鏡の中の君に恋をした。




 「君、名前はなんて言うの?」
 「……泉。片霧泉」
 「へえ、聞いたことも見たこともない名前だね!」

 それはこっちのセリフだよ、と突っ込みたくなる気持ちを押し殺し、曖昧に頷く。

 「私はねぇ、風原ひな!よろしくね!」

 おどけたように笑って、畳の上にどかっと座るひな。風原ひな、なんて名前、俺だって聞いたこともない。
 そのまま返してやりたい。

 「でも、どうしてこんなところにいるの?っていうか、どうして青子ちゃんから見えないの?」
 「俺が聞きてぇに決まってるだろ、てか、青子って誰だよ……」
 「えっ、知らないの!?知らないくせにここにいるの!?」

 俺が一番知りたいことをどんどん俺に尋ねてくるひなにイライラと頭を掻く。

 「あのなぁ……」
 「じゃあ君はユウレイだね」
 「は……?」

 ビシッと俺に向かって人差し指を向けるひなに、ポカンと口を開ける。
 ユウレイ?俺が……?
 なんでそうなるんだよ。

 「違うし」
 「じゃあどうして青子ちゃんのこともわかんないの?」
 「え……」
 「だって青子ちゃんはこの家にずぅっと住んでるんだよ?」

 そこでふと思いとどまる。
 この家って、俺のばあちゃんがずっと住んでたんだよな?他にだれかがすんでいたなんて聞いたことがない。

 ……ばあちゃんの名前って、なんだ?
 たしか、片霧……。

 「青子……」

 思わず、口から片霧に続くばあちゃんの名前が溢れる。
 そうだ、確かにばあちゃんの名前は片霧青子。でも、あんなに若くはなかった。

 「っ、どういうことだよ……」
 
 全然理解ができない。ばあちゃんの“今”はあんなではないはずだ。それなのに……。
 
 「ユウレイって本当にいるんだ!初めて見たかも……!」

 混乱している俺をよそに、彼女まじまじと俺を見る。
 俺はユウレイじゃない。だって俺、死んだ覚えはないし。鏡の前に突っ立っていたら、急に知らない世界に来たみたいな感覚に陥っただけだろう。

 「……そうだ、鏡……!」

 こんなよくわからないことになっているのは、必ずあの鏡が何か原因なんだ。
 あの鏡の中にひなが立っていたから……。

 「あ、その鏡いいよね!去年、私がバレエ習い出したら、おばあちゃんが買ってくれたの。うちは狭くて置けないからって」

 だからいつもここへ来てバレエの練習をしてるんだ、と口を緩めて語り出すひなの手が、大鏡に優しく触れる。
 違和感を覚えた。

 去年?
 去年、この鏡を買ってもらったってことか?

 腹の底から何か冷たいものが込み上げてくる。
 違う、そんなはずはない。
 だって、この大鏡は俺が生まれる前からあったって。
 そう、ばあちゃんが言っていたから。

 「う……」

 わけのわからない状態に吐き気が込み上げる。違う、そんなはずがない。

 俺が生まれる前にあったはずの鏡。
 若返っているばあちゃん。

 「ちょっと、大丈夫?顔色悪いけど……」

 ひなが心配そうに俺の顔を覗き込む。
 違うんだ、ここは絶対に俺の存在がない場所ではないはずだ。俺はちゃんと日本という国で生まれて、この家で半分育って……。
 
 俺の中に、ひとつの答えが浮かんだ。
 辻褄が合うのに、それを認めたくない。絶対にそうであってほしくないと願う俺の震える手が、それを主張していた。

 「……なあ、あんた、どこの学校通ってんの?」
 「どこって……制服見ればわかるとおり、桜川高校だけど」


 やっぱりだ。
 彼女の身につけている、時代にそぐわない制服。


 ここ、俺の今いる世界は間違いなく。
 


 ___過去だ。



 確信してしまったからには、全ての辻褄が合っていることに気づいた。

 ボーン、ボーン、と低い音を鳴らして、部屋にある時計が鳴った。見ると、見慣れていた止まっている振り子時計ではなく、しっかりと動いているデザインの変わらない振り子時計。しかも、短針は五の数字を指している。
 少なくとも、俺の物心がついたときにはもう、この振り子時計は動いていなかった。

 つまり、この時代は俺が生まれる前……なのか……?

 「それにしても泉くん、すっごく派手な格好をしてるねぇ。しかもその制服、どこの?」

 もちろん、俺が未来の人間だと知る由もない彼女は、不思議そうに俺の髪色や制服を見て首を傾げている。
 彼女の通う高校、桜川高校は、現代で言う、旧清輝校舎。俺の通っている清輝高校の旧校舎として隣に立っている木造の学校だ。

 もうすぐ廃校になる学校の代わりに通う学校の制服だ、など言えるわけがなく。
 
 「知らない。俺が死ぬ前にでも着てたんじゃないの」

 なんて、その場思いつきの言葉でしのぐことにした。こんな嘘、隠し通せる気がしない。俺がひなの立場なら普通に怪しむだろう。まずこんな時代にブレザーが登場しているのかすらわからないから。
 
 「へえー、やっぱり田舎と都会じゃ違いますな!」

 なぜか誇らしげに胸を張るひながバカでよかったと密かに思っている自分がいた。

 「別に、どっちも一緒だろ」
 「またまたぁ〜、最近のユウレイはわかってないなぁ!」

 バシン!と肩を叩かれた。

 「いって」

 ___と思った。
 反射的に声が出てしまったけれど、そんな痛みや感覚は全くないわけで。

 彼女の勢いのついた掌は、俺の肩をすり抜けて、空中を仰ぐようにからぶっていた。

 「え……」

 戸惑う俺に、何かがわかったように手を叩いた。

 「それもそっか、泉くんはユウレイだもんね。触れられるわけないか!」

 あははっと豪快に笑うひなを見ていると、なぜか俺の口元まで緩んでくる。俺とはかけ離れたポジティブ思考を持つ人は嫌いだったのに。
 なぜかこの人を、ひなを。
 拒絶しようとは思えなかった。





 俺がこの世界___過去へ来てから、三日が過ぎた。地獄のような環境の中、わかったことがいくつかある。

 一つ目は、人間らしい欲求がないということ。いわゆる、食欲や睡眠欲、排便欲すらないのだ。どれだけ動き回っていても疲労はないし、眠くもならない。まさに俺の目指していた身体になったのである。

 二つ目は、元の世界には戻れないということ。きっとあの鏡に何かあるはずだ、と思い続けて何度も鏡に触れてみたり、鏡の前で変なポーズを取ったりしてみたが、元の世界へ戻るどころか、バレエの練習に訪れたひなに変な眼差しを向けられた。

 三つ目は、外に出られるということだ。ユウレイというのは本来、いた場所に留まるものだと思い込んでいた。昔見ていたアニメの設定がそうだったから。だが、つまらなくなってダメ元で外へ出てみれば、なんと出られるではないか、と、今朝驚いたのである。

 そして四つ目。それは___。

 「は……?今って平成……なのか……?」

 この世界は、俺が生まれるはるか前。
 三十二年前だということだ。

 たまたま見つけた新聞に書いてあった西暦と日付け。それは間違いなく、三十二年前を表していた。どうしてこの時代なのだろうか。今朝、外に出た時も、見知らぬ建物がたくさんあったほどだ。幼少期に壊されてしまった駄菓子屋が近くに残っていたことから、今がそれくらい前だということにも納得がいく。


 「なんでこんな時代に……」
 「いっずみくーん!何やってんの?」
 「うわっ」


 そして五つ目。
 今も俺の隣で俺のポーズを真似する女、風原ひなは、約一ヶ月後にバレエの全国大会を控えていること、だ。正直言って、ひなにそんな能があるとは思いもしなかった。申し訳ないけれど。
 ひなはこの三日間、学校が終わると一直線にここへ帰ってきて、バレエの練習をしていた。五時から三時間以上も、くるくると踊り続けるひなに、俺の目は惹かれる。まるで彼女の踊りが俺とひなの会話だと言わんばかりに、この時間だけは二人とも無言だった。もちろん、休憩時間に口を挟むことはあったけれど。

 でも、今日は違ったみたいだ。
 ひなは、俺の気がそれたことを確認すると、素早く立ち上がって、にぃっと笑った。

 「着いてきたまえ、泉くんよ!」
 「はぁ……?」

 ふふん、と誇らしげに外を指差すひな。どこかへ連れて行ってくれるらしい。

 「どこ行くの?別に俺、行きたいところなんてないけど」
 「私が泉くんに着いてきて欲しいんですー」
 
 どこへ行くか、という質問には答えてもらえず、彼女は薄暗い道をスキップしながら軽々しくかけていく。
 本当に楽しそうにするもんだ。スキップなんて、何年していないだろうか。していなさすぎて、もうできなくなっているかもしれないくらいだ。

 「ね、泉くんは夢とかあった?」

 不意に彼女の長いポニーテールが、はらりと舞った。それと同時に、彼女の細められた瞳が俺を捉える。

 「……あるわけないだろ、俺なんかに」

 見た目から真面目じゃない俺なんかに、夢なんてあるわけがないだろう。夢を持つことができるのは、俺みたいなやつ以外。

 「なんで?」
 「は?」
 「なんで俺なんかって言うの?まるで泉くんが夢を持つことが悪いことみたい」

 汚い世間のことなんて何も知らなさそうな無垢の瞳を浮かべ、ひなは首を傾げる。

 "俺が夢を持つことは悪いこと。"

 なぜか、彼女の言う言葉が俺の胸に深く突き刺さる。のしかかるような重さが、俺の沸点を下げた。
 イライラと頭を掻くと、俺はひなから目を逸らす。

 「別に。ユウレイだから、覚えてねぇよ」

 まずい、と瞬時に彼女に目を合わせた。思ったよりも低い声が出てしまったことに自分自身でも驚きつつ、ひなの反応を伺う。
 でも、ひなの表情は変わらずに「確かにそうかも!」と再びポニーテールを揺らし、俺に背を向けた。

 確かに、俺が夢を持つことは悪いことかもしれない。___いや、悪いことなのだ。

 あの日、あの瞬間。俺の夢が散ったと同時に、俺が夢を持つことは許されなくなったのだから。

 「……ひなは夢あんの」
 「へ、私?」
 「……うん」

 なんとなく聞き返さなきゃいけない雰囲気が漂っていたので、前を歩くひなに尋ねてみる。まさか聞き返されることが目当てではなかったのだろうか、まるで不意打ちで聞かれたような質問に対する返事だった。

 「一応、あるよ」
 「……ふうん」

 彼女の表情は見えなかった。俺が見ようとしなかったから。夢と希望を秘めたような彼女の表情を、直視できる気がしなかったから。
___夢を自分から諦めた俺が。

 「って、そこは『何?』とか聞くでしょ、普通!」
 「え、あぁ……何?ひなの夢って」

 自分の夢を聞かれて嬉しそうにする人は初めて見たかもしれない。実際、人の夢について聞くのも数年ぶりだし。

 「えぇっとねぇ!プロのバレリーナになること!」

 大体、夢を聞かれたやつは、恥ずかしそうにモジモジするか、口を閉ざすやつのどちらかだ。
 でも、こんなに自分の夢を生き生きと語れる人は少なくとも俺の周りにはいなかった。
 なんでこんなに笑って夢を語れるんだ、と理不尽なイライラがつのる。

 「あっそ」
 「えぇっ、冷たい!いいでしょ、大きい夢!」

 別に夢を持つことが悪いなんて言ってない。でも、少しは現実を見ろよ、なんてことを言いたくなる。この世の中で、でかすぎる夢が叶う人なんて片手で数えられるくらいしかいないんだから。

 そんな思いばかりが頭の中を埋め尽くして、ひなに返す言葉は見つからなかった。何を言っても嫌味にしかならないような気がする。

 「ついたよ!」
 「え……」

 何も気の利いた言葉がひなに言えないまま、目的の場所についてしまったらしい。目の前に建つ綺麗な四角い建物。

 「私が通ってるバレエスタジオだよ!」

 ひなのポニーテールが楽しげに揺れる。ひなは、軽々しい足取りで中へ入っていくけれど、俺の足は進まなかった。
 ここに入ってどうしたらいいのか、一体ひなが俺に何を見せたいのか。ひなの考えていることがわからない、という感情が俺の足取りを重くする。

 「ほら、入って入って!」

 彼女が手招きをする。まるで褒められた犬のしっぽのようにぶんぶんと手を振り回すものだから、つい小走りで彼女の後についていく。


 中は広かった。ばあちゃんの家の近くに、こんな場所があったのか、と疑いたくなるほどだ。
 オレンジ色の淡い照明が等間隔で並んでいて、前方には壁一面を使った鏡が全ての景色を映していた。

 どうやらここでひなは練習をするらしい。動きやすそうな服装に着替えたひなが俺を見ると、わずかに口角を上げた。
 おかしい人だと思われたくなかったのか、さすがにいつも騒がしいひなも俺が周りから見えないことにも配慮しているようだった。

 『見てて』

 ひなの口元がそう動いたのは、俺の見間違いではないだろう。
 ばあちゃんの家にあるあの鏡の大きさと部屋の広さでは、さすがに踊る激しさにも限度があるのだから、ひなの全力で踊る姿を見るのが少し楽しみだったりする。


 「あ……」


 十人ほどいる中でも、ひなは中心に配置されていた。
 やはり、センターにいる人ほど優れている、というのは本当らしい。
 相当な人数の割に、まるでスポットライトを浴びたモデルかのようにしなやかに踊る彼女がセンターにいることは、じゅうぶんに納得できた。

 曲はわからないけれど、曲調にあったゆったりとしたきめ細かい動きや表情。
 ひなの持っている全てが、曲に馴染んでいた。

 わけもなく、頭がふわふわする。なんでだろうか、ひなの踊りを見ていると、大空に飛び立つ大きな白鳥と照らし合わせてしまうくらいだ。


 「風原!つま先!爪の先まで意識を巡らせなさい!」


 曲が流れているはずなのに、静かで落ち着いた空間は、誰かによって遮られた。
 なんだというのだ、こんなに完璧な動きをしているのに。

 眉を顰めて声の主を目でたどる。

 「ぜんっぜんダメね!血を巡らせるの!」
 「はい!」

 イライラとした様子の女性が、扉の近くで壁にもたれかかっていた。このバレエ教室の先生なのだろうか。厳しい言葉をかけられたにも関わらず、ひなは、間髪入れずに張りのある返事をホールに響かせた。

 
 じゃああんたはできんのかよ、と、偉そうにひなたちの踊りを見る女にイライラが募る。
 

 「風原!もっと表情を作って!感情を入れるの、曲に!」
 「はい!」

 「風原!手!」
 「はい!」

 「風原!あたしがさっき言ったこと、ちゃんと覚えてるの!?」
 「はいっ!」

 さすがに俺も座っていられなくなる。こんなに必死に綺麗に踊ろうとしている奴らの曲をわざわざ中断してまで言うことなのか?と拳を握りしめる。

 さっきから突っ立っているだけで、何も自分のお手本を見せようとはしていない。

 「じゃあ自分がやって見せろよ」

 ボソリと呟く。自分ができないくせに、人にガミガミ言う権利などないのだから。今すぐこの場から出て行ってほしい、という思いが頭の中をせわしなく埋め尽くした。

 「この時、手はちゃんと背中のこの位置って言ったわよね?今日、体調でも悪いの?」
 「いいえ!できます、次からは必ず!」

 舌を強く打つ前に、長いため息が出た。こんな場所、もう居たくなんてない。十人もいるのに、厳しい口調で注意されるのはひなだけだ。
 何がおかしい?じゅうぶんに綺麗だろう。

 どうやら俺のような素人が持つ彼女の踊りへの感想は、あの女にはわからないらしい。

 俺は、長く息を吐いた後、静かにその場を後にした。





 「あ、泉くん!ずっと待っててくれたんだね!おまたせっ」

 「……あぁ」

 カバンをぶんぶんと振り回しながら俺に駆け寄ってくるひなは、いつもと変わらない笑顔だ。どうしてそんなに笑顔でいられるのだろうか。

 あんなに怒鳴られていたのに。
 自分の精一杯の踊りを否定されていたのに。

 自分を他人から否定されているくせに。なんで笑えるんだよ。なんで……。

 疲れた様子なんてみじんも感じさせないひなの様子に、正体不明のイライラした感情が込み上げる。

 「泉くん?どうしたの?どこか痛いの?」

 そんな俺のことなんて全くわかっていないひなが、俺の顔を覗き込む。
 ひなのせいだよ。___いや、違う。あのバレエ教室の先生か。
 一瞬でもイライラの矛先が、何も悪くないひなへ向いてしまった俺へのイライラがまたどうしよもなく体にのしかかる。

 「別に。何も」
 「嘘だよ!だって泉くん、全然元気ないもん!私にはわかるからね〜?なんせ3日の付き合いなのですから!」

 おちゃらけて笑うひな。本来なら、俺とひなのテンションは逆でなければおかしい。


 ___本当に、何が楽しいんだ。


 ひなの笑顔を見た瞬間、俺の中の何かが切れた。


 「なに、なんでそんな笑ってんの?」
 「……え?」


 思ったよりも冷たい声が出てしまったことを気にする余裕もなく、驚いたように俺を見つめるひなに向かって言葉を被せる。

 「なんでそんな頑張んの?好きでやってること、ガミガミ口出しされて。なんとも思わねえの?」

 強めの口調で彼女に問いかけるけれど、即座に対応できるわけがない。イライラと頭をかく。
 
 「……」

 ほら、これがムカつくんだよ。心底、俺が何を言っているのかわからない、と言っているようなその顔が。
 本当に何も知らないんだな、ひなは。

 たった三日間の付き合い、それだけでも嫌と言うほど思い知らされる。ひなの性格。

 いつもいつも前だけを見て、決して投げ出すことをしない。
 きっと、努力をすれば報われるのだと信じているのだろう。

 そんなの、本当なわけがないのに。

 「……ごめん、今のは忘れ___」
 「好きだからだよ?」

 さらに強く手のひらを握りしめる。
 
 「私はバレエが好き。好きだから上手くなりたいの。好きだから頑張るの」

 あぁ、これ以上は何も聞きたくない。ここから先、俺が聞いてしまえば、どうしよもない自分への嫌悪でどうにかなってしまいそうだ。

 「口出しされてる、なんて言わないでよ。それが嫌ならとっくにバレエなんてやめてるよ!」

 珍しくひなが声を張り上げる。何がだよ、口出しされてる、って、何が違うんだよ。
 口出しされて嬉しいやつなんてどこにもいないくせに。


 ___なんにもわかってないくせに。


 夢を叶えると言うことが。夢を持つことがどれだけ大変で、リスクがあって、恐ろしいことなのかもわかっていないくせに。

 「夢を叶えるために頑張っちゃいけないの?ねえ、私は今、すっごく楽しいよ?それじゃダメなの?」

 ダメだ、ひな。これ以上は言ってはいけない。
 俺も。これ以上は、聞いてはいけない。
 ダメだ、ダメだ、ダメだ。

 ___言ってはいけないことを言ってしまう。


 「夢があることが楽しいって、泉くんは知らないからそんなこと言えるんだよ。私はこれからもずっとずっとバレエを頑張りたい!頑張って、頑張って。その毎日が楽しいから、笑えるの!泉くんだって___」


 ___心から全てが溢れかえってしまう。


 「ひなの方が知らないだろ」
 「……え……?」
 「好きだけじゃどうにもなんねーってこと、知らねーからそんなことほいほい言えるんだよ」

 すっかりと暗くなった空には、分厚い雲が全てを覆っていて。月明かりすら俺たちの足元には届いていなかった。

 「そんな甘い思考しかねえんだろ、ひなには」

 もうさ、と口に出して、少し間を開ける。
 言ってはいけない、と俺自身が警告を出すように手が震えているのに、俺の口は止まらない。

 こればかりは。

 言ってはいけないのに___。




 「夢なんて、叶うわけがないんだから」




 目の前に立つ彼女の表情は、暗くて見えなかった。

 あぁ、そうか。

 このどうしよもない怒りは本来___俺に向けられたものだったのか。

 俺の手からまたひとつ。
 何かがこぼれた。





 「俺、絶対ワールドカップに出るんだ!」
 
幼い頃から、プロのサッカー選手になることが俺の夢だった。
 小学校低学年の頃にもらった誕生日プレゼントのサッカーボール。そのボールをひと蹴りした瞬間、俺の人生は変わったのだ。

 「そうねぇ、泉はきっと、おっきい日の丸を背負ってサッカー選手になるんだろうねぇ」

 そんな俺を、笑顔で応援してくれる俺の母親も、ボールを蹴る毎日も。
 全てが、楽しかったから。

 中学校でもサッカー部に入部し、部活一色の毎日。それがどうしよもなく心地よくて、楽しくて。
 ただ、これからも純粋に、この夢を追いかけ続けられるのだと思っていた。

 思っていた___。


 「なあ、泉。まだそんなことを言っているのか?」
 「……は?」

 そんな日々を送り続ける俺が、中学二年生に進級した頃だった。
 部活が終わった後も、夜遅くまで自主練をしていた俺が帰宅した時、何気なく父親に聞かれて答えた夢に対しての言葉。

 お前の夢はなんだ、と聞かれたから、素直に答えただけなのに。
 もう俺も中学生だ、これから言われることなんて、大体想像ができた。

 「もういい歳なんだ、現実を見たらどうだ?」
 「……なに……言って」
 「父さんは泉のためを思って言っているんだ。サッカーをやめろとは言っていない、ただ、もう少し現実味のある夢を持ったらどうだ」

 父親の言っている意味がわからなかった。
 プロのサッカー選手になる夢を諦めろ、って、言いたいのか?
 そう言われることは想像していたけれど、改めて言われると、やはりすぐに理解をすることが難しい。

 父さんは、微笑んで話を続ける。

 「進学はどうする?高校だって、偏差値が高いところに行ってもらわなきゃ父さんの病院が困ってしまう」

 ちょっと、待て。
 俺はひょうしぬけした。

 父さんの病院の後継をもちろんしてもらう、とでも言うように俺の将来のことをペラペラと語り出す父さん。大きく頷きながら俺に何か共感を求めているけれど、そんな父親の言葉なんて耳に入らなかった。

 「ちょ、ちょっと待てよ。なに、俺の夢が叶わないこと前提で話してんの?」

 乾いた笑い声が俺の口から溢れた。でも、俺の口角は上がるどころか自分でも感じるほどに下がっている。

 「だから、そういうことじゃない。お前の将来は決まってい___」
 「そういうことだろ!」

 まるで俺の方が間違っているかのような物言いに、父さんの言葉を遮る。
 なにが、「そういうことじゃない」だ。

 「俺のことをきっぱりと否定しないのは、俺が父さんから離れていかないためだろ?もうわかってんだよ!いい親ぶるなよ!」
 「泉!なんて口を___」
 「俺は父さんの所有物じゃない!父さんみたいな人が決めた道なんて、歩くわけないだろ」

 楽しい親子ごっこなんて、勝手にやってろよ、と、俺は床に転がっていた数年使い込んだサッカーボールを乱暴に掴むと、家を飛び出__そうとした。

 「あ、泉!ただいま〜」

 母さんが、仕事から帰ってきたから。

 「っ、」

 俺は母さんから目を逸らすと、「おかえり」と呟いた。なんだよ、なんで今なんだ。

 心のどこかで、母さんが応援してくれているから、と思っている自分もいた。
 でも、当然母さんには父親の意見なんて聞こうとしてもらいたくなくて。父さんの意見を聞いたら、それに母さんも納得してしまうかもしれないから。

 それだけは、本当に嫌だった。

 ずっとずっと俺のことを笑顔で応援してくれて、県外の強化練習や合宿、大会にまで駆けつけてくれた母さんに、俺の気持ちを無視されることだけは。

 「どうしたの泉、顔色悪いね」

 ぎりっと奥歯を噛み締める。ダメだ、母さん、今の俺には話しかけたら。
 きっと、この優しい手を振り払ってしまう。

 「っ、なんでも」
 「嘘だぁ、だって元気ないもん!ほーら、お母さんに話してみなー?」

 母さんの手が、俺の手を握る。その手は、少し冷たくて。

 「おかえり」
 「悟さん、ただいま」

 俺の中に焦りという感情が芽生える。よりによって今日、このタイミングで、なんで俺と母さんの前に出られるんだ。

 いや、そう思っているのは俺だけか。
 父さんにとっては俺にサッカーをやめてほしいんだ。それにお母さんっ子の俺が母さんに反対されれば、従順に従うと思ってるんだ。

 ふつふつと怒りが腹の底から浮き上がる。

 「さあ、中へ入りなさい。寒いだろう」

 父さんは、俺の手を握る母さんの手をとって、リビングへ入るように促す。

 「そうするね。でも泉、具合悪いみたいだけど……」

 俺の肩がぴくりと跳ねる。
 今、父さんはどんな表情で俺を見ているのだろうか。きっと、冷めた目つきで、俺のことなんて見えていないかのような反応をするはずだ。

 「あぁ、そのことなんだが___」
 「やめろ」

 だめだ、やめてくれ。
 母さんだけは絶対に、ずっと。

 「泉、本当にどうしたの?悩みがあるなら___」
 「なんもないって言ってんだろ!」

 こんな時にまで。

 どうして俺は、こんなふうに後先考えずに行動してしまうのだろうか。
 思えば、後悔しかなかった___。


***


 ___ピコン、ピコン

 「……ちっ、なんだよ、今更」

 先ほどから鳴る、鬼電話と大量のメッセージ。誰からかなんて、大体想像できていた。だから、スマホの電源を切る。

 外は強い雨が降っていた。まさかこんなにも降ると思わなかった俺は、適当にファミレスで時間を潰し、雨が止むのを待つ。

 ___これからどうしようか。

 片手に持った真っ黒な画面のスマホを意味もなく見つめながら、ふとそんな疑問が脳裏に浮かぶ。

 家に帰るとしても、きっと俺はまた、両親から同じ話をされるのだろう。
 夢なんて捨てろ、と。

 夢を持つことの何が悪いんだ。夢だなんて馬鹿げたものを持っていいのは、精々低学年まで、とでも言うのか。
 本気でサッカーが好きなのに。本気で目指したいものなのに。


 いつも大人は、子供の可能性を考える暇もなく潰していく。それが大人の役目だと勘違いでもしているのだろうか。


 本当の親というのは、母さんみたいな人のことなのだと、世の中のやつらに知らしめてやりたい。


 ___あぁ、母さん、俺のこと心配してるかな。

 所詮まだ中学生だ。一人暮らしをできる年齢でもなければ、お金を稼げる年齢でもない。そんな自分が憎い。

 「お客様、閉店時間となります」

 気づけば、俺は夜道を歩いていた___。



 俺の心配をするやつなんて、やはりいないか。当たり前だ、親不孝な上に、態度も悪い。俺を心配してもらう権利なんて、誰にもあるわけがないのに、どこかで寂しいと思っている自分がいる。
 中学生って、こんなもんか___と思った。親がいなきゃ何もできない未熟な子供。今の俺には、そんな言葉がぴったりだ。


 時刻は0時近くとなった、その時だった。


 そろそろ帰らなければ、本格的に大事となりそうだ、と家に向かって歩いていた時だった。

 周りの音を掻き消す雨の音に混じって、騒音が聞こえたのは。
 結構大きな音だったと思う。

 誰かの叫ぶ声や、男の人の怒鳴り声。色んな人の声が混ざって、雨と共に俺の鼓膜を揺らした。

 何があったのだろうか。
 まだ中学生の俺は、好奇心が勝り、野次馬として声の聞こえた方向へ向かうことにした。



 あの瞬間___真っ赤な液体に塗れた母親の垂れ下がる腕を見たあの瞬間から、俺の夢は、脆く、すぐに壊れることを知った。







***


 「やってしまった……」

 俺は、畳の上に座り込む。あの後、ひなは無言のまま自分の家へと帰ってしまったのだ。それから、俺を避けるようにこちらの家に来なくなってしまった。
 まあ、あの時に引き留めてすぐに謝らなかった俺が悪いのだけれど。

 この世界はどうなっているのだろうか。

 ___ひなは、実在する人物なのだろうか。

 俺の中にひとつの疑問が生まれる。もし俺がこの世界でユウレイとして生き続ける毎日になってしまえば、きっと俺は耐えられない。でも、もし、もし俺が元の世界へ帰れたとして、俺の存在はひなの記憶に残るのだろうか。ひなの存在が俺の記憶に残るのだろうか。
 今までの人生を振り返っても「ひな」なんて名前は聞いたことがなかったからだ。


 ___ひとつ、例外を除いて。


 俺は居ても立っても居られなくなるかのように、慌ただしく立ち上がる。

 俺がこの世界へ来る前、ばあちゃんから何の話があった?
 数日前の記憶をたぐり寄せる。

 俺の誕生日を祝ってくれた?確かに祝ってくれた、おめでとう、と。
 でも、それじゃない。俺がずっと引っ掛かっていたもの。


 ___"……ひなちゃんのこと、よぉ思い出すねぇ"


 頭の中で、ふとばあちゃんの呟く声がリピートされる。

 「ひな、ちゃん……思い出す……?」

 なんで。もしこの世界が、本当に過去だとするならば、ばあちゃんは必ずひなの存在を知っているはずだ。そんなばあちゃんが、どうして突然ひなの話を始めたのか。

 あぁ、もう。なんでばあちゃんの話を軽く受け流したんだ。

 喉まで出かかった答えがなかなか思い出せずに、イライラと頭を掻く。

 なんで俺の誕生日にひなを思い出す?なんでひなを俺は知らなかった?何かその日に深い因縁があったのか。

 ふと、いつものように置いてあるちゃぶ台の上の最新の新聞が目に入る。


 「七月四日……?誕生日の前日、か」

 明日になれば何かわかるかもしれない。
 ___そう思った瞬間、背中から何かが這い上がるかのような悪寒が走った。


 違う、忘れてはいけない。絶対に今、何かをしなければいけない。


 警報が鳴るかのように、心臓が激しく脈打つ。俺は何を忘れてる?
 ひなが明日、何をするんだ。何を起こすんだ。そんなの、明日にならなきゃわかんないだろ。

 無意識に握りしめていた膝の上の拳が鬱血するかのように白くなった。

 とにかく、このままではいけない。そう俺が言っていた。このままひなと会わないままになれば、間違いなく俺は何かを掴み損ねる。また、何かが溢れる。


 時刻は十六時。

 平日授業の、終了時刻を示していた___。





 旧校舎___桜川高校は、思っていたよりも綺麗だった。木造なのは変わらないけれど、まだ色が明るい。

 本当に昔なんだ、と、現代の綺麗なものを見た時とは違う懐かしさを感じる。
 って、何を黄昏ているんだ、俺は。

 ひなに謝りに来たんだろ、と意を決して敷地へ足を踏み入れる。
 ぞろぞろと生徒たちが校舎から出てくる光景に注意深く目を配る。ひなは部活に入っていないのだから、きっとそろそろ出てくるはず___。


 「あ……」


 ___見つけた。
 校舎から出てくる、いつもと変わらないポニーテールのひな。
 無意識のうちに漏れていた声。小さかったはずなのに、それがひなには聞こえていたみたいで。

 俺を見つけると、同じように短く声を漏らしていた。

 ひなに最低なことをしてしまった自分がどうしよもなく嫌いだ。一時的な感情任せに行動してしまう自分が嫌いだ。

 母さんが俺を追いかけて死ぬ、なんてことを最初からわかっていれば。

 ___後先考えずに行動する自分が、大嫌いだ。



 「ひな」

 俺は、ゆっくりとひなに歩み寄る。あの日、一瞬だけ見えた真顔が、俺の方を向いた。
 
 「……泉くん?どうしたの、こんなところまで!」

 いつもと変わらない笑顔を浮かべ、首を傾げるひな。でも、その顔にはどこか作り笑顔が含まれていて。
 どうしよもなく悔しくなった。

 俺がひなにこんな笑顔をさせているのに。何を今更悔しい、なんて。

 「っ、俺___」

 謝るんだ。ごめん、って。たった三文字なのに。
 喉が詰まって声が出ない。

 俺のことをジッと見つめるひなに対して、謝るということは、とても緊張することだった。悪いのは俺だ、ということはじゅうぶんにわかっているはずなのに。

 掌に冷たい汗が滲む。

 よし、言おう。言わなきゃずっと後悔する。今しかない。
 そう、重く引き結ばれた口を開けた時だった。

 「わっ……」
 「___あっれー?風原さんじゃん。いるのわかんなかったー」
 「何やってんの?突っ立っててこわいんですけどー」

 あからさまな態度で、行為で。

 派手な女子が、嫌な笑みをひなに向ける。その表情は、少しも申し訳なさそうにするものではなくて。

 あぁ、こいつら。
 ひなのこといじめてんだ。

 一目でわかるほど、ひなをバカにする態度が前面に出ていた。

 わざとぶつかった二人はもちろん、スキップをしながらどこかへ行ってしまう。でも、もちろんぶつかられることを想定していなかったひなの華奢な身体はぐらりと揺れた。

 あ、やばい___咄嗟に手が出て、ひなの腕を掴む。

 ___いや、掴もうとした。

 俺の手は、ひなの身体を空振る。

 「っ、え……」

 「あはは、泉くん、ユウレイなんだから触れられないんだってば」

 あぁ、そうか。触れられないんだった。
 そう理解したのも束の間で。
 信じられなかった。

 あんなにあからさまな嫌がらせを、どうして見向きもせずに笑顔でいられるのか。

 「大丈夫か?」
 「うん。立てるから、手、差し出さなくても大丈夫だよ」

 彼女は変わらない笑みを顔に貼り付けたまま、スカートの汚れを手で取る。
 なんでだよ、なんで俺が怒ってるんだ。

 「言い返せよ、わかんねえの?嫌がらせ、されてるって」

 どうしてこんなに口調を強くしてしまうんだ、と俺を心の中で叩く。

 「わかってるよ。でも、いちいち向き合ってたら、バレエの練習をする時間がなくなっちゃうもの」

 だからいいの、と笑うひなの笑顔は、本当になんとも思っていなさそうだった。

 「……それに今日は、泉くんに謝りに行こうとしてたしね」
 「え……?」

 なんで、と口から短く溢れる。
 なんでひなが?
 ひなは何も謝ることなんてないのに。

 「私、泉くんのこと何も知らなくてね。ペラペラと自分のことばっかり。嫌な思いさせてごめんね」

 違う、違う違う。俺はひなに謝らせたくてあんなひどいことを言ったんじゃない。ただの俺の一時的な感情で___。

 「私のことを思って言って___」
 「違うよ」
 「え?」

 俺は掌を強く握りしめる。

 「ただ俺の夢が叶わなかった腹いせ。……ひなが羨ましかったんだ。夢までの障害物がないように見えたひなの道が、羨ましくて」

 俺って、本当に恥ずかしい奴だ。他人に嫉妬して、挙句にはそれを剥き出しにしてしまう。

 「ひながどんだけ頑張ってんのかわかってないくせに、ひどいこと言った。……俺こそ、ごめん」

 なんでたった三文字の言葉が、すぐに言えなかったんだ。この言葉は、傷を修復するための言葉なのに。なぜかいつも、言うことに気力を消費する。

 「___君は、優しいね」

 それ以上に、ひなが全てを包むかのような柔らかい笑顔を俺に向けた。

 「っ……優しくなんかない。クソみたいなやつで、ひなに嫉妬して、ダサくて___」
 「私が優しいって思ったらそれでいいの」

 困ったような表情で、さっぱりと話を切られる。

 「泉くんは、優しいよ。泉くんの夢に対しての思いって、昨日の全部だよね。泉くんにも、あったんでしょ」

 図星を突かれて、小さく頷くことしかできない。
 俺が夢を追って、両親に反対されて。
 運命にまで反対されてしまったんだから、挫折するしかない。
 今、前だけに進むひなにそれを知られたら、笑われるのだろうか。そんなものか、と思われるのだろうか。

 怖くて、それ以上は言えなかった。

 「私はそれが無理だとしても、絶対に諦めないよ!泉くんの分まで、頑張るんだから!」

 ふん!と効果音付きでマッチョポーズをとるひなが、俺の口元を緩めた。

 「全国大会で金賞が取れなくても、絶対に諦めないよ。なんなら、私の人生の時間を使ってバレエに賭けるのもおもしろいかもね!」

 ふと、引っ掛かる。
 人生の時間を使う……。
 ひなが三十二年後、俺の住んでいた世界にはいなかった。

 ___ひなちゃんのこと、よぉ思い出すねぇ。

 ばあちゃんの言葉がフラッシュバックする。___それと共に、ばあちゃんの家の居間にあった、小さな仏壇。ばあちゃんは確か、その仏壇を眺めながら寂しげに呟いていた。



 ___回路が、全て繋がった気がした。



 ばあちゃんの言っていた意味が。
 ひながどうして三十二年後に存在しないのか。
 
 全てがわかった気がした。

 その瞬間、無意識のうちに頰に伝う冷たいもの。まるで、鏡の中に写っていたひなのように、俺は泣いていた___。


 明日七月五日、俺の誕生日。
 多分___いや、間違いなく彼女は。



 ___命を落とすから。







 「ど、どうしたの……!泣いてる、え……なんで!?大丈夫!?」

 その死が、病気によるものなのか、事故によるものなのか、はたまた自殺によるものなのか、俺には何もわからない。
 でも、彼女は確実に命を落とすということ。そんな未来を知ることのないひなは、ぎょっとしたように俺の顔を覗き込んでいる。

 「……ひな」
 「ちょ、はい!ハンカチ!」
 「ひな」
 「とにかく拭いて、大丈夫?何かあった?」

 「聞いてくれ、ひな」

 ひなの動きが止まる。
 きっと、今の俺の表情はひどいことだろう。
 
 「ひな、明日って、なんか用事ある?」
 「え、明日……?」
 「あぁ」

 頬に伝った一粒の涙が乾いていく感覚。
 ひなに病気があるようにも思えないし、自殺をするように見えない。

 あるとしたら、事故だ。

 ___事故ならば大丈夫だ。俺は彼女が死ぬことを知っているのだから、俺が守ればいい。俺がずっとひなの周りで気を張っていればいいだけの話。

 「明日はねー、新しいトゥシューズを買いに行くの!」
 「……ふーん」
 「なになに、ついてきてくれるの?」
 「別に」

 事故というと、交通事故がまず思い浮かぶ。でも、他殺の可能性だって……。
 なんにせよ、俺がひなを守ればいいだけだ。

 「っ、……あのさ、俺が未来から来たって言ったら……どうする?」
 「え……未来?泉くんが?」
 「例え話だよ」

 ひなは、少し考えるような仕草をした後、顔をぱっと明るくさせて人差し指を立てた。

 「未来の私がどうなってるか教えてもらいたい!」
 「っ……!」

 どんな反応をするかを聞きたかっただけなのに。ひなのいない未来で、ひながどうなっているかなんて、そんなの……。

 あまりに、残酷すぎないかよ。

 最初から、ひなが死ぬかもしれないことを知っていれば。自身が気をつけていれば。
 
 変わるかもしれない___。

 そうだ、未来を変えるんだ。俺と、ひなが。

 「そのことなんだけどさ___」
 「あっ、ごめん!私、今日はお母さんに早く帰るよう言われてるんだ!」
 「え、ちょ……」
 「また明日!」

 どうやらひなは相当急いでいたらしかった。時計を見ると、やばい!と連呼しながら走って帰って行ってしまう。
 追いかけなければいけないのに。なんでだ、思うように走れない。元の世界では、走るのは速い方だったはずなのに。体がふわふわする感覚だ。

 走ろうとすればするほど、ひなの背中は小さく、見えなくなっていく。
 今になって気づいたのは、ひなの家を知らないということ。

 完全に見えなくなったひなの背中は、もう追いようがなかったのだ。

 まだ、明日の朝なら間に合うはずだから。彼女の運命を変えなきゃいけないから。

 なんとなくわかってきた気がするんだ。どうして俺が、三十二年前にタイムリープしたのか。
 きっと、ひなを救えという神様からの任務なんだ。ひなの運命を変えろ、と。

 俺は、もう一度桜川校舎に目を向けると、掌を握りしめた。



 
 ___世界は、本当に誰の思い通りにも行ってくれない。そう再び思い知らされる。

 「行くなっつってんだろ」
 「なんで!」
 「なんでもだよ」

 俺が思うように走れないことを知った以上、走るのが速すぎるひなについていけないと判断した。
 それ以上に、さっさと家に帰って寝てもらうだけの方がリスクは格段に低くなるだろう。

 「もう!泉くん!なんで急に?シューズ買いに行くの!」
 「っ……ダメだ、行くな。今日は帰れ」
 「嫌だ!行く!」
 「あのなあ___」
 「理由言ってくんないと行くから!じゃあもう行く___」
 「死ぬんだよ」

 言ってもよかったのだろうか。いや、言うべきだ。言わなきゃいけない。この人は、絶対に死んではいけない存在だから。


 「え……?あ、え?」

 「ごめん。……昨日の話、ほんとのこと。俺が未来から来たって話」


 すぐ近くの横断歩道が、再び赤に切り替わる。俺たちが行く行かないの言い合いをしている時から青になったり、赤になったりと何回もそれを繰り返していた。
 

 「未来?……え、泉くんが……?」
 「……ひなは死ぬんだよ、今日」


 語尾がどんどんと小さくなるのを感じる。それは、俺の気の弱みが滲み出ていることを示していて。

 「信じられねえかもしんないけど。ひなは……今日、確実に死ぬ予定なんだ」
 「えっ……わ、私が……?」
 「……」

 俺が黙ったことを肯定と受け取ったらしい、ひなはなんとも言えないような表情で俺を伺うように見つめた。

 「だから行くな。ひなは、あんただけは死んじゃダメなんだ、絶対に」

 俺とは違う、夢を持つことを許されているひなは。絶対に。

 「お願いだから……俺がいつ元の世界に戻っても……居てくれ」

 この優しさを知ってしまった以上。この笑顔を知ってしまった以上。
 ひなのいない生活なんて考えられない。

 ぎりっと奥歯を噛み締める。

 「そっか!」

 そんな暗い空気に逆らうように、ひなの明るい声があたりに響く。
 
 「っ……なんで」

 なんで、こんな時まで。
 笑うんだよ。

 「私死ぬんだね。じゃあ後悔のないようにトゥシューズ買ってこようかな!」
 「違う!ダメだ、俺はそのために言ったんじゃ___」
 「わかってる」

 知らないうちに、心拍が上がって、両目から涙が溢れていた。これから起こることを知っていながら笑顔になれるひなの代わりに泣いているかのように。

 「……知ってた?運命ってね、変えられないんだって」
 「っ、そんなのやってみなきゃ___」
 「変えられないの、泉くん」

 なんで伝わらないんだよ。なんで俺の言いたいことがわからないんだ。なんで……。
 俺から背を向けたひなの表情は見えなくて。

 「私が死ぬはずだった今日、もし死ななかったらきっと、君の運命が変わる」
 「そんなことないだろ!俺は、ひながいればそれで……っ、いいのに……!」
 
 すがりつくように、ひなの肩を掴もうとするけれど、その手は空中をすかすだけで。
 何も掴めなかった。
 届かなかった。

 「ね、泉くん。知っちゃったからいうけどね、私。泉くんのことが好き」
 「っ……!」
 「だからね、私はどうしても。なんとしてでも君の運命を紡がなきゃいけないの。泉くんの生きている世界を、私の運命が繋げるの」

 ダメだ、ひな。
 ひなが今からしようとしているのは、自殺と同じ行為なんだぞ。

 「だから___」
 「やめろ、言うな。ひな」

 

 「私は、運命に従うよ」



 ひなが、俺の横をすり抜けた。



 ___それと共に、甲高くて大きなクラクションの音。

 あぁ、あれほど。ダメだと言ったのに。

 運命を変えようと言ったのに。
 どうして時に人の思いは、同じ人に伝わらないのだろうか___。


 「っ……ひなぁ……!」


 道路に飛び散る液体を見た途端、ひなが俺の中に鮮明に残っている横たわった母親と重なる。
 ダメだ、ダメだダメだ。
 なんで神様は……っ、俺から大事なものばかりを奪っていくんだ。


 ひなの運命を変えなきゃいけないから、俺を三十二年前に送ったんじゃないのかよ。


 「なんで……っ!」


 なんでよりによって、今、この瞬間、ひなの命が奪われなきゃいけないんだ。夢だってある、希望だってあるひなの命が……っ。

 なんで消されなきゃいけないんだ。

 「ひな!……ひな……!?」

 真っ白になった頭から必死に命令を下して、ひなにふらふらと近寄る。

 「なんで……なんでひなが……!」

 ひなを抱きかかえる___空気を掴む。
 空気を掴む、空気を掴む。

 その繰り返しで。

 いつまで経っても、ひなの体温を感じることはできなかった。

 そして、いつまで経っても。



 ___彼女が太陽のように笑うこともなかった。



 



 なあ、ひな。

 なんで俺はあの時、夢を諦めたんだろうな。こんなに理不尽な世の中でも、必死に自分を信じ続ける人だっていることを知ってながら、「自分は特別な理由だから」だなんて適当に逃げていた。

 

 ___私の代わりに、夢、叶えて。



 彼女が最期、俺に向かって呟いた声を、今でも鮮明に覚えている。
 ひなが、俺に託したものを。運命を。

 全てが、俺を奮い立たせたんだ。


 「泉くん……!?どこ行ってたの!」


 玄関の扉を開けるなり、ぐちゃぐちゃに涙で濡れた顔を、俺の胸に押し付ける義母。

 気づけば歩いていた家路。
 きっと、ひなが「いい加減帰って!」なんて怒っていたのだろうか。

 ひなが託したものを、俺は繋いでいかなければいけない。どんな状況でも、生きているだけで。未来があることはとても幸せなことなんだから。


 「……ごめん。……母さん」
 「っ!」


 あんた、だとかお前、だとか。義母でも母さんなんだ。
 今までの自分が何をしていたのかを改めて後悔する。
 俺は、ゆっくりと母さんの背中に腕を回すと、呟いた。

 「……俺の心配してくれて、ありがとう」

 そう言えば、少しびっくりしたように母さんは俺から離れて、笑った。

 「……どこに行っていたんだ、泉」
 「……ごめんなさい」

 時刻は十二時過ぎ。
 時間軸はどうやら止まっていたらしい。
 こんな夜中にまで拗ねていた自分が、とたんにバカらしく思えるくらいだ。

 「父さん。……こんな俺を捨てずにずっと育ててくれてありがとう」
 「……泉」

 父さんは、それっきり無言だった。
 こんなに贅沢な暮らしがあって、他に何がいるんだ。俺は何が欲しかったんだ。何にイライラしていたんだ。

 ___全部、ひなのおかげかな。


 「俺、また。夢、持っていいかな」
 

 この新しい人生の一歩目は、ひなの太陽みたいな眩しい色で染めたいから。

 ひなの託したものを、俺は絶対に繋いでいくよ。



 俺が恋したあの七日間を、ひなを。


 絶対に忘れない。


 俺は生きるよ、ひな。


 変えてはいけない、決められた運命の中を。


 君に託された運命の中を___。



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