一人ぼっちは嫌なはずなのに、一人になるとどこか肩の荷が降りたように安堵してしまうこの矛盾を、どう表現したらいいのかと考えはじめて、すでに一時間が経とうとしていたことに驚いた。
生まれたときから住んでいるマンションの敷地内にある、おまけ程度に設けられた小さな公園のブランコに揺られながら、ポケットの中に入れておいたスマホを見てみれば、二十一時を過ぎようとしている。
日中のギラギラと猛威を振るう暑さとは正反対に、七月の夜は鈴虫の鳴き声とゆるやかな風がとても心地いい。
真っ暗な夜に、寿命が間近に迫っているであろう今にも切れかけの明るさを灯している街灯と、キラキラと輝き続ける星達のほのかな明るさが、なんだか今の私にはちょうどよかった。
「……はぁ」
今日だけでも数えきれないほど落としてきた溜息をもう一度吐いて、一向に答えの出ない悩みに首を垂れる。
そういえば、ため息を吐くと幸せがどこかへ逃げてしまうんだっけ。
だけど、最初から幸せなんてものを持ち合わせていない人は、いったい何を逃してしまうというのだろうか。
「ははっ。流石にこれはくだらなすぎる」
どうでもいいことをこうして頭の中でグルグルと考えて、『悩み』にしてしまうのが私の特技だ。
けれど、考えずにはいられない。
例えば今日、お昼休みにいつもの貧血を起こして保健室で休んでいた私に、同じクラスの友人達が一度だって顔を覗かせに来てはくれなかったことだったり、数学の小テストで平均以下の点数を叩き出してしまった原因だったり。
例えば、その友人達が私抜きで放課後遊んでいたことだったり、それをSNSに投稿している写真にイイネを押すべきなのか否か、私がいなくても楽しそうに笑っている彼女達を見て、複雑な気持ちになることは心が狭すぎるのだろうか、だとか、なんだとか。
「こんなこと、考え出したらキリがないって分かってるんだけどなぁ」
友達だからといって、常に一緒にいなきゃいけないルールなんてないし、誰が誰と遊んだって私には本来関係のないことだ。
分かっている。分かっているんだよ、そんなこと。
それでも、一度よぎってしまった不安は私の中からそう簡単には消えてくれない。
『大丈夫?』って、ひとこと欲しかっただけなんだ。
一緒に遊ぶつもりがなくても、フリでも構わないから誘いの言葉が欲しかった。
だけどそれが最大のわがままだってことも分かっているから、こうしてグズグズと悩んでいるわけなのだけど。
「はあー」
解決の兆しが一向に見られない悩みと、なかなか晴れないこのモヤモヤした気持ちを、全部吐き出すようにもう一度ため息を落とした。
一切音のない静かな夜なのに、頭の中は雑音だらけだ。
「(これ以上、何も考えたくない)」
勝手に不安になって、勝手に落ち込んで、勝手に負のスパイラルに陥ってしまっている。
そっと目を瞑って、真っ暗な世界に閉じこもろうした……そのとき。
「──うわぁ。でっかいため息だね!」
突然聞こえてきた見知らぬ声に、私は慌てて目を開いた。
となりに吊るされている、もう一つのブランコが勢いよく揺れている。
「……え?」
なんの前触れもなくそう声をかけてきたのは、スーツに身を包んだ一人の女性だった。
スーツを着ているということは、大人だろうか。
こんな錆びれたマンションの公園を知っているということは、ここの住人だったり?
「分かる分かる、ため息出ちゃうくらい思い悩むことってあるよねぇ」
「あ、えっと……え?」
「毎日生きてるだけで偉いのに、この世の中はそれ以外の負荷がかかりすぎなんだよねぇ」
彼女は「うんうん」と頷きながら、盛大にブランコへ腰を下ろして、黒色のヒールを脱ぎ捨てるように放り投げた。
そしてふくらはぎをバシバシ叩きながら「今日もよく歩いたから足がパンパンだよ」なんて言っている。
「あの、どちら様……ですか?」
「うーん?そうだなぁ、私の顔を見て当ててごらん?」
「はい?」
彼女はバレッタで止めていた髪を解きながら、「ほら、よーく見て?」と言って強引に目を合わせてくる。
肩の位置で揺れる黒髪のセミロング、クルンと上に向いて伸びているまつ毛と、顎の右下にあるホクロが印象的な彼女。
「(どこかで見覚えがある、ような?)」
いやいや、そんなはずはない。
私に大人の知り合いや友人はいないのだから。
「あの、すみません。全く分からないです」
「えー、嘘!悲しすぎる!」
ガクッと下を向いて残念がるリアクションをとる彼女のテンションの高さに、私は戸惑いが隠せなくなってきている。
むしろ怖いくらいだ。
そんな私の内情など知る由もない彼女は、「ま、いっか!」と言いながら靴を脱いだままブランコの上に立ち上がって、だんだんと揺れ幅を大きくさせてスピードをあげていく。
楽しそうにキャッキャとブランコを漕いで、夜空を見上げながら「今日は星が綺麗だね!」と言う彼女は、眩しいくらいの笑顔を浮かべて笑っていた。
すごく、綺麗な笑顔だった。
「あの、私、そろそろ帰ります」
「え!ちょっと、なんで!?」
「なんでって……」
知らない人と会話をするのが、昔から不得手だった。
今でこそかなり改善されたものの、小学生のころは近所の人に挨拶をすることさえ苦手だったくらいだ。
それに、今は誰かと話をする元気もない。
一度抱えてしまった悩みは、ふとした瞬間に顔を覗かせにやってくる。
他にどんな楽しいことをしていても、一瞬の隙をついて現実に引き戻されてしまう。
不安や悩みは、まるで悪魔みたいだ。
「まぁまぁ、ちょっと待ちなよ」
「え?」
「あんなに大きなため息を吐くくらい、何か悩みごとがあるんでしょ?」
「い、いえ別に」
「オネーサンが聞いてあげるから、話してみてごらんよ」
少し前までブランコを漕いでで大はしゃぎしていた彼女は、ヒョイヒョイと手招きしながら私を引き止める。
そんな気分じゃないんだけど、と心の中で呟きながら、だけどはっきりと断ることもできない私は、少し考えたあとにまたブランコに座り直した。
「で?何に悩んでいたの?」
「……別に、そんな大袈裟なことではないんですけど」
他の人から見れば、きっと私の悩みなんて取るに足らないものかもしれない。
学校で一人ぼっちなわけじゃない、誰かに何かを言われているわけでもない。
休み時間になれば一緒に話をする友達がいて、放課後になれば遊びに行く友達もいる。勉強だって嫌いではないから成績もそこそこに収めているし、趣味の映画鑑賞も月一で楽しんでいるし、好きなバンドのライブにも参戦したりもしている。
一見、私は順風満帆そうに見えるのかもしれない。
現に中学生になったばかりの妹の玲花には、「いいよなぁ、お姉ちゃんは全部が順調そうで」と皮肉混じりの愚痴攻撃をよく食らっているほどだ。
それなのに、どうして私はこんなにも思い悩んでいるんだろう。
何が原因?何が不安?
決定的な何かがなくても、いや、決定的な原因がないからこそのものなのかもしれない。
例えば明日、いつも一緒にいる春奈や美佳達から嫌われないという保証はない。
小さなすれ違いやわずかに生じた誤解から、『友達』という名の絆のはいとも簡単に亀裂が入ってしまうものだということを、私はすでに知っているから。
だからいつも、私は怯えている。
一人になることが、怖いから。
周りから見放されるのが、つらいから。
「あ、葵じゃん。なんか久しぶりじゃない?」
「確かに。もう貧血は治ったの?」
「あー、うん。今のところ平気かな」
土日の休日を挟んで、週の中で一番憂鬱な月曜日。
朝、教室に入ると、いつも一緒にいる春奈と美佳、それから葉月の三人が声をかけてくれたことで、グッと力を入れて強張っていた身体がほぐれていくのが分かった。
彼女達の声のトーンや雰囲気をすぐさま察知して、何事もなく普通であることにひとまずの安心感を覚える。
スクール鞄の中から教材や課題を取り出して、三人が集まっている春奈の席に向うと、彼女達は金曜日の放課後に遊びに行った話題で盛り上がっていた。
「(そういえば三人が遊びに行っていたあの日、偶然にも芸能人と遭遇して春奈はサインもらったんだっけ)」
目の前に本人がいるのに、SNSの投稿でその出来事を知るなんておかしい話だよね、と心の中でつぶやいた。
結局私は、春奈達が私抜きで遊びに行ったSNSの投稿にイイネを押した。
毎回返事なんて返ってこないと分かっているのに『私も行きたかったー!今度は一緒に行こうね!』とコメントまで付けて。
本当はあれ以上SNSを見ていたくなかったけれど、それでも気にせずにはいられない。
春奈達の話題についていくための予習のように、まるで友達でいるための必須科目のように、私は彼女達のつぶやきや投稿を何度も確認してしまう。
三人の一喜一憂に、敏感になり過ぎてしまっている。
「でもあんまり背は高くなかったよね、あの人!」
「いやいや、あれくらいの顔面レベルなら十分だから!」
「こんなことばっか言ってたら、ウチら一生彼氏できなくない!?」
気を抜けば彼女達の話はもう違う話題に移っていて、愛想笑いにも似た笑顔を貼り付けている自分が窓ガラスに映った。
春奈達三人との間に、透明な壁が見えているのは私だけかな。
最初からこんなふうに孤独を感じていたわけじゃない。
一緒にいて心から楽しいと思えた時期もあった。
美佳とは一年生のころから同じクラスで、いつも一緒にいたわけではなかったけれど、それでも仲がいい間柄だった。
けれど進級して新しいクラスになって、気兼ねなく話せる友達が美佳しかいないことに一抹の不安を抱いていたとき、たまたまとなりの席に座っていた春奈が話しかけてくれたあの日から、葉月も加わって四人グループが出来上がった。
最初は全力で笑い合っていた。
お昼ご飯を食べるときも、休憩時間も、放課後も。
何気ないことで爆笑して、くだらない話題で盛り上がった。
春奈も葉月も、私とは違って誰とでもすぐに打ち解けられるスキルを持っているから友達はとても多いのに、それでも私をこの四人グループの中に入れてくれることが嬉しくて、毎日がすごく楽しかった。
それが今はどうだろう。
目には見えない壁ができたのは、いつからだっただろう。
私だけが三人から置いていかれたような感覚を覚えたのはどうしてかな。
特にこれといった決定打はなかったと思う。
ただ少しずつ、それぞれの絆の深さに強弱が現れたような気がした。
例えば三人グループを作らなければならないとしたなら、きっと一人余るのは私しかいないと思うようになった。
「……疎外感」
誰にも聞こえない声で出てきた言葉は、今の私にぴったりの言葉だった。
「よし、席につけよー。朝のホームルーム始めるぞー」
担任の先生が教室に入ってきたタイミングで、みんなが一斉に席に戻っていく瞬間に初めて息ができたような気がした。
一人は嫌なはずなのに、どうして春奈達から離れると心がラクになるのか。
昨日からずっと、そのことばかり考えている。
「あと少しで夏休みに入るわけだが、その前に毎年恒例の文化祭のリーダー決めをするからな」
「うわぁ、俺絶対やりたくねぇ!」
「あたしだって嫌だし!夏休みほとんど潰れるらしいじゃん!?」
うちの高校は毎年文化祭が九月に行われる。
そのため夏休み前から各クラスごとに文化祭の実行リーダーを二人決めて、さまざまな準備を行っていく。
文化祭はとても楽しい行事だけれど、夏休みの大半を使うことになる実行リーダーは誰もが避けて通りたいと思うだろう。
私だってやりたくないに決まっている。
「(それに、こんな気持ちのまま文化祭なんて……楽しめるわけない、よね)」
勉強の息抜きにたまに来ていたこの公園も、ここ最近は毎日足を運ぶようになっていた。
管理されていないブランコは揺れるたびにギリギリと嫌な音立てながらも、今日も懸命に私の体重を支えてくれている。
「あ、葵ちゃんまたまた発見ーっ!」
「(ゲッ、またあのオネーサンだ)」
そして、あの日どこからか突然やってきたスーツ姿のオネーサンは、今日もまた同じような時間帯にやって来た。
こんな暗がりの中で毎回黒いスーツを着ているから、露出している部分以外は周りと同化してしまっている。
「葵ちゃん、不良だねぇ! こんな遅い時間に外出るなんて!」
「そういうなら、オネーサンだって。 ちなみに私はここのマンションの住人なのでギリセーフなんです」
「私は大人だからいーの!」
彼女はまた私のとなりにあるブランコに飛び乗って、容赦なく漕ぎまくる。
こんなにも無邪気な大人っているんだ。
二十一時も過ぎているというのに、オネーサンは私よりも溌剌としている。
「どうしたの?また何かあった?」
「え?」
それなのに、どうしてこの人はこんなにも優しい声をかけてくれるのだろう。
オネーサンのそのひと言に、泣きそうになってしまう。
「……優しく、しないでください。泣きそうに、なるので」
目頭が熱くなるのが分かって、そっと彼女から視線を逸らした。
「でも、今のキミには必要だよね」
「べ、別にそんなことないです」
「私に話してごらんよ」
「なんでですか?だいたい、あなたの名前もまだ知らないのに……」
こんなふうに素敵な笑顔を浮かべる彼女が悪い人だとは思わないけれど、それでも真夜中の公園で出会ったばかりの人に心の中の悩みを打ち明けられるほど勇気はない。
そう告げると、オネーサンはブランコを漕ぐのをやめて改めてこちらに向き直った。
「名前、言ってもいいけど多分葵ちゃん信じてくれないと思うな」
「え?」
「私の名前、中畑 葵っていうの」
「……はい?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
彼女の言っている言葉は理解しているのに、それをうまく取り込めない。
「な、何言ってるんですか?」
「ほらね、信じてくれないでしょ?」
信じられないに決まっている。
信じられるわけがない。
「だって……っ」
──だって、中畑 葵は私だ。
私の、名前だから。
「な、中畑 葵は私の名前です」
「うん、知ってるよ。でも私の名前でもあるの」
「何を言って……」
「この顔見てよーく考えてって言ったのに、葵ちゃん知らない人って言うんだもん。高校のときからそんなに顔変わってないと思うんだけどなぁ」
彼女の淡々と放つ言葉が、いつまでも脳裏に焼き付いて離れない。
「同姓同名、ということですか?」
今にも混乱しそうな頭をどうにかフル回転させて、絞り出すようにどうにか質問を投げかける。
明らかに『うん』と言わなければおかしい質問だ。
鉄のにおいがするブランコの手すりをギュッと握りしめて、彼女から出てくる次の言葉を今か今かと待ち続けた。
「──違うよ」
「……!?」
「私はキミの未来だよ。キミが大人になった、中畑 葵だよ」
いつもニコニコしている彼女が、今は笑っていない。
だからと言って、そんな馬鹿げた話を信じられるわけもない。
大人の私?未来の自分?
本当なら今すぐにでも鼻で笑ってやりたい気分だけれど、それができないのは、微かにオネーサンの顔にどこか自分の面影を感じているからだ。
彼女と初めて会ったとき、どことなく見覚えがあった。
だけど、そんなわけ──……。
「じゃ、じゃあ私の誕生日は?」
「十月十五日」
「両親の名前は?」
「お父さんが二郎でお母さんが京香。三歳年下の妹は玲花で、おじいちゃんは三郎。おばあちゃんはもういないよね」
「……っ」
「他に質問は? なんでも聞いてよ」
完璧な答えに慄く私に微笑んで、彼女は余裕の笑みを浮かべながらそう言った。
「(ほ、本当に私……なの?)」
夢でも見ているのだろうか。
未来の私って、何? どういうこと?
そんなこと、現実であり得るの?
私は彼女にたくさんの質問を投げかけたけれど、全問正解どころかプラスアルファで答えを出してくる始末。
いいや、そんなことあり得ない。
あり得るわけがないよ。
でも──……。
「まだ信じられないって顔してるね」
「あ、当たり前ですよ!」
「うーん、そうだなぁ。他に葵ちゃんに信じてもらえる何か、ネタとかないかなぁ」
グッと夜空を見上げて頭を捻る彼女。
私は今にも気がおかしくなりそうだ。
「あ!そういえば今の時期って夏休み前だよね!」
「そう、ですけど」
「ってことは、もうすぐ文化祭のリーダー決めがあるんじゃない!?」
何かを閃いたと言わんばかりに勢いよく立ち上がった彼女は、私を指さして言う。
「そのリーダーが、誰になるか当ててあげる!」
「え?」
「未来のことを当てられたら、私のこと信じられるでしょ!?ね!」
未来の中畑葵(自分)だと豪語するスーツ姿の彼女は、自信満々そうに「おいで」と手招きして、そしてそっと私に耳打ちした。
「──……え?」
「(あり得ない、あり得ない!あり得ないって!)」
放課後のチャイムが鳴ってすぐ、一目散に教室を飛び出してマンションの公園を目指した。
頬を伝う汗も、熱を帯びた風がまとわりつくことも気にならない。
私はただひたすら彼女に会いたくて、オレンジ色の夕焼け空の下を走り続けた。
「はぁっ、しんど……っ。てか、いないし」
自分のことを未来の“私”だと言った彼女は、どこにもいなかった。
そういえば、彼女とはまだ夜にしか会ったことがない。
決まって二十一時を過ぎたころに、突然ふらっと現れてはブランコに腰を下ろして、そして必ず全力で漕ぎまくって風に当たりながら、星がきれいだと言う。
今、彼女は何をしているのだろう。
いつもスーツを着ているから、会社員をしているのだろうか。
自分の未来なんて、まるで想像がつかない。
どの大学に行くのか、どんな会社に入るのか、どんな大人になるのか。
夏休み明けの文化祭だって楽しめるかどうか危ういという状況での中で、数年先の未来なんてまるで見えてこない。
「──やっほー!今日も星がきれいだねぇ!」
「あっ、やっと来た!」
夏のけたたましい暑さが少しだけ静まる、七月の夜。
どこからともなくやってきたオネーサンは、今日もやっぱり二十一時を過ぎたころに現れた。
「うわ、今日はいつもよりハイテンションだね。……さては昨日の私の予言、当たったな?」
「あなた、占い師か何かですか?」
彼女は昨日、未来からやってきた“私”であることを信じてもらう材料の一つとして、文化祭のリーダーが誰に決まるのかを予想した。
もちろん私は当たるわけがないと思いつつも、そもそもクラスメイトの名前を知っていることや、文化祭のリーダー決めが行われる時期を知っている時点でおかしいと思ったけれど、気にしないフリをした。
文化祭のために設けられた六限目に、各役割を決める会が行われた。
誰もやりたがらない実行リーダーの枠はやっぱり最後まで埋まることはなくて、結局くじ引きで決めることになったけれど。
『じゃあくじ引きの結果を発表するぞー。文化祭の実行リーダーは、中畑 葵と柳橋 悠の二人だ』
担任の先生から出た名前を聞いて、目の前が真っ黒になったのを覚えている。
「ね?言ったとおりになったでしょ?よかったね!」
「全然よくないんですけど!」
物音一つしない夜に、自分でも吃驚するほどの声を荒げてしまった。
思わずグッと口を噤んで辺りを見回す。
よりにもよって、実行リーダーに選ばれるなんて最悪だ。
物事を仕切ったり、誰かに指示を出したりするのが本当に苦手だ。
それに何より、実行リーダーは毎日放課後も、休み時間も、夏休みだって奪われる。
そんなことになったら、私……今よりもっと春奈達との距離ができてしまう。
そこが一番の懸念点だった。
「やりたくない」
「……」
「明日、先生に言ってみる。私じゃ役不足ですって」
「──ダメ!」
そこには、いつになく真剣な表情を浮かべて立ち上がった彼女がいた。
少し前の私と同じようにツンと声を張り上げた彼女は、一心に私を見ながら口を開く。
「あのね!?あんまり未来の出来事は言わないほうがいいと思うんだけどね!? でも一つだけ言わせて!?」
「……」
「この文化祭の実行リーダー、絶対やったほうがいい!」
「なんでっ」
「大人になったキミが言うんだから、間違いない!」
なにそれ、と出掛かった言葉をしまい込んだ。
嫌だよ、向いてないんだもん。
過去に"私"を経験してきたあなたなら、分かるでしょ?
春奈達との距離を、これ以上広げたくない。
あの三人が私の仕事を手伝ってくれるとは思えないし、作業が終わるまで待ってくれるとも思わない。
一人になるのは、嫌なんだ。
私がいない写真をSNSに挙げられるたびに不安になるから。
三人の話題についていけなくなるのが、怖いんだ。
嫌だ、嫌だよ、一人になるのは嫌──。
「──大丈夫」
「……っ」
「絶対大丈夫だから。私を信じてよ、葵ちゃん」
未来の私が言った『大丈夫』の言葉が、何に対してのものなのかは分からない。
そして次の日から、オネーサンが言ったその言葉とは正反対に、文化祭の準備は怒涛の勢いで始まっていく。
・・・
「中畑さん、これどっちに運べばいい?」
「え!?あ、えっと、これは看板に使う板だから……」
この学校が文化祭にすごく力を入れているのは、一年生のころから分かっていた。
夏休みが明けてすぐに始まる文化祭は三日間連続で行われるし、最終日の夜は学年ごとに近くにある海辺でキャンプファイヤーを囲んで後夜祭を行うほどだ。
さらに、初日と二日目は外部の人達も参加できるシステムになっているから、家族や他校の友人も呼べるようにもなっている。
学校行事の中でも毎年断トツで盛り上がるこのイベントのリーダーを任されてしまった私は、毎日が憂鬱で堪らない。
山のように降りかかってくる問題や作業を、放課後やお昼休みを返上して一つずつ片付けなくちゃならないし、運動部の朝練と同じくらい早く登校してミーティングを行う日だってある。
それに加えて、受験を控えた三年生を支えるという意味でも、私達二年生が主体となって全体の進行まで行わなくてはいけないと聞いたときは倒れそうになった。
「ねぇ、どっちなのー!重たいんだけど!」
「あ、えっと、ちょっと待って」
同じクラスの笹舘さんの苛立った声に、余計に頭が混乱してしまう。
あぁ、だからやりたくなかったんだ。
こんなの、どうみたって私ができる役じゃないのに。
毎週火曜日と木曜日の六限が文化祭の準備の時間に当てられることになった今、クラスのみんなで協力して準備をしている。
私達二年A組は模擬店でたこ焼きを売ると決めたところまではスムーズだった。
けれど実際に準備に取り掛かるとうまくいかないことばかりが増えて、その分だけ不安がたまっていく。
春奈達三人は教室の隅で楽しそうに会話をしながら、ゆっくりと店内に付ける飾りを作っていた。
私は目が回るほど忙しいのに、何度も彼女達のほうを気にしてしまう。
この文化祭の準備のせいで、私は前より何倍も春奈達との距離が開いてしまった。
「えっとね、その板は……」
「──それ、ヤスリがけもまだだから先に準備室に持って行って」
困り果てていたそのとき、横から声をかけてくれたのは柳橋くんだった。
彼も私と同じく今年最大のハズレくじを引いて実行リーダーになってしまった、もう一人の相方だ。
「その看板、今日中に下書きの工程まで持っていきたいから、ヤスリがけ終わったらすぐこっちに戻してほしい」
「うん、分かった!男子達がヤスリしてくれるから、早めにお願いって伝えとくね!」
柳橋くんの的確な指示に、笹館さんはすぐさま教室を離れた。
……助かった。
「あの、ありがとう」
「ん?あぁ、気にしないでよ。それより中畑さん、ペンキ塗る刷毛知らない?全然本数足りないらしい」
「あ、それなら美術部の遠藤さんが持ってきてくれてるはず」
「了解、あとで声かけてみる」
新しいクラスになって三ヶ月が経とうとしているけれど、柳橋くんととこうして話をするのは初めてかもしれない。
それどころか、いつも春奈達と一緒にいた私は、彼女達以外のクラスメイトとまともに会話すらした記憶がなかった。
新しい友達が増えるのは嬉しい。
だけど、だからといって春奈や美佳達と離れたくはない。
「お疲れ!どう?みんな作業進んでる?」
手が空いたわずかな時間を使って、三人のもとへ駆けつけた。
自分からこのグループに入っていかないと、このまま置いていかれるような気がして怖くなった。
声をかける瞬間が、不安でたまらない。
無視されたらどうしようって。
黙ってどこかへ行かれたらどうしようって。
「うわ、リーダー葵じゃん」
「めっちゃ忙しそうだねー」
「あ、でもウチらにこれ以上仕事回さないでよ?マジでだるいから」
「そんなこと言いにきたんじゃないよー!ただ私もちょっと休みたくて!」
会話が途切れないように必死で言葉を紡ぎ続けて、春奈達に興味を持ってもらえそうな話題を探す。
私、今ちゃんと笑えているかな。
いつもよりワントーン声を高くして、なるべく不快な気持ちを与えないように注意して。
「てか葵もよくこんなめんどくさい仕事やるよね」
「放課後も遅くまで残ってるんでしょ?」
「あー、うん。もう毎日クタクタだよ」
「葵はマジメちゃんだもんねぇ」
「……」
アハハ、と笑った声が酷く掠れていた。
全然楽しくない。まったく面白くない。
先頭に立ってこの一大イベントを進行していくことが、どれだけ大変か、きっと春奈達には分からない。
分からないのに、それを『マジメちゃんだから』のひと言で片付けてほしくない。
「(あぁ、ダメだ。ダメダメ)」
春奈達と一緒にいたいはずなのに、一緒にいるとどんどん苦しくなってくる。
最近の私は矛盾だらけだ。
居心地が悪くて、その場から立ち上がる。
これ以上ここにいたら、もっと悪いほうへ考えてしまいそうで怖くなった。
「……そろそろ戻るね」
どうにか絞り出した声でそう告げて立ち上がった。そのとき。
「ねぇ、春奈と美佳と葉月!もうちょっと働いたら!?」
後ろから突然、張りのある怒号が響き渡った。
「さ、笹館さん?」
そこには、少し前に看板用の板を運びに行ってくれた笹館さんが仁王立ちのように立っていた。
ギロリと鋭い視線を、春奈と私に交互に突きつける。
「みんな忙しくしてんのに、なんで春奈達だけそこに座ってんの?おかしくない?」
「はぁ?ちゃんとやってるんだけど」
「そんな飾り付けいつでも作れるじゃん!今日は先に大きいモノからやっていこうってなったよね!?」
笹館さんの尖った声は、教室の中で作業していた他のクラスメイト達に伝わるには十分すぎるほどの声量で、それまでザワついていたここ一帯が途端に凍りついた。
彼女の他にも、数名の女子がチラチラとこちらを睨んでいる。
きっと笹館さんと同じことを思っていたのだろう。
「あ、あの、笹館さん。そんなふうに言わなくても……」
「ってか、まずこういうことを実行リーダーの中畑さんが一番に言うべきなんじゃないの?」
「それはっ」
「春奈達といつも一緒にいる友達だからって何も言わないのは間違ってるよね?」
「……っ」
「友達だからこそ言わないと!」
笹館さんの言葉が、グサリと私の心を突き刺した。
彼女の最後の言葉が、何度も頭の中でリピートされていく。
「(友達、だからこそ……)」
返す言葉が何も見つからなかった。
実行リーダーとして、早くこの場を収めなくちゃいけないのに。
早く、春奈達に声をかけなくちゃいけないのに。
でもそれは、春奈の友達として?
それとも……自分のため?
「はぁ、ダル。じゃあもういい、あたし帰る」
「はぁ!?」
笹館さんの言葉に腹を立てた春奈は、気怠そうにこの場を立ち去っていく。
「ちょっと待ちなよ!」と呼び止める笹館さんの声にも振り向くことはない。
「春奈、あのっ」
私の横を通り過ぎる一瞬、春奈と目が合った。
冷たくて、呆れたような表情を浮かべながら、小さなため息をついたて……言った。
「……うざ」
「え?」
いっそ聞き逃したほうがよかった。
でも、確実に春奈は今、私の顔を見て言った。
「(なん、で?)」
私、何も言ってないよね?
春奈に突っかかっていったのは笹館さんでしょ?
私じゃ……ないよ。
「えー、春奈ぁ。待ってよー」
春奈の後を追うように、美佳と葉月も小走りに教室を出ていく。
私も二人に倣って追いかけて行きたかったけれど、足がすくんで動かない。
「(私のせいじゃ、ないよね?)」
明日からも一緒にいてくれるよね?
時間が経てば春奈の機嫌もよくなるよね?
大丈夫だよ、きっと大丈夫。
大丈夫……だから。
心の中で、何度も何度も自問自答を繰り返した。
そんな自分が、本当に情けなかった。
・・・
「あらら、お疲れの様子だね」
「……オネーサン」
今日は夜風が一切感じられない、静かな夜だった。
まるで時が止まっているんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどに。
いつもと変わらず星がキラキラと輝いていて、なんだかすごく眩しく感じる。
「オネーサンの嘘つき」
「ゲッ、何それひどい!簡単に人を嘘つき呼ばわりしちゃいけません!」
「だって嘘つきだもん」
文化祭の実行リーダーは絶対やったほうがいいなんて、嘘じゃない。
確かに、リーダーになってからいろんな人達と話す機会が増えた。
これまであまり話したことがなかったクラスメイト達とも少しずつ打ち解けてきて、二年A組がまとまっていく感じがしていくのも実感している。
今日の笹館さんは怖かったけれど、いつもはあんな感じの人じゃない。
きっとみんながあれこれと動き回っている中で、春奈達のサボりとも思える態度に怒ったのだと思う。
実際に、私もその通りだと思っていた。
教室の隅に三人で固まって座って、雑談をしながら小さい飾りを作っている様子を見て、同じように思っていた。
だけど、注意できなかった。
春奈があんなふうに腹を立てて教室を出て行ってしまうのが何よりも怖かったから。
だから笹館さんが言った「友達だからこそ言わないと!」の言葉がすごく痛かった。
そしてまた考えざるを得なくなった。
本当に友達なら、あんなことをサラリと言えるものなのだろうかと。
友達だからこそ、言ってあげるのが親切なのだろうかと。
『じゃあ、私と春奈の関係はなんていうの?』って。
春奈達が教室からいなくなったあと、私はすぐにグループトークにメッセージを入れた。
けれど三人とも、既読をつけたまま返信はくれなかった。
やっぱり怒っているのだろうか。
三人で口裏を合わせて返信しないようにしているとか?
放課後も、家に帰ってからもずっとメッセージが来てないか気になって仕方なくて、何度スマホの画面を確認しただろう。
今はもう、返信がくることを半分諦めている。
明日から、どうすればいい?
どんなテンションで声をかければ正解だろうか。
そんなことばかり考えているから勉強も身に入らなくて、結局またこの公園のブランコに座って悩みを募らせていく。
なんだかもう、疲れちゃった。
学校を休んでしまいたい衝動に駆られながらも、あんなことがあった次の日に自分の目で状況が把握できなくなることを恐れている。
私は臆病者だ。
本当に、本当に弱い人間だ。
「何か嫌なこと、あった?」
「……」
こうして一人で悩みを抱えているとき、決まってオネーサンは優しい言葉をかけてくれる。
「(どんなことで悩んでいるのか、オネーサン分かってるのか……って)」
そうだ、オネーサンは私の未来だ。
ということは、私と春奈達がどんなふうになっていくのか知っているはず。
なんでこんな単純なことに気付かなかったの、私!?
「ねぇ!オネーサンは大人になった私なんでしょう!?だったら教えてほしいことがあります!」
「うん?」
「私と春奈がどんな関係になっていくのか教えて!?」
勢いよく立ち上がった瞬間に、金属でできたブランコの取手がガシャンと音を立てた。
文化祭の実行リーダーが誰になるか当てたくらいだ。
高校二年生の私をすでに経験してきているであろうオネーサンなら、この先のことが分かっているはずだ。
「教えてあげない」
「は!?な、なんでですか!?私、今すごい悩んでるんです……っ。すごくすごく、不安なんです」
「……うん」
「気になって仕方ないんです。だから、教えてよ」
「……」
この得体の知れないモヤモヤを今すぐにでも取り除きたくて、懇願するように縋った。
もしも明日、春奈達がグループの中に入れてくれなかったらどうしたらいい?
口を利いてくれなかったら? 無視されたら?
クラスの中で一人ぼっちになってしまう。
それだけは……絶対にいやだ。
「お願い、だから……っ」
「でもね、一つだけ言えることがあるよ」
「なんなの、一つだけって」
「これから先ね、嫌なことってたくさんあるよ。泣きたくなることもあるし、怒りたくなるときもある」
「……」
「でもね、人生って絶対それだけじゃないから」
目の前にいる未来の私が、目を細めて優しく笑う。
「葵ちゃんのことを大切にしてくれる人は、必ずいる。大丈夫だから」
「……」
私はまだ、オネーサンのことを完全に信じているわけじゃない。
同じ位置にホクロがあっても、実行リーダーが誰になるのか的中させても、心のどこかでそんなことあるわけないと思っている部分も少なからずある。
だけど、なんでだろう。
今はオネーサンのその言葉が、何よりも信じられる気がした……このときまでは。
「──というわけで、夏休みのスケジュールはこんな感じになります」
「(夏休み、やっぱりほとんど登校しなくちゃいけないんだ……)」
「都合が悪くて学校に来れない場合は、必ずもう一人のリーダーにきちんと連絡しておくように。じゃ、今日の打ち合わせは以上!」
本格的に夏の暑さがやってきた、夏休み目前のお昼休み。
お弁当を食べる暇もなく、突然召集がかかった実行リーダーの学年ミーティングは今日も一段と慌ただしい。
各クラスの準備の進捗や問題点などをそれぞれに報告しあって、意見を出し合う。
最後に配られた夏休みのスケジュールは鬼のようだった。
「ねぇ、中畑さん。夏休み、どのくらい登校できそう?」
「うーん、そうだね。お盆はおばあちゃんの家に行くから、そのとき以外は基本大丈夫だと思う」
「なるほどね。一応、連絡先交換しておこっか」
「あ、うん。そうだね」
実行リーダーの相方である柳橋くんはかなり頼れる人だった。
昨日の春奈や笹館さんの騒動も、結局彼がその場をうまく治めてくれた。
春奈のひと言に呆然としていた私に声をかけてくれて、「ちょっと休んでおいでよ」と言ってくれたのも柳橋くんだ。
「柳橋くんこそ、部活あるから大変じゃない?バスケ部、だよね?」
「あー、うん。でも練習でほとんど夏休みなんてないようなもんだったから、俺は平気だよ」
「そっか。あと、あの……昨日はありがとね。その、私が不甲斐ないばっかりに……」
“昨日のこと”が何を指すのか、柳橋くんもすぐに察知したようで、彼は気にしてない素振りを見せながら「また困ったときは声かけて」と言ってくれた。
彼はすごく優しい人だと思う。
「ありがとう。じゃあ私、先に教室戻るね!」
「あ、うん。またあとで」
ミーティングで渡された用紙を持って、大急ぎで教室へ戻っていく。
朝から体育の授業や移動教室の授業ばかりだったせいで、なかなか春奈に話を切り出す機会がなかった。
だからお昼休み、お弁当を食べながら昨日のことを話し合おうと思っている。
春奈達は昨日のこと、どう思っているんだろう。
やっぱりまだ怒っているのかな。
それとももう落ち着いているだろうか。
ちゃんと話し合って、もう一度みんなで笑い合いたい。
いつからか出来てしまった不安や孤独感を取り除きたい。
その一心で、教室へ戻った。
オネーサンが言っていた、『大丈夫だから』の言葉を信じて。
「……あれ、みんな?」
けれど、そこに春奈達の姿はなかった。
いつも春奈の席から近い机を四つ向かい合わせにしてお昼ごはんを摂っていた。
だけど、今はその場所に誰もいない。
「どう、して……?」
こんなにも暑いのに、だんだんと指先が冷たくなっていく。
呼吸も浅くなって、視界が少しずつ狭まっていくのが分かった。
カバンの中からスマホを取り出してみても、誰からもメッセージは来ていない。
私は慌ててグループトークを開いて、今どこにいるのかを確認した。
心臓が痛いくらいに激しく脈を打っている。
ドクリ、ドクリと嫌な音が外まで聞こえてしまうほどに。
手の中でブーブーとバイブが鳴る。
微かに震える指先で、受信したメッセージを開いた。
【美佳:あ〜。葵来ないのかと思って、今ウチら中庭にいまーす】
【葉月:ごめん、でももう食べ終わったけど(笑)】
【春奈:葵も来れば?】
「なに、それ……」
体の力が、抜けていく。
ひと言だけでもここにメッセージを残すことはできなかったの?
中庭に移動するとき、私のことは少しも考えてはくれなかった?
「(ダメ、考えちゃダメっ)」
私はこんなにも不安でたまらないのに、三人からの軽いメッセージに泣きたくなった。
教室の中で、一人佇んで必死に涙を堪える。
私は一体、いつから"そういう扱いをしてもいい人"になってしまったのだろう。
それでも、一人でお弁当を食べる勇気もない私は、途端に重くなった足を引き摺るようにして中庭に向かうしかなかった。
苦しくて、悔しくて、惨めだった。
この気持ちは多分、一生忘れないと思う。
・・・
それから次の日も、また次の日も春奈達はお昼ご飯を食べる場所を変え続けた。
実行リーダーの仕事で遅くなった私が教室に戻ると、三人はどこにもいなくて、その度に私はどこにいるのかを確認するメッセージを送った。
そして今、葉月から【ウチらがどこにいるのか探してみてよ(笑)】と返信が来た時点で、私の中で何かが壊れた音がした。
もしかしたら面白半分で言っているのかもしれない。
冗談のつもりなのかもしれない。
だけど、もう私は限界だった。
そっとスマホをカバンの中に入れて、自分の席に着く。
教室には半分くらいのクラスメイトがいる。
教室の外で食べる人、他のクラスの友達の元へ行く人、食堂でお昼を済ませる人、様々だ。
自分の席で私が一人でお弁当を食べている姿を見て、他の人達はどう思うだろう。
そう考えると、怖くて、怖くてたまらない。
「……っ」
涙を塞き止めるのも限界がきたようで、ポタポタと机の上に丸い痕がついていく。
啜り泣く音を押し殺して、周りに気づかれないように努めるのが今の私の精一杯だった。
春奈達が教室に居たがらない理由は分かっている。
笹館さんと衝突があったあの日以来、三人はクラスから孤立してしまっている。
週に二度あるクラス全員で文化祭の準備の日は、決まって保健室に行っているのを知っているから。
「(でも、だからって……っ)」
せっかくお母さんが作ってくれたお弁当が、涙のせいで霞んで見える。
お腹は空いているはずなのに、今は食べ物がのどを通らない。
とりあえず教室以外のどこかに移動しよう。
そう思って、途中まで広げたお弁当の包みを結び直したそのとき。
「──中畑さん、こっちおいでよ」
そう声をかけてくれたのは、柳橋くんだった。
「え?」
どうしてここに彼がいるの?
もしかして、文化祭のことで何かあるのだろうか。
「ちょっと……っ、待ってね」
慌てて涙を拭きとりながら、なるべく見られないように俯きながら顔を逸らした。
泣いているところを見られた?
最悪だ、どう言い訳したらいいかな。
「ほら、行くよ」
「え、あの、ちょっと!?」
柳橋くんは泣いている私のほうを見ないまま、代わりの机の上にあるお弁当を持って、もう片方の手で私の腕を掴んだ。
教室を出て、半ば強引に連れてこられた場所は、少し前まで実行リーダーのミーティング室となっていた準備室だった。
「どうして、ここ?」
「中畑さん、いつも昼休みのミーティングが終わったらすぐ教室に戻るから声かけられなかったんだけど、俺達ミーティングが終わってもここでみんなで一緒に昼食取ってたんだよね」
「え、そ、そうだったの?」
「まぁ、ほぼ食事しながらミーティングの続きみたいなことしてるんだけど」
「うわ、全然知らなかった」
「ま、だからもしよかったら中畑さんもここに来なよ」
柳橋くんはそう言って、準備室の扉を開けた。
中には本当に先ほどまで一緒にいたメンバーほほとんどが残っていて、各々にお昼ご飯を食べながら和気藹々と過ごしている。
「あ、中畑ちゃんおかえりー」
「さっきぶりだな!」
その光景を見て、また涙が止まらなくなった。
私を受け入れてくれるその言葉に、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
「え、中畑さん!?どうしたの!?」
「あ、いや……っ、えっと、ごめんなさい」
「とりあえずこっち来なって!」
他のクラスの実行リーダーの一人が、優しく私の手を引きながら中へ迎え入れてくれる。
柳橋くんは私の事情をどこまで知っているのか、何も言わずにそっとティッシュを渡してくれた。
自分がいてもいい場所が、こんなところにあったなんて。
実行リーダーになって約一週間という期間の中で、初めてこの役になれてよかったと心から思った。
もしかしたら、オネーサンが言っていたことはこういうことだったのかな?
心の中でふと、彼女が言っていた言葉を思い出した。
それから私は、春奈達と距離を置くことに決めた。
いつもは三人が登校して来ると、一番に駆けつけて「おはよう」と声をかけていたけれど、それももうやめた。
「中畑さん、看板のデザインのことで相談があるんだけど今いいかな?」
「あ、うん!大丈夫だよ!」
春奈達にこだわらなくなってから、少しずつ変化が訪れた。
まずは小さな不安を感じることがなくなった。
いつだって春奈の機嫌を伺いながら、置いていかれないように、忘れられないように必死だった毎日が一変して、今はすべて自分のペースで動くことができている。
その分、一人になることも増えた。
移動教室のときは一人で移動するようになって、授業の間にある十分休憩も自分の席で過ごすことが多くなった。
だけど一人になった私に声をかけてくれるクラスメイトもいる。
もちろん今は文化祭の話がメインで、私が実行リーダーだからというのもあるけれど、それでもこうしていろんな人と話せることがこんなにも嬉しいことなんだって初めて知った。
春奈達のことが全く気にならなくなったと言ったら嘘になる。
ふとした時に、三人のそばを離れた私のことをどう思っているのだろうって考えてしまうし、今でも春奈達のことを無意識に目で追ってしまうこともある。
だけどグッと堪えて、大きく首を振りながら自分に言い聞かせる。
もうこれ以上春奈達に甘えちゃダメだって。
一人になってもいいから離れると決めたのは自分でしょう、と。
「中畑さん、今日も来るでしょ?」
「柳橋くん……。うん、行く」
「じゃあ行こうか」
そしてあの日以来、柳橋くんはいつも私をお昼ご飯に誘ってくれる。
場所は決まって他のクラスの実行リーダー達が集まる準備室で、今日もみんなは各々に口をモグモグ動かしながら、文化祭の話で盛り上がっていた。
「ねぇ、中畑ちゃん!三年の実行リーダーが時間足りないから手伝ってうるさいんだけど、どうする!?」
「え、先輩達そんなに大変なの?」
「うーん、でもあたし達にそんな余裕あるかな?」
「そうだね、二年も結構スケジュール厳しいよね。一年生はどうだろ」
今では私がここに来ることが当たり前のようになって、こうして違和感なく接してくれることに感謝している。
教室で居場所を失った私の、唯一の拠り所になっている。
文化祭が終わったら、きっとこのメンバーでご飯を一緒に食べることはなくなるだろう。
ここが大切だと実感していくたびに、今度は終わりが来ることが怖くなる。
だけど今は、目の前にあるこの楽しいひとときだけを味わっていたいから。
「……なぁ。もう今日の放課後くらいさ、みんな早く帰らね?」
「うわ、B組のリーダーが今めちゃくちゃいいこと言った」
「ってかさ、どうせならこのメンバーで放課後どっか遊びに行かない?」
「うわうわ!D組のリーダーがもっといいこと言った!」
「C組、大賛成です!」
「E組も同じく大賛成!」
「……あれ、A組は?」
みんなは次々と手を挙げて、賛成の意を示していく。
気付けば手を挙げていないのが私達A組だけになって、全員が私と柳橋くんのほうを見て問いかけた。
「……って言ってるけど、中畑さんどう?」
「え、あ、えっと、柳橋くんは?」
「俺は中畑さんが賛成なら賛成、かな」
あぁ、ほんの少し前までは、こうしてみんなの前で意見を言うのが大嫌いだった。
なるべく穏便に済む方法ばかり考えて、自分の意見はいつだって後回しにしていた。
だけど、今は心の底から思うよ。
「うん、私もみんなと遊びに行きたい!」
「よっしゃ!じゃあ海行こうぜ、海!」
「今日くらい俺らの休みがあったってバチ当たんないわ!」
こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。
あれだけ嫌だった実行リーダーが、今では何よりかけがえのないものになっている。
あのときのくじ引きはハズレくじなんかじゃなかった。
大当たりだったんだ。
「じゃあまた放課後な!」
「帰りのホームルームが終わったら校門前に集合ね!」
お昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴って、みんなはそれぞれのクラスへ帰っていく。
放課後に海へ行くなんて初めてだ。 今から楽しみでたまらない。
今にもスキップでもしてしまいそうなほどの勢いで教室に戻ると、ちょうど五限が始まるチャイムが鳴った。
慌てて席について、ふと視界に入った春奈の席。
そこに、彼女の姿はどこにもなかった。
・・・
「なんだかすごく楽しそうだね、葵ちゃん!」
「わっ!ビックリした!だから、いきなり現れないでってば!」
夜の公園に来るのは久しぶりだった。
毎日遅くまで残って文化祭の準備や進行チェックに追われていた私は、ここ数日、公園に立ち寄る体力すら残っていなかった。
夜、ごはんを食べてお風呂に入って、どうにか課題を終わらせることが精いっぱいの多忙人間になっていた。
「今日はため息吐いてないしね!何かいいことあったんでしょー!」
「そ、そんなことないし」
放課後、二学年の実行リーダー全員で、学校から一番近い海に行った。
砂浜を裸足で歩いて、足だけだったけれど海にも浸かった。
男子群は大はしゃぎして、制服のまま結局最後は全身びしょ濡れになっていた。
それを見ていた私達女子群は大笑いして、本当にいい思い出を残すことができた。
春奈達と海に行ったことはなかった。
彼女は日焼けや暑さがダメだという理由から、いつも遊ぶ場所はショッピングモールやカフェが多かった。
春奈や美佳達とも、海に行って大笑いしてみたかった。
そんな考えがよぎったことは、オネーサンにも内緒だ。
もしかしたら知っているのかもしれないけれど。
「海、楽しかったよね」
「オネーサンも経験した?」
「もちろんだよ。だって私はキミの未来だから」
とびっきり眩しい笑顔で私を見た彼女は、またいつものようにブランコを勢いよく漕いでいく。
気のせいだろうか。
今日はなんだかいつもより空気が澄んでいるように感じる。
いつもは錆びついたこのブランコがいつか壊れてしまいそうで怖かったけれど、今日は私もオネーサンと同じようにブランコを漕いでみることにした。
地面を思いきり蹴って、前に後ろに風を切る。
ブランコはギリギリと嫌な音を立てながらも、一生懸命に仕事をしてくれた。
頬に当たるふんわりとした風が、心地いい。
「楽しいねぇ!ひゃっふーい!」
「ちょっと、夜なんだから大きな声出さないで!」
オネーサンも負けじとスピードを加速させて、なぜか最後はお互いに競い合うように立ち漕ぎで汗だくになっていた。
「オネーサンっ、大人なのに……っ、大人気ない!」
「何言ってるの、葵ちゃんっ。勝負にね、子供も大人も……っ、ないんだよ!」
高校生にもなって、こんな小さな公園の遊具で本気を出すなんて。
だけどとなりで私よりももっと一生懸命にブランコを漕いでいる彼女は、スーツを着た大人だ。
そう考えると余計に可笑しくなってきて、私とオネーサンは辺りを気にすることもやめて大笑いした。
二人の愉快な笑い声はいつまでも響き続けた。
「葵ちゃん、もう大丈夫だね」
「え?」
火照った身体と荒い呼吸を整えて、やっと落ち着きを取り戻したとき、オネーサンは唐突にそう言った。
彼女が笑っていないときは、決まって何か大事な話があるときだ。
「やっぱりさ、何があっても悩み事って消えないじゃない?特に私達、なんでもすーぐ悪いほうに考えちゃうし、小さいことでもウダウダ悩んじゃう性格でしょ?」
「確かに!すごく厄介!」
「だよねー!!」
そうだ、オネーサンの言う通りだ。
基本的に悪いことばかりを想像してしまう性格だから、余計に思い詰めてしまうことがある。
考えなくていいことまで考えて、それを悩みにしてしまう悪い癖だとも思う。
あれだけ楽しいことをして、大笑いした今でさえ、心の中に押し込んだはずの一番の悩みは消えないまま。
ずっと、頭の中をグルグルしている。
このままでいいのかなって。
こうして離れたままでいいのかなって。
「でもね、大丈夫だから。葵ちゃん」
「オネーサンの大丈夫は全然信用ならないし。何回聞いても、結局未来のことは教えてくれないし」
拗ねたように口を尖らせて、夜空を見上げた。
オネーサンは頑なに私のこれから先の未来について教えようとはしない。
私のこれからの楽しみを奪いたくないからという、意味不明な理由で。
「ねぇ、私のことちゃんと見て?」
「だから、見てるってば」
「私、ちゃんと笑ってるでしょ?大人になった中畑 葵は、ちゃんと笑えているでしょ?」
「……本当だ」
そうだ、確かにそうだ。
最初、彼女が『大人になった中畑葵』だと告げるまで、私はまったくの別人だと思っていた。
それくらい、オネーサンは眩しいくらいによく笑う人だった。
今の私とは、想像もつかないくらいに。
「(じゃあ、未来の私は……こんなふうに笑えるってこと?)」
そういう未来が待っている、ということなのかな。
グッと顔を覗き込むように視線を合わせてきた彼女は、きれいな弧を描くように口角を上げてまた微笑んだ。
「これから先ね、いろーんなことが待ってるよ!もちろん悲しいことも、つらいこともある。でもね、大切な人がいて、大事な友達がいつも近くにいてくれる。葵ちゃんは一人じゃないから」
「……」
「だから、これからも楽しんで」
「あれ、オネーサン?」
疲れているせいだろうか。
となりにいるはずの彼女が、少しずつ霞んで見える。
「自分が思うことに、正直になっていいんだからね」
「ちょっと、オネーサン!? 透けてるよ!?」
「キミがしたいと思うことに全力になって。それが例え、どんなに勇気がいることでも、ね」
「ねぇ、どうしちゃったの!?」
「大丈夫だから。大人になったキミが言うんだから、間違いないよ」
「……っ」
「じゃあね──……」
「オネーサン!」
オネーサンが、消えた。
となりのブランコは、微かにゆらゆらと揺れていた。