どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しいーーこんな自分のことが大嫌いだ。
朝起きて、パンを食べる。ジャムをつけても味がしない。だから僕は、何もつけないで食べる。
時計を見て、3年生にもなったのに遅刻しそうなことを知る。
そして、走る。ひたすら走り続ける。走って、走って学校に着く。ギリギリセーフ。
あれ、誰もいない。
先生がやってくる。
「急いで。朝礼、体育館で始まるわよ。」
「分かりました。すぐに行きます。」
ー「朝礼」という言葉を聞くと、僕はあの日のことを思い出す。

あの朝、僕の担任はこう伝えた。
「みんな、おはよう。今日、朝礼だから。はい、すぐ並んで。」
体育館に行く、約1000人弱の児童。その中に、僕もいた。体育館に着いた僕ら。止まない会場の騒めき。先生が来た。
喋り始める、運営委員。
「これから、9月10日の朝礼会を始めます。礼。」
礼をする、千人近くの児童が見える。不思議だ。
マイクを手に取る先生の姿が見えた。
「私から、一点連絡があります。最近、英語教室の休み時間の利用が雑になってきました。しっかりと遊んだものは、元の場所に戻してください。」
僕は、英語教室が使えることを初めて知った。
僕は朝礼の後、同じクラスの村屋という子と話していた。
「そういえばさ、英語教室って使えるんだね。」
「俺も初めて知ったよ。」
「一緒に20分休み行かない?」
「良いよ」
ーこの出来事が、僕の後の人生を狂わせるとは知る余地も無かった。

20分休みがやってきた。
英語教室に向かった僕ら。英語教室に入ってみた。
「Hello」
「Hello」
黒板に絵を描いている生徒がいたので、参戦してみた。
英語は緩くやるものという僕の印象は、このお絵描き大会が原因だったのかもしれない。
でも、楽しかった・・・はずだった。

教室に帰り、5時限目の授業がはじまった。いつも通り、ノート・教科書・筆箱を用意して。
筆箱を開けると、僕は地獄を見た。
僕に対する、暴言や悪口がたくさん筆箱の中に書かれていたのだ。
誰が書いていたのかも分からないこの筆箱に対する感情は、怒りの他なかった。
当然、授業に集中できるような状態では無い。
僕は、すぐに先生に言おうと思った。だが、授業中なので躊躇った。
皆んなの前で変に目立ってしまうのも、嫌だったから。
だから、母に伝えて、担任の先生に伝えてもらった。
だがその後もいじめは続き、靴で上履きを踏まれることもあった。
もう既に限界だった。
だが、これ以上の辛い事が山ほど起こるということをその時にはまだ知る余地も無かった。

翌年、僕の筆箱に落書きをしたり、僕の上履きを踏んだりした犯人が浮上した。
犯人というのは何か事件チックだが、当時の僕はそう呼んでいた。
というより、僕の両親が口を滑らせた後に、彼だけが犯人探しのテストを受けていなかったのだ。
そのテストというのは、いわゆる筆跡鑑定。あと、下足痕照合。
彼は仲間だからといって、それが免除されていた。
僕の肩を支え続けてくれた、唯一の仲間だった。クラスでは、彼と僕のことを「カップル」と呼ぶ人さえいた。
一緒に行動することも、あのいじめ以来増えた。
-どうして彼が・・・
その謎は、未だに解けないない。彼は転校してしまったのだ。
小2になってすぐ。家庭の事情によるものだそうだ。

とうとう、僕は教室に入れなくなった。
しかし、不登校でも保健室登校でもない。
普通に登校はするが、授業中は廊下にいることが多々あった。
担任の先生も困っていながら必死に対応をしてくれたが、僕が変わることはなかった。というより、変われなかった。
「他人に迷惑をかけることばかりしている。」そう自分を責めたこともたくさんあった。
辛かった。
ただ、それだけだった。

しかし、そんな僕に転機が訪れた。
向かいのクラスの加代という子が、廊下にいる僕にボソッと言った言葉は今でも忘れられない。
彼女はその時、生活科。つまり、理科の授業中だったのだ。外から帰ってきた向かいのクラスのメンバーである彼女が皆と帰ってきた。
そして僕の前を通った時に、彼女は言ったのだ。
「可哀想」
確かに、加代の声だった。発しているところは見ていないが、舞台的な声量と声の高さが佳代だということを示していた。
この言葉は、僕の救いだった。
恥ずかしかった一方で、僕に優しく接してくれる友達がいることを知った。
僕は、翌日から通常通り授業に参加した。
その頃、学力はなんとか追いついていた。でも、コミュニケーション能力に関してはどう考えても年齢に追いついてなかった。だから、仲の良い友達は非常に少なかった。

そこから、また一年が経った。
小3になっても、トラブルは絶えなかった。
色々なトラブルがあったが、中には未だに謝れていないものもある。
印象的だったのは、武中優との出会いだ。
武中優というのは、友人の名前。
彼女は、クラスのいわゆる「優等生」だった。生徒委員で、成績もそこそこだった。
「そこそこ」というのは、小3のテストは満点が非常に多い。だから、判断しにくいのだ。

彼女と同じ塾に通うことになった僕は、彼女と仲良くなった。
実を言うと、好きというほどではなかったが、彼女のことを気になっていた。
でも彼女には、好きな人がいた。
どうやら、付き合っているようだった。
諦めつつも、僕は彼女と共に行動する事が多かった。

小4というのが、僕にとって思い出深い年だった。
というのも、その後は新型コロナウイルスが流行ってしまい、行動制限がされ始めた年だからだ。
それだけではなく、ゴールデンウイーク前の4月に僕のクラスは、インフルエンザのため、学級閉鎖をした。
まだクラス全員の名前を言えないような状況下で、学級閉鎖とは驚いてならなかった。
前年度にインフルエンザが流行せず、例年よりも遅く感染拡大したのだと考えられる。

僕が1番良い学年だったと言える理由は、加代と同じクラスになったからであろう。
加代とは、2年生の時に「可哀想」と言ってくれた彼女だ。
でも、そのことを告白するのは恥ずかしかった。だから、最後の日に言おうと思っていた。
一方で、彼女と行動することは多くあった。

9月。僕は仲の良かった優子という子にちょっかいをかけたことで、優子が不登校になりかけた。
先生からは注意されたが、もう手遅れだった。しょうがないから席も離された。
もう一緒のクラスになる事はないだろうと思った。優子とも最後の最後の日に2人で話すことを心に誓った。

そしてクラスの女子が転校することになった。
彼女は僕にちょっかいをかけてくるが、優しい子だった。
名前は、美鈴。
そもそも、美鈴とは2ヶ月間だけ親しくしていただけだった。別に付き合ってたわけでもないし、昔から仲が良いわけでもなかった。
でも、僕は寂しかった。
多分、加代に似ていたからだ。気が強いけど優しい・・・そんな子がいなくなるのは寂しくてならなかった。
だから、サプライズをしようと思った。

企画から準備から、みんなに協力してもらった。
振り返れば、僕がリーダーとして活動した最初の企画だった。
どのように企画を行うのかをクラス全員から休み時間に聞いて、黒板に書き出した。
勿論、サプライズというのは難しかった。
だから、6日前に美鈴のお別れ会を企画していることだけは伝えた。
そこから僕らは、本格的なお別れ会準備をした。
僕が所属するレク係も協賛として、この企画に協力するということになった。

レク係は、ビンゴを出し物として行うことになった。
事前にビンゴカードを制作し、彼女のお別れ会に間に合わせた。
お別れ会の日の朝、事件は起きた。
ビンゴカードが消えたのだ。
レク係全員を集めて、必死に探した。でも、鳥野は探さなかった。鳥野は、レク係のリーダーだ。
僕は、「リーダーが探さないなんてありえない」と考えるタイプだった。
僕は、鳥野なキレていた。胸ぐらを掴み、脚を蹴っていたー
その後、クラスのメンバーが止めに入った。こうして、事なきを得た。

お別れ会は始まった。
楽しかった。最後の最後だが、こうやって楽しめて良かった。
ビンゴも行われた。もうちょっと、質の良いビンゴカードが良かった。
最後に美鈴がプレゼントを皆に渡した。
でも美鈴の両親が男女比を間違えたのか、最後に受け取った僕は女子用のセットだった。
僕も美鈴も笑っていた。
気づけば、帰りの会が終わっていた。

放課後、僕は彼女と遊んだ。
活発で天然な彼女は、前日の水溜りで服を汚してしまった。
恥ずかしがりつつ、遊び続けた。
僕は親から呼び出され、すぐ帰ることになってしまった。
その時、彼女に声をかけられた。
「今日、ありがとうね」
僕は、動揺してしまった。
「うん」
咄嗟に出た言葉は、これくらいしか無かった。
僕は、そのまま帰った。

それから数ヶ月後、世の中を揺るがす事件が起こった。
新型コロナウイルス感染症による休校宣言が出されたのだ。
僕らも、休むことを余儀なくされた。残念だったが、1ヶ月間の休校期間があった。
その後も3月26日しか登校日はなく、5年生になってしまった。

2月26日、僕は優子と話をした。改めてトラブルを起こしてしまったことを謝罪した。僕もいじめてしまって辛かったということは隠しておいた。
小2の頃から一緒のクラスでなんとなく仲良くなり、今までやってきた僕ら。この関係にピリオドを打つと考えると非常に辛くはなってくるが、その気持ちを軽くするために今日があるのだと思った。
彼女をいじめてしまった理由は、噂を止めるためだと言うことも告白した。
小2の頃、僕と優子が付き合っているという噂が流れていた。それから2年経った今でも。でもあの件をきっかけに、その噂は無くなった。正直その噂は鬱陶しかったし、それによって僕らの関係が崩れていっていたのも確かだ。
だから、それを辞めたくなった。どちらにしろいずれ、僕らが別れるとは思っていたからだ。

そんなことを話していると、この日が終わっていた。
僕は忘れてしまっていた。加代に話しをすることを。というより、それが恥ずかしかったのだ。だから僕は、手紙だけで事を済ませようとしてしまった。
彼女に手紙を普通に渡すのも恥ずかしかったから、持っていた手提げ袋に手紙を落とした。ランドセルに突っ込むような真似をしても、すぐバレるからな。
手紙には、今年1年間本当に楽しかったということ、2年生の時に佳代の言葉で救われたということを書いた。本当は僕の口からしぅかりと言うつもりだったということは、記さなかった。
こうして、僕にとって最高の小学校の1年が終わった。

小学5年生は、とにかく猛勉強の年だった。というのも、僕が4年生の頃は受験勉強を全くしていなかった。休校になった今、勉強をできる時間が増えた。だから、猛勉強の年となった。参考値を出すのであれば、この1年で約偏差値が15〜20程度上がった。
結局、6月2日が初回登校日となった。というのも、この日は分散登校。全員に会うことは出来なかった。
早くみんなと会いたかった。僕はコロナというものを憎みつつ、感謝をした。友達に会えないという最大の懸念はありつつ、成績は右肩上がりだからだ。ついでに、感染者も右肩上がりだ・・・
でも正直なことを言うのであれば、あまり面白くない学年だった。休校もあり、友達関係もうまくいかないどころか、築きにくかった。分散登校中の昼食は、コッペパンやおにぎり。僕らの感覚的に述べるならば、戦時中の贅沢な昼食が毎回出たようなものだ。戦時中なのであれば価値のあるものだったのかもしれないが、現代ではあまり評判は良くなかった。

強いて楽しかったことを挙げるとするならば、理科室で授業や昼食を取ったことくらいだろうか。教室のクーラーが壊れ、快適な理科室で全授業を受けたのだ。
普段と異なる授業風景は、たまらなく楽しかった。
それくらいだ。コロナによって、学校生活に関しては何もかも奪われた。この先どうなるかと考えると、不安でならなかった。
友達関係のコツを掴み始めてきたのに、コロナによってそれを発揮する機会も失った。
小6は、まだしも。中1になってしまったら、私立の全く新しい環境で生活することになる。とすると、友達ができないまま6年間。最悪、10年間を過ごすことになるかもしれない。そんなのは、嫌だ。

そんなことを考えていると、ある男子が僕に話しかけてきた。彼は2年生の頃に仲が良かった塩崎くんだ。彼の紹介で本町さんや谷川くんとも仲良くなった。でもここで、また噂が邪魔をする。
「本町さんのことを僕が好きだ」という噂だ。ただこの噂は、あながち間違いでは無かった。確かに当時彼女のことを気になっている自分がいたのは確かだ。しかしこれを境に、僕らの関係は悪化する一方となった。
僕と本町と塩崎と谷川のメンバーでやっていく予定で、僕と本町と谷川はコロナで無くなった音楽会の代わりに自分たちで音楽を奏でる。そんなプロジェクトの一員でもあった。

委員会活動では、運営委員会に所属していた。運営委員会になった理由は、放送委員のじゃんけんに負けたからだ。運営委員会というのは、暗黒な委員会だった。というのも、運営委員会の主な活動は生徒会の進行と集会の進行だ。生徒会も集会もコロナで中止している中、どのように活動をしていくのだろうか。
委員会活動は全員が入ることを義務付けられており、何も活動しないということは無いと思う。と考えると、何をやるのか。第1回の活動日は、まさにその話題が取り上げられた。結果、コロナの対策ムービーを作成することになった。人気の無さは、コロナ前からだという。やはり、そういう長期間の活動が多いからだろう・・・
何がともあれ、僕らは制作をした。休み時間は勿論、たまに音楽の授業でも。音楽の先生が、運営委員会の顧問だったからだ。

6年生の初日、僕は元担任から運営委員会のムービーが放映されなかった理由を聞いた。不適切な表現が混ざっていたとして放映されなかったとのことだ。そしてそのムービーに関しては、来年度の運営委員に引き継ぐ方針でいるとのことだ。僕は、正直なことを言うと「あんな頑張って作った動画なのにー」と心から怒っていた。怒りを隠しつつ、「分かりました」と元担任に伝えた。
小学6年生ということは、受験学年ということだ。放課後に、学校関連の活動はほぼできない。と考えると、あまり重要な役職に就くことは無理だ。僕は運営委員に結局なったが、役職には就かなかった。

でも、運営委員会について驚くことがあった。運営委員会に所属する6年生の半分くらいが継続メンバーなのだ。どう言うことかというと、小5の時の運営委員のメンバーが半分いるのだ。
運営委員は休み時間稼働することも多く、ブラック委員会の代名詞をもつ。それなのに、運営委員会を、しかも第一志望で選んだことは驚きだった。
ブラックながら、自分たちの好きなように成果物を作っていくことが好きなメンバーだからだろう。だからやはり、メンバーが良かったのだ。僕は企画を中心的に取りまとめていたから、約3ヶ月間の休み時間は消えていた。でも、楽しかった。小5の時の音楽の先生に、「その企画力などは本当に凄いと思う。だから、社会人になってもそれを活かしてほしい」と言われた。泣きそうなふうに言われたから、少し困った。
でも僕は、泣きそうになってた理由を6年生になって知った。あの先生は、去年で65歳。定年退職だったのだ。だが、離任式さえもコロナのために中止。そんな結果となってしまった。

小6の今、先生たちに感謝を伝えるために卒業ムービーの製作に励んだ。夏からプロジェクトは始まり、教頭先生への交渉は直談判だった。校長先生の交渉は教頭先生が付き添ってくれることがほとんどで、プロジェクトメンバーと校長先生が話し合いをすることは殆ど無かった。と言っても、僕らは受験生。1月〜2月初旬は学校にいない。ある程度の企画を終わらせた後、僕らは受験シーズンを迎えた。

受験シーズンを迎えたものの、結果は残酷の他何も無かった。埼玉受験の地点で、第二志望とほぼ同じ偏差値帯の学校が不合格。第一志望校と同じ偏差値帯の学校も不合格。合格の兆しが全く見えなかった。塾の先生が凄く心配するほど僕は落ち込んでいた。落ち込んでいたというよりは、不安で仕方がなかった。そして迎えた2月。第二志望校の合格が2月1日に貰えた。翌日の第一志望校の受験も頑張ろうと思った。しかし、出たのは繰り上げ番号だけ。最終的な結果は、不合格という結果だった。その後も不合格が続き、第二志望校に進学することになった。その第二志望校は、いわゆる「御坊ちゃま・お嬢様学校」と呼ばれるところだった。

学校に戻ると、すぐにプロジェクトの計画を進めた。最終的な放映形態をどうするのか。ムービーの作成は誰がして、いつまでに提出なのか。など確認した。3月上旬、ムービーを急いで完成させて先生への招待状も出した。と言っても、オンラインだが。放映当日、我々は半年にわたるプロジェクトに幕を閉じることになった。涙を流していた生徒もいて、非常に良い物となった。
そうすると、残りは卒業式。だがコロナのために大幅短縮。やってみた結果、「入学式の方が感動した」という声が挙がっていた。正直悲しい終わり方だが、皆とお別れをした。

中学1年、僕にとっては初めての中学校生活。やはり家庭財産的に負けているのは、すぐに分かるほど凄かった。正装が凄いゴージャスということではないが、少しお金をかけているのが凄く分かる。うちのクラスはもの凄く静かで、大丈夫かと心配するほどだった。そして何よりも、癖の強い人たちがたくさんいた。元々僕も、癖がないわけではない。というより、よく癖が強いと言われる。その点に困りは無かったが、友達関係が上手くいくかは心配だった。しかも教室は数日間静かな日が続いていた。
やっと自己紹介の日がやってきて、みんなと次第に仲良くなり始めた。やはり金持ち集団で、サッカー選手の息子や歯医者夫婦の息子など様々いた。もはや働いていない人もいて、家庭の貯蓄だけで生きて行ってるそんな人さえもいた。

僕らの第一宿泊行事は、海の学校だ。海学は部活動合宿よりも早いので、中学校生活最初の宿泊行事になることは確かだった。といっても、コロナの影響で実施は3年ぶり。体育の先生も、「頑張って海学を成功させよう」という圧が凄かった。海学はライフセービング部と共同でやっていく行事になる。体育の先生の中に、某有名公益財団法人のお偉いさんだった。それもあり、遊泳区域外の講習なども海学では行った。男子部屋で恋バナなど普通じゃ考えられないことはたくさんあったが、非常に面白い行事となった。
お楽しみ会では桃太郎をやったが、僕の気持ち悪いダンスでみんな中からドン引きされていた。まあ、楽しかったが。
そんなこんなで、海学は終わった。

海学が終わると、運動会だ。僕は運動会の放送を実行委員としてやっていた。だから当日は、競技が終わると放送棟にいた。みんなに言ったら怒られるが、放送棟は日陰なので、居心地は良かった。その次は、文化祭がやってくる。文化祭のシフトは、僕が2日目の全てに振り分けた。僕がシフト決めをしたのだが、客側よりスタッフ側の方が楽しいからな。友達とツーショットを撮ったり、兎の耳カチューシャをつけてウサぴょんと呼ばれたり。小学校の頃じゃ考えられないほど楽しんでいた。そして迎えた合唱コン。僕は究極の選択をした。指揮者になったのだ。それは普通なのだが、相方のピアニストは僕を振った相手。実は、6月に僕は告白をして振られていた。そんなコンビだったが、評判の良い合唱ができた。でも入賞にはならず・・・それを悲しめるほどに成長できて、僕はとても嬉しかった。

環境が変わり、友達関係も比較的良好である。この学校に進学できて良かったと思う。所変われば品変わる。ある意味、僕もそれなのかもしれないな。どこにいても苦しかった僕からすれば、少しだけ息がしやすくなったような気がした。