地味子のセカンドラブー私だって幸せになりたい!

木曜日の午後、今度は岸辺さんの体調が悪いみたい。身体がだるくて、仕事に集中できないから、早退すると言う。今日の午後は会議もないので、吉本さんと私に仕事の指示をして帰って行った。

私の風邪が見舞いに来てくれた時にうつったに違いない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

次の日、9時前に岸辺さんから電話があった。身体がだるくて節々が痛くて、熱も下がらなくて39℃あると言う。休暇届を出すことと今日の仕事の指示をされた。これから近くの医院に行くと言っていた。

今日の金曜日には午後からプロジェクトの進捗会議が設定されていた。進捗会議はプロジェクトの各担当がそれぞれの進捗状況を報告して情報を共有するための会議で、何かを決めることはない。

司会はプロジェクトリーダーの室長が行い、説明はプロジェクトマネージャーの岸辺さんが行うことになっていた。会議に使う資料はすでに私が作って完成していた。

室長のところへ行って、岸辺さんから今日も熱が下がらないので休暇届を出すのを頼まれたことと、プロジェクトの進捗会議の資料を説明して室長の指示を仰ぐように言われたことを話した。室長からは、横山さんが資料を作ったので説明もしてくれればいいと言われた。

午後1時からプロジェクトリーダーの室長の司会で進捗会議が始まった。資料の説明は私がして、各担当から進捗状況の報告があり、会議は滞りなく終了した。すぐに会議録をまとめて室長に提出した。室長に、岸辺さんが2日も休んで心配なので見舞いに行きたいと言って住所を教えてもらった。

岸辺さんのマンションは駅から5分と近かった。さすが岸辺さん、いいところに住んでいる。入口で携帯に電話する。

「岸辺さん、調子どうですか?」

「熱が下がらないので、1日寝ていた。医者へ行って薬を貰って飲んだからあと1、2日で良くなると思う」

「お見舞いに来ました。マンションの入り口にいます。ドアを開けて下さい」

「ええ…お見舞い、分かった、開けるから。部屋は3階の309号だ」

ドアのチャイムを鳴らすと、疲れた様子の岸辺さんが立っていた。「失礼します」と靴を脱いですぐに上がる。リュックと途中で買って来たレジ袋をキッチンに置いて、料理を始める。

「休んでいてください。簡単な夕食を作ります」

「悪いね、わざわざ来てくれて」

「帰り道だから気になさらないでください。上司の様子を見に来ました。室長に許可を得ていますし、住所も教えてもらいました。私の風邪をうつしたみたいで申し訳ありません」

「横山さんも誰かにうつされたんだろう」

「吉本さんかもしれません。先々週、身体がだるいとか言って、1日休んでいましたから」

「我がチームは風邪で全滅か! ところで、今日の進捗会議どうなった? 報告だけだから問題はなかったと思うけど」

「はい、岸辺さんに言われたとおり、室長のところへ資料を持って行って説明しました。そして岸辺さんに室長の指示を仰げと言われていますといったら、資料を作ったのは私だから説明役をしなさいと言われました」

「それでどうなった?」

「いつも岸辺さんがしているように説明しました」

「それで」

「滞りなく会議は終わりました。すぐに会議録を作って室長に提出してきました」

「室長はなんか言っていた?」

「岸辺君がいなくても大丈夫だな! と言っておられました」

「それは言い過ぎだと思うけど、まあ、うまくいってよかった」

「夕食は消化の良いうどんにしました。食べてください。食欲はありますか?」

「お腹は空く。いただきます」

私も一緒に食べる。

「だしが効いていてとてもおいしい。おかわりある?」

「食欲があるから大丈夫みたいですね」

岸辺さんはお腹が一杯になると元気が出てきたみたい。熱を測ると37℃だった。私は、食事の後片付けをしてから部屋を一回り見て歩いた。それから、ベッドのそばにある一人掛けのリクライニングソファーに腰かけた。

10畳くらいの生活スペースには、家具と言っても、他には大型テレビ、パソコン用の机と椅子、大きめの書棚、座卓しかない。それに少し大きめのセミダブルのベッド。これに岸辺さんが寝ている。これくらいの大きさがあるとベッドの上で1日過ごせそう。

「この一人掛けのソファー座り心地が良いですね」

「外国製で値段も相当したけど、これに座ってテレビをみるといつのまにか眠ってしまうほど座り心地がいい。椅子とベッドは休息に使うものだから納得のいくものにしている」

「やっぱりブランド好きですね。このお部屋も広くて良いですね、お家賃も高いでしょう」

「本社に異動になった時に独身寮から引っ越したんだ。家賃を会社が1/3払ってくれると言うので少し高いけど良い物件を選んだ。広めの部屋だとゆったりできる」

「彼女が来ても良いように?」

「ううんーまあ、それもあるかな。でも残念ながら誰も来たことがない。横山さんがはじめてだ」

「女の人が独身男性の部屋に行くときは相当な覚悟をして行きますから」

「相当な覚悟ね!」

「私が来たのは業務の一環ですから、誤解しないでください。室長にも断ってきましたから」

「分かっているよ」

「確かに、女性の痕跡が全くありませんね。それに彼女がくるのに本棚にアダルトビデオなんか置いていませんよね!」

「ええ・・そうか、会社で女の子に言いふらすのだけはやめてくれ。健康な独身の男なら誰でも持っているよ!」

「大丈夫です。言う訳ありません。だって、ここへ来たのは室長しか知りませんし、誤解されると困りますので他言はしません。安心してください。でも私も興味があるので貸してください」

「もう、勘弁してくれ! 熱が上がりそうだ」

「へへへ・・・」

「ここに引っ越してから何度も風邪で寝ていたけど、来てくれたのは横山さんが初めてだ。本当にありがとう」

「彼女がいたって前におっしゃっていましたよね。看病に来てくれなかったのですか」

「ああ、風邪だと言うと、うつるといけないから治ってから会いましょうとか言われた」

「そういえば、私の元彼も風邪で寝込んでいた時に見に来てくれなかった。大事な仕事があるからとか言って」

「僕も彼女が風邪で寝込んだと聞いた時、お見舞いに行かなかったけどね」

「彼女は一人暮らしだったのですか?」

「いや、両親と同居していた」

「それなら行く必要がありません」

「まあ、そうだけど」

「本当にお付き合いしていたんですか?」

「彼女の家まで行って両親に紹介されたくらいだから付き合っていたといってもいいんじゃないか」

「そこまで進んでいるのなら、なぜ来てくれないのか私には分からない。私なら泊まり込んででも看病しますけどね」

「横山さんの言うとおりだ。別れた理由もその辺にあったと思っている。本社に来てしばらくしたころ、提携先の会社を打合せで訪問した時に、頼まれて合コンに出ることになった。そこで彼女と知り合った。彼女は有名大学を出ていて美人で良家のお嬢さんと言うか、気立ての良い子だった。僕は一目で彼女が気に入った」

「品質重視でブランド好みの岸辺さんらしいです」

「どういう訳か、彼女も僕のことが気に入ってくれて付き合いが始まった。彼女は3姉妹の末っ子で、姉2人は結婚していた。付き合って3か月くらいで家に招かれて両親に紹介された。奥沢にある大きな一戸建てだった。父親は商社の取締役で、我が家とは雲泥の差。天涯孤独だと言ったら構わないと言われた。結婚したら娘さんとの同居を望んでいたのかもしれない」

「婿養子を考えていたのかもしれませんね」

「僕は彼女を大切にした。デートの場所やレストランにも気を遣った。プレゼントにお金も使った。そして男女の関係にもなった。素敵な娘と付き合うのが嬉しかった。でも段々付き合うのに疲れて来た。気を使うのはいつもこっちで彼女はそういうのに慣れていた。僕の気遣いが当たり前で、確かに病気の看病にも来てくれなかった」

「そこが私には分かりません」

「そんな一方的に気を使う関係がいやになってきて別れを切り出した。彼女は突然の別れ話に驚いて泣いた。彼女には僕が別れたいと言う理由が理解できなかった。彼女は悪くなかった。当たり前に自然に振舞っていただけだった。彼女には本当に悪いことをしたと思っている」

「岸辺さんは悪くない。元々相性が合わなかったのだと思います」

「僕が悪かったんだ。それからは女性との付き合いができなくなった」

「私は今の話を聞いて元彼とは別れてよかったと気が楽になりました」

「彼はきっと悔いていると思うよ」

「岸辺さんは優しすぎる。もう少し我が儘に、自分に正直になった方が良いと思います」

「僕には僕の生き方しかできないから」

「私だったら別れたいと絶対に言わせなかったと思う。こんな良い人に!」

「慰めてくれてありがとう」

岸辺さんはきっと誰にも話したことがない別れた彼女のことを私に話してくれた。なぜだか分からないけど、風邪で寝込んで弱気になっていたのかもしれないし、私だから気に掛けないで話しやすかったのかもしれない。でも岸辺さんは私に話して気が楽になっているように思えた。

私は9時少し前に、明日のお昼にまた様子を見に来ると言って帰ってきた。明日にはもう少し元気になっていてくれるといいのだけど。

土曜日、私がお昼に岸辺さんを訪ねると、熱が37℃まで下がっていた。あと日曜日一日で回復すると思う。すぐに部屋の中をひととおり見て回る。

「お弁当を作ってきました。多めに作ってきましたので、夕食もこれで済ませて下さい」

「ありがとう、お弁当を買いに行かなくてもいいから、助かるよ。そのうち、食事をご馳走するよ」

「気にしないでください。私の看病をしていただいたお礼です。心細かったのでとっても安心で嬉しかったです」

「AV片付けたんですね」

「もう、それを言ってからかわないでくれ。だから片付けた」

「本棚には真面目な本もありますね。『史記』という本がシリーズでありますが、確か中国の歴史の本ですよね」

「そう、先輩から勧められて1巻だけ買ってみたけど、結局7巻まですべて買ってしまった。もう3回くらい繰り返し読んだかな」

「おもしろいですか?」

「紀元前の中国の王朝の栄枯盛衰の歴史だけど、それに絡んだ国王と家臣の信頼、忠義、嫉妬、親子の情愛、男女の憎愛などがリアルに描かれている。昔から人間は全く変わっていないとつくづく思ったし、人間はどう生きるべきかを考えさせられた」

「私も『菜根譚(さいこんたん)』という中国の古い人生訓をまとめた本をネットで見つけて読みましたが役に立っています」

「それなら僕も持っている。本棚にないかな?」

「ありました。読んだのですか?」

「ああ、2回くらい繰り返し読んだかな、でも納得できない箇所がまだ相当にある」

「私は気持ちが落ち込んでいる時に読んだので、随分助けられました。同じ本を読んでいたなんて思いもしませんでした」

「AVばかりを見ている訳じゃないから、本棚はチャンと見てほしいよ!」

「ごめんなさい。岸辺さんのこと見直しました」

それから、作ってきたお弁当を二人で食べた。高熱で汗をかいていたに違いないから着替えをした方が良いと言って、下着などを着替えてもらった。そのあと、岸辺さんはまたひと眠りした。

私はその間に溜まっていた衣類を洗濯してベランダに干してあげた。そして岸辺さんがお昼寝から目覚めるのを待って帰ってきた。

ブログにはこう書き込んだ。

〖カッコいい上司が風邪で2日間休んだからお見舞いに行った。なぜだか、別れた彼女のことを話してくれた〗

コメント欄
[きっと助かったと感謝していると思うよ。元カノの話をしてくれたのは気を許している証拠]
[あなたのこと何とも思っていないから、話しただけじゃない]
[風邪で気弱になっていたから、誰かに聞いてもらいたかっただけ]

日曜日の朝に電話した。岸辺さんはもう熱が下がったといっていたので安心した。だからその日は訪問しなかった。これ以上は業務の一環ではなくなると思ったから遠慮した。
私が岸辺さんの部下になって3か月経った。仕事も覚えて来たので、任せられることも多くなった。吉本さんより頼りにされているところもある。ただ、岸辺さんはこれを露骨にすると吉本さんも気にするだろうと、心がけている。私もそれが分かっている。

ここへ来てからの主な仕事は、会議録を作ることだったので、会議にはすべて出席させてもらっている。あとは会議の日程調整と資料作り。それで段々と進行中のプロジェクトの内容も分かってきた。

それで、私の頭の整理のために、現在5件進められているプロジェクトの各会議の日程調整を間違いなく開始できるようにスケジュールの一覧表を作った。岸辺さんは、これを見れば会議の日程調整を間違いなく開始できると喜んでくれた。

岸辺さんは自分の作った資料を私に見せて、意見を聞いたり、ミスタイプのチェックをさせるようになった。判断に迷うと私の意見を聞くこともある。

私は岸辺さんと違って、少し距離をおいて見ているので、参考になるとのこと。当事者は意気込みが強すぎて感情的になるきらいがあると言っていた。

岸辺さんは部下には、意見を聞くと自分の意見を言ってくれるが、一旦決めたことには従って実行してもらいたいと思っているみたい。

その点、私はいろいろ意見を言うが、岸辺さんが判断して決めたことはそのとおりに一生懸命に実行する。吉本さんは自分の意見と違うことには消極的で、それを納得させるのに手間がかかるみたいで岸辺さんは手を焼いている。

岸辺さんは仕事をできるだけ定時に終わらせるようにしている。遅い時間になると調整や交渉する相手が退社したり疲れてきたりして能率が悪いとか。だから、私の残業もほとんどない。早く帰れるのはいいが、総務部にいるときより給料が少なくなっている。

岸辺さんは総務部にいたころよりも会社に役に立つ仕事をしてくれているのに申し訳ないと気にしてくれているが、仕事が楽しいから気にしなくてよいと言っている。

岸辺さんが時々こちらを見ながら何か室長と相談している。席に戻ると、私に業務内容が変わってきたので室長と相談して契約をし直すから給料が幾分上がるかもしれないと言ってくれた。私は給料が上がるより、室長に仕事を認めてもらえたことが嬉しいと言った。

それから2週間ほどたって、親会社の担当者が私を訪ねてきて業務内容の打合せをした。前もって岸辺さんと打合せたとおり業務の増加内容を話したが、契約をやり直すとのことだった。

終わってからすぐに岸辺さんに小さな声で耳打ちをした。

「お給料を上げていただきました」

岸辺さんも小声で聞く。

「いくら上がった?」

「月額3万5千円です」

「前の残業手当と比べてどうなの?」

「こちらの方が少し多いです。ありがとうございます」

「室長にも目立たないようにお礼を言っといて」

「分かりました」

私はすぐに室長にお礼を言いに行った。室長からはこれからも仕事をしっかり頼みますと言われた。

ブログにはこう書き込んだ。

〖カッコいい上司が私のお給料を上げてくれるように交渉してくれて、お給料が随分上がった〗

コメント欄
[もっと働かせようと考えているから過労にならないように気を付けて]
[あなたのお給料のことを気にしてくれるなんてそんな良い上司はいないよ]
[あなたのことを相当に思ってくれている。これは尋常じゃない!]
金曜日、仕事を終えて帰宅の準備をしている岸辺さんに私は小さな声で耳うちする。

「岸辺さん、ご都合がよかったら土曜日の夕方、お礼に食事にご招待したいのですが」

「いいね。招待をうけるよ。割り勘でね。場所は?」

「自宅で作りますから、お好みを言ってください。和食でも、中華でも、洋食でもいいですから」

「ええ・・・、横山さんのアパートで! 何でもいいの? じゃあ和食が食べたい」

「じゃあ、和食を準備します。6時にお待ちします」

岸辺さんは私の招待を受け入れてくれた。どんな気持ちで受け入れてくれたかは分からないけど、私は岸辺さんとご飯を食べながらゆっくりお話がしたかった。

6時丁度に岸辺さんはドアをノックした。仕事で訪問するときと同じ、おそらくアパートの前で時間を調整していたはず。岸辺さんらしい。

「こんばんは、お言葉に甘えてご馳走になります。これは白ワインとケーキ」

「ありがとうございます。どうぞお入りください」

すでに料理はほとんど出来上がっていて、座卓に並べてある。本格的な和食のフルコースで、先付、吸物、刺身、焼物、酢の物、炊合、蒸し物、揚げ物、ご飯・味噌汁、果物をそれぞれ二人前作った。

「日本酒も用意しました。冷ですか? お燗しますか?」

「冷でお願いします」

「分かりました」

「作るのに随分時間がかかったんじゃないかな。品数が多いね」

「3時ごろから作りはじめました」

「食器もちゃんと二組あるんだね、僕は一組もないけど」

「女の子は大抵二組揃えていると思います。お友達を呼んだりしますから。私は母親ですけど」

「いただきます」

「お酒もどうぞ」

「どうして招待してくれたの?」

「この間の看病のお礼です。泊まってまでいただいたので、それと昇給してもらったお礼です」

「僕の看病に来てくれて食事を作ってお弁当まで作ってくれたのでお相子、それに昇給は実力、頼んだのは僕だけど室長が認めたからだよ」

「でもどうしてもお礼がしたくて。あの時はありあわせの材料でうまくできなかったので」

「でもとてもおいしかったよ」

「今日の料理はどうですか」

「それ以上においしいね、久しぶりだ、こんなにうまい和食は。料亭へ行ったみたいだ。わざわざありがとう。奥さんにする人は幸せだな」

「それならいいんですけど」

献立は、鯛とヒラメの刺身、ブリの照り焼き、カボチャの煮物、タコの酢の物、海老とキスと野菜のてんぷら、茶碗蒸し、炊き込みご飯。

岸辺さんはお酒と白ワインを飲みながら残さずに食べてくれた。私もお酒を飲んで少し酔ったみたいでたくさんおしゃべりをした。

食べ終わると、すぐに後片付けをして、デザートに買ってきてもらったケーキを食べる準備をする。

二人でケーキを食べていると、岸辺さんは腕時計を外した私の左手首に自然と目が行ったみたい。いつもならサポーターをして傷の痕を隠しているけど、今日は料理をするためにサポーターをしていなかったことを忘れていた。右手で隠そうとしたら、岸辺さんも目をそらせた。

「手の傷、目立ちますか?」

「いつもは腕時計をしているので分からないけど、目に着くね」

「自分で切った痕です」

「自殺でもしようとした?」

「3年ほど前ですが、付き合っていた人が別れようと言うので、悲しくなって」

「切り傷が大きいから大量に出血したんじゃない」

「発見されたときは血の海だったそうです。母が偶然、訪ねて来て見つけてくれて、救急車を呼んで病院に運ばれました。もう少し遅かったら助からなかったと言われました」

「お母さんは随分驚かれただろう」

「気が付くと母がいて、勝手に死んだらダメ、私が一生懸命に育てたんだからと、きつく叱られました」

「そのとおりだよ、一生懸命に育てた娘が自分より早く死んだら悲しすぎる、それも自殺ならなおさらだ」

「母には本当に心配をかけました。その時、これから何があっても自分で命を絶たないことを心にきめました」

「でも本当に辛かったんだ」

「私は好かれていると信じて、身も心も尽くしてきました。それで好きな人ができたから別れてくれと言われて、悲しくて、悲しくて、死にたいと思いました」

「僕も彼女に別れてくれと言ったことは、今でも悔いている」

「でも岸辺さんは好きな人ができたからではないでしょう」

「そうだけど、彼女の信頼を裏切ったのは同じだ」

「その後、彼女はどうしました?」

「風の便りでは、ほどなく新しい彼氏を見つけて、1年後に結婚したと聞いた。だから、ほっとしている」

「岸辺さんはやっぱり優しいです。私の元彼とは違います」

「男って皆同じだよ」

「病院のベッドで考えました。一度死んだのだからこれからは余生だと、それならもっと気楽に生きようと思いました」

「生き方が変わったの?」

「私、それからは何事にも期待することがなくなりました。あきらめたと言ってもいいのかもしれません。あきらめていると楽ですから」

「そうだね、あきらめていると、期待しないし、何か少しでもいいことがあると、とっても得した気分になれるね」

「岸辺さんと私は考え方が似ているかもしれません」

「そうかな」

岸辺さんはしばらく黙り込んでいた。

「唐突だけど、横山さん、僕と付き合ってくれないか? 上司としての僕ではなく、普通の男として」

「ええ・・・」

「迷惑だったかな、ごめん、今の話、なかったことにしてくれ」

「いえ、決していやじゃないんです。想定外で驚きました」

「立場を利用しているようで申し訳ない。素直な気持ちで付き合ってみたいと思っただけだから」

「そう言っていただいて嬉しいのですが、どうお付き合いして良いのか、気持ちの整理がつきません。しばらく返事を待っていただけますか?」

「分かった。返事は時間が掛かっても構わないから、考えてみてほしい。迷惑だったら、なかったことにしてくれればいいから」

「勝手言って申し訳ありません」

「じゃあ、これで帰ります。ご馳走様、ありがとう」

岸辺さんは急いでアパートを出ていった。正直、岸辺さんに交際してくれと言われて嬉しかった。岸辺さんに好かれたいと思う気持ちがあったから食事に招待したのだから。でも、手首の傷がピリピリ痛んだ。

ブログにはこう書き込んだ。

〖カッコいい上司をお家に招待して夕食を作ってご馳走した。左手首の傷跡の話をしたら、交際を申し込まれた。どうしよう!〗

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[受けたいんでしょ。もっと自分に正直になれば]
[よくよく考えた方がいい。男は気まぐれだから。後悔先に立たず。だめになったら今の会社やめることになるけどいいの]
[もともとあきらめていたんでしょ。だめもとで受けてみてはどうなの]
月曜日、いつものとおり、私は8時半過ぎに出社した。昨日の日曜日は一日中、岸辺さんとどのようにお付き合いすればよいか考えていた。

岸辺さんはもう席にいた。いつもと違って元気がないみたい。私になんか交際を申し込んだことを後悔しているのかもしれない。

「おはようございます」

「おはよう。土曜日はご馳走になってありがとう」

小声でお礼を言われた。もう室内は人が多くなっている。

「今日、お仕事が終わってから、お時間をいただけますか?」

「いいけど、その……例のこと?」

私は小さく頷いた。

「じゃあ、二子玉川の改札口で6時半に待ち合わせをしようか」

「分かりました」

月曜日は午後から会議が設定されていた。1時間程度で終わり、私は会議録をいつものように淡々と作った。岸辺さんは金曜の会議の事前調整にまわっている。

4時に席に戻るとできあがっていた会議録に目を通してくれた。少し修正箇所を指摘されたので、すぐに直して提出した。

5時に室長が席に戻ってきたので、岸辺さんは会議録で経過を説明して、今後の進め方を相談していた。5時半に私が先に退社した。

岸辺さんは6時半少し前に二子玉川に到着した。この時間は大勢の人でごった返している。改札口で、待っている私を見つけて手を振った。

「前に行ったことのある居酒屋へ行こうと思う。ボックス席があるし、食事もできるから」

「いいですね」

岸辺さんが先に歩いて、私は早足でついて行く。

「月曜だからお酒は控えめにしたいけど、ビール」

「私はハイサワーで」

あと、お酒のつまみになるもの3品を頼んだ。その後、夕食になるものを注文することにした。

「返事を聞かせてくれる?」

「はい、昨日一日考えました。正直、嬉しいんです。お受けしたいんです。考えたうえですが、いくつかお約束しませんか?」

「お約束?」

「お付き合いするときのお約束です。お互いのためになると思います」

「分かった。聞かせて」

「お約束1:お仕事とプライベートをはっきり分ける。お付き合いは休日のみで会社帰りにお付き合いはしない。お約束2:お付き合いにかかる費用は割勘にする。お約束3:交際していることは秘密にして決して口外しない、もし別れても」

「良い考えだと思う。僕は横山さんと上下の関係なく、対等にお付き合いしたいと思っているから」

「私も気兼ねなく振舞いたいので」

「分かった、じゃあ、お約束の乾杯」

「嬉しいです。お付き合いなんてあきらめていましたから」

「僕も同じようなものだ。また付き合ってみたい人ができるなんて思ってもみなかった」

「気楽にお願いします。楽しければいいと思っていますから」

「そうだね。ところで、今日はプライベート?」

「ボーダーライン上ですね。お勘定は勿論割り勘でお願いします」

「始めのプライベートだけど、今度の土曜日にデートしないか?」

「早速ですね。どこにしますか?」

「始めは横山さんの行きたいところでいいよ。次は僕の行きたいところにする」

「お約束の追加、いいですか?」

「いいよ」

「プライベートの時は横山さんはやめていただけませんか?」

「なんと呼べばいいの?」

「美沙でお願します。美沙と呼び捨てにするのもなんだから、美沙ちゃんで」

「岸辺さんは、潤さんでいいですか?」

「確かにその方が付き合っている感じがしていいね。そうしよう。それでどこへ行く?」

「週末からお台場の国際会議場で骨董市があるんですけど行ってみたいです」

「骨董に興味があるの?」

「古いものが好きなので、一度行ってみたくて」

「じゃあ、そうしよう。待ち合わせは?」

「場所と時間は私が調べて携帯にメールします」

「了解した。楽しみだ」

それから、いろいろ話をして、夕食を頼んで、2:1の割り勘で支払いを済ませて、居酒屋を出た。

岸辺さんは私のお約束に納得したのか安心したのかニコニコしている。私もうきうきして駅に向かう。

ここで恋人どうしなら手でもつなぐところだけど、今日はお仕事の帰り、今したばかりのお約束を思い出す。

お約束1:お仕事とプライベートをはっきり分ける。お付き合いは休日のみで会社帰りにお付き合いはしない。

ブログにはこう書き込んだ。

〖お仕事とプライベートをはっきり分けるため、お付き合いは休日のみというお約束をした〗

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[賢明なお約束だと思う。明確に区別したほうが良い。でないと対等にお付き合いできないから。負けないで!]
[プライベートでは全くの別人になってみたら、とっても可愛く変身するとか]
[今のあなたとつきあいたいのだから、今のあなたのままでいいと思うけど]
お約束を確認してお付き合いをすることになった。お約束どおり、プライベートは休日だけと割り切って、私は前にも増して張り切って仕事をしている。

私は金曜日の昼休みに岸辺さんへメールを入れる。「待ち合わせ場所はりんかい線国際展示場駅の改札口、時間は10時30分」。[了解]の返事がきた。1時になって私は何もなかったかのように席に着いた。

土曜日、大井町線で大井町へ出て、りんかい線に乗り換えて、国際展示場で下車。意外と時間がかからなかった。早く着いたので駅前を見て回る。

すると向こうに岸辺さんがいるのを見つけた。嬉しくなって、手を振って小走りに近づいて行く。

岸辺さんは私だと全く気が付かない。こちらを見ているけど、後ろを振り向いたりしている。ようやく目の前まで来て立ち止まる。

「岸辺さん、いえ、潤さん」

「ええ・・・・」

「分かりませんか? 私です。横山美沙です」

「横山さん、いや、美沙ちゃん? ごめん、全然気が付かなかった。可愛い女の子が手を振って来るので、僕の後ろの誰かに手を振っているのかと思った。すごく可愛いね! 見違えた!」

実際、私はとっても可愛く変身していた。厚い黒縁のメガネはしていない。コンタクトに替えた。メイクアップもした。髪はポニーテイルでなく、カールして横に垂らした。イヤリングをしている。

それに白い半そでのワンピースを着て白いサンダルを履いていた。手にはピンクのバッグ。あの太い革の腕時計の代わりにピンクのサポーターをしていた。

意を決して全くの別人に変身してみた。それが自分でも驚くほど凄く可愛くなっていた。自分でもこれほどに変身できるとは思っていなかった。岸辺さんも信じられないみたい。でもとおり過ぎる人も私を見て行くので、可愛く変身に成功したみたい。

「ありがとうございます。意外と早く着いたので、駅の回りを見ていました。そしたら、岸辺さん、いえ、潤さんを見つけて」

「僕も早くついたので、駅の回りを見ていたところだった」

「じゃあ、行きましょう」

私はそれとなく潤さんの手をつかむと潤さんは手をつないでくれて歩きだす。潤さんが横を歩いている私をじっと見ているのが分かったので、顔を向けて可愛くニコッと笑う。

潤さんは照れたような笑いを返してくれた。いい感じ。潤さんの私を見る目が変わったのがよく分かった。変身大成功!

「カッコいい潤さんとお付き合いすることがきまったのが嬉しくて、あれから毎日、お付き合いしていただくのにふさわしい服や靴を探しました。金曜日はヘアサロンに行きました。可愛いと言ってもらえて、その甲斐がありました」

「地味な横山さん、いや、美沙ちゃんが、実はこんなに可愛い人だとは思ってもみなかった。ますます好きになりそうだ」

確かにお約束は正解だった。プライベートになり、名前を呼び合うとすぐに恋人モードになれる。繋いだ手はいつのまにか恋人つなぎになっている。

10分ほど歩いていくと、会場に到着した。入場券売場には列ができている。私の後ろに潤さんも並んでそれぞれ入場券を買う。

会場は思っていたよりも広くて出店でいっぱいだった。すべての店を見て歩くとどれくらい時間がかかるか想像できないくらい。

案内図を見ると、日本のアンティークと西洋のアンティークに分かれていた。私は西洋アンティークに興味があるので、二人で手をつないで一軒一軒ゆっくり見て行く。

人形、食器、花瓶、ランプ、アクセサリーなど、なんでもある。私は気に入ったものがあるとお店の人に断ってスマホで写真を撮る。

「アンティークが好きなんだね。買わないの?」

「古いものを見るのが好きなだけです。買うと高いですし、置き場所もありませんから。気に入ったものがあると写真に撮らせてもらいます。写真に撮っておくといつでも見られて楽しめますし、ブログでも紹介できますから」

「確かにいい方法だね」

西洋アンティークの店をすべて見て回るのに2時間ほどかかった。その間に潤さんは日時計のついた古い磁石を見つけた。店主に聞くと英国製で値段は3千円だった。潤さんはチョット考えたけど記念だと言ってそれを買った。

「素敵な磁石ですね」

「方位磁針しかも日時計が付いている。昔の人はこれで時間と方向を調べていたと思うとすごくロマンを感じる。気に入ったので、今買わないときっと後で買っておけばよかったと後悔すると思ったから買った」

「決断力があるんですね」

「後悔したくないからかな。チャンスは一度しかないことが多いから。ここは面白いものがあるね。来てよかった」

「初めてきましたが、面白いですね」

お昼を過ぎて1時近くになっていたので、レストランに入る。潤さんはスパゲティ・ナポリタン、私はオムライスを注文。

「ありきたりだけど、スパゲッティはナポリタンに限るよ。大好きなんだ」

「私はオムライスが大好きなんです。二人共ケチャップ風味のトマト味が好きなのが分かって嬉しいです」

「その服とイヤリングにサンダル、とても似合っていて可愛いよ。本当に見違えた」

「この服、着てみたかったのです。気に入ってもらえてよかった。ネットショッピングで買いました。それにイヤリングもサンダルも」

「買い物はネットでするの?」

「お休みの日は一日中ネットのショッピングサイトを見ていることが多いです。気に入ったものがあると、写真と情報を保存しておきます」

「買わないの?」

「買いません。だって、着る機会も見せる相手もいないのに無駄ですから。それにそのたびに買っていたら押入れが一杯になります。お金もかかります。その代わりにブログに載せています。この服とイヤリングとサンダルは今日のデートのお約束ができてから注文しました。早ければ次の日か2~3日で届きます。帰りに駅のコンビニで受け取れるようにしています」

「ブログをやっているの、どんなブログ?」

「これは潤さんでも教えられません。私の日記ですから、誰にも言っていません」

「でも公開しているんでしょ」

「ハンドルネームを使っていますから、私とは絶対に分かりません。恥ずかしいので絶対教えませんし、聞かないでください。検索したりもしないでください」

「分かった、分かった。でも見てくれる人はいるの?」

「3年前に始めたころはほんの数人でしたが、今は3千人くらいいるかも知れません」

「3千人! すごいね」

「コメントがいただけるので、そのやり取りがとても楽しいです。だからスマホは手放せません」

「歩きスマホは危ないよ!」

「歩きスマホはしませんし、会社では見ないことにしています。潤さんとの連絡以外は」

「女の子はスマホが好きみたいだけど、僕はあまり好きじゃない。字が小さくて読みづらいし、扱いにくい。部屋にネットの端子が来ているから、家ではもっぱらパソコンを見ている」

「ところでこのあとどうする?」

「実は母が会いたいと言ってきましたので、4時に渋谷で会う約束をしました。だから3時くらいまでですが、申し訳ありません」

「気にしないで、僕は大井町の家電専門店に寄りたいと思っていたから、3時ごろに駅に向かおう」

「来週はどうする?」

「今度は潤さんの行きたいところがいいです」

「それなら、こどもの国はどうだろう。同期の家が近くにあって中を覗いたくらいなので一度行ってみたいと思っていた。本当はディズニーランドが良いのかもしれないけど、人の多いのは苦手なので、ゆっくり二人で話をしながら歩きたい」

「こどもの国は小さい時に家族で何度か行ったことがあります。最近はどうなっているか見てみたいです。お弁当を作って行きます」

「じゃあ、土曜日の10時に、こどもの国の駅の改札口ということでどう?」

「分かりました」

「晴れるといいね」

「きっと晴れます」

それから、会場へもどり、今度は日本のアンティークを見て回り、3時ごろに電車に乗った。大井町で潤さんが下車して、私はそのまま大崎経由で渋谷へ向かった。

楽しい半日だった。初めてのデートはこれくらいが疲れなくてボロが出なくて丁度良いかもしれない。

潤さんは私の変身にとっても驚いていた。これだけ変われば会社の誰が見ても気づかないと思う。

でも潤さんがとっても嬉しそうに私を見ていたのでよかった。私のこと惚れ直した? 

男の人はやっぱり可愛い子が良いみたいだけど、それは当たりまえだし、誰か女は男の勲章だと言っていた。他の男が振り返るほどの可愛い女の子を連れて歩きたいみたい。

潤さんも可愛くなった私と歩いていてまんざらでもなかったみたいで、機嫌が凄く良かった。潤さんも普通の男だったか?

ブログにはこう書き込んだ。

〖初デートで可愛く変身して行ったら、とっても驚いていたけど嬉しそうだった〗

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[可愛く変身してよかったね。彼はきっと惚れ直したと思う]
[これからずっと可愛くしていないといけないから大変だね]
[可愛く変身するのはいいけど、心も可愛くないと嫌われるよ!]
次の土曜日、潤さんとの2回目のデート。前日まで雨が降って心配したけど、朝から晴れ上がっている。私の言ったとおりになった。

場所はこどもの国。潤さんは一電車早く着いたみたいで、私が電車から大きめの籠を持って降りて行くと、改札口で手を振っている。

もう初夏だから、今日の服装はピンクのTシャツに白のミニスカート、白いスニーカー、それにこの前とは違ったデザインの赤いイヤリングをした。

「それ、お弁当? 重そうだね。ありがとう、僕が持つよ」

「時間に間に合ってよかった。お弁当に時間がかかりました」

「ありがとう、無理させたみたいで、今日の費用は僕が全部払うことにしてほしい」

「気にされるのなら、それでお願いします」

入口で潤さんは二人分の入場券を買ってくれて、ゆっくり園内に入ってゆく。もう自然に手を繋いでいる。晴れた空、ビル街と違って郊外は空が広くて空気が澄んでいる。ゆっくり歩く。

潤さんは時々私を横目でみながら、並んで歩いている。どこを見ているのかしらと注意してみると胸に目が行っている。意外に大きいのに気が付いてくれたみたい。潤さんを見ると目が合った。潤さんは慌てて目をそらす。

「こうして歩いているなんてなんだか夢のようです。今日もお弁当を作っている時に、本当にデートのお弁当を作っているんだと思って嬉しくなってしまいました。こうして、潤さんとお付き合いしているのが信じられないです」

「初めてコピー室で会った時、美沙ちゃんとデートすることになるとは思ってもみなかった。でも、美沙ちゃんといるとホッとする。こんな気持ちは今までになかった」

「私もそばにいるだけでホッとします」

話しながら二人ゆっくり歩いて行く。

「もうすぐ、動物園です。確かウサギやモルモットがいます。餌もやれると思いましたけど」

「子供は喜ぶね」

「大人も癒されると思いますよ」

動物園に着くとすぐに餌を買った。コーンのかけらみたいな餌。私は嬉しくなってすぐに餌をやる。その様子を潤さんはジッと見ている。すぐに餌がなくなったので、潤さんの餌を貰った。そして、また餌をやった。

「家で飼ってみたいけど」

「世話が大変だよ。それに死ぬまで面倒を見てやらないといけない。飼うとなると相当な覚悟が必要だね」

「相当な覚悟が必要ですか」

「後悔しないようにね」

それから、近くの牧場へ向かった。牛と羊が見える。牛乳を作っていて、ここのソフトクリームがおいしいというと潤さんはすぐに買いに行ってくれた。

「確かにおいしいね」

「小さいころ、ここでよく買ってもらいました」

「ソフトクリームなんて久しぶりだけど、おいしいね」

それから、また手を繋いでゆっくりと園内を歩いて行く。

そろそろお昼になったので、お弁当を食べられる場所を探す。丁度良い木陰を見つけて、持ってきたシートを広げて座った。

お弁当はお重が2つ、一つにはおにぎりと稲荷寿し、もう一つには幕の内弁当風に卵焼き、鮭の塩焼き、唐揚、つくね、佃煮などを詰めておいた。

「いただきます。随分手間がかかったと思うけど、ありがとう」

「冷凍食品も使っていますから。それほどでもありません、お口に合いますか?」

「おいしい。お弁当を作らせて申し訳なかったね」

「食べてもらいたくて、作るのが楽しかったです」

全て平らげて、お腹が一杯になったところで、お昼寝をした。このごろはもう夏のように日差しが強くなっているけど、木陰はそよ風が吹いて心地よい。隣で潤さんも目をつむっている。

潤さんの気持ちよさそうな寝顔を見ていると衝動にかられた。私のものにしたい。
私はキスをしていた。

潤さんは私の唇が触れたので目を開けた。私は目を開けていたので目があった。でもキスしたまま私は目をつむった。潤さんもそのままジッとしていてくれた。気がすんだ私は唇を離した。

「眠っている顔を見ていたら、どうしてもキスしたくなって、ごめんさない」

「いや、柔らかい唇だね」

「ごめんなさい。今しかないと思ったので」

「謝ることなんてないよ、良い思いをさせてもらった」

「ごめんなさい」

「嬉しかったよ、可愛い子からキスしてもらって」

私は恥ずかしくなって下を向いた。潤さんはこういうことになろうとは全くの想定外であっただろうから、どう対処してよいかわからないみたい。

「あそこでボートに乗らないか?」

「はい」

敷物を畳んで籠に入れる。食べて飲んだので随分軽くなっている。それから二人でボートに乗った。

私は何を話して良いかわからなくなったので下を向いて口を利かない。潤さんは私をジッと見ながらオールを漕いでいた。

それから、サイクリングコースに行って自転車に乗った。二人で乗るタイプの自転車。このころになるとようやく落ち着いてきてまた話ができるようになった。

3時を過ぎたころにこどもの国を後にした。

「これからどうする?」

「少し疲れたので、このまま帰ります」

「夕食をご馳走しようか?」

「いいえ、まだお腹が一杯です」

「じゃあ、今日は駅までということにしようか」

「そうさせてください。ご免なさない」

私は少し疲れていた。朝早く起きてお弁当を作って、広い園内を歩きまわったのだから。そしてキスの後の緊張。

溝の口駅で電車をおりた。潤さんは電車の中から見送ってくれた。

家につくと、どっと疲れが出た。随分歩き回ったので疲れた。その心地よい疲労に浸りながら、潤さんにメールを入れる。

[今日はとっても楽しかったです。良い思い出ができました。ありがとうございました]

すぐに返信のメールが来る。

[ありがとう、とても嬉しかった]

潤さんの唇の柔らかい感触が今も残っている。キスしてよかった。気持ちが伝わったと思う。でも、左手首の傷がピリピリしている。

ブログにはこう書き込んだ。

〖デート中、眠っている彼に私から衝動的にキスをした。でも彼は喜んでくれた〗

コメント欄
[あなたの気持ちが伝わったと思うわ]
[彼は驚いたと思うけど、悪い気はしなかったと思う]
[衝動はできるだけ抑えた方が良いと思う。そんな女だと思われないようにしないといけない]

それから、休日の土曜日は交互に行きたい場所でデートを重ねた。次に行ったのは、私の希望で上野公園の近代美術館と動物園。潤さんの希望で少し遠かったけど、寅さんの葛飾柴又。私の希望で品川水族館。

潤さんの希望で夜の横浜みなとみらいに行った時、観覧車の中で潤さんがキスをしてくれた。嬉しかった。潤さんは少し照れていた。

デートを重ねると私に負担がかかっているのではと心配になったのか潤さんが聞いてきた。

「デートを割り勘にしたり、お弁当を作ってもらったりしているけど、お金は大丈夫? お給料は僕よりはずっと少ないと思うけど」

「ご心配は無用です。私は自分にとって今一番大切なことにお金は使うべきだと思っていますから」

「父がいつも言っていました。出す必要のないものに出さないのは倹約、出すべきものに出さないのがケチだと。私は倹約をしますが、ケチにはなりたくありません」

「なるほど、美沙ちゃんは本当に芯がしっかりしているね」

潤さんはとっても心遣いができる人だ。心配してくれてありがとう。
「今度の土曜日に多摩川で花火大会があるけど、家に来ないか? 部屋から花火が見えてきれいだから」

「部屋から見えるんですか?」

「花火大会があって初めて気が付いた」

「行きます。一緒に花火が見てみたいです」

「それなら、6時に来てくれる。飲み物と食べ物を用意しておくから」

部屋で二人切りになってみたいと思っていたけど、今まで潤さんは部屋に誘うことはしなかった。私からも部屋に誘わなかった。でも、花火に誘ってくれた。嬉しい!

土曜日、私は朝から落ち着かない。私が潤さんの部屋に行くのは風邪で寝込んだ時以来だ。風邪で寝込んでいた時はお付き合いを始める前だったから、仕事の一環と割り切っていた。

お付き合いを始めてから部屋を訪ねるということがどういうことか分かっていた。そして、私は相当な覚悟をして受け入れた。潤さんもそれが分かっていると思う。

それなら悔いのないようにできるだけ可愛く着飾って気に入ってもらうことにしよう。まず、シャワーを浴びる。

母が作ってくれた黄色地に大きな赤い花模様の浴衣と赤い帯と下駄があった。着つけは母から教わっていたので何とか着ることができた。髪をアップにして留める。

お泊りになった時のための着替え一式を準備。あれは潤さんが準備していると思う。会社の帰りに買っておいたチーズの詰合せを持っていくことにした。これで準備OK。

6時丁度にチャイムを鳴らす。入口のドアロックが解除される。エレベーターで部屋に向かう。部屋のチャイムを鳴らす。潤さんがドアーを開けて私を奥に招き入れてくれる。

浴衣姿の私をジッと見つめている。私はその横をすり抜けて窓際までゆっくり歩いて行って外を見る。ここではできるだけ潤さんが望むように振舞おうと思う。

「花火の準備がしてあるのが見えますね。本当にここは特等席ですね。楽しみです」

「まだ明るい今のうちに飲んだり食べたりしよう。暗くならないと始まらないから、7時過ぎまで時間がある」

「準備するのをお手伝いします。おいしそうなチーズがあったので、持ってきました」

「ありがとう。お酒は何にする? ビール、赤ワイン、缶チュウハイ、ジンジャエール、ジュース、何でもあるよ」

「赤ワインをいただきます。ここなら酔っ払っても心配いりませんから」

「僕も付き合うよ」

二人で赤ワインを飲んで、私の持ってきたチーズやオードブルを食べる。日没が近いが、外はまだ30℃以上ある。室内は冷房が効いていて快適。

二人はベッドに寄りかかって、日が沈んで外が少しずつ暗くなっていくのを見ている。私のグラスのワインが少なくなっていると潤さんが注いでくれる。

「この赤ワインおいしいですね。少し酔いが回ってきたみたいで、肩に寄り掛かっていいですか」

「いいよ。僕も気持ちよくなってきた」

お互い寄りかかる。潤さんは私の手を握っている。いろいろ食べてお腹が膨れたのとアルコールが入ったので、眠くなった。知らないうちに二人はもたれ合って眠ってしまったみたい。

「ドーン」と大きな音で目が覚めた。もう外はすっかり暗くなっている。潤さんも気が付いたみたいで、目が覚めたところだった。

「花火が始まった」

「眠っていたみたいですね」

「ベランダへ出よう」

ガラス戸を開けてベランダに出ると、ムッとした暑さだけど、時々、川風が吹いて不快なほどではない。どんどん花火が上がる。

はじめは立ってみていたけど、しばらくすると部屋の端に二人腰を下ろして寄りかかりながら花火を見ている。

「とってもきれい」

「良く見えるね。部屋の明かりを落としたほうが見やすいと思う」

部屋の明かりを落としてくれた。私は花火を見ながら潤さんの手を握る。肩に頭を寄せて甘える。腕に私の腕が密着するので潤さんは肩に手を廻す。私は身体を潤さんに預ける。良い感じになったのでよかった。

潤さんは身体を固くしているみたいで、花火より神経が私の方に向かっているのが分かる。でもこうして身体を寄せ合っているとなぜかほっとする。満ち足りた気持ち。

潤さんが私の顔を横目で見ている。私は花火を見ながら、それとなく潤さんの腰に腕を廻す。

花火が終わった。長いようであっという間だった。終わってからもしばらく二人は動こうとしなかった。このままこうしていたかったから。どちらからでもなく、自然にキスをした。潤さんに抱きつくとしっかり抱きしめてくれる。

「今日は泊ってほしい」と耳元で囁かれたので頷く。立ち上がって二人でベッドへ向かう。

倒れ込むと、私は耳元で「避妊してください」と小さな声で言った。「分かっている」と言うのを聞くと「無茶苦茶にしてください」としがみつく。

この部屋は3階だから、明かりを消していても街灯のあかりが入ってきて、薄明るい。私は潤さんの腕を枕にして背中を向けて寝ている。潤さんが私を後ろから抱えているかたちになっている。二人とも余韻に浸って動かない。

「美沙ちゃん、ありがとう」

「嬉しかった。しばらくこのままでいいですか」

「ずっとこのままでいいよ」

「私の話を聞いて下さい」

「何?」

「どうか今のことで責任を感じたりしないでください。私が望んだことですから」

「どういう意味?」

「私が嫌になったらいつでも離れて行っていいですから」

「なんで今そういうことをいうのかな?」

「私、もう期待しないことにしているんです。だって、明日になったら別れようと言われるかもしれないし、死んでいなくなってしまうかもしれないから、もうそういうのはいやなんです。だから期待しないことにしたんです。でも今日の一日は大切にしたいんです。今は間違いなく私のものですから、生きたいように生きるんです、そうしたいから」

「言っている意味は分かる。今日を今の時間を大事にしたいってことだね。明日のことを考えるより、今日を今を大切に過したいということだね。全く同感だ」

「分かってもらえますか?」

「分かる。そしていつでも今が今日が一番いい時なんだ。そう思っていると今を大切にできるし、今を一生懸命に生きられる」

「分かってもらえて嬉しいです」

私はまた潤さんにしがみつく。

潤さんが寝返りしたので目が覚めた。夏の夜明けは早い。4時ごろには明るくなってくる。私は潤さんの腕の中で丸まって背中を向けて抱きかかえられて寝ていた。

夜中にまどろみながら何度も抱き合ったり離れたりしていたような気がする。この形が身体の温もりを感じるし、一番落ち着いて安心して寝ていられる。でも、もう眠れないので、抱かれている満足感に浸っている。手首の傷はなんともない。

潤さんはまだ静かに眠っている。ベッドから抜け出して行く私に気が付かなかった。浴室のドアの音で目が覚めたみたい。Tシャツとショートパンツに着替えた私をジッと見つめている。

「おはよう」

「おはようございます。朝食を食べてから帰ります。昨日の残りで朝食と昼食を作りますから、食べて下さい」

「休みだからゆっくりしていけばいいのに」

「帰ってお洗濯やお掃除をしなければなりませんから。今度の土曜日には私の家へ泊まりに来てください。夕食を作りますが、今度は中華にします」

「もちろん喜んで」

「紙袋を貸してください。浴衣を畳んで持って帰りますから」

「その浴衣、とっても似合っていたね、それにとっても色っぽい」

「母が作ってくれました」

「着替えも準備して来てくれたんだね」

「花火の浴衣で朝帰りするわけにはいきませんから、女の身だしなみです」

「ありがとう」

私は朝食の後片付けをしてから帰った。

ブログにはこう書き込んだ。

〖花火を見て彼と一夜を共にした。後悔していない。良い思い出にしたい!〗

コメント欄
[これからも仲良くやっていけるといいね]
[これでいいの?これからどうするの?]
[大成功じゃない。これですっかり彼を虜にしたのに間違いないわ]
潤さんは6時に来てくれるはず。部屋もきれいに掃除したし、料理もできた。外はまだ明るいし30℃以上はあるだろう。シャワーを浴びて着替えをする。Tシャツに膝までのパンツにエプロンをした。メガネをコンタクトに替える。

6時丁度にドアをノックする音。ドアーを開けると、潤さんが汗を拭きながら立っていた。手には小さなバッグとレジ袋を持っている。

「お待ちしていました」

「はい、アイスクリーム」

「ありがとうございます。暑かったでしょう。すぐにシャワーを浴びて下さい。バスタオルは中にあります」

テーブルの上にはすでに料理が並べてある。潤さんは促されてシャワーを浴びに浴室に入った。うちの浴室はビジネスホテルにあるようなバスタブ、洗面台、トイレが一体になったタイプ。

しばらくして潤さんに、これを着てくだいと男物の浴衣と帯をドア越しに渡す。潤さんはそれを着てテーブルの前に座った。

「ごめんなさい。それ父のものですが、着ていて下さい」

「ぴったりだ。浴衣は小さい時に着たことがあるけど、大人になってからは温泉に行った時ぐらいだ、ゆったりしていいね」

「冷たいビールをどうぞ」

「ありがとう。今日はご馳走になります。それに泊まって行っていいんだよね」

「料理と私だけですが、ゆっくりしていって下さい」

「それで十分。いただきます」

今日の献立は、エビチリ、マーボ豆腐、チンジャオロースー、餃子、チャーハンと中華スープ。まあまあのできかな。潤さんはお腹が空いていたと見えて、おいしいと言って食べている。

「美沙ちゃんはこんなに可愛いのに、どうして会社ではあんなに地味にしているの?」

「3年前に退院してから、すべてを忘れようと、ここに引越しをして、派遣先も今の会社に変えてもらいました。服装も目立たないように今のように変えました」

「服装まで変えることないのに」

「もう男の人とは付き合いたくなかったし、女子社員も地味にしているとこちらを気にしません。それに私服だと毎日、服装を変えなければなりません。同じ服だとお泊りをしてきたみたいなので。それに衣料代が馬鹿になりません。今の服装だと毎日同じでも会社ではそんなに違和感がありませんから。それでも毎日少しずつは変えているんですよ」

「なるほど、でもそれじゃ少し寂しいね、会社で友達はできたの?」

「友達をつくろうとは思いませんでしたが、お話をする人は何人かできました」

「でも付き合っている人がいないと寂しかったんじゃない」

「付き合ってまた捨てられるのが怖くて」

「でも、こうして僕と付き合ってくれている」

「交際を申し込んでいただいた時には随分悩みました。でも、自分に正直になろうと思ってお受けしました。でも一方では、この前もお話しましたが、あきらめているんです。この先を期待してないんです。今を大事にするだけと、そう決めてお受けしたんです」

「だから、いつでも一生懸命なんだ」

「お付き合いを始めてから、毎日が楽しくて、楽しくて、今こうしていることが嬉しくて」

「僕は美沙ちゃんと一緒にいると楽しいし、いつも癒されるから、離したくないと思っている」

「気楽に付き合っていただければそれでいいんです」

「お互いにセカンドラブだから、ファーストラブはうまくいかないけど、セカンドラブは成就するというよ」

「今この時を大切にしてお付き合いしていくだけです」

二人ともお腹が一杯になった。食べきれなかった料理は冷凍保存しておいてお弁当にする。洗い物を片付けてから、二人で潤さんが持ってきてくれたアイスクリームを食べた。

「お布団を敷きましょう。二組あります。時々母が泊まっていきますので」

「僕も手伝うよ」

6畳の部屋だから布団を二組敷くと部屋一面が布団になる。敷かれた布団をみるとなんとなく落ち着かない。

「もう一度シャワーを浴びて来ていいかな」

「どうぞ、私もその後シャワーを浴びます」

潤さんがシャワーを浴びて身づくろいをして戻ってくると、私が浴室へ。シャワーを浴びて、ピンク地に小さな赤い花柄の浴衣に着替えた。髪はアップにした。

部屋に戻ると潤さんは布団に座っている。その横に座るとすぐに抱きしめられて押し倒されてキスされた。嬉しい。

浴衣の袖から白い腕が出て、左手首の大きな切り傷が目立っている。潤さんもそれに気づいたみたいで、私を押さえつけて傷を口で強く吸い始めた。

「そんなにすると痛いです」

「この傷から毒を吸い出してあげる、悪い思い出を吸いだしてあげる。ジッとしていて」

潤さんは私の両手を押さえつけて、傷を吸い続けている。傷口が痛い。嬉しいような悲しいような何とも言えない気持ちになって、私は泣き出してしまった。

「もういいんです。もういいんです。とっても嬉しい。もうすっかり忘れました」

そう言うと、潤さんが力を緩めたので、抱きついた。

私は潤さんに後ろから抱かれて腕の中で寝ているけど、左手首を右手で押さえている。傷がピリピリしていたから。

「もう、忘れたと言ったけど、まだ、傷を気にしているね」

「こんなこと聞いてもいいかな。元彼とはどのくらい付き合っていたの」

「半年ぐらいです」

「それなら、僕たちがコピー室で会ってからと同じくらいじゃないか」

「もう同じくらいになります」

「パソコンを廃棄する時、データを消すソフトがあるけど、どうするか知っている?」

「いいえ」

「元の消したいデータに何回も上書きするんだ、何回も、何回も、何回も」

「どうなるんですか」

「そうすると元のデータを復元できなくなる。僕も美沙ちゃんの悲しい思い出にこれから楽しい思い出を何回も何回も上書きしてあげる。でも、もう半年になるからプライベートで20回は上書きしている。その上、仕事で付き合った日もあるから、50回くらいは上書きしていると思う」

「もう十分に上書きしてもらっています」

「いや、もう少しだと思っている。これからは未知の新しいデータの書込みをいっぱいしてあげるから、もうすぐ完全に元のデータを復元できなくなる」

「嬉しい。お願いします。もっともっと上書きしてください」

私は泣きながら潤さんに抱きついた。

ブログにはこう書き込んだ。

〖彼が私の左手首の傷を吸ってくれた。悪い思い出を吸い出してあげると言って〗

コメント欄
[これまでのすべてを受け入れてくれるいい人だね]
[それで悪い思い出を忘れられるの?]
[手首の傷跡って男の人は結構そそられるのかもしれないね!]
【9月1日(木)】午前10時ごろ、席に戻ってきた竹本室長が岸辺さんを手招きしている。岸辺さんが室長のところへ行くと、すぐに二人はフロアーの端にある会議室へ入って行った。なんだろう。大事な話に違いない。

10分位で岸辺さんが席に戻ってきた。席に戻ってもしばらく仕事が手につかないみたいで考え込んでいる。

「どうかしましたか?」

「いや、大したことはないけど、室長から難しい相談をされたのでね」

それからも、岸辺さんは仕事が手に着かず、考え事をしているみたいだった。

午後になって、私が席に戻ってくると、岸辺さんは私の耳元に小声で話しかけた。

「明日の晩、仕事が終わったら食事をしないか、大事な話がある」

「いいですが、プライベートな話ですか?」

「グレーゾーンだから」

「グレーゾーンですか? 分かりました」

「待ち合わせ場所と時間は携帯にメールを入れるから」

私に明日の約束をした後は、岸辺さんはいつもの岸辺さんに戻って、仕事に集中していた。2時から会議を設定していたので、二人で会議室に向かう。

3時に会議を終えて、会議録のまとめをいつものように私に頼んだ。私はすぐに取りかかる。4時には出来上がって、岸辺さんに渡すとすぐに室長へ報告に行った。そして、5時になると、今日はちょっと用事があるのでと言って、すぐに退社した。

【9月2日(金)】昼休みに岸辺さんからメールが入る[ビルから少しのところにあるタクシー乗り場で5時15分に待ち合わせ]。すぐに[了解]のメールを入れる。

5時過ぎに私は「お疲れさま、お先に」と岸辺さんに言って退社し、タクシー乗り場へ向かう。タクシー乗り場で待っていると岸辺さんが5分ほどでやってきた。

すぐにタクシーが来たので、岸辺さんが先に乗って私が後から乗る。これは仕事でタクシーに乗る時のスタイル。この時間だから会社の人に見られても仕事で出かけたように見える。

タクシーに乗ると、岸辺さんはホテル名を告げて、すぐに私の手をそっと握る。

「今日は休日ではありませんが」

「グレーゾーンということで」

握った手はそのまま、私もそのままにしている。

ホテルに着くと、最上階のダイニングルームへ。入口で名前を言うとウエイターが窓際の席へ案内してくれる。丁度日没のころで、これから夜景がきれいになる。

ウエイターが飲み物を聞く。私はジンジャエール、岸辺さんはビールを注文して、料理は予約のとおりだと確認している。それと肉料理のときに赤ワインを頼んでくれた。その間、私は珍しいので外の景色を見ていた。

「大事な話ってなんですか」

「まず、食事をしよう。お腹が空いた。それから話す」

食事はここの定番のフランス料理のフルコースを頼んでくれていた。

「おいしいです。さすがに有名ホテルですね」

「おいしいね」

「ホテルで二人が食事するのは初めてですね」

「今日は僕が全額払うから」

「いいんですか」

「グレーゾーンだから」

「じゃあ遠慮なくご馳走になります」

いつも割り勘にするから、潤さんは気にして今までホテルで高価な食事などしなかった。今日は特別の日なの? グレーゾーンって、なに? 料理が終わって次はデザートになる。外は夜景がきれいなので、ジッと外を見ている。

「大事な話だけど、昨日、室長から異動の内々示があった。10月1日付で場所は関西の茨木研究所だ。研究企画室長ということで、もちろん受けた」

「そうだったんですか、ご栄転ですね、おめでとうございます」

「それで、美沙ちゃんに一緒に来てもらいたいんだ」

「私も転勤するんですか?」

「いや、僕と結婚して付いてきて来てほしいんだ。どうかな、お願いします」

「ええ…それって、プロポーズですか?」

「それ以外に何がある」

「あまりにも突然の話で驚きました」

「驚くことはないだろう、ずっと付き合っていたのだから」

「私は岸辺さんと結婚できるとは思っていません。つり合いがとれませんから」

「でも付き合ってくれたじゃないか」

「付き合いたかったからです」

「それならいいじゃないか」

「はい、嬉しいんですが、まだなぜか実感がないんです」

「いいんだね」

「はい、いいです」

「ありがとう。よかった。じゃあ、これを是非受け取ってほしい。婚約指輪と結婚指輪は二人で買いに行こう。これは昨日買ってきたものだ。開けてみて」

私は包みを解いておそるおそるケースの蓋をあける。そこには3重チェインのシルバーのブレスレットが入っていた。

「それをその太いベルトの腕時計の代わりにしてほしいんだ」

それを見て私は嬉しさがこみあげてきてこらえきれずに声を出して泣いてしまった。周りのテーブルから視線が集まったに違いない。

潤さんが隣のテーブルに向かって「すみません、プロポーズしたら泣いてしまって」と小声で言っているのが聞こえた。するとその場にざわめきが起こったみたい。

そこへウエイターがデザートを持ってきてテーブルに置いた。私は泣きやんだ。蝋燭を1本灯したケーキだった。ケーキにはハートのマークの中にありがとうの文字。

「ご婚約記念のケーキです。ごゆっくりどうぞ」

「美沙ちゃん、蝋燭を吹き消して! 二人で食べようよ」

私は長い間、蝋燭を見つめていた。そして「記念に写真を取っておきます」と言ってスマホで写真をとった。

それから、そっと吹き消して「ありがとうございます。とっても嬉しいです」と言った。そのころはもう落ち着いていた。

それから、潤さんは腕時計を外して、ブレスレットを着けてくれた。

「これから、毎日いつも着けていてもいいですか? 会社でも」

「もちろん、そのためにプレゼントしたんだから。その傷を癒してあげると言う僕の誓いの印と思ってくれればいい。なくしたらまた新しいのを買ってあげる」

「絶対に無くしません。大切にします。ありがとうございます」

「気に入ってくれてよかった」

私は何度何度も腕をかざしてブレスレットを見ていた。いつも気持ちが高揚するとピリピリする傷痕は静かにしている。ブレスレットで封印されたのかもしれない。

「明日は土曜日だけど、11時ごろに僕の家へ来ないか。これからのことを相談したいから」

「じゃあ、お弁当を作って11時にお邪魔します」

それから、ホテルを出て、二人手をつないで駅までゆっくり歩いた。何も話さなかったけど、心は通い合っていた。

いつものように、電車を乗り継いで、電車で分かれた。今日はグレーゾーンだから。二人とも家に帰って一人になってこの余韻に浸りたいと思っている。

帰宅してから、ホテルでの出来事を思い出して、本当にあったことなのか信じられなかった。

腕にはブレスレットが光っている。何度も何度もそれに触れて、箱を開けてブレスレットを見た時のこと思い出して、また嬉しくて、嬉しくて泣いてしまった。しばらくこの余韻に浸っていたい。

そうだ、母にこのことを伝えておかなければと思い電話した。母はとても喜んでくれた。岸辺さんはいい人だから絶対に離してはだめと言われた。

ブログにはこう書き込んだ。

〖今日プロポーズされてお受けした。そして手首の傷痕を隠すブレスレットをプレゼントされた〗

コメント欄
[よかったね。おめでとう。泣いたでしょう]
[傷を隠すブレスレットなんて彼氏は心もカッコいいね!]
[絶対に離れたらだめだよ!]

地味子のセカンドラブー私だって幸せになりたい!

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