猫元組の事務所から帰る道は、あまり覚えていない。
 豆子は先を行く不破をただ、追っていた。
「不破、待って。速い」
 また深夜の零時頃だった。繁華街の中を、今度は速すぎる足取りの不破と歩いていた。
 不破に助けられたのは二度目だ。それなのに、彼は相変わらず金も体も要求してこない。
 豆子は今まで、対価をはっきり要求する男と付き合ってきた。見返りもなく自分に近づいてくる男は、かえって不審で信用できなかった。
 ぎらつくネオン、目立つホテルの数。不破は先ほどから考え事をしているようで、背を丸めて豆子の数歩先をさっさと歩いて行く。
 豆子はいらだったみたいに問いかける。
「私に何かしてほしいこととかないの?」
 素直な気持ちで礼を言いたいのに、そんな言い方しかできない自分が嫌だった。
 こういう私は、可愛くない。仕事なら腕に抱きついて甘えられるのに、気になる男にはまるで素直になれない。
 何か言ってよ。たとえば私を幻滅させるようなことを。
 そんな願いをこめて、不破の背中をみつめたときだった。
 不破は足を止めて、中途半端に振り向いた。
「お前、さ」
 口を開いて彼が放った一言が、豆子の心に刺さる。
「いくら要るんだよ?」
「え?」
 一瞬、何を言われたのか信じられなかった。
 不破は眉を寄せて言ってくる。
「何か目的があって夜の世界で働いてるんだろ。足を洗うのにいくらかかる? ……金なら出してやるから、お前、もうこの世界やめろ」
 見返りなく与えてくれるなんてありえない。それを、不破の側から投げ返されたような気分だった。
 そんな風に見られていたのか。体が熱くなって、豆子は叫んでいた。
「私はそんな安い女じゃない!」
 自分だって不破をそういう安さで片付けようとしたのに、怒るなんて身勝手だろう。そう思うのに、体が爆発するような怒りのままに言葉を吐きだす。
「金を目当てに近づいてくる愛人連中と一緒にするな! 私が金を稼いでるのは大学に行くためだ! 勉強して、お金も地位も手に入れて、側にいてくれた親戚や友達が困ったときに助けられる人間になるんだ!」
 豆子の周りには打算に満ちた人たちがたくさんいた。でもそんなことは構わない。その心にあるのが打算だろうと世間体だろうと、側にいて豆子を守ってくれた。
 不破はうろたえたように瞳を揺らす。豆子の目から涙が溢れたから。
 豆子は涙でにじんだ声で叫ぶ。
「誰があんたの愛人の一人になんかなるもんか!」
「豆子!」
 豆子は背を向けて走り出す。けれど短いスカートでは走りにくい。すぐに不破に追いつかれて肩を掴まれる。
「すまん! そういうつもりじゃ」
 豆子は顔を背けて、首を横に振る。
 好きなんだ。豆子は喉元まで上がってくる言葉を飲み込む。
 愛人でもいいから不破の側にいたいと、弱い自分が言ってしまいそうになるから。
 豆子は考える時間を作らないようにしながら言った。
「……もう顔も見たくない。さよなら」
 そう吐き捨てるように告げて、豆子は不破の手を振り払った。





 まもなく新しい店長が猫元組からやって来てキャバクラは再開されたが、豆子は店をやめた。
 不破の言うことを聞いたつもりはない。ただ店で働いていると、また不破に会ってしまいそうで嫌だったからだ。
 今更合わせる顔はない。けど不破がどうしてるかは気になった。
 不破は豆子を助けてくれた。いろんな情報やコネを使って、自ら組事務所に赴いて交渉までしてくれたのに、豆子はお礼もきちんと言っていない。
 気まぐれといえば嘘になるくらい、何度か不破のシマに行ってみた。それとなく、その辺りで働いている友達に不破のことを訊いてみた。
 友達の答えは大体決まっていて、豆子の望むような情報は少なかった。
「そういえば最近見かけないわね。まあ元々あんまり水商売に関わりたがらない人だけど」
 誰に訊いてもそんな調子で、猫元組の組長も言った通り、不破は確かに表に出たがらない男でもあるようだった。
 豆子は短期バイトで食いつないでいた。いっそまたコンパニオンとして宴会にでも入り込んでやろうかと思ったが、何となく不破のしかめ面が思い浮かんでやめた。
 友達に聞きまわったので、収穫なら多少はあった。不破が若頭補佐を務めているところは白鳥組といって、高齢の組長に、二十歳になったばかりの一人息子の若頭がいる。不破はその若頭に代わって組を任されていて、大変忙しいらしい。
 体は大丈夫なんだろうか。貧弱な背中を思い出しながら、ティッシュ配りのバイトを終えて自宅のアパートに帰ったところだった。
 暮れゆく太陽が、一階建てのボロいアパートを照らしていた。そこに見慣れない黒い高級車が停まっていた。
 豆子がそれを避けて自室に向かおうとすると、後部座席から誰か降りる。豆子は視界の隅にその姿を見て、おやっと思った。
 車から降りてきたその人は丁寧な仕草で会釈をして言う。
「こんにちは、豆子さん」
 このボロアパートには似つかわしくない、上品な薄青の着物に身を包んだ青年だった。背はそれほど高くないが姿勢がよく、すらっとしていて、ほほえむ様が育ちの良さを思わせた。
 豆子は首を傾げて問いかける。
「私に用?」
「失礼。僕は直之と言います」
 豆子はその名前を最近聞いたことがあった。思わず目を瞬かせると、彼は豆子に告げる。
「白鳥組という組織の若頭を務めております。補佐の不破のことで、お願いがあって参りました」
 頭を下げてから顔を上げた彼は、困ったように笑っていた。
 数刻後、豆子はオフィス街のビルにいた。物陰で直之と一緒に待っていると、車が横付けされて不破が降りてくる。
 不破は忙しなく部下と言い交わしながら歩いていく。
「何か動きはあったか?」
「刈谷が寝返ったようです。うちにも影響があるかと」
「日野に人をよこして留めろ。若の身辺に危険が及ぶような事態にはするな」
 不破は、触れられない刃のように鋭く見えた。気弱そうだった表情はどこにもなく、荒んだ感じもあった。
 不破はあっという間にビルの中に消えてしまった。豆子と直之も後に続く。
 豆子は直之に続いてビルの十階に上って、オフィスフロアに入った。そこは以前不破から感じた緑の匂いがした。猫元組の事務所ほど広くはないが清潔で、行き来する組員たちもあまり荒っぽそうではない。
 直之は休憩所らしいブースの窓辺の席に着くなり、ため息をついて言った。
「最近、不破は寝る間もないんです」
 彼は豆子に目を移して訊ねる。
「龍守組の月岡さんはご存じですか?」
「うん。組を乗っ取って若頭になったって」
「ええ。その影響がうちにも及んでいるんです。主に悪い影響が」
 直之は窓から見える景色を指差しながら話す。
「うちの白鳥組は龍守組の傘下ですが、川向かいの虎林組の系列とも微妙な関係にあります」
 思えば豆子と不破が乗り込んだ猫元組は川向こうで、一応虎林組の傘下だった。だから不破は白鳥組の若頭補佐という立場を隠したのだろう。
 直之は困った様子で話を続ける。
「月岡さんが龍守組を乗っ取ったことは、虎林組に格好の文句のネタを与えてしまいましてね。筋が違う人間にトップを任せて黙っているつもりかと。それで虎林組の組員が川のこちら側に流れ込んでいます。つまり、白鳥組のシマを荒らしていまして」
 上流階級の匂いのする直之の口からシマという言葉が出るのは不思議な気分だった。けれどまぎれもなく彼もその筋の人間なのだ。彼の目つきも、よく見れば決して優しくはなかった。
「不破は決断しないといけないんです。月岡さんに味方するか、切り捨てるか」
「それは……」
 豆子は不破が月岡を見ていたときの懐かしそうなまなざしを思い出す。
「不破は月岡さんの幼馴染ですから。本当は月岡さんの味方をしたいんだと思います。でも不破の立場で表立って月岡さんの味方をしたら、うちみたいな小さな組は潰されてしまうかもしれないんです。……僕は」
 直之は言いよどんでから、そっと切り出す。
「もう十分頑張ったじゃないかと不破に言いたい。元々、うちの組は僕の父の代で終わりだと囁かれていました。不破が色々改革して巻き返したから、今もどうにかなっているだけです。不破は、若が一人で動かせるようになるまではと言ってずっと僕を助けてくれてますけど……不破を欲しがっているところなんて山ほどあって、うちで肩身の狭い思いをする必要なんてないんです」
 豆子は少し考えて、彼の目を見返す。
「違う」
 豆子はきっぱりと首を横に振って言った。
「そういうの、不破に失礼だ。不破は直之の話をするとき、「自慢の若」って何度も言ってた」
 直之は驚いたように目を瞬かせる。
 豆子は宴会のとき、不破がぽつぽつと話したことを思い返しながら言う。
「「とても感性が鋭い」、「いつも下の者を気遣ってくれる」、「親父さんによく似てきた」って。不破が迷ってるのは、月岡さんも組も、直之も大事だからだよ」
 ぐいと直之の肩を揺らして、豆子は強く告げた。
「迷っても放り投げちゃだめ。……迷うのは大事だけど、考えなきゃだめ。私も考えるから、直之も考えてみて」
 ふいに直之は優しく笑った。
 豆子が首を傾げると、直之はため息をつくように言葉を重ねる。
「……さすがは、不破が組を捨てかけただけのことはありますね」
「え?」
 直之は思い返すように目を上げて言った。
「一週間くらい前でしたか。深夜、不破から慌てた様子で連絡があったんです。「訳あって猫元組ともめるかもしれません。失敗したら、俺は切り捨てて新しい若頭補佐をみつけてください」って」
 驚く豆子に、直之は面白そうに目を細める。
「不破があんな無責任なことを言ったのは初めてでしたよ。結局戻っては来たんですけど、それから不破らしくないミスばかりして、珍しくも僕に泣き事を零すんです。「俺は最低な男です」って」
 変な顔をした豆子を見て、直之はくすくすと笑って続ける。
「そんなこと言われたって、事情もわからない僕にはさっぱりですよ。調べてみたら、豆子さんという女性に振られたようで。不破も普通の男だったのだなと、妙に感心しました」
 不破、私のことを気にしてくれてたんだ。それを聞いて、豆子はくすぐったさに叫び出しそうだった。
 今すぐ不破にその気持ちを言いたいとも思ったけど、どうしたらいいのかも迷う。
 直之はころころと表情を変えた豆子を見て一息つくと、うなずいて言う。
「ありがとう、豆子さん。あなたに不破を宥めてもらおうかと思ってお呼びしましたが、甘えが過ぎたようです。僕なりに不破と組を支えてみせます」
「……うん」
 豆子は笑って、この頼もしい若頭を見上げた。
「私もちょっと元気出た。私も自分なりに、できることをしてみる」
 豆子は暮れ行く今日の明日にしたいことを思い描いて、まだ何にも終わってないのだと思った。



 その日から、豆子は白鳥組のオフィスビルで清掃員として働き始めた。
 不破は忙しそうでろくに周りを見ていないし、豆子も自分に気づいてもらおうとは思っていない。時々直之は豆子にあいさつをしてくれたが、豆子は遠目に不破の様子を見守っていた。
 不破は大体自分の部屋にこもって仕事をしていて、豆子はその部屋の清掃は任されていないから面と向かう機会はないはずだった。
「わ」
 ところがある日休憩室のブースに入ったら、不破がテーブルに突っ伏して眠っていた。
「危ないなぁ……ここ、誰でも入れちゃうのに」
 不破は疲れ果てているのか、豆子が近寄っても起きる気配はない。直之から聞いていて、不破は相変わらず昼も夜もない生活だそうだ。
 普段見かける不破はいつも怖い顔をしているが、さすがに眠っている間はその張りつめた空気が緩んでいた。撫でつけた前髪も下りていて幼く見える。
 豆子はしばらく立ったまま不破の寝顔をみつめていた。
 ふいに不破がぼそりと言う。
「……すまん」
 その声を聞いて、豆子は不破を起こしてしまったのかと焦った。
 でも不破の目は閉じられたままで、しばらくすると寝息が聞こえてくる。
「すまん……」
 不破はまた謝る。顔をしかめて、うめくように。
 誰に謝っているのだろう。月岡だろうか、それとも他の誰かに?
 ただその表情は見覚えがあった。豆子が不破の手を振り払った、あの瞬間と同じ。
 今にも泣き出しそうで、かける言葉がわからず苦しんでいる顔だった。
 もし、もし私に謝ろうとしてるのなら。豆子はぽつりとつぶやく。
「……私こそごめん」
 そっと頭を撫でて、豆子は名残惜しい思いを押し殺してその場を後にした。
 何日かして直之と会う機会があったので、豆子は思ったことを告げた。
「不破は寂しいんじゃないかな」
 多少抵抗はあったけど、豆子はその質問を決行する。
「不破って愛人はいる?」
「いいえ。どうしたんです、いきなり」
「不破には側にいてくれる女の子が必要だよ」
 驚く直之に、豆子は切り出した。
「以前私が呼ばれたような、持ち帰り前提みたいな宴会って開けない?」
 直之はちょっと怖い顔をして豆子を叱った。
「豆子さん。怒りますよ」
 彼は指を立てて、妹に諭すように説明する。
「不破をどういう男だと思っていらっしゃるんですか。確かに僕らの仕事は後ろ暗いところがありますけど、不破は真面目で誠実です」
 直之は豆子にぴしゃりと言い切った。
「一度ちゃんと不破と付き合ってください。そうしたらわかりますから」
 直之は結構怒っていたようで、それ以降豆子が女の話を持ち出すことは許さなかった。
 そうはいってもと、豆子は思う。誰かに甘えたいときってあるんじゃないかな。
 豆子は自分と違う人間、特に男の人に心の内を明かすのは好きじゃない。でも体は別のときがある。自分じゃない誰かと触れ合いたいときがある。
 豆子はずっと、その願望は自分が幼い頃に両親を失ったからだと思っていた。家族のぬくもりを覚えていないから、それが甘えとなって出てくるのだと自分に苛立った。
 けれど最近、バイトの合間や買い物の帰り道、朝起きたときの何気ない瞬間に思う。不破に触れたいな、と。
 後ろからぎゅっと抱きしめたら、不破はどんな顔をするんだろう。迷惑そうな顔をするだろうか。少し丸まった背中を見るたびいつもやってみたい衝動に駆られた。
 そんなことをもやもや考えている内に、不破と最初に会ってから二月が経とうとしていた。
 ある日、直之と白鳥組のビルの外で待ち合わせて、そこで彼に見せられたものがあった。
「豆子さんに見てもらいたいものがあるんです」
 それは一枚の写真だった。線の細い女性が椅子にかけて、その横に涼しげだが鋭い目をした青年が立っている。女性の左手の薬指には豪奢なダイヤの指輪がはまり、その彼女の手をカメラに示すようにして青年が手に取っていた。
「この男の人、月岡さんだ」
「ええ。龍守組の月岡さんが婚約されたそうなんです」
「この女の子は?」
 豆子が訊ねると、直之は神妙に答えた。
「この女性は龍守組のお嬢さんです。月岡さんは組を手に入れた証に、彼女も強引に妻にしてしまうつもりらしくて」
「何それ、ひどいよ」
 豆子は華奢で儚げな、少女のような女性を見て言う。
 こんな二十歳にもならないあどけない女の子を組とか自分の立場のために踏みにじるなんて、許されないと思った。
 直之はふいにぽつりと言った。
「……でも不破はこれを見たとき、すごくほっとした顔をしてたんです」
 豆子は訝しげに問い返す。
「なんで?」
 直之は写真に写るもう一人の人物を指差した。月岡と女性の肩に手を置いて優しげな微笑みを浮かべた白ひげの老人だ。
 豆子は目を細めて言う。
「この人、猫元組の組長さんだね?」
「はい。でも実はこの方は、虎林組の幹部でもあるんですよ」
 直之も鋭い目をして写真をみつめる。
「虎林組の幹部は、月岡さんが龍守組を継ぐのを認めているということです」
「ええと、うーん……」
 豆子は頭をひねって考えると、どうにか言葉を紡ぐ。
「要するに、不破が月岡さんの味方をしても虎林組は文句つけてこないってこと?」
 直之は正解というようにほほえむ。
「はい」
「でもこの女の子がかわいそうだよ。月岡さん、ひどくない?」
 豆子の中にある、女の子への同情が膨らむ。女の子、特に自分より弱い子は何としても守らないといけない。それは長い間豆子の柱になっている感情だった。
 直之の目に面白そうな光が宿る。
「そこなんですが、不破に直接問い詰めてみませんか?」
「え?」
 豆子は思いもよらなかったことを言われて、目を瞬かせる。
 直之はなお豆子に言い募る。
「どうしてそんな卑怯な男の味方をするのかって、不破に怒ってみればいいんです。豆子さんは許せないでしょう?」
 豆子は憮然として、疑わしそうな目で直之を見上げる。
「そりゃ文句はつけたいけど……直之、面白がってない?」
 直之は優雅に口の端を上げて笑ってみせた。
「気のせいでは?」
 この人、将来絶対やり手になる。豆子は確信した。
 結局直之はのらりくらりと豆子の追及をかわして、数刻後に豆子は直之と共に白鳥組のビルのエレベーターに乗っていた。
 勢いで文句をつけに行くことになったけど、どんな顔をして不破に会おう。
 もしかして私のことなんて忘れているんじゃないか。そんな不安もよぎる。
 豆子が忙しなくガラスの向こうを見やっていた、そんなときだった。
 ふいに異様な音が響いた。
 直之が窓ガラスごしに下を見て顔をしかめる。
「……来たか」
 豆子も信じられない光景を見て、豆子も目を見開いた。
 ビルの最下層に、火炎瓶が放り込まれていた。