「(あり得ない、あり得ない!あり得ないって!)」
放課後のチャイムが鳴ってすぐ、一目散に教室を飛び出してマンションの公園を目指した。
頬を伝う汗も、熱を帯びた風がまとわりつくことも気にならない。
私はただひたすら彼女に会いたくて、オレンジ色の夕焼け空の下を走り続けた。
「はぁっ、しんど……っ。てか、いないし」
自分のことを未来の“私”だと言った彼女は、どこにもいなかった。
そういえば、彼女とはまだ夜にしか会ったことがない。
決まって二十一時を過ぎたころに、突然ふらっと現れてはブランコに腰を下ろして、そして必ず全力で漕ぎまくって風に当たりながら、星がきれいだと言う。
今、彼女は何をしているのだろう。
いつもスーツを着ているから、会社員をしているのだろうか。
自分の未来なんて、まるで想像がつかない。
どの大学に行くのか、どんな会社に入るのか、どんな大人になるのか。
夏休み明けの文化祭だって楽しめるかどうか危ういという状況での中で、数年先の未来なんてまるで見えてこない。
「──やっほー!今日も星がきれいだねぇ!」
「あっ、やっと来た!」
夏のけたたましい暑さが少しだけ静まる、七月の夜。
どこからともなくやってきたオネーサンは、今日もやっぱり二十一時を過ぎたころに現れた。
「うわ、今日はいつもよりハイテンションだね。……さては昨日の私の予言、当たったな?」
「あなた、占い師か何かですか?」
彼女は昨日、未来からやってきた“私”であることを信じてもらう材料の一つとして、文化祭のリーダーが誰に決まるのかを予想した。
もちろん私は当たるわけがないと思いつつも、そもそもクラスメイトの名前を知っていることや、文化祭のリーダー決めが行われる時期を知っている時点でおかしいと思ったけれど、気にしないフリをした。
文化祭のために設けられた六限目に、各役割を決める会が行われた。
誰もやりたがらない実行リーダーの枠はやっぱり最後まで埋まることはなくて、結局くじ引きで決めることになったけれど。
『じゃあくじ引きの結果を発表するぞー。文化祭の実行リーダーは、中畑 葵と柳橋 悠の二人だ』
担任の先生から出た名前を聞いて、目の前が真っ黒になったのを覚えている。
「ね?言ったとおりになったでしょ?よかったね!」
「全然よくないんですけど!」
物音一つしない夜に、自分でも吃驚するほどの声を荒げてしまった。
思わずグッと口を噤んで辺りを見回す。
よりにもよって、実行リーダーに選ばれるなんて最悪だ。
物事を仕切ったり、誰かに指示を出したりするのが本当に苦手だ。
それに何より、実行リーダーは毎日放課後も、休み時間も、夏休みだって奪われる。
そんなことになったら、私……今よりもっと春奈達との距離ができてしまう。
そこが一番の懸念点だった。
「やりたくない」
「……」
「明日、先生に言ってみる。私じゃ役不足ですって」
「──ダメ!」
そこには、いつになく真剣な表情を浮かべて立ち上がった彼女がいた。
少し前の私と同じようにツンと声を張り上げた彼女は、一心に私を見ながら口を開く。
「あのね!?あんまり未来の出来事は言わないほうがいいと思うんだけどね!? でも一つだけ言わせて!?」
「……」
「この文化祭の実行リーダー、絶対やったほうがいい!」
「なんでっ」
「大人になったキミが言うんだから、間違いない!」
なにそれ、と出掛かった言葉をしまい込んだ。
嫌だよ、向いてないんだもん。
過去に"私"を経験してきたあなたなら、分かるでしょ?
春奈達との距離を、これ以上広げたくない。
あの三人が私の仕事を手伝ってくれるとは思えないし、作業が終わるまで待ってくれるとも思わない。
一人になるのは、嫌なんだ。
私がいない写真をSNSに挙げられるたびに不安になるから。
三人の話題についていけなくなるのが、怖いんだ。
嫌だ、嫌だよ、一人になるのは嫌──。
「──大丈夫」
「……っ」
「絶対大丈夫だから。私を信じてよ、葵ちゃん」
未来の私が言った『大丈夫』の言葉が、何に対してのものなのかは分からない。
そして次の日から、オネーサンが言ったその言葉とは正反対に、文化祭の準備は怒涛の勢いで始まっていく。
・・・
「中畑さん、これどっちに運べばいい?」
「え!?あ、えっと、これは看板に使う板だから……」
この学校が文化祭にすごく力を入れているのは、一年生のころから分かっていた。
夏休みが明けてすぐに始まる文化祭は三日間連続で行われるし、最終日の夜は学年ごとに近くにある海辺でキャンプファイヤーを囲んで後夜祭を行うほどだ。
さらに、初日と二日目は外部の人達も参加できるシステムになっているから、家族や他校の友人も呼べるようにもなっている。
学校行事の中でも毎年断トツで盛り上がるこのイベントのリーダーを任されてしまった私は、毎日が憂鬱で堪らない。
山のように降りかかってくる問題や作業を、放課後やお昼休みを返上して一つずつ片付けなくちゃならないし、運動部の朝練と同じくらい早く登校してミーティングを行う日だってある。
それに加えて、受験を控えた三年生を支えるという意味でも、私達二年生が主体となって全体の進行まで行わなくてはいけないと聞いたときは倒れそうになった。
「ねぇ、どっちなのー!重たいんだけど!」
「あ、えっと、ちょっと待って」
同じクラスの笹舘さんの苛立った声に、余計に頭が混乱してしまう。
あぁ、だからやりたくなかったんだ。
こんなの、どうみたって私ができる役じゃないのに。
毎週火曜日と木曜日の六限が文化祭の準備の時間に当てられることになった今、クラスのみんなで協力して準備をしている。
私達二年A組は模擬店でたこ焼きを売ると決めたところまではスムーズだった。
けれど実際に準備に取り掛かるとうまくいかないことばかりが増えて、その分だけ不安がたまっていく。
春奈達三人は教室の隅で楽しそうに会話をしながら、ゆっくりと店内に付ける飾りを作っていた。
私は目が回るほど忙しいのに、何度も彼女達のほうを気にしてしまう。
この文化祭の準備のせいで、私は前より何倍も春奈達との距離が開いてしまった。
「えっとね、その板は……」
「──それ、ヤスリがけもまだだから先に準備室に持って行って」
困り果てていたそのとき、横から声をかけてくれたのは柳橋くんだった。
彼も私と同じく今年最大のハズレくじを引いて実行リーダーになってしまった、もう一人の相方だ。
「その看板、今日中に下書きの工程まで持っていきたいから、ヤスリがけ終わったらすぐこっちに戻してほしい」
「うん、分かった!男子達がヤスリしてくれるから、早めにお願いって伝えとくね!」
柳橋くんの的確な指示に、笹館さんはすぐさま教室を離れた。
……助かった。
「あの、ありがとう」
「ん?あぁ、気にしないでよ。それより中畑さん、ペンキ塗る刷毛知らない?全然本数足りないらしい」
「あ、それなら美術部の遠藤さんが持ってきてくれてるはず」
「了解、あとで声かけてみる」
新しいクラスになって三ヶ月が経とうとしているけれど、柳橋くんととこうして話をするのは初めてかもしれない。
それどころか、いつも春奈達と一緒にいた私は、彼女達以外のクラスメイトとまともに会話すらした記憶がなかった。
新しい友達が増えるのは嬉しい。
だけど、だからといって春奈や美佳達と離れたくはない。
「お疲れ!どう?みんな作業進んでる?」
手が空いたわずかな時間を使って、三人のもとへ駆けつけた。
自分からこのグループに入っていかないと、このまま置いていかれるような気がして怖くなった。
声をかける瞬間が、不安でたまらない。
無視されたらどうしようって。
黙ってどこかへ行かれたらどうしようって。
「うわ、リーダー葵じゃん」
「めっちゃ忙しそうだねー」
「あ、でもウチらにこれ以上仕事回さないでよ?マジでだるいから」
「そんなこと言いにきたんじゃないよー!ただ私もちょっと休みたくて!」
会話が途切れないように必死で言葉を紡ぎ続けて、春奈達に興味を持ってもらえそうな話題を探す。
私、今ちゃんと笑えているかな。
いつもよりワントーン声を高くして、なるべく不快な気持ちを与えないように注意して。
「てか葵もよくこんなめんどくさい仕事やるよね」
「放課後も遅くまで残ってるんでしょ?」
「あー、うん。もう毎日クタクタだよ」
「葵はマジメちゃんだもんねぇ」
「……」
アハハ、と笑った声が酷く掠れていた。
全然楽しくない。まったく面白くない。
先頭に立ってこの一大イベントを進行していくことが、どれだけ大変か、きっと春奈達には分からない。
分からないのに、それを『マジメちゃんだから』のひと言で片付けてほしくない。
「(あぁ、ダメだ。ダメダメ)」
春奈達と一緒にいたいはずなのに、一緒にいるとどんどん苦しくなってくる。
最近の私は矛盾だらけだ。
居心地が悪くて、その場から立ち上がる。
これ以上ここにいたら、もっと悪いほうへ考えてしまいそうで怖くなった。
「……そろそろ戻るね」
どうにか絞り出した声でそう告げて立ち上がった。そのとき。
「ねぇ、春奈と美佳と葉月!もうちょっと働いたら!?」
後ろから突然、張りのある怒号が響き渡った。
「さ、笹館さん?」
そこには、少し前に看板用の板を運びに行ってくれた笹館さんが仁王立ちのように立っていた。
ギロリと鋭い視線を、春奈と私に交互に突きつける。
「みんな忙しくしてんのに、なんで春奈達だけそこに座ってんの?おかしくない?」
「はぁ?ちゃんとやってるんだけど」
「そんな飾り付けいつでも作れるじゃん!今日は先に大きいモノからやっていこうってなったよね!?」
笹館さんの尖った声は、教室の中で作業していた他のクラスメイト達に伝わるには十分すぎるほどの声量で、それまでザワついていたここ一帯が途端に凍りついた。
彼女の他にも、数名の女子がチラチラとこちらを睨んでいる。
きっと笹館さんと同じことを思っていたのだろう。
「あ、あの、笹館さん。そんなふうに言わなくても……」
「ってか、まずこういうことを実行リーダーの中畑さんが一番に言うべきなんじゃないの?」
「それはっ」
「春奈達といつも一緒にいる友達だからって何も言わないのは間違ってるよね?」
「……っ」
「友達だからこそ言わないと!」
笹館さんの言葉が、グサリと私の心を突き刺した。
彼女の最後の言葉が、何度も頭の中でリピートされていく。
「(友達、だからこそ……)」
返す言葉が何も見つからなかった。
実行リーダーとして、早くこの場を収めなくちゃいけないのに。
早く、春奈達に声をかけなくちゃいけないのに。
でもそれは、春奈の友達として?
それとも……自分のため?
「はぁ、ダル。じゃあもういい、あたし帰る」
「はぁ!?」
笹館さんの言葉に腹を立てた春奈は、気怠そうにこの場を立ち去っていく。
「ちょっと待ちなよ!」と呼び止める笹館さんの声にも振り向くことはない。
「春奈、あのっ」
私の横を通り過ぎる一瞬、春奈と目が合った。
冷たくて、呆れたような表情を浮かべながら、小さなため息をついたて……言った。
「……うざ」
「え?」
いっそ聞き逃したほうがよかった。
でも、確実に春奈は今、私の顔を見て言った。
「(なん、で?)」
私、何も言ってないよね?
春奈に突っかかっていったのは笹館さんでしょ?
私じゃ……ないよ。
「えー、春奈ぁ。待ってよー」
春奈の後を追うように、美佳と葉月も小走りに教室を出ていく。
私も二人に倣って追いかけて行きたかったけれど、足がすくんで動かない。
「(私のせいじゃ、ないよね?)」
明日からも一緒にいてくれるよね?
時間が経てば春奈の機嫌もよくなるよね?
大丈夫だよ、きっと大丈夫。
大丈夫……だから。
心の中で、何度も何度も自問自答を繰り返した。
そんな自分が、本当に情けなかった。
・・・
「あらら、お疲れの様子だね」
「……オネーサン」
今日は夜風が一切感じられない、静かな夜だった。
まるで時が止まっているんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどに。
いつもと変わらず星がキラキラと輝いていて、なんだかすごく眩しく感じる。
「オネーサンの嘘つき」
「ゲッ、何それひどい!簡単に人を嘘つき呼ばわりしちゃいけません!」
「だって嘘つきだもん」
文化祭の実行リーダーは絶対やったほうがいいなんて、嘘じゃない。
確かに、リーダーになってからいろんな人達と話す機会が増えた。
これまであまり話したことがなかったクラスメイト達とも少しずつ打ち解けてきて、二年A組がまとまっていく感じがしていくのも実感している。
今日の笹館さんは怖かったけれど、いつもはあんな感じの人じゃない。
きっとみんながあれこれと動き回っている中で、春奈達のサボりとも思える態度に怒ったのだと思う。
実際に、私もその通りだと思っていた。
教室の隅に三人で固まって座って、雑談をしながら小さい飾りを作っている様子を見て、同じように思っていた。
だけど、注意できなかった。
春奈があんなふうに腹を立てて教室を出て行ってしまうのが何よりも怖かったから。
だから笹館さんが言った「友達だからこそ言わないと!」の言葉がすごく痛かった。
そしてまた考えざるを得なくなった。
本当に友達なら、あんなことをサラリと言えるものなのだろうかと。
友達だからこそ、言ってあげるのが親切なのだろうかと。
『じゃあ、私と春奈の関係はなんていうの?』って。
春奈達が教室からいなくなったあと、私はすぐにグループトークにメッセージを入れた。
けれど三人とも、既読をつけたまま返信はくれなかった。
やっぱり怒っているのだろうか。
三人で口裏を合わせて返信しないようにしているとか?
放課後も、家に帰ってからもずっとメッセージが来てないか気になって仕方なくて、何度スマホの画面を確認しただろう。
今はもう、返信がくることを半分諦めている。
明日から、どうすればいい?
どんなテンションで声をかければ正解だろうか。
そんなことばかり考えているから勉強も身に入らなくて、結局またこの公園のブランコに座って悩みを募らせていく。
なんだかもう、疲れちゃった。
学校を休んでしまいたい衝動に駆られながらも、あんなことがあった次の日に自分の目で状況が把握できなくなることを恐れている。
私は臆病者だ。
本当に、本当に弱い人間だ。
「何か嫌なこと、あった?」
「……」
こうして一人で悩みを抱えているとき、決まってオネーサンは優しい言葉をかけてくれる。
「(どんなことで悩んでいるのか、オネーサン分かってるのか……って)」
そうだ、オネーサンは私の未来だ。
ということは、私と春奈達がどんなふうになっていくのか知っているはず。
なんでこんな単純なことに気付かなかったの、私!?
「ねぇ!オネーサンは大人になった私なんでしょう!?だったら教えてほしいことがあります!」
「うん?」
「私と春奈がどんな関係になっていくのか教えて!?」
勢いよく立ち上がった瞬間に、金属でできたブランコの取手がガシャンと音を立てた。
文化祭の実行リーダーが誰になるか当てたくらいだ。
高校二年生の私をすでに経験してきているであろうオネーサンなら、この先のことが分かっているはずだ。
「教えてあげない」
「は!?な、なんでですか!?私、今すごい悩んでるんです……っ。すごくすごく、不安なんです」
「……うん」
「気になって仕方ないんです。だから、教えてよ」
「……」
この得体の知れないモヤモヤを今すぐにでも取り除きたくて、懇願するように縋った。
もしも明日、春奈達がグループの中に入れてくれなかったらどうしたらいい?
口を利いてくれなかったら? 無視されたら?
クラスの中で一人ぼっちになってしまう。
それだけは……絶対にいやだ。
「お願い、だから……っ」
「でもね、一つだけ言えることがあるよ」
「なんなの、一つだけって」
「これから先ね、嫌なことってたくさんあるよ。泣きたくなることもあるし、怒りたくなるときもある」
「……」
「でもね、人生って絶対それだけじゃないから」
目の前にいる未来の私が、目を細めて優しく笑う。
「葵ちゃんのことを大切にしてくれる人は、必ずいる。大丈夫だから」
「……」
私はまだ、オネーサンのことを完全に信じているわけじゃない。
同じ位置にホクロがあっても、実行リーダーが誰になるのか的中させても、心のどこかでそんなことあるわけないと思っている部分も少なからずある。
だけど、なんでだろう。
今はオネーサンのその言葉が、何よりも信じられる気がした……このときまでは。
放課後のチャイムが鳴ってすぐ、一目散に教室を飛び出してマンションの公園を目指した。
頬を伝う汗も、熱を帯びた風がまとわりつくことも気にならない。
私はただひたすら彼女に会いたくて、オレンジ色の夕焼け空の下を走り続けた。
「はぁっ、しんど……っ。てか、いないし」
自分のことを未来の“私”だと言った彼女は、どこにもいなかった。
そういえば、彼女とはまだ夜にしか会ったことがない。
決まって二十一時を過ぎたころに、突然ふらっと現れてはブランコに腰を下ろして、そして必ず全力で漕ぎまくって風に当たりながら、星がきれいだと言う。
今、彼女は何をしているのだろう。
いつもスーツを着ているから、会社員をしているのだろうか。
自分の未来なんて、まるで想像がつかない。
どの大学に行くのか、どんな会社に入るのか、どんな大人になるのか。
夏休み明けの文化祭だって楽しめるかどうか危ういという状況での中で、数年先の未来なんてまるで見えてこない。
「──やっほー!今日も星がきれいだねぇ!」
「あっ、やっと来た!」
夏のけたたましい暑さが少しだけ静まる、七月の夜。
どこからともなくやってきたオネーサンは、今日もやっぱり二十一時を過ぎたころに現れた。
「うわ、今日はいつもよりハイテンションだね。……さては昨日の私の予言、当たったな?」
「あなた、占い師か何かですか?」
彼女は昨日、未来からやってきた“私”であることを信じてもらう材料の一つとして、文化祭のリーダーが誰に決まるのかを予想した。
もちろん私は当たるわけがないと思いつつも、そもそもクラスメイトの名前を知っていることや、文化祭のリーダー決めが行われる時期を知っている時点でおかしいと思ったけれど、気にしないフリをした。
文化祭のために設けられた六限目に、各役割を決める会が行われた。
誰もやりたがらない実行リーダーの枠はやっぱり最後まで埋まることはなくて、結局くじ引きで決めることになったけれど。
『じゃあくじ引きの結果を発表するぞー。文化祭の実行リーダーは、中畑 葵と柳橋 悠の二人だ』
担任の先生から出た名前を聞いて、目の前が真っ黒になったのを覚えている。
「ね?言ったとおりになったでしょ?よかったね!」
「全然よくないんですけど!」
物音一つしない夜に、自分でも吃驚するほどの声を荒げてしまった。
思わずグッと口を噤んで辺りを見回す。
よりにもよって、実行リーダーに選ばれるなんて最悪だ。
物事を仕切ったり、誰かに指示を出したりするのが本当に苦手だ。
それに何より、実行リーダーは毎日放課後も、休み時間も、夏休みだって奪われる。
そんなことになったら、私……今よりもっと春奈達との距離ができてしまう。
そこが一番の懸念点だった。
「やりたくない」
「……」
「明日、先生に言ってみる。私じゃ役不足ですって」
「──ダメ!」
そこには、いつになく真剣な表情を浮かべて立ち上がった彼女がいた。
少し前の私と同じようにツンと声を張り上げた彼女は、一心に私を見ながら口を開く。
「あのね!?あんまり未来の出来事は言わないほうがいいと思うんだけどね!? でも一つだけ言わせて!?」
「……」
「この文化祭の実行リーダー、絶対やったほうがいい!」
「なんでっ」
「大人になったキミが言うんだから、間違いない!」
なにそれ、と出掛かった言葉をしまい込んだ。
嫌だよ、向いてないんだもん。
過去に"私"を経験してきたあなたなら、分かるでしょ?
春奈達との距離を、これ以上広げたくない。
あの三人が私の仕事を手伝ってくれるとは思えないし、作業が終わるまで待ってくれるとも思わない。
一人になるのは、嫌なんだ。
私がいない写真をSNSに挙げられるたびに不安になるから。
三人の話題についていけなくなるのが、怖いんだ。
嫌だ、嫌だよ、一人になるのは嫌──。
「──大丈夫」
「……っ」
「絶対大丈夫だから。私を信じてよ、葵ちゃん」
未来の私が言った『大丈夫』の言葉が、何に対してのものなのかは分からない。
そして次の日から、オネーサンが言ったその言葉とは正反対に、文化祭の準備は怒涛の勢いで始まっていく。
・・・
「中畑さん、これどっちに運べばいい?」
「え!?あ、えっと、これは看板に使う板だから……」
この学校が文化祭にすごく力を入れているのは、一年生のころから分かっていた。
夏休みが明けてすぐに始まる文化祭は三日間連続で行われるし、最終日の夜は学年ごとに近くにある海辺でキャンプファイヤーを囲んで後夜祭を行うほどだ。
さらに、初日と二日目は外部の人達も参加できるシステムになっているから、家族や他校の友人も呼べるようにもなっている。
学校行事の中でも毎年断トツで盛り上がるこのイベントのリーダーを任されてしまった私は、毎日が憂鬱で堪らない。
山のように降りかかってくる問題や作業を、放課後やお昼休みを返上して一つずつ片付けなくちゃならないし、運動部の朝練と同じくらい早く登校してミーティングを行う日だってある。
それに加えて、受験を控えた三年生を支えるという意味でも、私達二年生が主体となって全体の進行まで行わなくてはいけないと聞いたときは倒れそうになった。
「ねぇ、どっちなのー!重たいんだけど!」
「あ、えっと、ちょっと待って」
同じクラスの笹舘さんの苛立った声に、余計に頭が混乱してしまう。
あぁ、だからやりたくなかったんだ。
こんなの、どうみたって私ができる役じゃないのに。
毎週火曜日と木曜日の六限が文化祭の準備の時間に当てられることになった今、クラスのみんなで協力して準備をしている。
私達二年A組は模擬店でたこ焼きを売ると決めたところまではスムーズだった。
けれど実際に準備に取り掛かるとうまくいかないことばかりが増えて、その分だけ不安がたまっていく。
春奈達三人は教室の隅で楽しそうに会話をしながら、ゆっくりと店内に付ける飾りを作っていた。
私は目が回るほど忙しいのに、何度も彼女達のほうを気にしてしまう。
この文化祭の準備のせいで、私は前より何倍も春奈達との距離が開いてしまった。
「えっとね、その板は……」
「──それ、ヤスリがけもまだだから先に準備室に持って行って」
困り果てていたそのとき、横から声をかけてくれたのは柳橋くんだった。
彼も私と同じく今年最大のハズレくじを引いて実行リーダーになってしまった、もう一人の相方だ。
「その看板、今日中に下書きの工程まで持っていきたいから、ヤスリがけ終わったらすぐこっちに戻してほしい」
「うん、分かった!男子達がヤスリしてくれるから、早めにお願いって伝えとくね!」
柳橋くんの的確な指示に、笹館さんはすぐさま教室を離れた。
……助かった。
「あの、ありがとう」
「ん?あぁ、気にしないでよ。それより中畑さん、ペンキ塗る刷毛知らない?全然本数足りないらしい」
「あ、それなら美術部の遠藤さんが持ってきてくれてるはず」
「了解、あとで声かけてみる」
新しいクラスになって三ヶ月が経とうとしているけれど、柳橋くんととこうして話をするのは初めてかもしれない。
それどころか、いつも春奈達と一緒にいた私は、彼女達以外のクラスメイトとまともに会話すらした記憶がなかった。
新しい友達が増えるのは嬉しい。
だけど、だからといって春奈や美佳達と離れたくはない。
「お疲れ!どう?みんな作業進んでる?」
手が空いたわずかな時間を使って、三人のもとへ駆けつけた。
自分からこのグループに入っていかないと、このまま置いていかれるような気がして怖くなった。
声をかける瞬間が、不安でたまらない。
無視されたらどうしようって。
黙ってどこかへ行かれたらどうしようって。
「うわ、リーダー葵じゃん」
「めっちゃ忙しそうだねー」
「あ、でもウチらにこれ以上仕事回さないでよ?マジでだるいから」
「そんなこと言いにきたんじゃないよー!ただ私もちょっと休みたくて!」
会話が途切れないように必死で言葉を紡ぎ続けて、春奈達に興味を持ってもらえそうな話題を探す。
私、今ちゃんと笑えているかな。
いつもよりワントーン声を高くして、なるべく不快な気持ちを与えないように注意して。
「てか葵もよくこんなめんどくさい仕事やるよね」
「放課後も遅くまで残ってるんでしょ?」
「あー、うん。もう毎日クタクタだよ」
「葵はマジメちゃんだもんねぇ」
「……」
アハハ、と笑った声が酷く掠れていた。
全然楽しくない。まったく面白くない。
先頭に立ってこの一大イベントを進行していくことが、どれだけ大変か、きっと春奈達には分からない。
分からないのに、それを『マジメちゃんだから』のひと言で片付けてほしくない。
「(あぁ、ダメだ。ダメダメ)」
春奈達と一緒にいたいはずなのに、一緒にいるとどんどん苦しくなってくる。
最近の私は矛盾だらけだ。
居心地が悪くて、その場から立ち上がる。
これ以上ここにいたら、もっと悪いほうへ考えてしまいそうで怖くなった。
「……そろそろ戻るね」
どうにか絞り出した声でそう告げて立ち上がった。そのとき。
「ねぇ、春奈と美佳と葉月!もうちょっと働いたら!?」
後ろから突然、張りのある怒号が響き渡った。
「さ、笹館さん?」
そこには、少し前に看板用の板を運びに行ってくれた笹館さんが仁王立ちのように立っていた。
ギロリと鋭い視線を、春奈と私に交互に突きつける。
「みんな忙しくしてんのに、なんで春奈達だけそこに座ってんの?おかしくない?」
「はぁ?ちゃんとやってるんだけど」
「そんな飾り付けいつでも作れるじゃん!今日は先に大きいモノからやっていこうってなったよね!?」
笹館さんの尖った声は、教室の中で作業していた他のクラスメイト達に伝わるには十分すぎるほどの声量で、それまでザワついていたここ一帯が途端に凍りついた。
彼女の他にも、数名の女子がチラチラとこちらを睨んでいる。
きっと笹館さんと同じことを思っていたのだろう。
「あ、あの、笹館さん。そんなふうに言わなくても……」
「ってか、まずこういうことを実行リーダーの中畑さんが一番に言うべきなんじゃないの?」
「それはっ」
「春奈達といつも一緒にいる友達だからって何も言わないのは間違ってるよね?」
「……っ」
「友達だからこそ言わないと!」
笹館さんの言葉が、グサリと私の心を突き刺した。
彼女の最後の言葉が、何度も頭の中でリピートされていく。
「(友達、だからこそ……)」
返す言葉が何も見つからなかった。
実行リーダーとして、早くこの場を収めなくちゃいけないのに。
早く、春奈達に声をかけなくちゃいけないのに。
でもそれは、春奈の友達として?
それとも……自分のため?
「はぁ、ダル。じゃあもういい、あたし帰る」
「はぁ!?」
笹館さんの言葉に腹を立てた春奈は、気怠そうにこの場を立ち去っていく。
「ちょっと待ちなよ!」と呼び止める笹館さんの声にも振り向くことはない。
「春奈、あのっ」
私の横を通り過ぎる一瞬、春奈と目が合った。
冷たくて、呆れたような表情を浮かべながら、小さなため息をついたて……言った。
「……うざ」
「え?」
いっそ聞き逃したほうがよかった。
でも、確実に春奈は今、私の顔を見て言った。
「(なん、で?)」
私、何も言ってないよね?
春奈に突っかかっていったのは笹館さんでしょ?
私じゃ……ないよ。
「えー、春奈ぁ。待ってよー」
春奈の後を追うように、美佳と葉月も小走りに教室を出ていく。
私も二人に倣って追いかけて行きたかったけれど、足がすくんで動かない。
「(私のせいじゃ、ないよね?)」
明日からも一緒にいてくれるよね?
時間が経てば春奈の機嫌もよくなるよね?
大丈夫だよ、きっと大丈夫。
大丈夫……だから。
心の中で、何度も何度も自問自答を繰り返した。
そんな自分が、本当に情けなかった。
・・・
「あらら、お疲れの様子だね」
「……オネーサン」
今日は夜風が一切感じられない、静かな夜だった。
まるで時が止まっているんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどに。
いつもと変わらず星がキラキラと輝いていて、なんだかすごく眩しく感じる。
「オネーサンの嘘つき」
「ゲッ、何それひどい!簡単に人を嘘つき呼ばわりしちゃいけません!」
「だって嘘つきだもん」
文化祭の実行リーダーは絶対やったほうがいいなんて、嘘じゃない。
確かに、リーダーになってからいろんな人達と話す機会が増えた。
これまであまり話したことがなかったクラスメイト達とも少しずつ打ち解けてきて、二年A組がまとまっていく感じがしていくのも実感している。
今日の笹館さんは怖かったけれど、いつもはあんな感じの人じゃない。
きっとみんながあれこれと動き回っている中で、春奈達のサボりとも思える態度に怒ったのだと思う。
実際に、私もその通りだと思っていた。
教室の隅に三人で固まって座って、雑談をしながら小さい飾りを作っている様子を見て、同じように思っていた。
だけど、注意できなかった。
春奈があんなふうに腹を立てて教室を出て行ってしまうのが何よりも怖かったから。
だから笹館さんが言った「友達だからこそ言わないと!」の言葉がすごく痛かった。
そしてまた考えざるを得なくなった。
本当に友達なら、あんなことをサラリと言えるものなのだろうかと。
友達だからこそ、言ってあげるのが親切なのだろうかと。
『じゃあ、私と春奈の関係はなんていうの?』って。
春奈達が教室からいなくなったあと、私はすぐにグループトークにメッセージを入れた。
けれど三人とも、既読をつけたまま返信はくれなかった。
やっぱり怒っているのだろうか。
三人で口裏を合わせて返信しないようにしているとか?
放課後も、家に帰ってからもずっとメッセージが来てないか気になって仕方なくて、何度スマホの画面を確認しただろう。
今はもう、返信がくることを半分諦めている。
明日から、どうすればいい?
どんなテンションで声をかければ正解だろうか。
そんなことばかり考えているから勉強も身に入らなくて、結局またこの公園のブランコに座って悩みを募らせていく。
なんだかもう、疲れちゃった。
学校を休んでしまいたい衝動に駆られながらも、あんなことがあった次の日に自分の目で状況が把握できなくなることを恐れている。
私は臆病者だ。
本当に、本当に弱い人間だ。
「何か嫌なこと、あった?」
「……」
こうして一人で悩みを抱えているとき、決まってオネーサンは優しい言葉をかけてくれる。
「(どんなことで悩んでいるのか、オネーサン分かってるのか……って)」
そうだ、オネーサンは私の未来だ。
ということは、私と春奈達がどんなふうになっていくのか知っているはず。
なんでこんな単純なことに気付かなかったの、私!?
「ねぇ!オネーサンは大人になった私なんでしょう!?だったら教えてほしいことがあります!」
「うん?」
「私と春奈がどんな関係になっていくのか教えて!?」
勢いよく立ち上がった瞬間に、金属でできたブランコの取手がガシャンと音を立てた。
文化祭の実行リーダーが誰になるか当てたくらいだ。
高校二年生の私をすでに経験してきているであろうオネーサンなら、この先のことが分かっているはずだ。
「教えてあげない」
「は!?な、なんでですか!?私、今すごい悩んでるんです……っ。すごくすごく、不安なんです」
「……うん」
「気になって仕方ないんです。だから、教えてよ」
「……」
この得体の知れないモヤモヤを今すぐにでも取り除きたくて、懇願するように縋った。
もしも明日、春奈達がグループの中に入れてくれなかったらどうしたらいい?
口を利いてくれなかったら? 無視されたら?
クラスの中で一人ぼっちになってしまう。
それだけは……絶対にいやだ。
「お願い、だから……っ」
「でもね、一つだけ言えることがあるよ」
「なんなの、一つだけって」
「これから先ね、嫌なことってたくさんあるよ。泣きたくなることもあるし、怒りたくなるときもある」
「……」
「でもね、人生って絶対それだけじゃないから」
目の前にいる未来の私が、目を細めて優しく笑う。
「葵ちゃんのことを大切にしてくれる人は、必ずいる。大丈夫だから」
「……」
私はまだ、オネーサンのことを完全に信じているわけじゃない。
同じ位置にホクロがあっても、実行リーダーが誰になるのか的中させても、心のどこかでそんなことあるわけないと思っている部分も少なからずある。
だけど、なんでだろう。
今はオネーサンのその言葉が、何よりも信じられる気がした……このときまでは。