私が岸辺さんのアシスタントに来てから1か月ほどたち、仕事がスムースにこなせるようになってきた。プロジェクトの会議録は必ずその日のうちに仕上げられる。岸辺さんは当日か翌日にそれ持ってメンバーを回って確認している。

5つのプロジェクトの関係者の会議の日程調整もするようになっているけど、これは相手のいることなので、結構手数がかかる。ただ、根気よくやればそのうちに整うので、あとは人数に合わせて会議室を確保しておけばいい。

岸辺さんはこれまでよりも各担当者との調整や根回しに専念できているようだ。また時間の余裕もできたみたいで、新しい企画について室長と相談しているのを見かけるようになった。

私が仕事を覚えたので、ここのところ、仕事はほとんど定時に終わるようになっている。ただ、残業が無くなったのは少し痛い。でも岸辺さんが喜んでくれているし、コピーやお茶くみよりも、仕事にやりがいがあるので、これでいいと思っている。

「残業が無くなって給料が少なくなって申し訳ないね」

「毎日仕事が楽しいので構いません。コピーだとお手当をいただかないと遅くまでやれませんから」

「それもそうだけど」

「いろいろな仕事をさせてもらえて嬉しいです」

「明日、大学の先生のところへ研究委託の打合せに行くけど、一緒について来てくれないか。代わりに行ってもらうこともあるから先生に紹介しておきたい」

「分かりました。場所はどこですか?」

「横浜市の日吉で少し遠いけど、アポは3時だから、午後1時過ぎに出かけよう。都内でないので日帰り出張扱いになるから手当が少し出るかな」

「ありがとうございます」

「先生との打合せメモの作成と帰ってからの出張旅費の手続きをお願いしたい」

「分かりました」

研究所だけでは手が回らないので、プロジェクトの準メンバーの位置づけで、新しい素材の開発を大学に委託しているという。

私立の大学は学生さんがいて人手があるので結果は必ず出してくれるから頼りになると言っていた。でも確実な成果を得るためには事前打合せとフォローが欠かせないから、やはり四半期ごとに打合せが必要と言う。

今日は朝から晴れている。岸辺さんと初めての外勤だ。また、ゆっくり二人でお話ができそう。アポは3時とのことで、午後1時に会社を出発して、帰りは直帰とだという。

大学へは約束時間の30分前に到着した。でも、大学のキャンパスはすごく広いので入口から先生の部屋まで結構時間がかかった。次に一人で来られるように、行き方をメモしておいた。

研究室の建物の入口から中に、エレベーターで4階へ、先生の部屋の前で時間を調整して、丁度3時にノックして部屋に入る。

はじめに私を教授に紹介してくれた。名刺交換をする。名刺は岸辺さんのところへ来て生まれて初めて作ってもらった。出来上がった会社名の入った自分の名刺を見てとっても嬉しかった。今日はそれを始めて使った。

打合せは30分くらいで終えるつもりと事前に聞いていた。この程度で切り上げないと忙しい先生に迷惑がかかるとのこと。私がメモを取っているので、岸辺さんは細かいところまで打合せしていた。このごろは私にまかせて自分でメモは取らなくなっている。

予定どおりに打合せは終了した。まだ、4時前なので、学生ラウンジへ行って、一休みすることになった。岸辺さんとゆっくりお話しができる。二人でコーヒーを飲む。

「お疲れさん、メモのまとめを頼みます」

「分かりました。大学教授って普通の人ですね。怖い先生かと思っていました」

「そう、いたって普通。大体、変わった人は教授になれないから、安心して普通に話ができる」

「大学のキャンパスっていいですね」

「活気もあるけど、ゆったりしていて、落ち着く。僕も好きだ。学生時代が懐かしいよ」

「私も大学へ行きたかったです」

「大学へ進学しなかったのは、お父さんが亡くなったから」

「はい。成績も悪くなかったので、母は進学を勧めてくれましたが、苦労をかけたくなかったので、高校を卒業してすぐに就職しました」

「僕は大学1年の時に両親が交通事故に遭って亡くなってしまった。幸い保険金があったので、なんとか卒業できたけど」

「パソコンはいつ勉強したの?」

「就職してからです。前の会社にいるとき、廃棄するパソコンを貰って、独学しました。会社がパソコンの専門雑誌をとっていたのですが、私が雑誌類を整理する係だったので、廃棄するその雑誌を家に持ち帰って、休みの日に初心者向けの記事を試しながら覚えました。分からないところは、会社で聞いたり、操作するところを見させてもらいました」

「随分努力家なんだね」

「パソコンくらいできないといけないと思って頑張って覚えました。でも、ようやく役に立ちました。覚えておいて良かったです」

「総務部ではパソコンを使った仕事はしなかったの?」

「総務部では社内システムへの入力くらいで、来客へのお茶の給仕とコピーなどが忙しくて、そこまでさせてもらえませんでした。それに自分専用のパソコンがなかったですから」

「うちの企画開発室もパソコンの専門雑誌をとっていたから、時間が空いた時に読んで最新の情報を教えてくれる? 僕もなかなかついて行けてないから」

「ありがとうございます。そうさせてもらいます」

「じゃあ、今日は直帰ということで、ここらで引き上げるとするか。同じ経路だから、南部線経由かな?」

「それが便利です」

「溝の口は交通の便がいいね」

「昔から住んでいますが、会社が変わっても転居せずにどの方面でも何とか通勤できますので、意外と便利です」

「アパート住まいなの?」

「かなり昔に父が建てたというプレハブのアパートに住んでいます。近くに住んでいる大家さんが知り合いで、駅からも少し遠いので、家賃を安くしてもらっています」

「会社からの補助もないから大変だね」

「仕方ないです。でもなんとか一人で暮らしていけるので満足しています」

私は溝の口駅で降りて直帰した。いつもより、通勤時間分早く帰れたので良かった。夕食を誘われるかと思っていたけど、岸辺さんも乗り換えて直帰した。期待しないことにしているので、気にしない。

岸辺さんは歓迎会以来、私を一度も食事や飲みに誘ったりしない。きっと、部下になったので、誘うと無理強いするみたいなので、気を使って遠慮しているのだと思う。いい人だ。

ブログにはこう書き込んだ。

〖カッコいい上司と二人で外勤した。二人でプライベートなお話ができた。二人とも直帰だったけど、誘われなかった〗

コメント欄
[二人だけで話ができただけよかったと思わなくちゃ]
[その気があれば誘ってくれたと思う。今はそこまで親しくなっていないから、しかたがない]
[期待し過ぎると痛い目に合うから気を付けて!]