分が周りとは違うという現実が怖かったり、恥ずかしかったりすると思う。
それでも、その人の人生はその人だけのものだ。周りがとやかく言おうとも、生き続けなけばならない。どんな場面に打ちのめされようとも。
「私はね、あの時、声を上げるべきだったって後悔してる」
彼女は悲しみの表情を浮かばせる。
私からしたら、そう思ってくれている人がいたという事だけで嬉しかった。
「みんな美桜ちゃんの事悪く言ったとしても、私は美桜ちゃんを信じるよ」
今まで友達を助けてた人が、あんな事するはずないもん、と彼女は満面の笑みでそう言った。
また、目頭がじんと熱くなった。
あの日、久美のぶつからなければ、得られる事の出来なかったものだった。
どんなに辛くても、その先ではまた新しい出会いがあることを信じて生きていく。
私は俯き、徐々に増えていく涙を軽く拭いた。
「あり、がとう」
私は鼻水をずずっと啜って、彼女に感謝の意を表した。
「よし!じゃあオムライス作って!」
彼女はそう言って腕を捲り、調理にとりかかった。
オムライスは私の好物でもあるから良く家でも作っている。私にはもってこいの料理だった。
玉ねぎとピーマンをみじん切りにして、ソーセージを1口サイズに切っていく。
中火で熱したフライパンにバターを溶かし、先程切った玉ねぎ、ピーマン、ソーセージを入れていく。玉ねぎがしんなりしてきたらお米を入れ、ケチャップと共に混ぜる。これでケチャップライスの完成だ。
つぎに、ボウルに卵を入れ、かき混ぜる。
程よくかき混ぜたら熱したフライパンにサラダ油をかけ、卵を入れる。半熟状になったら火を止めて、最初に作ったケチャップライスをお皿に盛り付け、上に卵を被せる。
そして最後にケチャップをかけたら、完成だ。
我ながら上手くできて胸を撫で下ろす。
私はそれをウェイター係に渡さず、自らお客さんに運ぼうと考え、表へと出る。
そこには、見慣れた女性とクラスメイトが話していた。周りの雰囲気とは違う、少しだけ重苦しい空気が漂っていた。私は2人の元へ駆けつけ、話しかけた。
「お母さんと高嶺君、知り合いなの?」
「え?あ、美桜じゃない」
お母さんは明らかに焦った表情を顕にした。
これは教えてくれないなと思い、高嶺君に視線を向ける。彼もまた、私と目を逸らした。
私はもう一度2人に問いただす。
「2人、知り合いなの?」
お母さんがギクッと体を強ばらせた。
「いや、違う」
彼が即答した。それが逆に怪しかったけれど、私はなにも言わなかった。
「今コーヒーを頼んだだけよ」
お母さんは冷静を取り戻し、注文しただけだと話した。争い事をもう招きたくなかったから、私はそうなんだと表上納得してあげた。
「そういえば、美桜は料理担当なの?」
「え?ああうん、そんなとこ」
私は彼の方に目線を向けず、今まで何も無かったかのように、お母さんに話していく。
「美桜はしっかりしてるから、まとめ役でもやってるのかと思ってたわ」
実際、最初はそうだったのだけれど。
心の中でそう発言するも、口には出せなかった。なら今は?と思われるから。
「あはは」
私は軽く苦笑いをし、オムライスを届けるためその場を後にした。
「おまたせしました」
私が届けたお客さんは、ご老人の夫婦だった。
私はそれを机に置いて、裏側に戻った。
一通りの山場を超え、私達は安堵の息をもらした。
意外にも繁盛して、大忙しだったお昼時は、まるで台風のように過ぎ去っていった。
「おつかれ、美桜ちゃん」
「お疲れ様、高木さん」
「莉乃でいいよ、私も美桜って呼んでいい?」
彼女は額の汗を拭きながらそう訊ねてきた。
「もちろん、よろしくね莉乃」
私達は一緒に笑い合い、お疲れ様を込めたハイタッチを交わした。
3時に文化祭を終え、私達は5時から始まる後夜祭に向けて片付けをするところだった。
教室に入るのが怖い。
莉乃という新しい友達が出来たけれど、また久美のように裏切られたらどうしようと考えてしまう。本当は、裏では妬んでいるのではないかと。
私は頭を振り、頭の中で浮かんだ言葉を取り消した。どんな結果が待っていようとも、私は莉乃を信じると決めたのだから。頭では分かっていても、心が今までの体験によってそれを肯定してくれなかった。
私は震えた手を教室の扉を開けた。
みんなの視線が、私を捉える。
みんな気まずそうに目を泳がせ、1度止まった手を動かし始めた。まるで、私が見えていないかのように。
怖くて足が竦んでしまいそうだったけれど、力を振り絞って地面に圧をかける。
私は大きく口を開けていた。
「迷惑かけて、ごめんなさい!」
そう言って頭を思い切り下げた。
みんなの顔が見れない。
声が震えていた。両手を握り、手の震えだけでも抑えようと思ったけれど、無理だった。
「…みんな、聞いて欲しい」
頭の先から、私の知っている声が静かな教室に響く。
「美桜は、頑張ってたよ」
彼女が、莉乃が、私の盾となってくれたのだ。
彼女は過去にトラウマを抱えている。そう言っていた。
それでもなお、私のために声をあげてくれたのだ。その事実だけでも、私の瞳には涙が溜まっていて、今にも零れそうだった。
「みんな、本当に美桜が友達の好きな人を取る人だと思うの?」
私は頭を上げ、みんなの反応を確認する。
いくつかの生徒が、彼女の言葉を聞いて俯いた。
「私は違うと思う、違うって信じてる!第一、みんなは噂でしか聞いてないのに、なんでそっちだけに耳を傾けるの?」
彼女もまた、私と同じように涙を溜めていた。
「美桜の言葉にも耳を傾けてよ、今までみんなを引っ張ってくれた子を、今度は私達が助けようと思わないの?」
もう、涙を堪えることは私には出来なかった。
私の口から、嗚咽が込み上げた。
まるで、泣く事を止める方法を知らない子供のように。
「美桜は1度逃げてしまったけれど、またこうして戻ってきてくれた。料理係が大変な時、いつもみたいに助けてくれた」
噂だけで彼女という存在を決めつけないで、きちんと本当の美桜を見てあげてと、彼女は涙を零しながらそうみんなに告げた。
教室がまた、静寂に包まれた。
「鈴岡さん、ごめんなさい」
1人の女の子が、私に頭を下げてきた。
それに続いて、いくつかの生徒が同じ言葉を口にする。
私は唖然としてしまい、その子たちを見つめていた。
愛莉は唇を噛み、私を睨んでくる。
計画が失敗したとでもいうかのように。
「俺も悪かった」
「鈴岡には色々助けられてるからな」
男子も女子と同様に謝ってくれた。
私は彼らの言葉を受け取り、笑顔を浮かべ感謝を述べた。本当の笑顔を見せたのは、久しぶりの事だった。
準備をおえ、私達は後夜祭に参加した。
みんなで校庭に集まり、キャンプファイヤーをするという企画だった。
夜は肌寒くなるこの季節にはとても良い企画だなと感心する。
そして、この後夜祭で男女が結ばれるというのが昔からの言い伝えだとか。
正直私は信じていないけれど、恋をしている乙女にはとても喜ばしいことだと思った。
私は高嶺君を探そうとするが、彼には嫌われているというのを思い出す。
お昼の時は仕事が関係していたから彼も私と話してくれたのだとわかっている。それでも、やっぱり私は彼が好きだ。
たとえ彼が久美を選ぼうとも、私は彼を好きになった事に後悔はなかった。
私は莉乃と一緒に校庭に向かった。
片付けの時、私はクラスの1部の子達と仲を取り戻すことが出来た。それも全部、彼女のおかげだ。私は彼女にありがとうと改めて伝えた。
「なにに対してのありがとう?」
「全部だよ」
彼女はなにそれといってくすりと笑った。
私もつられて小さく微笑む。この小さな会話さえも、私にとっての宝物になるだろう。
「もう少しで、キャンプファイヤーが始まります、校庭にお集まり下さい」
放送部の声が響き渡り、後夜祭が始まるという事を実感してきたみんなは、より大きな歓声を上げた。
私もそんな彼らを見守りつつ、莉乃との談笑を楽しんでいた。そんな時。
「なあ莉乃」
クラスは違うけれど、学年では明るいムードメーカーで人気の男子が話しかけてきた。
「どうしたの?」
名前で呼んでいるという事は、親しいということなのだろうか。
私は状況が理解出来ず、瞬きを繰り返す。そんな私に、彼女は説明してくれた。
「大輝とは、幼なじみなの」
そういうことか、と私は手のひらに握り拳をぽんと叩いた。
「莉乃、キャンプファイヤー、一緒に見ないか」
いつも明るい彼が、ぎこちなく言う。
おそらく緊張しているのだろう。
「大輝、耳赤いよ?」
「はあ?!火のせいだろ」
「まだ火、ついてないけど」
そんな漫才のような彼らの会話に聞いて、私は微笑ましく思った。
彼は、莉乃のことがずっと好きだったんだと見て分かったから。
莉乃はちらりと私の方を見た。多分、自分が行ったら私が1人になってしまうと心配しているのだろう。
そんな彼らの邪魔はしたくないなと思った私は、行ってきなよと彼女の背中を押す。
「私は大丈夫」
正直1人は少し心細いけれど、心配させたくなくて、私は笑顔を作った。
私の表情を見て安心したのか、彼女はごめんねと言って彼と共に薪の方へと消えていった。
冷たい秋の風が吹いた。私は両腕を擦り、寒さに耐えようとしたけれど、もともと寒がりの私にとっては辛かったため、教室に置いてきたブレザーを取りに行くことに決めた。
生徒はみな校庭に集まっているから、校内は静かで物音すらしなかった。
まるで夜の学校に忍び込んでいるみたいだ。
私は怖くなり、少し早足で教室へと向かった。
少し経って教室が見える場所まで来ると、私は驚く。誰もいないはずの私の教室に電気がついていたから。
最後に出たのは私と莉乃だった。その時きちんと電気を消してきたはずなのに、と私は不思議に思った。
少しだけ空いてる扉の隙間から、目を細めて中を確認すると、そこには高嶺君と久美の姿があったのだ。
周りが静かなおかげで、2人の会話は私の耳にも届いてきた。
「来てくれてありがとう」
「ああ」
「あのね、高嶺君」
「なんだ?」
「ずっと前から好きでした、私と付き合って下さい!」
ずっと前からって、私に比べたら短いでしょと思いながら、私は2人の会話を盗み聞きしていた。心の中では罪悪感があったけれど、私だってブレザーを取りに来ただけで、ちょうど鉢合わせてしまったのだという言い訳を頭の中で浮かべる。
「…ありがとう」
彼は優しく微笑んだ。その笑顔は、私以外に見せないでほしいというのが本音だった。
「でも、ごめん」
「…理由を、聞いてもいいかな」
久美は泣きながら、きちんと現実に向き合っていた。切実に、強い子だなと思った。私なら、きっとその言葉を聞いた瞬間、逃げ出してしまっていただろう。
「ずっと前から、守りたい子がいるんだ」
彼に大切な人がいる。それは、私自身も初めて聞く事だった。私の恋も、ここで終わるのだと覚悟してしまった。
「ずっと前って、いつから?」
「10年くらい前かな」
彼女は真剣に彼の言葉を待っていた。その瞳は誰よりも強い心を持っていると私は思った。
「その子とは本当に偶然再会してね、無理してみんなの前で笑ってる彼女を嫌いになったよ。それでも、俺は彼女を守らなきゃいけないんだ、母さんと同じようにね」
「じゃあ高嶺君は、お母さんのためにその子を守るって事?自分の意思じゃないの?」
「いいや、自分の意思だ。最初は母さんのようにって思ってたけど、いつの間にかその子自身を幸せにしたいと思うようになったんだ」
「そっ…か…」
彼女は俯き、握り締めているスカートにしわを作った。とても強く、でも、私には彼女がとても弱く見えてしまった。
「理由は言えないけれど、昔その子を恨んだ。再会した時は同一人物だと気付かなくて、どんどん彼女を好きになっていったけれど、好きだと自覚した時に、同じ子だって知ったんだ」
久美は小さく頷く。本当は聞きたくないだろう。好きな人の好きな人の話を。それでも向き合うために、この恋に終止符を打つために、戦ってるんだ。
「彼女の事は好きだけど、でも、決心出来ないんだ、自分の思いに。これからも一緒にいたいと望んでいる相手を、また恨んでしまうんじゃないかって」
彼は、あまり自分のことを話さない。
だから私も初めて聞く事ばかりで、戸惑ってしまう。彼にも、あんな悩みがあったんだということに。
「別に恨んでもいいじゃん」
久美が、彼を見つめてそう言った。
彼は彼女の言葉に目を見開いて、驚いているのが見て分かった。
「恨んでも、高嶺君が好きになったのなら、その本当の心を信じるべきだよ」
私の知らない久美を見ているかのようだった。いつも微笑んでいた彼女は、自分の思いを伝えるのが苦手なのだと思っていたから。
でもそれは上辺の彼女だったのだと気付く。
誰もが、本当は自分の気持ちを言いたい。でも伝えたら相手が気付いてしまうという恐怖が心のどこかであるから、伝えられないんだ。
多分、高嶺君は昔に伝えたかった事を伝えられなかったから、今後悔しているんだと思う。
だから今の彼があるのだと私は思った。
「その子が羨ましいな」
「神田もよく知ってるやつだぞ?」
「え?」
彼が口を開けた瞬間、放送部の声が彼の言葉をかき消した。
「後夜祭の始まりです!」
扉の部分からは聞き取れなかったれど、久美の表情的に、彼女には聞こえたんだろう。
彼女は目を見開き、自嘲の表情を浮かばせた。
「やっぱり、なんでも持ってるじゃん」
彼女はそう告げて、大きな涙を瞳からポロポロとこぼしたのだった。彼は何もせず、ただ傍に立って彼女を見つめていた。
文化祭が終わり、12月を迎えた私達の手には、夏休み直後に受けた模試の結果が握られていた。
結果は、正直良くなかった。
総合順位の1桁を狙っていたけれど、結果は18位。傍から見れば嫌味かよと思われるかもしれないけれど、私のクラスは学年で1番上なのだ。その中で18位というのは低い方なのである。
「莉乃、模試どうだった?」
放課後をむかえ、私達は今日オープンの喫茶店に来ていた。彼女はずっと前からここに来たかったらしく、それでも一緒に行く友達がいなくて困っていたそう。
私はクリームソーダを飲みながら、模試の結果表を眺めていた。
「私ね、今回よかったよ」
彼女はバナナチョコレートのパフェを食べながら、私の質問に答えた。
「何位だったの?」
「6位だよ」
彼女はピースを作って、私に満面の笑みを見せてきた。ロングの髪をポニーテールで束ねていて、綺麗なアーモンド型の目に、綺麗な鼻、細い唇、シャープな輪郭。まるで韓国アイドルのような彼女は、私の憧れだ。
彼女は知らないらしいけれど、莉乃は裏で“高嶺の花”と呼ばれている。
なんでも持ってる彼女が羨ましいと思ってしまう。それでも、私の良さを忘れないで自分と向き合うと決めた私に、憧れという言葉は自分の辞書から消した。
「すごいなあ莉乃は」
「美桜だって頑張ってたじゃん」
頑張っても、結果に繋がらなければ意味がない。私はもうその言葉の重さを知り尽くしているの。
お母さんが見てるのは、結果だけだから。
相変わらず成績に厳しい。来年には受験が控えているというのもあって、最近はさらに厳しくなった気がする。この模試の結果を見せたらなんと言われるのか目に見えてきた私は、家に帰る時間が近付くにつれ、気分が沈んでいく。
せっかく彼女との楽しい時間を楽しもうと思っていたのに、お母さんの存在が頭をチラつかせ、私の不安を向上させていった。
「美桜?大丈夫?」
汗すごいけど、体調悪いの?と、彼女は優しい声でそう言い、私にハンカチを手渡してくれた。
お母さんの存在が、私の心を蝕んでいく。
こんなにも大きいものになっていたなんて、知らなかった。
私は彼女にお礼を言って、ハンカチを借りた。
最初に貰った無料の水を飲み干し、呼吸を整える。
大きく深呼吸をして、ようやく正常を取り戻した私に、彼女は安堵の息をもらしていた。
「なにかあったの?私で良かったら話聞くよ?」
心配の思いがこもった瞳が、私を真っ直ぐに見ていた。
「実はね」
私は高嶺君と同様、彼女にもお母さんとの関係を話した。
成績に過剰に厳しい事。
親子じゃありえないくらいの束縛。しかしこれに関しては、私が昔事故に遭ったことがきっかけで過度な心配性になってしまったこと。だから余計に恨めないこと。
その他諸々の出来事も彼女には話すことが出来た。
「聞いてくれてありがとう」
私は彼女に頭を下げた。
口にして言葉に出したからか、体が少しだけ軽くなった気がする。
彼女には助けられてばかりの自分に、彼女にとって私の存在価値とはなんだろうと毎回思ってしまう。
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
私は頭を上げ、彼女と目を合わせた。
彼女もまた、私をじっくりと見つめていた。
「私はお母さんもお父さんも成績には厳しいけど、めっちゃ成績!ってわけじゃないし、事故にも遭った事はないから心配性ってわけでもない」
彼女は自分の境遇を淡々と私に話した。
私との違いが明らかで、私の家がおかしいというのは聞いていて伝わってきた。
「でもね、逆に心配性じゃないってことは、心配はしてくれると思うんだけど、多分危機感は持ってないと私は思うの。だからいざ、私が今日帰りに事故に遭うとしたら、それはお母さんとお父さんにとって凄く衝撃的な事で心への衝撃が強すぎる」
私は大きく頷いた。彼女は、まるで小説の主人公のような言葉を口にする。
「だから、最初から危機感を持っていれば、心への衝撃は多少なりとも少なくなる。過去にもう体験した恐怖は、今後の糧になるだろうね」
彼女は店員さんがちょうど運んできたカフェラテをゆっくり混ぜながら、そう語った。
私はそうだねと、小さく呟いた。
少し曇ってきた空を眺めながら、私達は別れを告げた。
「ただいま」
「あら、おかえり美桜」
お母さんは鼻歌を歌いながら夕食を準備していた。なにかいい事があったのだろうか。
「何かあったの?」
ありのままの疑問をお母さんにぶつける。
「実はね、彼氏出来たの」
ああ、またか。私の感想はそれだけだった。
私のお母さんは歳の割にとても綺麗で、定期的に彼氏を作ってくる。いつも長ければ1ヶ月くらい、早ければ2週間程度で別れてしまうけれど、付き合っている期間はとても幸せそうなのだ。
でも、別れた時は本当に大変。
もう無理死のうと言いながらお酒をたくさん飲み、私が必死に留め、お母さんが泣き疲れて終わるというのがいつもの流れ。
お母さんが幸せそうなのは、私も凄く嬉しいけれど、もう誰も失いたくない。
死のうとか、簡単に言わないで欲しい。
私はお母さんにおめでとうと伝え、部屋に向かった。
私はふぅと小さなため息を静寂の部屋に吐き捨てる。
「彼氏、か…」
私はまだ彼氏が出来たことがない。
好きになった人は、中学の人と高嶺君だけだから。
自分の恋が実るのはいつなのだろうかと、日々考えてしまう。
どうせ辛い思いをするなら、諦めた方がいいのではないかと。
この思いをどこにぶつければ、私の心の中に晴れが来るのだろう。
疲れ切っている体を動かし、ベッドにダイブした。昔、埃が舞うからやめなさいと怒られていたけど、今の私にそんな言葉は意味を成していなかった。
枕の横にある本棚から、今読み途中の小説を取り出す。
「私の恋の行先は」
私はぼそりと、小説の題名を口にする。
これは、在り来りの青春恋愛物語。
それでも、主人公の恋愛が私の境遇と似ていることから感情移入をしてしまい、喜怒哀楽を主人公と共にしている。
もう2人が結ばれるシーンまで読み終えている私にとっては、とても喜ばしいことだった。
だからこそ、私も高嶺君とって期待してしまうんだ。
私はお母さんに呼ばれ、現実に引き戻された。
大きな声で、はーいと返事をし、夕食があるリビングへと向かった。
「今日はハンバーグ!」
お母さんは手を広げ、どうだ!とでも言うかのように笑って見せた。
「うん、凄く美味しそう」
昔からハンバーグは、私の大好物だ。
「ほら、食べて食べて」
「いただきます」
そう言って私は箸を持ち、ハンバーグを1口サイズに切って頬張った。
「美味しい…!」
「でしょでしょ」
久しぶりに食べたお母さんの料理は、とても温かくて美味しかった。
味ももちろん良いのだけれど、美味しく感じる理由は、お母さんと一緒に食べているからだろう。今日は新しいバイトの子が入ったらしく、夜勤の仕事はないらしい。だからこうして一緒にいてくれてるのだ。
1人の時よりも、美味しく感じる。
私はごくりと飲み込み、また1切れ口に入れた。
「ねえ、美桜」
「ん?」
「高嶺君とは、どういう関係なの?」
お母さんの口から高嶺君という単語が出たことに驚いてしまい、味噌汁が変な器官にいってしまい、咳をこんでしまった。
「高嶺君と、仲はいいの?」
お母さんが続けて質問してきた。
正直、前は仲がよかったと思う。でも今はと聞かれると、仲良くはないだろう。
「普通、かな」
私はいつも笑顔を貼り付け、そう答えた。
これが模範解答だと思ったから。
「そう、なのね。良い友達を持ったね」
お母さんは顔をひきつった表情を見せたけれど、すぐに優しそうに微笑んだ。
「高嶺君がどうかしたの?」
今度は私から質問したけれど、誤魔化されてしまった。
「なんでもないよ」
「…そっか」
お母さんは自分が言わないと思ったことは断じて教えてくれない。それを知っていた私は、聞くのを諦めて、ハンバーグをまた口にした。
「ご馳走様でした」
私は両手を合わせ、そう言った後食器を洗っていく。
私達家族は、家事を分担している。
仕事をしているお母さんを楽してあげたいと思う。でもまだ高校生の私が出来ることは限られていて、私は手伝いという結果を出した。
食器を洗っていたら、すっかり忘れてきた模試の事を思い出してしまった。
お母さんは今、機嫌がいい。もしかしたら、低くても許してもらえるかもしれない、そんな期待を込めて、模試の結果表を取りに戻った。
「お母さん」
「どうしたの?」
「模試の結果、返ってきたの」
笑顔でテレビを見ていたお母さんの顔が、一瞬で冷たい空気を放った。
冷や汗が、私の頬を伝る。
「…見せなさい」
夕飯の時とは別人のようなお母さんの顔。
覚悟はしていたけれど、恐怖という霧が私の心を埋め尽くす。
「うん」
それだけ言って、私は模試結果が書かれている紙をお母さんに渡した。
「…18位」
お母さんは順位だけを冷たい声で告げた。
私は無意識に爪を手のひらに食い込ませていた。唯一、私を保ってくれる刺激だった。
怖い、逃げ出してしまいたい。
何度そう思っただろう。ずっとずっと、お母さんが怖かった。
けれど、今変わらなければいつ変えるんだと心の中で叫んで、私は立ち向かう。
それと同時に、人間という生き物はそう簡単に変わることは出来ないという事も、私はよく知っている。
「どうして、こんなに低いの?」
自分でも分かっている、今回の結果を招いた原因を。
分かっているからこそ、答えたくなかった。
お母さんに、そんなことだけで成績を落としてどうするのと言われたくなかったから。
「……ごめん、なさい」
やっぱり、昔と変わらない。
謝ることしか出来ない私が、また蘇った。
お母さんは大きなため息をだし、握っている紙の部分に少しだけしわをつくった。
「謝るんなら、きちんと結果に残しなさい。あなた来年受験なのよ?まだ1年あるじゃないの、もう1年しかないのよ?その意味、わかってるの?」
昔、お母さんは受験に失敗したと言っていた。
まだ1年あるという言葉に甘えて、勉強を怠ったせいで第1志望の大学に受かれなかったらしい。
なら留年すればいいという考えもあったけれど、1個下の子達と勉強するというのはプライドが許さなかったのだろう。お母さんは滑り止めの大学に入学し、自分の夢を断念したと。
自分の失敗を娘にして欲しくないと思っているのだろう。
それでも、私の人生は私のものだ。
親だとしても、決められたくない。
そう口に出来たらどれだけ楽になるのだろう。
「分かってるよ」
「私はあなたに、昔の自分のように失敗して欲しくないの」
それはただの言い訳にすぎないのではないかと思った。自分の考えを押し付けて操作しやすくするための口実にしか、私の耳には聞こえなかった。
「うん、分かってる」
「はあ…お姉ちゃんはちゃんとやってくれたのに、何を間違えたのかしら」
いつも“お姉ちゃん”って、私は私だよ、お姉ちゃんじゃないよ。
間違えたなんて言わないで、私も頑張ってるんだよ。
そんなことを言っても、意味がないのはわかっていた。だから何も言わず、ただ歯をくいしばった。
「もう、いいわ」
私の心臓が、ドクンと大きく鼓動を鳴らした。
お母さんが突き放った言葉は、私に対してもう期待も願望もないということなのだろうか。
私は諦められた、呆れられたということなのだろうか。
「お母さん…?」
「普段の定期テストだっていつも2位じゃない。いつになったら1位を取れるの?」
お母さんの冷たい瞳と声が、私の五感を強く刺激した。
「そ、れは…次こそは…!」
「いつもいつも次って、その次はいつ来るのよ」
私だって、1位を取ってお母さんに褒められたいよ。それでも、無理なんだよ。
私には取れない、取れないの。
どんなに努力しても、高嶺君には届かなかった。私はその時、生まれつきの才能というものに打ちのめされた。
「お母さんは何も言わないわ、好きにしなさい」
どんな言葉よりも、どんな酷い言葉よりも、1番言われたくなかった言葉だった。
見捨てられたんだ、私。
もう、期待もされずにただ毎日を過ごしていかなきゃいけないんだ。
じゃあ私は、なんのために生きればいいのだろうか。
お母さんはそう言って、模試結果の紙を机に置いた。そして、リビングを後にした。
私は喪失感に打ちのめされていた。
今までのお母さんは、次こそ1位を取ってねと言ってくれていた。当時の私にとってプレッシャーでしかなかった言葉だったのに、見捨てられるまでその大切さに気付けなかった。
声をかけてもらえてる時に、頑張らなければならないということに。
体に力が入らなくなり、その場で膝から倒れ込んでしまった。
ありえない、こんな事、起こっていいものじゃない。
きっと夢だ、そう夢だよ。
私が、お母さんから見捨てられるわけがない。
だって、頑張ってきたもん。ずっとずっと、褒められるだけに努力してきたんだもん。
体が、痙攣している。手のひらを確認してみると、微かに震えていた。
だから、夢だって。震える必要なんてないんだってば。
私は心の中でそう自分に叫び、手の震えを必死に抑えようとした。
でも体は言う事を聞かず、ただずっと震えていた。まるで、体がこれは現実だとでも言っているかのように。
その日の記憶はあまりない。ただいつの間にか自分の部屋にいて、すやすやと泣きながら眠ってしまっていた。
翌日、朝起きた私の目は腫れていて、顔も浮腫んでいた。
そんなことも気にせずに、私はお母さんに挨拶もせず、家を出て学校に向かった。
本当は昨日の事を言いたかったけれど、口を聞いてくれるのか分からなかったから、無視されるくらいならこっちから話しかけないようにしようと考えてしまったのだ。
いつから私はこんなにも酷い人間になってしまったのだろうか。
人間は自分が気付かぬ間に、どんどん成長していってるのかもしれない。
学校に着き、教室の扉を開くと、そこには誰も居なかった。
当たり前だ、まだ時刻は7時。生徒がいる方がおかしいだろう。
私は荷物を置いて、久しぶりに屋上に行こうと考えた。
文化祭後、高嶺君とは1度も話していない。
相手が私を避けているというのは、明白だった。
文化祭前は目が合ったりしたけれど、最近は目すら合わなくなってしまった。
まるで、私が存在している事を知らないかのように。
すれ違うことすら少なくなったのだ。
だから私は諦めた。もともとこういう人生なのだと認めるかのように、私の心は次第に小さく、脆く、弱くなっていたのだ。
こんな早くに彼はいないだろうと踏んだ私の考えは当たっていて、屋上にはただ青い空が広がっていた。雲ひとつない、晴れ渡った空が。
昔高嶺君と2人で座っていた椅子に腰を下ろした。
青空に顔を向け、私は目を瞑った。
今までの楽しかった思い出が、走馬灯のように、頭の中に流れ込んできた。
あの時が幸せすぎたから、今があるのかな。
辛い事が起きたら、次は幸せが訪れるって言うけれど、逆もまた然り。
私は立ち上がり、屋上に設置してあるフェンスに手を置いた。
フェンスは私の胸くらいの高さまであって、本当に意味があるのかと思ってしまう。
そういえば、屋上は元々立ち入り禁止だったという事を思い出した。
屋上から見える景色がとても綺麗で、思わず涙を零してしまいそうだった。
どうして、私の人生はこんなにも上手くいかないのだろうか。
人間というのはどうして物語の主人公みたいに、ずっと楽しい日々を過ごせないのだろう。
私はフェンスに顔を乗り出し、地面を確認した。
そこには大きな花壇が広がっていて、赤いシクラメンが咲き誇っていた。
赤いシクラメンの花言葉はたしか“嫉妬”。
この世界は嫉妬に満ちている。
誰しもが、自分にとっての憧れの存在を持ち、嫉妬へと変わっていく。
私も、高嶺君に嫉妬していた。
いつも相手の顔色を窺って生活している私にのって理解出来ない存在だった。けれど、彼には人望がある、なんでも素直に答えてしまうくせに、きつい言い方をするくせに、彼はみんなから眼差しを受けていた。
だから私は彼が羨ましいと思っていたのだ。
辛い事が続いている、いつになったら私にもう一度幸せが訪れるのだろう。
いっその事、もうここから飛び降りてしまいたい。そんな最悪な考えが頭を過ぎった。
でも、このまま死ねば、お母さんから見捨てられた事も、友達に裏切られた事も、高嶺君に嫌われてしまった事も、全部忘れられる。
彼に嫌われるくらいなら、最初から出会わなければよかったのに、なんて最低な事を思い浮かべる。
私の心はもうすでに死んでいたのかもしれない。身も心も、全てを終わらせることが出来るなら、私は楽になれるのだろうか。絶望の中を生きるくらいなら、いっその事。
フェンスに足をかけて、反対側に行こうとした時、後ろの扉が勢いよく開く音が鳴り響いた。
私は思い切り振り返り、人物を確認した。
彼は目を見開き、噴火してしまいそうなくらい顔を赤くして、私の元へズカズカと近付いてきた。誰が見ても、彼が怒っているというのは明らかだった。
「何してんだよ、鈴岡」
久しぶりに聞いた、彼の声。
怒りに身を任せている彼は、今まで見た事がないくらい怖かった。
初めて話した時の怖さとは違う、誰かを思って怒っている姿だった。
「な、にって…」
私はフェンスにかけている足をゆっくりと下ろした。
「なんで自分から死のうとしてんだ!」
知ったような口、聞かないで欲しい。
そうさせようとしてるのは、君のせいなのに。
君が避けるから私は辛くて仕方なかったのに。
それでも、彼にこれを伝えてしまえば、彼はきっととても傷つくだろう。だから、私は残り僅かな自我を保って、言わなかった。
「何もかも、辛いの…もう、消えてしまいたいくらいに…」
瞳に涙がたまって、視界がぼやけている。
彼の表情を見ることが出来なかった。
「だからって…だからって死のうとするな!自分から命を捨てるな!」
彼は私の肩を力強く掴み、訴えかけた。
彼が話す度、私の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「死にたくなくて死んだ人間もいるのに…どうして自ら死ぬのを選択するんだよ。まだ少ししか生きてない人生で終わらせようとすんじゃねぇ!」
彼の言葉が、私の心を刺激していく。
弱くなった私の心を、支えようとしてくれている。
「鈴岡が死んで、悲しむ人間がたくさんいるんだよ。辛い事ばかりを考えるな、楽しいことだってあっただろ?忘れないでくれよ…」
彼の声が次第に悲しみの声へと変わっていく。
「どんなに辛くても、消えようなんて思わないでくれ…」
彼の声が、手が震えていた。
視界がぼやけていたけれど、高嶺君が泣いているというのが伝わってきた。
「どうか、もうこれ以上…俺を1人にしないでくれ…」
彼がこんなにも心細く感じたのは、初めての事だった。まるで、前に誰かを失ったことがあるかのようだった。
彼の悲しい声を聞いた私も、さらに泣きそうになってしまう。でもここで泣いたら今までと同じだ。今度は、私が彼を支える番になりたい。
「高嶺君、落ち着いて」
「……」
「私はここにいるよ、大丈夫だよ」
「……すまん、取り乱した」
彼は袖で涙を拭い、赤くなった瞼をこちらに向けた。彼に猫耳があったら、今はしょんぼりとして垂れていただろう。
「どうして、来てくれたの」
私達はいつものベンチに座り、桜の木を眺めながら、久しぶりの会話をする。
あんなに綺麗に咲いていた桜が、今はもう寂しい普通の木となってしまった。また彼と、あの絵のような時間を過ごせたらいいなと思う。
「さすがにもう区切りをつけなきゃと思っていた時に、美術室から見えてな」
「そう、なんだね」
区切り、という言葉が、良い方なのか悪い方なのか分からなかった私は、歯切れの悪い返事をした。
「本当は話さないで欲しいと言われたんだけどな」
誰に何を言わないでと頼まれたのだろうか。
「誰に?」
「鈴岡のお母さんに」
「私の、お母さん?」
「ああ、文化祭の時話してただろ?」
カフェで2人が話していたときの状況を思い浮かべる。結局、何を話していたのか教えてくれなかったのだけれど。
「俺の母さんと、鈴岡の関係について」
でも、俺の母さんのためにも向き合って欲しいと、彼は綺麗な瞳をこちらに向けてそう言った。
「高嶺君のお母さんと私…」
彼のお母さんに会った事はない。行事にも来ていなかったと思うし、会う機会がなかったから。
「俺の母さんは、10年前に亡くなってる」
彼は口をきゅっと強く結ぶ。
あんまり自分の事を話してくれない彼が、少しづつ、私に扉を開けてくれた。
「轢かれそうになっていた女の子を助けて、そのまま亡くなったんだ」
10年前。轢かれそうになった女の子。
女性が亡くなっていること。
そして、私を見つめる彼の揺らぐ瞳。
全てが、ひとつの線で繋がった瞬間だった。
私は手で口を抑え、目を見開き、息を呑んだ。
「もしかして、高嶺君のお母さんが助けた女の子って…」
彼は悲しそうにしながらも、現実だけを私にたたきつけた。
「ああ、鈴岡だ」
喪失していた記憶が、どんどんと蘇ってくる。
彼を見ることが出来ない。私が彼の大切な人を奪ってしまった。
そして、命を懸けて助けてくれた彼女の命を無駄にしようとしていた。
怒らないはずがない。自分の親が命を捧げてまで助けた女の子が、自ら死のうとしていたのだから。
「嘘…私…わ、たし…」
涙を止める方法を教えて欲しい。
拭っても拭っても溢れてくる、この悲しみの雫を。
「ごめ、ごめんなさ」
「謝らないでくれ、母さんはきっと、謝って欲しくてやったわけじゃない」
夢に出てきた女性の顔に漂っていた霧が、徐々に消えていった。
高嶺君の姿に、その女性が重なって見えた。
「鈴岡のお母さんは、本当に鈴岡の事心配していた。他人の気持ちを読み取るのが苦手な俺でも、大切にしてるんだなっていうのが伝わってきたよ」
彼の綺麗な瞳だけが私の方を向いて、少しだけ口角を上げて笑う。
「俺の事を覚えていてくれたんだ、葬式の時に話したと言っていた。あの時の俺はずっと泣いていたからあんまり記憶にないんだがな」
「…うん、うん」
私は涙を拭いながら、振り絞った声で相槌を打った。彼にひとりじゃないよと、分かって欲しかったから。
「俺は当時、鈴岡と母さんを恨んだ。なんで事故に遭うような行動をしたんだと、どうして俺より、見ず知らずの他人を優先したんだと」
思い出した記憶の中で、私が事故に遭う時、車は居眠り運転をしていた。私はそれに気付かず、高嶺君のお母さんと一緒に信号を渡っていたのだ。
「2人が事故に遭った日、病院で母さんは最後の力を振り絞って目を覚ました。そして、“私が助けた女の子をずっと守ってね、託したよ、瞬。あなたは、私の自慢の子だもの”と言って…」
高嶺君の頬に、一筋の涙が伝った。
冬の風に彼の茶髪が靡いて、綺麗だった。
「俺と鈴岡は、ずっと前に会ってるんだよ。覚えてるか?」
「うん、全部思い出したよ」
私達は、高嶺君のお母さんが亡くなった病院で会っていたんだ。当時の私は、彼が私を助けてくれた人の息子だと知らず、泣いている彼を励まし続けていた。本当に、最低な事をしていたと思う。謝っても許される事じゃない罪。
「俺はあの時、母さんが助けた女の子が鈴岡だと知らなくて、お前がずっと俺の背中を摩ってくれた、それだけが唯一の救いだったんだ」
「ううん、私は、私は本当に最低な事してた。本当にごめんなさい」
私のせいで彼が泣いていたというのに。
私は深々と頭を下げる。今の私には、こうすることしか、謝罪の念を表すことが出来なかったから。
「父さんは、母さんが死んでからずっと、仕事を広げて、世界の色んな場所を回った」
今ほど忙しくはなかったけれど、それでも人並み以上には働いていた。だから俺には、母さんしかいなかったのだと、彼は告げた。お盆の時に会った男性は、高嶺君のお父さんだったと、合点がいった。
そして私が、彼を1人にしてしまったのだ。
「だから俺は、1人になってからもずっと、絵を描き続けた。絵だけが、俺と母さんを繋いでくれていると思っていたから」
彼の綺麗な瞳は、とても遠くを眺めているみたいだった。まるで、遠くにいるお母さんと見つめ合っているかのように。
「でもそれは違った。絵なんかじゃない、大事なのは気持ちなんだと、今になって気付いたんだ。亡くなった人が生きていける場所は、誰かの心の中だけだから」
なんて素敵な言葉なのだろうと、私は思った。
亡くなっても、誰かの心の中で生きていける。誰かがその人を覚えている限り、その人は生き続ける事が出来る。大切な人の心の中で。
「高嶺君は、ずっと私の事を知ってて、話してくれていたの?」
もしずっと知っていて、私のわがままで話していてくれたのなら、辛かっただろうと思った。どんな返事が来ても、私は向き合わなければならないと覚悟を決める。
「母さんが助けた女の子が鈴岡だと知ったのは、今年のお盆の時だ」
蝉の声が、俺の感情を高ぶらせる。苛立ちの思いが上昇していくも、それをぶつける場所を知らない俺は、心の中に留めることしか出来なかった。最近寝不足というのも原因だろう。気分が悪く、体温計で温度を測ると、発熱くらいの数字が表示された。
「瞬、ただいま」
久しぶりに聞く、父さんの声。
前よりも少しだけ、声が枯れていた。
1年も経てば、人は変わる。その過程をお互い見ることが出来ないのは悲しいと俺は思う。
どうして、俺のために日本に残ってくれないんだろうと思うけれど、自分がこうして何不自由なく生活出来ているのは彼のおかげだから、俺は口を閉じた。
なんでも言ってしまう俺が、唯一素直になれない相手。
「…おかえり」
「今から母さんを迎えに行くけど、お前も来るか?」
「ごめん、ちょっと体調悪くて」
「大丈夫か?なにか欲しい物ある?」
「…いらない」
俺は少しぶっきらぼうに返事をした。
本当は、1人は寂しいということを、分かって欲しかったから。
けれど父さんはそんな事を気付けず、悲しそうに笑って、そうかという返事をした。
違う、そんな顔させたいんじゃない。
自分だって人の感情を読み取ることができないのに、人には求めるんだという、心の悪魔の声が俺の体を支配する。
「…じゃあ、行ってきます」
「ああ、気を付けて」
母さんを亡くした日から、“気を付けて”という言葉は必ず言っている。
気を付けていても、なにも出来ない状況はあるけれど、俺はただ無事を願うことしか出来ないのだから。
扉をゆっくりと閉じ、パタンという小さな音が、俺しかいない大きな家に消えていった。
階段を登って自分の部屋に籠る。
久しぶりに話した父さんは、前よりも窶れていて、疲れが溜まっているというのが目に見えて伝わった。
だから俺は、学校に許可をもらい、バイトをしている。本当は良い大学に入って、良い就職をするのが1番だけれど、自分の夢だけは諦めたくなかった。母さんと約束したんだ、俺も母さんのような、俺が描いた絵を見た人が幸せになれる絵を描くんだと。
母さんはまだ幼い自分の夢を笑う事なく、俺の頭をくしゃくしゃとかき乱し、“瞬ならできる!大丈夫だよ”と、満面の笑みで言ってくれた。誰かに言われる大丈夫だという言葉にはあんまり信憑性を感じないけれど、母さんの言葉だけは素直に信じる事が出来た。
昔の出来事を思い出していた俺は睡魔に襲われ、いつの間にか寝てしまっていた。
朝から開けっ放しにしていたカーテンから日光が、俺の顔を照らした。
眩しさに目をぎゅっと瞑る。目を擦り、時計を確認する。
時刻は昼過ぎを指していた。
父さんが帰ってきているだろうと思い、俺は急いでリビングに向かった。
案の定、父さんは電気も付けず、ただひっそりと、母さんの仏壇の前で手を合わせ、瞼を閉じていた。
床の音が鳴ってしまい、父さんの耳がそれを捉えた。ゆっくりと瞼を開け、こちらを向いた彼の姿は、とても小さく見えて、悲しみの思いを身に纏っていた。
俺達は、ずっと母さんに囚われている。
俺達の心の時計は、ずっと止まっている。
「おかえり、父さん」
いつの間にか発熱は治っていて、体が軽くなった気がした。
「ただいま、瞬」
父さんは毎年、お盆の4日間だけ日本に帰ってくる。他の日はずっと海外で仕事をしているらしい。寂しいと感じるけれど、俺は父さんを誇りに思っている。これは勝手な考えだけど、父さんは無理やりにでも仕事をしていないと、母さんを思い出してしまうから、無理に自分の体を追い込んでいるんだろうと思う。
「お昼、作るね」
沈黙に耐えられなくなった俺は、この場を後にするための口実を作った。
「頼んだよ」
父さんはスーツを脱ぎながら、俺に優しく微笑んだ。無理に笑っているというのが伝わってきたから、余計に辛くなる。
俺の前だけでは無理しなくていいって、素直に言えたらいいのに。
俺はそんな思いを心に残して、台所に向かい、食材を確認する。
麺類が入っている棚を見たら、そうめんがあったため、俺はそれを取り出して茹でた。
作り終えたそうめんをお皿に盛り付け、リビングに運んだ。男2人だからという理由で作りすぎてしまったけれど、朝ご飯を食べていない俺にとってはちょうどいい量だった。
「いただきます」
2人の声が重なり、同時にそうめんを啜る。
「…うん、美味い」
父さんが口をもぐもぐとしながらそう言ってくれた。お世辞でも本音でも、なんでもいい、ただひたすらに嬉しかった。
「まさか、瞬がこんなに料理が出来るとはね」
「そうめんなんて、茹でるだけだし」
「それでもいいんだよ、僕に作ってくれたっていう事実だけで、嬉しいよ」
「…あっそ」
素直に褒められたことに恥ずかしくなり、俺は一気にめんを啜った。
冷たいそうめんが、体の芯から涼しくしていく。今の季節にちょうどいい。
「そういえば」
「ん?」
「今日お墓でね、とある親子にあったんだ」
とある親子、というなんとも言えない単語がつっかかり、俺は聞き返した。
「とある親子って、誰」
「母さんが昔助けた女の子と、そのお母さん」
「…は?」
俺はめんを掴んでいた箸を置き、食べるのをやめる。食べながら聞く話じゃないと思ったから。自然と、姿勢を正していた。
「大きくなってたよ、親御さんに聞いたら瞬と同い年だって」
「名前は…?」
父さんは女の子の名前を知っている、昔から。
でも俺には教えてくれなかった。多分、母さんの死の辛さをもう一度味わわせたくないと思ったんだろう。
でも、俺はもうそんな現実を受け止められないほど子供じゃない。
ちゃんと、本当の事を聞きたい。
「鈴岡、美桜ちゃんというんだ」
彼の口から出た名前が衝撃すぎて、口をぽかんと開けてしまう。
は…?鈴岡?
聞き間違いだ。きっと、違うに決まってる。
俺の驚いた表情を見て、父さんは本当だとでも言うように、大きく頷いて見せた。
「鈴岡さんと、知り合いなのか?」
「…ああ」
知り合いどころじゃない。あいつは俺を救ってくれたんだ。ずっとひとりで孤独だった時、鈴岡が俺に光をくれた。
鈴岡は俺にとって大切な人で、好きな人なんだ。
俺が恨んでいた相手が、好きな人だなんて、どうして神様はこんなにも俺に厳しいのだろうか。こんな残酷な世界は、誰のためになるのだろうか。
「彼女は当時の記憶を失くしているらしい。だから、本当の事を話すかは、お前次第だ」
瞬の人生なんだから、自分で決めていいんだよと、優しい声で微笑む。その笑顔にはやっぱり、疲れが滲み出ていた。
なにが、正解なのだろう。
俺には分からない、分からないんだ。
もう俺は、何度も失敗を繰り返している。
「どうすればいいんだよ、俺は…」
「どんな結果になろうとも、僕は瞬の見方だからね、それだけは忘れないでくれ」
「でも俺は、母さんに酷い事を言ってしまったんだ。自分の選択で誰かを失うくらいなら、誰かに委ねたい」
俺はあの日、一生忘れる事のない過ちを犯してしまった。
母さんが事故に遭った当日、あの日は俺の誕生日だった。父さんはまだ今ほど忙しくなくて、一緒に誕生日パーティーをするほど、俺の家族は仲が良かった。
でもこの日、父さんに急な仕事が入って、パーティーは父さん抜きですることになったんだ。
まだ幼かった俺は、それが不服だった。
この気持ちをぶつける場所がなかった俺は、母さんに怒りをぶつけてしまった。
「どうして父さんがいないの!」
いつもはホールのケーキが、今年はカットされている小さなケーキだったという些細なことですら、俺には許せなかった。
「ごめんね、瞬。お父さんはお仕事やらなきゃいけないんだって」
「ケーキも、おっきいのがいい!」
「ケーキ、買ってくるから、お家で大人しくしてるのよ」
「みんなみんな、大っ嫌い!どうせ僕の事大切じゃないんだ!」
お母さんは苦笑しながら、急いで家を出る準備をしてくれた。その笑顔の裏には、嫌いと言われて悲しんでいる母さんの姿があったことに、当時の俺は気付けなかった。
俺は、この時、この発言をしてしまった自分を、一生許せないだろう。
たかがケーキ如きで、俺の大切な人が遠い場所へと行ってしまったんだから。
もう二度と会うことの出来ない場所へ行ってしまったのだから。
そして、お父さんが頑張って早く仕事を終わらせてくれて、時間が経っても帰ってこないお母さんを心配しながら、俺達は家で静かに待っていた。
静寂の家に、家の電話の着信音だけが響き渡った。なんだか嫌な予感がして、心臓が脈立つ。父さんがゆっくりと立ち上がり、電話に出た。
俺はただそれを見守り、父さんが蒼白な顔になるのを眺めていた。
「瞬…!今すぐ病院に向かうぞ!急いで準備しなさい」
あんなに必死な父さんを見るのは、あの時が最初で最後だろう。本当に、見たことがなかった父さんの姿だったから、今の事態の重大さが、まだ幼い俺にもわかった。
「…うん」
そうして、母さんの死を迎えた。
最後、母さんに素直になれなかった俺は、この日から自分の気持ちを素直に伝えるようにした。また、伝えられず後悔しないように。
昔の事を思い出していたからか、心の中は後悔や悲しみの感情が渦巻いていた。
「瞬、それは違うよ。誰かに選択を委ねたいなんて、ただの逃げだ。その時失敗した時、自分の罪から逃れるためのね」
「逃れたい、のかもしれない。俺はもう、自分のせいで誰かを失いたくないんだ」
「母さんはな、お前のせいで死んだわけじゃない。自分を責めたら、それこそ母さんが悲しんでしまうよ」
そんなこと、分かってる。
母さんは鈴岡のように、他人のために生きていたから。あの2人はとても似ている。
だからまた、母さんみたいに鈴岡を失うのではないかと思ってしまうんだ。
雨が降り注ぐこの世界は、まるで俺と父さんの涙のようだった。
「そんな事が、あったんだね」
私はごしごしと涙を拭い、鼻水を啜る。
あんなに幼い男の子に、こんな試練を与える神様のことが、少しだけ嫌いになってしまう。
「ああ、俺は正直受け止めることが出来なくて、どうすればいいのか分からなかった。だから、鈴岡とは距離を置かなきゃ答えを出すことができないと思ったんだ」
嫌われていたわけじゃないということに安心する。それでも、もしさっき私が飛び降りることを躊躇なくしていたら、この答えを知ることなく、心残りを持って死んでいたんだと考えると、ひとつの選択でこんなにも変わってしまうんだということに驚いた。
人生は選択の毎日だ。その中で色んな事が起こる。それでも、引き返すことなど出来ないのが現実なのだから、それを受け止めて前に進むしかないんだ。時間は、自分のために止まってくれたり、巻き戻ったりしてくれないのだから。
「でもやっぱり、向き合わなければならないと思った。でも文化祭の日、鈴岡のお母さんから“娘と仲良くしないでほしい、もう娘にこれ以上悲しんで欲しくないから”って言われたよ」
彼はまるで、それを笑い話のようにすらすらと話した。
「俺は断ったよ」
「え…?」
「鈴岡と話せなくなるのは、これ以上耐えられなかったから」
それって、どういう意味なのだろうか。
期待して、いいのかな。
私の頬が、どんどんと熱くなっていく。
今度こそは、夕日のせいに出来ない。
「鈴岡」
「なに?」
「俺、鈴岡の事、好きなんだ。昔からずっと、鈴岡だけが好きだった」
彼の真剣な瞳が、私だけを写している。
朝日に照らされている彼の髪が、さらさらと風に揺れ、透明のように見える。
嬉しいという気持ちが溢れ出てきて、私の口角が上がっていく。
好きな人と結ばれる。それは誰しもが憧れること。たくさんの奇跡が積み重なって完成される幸せの形。
私の瞳から、喜びの涙がこぼれ落ちた。
「うん…!私も、大好きだよ…!」
やっと、伝える事が出来た。そして、彼に本当の笑顔を見せた瞬間だった。
今まで行き場を探していた好きという思いを、1番伝えたい相手に届ける事が出来たんだ。
彼は目を見開き、途端に三日月のような形に目を細めて笑った。
大好きな人が幸せだと、こんなにも自分も幸せになるんだということを初めて知った。
彼からは、たくさんの初めてをもらっている。
全てを返せることは出来ないかもしれないけれど、私は彼と、これからもずっと一緒に生きていきたい。
命は有限で、いつ自分がこの世界からいなくなってしまうのかも分からない。
それでも人は、頑張って生きているんだ。
いつもすれ違う知らない人にも、その人の人生があって、それは永遠と続いていく。
別々だった人生が繋がり、ひとつのものとなっていく。
「最初は、高嶺君のこと、嫌いだった」
「俺も、なんでこいつは自分の気持ちを押し殺すんだろうと不快だった」
「どうして素直なくせに、みんなから人気あるんだろうなって羨ましかったの」
「俺もだ」
「でもね、今はそんな正直な所も、本当はとても優しい所も、意外と自分の気持ちが表情に出ちゃう所も、全部好きだよ」
彼は手を顔に被せ、天を仰いだ。
「なんでそんな、急に素直になるかな…」
彼の耳が、徐々に赤く染まっていく。
こうして、まだ知らない彼の姿をこれからも隣で見ていけるという事実が、とても嬉しくて幸せだった。
「私も高嶺君を見習おうと思ってね」
彼は優しく微笑んだ。そんな笑顔が、愛おしくて仕方なかった。
彼の手が、私の手を包み込む。
大きな彼の手が、私を安心させてくれた。
大きな試練を乗り越えた私達は、辛い日々を過ごしながらも、前を向いて歩いていくんだ。
君に出逢えたという奇跡は、私の人生の宝物。
真っ直ぐな飛行機雲が伸びている青空の下、私達は、精一杯に生きている。