地味子のセカンドラブー私だって幸せになりたい!

もう8時、今日も忙しかった。この会社はいい、残業手当をきちんとつけてくれるから。私は派遣社員、給料は少ないので、残業があると助かる。

今の時間、ほとんどの社員は退社してコピー室に人はいないはずだから、この資料をコピーすればすぐに仕事は終わる。

あれ! コピー室に誰かいる。ときどき廊下で見かけるいつも忙しそうなカッコいい人だ。スーツもネクタイもセンスがいい。コピー機のトラブル?

私はいつも地味にしているから、きっと私のことなんか知らないと思う。でもあんな素敵な人と付き合ってみたいと思うこともある。そのたびに、3年前のことをもう忘れたの! と左手首の傷がチクチク痛む。

矛盾しているかもしれないけど、地味にしているのはもう男の人と関わり合いになりたくないから。いつも黒いスーツに黒い靴のいわゆるリクルートスタイルで、髪も後ろに束ねてポニーテイルにしているだけ。

化粧も薄め、口紅も目立たない色、それにド近眼だけど、コンタクトをしないで、分厚い黒縁のメガネをかけている。とてもダサイ恰好をしているので、男の人からは話したくもないと思われているに違いない。でも、それでいいと思っている。

「どうしました?」

「紙詰まりで、詰まった紙を取り除いても復帰しない。明日一番で必要な資料なので困っている」

「私が見ましょうか? 私も結構紙詰まりのトラブルに合っていますので」

「見てくれる?」

扉を開けて、マニュアルどおりに点検していく。詰まった紙は見当たらない。以前、どうしても復帰しないので修理を頼んだ時に、修理の人が教えてくれた箇所もチェックしていく。紙があった! それを取り除く。

「紙が一枚残っていました。これでおそらく大丈夫です」

扉を閉じると正常に復帰した。カッコいい人が驚いている。

「ありがとう助かった。コピーはすぐに終わるから」

挟まっていた紙を処分しようとして資料の日付が目についた。本当は見てはいけないのだろうけど、日付が間違っている気がした。

「でもチョット待って下さい。資料の日付が目に入ってしまいましたが、明日の資料ならこの日付は間違っていませんか?」

「ええ・・・本当だ!」

よかった。資料を見たと怒られなかったし、間違いは当たっていた。

「ありがとう。すぐ原稿を訂正してくるから、先にコピーをしていて下さい」

「じゃあ、コピーさせていただきます」

慌ててコピー室を出て行った。いない間にコピーを済ませなくちゃ。

しばらくして、コピー室へ戻ってきた。

「どうぞ、先にしてください。私はまだ多くありますので、時間がかかります」

「じゃ悪いけど、部数も少ないので、させてもらうよ。ありがとう」

コピーはすぐにできた。トラブルがなければあっと言う間にできる枚数だ。すぐに私と交代してくれた。私はまたコピーを始めた。

「横山さん、コピー機を直してもらってありがとう。助かったよ。明日、朝一の会議で使うので今日中に作れてよかった」

名前を呼ばれて驚いたが、さっき胸元を見ていていたので、IDを見られたと分かった。カッコいい人が名前を言ってお礼を言ってくれた。きつそうな人かと思ったけど、感じのいい人だ。嬉しかったのでニコッと笑って答えた。

「どういたしまして、コピーをすることが多くて、私も随分紙詰まりには悩まさせられましたから、今ではコピー機のほとんどのトラブルに対応可能です」

「たいしたもんだね、じゃあ、またトラブルがあったら頼みます」

「喜んで」

「僕は企画開発室の岸辺といいます。ところで、あまり見かけないけど、横山さんの所属は総務部?」

「はい、私は派遣社員で総務部で働かせていただいています」

「遅くまで大変だね」

「今は丁度4半期ごとの決算の発表が近いので資料のコピーが多くて。でも残業手当をいただけるので助かります。お給料がそんなに多くないので」

「じゃあ、そのうちに食事でもご馳走するよ、今日のお礼に」

「業務の一環ですから、お気遣いは無用です。失礼します」

カッコいい人は、同じフロアーにある企画開発室の岸辺さんと言うんだ。社交辞令にきまっているけど、食事をご馳走すると言われた。あんなカッコいい人と一度でも食事ができたら素敵だろうな!

また、左手首の傷が疼き出す。失恋の自殺未遂の傷。目立つので男物の太いベルトの腕時計で隠している。あれから3年もたつのに、男の人にときめいたりすると傷がうずく気がする。面食いの私に警告しているの?

ようやくコピーが仕上がった。部屋に戻るとまだ2~3人が仕事をしている。出来上がった資料を渡して、仕事を頼まれないうちに急いで退社した。

オフィスビルを出て時計を見ると8時半過ぎになっている。ビルは虎の門にある。手に持っていたリュックを肩にかけて、地下鉄の階段を下りて行く。私はこの時、岸辺さんが後ろを歩いていたことに気づかなかった。

銀座線表参道で半蔵門線に乗り換える。そういえば、遅くなって帰ったときにここで岸辺さんを一度見かけたことがある。この時間、電車は帰りのラッシュが終わって少し空いてきている。あと25分くらいで溝の口に着く。その間、スマホをチェックする。

駅から徒歩15分のところにアパートを借りて一人住んでいる。アパートは幹線道路沿いなので遅くなっても危険は感じない。

食事は自炊、昼食はお弁当を持参している。外食は高くつくので極力避けている。遅くなることもあるので、多く作った料理を冷凍保存してある。今日の夕食はその2、3品を解凍して食べることにした。

テレビをつけるけど面白い番組がないので、取り溜めた録画を見る。テレビは録画機能のついた中型。あとはもう温かい季節なってきたのでシャワーを浴びて眠るだけ。

もう恋愛はこりごりと思ってはいるけど、自分の感性だけは磨いておこうと、時間があれば、服、バッグ、靴、アクセサリーなどをスマホで探して、気に入った可愛いものや個性的なレアなものがあれば、情報を保存している。また、ウエッブニュース、音楽、映画、新刊書などもチェックすることにしている。

寝る前に自分のブログに今日の昼休みにショッピングサイトで見つけた可愛いアクセサリーの写真をUpして説明を入れた。それに自身の出来事の書き込みもする。

〖カッコいい人がコピー機の故障で困っていたので直してあげたら、名前を憶えてくれて、そのうち食事にでもと言ってくれた! でも左手首の傷が疼いた!〗
朝6時に目覚ましが鳴る。昨日は疲れていたのか、すぐに眠ってしまった。今日は金曜日、簡単な朝食を食べながら、ブログのコメント欄を見る。

[よかったね!本当に誘ってもらえるといいね!]
[カッコいい人には気を付けて、一度懲りているんでしょ!]
[食事でもっていうのは、単なる社交辞令、期待をしてはいけない!]

7時30分には家を出る。通勤時間は50分くらい。勤務開始は9時からだけど、電車が遅れることはしょっちゅうなので、遅れても遅刻しないように早めに出ている。

4半期ごとの決算の日が近いので、今日は朝から来客が多い。総務部の応接は3つあるけど、朝から来客がひっきりなしにきている。そのためお茶を出したり、下げたりで忙しい。会議も朝から行われているが、会議には原則、お茶は出さない。

ただ、部長の席のところへ来客があると、お茶を出す。これがまた結構多い。定時を過ぎると来客への応接はなくなるが、今度は会議録や資料の作成でコピーを頼まれることが多くなる。

でも、今日は少ない方で、まだ7時前だけど、これで仕事はお仕舞い。コピーをしていると、また、岸辺さんがコピーをしにやってきた。

仕事の合間に同じ総務部にいる派遣社員の同僚二人に企画開発室の岸辺さんを知っているか聞いたところ、二人とも知っていた。

企画開発室の管理職でプロジェクトマネージャーをしていて、室長の右腕で、独身のエリートと教えてくれた。知らないのは私だけだった。

「がんばってるね」

「これは量が少ないので、すぐに代わります」

「いいよ、終わってからで」

「じゃあ、次の資料が終わるまで使わせて下さい。その後、使ってください。もう一つは量が多いので、終わってからにします」

「そうしてもらえると、またトラブルがあったらお願いできるから好都合だ」

「でもトラブルはめったにないんですけどね」

「結構、忙しそうだね」

「ここのところずっと決算の準備の資料を作っています」

「今日も遅くなりそうなの?」

「今日はこれで終わりです」

「じゃあ、昨日のお礼をさせてくれる? 夕食でもご馳走したいけど、どうかな?」

「悪いから、お心遣いは無用です」

「これから、またお世話になるかもしれないから。横山さんの帰り道によいお店ないのかな。家はどこの沿線? 最寄り駅は?」

「田園都市線の溝の口です」

「やはりそうか、昨日の帰りに銀座線の表参道のホームでみかけたから。僕は田園都市線の二子新地」

「そうなんですか」

「じゃあ、7時過ぎにビルの出口で待っているから、いいね」

「すみません。分かりました」

岸辺さんに強引に誘われた。遠慮してはみたけど、本当はとっても嬉しかった。左手首の傷がピリピリしている。岸辺さんはすぐ近くに住んでいた。

コピーを終えて席に戻ると、別の資料のコピーを頼まれた。約束の時間は7時過ぎだから、コピー室へ行ってすぐに済ませる。今度は席に戻るとすぐに退社した。

入口で岸辺さんが待っていてくれた。

「すみません。お待たせして、帰りがけにまたコピーを頼まれてしまって」

「気にしないで、無理やり誘ってしまったから、もういいのかい」

「大丈夫です」

「じゃあ、行こうか」

「本当にいいんですか。ただ、コピーのつまりを直しただけで。業務の一環ですけど」

「遠慮しなくていいよ。本当に助かった。どこがいい?」

「じゃあ、溝の口に私がいつも行っている焼き肉屋さんがあるんです。高級ではありませんが、値段も手ごろで、どうですか?」

「いいね。焼肉か、食べたいな。ここのところ仕事が忙しかったから、ばて気味でちょうどいい。そこへ行こう。じゃあ、先に歩いて、僕は歩くのが早いから、君について行く」

岸辺さんは、私と二人で歩いているところを見られないようにするためか、私を先に歩かせた。私は地下鉄のホームをいつも乗る位置まで進んで行く。

丁度電車が入ってきたので、二人乗り込む。表参道で乗り換えたが、混んでいて電車の中では話ができない。

二子新地から2つ目の溝の口で下車。改札口を抜けて5分ばかり歩いた古い建物の2階の焼肉店に入る。

「女の子が焼肉っておかしいですか?」

「いやいや、肉食系が今はやっているから。近頃は高齢者には魚よりも肉を勧めているくらいだ」

注文は私に任せると言うので、丁度二人分くらいの量を頼んだ。飲み物は、岸辺さんは瓶ビール、私もハイサワーを注文した。一緒にお酒を飲んでみたかったから。

飲み物が運ばれてきて、まず乾杯。しばらくして、肉が運ばれてきたので焼いてあげる。

「ときどき無性に食べたくなるので一人で来て食べています。ここは昔から家族でもきていたところなんです」

「家族と一緒に暮らしているなんていいね。僕は天涯孤独だよ」

「私も同じようなものです。父は高校生の時、事故でなくなりました」

「交通事故かなんか?」

「大工だったんです。高いところから落ちてそれがもとで」

「そうなんだ。僕の両親は大学に入った年に交通事故でなくなった」

「そうなんですか」

「でもお母さんはいるんだろう」

「母は再婚しました」

「へー」

「母は幸せみたいで、良かったと思っています。休みの日にお互いの家を行き来しています。唯一の家族ですから、お互いに頼りにしています」

「一緒に暮らせばいいのに」

「母と結婚した人はいい人でそう言ってくれますが、母の負担にならないように遠慮しています」

「それで、一人暮らしなの?」

「一人の方が気楽ですから」

「寂しくないの」

「所詮、人間一人ですから」

「そうだね。所詮人間は一人ぼっち。それが分かっていれば人とのつながりを大切にできる」

「私もそう思っています。肉が焼けました。食べてください」

「お客さんの横山さんもどんどん食べて」

「食べています。おいしい。元気がでます」

「朝は何時ごろに会社に来ているの?」

「電車が遅れることがあるので、それを見越して、絶対に遅刻をしないように早めに出るようにしています」

「朝のラッシュは殺人的だからね」

「溝の口は降りる人がいるので、なんとか乗れます」

「僕の二子新地はいっぱいで乗れないことがあるから、やはり早めに出勤している」

「会社に着くのはいつ頃ですか」

「大体8時まえ」

「随分早いですね。それじゃ駅では会いませんね。帰りは同じころが多いと思いますがお会いしませんでしたね」

「今まで気が付かなったかもしれないし、乗り降りするホームの位置が違っているからじゃないか」

「通勤にリュックを使っているみたいだけど?」

「ラッシュでカバンがつぶれるのでリュックにしてみました。帰りにスーパーで買い物をするので中に入れられますし、両手が使えますから便利です。一度使うと止められなくなりました」

「確かに便利そうだね」

「カッコいい岸辺さんには似合いません」

「そうかな」

それから会社のことやお互いのことで話が弾んだ。岸辺さんは企画開発室のプロジェクトマネージャーで課長代理。入社12年、35歳で、私より11歳も年上だったけど年齢よりもずっと若く見える。

上司の竹本企画開発室長は研究所時代の直属の上司で、岸辺さんはその室長に呼ばれて3年前に転勤して来たとのこと。住まいは二子新地の賃貸マンション。

岸辺さんは私のことはコピー室で会うまでは知らなかったと言って謝っていた。でも私は総務部へ来てからまだ1年位で、地味にしているので気が付かないのは当たりまえだと思う。

なぜ、誘ってくれたのか、もう1回尋ねてみたけど、コピー機を直してもらったお礼だと言っていた。ただ、私と話をしているとなぜかほっとするとも言ってくれた。私が地味な女の子だから気楽に話せると思っているからだろう。

丁度二人でお腹が一杯になるくらいの量を注文していたので残さず食べた。なかなかおいしい肉だと言ってくれてよかった。私はハイサワーをおかわりした。

「お酒強いんだね」

「そうでもないですが、嬉しい時や楽しい時は飲みたくなります」

「それはよかった」

「ありがとうございました。久しぶりです。誰かと一緒に食事をしたのは」

「僕も女性と食事をするのは久しぶりで楽しかった」

「お勘定、私も払わせて下さい」

「いいよ、お礼に誘ったのは僕だから」

「おいしくて楽しかったから、私も払います。こうさせて下さい。岸辺さんのお給料は私の何倍くらいですか?」

「うーん。おそらく2倍以上は貰っていると思うけど」

「それなら、岸辺さんが2、私が1だから、1/3払わせて下さい」

「どうしてもと言うのならそれでもいいけど、君のような娘は初めてだよ」

「死んだ父は、うまいものは自分の稼いだ金で食べる! といっていました。そう言って毎日仕事の帰りに居酒屋でお酒を飲んでいました。

それを私と母がとがめると『てめえが働いた金で好きな酒を飲んでなにが悪い、会社の金や接待でただ酒を飲むのとは訳が違う』と怒っていました。今は父の言っていたことがよく分かります」

「お父さんは偉いね。それじゃあ、今日の焼肉はおいしくて楽しかったということでよかった」

「ごちそうさまでした」

お勘定を済ませると私はそのまま歩いて帰った。アパートはここから徒歩10分くらいのところにある。

岸辺さんは家まで送ろうかと言ってくれたけど、まだ早い時間なので大丈夫と言って遠慮した。みすぼらしい古いアパートを見られるのがいやだったからでもある。

家についてしばらく余韻に浸っている。やはり緊張して話していたみたいで疲れた。でも心地よい疲労。あのカッコいい岸辺さんと二人で食事しながらお話ができた。とっても楽しかった。不思議なことにその間、傷はおとなしくしていた。

寝る前にブログに今日の焼肉の写真をUpして書き込みもする。

〖社交辞令と思っていたけど、カッコいい人に誘われて焼肉を食べに行った。話が弾んで楽しかった! その間は左手首の傷は何ともなかった〗

コメント欄
[よかったじゃない、彼はあなたに気があるんじゃない! でないと誘わない]
[すぐに食事に誘う男には要注意!遊ばれないように気を付けて!]
[楽しければいいじゃない。これからも誘われたら断らない方が良いよ!]
午後2時ごろ、コピーをしていると、岸辺さんがやってきた。あれからよく会うのも何かの縁かしら? いや、岸辺さんが気付いてくれるようになったからかもしれない。

「昨日はごちそうさまでした」

「いや、割り勘だからお礼は半分でいいよ」

「でも、楽しくておいしい食事でした。コピーを代わりましょうか?」

「いや、横山さんが終わってからでいいよ。特に急いでないから。でもコピーばかりしているみたいだね」

「皆さん忙しくて、コピーをする人がいないから、仕方ないです」

「この間、講演会に行ったら、コピーをしっかりできることも大事だと言う話を聞いたよ」

「どんな話ですか」

「今では超有名な日本人の外科医で難しい手術ができるので、米国と日本を行ったり来たりして引っ張り凧だとか。そのいきさつを聞くとアメリカンドリームの典型的な話だった。

若いころ、その人は私立大学の医学部出身で日本の大学では研究をろくにさせてもらえないので奥さんと米国の著名な外科の教授の研究室へ留学したとのこと。留学先でも、給料が少なくて生活に苦労したが、教授の文献のコピーをいつも進んでしていたそうだ。

ぶ厚い製本してある医学雑誌をコピーするのは大変で、いびつになったりしやすいから、できるだけきれいなコピーを心がけていたとか。その真面目さ丁寧さに教授が気付いて、手術の助手をさせてくれたそうだ。

手術の助手をやっていると、器用さを認められて、難しい手術の助手もするようになり、ついに教授の代りに手術をするまでになったとか。何でもないコピーでも一生懸命にしたことが今日につながっているとしみじみ話しておられた」

「コピーでもおろそかにしてはいけない。ためになる話ですね」

「横山さん、パソコンはできないの?」

「パソコンは社内システムの入力のお手伝いをしていますし、Word、Excel、Power Pointの基本的なことくらいはなんとかできます」

「それだけできれば十分だ。僕もその程度だから」

コピーが終わったので席に戻った。なぜ岸辺さんは私にパソコンができるか聞いたのだろう?

理由は数日後に分かった。総務部長に呼ばれた。直接、部長に呼ばれることなどめったにないから、何か不都合でもあったのかと、おそるおそる席まで行った。

「まあ、掛けて」

「何かありましたか?」

「横山さんはパソコンはできるの?」

「はい、前の業務室で社内のシステムへの入力をしていましたし、総務部でも入力のお手伝いしています。それからWord、Excel、Power Pointの基本的なことくらいはなんとかできます」

「そうか、それならよかった。同じフロアーの企画開発室長から、相談があってね。プロジェクト関係が忙しくて、アシスタントがほしいが、会社に慣れている人でパソコンができるという横山さんをまわしてもらえないかという話があってね。ちょうど今月末でこの部へ来て1年になるから、契約の更新の時期だったので、こちらは新しい人でも構わないので、移ってもらうことにした。それでいいね」

「はい。私でいいと言われるのなら、かまいません」

「企画開発室に室長の右腕のプロジェクトマネージャーがいて、そのアシスタントをしてもらうと言っていた。結構ヤリ手みたいだから、少し大変かもしれないけど、よろしく頼みます。そのマネージャーを知っている?」

「多分、岸辺さんだと思います。この前、コピー機の紙詰まりを直してあげたことがあります。あとからパソコンはできるかと聞かれました」

「そうか、それでか、そういうことってよくある。会議で気の利いたことをいうやつを引き抜いてくることもあるから、まあ、これもご縁だ、がんばってくれ。派遣元の会社へは私の方から手続きをしておくから」

「分かりました。よろしくお願いします」

1週間後に親会社の担当者が契約の更新や配置部門の変更についての書類を持ってきて、異動の手続きは終わった。来週からカッコいい岸辺さんの元で働ける。仕事がうまくできるか心配だけど、精一杯頑張るだけ。

ブログにはこう書き込んだ。

〖カッコいい人の部下に呼び寄せられた。これってどういうことだろう?〗

コメント欄
[下心があるかもしれないから、気を付けたほうがいい。カッコいい男には特に注意すべし!]
[折角のチャンス、仕事をしっかりやって、嫌われないようにしないと]
[あなたに気があるんじゃない。ここはじっくり様子を見た方がいい]
月曜日、今日から企画開発室勤務。初日から遅刻しないように、いつもより早めに、アパートを出たので、8時20分にはフロアーに着いた。企画開発室は総務部とは反対側のフロアーの端にある。

企画開発室の中に入るのは初めてだった。4つの島(グループ)があるみたい。きょろきょろしていると一番端の小さな島に座っている岸辺さんが手招きしている。

「おはようございます。今日からお世話になります。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく。来てもらえてよかった」

「指名していただいたみたいですが、お役に立てますか?」

「横山さんなら大丈夫だと思ったから。ただ、指名したのは内緒にしておいて、何かとまずいから」

「分かりました」

岸辺さんのグループの席は企画開発室の一番端にあり、2人に指示が出しやすいように、岸辺さんの右前が部下の吉本さん、左前が私の席とコの字型になっていた。私専用のパソコンも1台、机の上に用意されていた。

そうこうしていると、吉本さんが出社して席に着いた。入社2年目とか、おそらく私と同い年のはず。

「吉本君、こちらが先週話していた横山さん、今日から僕のアシスタントに来てもらった」

「よろしくお願いします」

「よろしく、総務部にいたのかな、見かけたことがあるけど」

「そうです。私は派遣社員で総務部にいました」

「吉本君に言っておくけど、僕のアシスタントに来てもらったので、横山さんに仕事を頼みたいときは僕を通してくれ、いいね。横山さんもいいね。吉本君の仕事をするときは僕の許可を得てくれ」

岸辺さんは私に気を使ってくれている。岸辺さんの前では吉本さんと対等な立場にしておいてくれる。気遣いのできる人だ。

これで、吉本さんに仕事を頼まれることなく、岸辺さんの仕事に専念できる。総務部では何人もの人の小間使いだったけど、それが仕事だった。

9時になったので、岸辺さんはまず私を室長に紹介してくれた。

「室長、総務部から来てくれた横山さんです」

「室長の竹本です。岸辺君のアシスタントをよろしくお願いします」

「できるだけがんばります。よろしくお願いします」

室長は私を見て不思議そうな顔をしていた。きっとなぜ岸辺さんが私を指名したのだろうと考えていたのだと思う。

それから、企画開発室のメンバーに紹介してくれた。大きなチームがほかに3つあるので、それぞれのリーダーの席でチーム全員に紹介された。

私を知っていて手で合図する顔見知りの女子社員もいたが、大概は型通りの挨拶をするだけ。企画開発室の女子社員は手で合図してくれた派遣の子が一人いるが、他は全員大学卒の正社員で仕事ができそうな雰囲気のひとばかり。

独身の男性社員も何人かいるようだが、私には全く無関心だった。それというのも、私の服装はいうまでもなくいつものようにとても地味。新しい職場に変わったので、今日は気を使って、まるでリクルートスタイルになっている。まあ、その方が好都合だけど。

挨拶を終えて二人で席に戻る。吉本さんは席にいた。

「今日、仕事が終わったら、横山さんの歓迎会をしたいけど、二人の都合はどう? もちろん、費用は僕が負担するから」

「わざわざ私のために申し訳ありません。私は大丈夫ですけど」

「今日は人と会う約束がありますが」

「吉本君、それは何時から?」

「7時です」

「それなら30分位付き合ってくれないか。今日を逃すともうできないから、場所は会社の近くのビアレストランにするから」

「30分位ならいいですよ」

「それじゃ、5時になったらすぐに3人で行って始めよう」

「それから、横山さん、今日10時から、新規のプロジェクトの事前打合せをするので、3人で一緒に出席してほしい。打合せの議論をメモに取って会議録にまとめてもらいたい」

「そんな仕事、私で大丈夫ですか」

「大丈夫、僕もメモを取るから。そのメモもあとで渡すから、まとめてくれればよい」

「分かりました」

事前打合せは10時から昼頃までかかった。会社の会議にはお茶を出したことはあるけど、メンバーとなって出席するのは初めてで緊張した。ひな壇に岸辺さんを挟んで吉本さんと私が座った。

出席者はほかに10名くらいで、すべて管理職クラスの人だった。会議では岸辺さんが上手くリードしてメンバーにいろんな意見や要望を出させる。これをすべてメモに取っておいてあとでまとめるのが私の最初の仕事だった。

高校生の時は授業をノートに書き留めることは得意だったので、特別に難しいとは思わなかった。岸辺さんは発言者名と意見のポイントだけメモしている感じ。

私は名前が分からないので、座っている位置に番号を付けて発言をメモした。専門用語が出てきて意味が分からない発言もあったので困った。

会議を終えて席にもどると、岸辺さんが自分の取ったメモを私にくれた。そして、以前に行った同じような会議の会議録を例に示してまとめ方を教えてくれた。あとは私にまかせるから、午後から早速取りかかるよう言われた。

私は昼休みを終えると自分のメモと岸辺さんのメモを見ながらパソコンで会議録を作り始めた。

3時ごろには一応完成したので、プリントアウトして読み返してみたが、意味の通じないところが何か所かある。直しようがないので、3時半ごろ、岸辺さんに「分からないところもありますが」と言って、会議録を見せた。

岸辺さんはそれを読んで「よくまとまっている」と言ってくれたので、ほっとした。そして、私の分からないところを直してくれた。そして「来たばかりだからプロジェクトの内容を理解していないので、つじつまの合わないところはしかたないから気にしないで」と言ってくれた。

そして、再度プリントアウトして、吉本さんにも内容を確認してもらうように言われた。吉本さんに見てもらったけど、よくできていると言われた。

それから、岸辺さんは室長のところへ会議録を持って今日の打合せの報告に行った。岸辺さんはニコニコしながら席に戻ってきた。

「室長に会議録で報告しておいた。横山さんが作ったことも。いつもなら報告が次の日になるところなので、助かった。来てもらってよかったよ」

「要領が分かりましたので、次からは大丈夫です」

5時になると3人ですぐに退社して、私も以前行ったことのあるビアレストランに向かった。まだ5時過ぎなので客がほとんどいない。

奥の方のテーブルに席を取って、生ビールを3つ注文して、あとソーセージなどのつまみを注文。ビールが来たのですぐに乾杯。

はじめに3人が改めて自己紹介をした。私は24歳で、高校卒業後に人材派遣会社に就職して、この会社が3つ目の会社だとか、3年前にこの会社へ来て、業務室、総務部にいたことなどを話した。

吉本さんは入社2年で24歳、独身。有名大学の出身で、今日は学生時代から付き合っている彼女の誕生日で、このあと誕生祝いを予定しているとか。私に関心がないので、あまり話しかけない。そして5時40分くらいに次の約束のために退席した。

「今日はまだ月曜日だから6時半には終わりにしよう。それまでならいいね」

「6時半なら、総務部にいたらまだ仕事をしている時間です」

「残業代が少なくなるかもしれないけど悪いね」

「心配ご無用です。それよりもチャンと仕事をさせてもらえて嬉しいです。私専用のパソコンまで用意してもらってありがとうございます」

「でもコピーも頼むよ」

「もちろんです」

「会議録の出来は上々だよ、僕が作るよりもずっと正確だし、これなら安心して任せられる。メールもできる?」

「できますが」

「会議の日程調整に随分時間と手数がかかって大変なので今度調整を頼みます。要領を教えるから」

「やってみます」

岸辺さんと二人きりでお話ができて嬉しい。私は生ビールのお代わりをした。少し酔ったみたいで、遠慮がなくなって、聞きたいこと、話したいことが次々浮かんでくる。

「岸辺さんはお付き合いしている人はいないんですか?」

「残念だけどいない。本社へ転勤になってしばらくして取引のある会社の女性と付き合ったことがあるけど別れた。それからずっと彼女なし」

「総務部に女子の派遣社員が私のほかに二人いるのですが、岸辺さんのことを知っていて、カッコいい独身のエリートの部下になるんだ!と羨ましがられました」

「僕がカッコいい?」

「はい、スーツもカッコいいし、ネクタイもセンスがいいし、それにそのカバンも、ブランドでしょう」

「特にブランドに拘っているわけじゃないけど、良いものを選んではいる。その方が飽きも来ないし、長持ちすることが分かっているから。このスーツも4年前のものだよ。それに、僕はエリートなんかじゃない、地方大学出身で、吉本君のような有名大学を出ているわけでもない。仕事も精一杯で何とかこなしているだけ」

「女子は見る目がシビヤーですから。出身大学じゃなくて仕事ができるかを見ているんです。将来性を見ているんです」

「はたから見ていてそんなこと分かるもんなのかね」

「分かります。仕事ができる人は相手の気持ちや立場が分かってうまく仕事をまわしています。それに他人への心遣いができます」

「そういうもんかね。僕は強引に進めたいといつも思っているけどなかなかうまくいかなくて、調整ばかりしている」

「岸辺さんは仕事の進め方が上手だと思います。会議に出て分かりました。室長も一目置いているのではないですか?」

「入社以来の長い付き合いなので信頼はされていると思っているけどね」

仕事の話などをしていたらすぐに6時半になった。岸辺さんの話をもっと聞きたかったけど、今日はここまで。岸辺さんがだらだらと飲むのは嫌いだと言って切り上げるので仕方がない。

帰る方向が同じなので一緒に帰る。ほろ酔い気分で電車に乗ったけど、丁度帰りのラッシュで車内ではもうとても話などできない。岸辺さんは、目で合図して二子新地で降りて行った。ごちそうさまでした。

1日目は無事に終わった。カッコいい岸辺さんとこれから仕事ができると思うと嬉しくなる。岸辺さんはチョットせっかちだけど、私にも心遣いをしてくれて、いい人だ。

仕事も室長の右腕と言われていたように、そつなくこなしている。ついて行くのは大変そうだけど、私でも何とか務まりそうなので安心した。

ブログにはこう書き込んだ。

〖カッコいい人の部下になって初仕事をした。何とか務まりそう! 歓迎会をしてもらってお話しした。35歳、独身、彼女なし!〗

コメント欄
[しっかり仕事してチャンスをものにしなくちゃ!]
[上手くおだてて仕事をさせるつもりかもしれないから気を付けて!]
[あまり期待しないで淡々と仕事をこなすべし!]
私が岸辺さんのアシスタントに来てから1か月ほどたち、仕事がスムースにこなせるようになってきた。プロジェクトの会議録は必ずその日のうちに仕上げられる。岸辺さんは当日か翌日にそれ持ってメンバーを回って確認している。

5つのプロジェクトの関係者の会議の日程調整もするようになっているけど、これは相手のいることなので、結構手数がかかる。ただ、根気よくやればそのうちに整うので、あとは人数に合わせて会議室を確保しておけばいい。

岸辺さんはこれまでよりも各担当者との調整や根回しに専念できているようだ。また時間の余裕もできたみたいで、新しい企画について室長と相談しているのを見かけるようになった。

私が仕事を覚えたので、ここのところ、仕事はほとんど定時に終わるようになっている。ただ、残業が無くなったのは少し痛い。でも岸辺さんが喜んでくれているし、コピーやお茶くみよりも、仕事にやりがいがあるので、これでいいと思っている。

「残業が無くなって給料が少なくなって申し訳ないね」

「毎日仕事が楽しいので構いません。コピーだとお手当をいただかないと遅くまでやれませんから」

「それもそうだけど」

「いろいろな仕事をさせてもらえて嬉しいです」

「明日、大学の先生のところへ研究委託の打合せに行くけど、一緒について来てくれないか。代わりに行ってもらうこともあるから先生に紹介しておきたい」

「分かりました。場所はどこですか?」

「横浜市の日吉で少し遠いけど、アポは3時だから、午後1時過ぎに出かけよう。都内でないので日帰り出張扱いになるから手当が少し出るかな」

「ありがとうございます」

「先生との打合せメモの作成と帰ってからの出張旅費の手続きをお願いしたい」

「分かりました」

研究所だけでは手が回らないので、プロジェクトの準メンバーの位置づけで、新しい素材の開発を大学に委託しているという。

私立の大学は学生さんがいて人手があるので結果は必ず出してくれるから頼りになると言っていた。でも確実な成果を得るためには事前打合せとフォローが欠かせないから、やはり四半期ごとに打合せが必要と言う。

今日は朝から晴れている。岸辺さんと初めての外勤だ。また、ゆっくり二人でお話ができそう。アポは3時とのことで、午後1時に会社を出発して、帰りは直帰とだという。

大学へは約束時間の30分前に到着した。でも、大学のキャンパスはすごく広いので入口から先生の部屋まで結構時間がかかった。次に一人で来られるように、行き方をメモしておいた。

研究室の建物の入口から中に、エレベーターで4階へ、先生の部屋の前で時間を調整して、丁度3時にノックして部屋に入る。

はじめに私を教授に紹介してくれた。名刺交換をする。名刺は岸辺さんのところへ来て生まれて初めて作ってもらった。出来上がった会社名の入った自分の名刺を見てとっても嬉しかった。今日はそれを始めて使った。

打合せは30分くらいで終えるつもりと事前に聞いていた。この程度で切り上げないと忙しい先生に迷惑がかかるとのこと。私がメモを取っているので、岸辺さんは細かいところまで打合せしていた。このごろは私にまかせて自分でメモは取らなくなっている。

予定どおりに打合せは終了した。まだ、4時前なので、学生ラウンジへ行って、一休みすることになった。岸辺さんとゆっくりお話しができる。二人でコーヒーを飲む。

「お疲れさん、メモのまとめを頼みます」

「分かりました。大学教授って普通の人ですね。怖い先生かと思っていました」

「そう、いたって普通。大体、変わった人は教授になれないから、安心して普通に話ができる」

「大学のキャンパスっていいですね」

「活気もあるけど、ゆったりしていて、落ち着く。僕も好きだ。学生時代が懐かしいよ」

「私も大学へ行きたかったです」

「大学へ進学しなかったのは、お父さんが亡くなったから」

「はい。成績も悪くなかったので、母は進学を勧めてくれましたが、苦労をかけたくなかったので、高校を卒業してすぐに就職しました」

「僕は大学1年の時に両親が交通事故に遭って亡くなってしまった。幸い保険金があったので、なんとか卒業できたけど」

「パソコンはいつ勉強したの?」

「就職してからです。前の会社にいるとき、廃棄するパソコンを貰って、独学しました。会社がパソコンの専門雑誌をとっていたのですが、私が雑誌類を整理する係だったので、廃棄するその雑誌を家に持ち帰って、休みの日に初心者向けの記事を試しながら覚えました。分からないところは、会社で聞いたり、操作するところを見させてもらいました」

「随分努力家なんだね」

「パソコンくらいできないといけないと思って頑張って覚えました。でも、ようやく役に立ちました。覚えておいて良かったです」

「総務部ではパソコンを使った仕事はしなかったの?」

「総務部では社内システムへの入力くらいで、来客へのお茶の給仕とコピーなどが忙しくて、そこまでさせてもらえませんでした。それに自分専用のパソコンがなかったですから」

「うちの企画開発室もパソコンの専門雑誌をとっていたから、時間が空いた時に読んで最新の情報を教えてくれる? 僕もなかなかついて行けてないから」

「ありがとうございます。そうさせてもらいます」

「じゃあ、今日は直帰ということで、ここらで引き上げるとするか。同じ経路だから、南部線経由かな?」

「それが便利です」

「溝の口は交通の便がいいね」

「昔から住んでいますが、会社が変わっても転居せずにどの方面でも何とか通勤できますので、意外と便利です」

「アパート住まいなの?」

「かなり昔に父が建てたというプレハブのアパートに住んでいます。近くに住んでいる大家さんが知り合いで、駅からも少し遠いので、家賃を安くしてもらっています」

「会社からの補助もないから大変だね」

「仕方ないです。でもなんとか一人で暮らしていけるので満足しています」

私は溝の口駅で降りて直帰した。いつもより、通勤時間分早く帰れたので良かった。夕食を誘われるかと思っていたけど、岸辺さんも乗り換えて直帰した。期待しないことにしているので、気にしない。

岸辺さんは歓迎会以来、私を一度も食事や飲みに誘ったりしない。きっと、部下になったので、誘うと無理強いするみたいなので、気を使って遠慮しているのだと思う。いい人だ。

ブログにはこう書き込んだ。

〖カッコいい上司と二人で外勤した。二人でプライベートなお話ができた。二人とも直帰だったけど、誘われなかった〗

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[二人だけで話ができただけよかったと思わなくちゃ]
[その気があれば誘ってくれたと思う。今はそこまで親しくなっていないから、しかたがない]
[期待し過ぎると痛い目に合うから気を付けて!]
木曜日の朝、目が覚めると身体がだるくて熱っぽい。熱を測ると39℃もある。昨日の夕方から身体がだるくて、気分が悪かった。お風呂に入って早めに寝たけど、夜中に寒気がした。これじゃだめだ。8時半過ぎに会社へ電話を入れると岸辺さんが出た。

「おはようございます。岸辺さんですか?」

「横山さんか、どうした」

「昨晩から熱があって、今日1日休暇をお願いします」

「分かった、大丈夫か? ゆっくり休んで」

「大丈夫です。すみませんがよろしくお願いします」

電話を終えると、すぐにまた横になって眠った。気がつくと、もうお昼になっていた。まだ、熱っぽい。お腹が空いたので昨晩の残り物を冷蔵庫から出して電子レンジで温めて食べる。また、すぐに横になって眠る。

次に目が覚めたらもう6時になっていた。明日までに熱が下がるか少し心配になる。7時になったので、冷凍してある料理を取り出して電子レンジで温めて食事をする。冷凍庫に料理を保存してあるからこういう時には便利だ。それも一食分毎に小分けしてある。

結局、今日は丸一日寝ていた。仕事が変わったりしたので、疲れが出たのかもしれない。夜中に悪寒がしてまた熱が出た。アイスノンを冷凍庫から取り出す。使って一度解けたので、入れておいたけど、凍っていたのでよかった。頭を冷やす。ずっと熱が下がらないのでとても心細い。

金曜日の朝、気が付いたらもう明るくなっていた。時計は8時。8時半まで待って岸辺さんに熱が下がらないからもう一日休ませてもらうと電話を入れた。それから、母に電話する。

「熱が出て、下がらないから、会社を休んでいるけど、ごはんを作りにきてくれない?」

「3日前から野上さんの娘さんの家に来ているの。赤ちゃんが生まれて、そのお世話で手が離せないの。明日の土曜日にはご主人が休みになるから、顔を出せると思う。悪いけど、もう少し頑張って」

「分かった。私の方は何とかなるから、赤ちゃんと娘さんのお世話をしてあげて」

母は忙しくて手が離せないので明日まで自分でなんとかするしかない。まだ、冷凍庫には料理が数日分あるから何とかなる。けど、心細い。喉が渇いているので牛乳を温めて飲む。身体がだるいので、また、横になって眠る。

3時ころにお腹が空いたので食事をする。また、眠る。

6時に目が覚めた。随分寝たのでしばらくは眠れそうにない。辺りが薄暗くなっているので明かりをつける。明日も熱があったらどうしようと考えていると携帯が鳴った。

「横山さん、岸辺だけど、心配なのでアパートの前に来ているけど、お見舞いに行ってもいいかな」

「ええ・・・ご心配は無用です。大丈夫ですから」

「せっかく来たので、無事を確認したいから顔だけ見せてくれ。お弁当を買ってきたので渡したい」

「分かりました。2階の端の部屋です」

岸辺さんが見舞いに来てくれた。嬉しいけど、喜んでいる暇などない。着の身着のままのトレーナー姿で、2日も顔を洗っていないし、お風呂にも。どうしよう、どうしようと言っても、熱があって身体がだるい。

ドアがノックされたので、メガネをかけて玄関に向かいドアを半開きにした。岸辺さんが心配そうな顔をして覗き込んでいる。

こんなひどい恰好を見られてしまってどうしようと思ったらめまいがして倒れそうになった。岸辺さんの手が伸びて身体を支えてくれた。

「大丈夫? 入ってもいい?」

私は頷くしかなかった。岸辺さんは私を抱きかかえながら、部屋に入った。

1DKの部屋は古いけど、休みの日には必ずお掃除してすみずみまできれいにしている。6畳間に敷いてあった布団に寝かせてくれる。岸辺さんは額に手を当てたが、その手が冷たくて心地よい。

「熱は何度あるの?」

「朝、計ったら39℃ありました。夕方も同じでした」

「冷やしている?」

「アイスノンが融けてしまってそのままです」

「少し冷やした方がいい。氷はあるの? 冷蔵庫を開けるよ」

冷蔵庫を開けられた。でもいつも中はきちんと整理している。製氷器から氷を取り出して、氷水でタオルを冷やして、それを額に当ててくれる。

「冷たくて気持ちがいいです。ありがとうございます」

「医者へ行ったの? 薬は飲んでいる?」

「行っていないです」

「こんな高熱が出ているのに行かなきゃダメだ。今日はもう無理としても、明日の朝には行かないとだめだ。咳は出てないから肺炎ではないとは思うけど」

「すみません」

「いつも携帯している解熱鎮痛薬があるから、これを飲んでみて」

私はしぶしぶ薬を飲んだ。もともと薬は好きな方ではない。しばらくすると眠くなって眠ってしまったみたい。

目が覚めると、岸辺さんも壁に寄りかかって眠っていた。仕事で疲れているのにわざわざ来てくれたんだ。

「岸辺さん、すみません、眠ったみたいで、少し楽になりました」

「ごめん、僕も眠っていたみたいだ」

「熱を測ってみよう」

熱を測ると37℃まで下がっていた。時計を見るともう10時だった。

「買ってきた弁当を食べないか」

「いただきます。今日は少ししか食べてなくてお腹が空きました」

「お湯を沸かしてお茶を入れてあげる」

「すみません。お願いしていいですか」

岸辺さんは電子レンジでお弁当を温めてくれる。お茶を入れて二人でお弁当を食べた。二人共、お腹が空いていたので夢中で食べた。

岸辺さんは手を洗ってから、持ってきたリンゴとキュウイの皮を剥いてカットしてくれた。

「器用ですね」

「これくらいできるさ」

「ありがとうございます。男の人に果物を剥いてもらったのは初めてです。いただきます。・・・・おいしいです」

「よかった。早く元気になってくれ」

「あのーお願いがあるんですが、聞いてもらえますか」

「いいよ。何?」

「心細いので、どうか今晩泊まってもらえませんか? お布団はもう1組ありますので」

「ううん、心配だからそうしようか。部下の面倒を見るのも仕事のうち、室長にも訪問すると断ってきたから、いいだろう」

岸辺さんにそばにいてほしかった。聞き入れてもらえたので嬉しかった。それを聞くと、私は少しよろけながらトイレに立った。

部屋にもどると岸部さんがめずらしそうに部屋の中を見回している。私の部屋は家具も少なくてさっぱりしている。小さな机の上にラップトップのパソコン、また、本箱にパソコンの雑誌と単行本。

よろけながら押入れから布団を出してあげる。それを岸辺さんは私の横に少し離して敷いた。狭い部屋は布団でいっぱいになった。

「すみません。眠らせて下さい」

布団に横になるとメガネを外してすぐに眠ってしまった。

夜中に気が付くと、明かりが落としてあって、岸辺さんは布団で眠っていた。岸辺さんに寝顔を見られたに違いない。それに腕時計を外していたので、左手首の傷跡も見られたかもしれない。でもそばで寝てくれているのでとっても心強くて安心できる。ありがたい。

額に手を当てられたので目が覚めた。岸辺さんはもう起きていて、すでに布団は押入れの中にしまわれていた。はっきりみえないのですぐにメガネをかける。

「おはようございます。泊まっていただいてすみません。よく眠れてだいぶ良くなりました」

「まだ、熱があるみたいだから、9時になったら近くの医者に行こう」

「すみません。行って診てもらいます」

「もう少し横になって休んでいて、8時になったら冷蔵庫の中のもので簡単な朝食を作るから」

8時になったので、岸辺さんは牛乳を温めて、パンをトーストして、卵をゆでて、簡単な朝食を作ってくれた。男の人の作る朝食は本当に簡単なものだけど、私はすっかり食べた。食べないと風邪はよくならない。

それから岸辺さんが9時にタクシーを呼んでくれて、私が行ったことのある駅前の医院に連れていってくれた。診断は風邪だった。薬を貰って、コンビニによって昼食用にサンドイッチやおにぎりを買って、またタクシーを呼んで帰ってきた。

帰るとすぐに貰ってきた薬を飲ませて、布団に寝かせてくれた。私はしばらく眠った。

昼前になると、熱もほぼ平熱まで下がってきたので、岸辺さんは昼食を食べたら帰ると言う。申し訳なくて、もうこれ以上は引き留められない。

私がサンドイッチを、岸辺さんはおにぎりを食べていると、玄関の鍵を開ける音がする。母が入ってきた。岸辺さんは誰かと驚いている。

「母です」

「はじめまして、岸辺さんでしょ。美沙の母親の野上咲子です。娘がお世話になっております」

「はじめまして、岸辺です。横山さんが熱を出して会社を休んでいたのでお見舞いに来ています」

「美沙が話していたとおりの素敵な方ですね。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。娘が病気で休んでいることは知っていましたが、私もどうしても離れられない用事がありまして、ようやく来てやることができました」

「僕は何の役にも立っていません」

「そんなことはありません。娘は随分安心したと思いますよ」

「それではお母さまが来られたのでこれで失礼するよ。月曜日は無理して出勤することはないから、火曜日からでもいいからね。朝、連絡を入れてくれればいい」

「私のためにわざわざお見舞いにきていただいて、その上こんな汚いアパートに泊まってまでいただいて、本当にありがとうございました」

岸辺さんは母が訪ねて来るとは思っていなかった。母親が来たので安心して帰っていった。ありがとうございました。

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〖風邪で2日間休んだら、カッコいい上司がお見舞いに来てくれた。心細いから泊まってほしいといったら、泊まってくれた!〗

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[男には弱い女を見せればいいのよ]
[あなたのことが気になっているのかもしれない。脈があるかも!]
[上司だから何かあったら大変と思っただけかもしれない、喜び過ぎてはだめ]
木曜日の午後、今度は岸辺さんの体調が悪いみたい。身体がだるくて、仕事に集中できないから、早退すると言う。今日の午後は会議もないので、吉本さんと私に仕事の指示をして帰って行った。

私の風邪が見舞いに来てくれた時にうつったに違いない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

次の日、9時前に岸辺さんから電話があった。身体がだるくて節々が痛くて、熱も下がらなくて39℃あると言う。休暇届を出すことと今日の仕事の指示をされた。これから近くの医院に行くと言っていた。

今日の金曜日には午後からプロジェクトの進捗会議が設定されていた。進捗会議はプロジェクトの各担当がそれぞれの進捗状況を報告して情報を共有するための会議で、何かを決めることはない。

司会はプロジェクトリーダーの室長が行い、説明はプロジェクトマネージャーの岸辺さんが行うことになっていた。会議に使う資料はすでに私が作って完成していた。

室長のところへ行って、岸辺さんから今日も熱が下がらないので休暇届を出すのを頼まれたことと、プロジェクトの進捗会議の資料を説明して室長の指示を仰ぐように言われたことを話した。室長からは、横山さんが資料を作ったので説明もしてくれればいいと言われた。

午後1時からプロジェクトリーダーの室長の司会で進捗会議が始まった。資料の説明は私がして、各担当から進捗状況の報告があり、会議は滞りなく終了した。すぐに会議録をまとめて室長に提出した。室長に、岸辺さんが2日も休んで心配なので見舞いに行きたいと言って住所を教えてもらった。

岸辺さんのマンションは駅から5分と近かった。さすが岸辺さん、いいところに住んでいる。入口で携帯に電話する。

「岸辺さん、調子どうですか?」

「熱が下がらないので、1日寝ていた。医者へ行って薬を貰って飲んだからあと1、2日で良くなると思う」

「お見舞いに来ました。マンションの入り口にいます。ドアを開けて下さい」

「ええ…お見舞い、分かった、開けるから。部屋は3階の309号だ」

ドアのチャイムを鳴らすと、疲れた様子の岸辺さんが立っていた。「失礼します」と靴を脱いですぐに上がる。リュックと途中で買って来たレジ袋をキッチンに置いて、料理を始める。

「休んでいてください。簡単な夕食を作ります」

「悪いね、わざわざ来てくれて」

「帰り道だから気になさらないでください。上司の様子を見に来ました。室長に許可を得ていますし、住所も教えてもらいました。私の風邪をうつしたみたいで申し訳ありません」

「横山さんも誰かにうつされたんだろう」

「吉本さんかもしれません。先々週、身体がだるいとか言って、1日休んでいましたから」

「我がチームは風邪で全滅か! ところで、今日の進捗会議どうなった? 報告だけだから問題はなかったと思うけど」

「はい、岸辺さんに言われたとおり、室長のところへ資料を持って行って説明しました。そして岸辺さんに室長の指示を仰げと言われていますといったら、資料を作ったのは私だから説明役をしなさいと言われました」

「それでどうなった?」

「いつも岸辺さんがしているように説明しました」

「それで」

「滞りなく会議は終わりました。すぐに会議録を作って室長に提出してきました」

「室長はなんか言っていた?」

「岸辺君がいなくても大丈夫だな! と言っておられました」

「それは言い過ぎだと思うけど、まあ、うまくいってよかった」

「夕食は消化の良いうどんにしました。食べてください。食欲はありますか?」

「お腹は空く。いただきます」

私も一緒に食べる。

「だしが効いていてとてもおいしい。おかわりある?」

「食欲があるから大丈夫みたいですね」

岸辺さんはお腹が一杯になると元気が出てきたみたい。熱を測ると37℃だった。私は、食事の後片付けをしてから部屋を一回り見て歩いた。それから、ベッドのそばにある一人掛けのリクライニングソファーに腰かけた。

10畳くらいの生活スペースには、家具と言っても、他には大型テレビ、パソコン用の机と椅子、大きめの書棚、座卓しかない。それに少し大きめのセミダブルのベッド。これに岸辺さんが寝ている。これくらいの大きさがあるとベッドの上で1日過ごせそう。

「この一人掛けのソファー座り心地が良いですね」

「外国製で値段も相当したけど、これに座ってテレビをみるといつのまにか眠ってしまうほど座り心地がいい。椅子とベッドは休息に使うものだから納得のいくものにしている」

「やっぱりブランド好きですね。このお部屋も広くて良いですね、お家賃も高いでしょう」

「本社に異動になった時に独身寮から引っ越したんだ。家賃を会社が1/3払ってくれると言うので少し高いけど良い物件を選んだ。広めの部屋だとゆったりできる」

「彼女が来ても良いように?」

「ううんーまあ、それもあるかな。でも残念ながら誰も来たことがない。横山さんがはじめてだ」

「女の人が独身男性の部屋に行くときは相当な覚悟をして行きますから」

「相当な覚悟ね!」

「私が来たのは業務の一環ですから、誤解しないでください。室長にも断ってきましたから」

「分かっているよ」

「確かに、女性の痕跡が全くありませんね。それに彼女がくるのに本棚にアダルトビデオなんか置いていませんよね!」

「ええ・・そうか、会社で女の子に言いふらすのだけはやめてくれ。健康な独身の男なら誰でも持っているよ!」

「大丈夫です。言う訳ありません。だって、ここへ来たのは室長しか知りませんし、誤解されると困りますので他言はしません。安心してください。でも私も興味があるので貸してください」

「もう、勘弁してくれ! 熱が上がりそうだ」

「へへへ・・・」

「ここに引っ越してから何度も風邪で寝ていたけど、来てくれたのは横山さんが初めてだ。本当にありがとう」

「彼女がいたって前におっしゃっていましたよね。看病に来てくれなかったのですか」

「ああ、風邪だと言うと、うつるといけないから治ってから会いましょうとか言われた」

「そういえば、私の元彼も風邪で寝込んでいた時に見に来てくれなかった。大事な仕事があるからとか言って」

「僕も彼女が風邪で寝込んだと聞いた時、お見舞いに行かなかったけどね」

「彼女は一人暮らしだったのですか?」

「いや、両親と同居していた」

「それなら行く必要がありません」

「まあ、そうだけど」

「本当にお付き合いしていたんですか?」

「彼女の家まで行って両親に紹介されたくらいだから付き合っていたといってもいいんじゃないか」

「そこまで進んでいるのなら、なぜ来てくれないのか私には分からない。私なら泊まり込んででも看病しますけどね」

「横山さんの言うとおりだ。別れた理由もその辺にあったと思っている。本社に来てしばらくしたころ、提携先の会社を打合せで訪問した時に、頼まれて合コンに出ることになった。そこで彼女と知り合った。彼女は有名大学を出ていて美人で良家のお嬢さんと言うか、気立ての良い子だった。僕は一目で彼女が気に入った」

「品質重視でブランド好みの岸辺さんらしいです」

「どういう訳か、彼女も僕のことが気に入ってくれて付き合いが始まった。彼女は3姉妹の末っ子で、姉2人は結婚していた。付き合って3か月くらいで家に招かれて両親に紹介された。奥沢にある大きな一戸建てだった。父親は商社の取締役で、我が家とは雲泥の差。天涯孤独だと言ったら構わないと言われた。結婚したら娘さんとの同居を望んでいたのかもしれない」

「婿養子を考えていたのかもしれませんね」

「僕は彼女を大切にした。デートの場所やレストランにも気を遣った。プレゼントにお金も使った。そして男女の関係にもなった。素敵な娘と付き合うのが嬉しかった。でも段々付き合うのに疲れて来た。気を使うのはいつもこっちで彼女はそういうのに慣れていた。僕の気遣いが当たり前で、確かに病気の看病にも来てくれなかった」

「そこが私には分かりません」

「そんな一方的に気を使う関係がいやになってきて別れを切り出した。彼女は突然の別れ話に驚いて泣いた。彼女には僕が別れたいと言う理由が理解できなかった。彼女は悪くなかった。当たり前に自然に振舞っていただけだった。彼女には本当に悪いことをしたと思っている」

「岸辺さんは悪くない。元々相性が合わなかったのだと思います」

「僕が悪かったんだ。それからは女性との付き合いができなくなった」

「私は今の話を聞いて元彼とは別れてよかったと気が楽になりました」

「彼はきっと悔いていると思うよ」

「岸辺さんは優しすぎる。もう少し我が儘に、自分に正直になった方が良いと思います」

「僕には僕の生き方しかできないから」

「私だったら別れたいと絶対に言わせなかったと思う。こんな良い人に!」

「慰めてくれてありがとう」

岸辺さんはきっと誰にも話したことがない別れた彼女のことを私に話してくれた。なぜだか分からないけど、風邪で寝込んで弱気になっていたのかもしれないし、私だから気に掛けないで話しやすかったのかもしれない。でも岸辺さんは私に話して気が楽になっているように思えた。

私は9時少し前に、明日のお昼にまた様子を見に来ると言って帰ってきた。明日にはもう少し元気になっていてくれるといいのだけど。

土曜日、私がお昼に岸辺さんを訪ねると、熱が37℃まで下がっていた。あと日曜日一日で回復すると思う。すぐに部屋の中をひととおり見て回る。

「お弁当を作ってきました。多めに作ってきましたので、夕食もこれで済ませて下さい」

「ありがとう、お弁当を買いに行かなくてもいいから、助かるよ。そのうち、食事をご馳走するよ」

「気にしないでください。私の看病をしていただいたお礼です。心細かったのでとっても安心で嬉しかったです」

「AV片付けたんですね」

「もう、それを言ってからかわないでくれ。だから片付けた」

「本棚には真面目な本もありますね。『史記』という本がシリーズでありますが、確か中国の歴史の本ですよね」

「そう、先輩から勧められて1巻だけ買ってみたけど、結局7巻まですべて買ってしまった。もう3回くらい繰り返し読んだかな」

「おもしろいですか?」

「紀元前の中国の王朝の栄枯盛衰の歴史だけど、それに絡んだ国王と家臣の信頼、忠義、嫉妬、親子の情愛、男女の憎愛などがリアルに描かれている。昔から人間は全く変わっていないとつくづく思ったし、人間はどう生きるべきかを考えさせられた」

「私も『菜根譚(さいこんたん)』という中国の古い人生訓をまとめた本をネットで見つけて読みましたが役に立っています」

「それなら僕も持っている。本棚にないかな?」

「ありました。読んだのですか?」

「ああ、2回くらい繰り返し読んだかな、でも納得できない箇所がまだ相当にある」

「私は気持ちが落ち込んでいる時に読んだので、随分助けられました。同じ本を読んでいたなんて思いもしませんでした」

「AVばかりを見ている訳じゃないから、本棚はチャンと見てほしいよ!」

「ごめんなさい。岸辺さんのこと見直しました」

それから、作ってきたお弁当を二人で食べた。高熱で汗をかいていたに違いないから着替えをした方が良いと言って、下着などを着替えてもらった。そのあと、岸辺さんはまたひと眠りした。

私はその間に溜まっていた衣類を洗濯してベランダに干してあげた。そして岸辺さんがお昼寝から目覚めるのを待って帰ってきた。

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〖カッコいい上司が風邪で2日間休んだからお見舞いに行った。なぜだか、別れた彼女のことを話してくれた〗

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[きっと助かったと感謝していると思うよ。元カノの話をしてくれたのは気を許している証拠]
[あなたのこと何とも思っていないから、話しただけじゃない]
[風邪で気弱になっていたから、誰かに聞いてもらいたかっただけ]

日曜日の朝に電話した。岸辺さんはもう熱が下がったといっていたので安心した。だからその日は訪問しなかった。これ以上は業務の一環ではなくなると思ったから遠慮した。
私が岸辺さんの部下になって3か月経った。仕事も覚えて来たので、任せられることも多くなった。吉本さんより頼りにされているところもある。ただ、岸辺さんはこれを露骨にすると吉本さんも気にするだろうと、心がけている。私もそれが分かっている。

ここへ来てからの主な仕事は、会議録を作ることだったので、会議にはすべて出席させてもらっている。あとは会議の日程調整と資料作り。それで段々と進行中のプロジェクトの内容も分かってきた。

それで、私の頭の整理のために、現在5件進められているプロジェクトの各会議の日程調整を間違いなく開始できるようにスケジュールの一覧表を作った。岸辺さんは、これを見れば会議の日程調整を間違いなく開始できると喜んでくれた。

岸辺さんは自分の作った資料を私に見せて、意見を聞いたり、ミスタイプのチェックをさせるようになった。判断に迷うと私の意見を聞くこともある。

私は岸辺さんと違って、少し距離をおいて見ているので、参考になるとのこと。当事者は意気込みが強すぎて感情的になるきらいがあると言っていた。

岸辺さんは部下には、意見を聞くと自分の意見を言ってくれるが、一旦決めたことには従って実行してもらいたいと思っているみたい。

その点、私はいろいろ意見を言うが、岸辺さんが判断して決めたことはそのとおりに一生懸命に実行する。吉本さんは自分の意見と違うことには消極的で、それを納得させるのに手間がかかるみたいで岸辺さんは手を焼いている。

岸辺さんは仕事をできるだけ定時に終わらせるようにしている。遅い時間になると調整や交渉する相手が退社したり疲れてきたりして能率が悪いとか。だから、私の残業もほとんどない。早く帰れるのはいいが、総務部にいるときより給料が少なくなっている。

岸辺さんは総務部にいたころよりも会社に役に立つ仕事をしてくれているのに申し訳ないと気にしてくれているが、仕事が楽しいから気にしなくてよいと言っている。

岸辺さんが時々こちらを見ながら何か室長と相談している。席に戻ると、私に業務内容が変わってきたので室長と相談して契約をし直すから給料が幾分上がるかもしれないと言ってくれた。私は給料が上がるより、室長に仕事を認めてもらえたことが嬉しいと言った。

それから2週間ほどたって、親会社の担当者が私を訪ねてきて業務内容の打合せをした。前もって岸辺さんと打合せたとおり業務の増加内容を話したが、契約をやり直すとのことだった。

終わってからすぐに岸辺さんに小さな声で耳打ちをした。

「お給料を上げていただきました」

岸辺さんも小声で聞く。

「いくら上がった?」

「月額3万5千円です」

「前の残業手当と比べてどうなの?」

「こちらの方が少し多いです。ありがとうございます」

「室長にも目立たないようにお礼を言っといて」

「分かりました」

私はすぐに室長にお礼を言いに行った。室長からはこれからも仕事をしっかり頼みますと言われた。

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〖カッコいい上司が私のお給料を上げてくれるように交渉してくれて、お給料が随分上がった〗

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[もっと働かせようと考えているから過労にならないように気を付けて]
[あなたのお給料のことを気にしてくれるなんてそんな良い上司はいないよ]
[あなたのことを相当に思ってくれている。これは尋常じゃない!]
金曜日、仕事を終えて帰宅の準備をしている岸辺さんに私は小さな声で耳うちする。

「岸辺さん、ご都合がよかったら土曜日の夕方、お礼に食事にご招待したいのですが」

「いいね。招待をうけるよ。割り勘でね。場所は?」

「自宅で作りますから、お好みを言ってください。和食でも、中華でも、洋食でもいいですから」

「ええ・・・、横山さんのアパートで! 何でもいいの? じゃあ和食が食べたい」

「じゃあ、和食を準備します。6時にお待ちします」

岸辺さんは私の招待を受け入れてくれた。どんな気持ちで受け入れてくれたかは分からないけど、私は岸辺さんとご飯を食べながらゆっくりお話がしたかった。

6時丁度に岸辺さんはドアをノックした。仕事で訪問するときと同じ、おそらくアパートの前で時間を調整していたはず。岸辺さんらしい。

「こんばんは、お言葉に甘えてご馳走になります。これは白ワインとケーキ」

「ありがとうございます。どうぞお入りください」

すでに料理はほとんど出来上がっていて、座卓に並べてある。本格的な和食のフルコースで、先付、吸物、刺身、焼物、酢の物、炊合、蒸し物、揚げ物、ご飯・味噌汁、果物をそれぞれ二人前作った。

「日本酒も用意しました。冷ですか? お燗しますか?」

「冷でお願いします」

「分かりました」

「作るのに随分時間がかかったんじゃないかな。品数が多いね」

「3時ごろから作りはじめました」

「食器もちゃんと二組あるんだね、僕は一組もないけど」

「女の子は大抵二組揃えていると思います。お友達を呼んだりしますから。私は母親ですけど」

「いただきます」

「お酒もどうぞ」

「どうして招待してくれたの?」

「この間の看病のお礼です。泊まってまでいただいたので、それと昇給してもらったお礼です」

「僕の看病に来てくれて食事を作ってお弁当まで作ってくれたのでお相子、それに昇給は実力、頼んだのは僕だけど室長が認めたからだよ」

「でもどうしてもお礼がしたくて。あの時はありあわせの材料でうまくできなかったので」

「でもとてもおいしかったよ」

「今日の料理はどうですか」

「それ以上においしいね、久しぶりだ、こんなにうまい和食は。料亭へ行ったみたいだ。わざわざありがとう。奥さんにする人は幸せだな」

「それならいいんですけど」

献立は、鯛とヒラメの刺身、ブリの照り焼き、カボチャの煮物、タコの酢の物、海老とキスと野菜のてんぷら、茶碗蒸し、炊き込みご飯。

岸辺さんはお酒と白ワインを飲みながら残さずに食べてくれた。私もお酒を飲んで少し酔ったみたいでたくさんおしゃべりをした。

食べ終わると、すぐに後片付けをして、デザートに買ってきてもらったケーキを食べる準備をする。

二人でケーキを食べていると、岸辺さんは腕時計を外した私の左手首に自然と目が行ったみたい。いつもならサポーターをして傷の痕を隠しているけど、今日は料理をするためにサポーターをしていなかったことを忘れていた。右手で隠そうとしたら、岸辺さんも目をそらせた。

「手の傷、目立ちますか?」

「いつもは腕時計をしているので分からないけど、目に着くね」

「自分で切った痕です」

「自殺でもしようとした?」

「3年ほど前ですが、付き合っていた人が別れようと言うので、悲しくなって」

「切り傷が大きいから大量に出血したんじゃない」

「発見されたときは血の海だったそうです。母が偶然、訪ねて来て見つけてくれて、救急車を呼んで病院に運ばれました。もう少し遅かったら助からなかったと言われました」

「お母さんは随分驚かれただろう」

「気が付くと母がいて、勝手に死んだらダメ、私が一生懸命に育てたんだからと、きつく叱られました」

「そのとおりだよ、一生懸命に育てた娘が自分より早く死んだら悲しすぎる、それも自殺ならなおさらだ」

「母には本当に心配をかけました。その時、これから何があっても自分で命を絶たないことを心にきめました」

「でも本当に辛かったんだ」

「私は好かれていると信じて、身も心も尽くしてきました。それで好きな人ができたから別れてくれと言われて、悲しくて、悲しくて、死にたいと思いました」

「僕も彼女に別れてくれと言ったことは、今でも悔いている」

「でも岸辺さんは好きな人ができたからではないでしょう」

「そうだけど、彼女の信頼を裏切ったのは同じだ」

「その後、彼女はどうしました?」

「風の便りでは、ほどなく新しい彼氏を見つけて、1年後に結婚したと聞いた。だから、ほっとしている」

「岸辺さんはやっぱり優しいです。私の元彼とは違います」

「男って皆同じだよ」

「病院のベッドで考えました。一度死んだのだからこれからは余生だと、それならもっと気楽に生きようと思いました」

「生き方が変わったの?」

「私、それからは何事にも期待することがなくなりました。あきらめたと言ってもいいのかもしれません。あきらめていると楽ですから」

「そうだね、あきらめていると、期待しないし、何か少しでもいいことがあると、とっても得した気分になれるね」

「岸辺さんと私は考え方が似ているかもしれません」

「そうかな」

岸辺さんはしばらく黙り込んでいた。

「唐突だけど、横山さん、僕と付き合ってくれないか? 上司としての僕ではなく、普通の男として」

「ええ・・・」

「迷惑だったかな、ごめん、今の話、なかったことにしてくれ」

「いえ、決していやじゃないんです。想定外で驚きました」

「立場を利用しているようで申し訳ない。素直な気持ちで付き合ってみたいと思っただけだから」

「そう言っていただいて嬉しいのですが、どうお付き合いして良いのか、気持ちの整理がつきません。しばらく返事を待っていただけますか?」

「分かった。返事は時間が掛かっても構わないから、考えてみてほしい。迷惑だったら、なかったことにしてくれればいいから」

「勝手言って申し訳ありません」

「じゃあ、これで帰ります。ご馳走様、ありがとう」

岸辺さんは急いでアパートを出ていった。正直、岸辺さんに交際してくれと言われて嬉しかった。岸辺さんに好かれたいと思う気持ちがあったから食事に招待したのだから。でも、手首の傷がピリピリ痛んだ。

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〖カッコいい上司をお家に招待して夕食を作ってご馳走した。左手首の傷跡の話をしたら、交際を申し込まれた。どうしよう!〗

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[受けたいんでしょ。もっと自分に正直になれば]
[よくよく考えた方がいい。男は気まぐれだから。後悔先に立たず。だめになったら今の会社やめることになるけどいいの]
[もともとあきらめていたんでしょ。だめもとで受けてみてはどうなの]