一章
「……ここ、どこ?」
先程まで屋敷で寝ていたはずなのに、柚子が目を開けると、真っ暗な場所で立ち尽くしていた。
空にはまん丸に光る満月が見えることから、今いる場所が外であることが分かる。
やけに足下が冷たいなと思ったら、靴は履いておらず裸足だった。
着ている服もパジャマのまま。寝ていたその時の格好でいる。
「え……、どういうこと?」
夢かと思ったが、裸足の足の裏から伝わってくる土や小石の感触が、夢でないと教えてくれる。
もし夢だとしたら、とんでもなくリアルだ。
「え? え……?」
柚子はわけが分からず混乱するばかり。
「玲夜ー!」
助けを求めるように最愛の人の名前を呼ぶが、姿どころか返事もない。
ただひとり、柚子だけがぽつんと残されていた。
「誰もいない……」
周囲を見渡しても真っ暗でよく見えず、灯りも人の気配もしない。
寝ぼけて庭に出てきてしまったのかとも思ったが、屋敷の敷地内だったら暗くても分かりそうなものだ。
それに、あれだけ叫んだのだから、玲夜でなくとも屋敷の誰かが飛んでくるだろうに、その様子もない。
ここはいったいどこなのだろうか。
心細さと恐怖心が柚子を襲う。
誰でもいいからいないのか。
立ち尽くす柚子は、ここで誰か来るのを待つべきか、移動すべきか迷った。
場所も分からずむやみに動き回るのは危険ではないかと思うが、このままじっとしていても変わらないと、意を決して足を踏み出した。
その時……。
「アオーン」
聞き慣れた特徴のある鳴き声に、柚子ははっとする。
周囲に目をこらすと、暗闇の中にぽつんと佇むまろの姿を見つける。
黒猫だというのに、なぜかこの暗闇の中でもまろをしっかりと認識できた。
まるでまろ自身が光を発しているかのように、闇に溶けることなく存在を主張している。
「まろ」
見知った存在が現れ、わずかな安堵を浮かべる柚子は、まろに近づこうとするも、まろは柚子に背を向けて走り出してしまう。
「あっ!」
柚子は慌ててまろを追いかける。
靴を履いていないために、足の裏が少々痛んだが、気にしている場合ではなかった。
まろはまるで柚子が追いかけてくるのを待つように、時々後ろを振り返り柚子が来ていることを確認しながら走っていく。
その様子はまるで誘導されているかのよう。
置いて行かれることはなさそうだと感じた柚子は、少し心の余裕が出てきた。
そして気付く。
この場に流れる清浄な空気に。
これは何度か経験した覚えのある感覚だ。
撫子の屋敷と、一龍斎の元屋敷で流れていた空気感。
汚れた物が排除されたような神聖な雰囲気。
「もしかして、ここって一龍斎の元屋敷?」
柚子が撫子の屋敷ではなく一龍斎の元屋敷と思ったのはただの勘だ。
言葉では伝えることのできないふたつの屋敷に流れる空気の違いを、柚子はなんとなく分かるようになっていた。
それは社に参るために、幾度となく一龍斎の元屋敷に来ていたからかもしれない。
そうしていると、柚子も見覚えのある場所まできた。
そこは社へと続く道のりだ。
柚子のなかにあった不確かなものが確信へと変わる。
「やっぱりここ、お社のある場所……」
見知らぬ場所でなかったと少し安心したものの、何故自分はここにいるのか疑問が浮かぶ。
いくら寝ぼけて来てしまったとしても限度があるだろう。
寝る時は玲夜が隣にいるし、屋敷を出るまでに誰かに気付かれて止められるはず。
玲夜の屋敷からここまでそれなりの距離があるというのに、誰にも気づかれなかったというのか。
道を示すようにザアッと草木が避け、社までの道が作られる。
「アオーン」
まろは柚子を見上げ、その道を先導するように歩く。
柚子がなかなか一歩を踏み出せずにいると、再び「アオーン」と鳴いてうながすまろに後押しされ、柚子は歩き出した。
社があることを示す鳥居までたどり着くと、そこにはみるくがいた。
「にゃーん」
柚子の足にスリスリと甘えるように体を擦りつけるみるく。
足を止めてみるくの頭を撫でると、横から少し強めの声でまろが「アオーン」と鳴いた。
叱られたようにびくっとするみるくは、慌ててまろのそばまで走った。
そして、二匹は柚子を見つめてから、社の方へと視線を移す。
つられて柚子も社の方を向けば、社が淡く光っているように見えた。
目の錯覚かと思ったが、どうやら違う。
驚くというより唖然とする柚子にその声は聞こえてきた。
『おいで……』
「えっ?」
『こちらへ……』
社から聞こえてくる不思議な声に、柚子は囚われたように意識が外せず、誘われるようにふらふらと社へと足が向いた。
社の前までたどり着くと、社は満月の光を浴びて神秘的に淡く光る。
その姿は本家にあったサクが眠る桜を連想させた。
今はもう普通の桜になってしまったけれど。
そんなことを考えていると、柚子の目の前をピンク色の花びらがヒラヒラと横切ったのだ。
はっとして見回せば、社の周囲にあった木々が一面の桜に覆い尽くされていた。
風が吹くたびに桜の花びらが舞う。
まるで柚子の訪れを歓迎するかのようにヒラヒラと。
「綺麗……」
今の状況も忘れて桜に魅入っていると、再び社から声がした。
『ゆず……』
驚くのも疲れてきた柚子が桜から社へ目を向けると、一層強く吹いた風により桜の花びらが舞い、社の前に集まっていく。
まるで桜の化身と見まごうほどに集まった桜が人の形を取っていった。
ふわりとその場に現れたのは、絹糸のような長い髪の美しい男性だ。
月の光が彼の白い髪に当たり、キラキラと輝いている。
それだけでも幻想的なのに、彼の容姿もまた、玲夜に負けないぐらい精巧で綺麗な顔をしていた。
柚子はこれまでに玲夜を超える美しい人に出会ったことがなかったので、声もなく見つめてしまう。
『私の神子』
男性は柚子を見ながらそう言うと、にこりと微笑んだ。
その破壊力たるや、玲夜を見慣れた柚子ですら、思わず頬を染めてしまうほどだった。
動かない柚子に向け、彼はもう一度言う。
『私の神子』
我に返った柚子は、困惑したようにする。
「私の神子って、私のことですか?」
問わずともこの場には柚子以外に人はいないのだが、『私の神子』などと他人に呼ばれる覚えはなかった。
けれど、男性は……。
『そうだよ。私の神子』
柔らかな表情で告げられる言葉に迷いは感じられない。
「私は神子じゃないです。確かに神子の素質はあるって龍が言うけれど、なにもできないので……」
『いいや。そなたは私の神子だよ』
考えを変えない男性に、柚子はそもそも誰なのかと疑問をぶつける。
「あなたは誰ですか?」
『私は神。人とあやかしをつなぐ神だよ、私の神子』
「神、様……?」
柚子は『私の神子』と呼ばれたことよりも驚き、目を大きくする。
『その昔、人とあやかしが崇めていた神が私だ。私の愛しいサクが神子として仕えてくれていたが、サクは一龍斎の欲により命を落としてしまった。サクがいなくなり休眠状態を取った私だが、柚子が足しげく通い参ってくれたことで目を覚ました』
「えっ、えぇ?」
混乱状態に陥っている柚子は頭の整理が追いつかない。
まろにみるくに龍といった霊獣という不可思議な存在を目の当たりにしている柚子は、多少の不可思議なことには免疫があると思っていたが、今回は度が過ぎている。
ひととあやかしの神が目の前に現れるなんて、予想だにしていない。
「ほんとに神様……?」
柚子はいまだ信じられない様子でまじまじと、自分を神だと言う男性を見る。
信じ切れていない柚子の問いかけに対して、神は気分を害することもなく頷く。
『そうだ。眠りにつく中でも聞こえていたよ。柚子が来てくれた声を。だから私は柚子に会うためにこうして目覚めたんだ』
神は破顔一笑して『ありがとう、柚子』と言った。
お礼をされても柚子はただ言われるままに社へ参っただけで、なにかをしたつもりはない。
お礼を言われても逆に困ってしまう。
「本当に神様って信じていいんですか?」
まだ疑いの心が残る柚子はそう問うてしまう。
いいかげん怒られるかもと思ったが、神はクスクスと楽しそうに笑い声をあげる。
なにがそんなに笑うことがあるのだろうか。
『柚子は疑い深いな。まあ、信じやすいよりはマシか。サクは人の悪意には鈍感だった。だからこそ悲しい結末を送ってしまって……』
その瞬間、空気が変わる。そして神の目つきも鋭くなった。
『一龍斎……。私の神子を不幸に貶めた一族。奴らだけはその血が絶えるまで許しはせぬ』
怒った時の玲夜よりも強い威圧感に、柚子の顔が強張る。
すると、窘めるにまろが鳴いた。
「アオーン」
そうすれば、神は再び柔らかな表情に戻り、それと同時に圧迫感も消えたなくなった。
ほっとする柚子に、神は『すまない』と謝る。
「いえ、大丈夫です」
それにおかげで目の前の人物が普通の人でないことが分かった。
神かどうかは置いておいて、柚子ですら感じる圧倒するような畏怖は、玲夜ですら感じたことのないものだ。
神であると真実味が増したのは間違いない。
「撫子様がここにいたらどうなっていたかな」
この本社を見つけるや、高価な着物に土がつくのもかまわずにその場に平伏したほどだ。
本物の神が顕現したとなれば、取り乱すほど大喜びするかもしれない。
「あの、あなたが目覚めたってことは他の人にも話していいんですか? 教えたい人がいるんですが」
『孤雪家の当主だね』
「知ってるんですか?」
『休眠状態にあったとはいえ、外のことはこの子たちを通して知っている』
神が身をかがめると、近くに寄っていたまろとみるくの頭を撫でる。
『霊獣であるこの子たちは、私の眷属でもある』
「眷属?」
『まあ、簡単に言うと、私のお使いをしてくれる子たちということだ』
「なるほど」
だから柚子がここに参りに来ると、必ず姿を見せていたのか。
神が目覚めるのを待っていたのかもしれない。
『この子たちのおかげで、外の状況はある程度把握している。一龍斎が落ちぶれたことも、これまで柚子の身の回りに起きた出来事も』
「そうなんですか」
『一龍斎へは鬼と狐が制裁を与えたと知って胸がすく思いだったよ。最近の人間の言葉ではこう言うのだったか? ざまあって』
「あ、はは……」
まさか神からそんな言葉が出てくると思わなかった柚子は苦笑いをする。
『話を戻そうか。孤雪家の当主に私のことを話していいのかだったか。別にかまわない。孤雪家には分霊した社を与えていたし、ちゃんと管理されているようだ。私も当代の当主に会ってみたい』
「喜ばれると思います」
それはもうきっと大変な騒ぎになりそうだ。
「質問なんですが、私がここにいるのは、あなたが私を連れてきたんですか?」
そもそもの疑問だ。
自分の足で来た覚えがないのだから、目の前の御仁に連れてこられたと思うのが自然である。
神ならばそれぐらいしてしまえそうだ。
『ああ、そうだよ』
と、なんの悪気もなさそうに笑う神に、柚子はがっくりする。
『まだ休眠前の力は取り戻せていないが、柚子をここに連れてくるぐらいは造作もなかった。目が覚めて早く柚子に会いたかったからね』
ニコニコと本人は嬉しそうだが、柚子からしたら迷惑この上ない。
「あの、なぜ私なんですか?」
『言っただろう? 私の神子だと』
「でも、私は……」
違うと言おうとするも、神が手のひらを前に出し柚子の言葉を止める。
『私が決めた。だから柚子は私の神子だ』
「えー……」
なんたる傲岸不遜な行い。
神だから仕方ないのだろうか。
『それに柚子には頼みがあるんだ』
「頼みですか?」
『柚子も少し関わっていることだ』
「なんでしょうか?」
神から頼まれごとをされるような覚えは柚子にはないのだが。
『私が眠っている間に神器が悪用されているようなので、それを探し回収して持ってきてほしい』
「神器?」
柚子はこてんと首をかしげる。
『その昔、私は当時強い力を持ったあやかし三つの家にそれぞれ贈り物をした。鬼の鬼龍院には私の愛しい神子を、妖狐の孤雪家には分霊した社を』
「あ、撫子さんから聞いた話です」
けれど、最後の家の話はしてくれなかった。
『そして、最後の家、天狗の烏羽家にはあやかしの本能を消してしまう神器を与えた』
「あやかしの本能を消してしまうんですか?」
柚子は意味が分からないというように、困惑した顔をする。
『そう。あやかしは本能で花嫁を見つける。けれど、烏羽家に与えた神器は、その本能をあやかしから奪い去ることができてしまうんだ』
「本能が消えたらどうなってしまうんですか?」
『あやかしは花嫁を花嫁と認識しなくなる。花嫁であることに変わりはないが、花嫁と思わなくなるんだ』
「そんな……」
玲夜の花嫁である柚子にとってはとんでもない代物だ。
「どうしてそんなものを与えたんですか?」
少々語気が強くなってしまうのは仕方ない。
柚子にも大いに関係のあることなのだから。
しかも、この神は先程悪用されていると言っていたのでなおさらだ。
『もともと、その神器はサクのために作ったものなんだ』
「サクさん? でも、以前に龍から聞いた話だと、サクさんは鬼の花嫁になって仲睦まじかったと聞きました。神器なんて必要なかったのでは?」
『そこがすこーしややこしくってね』
神はやれやれというように微笑む。
『サクは神子。あやかしと人とをつなぐ私の神子だ。一龍斎の女は花嫁でなくともあやかしの伴侶になれると聞いた覚えがあるだろう?』
「あ、はい」
以前に一龍斎直系のミコトが話していたことで、柚子も知っている。
『昔、一龍斎がまともだった頃、一龍斎は人間とあやかしの仲立ちをする立場にあった。なぜなら一龍斎の先祖は神と人の子。それゆえに一龍斎には神の血がわずかながら流れている。だからこそ神を降ろす力を持ち、一龍斎の女は花嫁でなくともあやかしの伴侶になれる。まあ、それも代を経るごとに薄まり、今では神子の素質を持つのは柚子だけだろう』
「なるほど」
『サクは、鬼の花嫁であると同時に、天狗の花嫁でもあったのだよ』
「えっ!?」
これでもかというほど驚く柚子。
ふたりのあやかしの花嫁になるなんて……。
「そんなことがあり得るんですか?」
『一龍斎の血筋で神子の力を持ったサクならあり得るんだ。困ったことに』
昔を思い出しているのか、神はどこか遠くを見ながら話を続ける。
『サクは鬼と天狗の当主のふたりに花嫁として乞われ、サクは最終的に鬼の花嫁を選んだ。天狗の当主も、サクの決めたことならと手を引いたんだ。私はその健気な姿にほだされてしまって、彼には本能を消す神器を与えた。もしもサクが鬼の花嫁でいることが苦になったのなら、神器を使い、サクを助けだせと命じて』
「そんなことが……」
『その後、その神器が使われることはなかった。なにせ、サクは一龍斎に囚われ、連れ戻すことに成功しても、間もなく息を引き取ったから。天狗の当主はひどくサクの旦那を罵っていたよ。サクを守り切れなかったことを怒って。まあ、それは私も同じ気持ちだったが、サクを守れなかったのは私もだ。できたのはこの子たちを遣わすことだけ』
そう言って、神はまろとみるくに視線を落とす。
柚子の知らない当時の話に胸が苦しくなるような気持ちになる。
『それからだ。鬼と天狗の仲が悪くなってしまったのは。それは今も続いていると聞く』
「そうなんですか?」
『ああ。けれど、仕方のないことだ。それだけ天狗の当主は、サクの幸せをなにより願っていた証拠なんだから。サクを守れなかった鬼への怒りが勝り、鬼への恨みへと変わった』
「…………」
鬼と天狗の仲が悪いことは、かくりよ学園に通っていた時に講義で習ったので知っていたが、その理由までは聞かされていなかった。
もしかしたら玲夜ですら知らない話なのではないだろうか。
サクが桜の木の下に眠っていたことも玲夜どころか千夜も知らなかったのだから。
『サクの旦那とてサクを失い悲しんだのだが、それを分かっていてなお、天狗の当主は割り切れなかったんだろう。あの悲劇はたくさんの者が傷を負う結果になってしまった』
神からはやるせなさがうかがえる。
『もしサクが天狗を選んでいたら……いや、今さら意味はないか。“もしも”を考えても……』
まろとみるくは落ち込んだように顔を俯かせており、自然と空気が重くなる。
柚子は話を変えることにした。
「その神器を探してくれとはどういうことですか? その烏羽家の人が持っているんじゃないんですか?」
『神器は今、烏羽家にはない』
そう、神は断言した。
眠っていてなぜ分かるのか知らないが、まろとみるくからの情報だろうか。
「先程悪用されているっておっしゃいましたよね?」
『そう。少し前に柚子の知人をつけ狙っていたあやかしがいただろう?』
すぐに思い浮かんだのは、学友でもある芽衣と、芽衣を花嫁だと言ってしつこくストーカーしていた風臣だ。
花嫁だと固執し、散々嫌がらせをしてでも手に入れようとしていたのに、最後は呆気ないほどあっさりと身を引いた。
芽衣が花嫁であるのを間違っていたと言ったらしいが、そんな間違いを起こすはずがないと玲夜が不思議がっていたものだ。
再度、なぜそんな出来事を神が詳細に知っているのだろうかという疑問が浮かぶも、愚問だろうか。
風臣のことを考えて、柚子ははっとする。
「あの人が突然花嫁だったのは間違いだって興味を失ったのは、その神器のせい……?」
確信があるわけではなかったが、ひとり言のようにつぶやかれた言葉を、神は肯定する。
『その可能性が高いと私は思っている。そうでなければ、あやかしが花嫁を間違うなんて起こりえない。それは花嫁という存在を作り、人とあやかしをつないだ私が誰よりもよく分かっている』
「神器はどこにあるんですか?」
『それは分からない。分かっているのは、神器は今、烏羽のもとにはないということだけ』
曖昧すぎる。
それだけの情報で柚子に探せとは、なんという無茶ぶり。
そもそも、悪用されたという考え方からして柚子と相違があるように感じる。
「悪用と言いますけど、私の友人はあやかしに花嫁と認識されて困っていました。興味を失ったのが神器が使われたおかげだとしたら、悪用とは言えないんじゃないですか? 少なくとも、友人は助かってます」
『それはあくまで花嫁であることを望まない、花嫁側から見た価値観でしかない。突然本能を奪われてしまったあやかしからしたら、悪用ではないか?』
「それは……まあ……」
そういう言われ方をされると、柚子も否定できない。
『花嫁をこいねがうあやかしの本能は、私によって引き出されたもの。食欲や睡眠欲のように、生きる上でなくてはならないものとまでは言わない。だが、あったものを強制的に奪っては、あやかしにどんな影響を及ぼすか分からない』
「なおさら、どうしてそんなもの作ったんですか……」
じとっとした視線を向けてしまう柚子を誰が咎められよう。
『先程も言ったように、サクのためだ。サクが鬼の当主に三行半を突きつけた時に、あやかしの本能による執着がサクの幸せの邪魔になったら困る』
しれっと答える神。
どうやら人とあやかしをつなぐ神と言っても、思いの比重はサクに軍配があがるらしい。
『まったく、サクのために作った道具を悪用するなんて面倒なことをしてくれたものだ』
やれやれという様子の神だが、やれやれなのは後始末を押しつけられようとしている柚子の方である。
「神器が烏羽家にはないのは確かなんですか?」
『それは間違いない。私が探して来られればいいが、神は神だからこその制約がある。それに目覚めたばかりで動けない。だからどうか私の代わりに探してくれないか?』
捨てられた子犬のような眼差しで見られれば、柚子は喉まで出かかった拒否の言葉も止まってしまう。
明らかな面倒ごとに首を突っ込んだと知った時の玲夜の反応が怖いが、悩んだ末に柚子は頷く。
「分かりました。探し出せると断言できませんが、やれるだけのことはしてみます」
『ありがとう、柚子。私の愛しい神子』
桜が舞う中微笑む神は神々しく、それでいて幻想的で、ずっと見ていたい気持ちになる。
神はなんとも愛おしげに柚子を見るものだから、柚子は気恥ずかしくなる。
神は幾度も『私の神子』だったり『愛しい』と口にするが、それは玲夜が柚子に向けているものとはどこか違う。
たとえるなら、祖父が孫に向けるような種類の愛情といったらいいのだろうか。
だからこそ柚子も警戒心を持たずにのんびりしていられた。
けれど、なぜ神が柚子にそのような感情を向けてくるのか分からない。
今日会ったのが初めてのはずなのに、心の中に湧く安心感はどうしてだろうか。
とても懐かしく感じるのはなぜだろうか。
聞きたいのに聞くのが怖い。
言葉にできない感情を飲み込んで、柚子は神の眼差しを受け止めた。
やはり何度見ても美しい人だなと思いながら、柚子はこれからどうしたらいいのかを考える。
「……とりあえず、屋敷に帰って玲夜に相談しないと。……信じてくれるかな?」
うーむ、と柚子は難しい顔をする。
神に連れられて指令を受けたなどと突然言い出したら、柚子なら寝ぼけていたのかと疑うだろう。
なんと言えば玲夜は信じてくれるだろうか。
玲夜に信じてもらうためには、神自身に会わせるのが一番かもしれない。
そう思った柚子が神に視線を向けると、神の姿が桜の花びらとなって消えていこうとしていた。
「えっ、神様!?」
『時間のようだ。目覚めたばかりの私は、まだ長く顕現してはいられない。後のことは頼んだよ』
「アオーン」
「にゃう」
任せろというようにまろとみるくが鳴く。
『柚子。私の神子。気をつけるんだよ』
そう言い残して神は消えていった。
それと同時に、まるで夢幻かのごとく、周囲にあった桜の木が青々と茂る緑色の木に戻った。
「……夢、じゃないよね」
まるで狐につままれたような気分だが、手のひらに残った一枚の桜の花弁が、神の存在を教えてくれる。
「帰ろっか」
まろとみるくに向かって問いかけると、肯定するように二匹は柚子の足に擦り寄った。
「というか、どうやって帰ろう……」
神の存在すっかり忘れていたが、今の柚子は裸足にパジャマ姿のままだ。
空を見ればいつの間にか満月は見えなくなり、夜が明けようとしていた。
「早く帰らないと、玲夜が心配する」
いや、もう手遅れかもしれない。
「連れてきたなら送り返してくれればいいのに」
思わずそんな恨み言を口にしてしまう柚子は、一度社を振り返ってから、一龍斎の屋敷を後にした。
裸足なので足の裏を怪我しないよう慎重に歩きながら一龍斎の屋敷を出ると、タイミングよくタクシーを発見する。
手を上げてタクシーを止めて乗り込めば、タクシーの運転手に驚いた顔をされた。
パジャマに裸足という柚子の今の姿を見れば当然だろう。普通に事件性を感じてもおかしくない。
「お嬢さん、大丈夫かい? そんな姿でこんな時間にいったい……。警察へ行く方がいいかな?」
ひどく心配して優しく語りかけてくれる運転手に申し訳なくなりながら、まろとみるくも一緒に乗れるか聞こうと二匹を振り返れば、忽然と姿を消していた。
いったんタクシーから降りて周囲を見回すが、やはりまろとみるくの姿は見つけられなかった。
「お嬢さん、どうする? 乗るのかい?」
「はい。お願いします」
まろとみるくが神出鬼没なのはいつものことなので、大丈夫だろうと探すのを早々にあきらめた。
「すみません、運転手さん。こんな状態なので今はお金を持ってないんです。でもちゃんとお金は払いますので乗せてもらえますか?」
目的地に着いたら必ず払うからと再度念を押し、それでもいいか問うと「全然かまわないよ」と、快く了承してくれた。
断られても無理もない状況なのによかったとほっとする柚子は、ありがたく思いながら屋敷の住所を伝えると、タクシーが動き出す。
着くまでの間、タクシーの運転手は柚子を気遣うように話しかけてくれる。
相当心配させてしまっているようだ。
いい人に当たったことを感謝しながら、運転手と他愛もない話をしていれば、すぐに屋敷に到着した。
すると、なにやら屋敷を慌ただしく人が出入りしているではないか。
恐れていた事態を察した柚子は顔色が悪い。
屋敷の門の前に横付けされたタクシーから柚子が出てくると、使用人たちが驚きと安堵が入り交じった様子で柚子をあっという間に取り囲む。
「奥様!」
「よかったです!」
「心配いたしましたよ!」
「ご無事ですか!? そんなお姿でどこにいってらしたのですか!」
口々に心配する言葉をかけられ、柚子はなんと説明しようか迷う。
しかし、その前にやることがある。
「あの、タクシーでここまで連れてきてもらったけどお金がなくて……。先に支払をお願いしていいですか?」
「承知しました。そちらは私が対応しておきますので、奥様は早く玲夜様の下へ」
雪乃が誰より早く反応を返してくれる。
「玲夜、怒ってる?」
ビクビクしながら反応をうかがう柚子に、雪乃は困った顔をする。
「お怒りというより心配されております。かなり取り乱しておられますので、ご無事な姿を見せて安心させてあげてくださいませ」
「はい……」
タクシーを雪乃に任せ、柚子は急ぎ屋敷の中へ入る。
そのまま走って玲夜のところへ向かいたいところだが、足の裏が汚れきっているので、用意してもらった濡れたタオルを使い玄関で足を拭っていると、ドタドタと慌ただしい足音が近付いてきた。
「柚子!」
誰かが玲夜に柚子の帰還を知らせたのだろう。
玲夜の顔には余裕がなく、狼狽した様子で駆けてくる。
「玲夜」
足を拭くため玄関の段差に座っていた柚子が立ち上がると、勢いを殺さぬまま近付いてきた玲夜が柚子を抱きしめる。
「いったいどこに行っていたんだ!」
「玲夜……。ごめんね」
困ったように眉を下げる柚子は、玲夜抱きしめ返す。
すると、どこからともなく「アオーン」と鳴いて、まろが姿を見せた。
その後ろからみるくも来ると、柚子の足に体を擦りつける。
いったい、いつの間に帰っていたのか。本当に神出鬼没な猫たちである。
「目を覚ましたらいなくなっていたんだ。どれだけ心配したと思ってるんだ」
やや柚子を責めるような声色になっているのは仕方がない。
柚子が逆の立場でも玲夜のような言い方になっただろう。
しかし、自分の意思とは関係なしに無理やり呼び出された柚子としては、理不尽さを感じてしまう。
「そう言われても、私も好きでいなくなったわけじゃないのよ?」
「どういう意味だ? いや、その前にどうやって抜け出した? 俺が気付かないはずがないのに」
この屋敷には玲夜の霊力によって結界が張られている。
玲夜のテリトリーであるこの屋敷内において、玲夜が分からないことなんてない。
ましてや、同じ寝室、同じベッドで眠る柚子が部屋から出ていくのを気付かぬほど、鈍い玲夜ではないだろう。
それにもかかわらず、柚子は玲夜の手から跡形もなく消え失せた。
どうやっていなくなったか分からないからこそ、屋敷内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっている。
柚子はどう説明しようかと考えを巡らせる。
「えっとね、神様が目を覚ましてね、神様が私を社まで移動させたの」
頭に浮かんだ言葉を思い浮かんだままに口にしてから後悔する。
こんな突拍子もない話をストレートに伝えすぎたと。
現に玲夜は難しい顔をしており、まったく柚子の言葉を信じているようには見えない。
「柚子、冗談を言ってる場合じゃないんだ。柚子がいなくなって、本家も動いてる」
「えっ!?」
本家ということは千夜たちも柚子を探しているのか。
柚子ひとりのために、本家にまで迷惑がかかっているとは思わず、柚子は内心で大いに慌てた。
突然呼び出した神に恨み言を言いたくなる。
どうせなら玲夜も一緒に呼び出すとか、配慮をしてほしかった。
そうすればここまでの騒ぎにはならなかっただろうに。
しかし、神に人の都合を考えろというのは無理があるだろうか。
「本家には柚子が見つかったと報告はしたが、後日説明に向かわないとならないな……」
やや面倒臭そうにする玲夜に、柚子は頭を抱える。
自分のせいで玲夜が困っているのだから、知らぬ顔はできない。
いや、自分のせいか?と、柚子は思い返していると、声が聞こえた。
「あーい」
「あいあーい」
聞き慣れた声に視線を向ければ、子鬼たちがトテトテと走ってくるのが見えた。
子鬼たちは、ぴょんと柚子の服に飛びつき、よじ登って肩に落ち着く。
「柚子、よかったー」
「よかった、よかったー」
万歳をして喜ぶ子鬼たちに柚子は頬が緩んだが、玲夜に視線を戻して笑みも消える。
玲夜は、どうしたものかと考えている顔をしていた。
本家へどう言い訳しようか悩んでいるのだろうか。
「玲夜、本当なの。本当に神様に呼び出されたの」
「…………」
嘘ではないと必死になって伝えるも、玲夜からすぐに反応は返ってこなかった。
玲夜は柚子を信じたい気持ちと相反する気持ちとで葛藤しているように見えた。
「……話は後にしよう。先に服を着替えてきた方がいいな。……それに風呂も」
そう言って玲夜は、柚子の頭についていた葉っぱを取る。
「あっ……」
おそらく社へ続く道を歩いた時にでもついたのかもしれない。
着ているパジャマも裾が汚れ、拭いたとは言え裸足で歩いた足の裏は薄汚れてしまっている。
とりあえず、急いでシャワーを浴びてから服に着替えると、髪を乾かす時間も惜しいとばかりに半乾き状態で玲夜の部屋に向かう。
その頃にはもうすっかり朝になっていた。
部屋に入ると、玲夜はどこかに電話していたようで、スマホを耳に当てながら一度柚子に目を向けて会話を再開する。
柚子は邪魔にならないように静かにソファーに座って待つことにした。
時折玲夜から、「父さん」とか「これから聞く」とかいう言葉が聞こえるので、もしかしたら電話の向こうにいるのは千夜かもしれない。
玲夜が電話をしている間、柚子は夢のような神との邂逅をどのように説明しようかと考えていた。
しばらくして、電話を終えた玲夜が柚子の隣に座る。
おそるおそる目を向ける柚子を、玲夜は横から抱きしめる。
されるがままになっている柚子は、玲夜が怒っていないかと不安だった。
しばらくその状態でいると、深いため息が玲夜から漏れる。
顔を上げた玲夜は、いつものような優しい笑みを浮かべていた。
「玲夜、怒ってる?」
「怒ってはいない。ただ、心配しただけだ。目を覚ましたら腕に抱いていたはずの柚子がいないんだからな。屋敷のどこにもいなくて、誰もその姿を見ていない。忽然と姿が消えて、それはもう焦ったさ」
「ごめんね……」
どう考えても勝手に呼び出した神が悪いとしか思えないが、柚子は自分が悪いような気になってきた。
「柚子が無事ならそれでいい。怪我はないんだな?」
「うん。私は大丈夫。心配させてごめんなさい」
「もう気にするな」
そう言って玲夜は柚子野頭を優しく撫でる。
「けれど、どうやって屋敷を抜け出して、どこに行っていたかは教えてくれ」
「うん。信じてくれないかもしれないけど……」
柚子は自分の身に起こった夢のような出来事を話した。
目が覚めると一龍斎の元屋敷にいたこと。
そこでの神との邂逅。
神からの頼み事。
柚子が覚えている限りできるだけ詳細に説明した。
玲夜はずっと静かに耳をかたむけてくれ、茶化すこともありえないと否定することもなく、最後まで話を聞いていた。
順序立ててなんとか話し終えた柚子は、ふうっと息をつく。
一気に話して少し疲れてしまった。
話せることは話したが、玲夜の反応は半信半疑というところだろうか。
玲夜も判断に困って眉間にしわが寄っている。
「神……。霊獣のような存在がいるんだからおかしなことではないと思うが、やはり信じがたいな。神と実際に会って話をしたなんて」
「だよね……」
当然の反応だと、柚子も困ったように眉を下げる。
肩を落とす柚子をどう思ったか知らないが、玲夜がすぐさまフォローを入れる。
「柚子が信じられないというわけじゃない」
玲夜は優しく柚子の頬を撫でた。
「うん。分かってる」
信じられないのは仕方がない。
今思い返してみても、あの幻想的な光景は頭から離れず、夢うつつのことのように感じるのだから。
「まろとみるくが話せたら証言してくれるんだけどなぁ」
まろとみるくの姿はこの場にはない。
今頃雪乃からご飯をもらってる時間である。
腹時計が正確なあの二匹は、毎日ちゃんと同じ時間にご飯を催促に来るのだ。
子鬼もまろとみるくについていったので、ここにはいなかった。
「父さんが納得してくれればいいんだが」
「難しい?」
「正直俺も半信半疑だからな」
『柚子の話だけでは不足なら、我と妖狐の当主がお墨付きを与えれば納得するのではないか?』
横から話に入ってきたのは、ずっと姿が見えなかった龍である。
すうっと窓から部屋に入ってきた龍は、柚子と玲夜の前にあるテーブルの上で止まる。
「どこに行ってたの?」
『あの方の気配が強まったから、様子を見に行っていたのだ』
「あの方って神様のこと?」
『そうだ。柚子とは入れ違いになってしまったようだがな。しかし、確かにあの方の力を感じたよ。ようやくお目覚めになったようだ』
うにょうにょと体を動かす龍は、どこか嬉しそう。
すると、玲夜が少し前のめりになる。
「柚子の前に現れたというのは本当に神なのか? 柚子が騙されているということはないのか?」
なるほど、と柚子はその可能性があったことを失念していた。
神を知らない柚子が、神と名乗る者に騙されているのではないかと玲夜は心配していたのだ。
まろとみるくがいたために、深くは疑わなかった。
もちろん最初は疑惑の目で見ていたが、すんなりと受け入れていた。
騙されるなんて思いもしていない。
けれど、玲夜の心配をはねのけるように、龍は肯定する。
『その通り。柚子が社で会ったのは、間違いなく人とあやかしをつなぐ神である。その昔一龍斎が崇め、サクが神子として仕えていた方だ』
「なにか証明できるものはないのか?」
『神に神であることを証明しろとは無礼千万! あの方を知る我がちゃんと確認した。それこそがなににも代えがたい証明ではないか』
くわっと目を見開いて怒る龍の尻尾が、不機嫌そうにテーブルを叩く。
『だが、それでも足りないというなら妖狐の当主を連れてきてやろう。長らく分霊された社を守ってきた孤雪家の当主ならば、あの方の力の片鱗を感じ取れるであろうからな』
玲夜はしばらく考え込んでから、首を横に振った。
「いや、霊獣であるお前がそこまで言うなら事実なのだろう。信じがたいがな」
『今の世にあの方の姿を知る者は少ない。信じられないのも仕方がなかろうて』
先程は信じられない玲夜に無礼千万などと怒っていたのに、いったいどっちなのか。
なんにせよ、玲夜がようやく事態を受け入れてくれたのでなによりだ。
けれど、信じたら信じたで問題が発生する。
「神器、か……」
玲夜は顎に手を置いて考え込んでいる。
「その神が言っていることが本当なら、探さないわけにはいかないな」
あやかしの本能を奪ってしまうという道具。
『本当だと何度言わせるのだ。まったくしつこい奴め』
グチグチ言っている龍を無視して、玲夜は険しい顔をする。
「あやかしにとって……特に、花嫁を得ているあやかしにとっては大問題だ。なんでそんなものを作ったんだ」
『あの方はサクを大事にしておられたからなぁ。正直、サクと鬼の当主が惹かれあっておったのもちょっと面白くないと感じておられたから、ただ鬼の当主へ嫌がらせをしたかっただけであろう』
龍はうんうんと頷いている。
『あの方が神器を烏羽の当主に渡している時の鬼の当主は、なんとも言えぬ顔をしておった』
さらに龍は、『正直言うと我もちょっとスカッとした』などと昔を思い出しながらカッカッカッと笑う。
なんだかサクを花嫁にした鬼の当主が不憫に感じてきた。
「場所も分からない代物をどうやって探すかが問題だな」
それに関しては柚子も申し訳なくなる。
「安請け合いしちゃったとは思うんだけど、大事なものみたいだから引き受けちゃったの。よくよく考えてみると、それを管理していた烏羽家の人に責任持って探してもらうべきなんじゃないかって」
「その通りだな」
やれやれというように玲夜がため息をつく。
『たとえ柚子であろうと、神との約束を破るのは許されぬぞ』
「破るとどうなるの?」
『それなりの神罰が与えられてもおかしくない』
「神罰ってなに!?」
なにやら恐ろしい言葉に柚子の顔が青ざめる。
『それはまあ、いろいろと』
「いろいろ!?」
引き受けるんじゃなかったと柚子は後悔したが、今さらもう遅い。
神との約束という名の契約はなされてしまった。
柚子にできるのは神器を探すことのみ。
柚子は頭を抱えた。
『我も手伝うからそう気を落とすでない』
龍が慰めてくれるが、その程度では落ち込んだ気持ちが浮上するはずがなかった。
すると、急に横から体を持ち上げられ、玲夜の膝の上に座る形になる。
「とても柚子だけで対処できる問題ではなさそうだ。父さんにも協力を仰ごう」
「う~。ごめんね、玲夜。ほんとに私って迷惑ばかりかけてる……」
「これぐらいなんてことはない」
そう言うと、玲夜は柚子の首元に顔を寄せ、抱きしめる。
目の前にある玲夜の頭に腕を回せば、玲夜の腕にさらに力が入る。
「もし今度神に会うことがあればひと言連絡しろと伝えておくべきだな。急に連れていかれたら心臓が保ちそうにない」
柚子が消えるようにいなくなって相当こたえたらしい。
玲夜は仕事に行く時間をとっくに過ぎても、しばらく柚子を離そうとしなかった。
二章
柚子が帰ってきたことで、ようやく屋敷内は静けさを取り戻し、それぞれがいつも通りの自分の仕事に取りかかる。
しかし、玲夜だけはいつも通りとはならず、仕事を休んで鬼龍院本家へとやって来た。
もちろん、柚子と一緒である。
玲夜の秘書である高道によると、明け方も近くなった夜中に突然スマホが鳴り、柚子がいなくなったとひどく動揺した声で玲夜が電話をかけてきたそうだ。
柚子のこととなると冷静さを失う玲夜を高道もよく知っているので、きっと取り越し苦労だろうと思っていたら、本気で居所が掴めない。
いつもなんだかんだと面倒ごとに巻き込まれる柚子なので、今回もなにか起きたのではないかと高道もいろんなところへ電話しまくり、捜索の手伝いをしてくれたらしい。
なので、柚子が行方不明になったことを多くの人が知るところとなった。
柚子が帰ってきた後も、高道は心配をかけた人たちへ謝罪とともに感謝の電話をかけ続けたそうな。
どうやら柚子がいなくなったと知って、透子や撫子など、独自に人を使って探してくれた人がいたようだ
それを聞いた柚子は、予想以上に大事になっていると、またもや頭を抱えた。
これは柚子からもお礼と心配をかけたことへの謝罪をしに行かねばなるまい。
その前に、とりあえず本家が先だ。
気落ちした様子で本家の屋敷の前に立つ柚子は、叱られることを覚悟で敷居をまたいだ。
しかし、待っていたのは柚子の姿を見て安堵の表情を浮かべる千夜と沙良だった。
「よかったわ。柚子ちゃんになにもなくて」
そう言って沙良は柚子を抱きしめる。千夜も、ニコニコとした笑みを浮かべていた。
「ほんとだよぉ。無事でなによりだったね」
と、おだやかな顔をしている。
その優しさあふれる反応に、柚子は逆にいたたまれなくなった。
「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません」
柚子は千夜と沙良に向かって、深々と頭を下げた。
「いいんだよ~。真夜中に一族の者を百人ばかり叩き起こして大捜索させたけど、大した問題じゃないから」
「えっ……」
柚子の顔が一瞬で強張った。
その様子を見て、あははと楽しげに笑う千夜は、実は柚子にめちゃくちゃ怒っているのではないかと勘ぐってしまう。
「嘘嘘。ほんとに大した問題じゃないからね。柚子ちゃんは気にしなくていいよ~。ちゃんと謝罪は受け取ったから」
「でも……」
少なくともその夜中に叩き起こされた人たちへは、柚子自ら謝罪行脚に行かねばならないのではないだろうか。
その時、部屋の外から声がかけられる。
「失礼いたしますぞ」
そう言って入ってきたのは、ひとりの老人だ。
白髪をオールバックにし、杖をついている。
その眼光は鋭く、威圧感が体中からほとばしっている。
柚子には見覚えのない人だったが、誰かに似ている気がした。
「やあ、天道さんも柚子ちゃんが心配で様子を見に来たのかい?」
微笑みを絶やさぬ千夜が気さくに話しかけるが、『天道』と呼ばれた老人はギロリと千夜をねめつける。
「花嫁が来ていると耳にしましてな。心配などはいっさいしておりませなんだが、本家にまで迷惑をかける娘がどんな人間か見ておこうと参った次第です」
その言葉には隠しようもない柚子への棘があった。
「それが花嫁ですかな?」
天道の強い眼差しが柚子を射貫き、身がすくむような感覚に陥る。
不躾なその視線に柚子は大した反応もできず、天道をうかがうことしかできない。
「あ、えっと……」
言葉がうまく紡がれず、たどたどしくなる。
それすら不快とばかりに眉をひそめる天道に、柚子は完全に萎縮してしまっていた。
そんな柚子を守るように玲夜がにらみ返す。
「天道、やめろ。俺の花嫁だ」
「だから、なんですかな? 花嫁であるかなど私にはなんら関係ありません。そもそも私は花嫁を迎えることに常々反対していたはずです。花嫁は鬼の一族の害にしかならないと。千夜様も玲夜様も私の忠言を無視なされましたがな」
皮肉っぽく口角を上げる天道はさらに続ける。
「こうして一族に多大な迷惑をかけたのです。今からでも遅くはないので、花嫁を手放されたらどうですかな? それが一族のため、なにより玲夜様のためになるのではないですか?」
「なにが俺のためだ。柚子はなにがあろうと手放さない。誰の反対があろうとな」
にらみ合う玲夜と天道は、まさに一触即発の状態。
柚子は声をかけることもできず、オロオロするしかできない。
そんな柚子を憎々しげに見る天道は悪意ある言葉を吐く。
「花嫁を得たあやかしというのは本当に厄介ですな。花嫁にいったいどんな魅力があるのやら、私には分かりかねます。花嫁は害でしかないというのに、なぜそれを分かってくださらぬのか。先代様もそうです。あの女のせいで──」
「先代? あの女?」
玲夜がいぶかしげにすると、天道ははっとしたように途中で言葉を止めてしまった。
「なんでもありません」
なんとも言えぬ不穏な空気がその場に流れる。
柚子は勇気を振り絞って声をあげた。
なにせ、問題となっているのは柚子が発端なのだから、玲夜に任せて黙っているわけにはいかない。
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません! 今後ないよう気をつけます。その、だから……」
言葉が尻すぼみになっていく。
勢いに任せて声を出したはいいものの、天道の眼光に気圧されてしまう。
なんて意気地がないのかと、柚子は自分で情けなくなるが、あまりにも天道の迫力がありすぎた。
「その殊勝な態度がいつまで続きますかな? 花嫁とはしょせん人間。あやかしとは本質からして違うのです。本能で花嫁に囚われるあやかしとは違い、人間はすぐに裏切る。いつ他の男に走るか分かったものではない。花嫁殿もいつまで玲夜様だけだと言い切れるか楽しみですな」
「天道っ」
玲夜が激しく怒っている。今にも飛びかかりそうな勢いに、柚子は慌てて玲夜の腕を掴む。
柚子は天道とこれが初対面だというのに、なぜこんなにも言われなくてはならないのか。
天道からは柚子への恨みや嫌悪感すら感じられ、柚子は戸惑う。
柚子は彼になにかしてしまったのだろうか。
まったく覚えがないので、対応に困っていると、すっと襖が開かれた。
「もう、それぐらいでおやめなさい、天道」
入ってきたのは、どこか玲夜の面影がある老婦人だ。
黒い髪に白髪が半分混じり、グレイカラーのようになった髪を、後ろで結んでお団子にしている。
撫子とはまた違った品と迫力がある女性である。
彼女が現れると、天道はすぐさま一礼した。
「これは、玖蘭様。あなたもここにいらしたのですか」
これまでとは違い、天道の声色には尊敬の念が感じられる。
誰だろうかと不思議そうに思っていると……。
「お母様っ」
千夜が慌てたように立ち上がる。
柚子は分かりやすく二度見してしまった。
千夜は今この老婦人を『お母様』と呼んだのか?
聞き違いかと思ったが、言われてみれば玲夜とどことなく似ている。
いや、玲夜が彼女に似ているのか。
すると、玲夜が柚子に耳打ちする。
「先代当主の妻で俺の祖母に当たる人だ」
そっと囁かれた内容に、柚子は納得するのだった。
玲夜は千夜とは真逆なほど雰囲気が似ていないなと思っていたが、祖母である玖蘭を見れば、血のつながりを確信する。
その場を支配してしまう存在感と覇気は玲夜を彷彿とさせる。
「いい年をした年寄りが、若者を虐めるのもではありませんよ」
「虐めているわけではありません」
天道はしれっとした様子で返すが、今までの発言はどう聞いても柚子を虐めているようである。
玲夜の祖母である玖蘭は、やれやれというようにため息をついてから、柚子へと視線を向けた。
じっと見られてドキリとする柚子は、慌てたように玖蘭へ頭を下げる。
「は、初めてお目にかかります! 柚子と申します」
玲夜の祖母の存在は知っていた。
結婚式をするにあたり、玲夜の親族の名簿を目にしていたからだ。
玲夜の祖父であり千夜の父親でもある、先代鬼龍院当主はすでに亡くなっている。
だからこそ千夜が当主となっているのだろうが、柚子は何度となく本家を訪れたのに、玲夜の祖母である鬼龍院玖蘭とは顔を合わせたことがなかった。
あえて会わなかったわけではない。
何度か挨拶のために面会を希望しても、なにかと理由をつけて断られていたのだ。
それならば結婚式に時に会えるかと思いきや、玖蘭は柚子と玲夜の結婚式には出席しなかった。
玲夜や千夜に理由を聞くと、人間である柚子を鬼の一族に迎え入れるのを反対している勢力がいるという答えが返ってきたため、きっと玖蘭は玲夜との結婚を反対しているのだと柚子は思った。
そんな玖蘭との初対面。緊張するなという方が無理である。
下げた頭をなかなか上げられずにいると、玖蘭は柚子の前で膝をついた。
「顔をお上げなさい」
そう言われ、おずおず玖蘭を見上げた柚子の目に飛び込んできたのは、柔らかな笑みを浮かべる玖蘭の顔だった。
嫌われていると思い込んでいる柚子はそのような表情を向けられ、驚きのあまり目を大きくする。
「……かわいらしいお嬢さんね、玲夜」
「ええ、俺の最愛です」
玲夜は自慢げに微笑んだ。
「ならば、ちゃんと守ってあげなさい。天道のような頑固じじいどもからね」
「言われずとも」
揺らぎない玲夜の言葉に、玖蘭は満足そうだ。
そして、畳についたままでいる柚子の手の上に玖蘭は手のひらを乗せた。
温かく柔らかい優しい手だ。
「結婚式に出られなくてごめんなさいね」
「いいえ! とんでもないです」
「本当は出席したかったけれど、天道のような頭の固いじじいどもせいで、いろいろと理由があったのよ。私はふたりを反対してはいませんよ」
「玖蘭様!」
天道が激しく責めるように声を大きくするが、玖蘭は視線だけで天道を黙らせてしまう。
「これからも困難はあるでしょうけど、ふたり一緒に頑張りなさい」
「ありがとうございます……」
面会を拒絶するほどに玲夜との結婚を反対されていると思っていた柚子は、玖蘭から飛び出した柚子を気遣う言葉に拍子抜けする。
玖蘭は立ち上がると天道へ厳しい視線を向ける。
「さあ、年寄りは早々に立ち去りますよ」
「玖蘭様」
咎めるような天童の視線もなんのその。
玖蘭は優雅に去っていった。
天童は苦虫をかみつぶしたような顔をしてからため息をつくと、千夜へ一礼してから出て行く。
ふたりがいなくなったことで、その場の空気がほっと緩んだ。
「台風みたいな人たちだよねぇ。ごめんね、柚子ちゃん。天童さんのせいで嫌な思いさせちゃったよね」
いつも通りのひょうひょうとした様子で、千夜が柚子を気遣う。
「あ、いえ、全然大丈夫です」
「天童と会ったのは初めてだよね?」
「はい。たしか結婚式にも出席されていませんでしたね」
「そうそう。お母様が言えように、頭が固いからねぇ。困ったものだよ~」
肩をすくめる千夜はヘラヘラしていて、本当に困っているようには見えない。
「いまだにねぇ、人間である柚子ちゃんを一族に迎え入れるのを反対している勢力があるって前に教えたかな?」
「はい」
「その筆頭が、さっきの彼、荒鬼天童なんだよぉ」
「荒鬼?」
柚子は玲夜の後ろに控えていた高道に目を向ける。
荒鬼とは高道と同じ姓ではないか。
柚子の視線に気がついた高道が苦い顔をする。
「柚子様には申し訳ないことに、私の祖父になります」
と、高道が眉を下げて教えてくれる。
「天童さんは僕の父親、先代当主の側近なんだよ~」
「そして、なぜか先代当主の側近ばかりが、柚子を花嫁として迎え入れることに反対している」
玲夜が声に苛立ちを込めて話す。
「先代の側近ばかり……。なにか理由があるんでしょうか?」
柚子が問うが、千夜もその答えは知らないようで、肩をすくめる。
「さあねぇ。でも、なにかあったっぽいのは確かなんだけどな~。お母様も天童さんも教えてくれないんだ。僕は当主なのにおかしくない?」
ね?と柚子に問いかけられても、柚子も困ってしまう。
愛想笑いをして誤魔化すと、ようやく本題へと入ることになった。
目覚めた神と、神が探す神器。
一通りの話を聞いた千夜は珍しく真剣な顔で腕を組んで考えている。
「なるほどねぇ。神器か。烏羽家は知っているけど、そんなものを神様から与えられているなんて、僕は初めて聞いたなぁ」
「見つけられるでしょうか?」
柚子は不安そうに千夜へ問いかける。
柚子の力では砂漠の中から一粒の砂金を捜し出すようなものだ。
しかし、日本国内において多大な影響力を持つ鬼龍院なら可能性はあるのではないか。
「神様も無茶ぶりするよねぇ。というか、神様ってどんな人?」
ころりと表情を変え、興味津々に目を輝かせて身を乗り出す千夜に、柚子は苦笑する。
「えーと、真っ白な長い髪をしてたんですが月の光が当たってキラキラしてて、玲夜に負けないぐらいすごく綺麗な方でした」
「あらやだぁ。そんな神様なら私もお会いしてみたかったわ~」
沙良が目を輝かせる。
「柚子ちゃんたら、その神様に惚れちゃったんじゃない? もしかして玲夜君のピンチかしら~?」
沙良はなんだか楽しそうに玲夜を煽る。
そんなことありはしなかったが、神に見惚れてしまったのは事実である。
「いえ、そんなっ!」
柚子は心を見透かされたようで慌てて否定したのだが、その否定の仕方が玲夜は気に食わなかったようで……。
「柚子、どうしてそんなに動揺してるんだ?」
玲夜はなにやら不満そうにしている。
「動揺なんかしてないよ!」
「いや、してる。柚子、新婚早々浮気か?」
なんとも色気たっぷりに柚子の顎を捉え顔を近づけてくる玲夜に、柚子は心の中で悲鳴をあげた。
「浮気なんかしてないよ。私には玲夜だけです!」
力強く否定したのがよかったのか、玲夜は満足して柚子から手を離した。
ほっとする柚子の前で、千夜がからかう。
「駄目だよ、沙良ちゃん。玲夜君は柚子ちゃんのことになるとミジンコ一匹分より心が狭くなるんだから、柚子ちゃんが監禁されちゃったらどうするの?」
「あら、それは大変だわ。柚子ちゃん、玲夜君から逃げたかったら私たちに相談してね」
「うんうん。当主の権力を全力で使って、玲夜君から逃がしてあげるからねぇ。安心して連絡しておいで~」
声をあげて笑う沙良と千夜の言葉に玲夜は青筋を浮かべている。
柚子が逃げるなんて事態にならないと思っているからこそ、そのような冗談が言えるのだろうが、玲夜の機嫌が急降下していくのが分かるので、隣で柚子はヒヤヒヤする。
後で被害を受けるのは自分なので止めてもらいたいと、柚子は冷や汗ものだ。
「あの、それよりも神器の話をしませんか?」
「あ、そうだったね」
脱線しまくっていた話が柚子のひと言で修正される。
「そもそもなんだけど、その神器ってどんな形してるの?」
柚子ははっとする。
「そういえば聞いてないです……」
それでどう探すのかとなんとも言えない空気が流れたが、柚子は思い出す。
「龍が神器のことに詳しそうだったので、龍に聞けば分かると思います」
「なら、龍にできる限りの情報を聞き出してこっちに教えてくれるかな? その情報を元に調べてみるよ」
「はい、分かりました」
龍は今この場にはいないので、屋敷に帰ってからになる。
神器がサクのために作られたなど、その当時のことを知っている様子だったので、龍ならなにか分かるかもしれない。
というか、なにか分からなければ完全に詰む。
神器というだけでそのものを探すにはさすがに限度があるのだ。
もしくは、再度神の元を訪ねるしかあるまい。
「あやかしの本能を消してしまうなんて、神様は初代の花嫁を本当に大事にしていたのねぇ」
などと、沙良が難しい顔をしていると、千夜がへらりと笑う。
「ていうか、その神器使ったら玲夜君から逃げられるんじゃない?」
まだその話は続いていたのかと、しつこい千夜に、柚子もがっくりとした。
「本能を消すごときで俺が柚子を手放すなんてありませんから、そんなもの無意味です」
そう反論しつつ、柚子を後ろから抱え込んだ。
「神器を見つけたらたたき壊すか……」
不穏な発言をする玲夜の声は本気のように聞こえる。
「駄目だと思うよ。頼まれたんだしちゃんと神様に返さないと」
玲夜はちっと舌打ちした。
本家での話し合いを終えた後、柚子は心配をさせた透子に会いに行くことに。
玲夜はこのまま会社に行くらしいので、猫田家へ寄ってもらう。
猫田家へ行きたいと告げた時、一瞬玲夜が不安そうにしていたが、すぐに感情を見えなくした。
柚子が突然いなくなり、玲夜をかなり心配させたと感じて申し訳なくなる。
できれば柚子をそばから離したくないという気持ちがあからさまに出ている玲夜だったが、仕方なさそうに柚子を猫田家に送り、自分は会社へと向かった。
けれど、ちゃんと子鬼は一緒である。
そうでなければ、いくら慣れた場所である猫田家でも、行かせてはもらえなかっただろう。
子鬼たちの存在に感謝しながら玄関をくぐり透子に会いに行くと……。
「馬鹿柚子!」
と、出会い頭に透子から罵声を浴びせられてしまった。
けれど、気分を害したりはしない。
ひどく安堵した様子の透子を見れば、反論の言葉など出るはずもなかった。
柚子は眉を下げる。
「ごめんね、透子」
「夜中に突然柚子がいなくなったって聞いてどれだけ心配したと思ってるのよ。若様でも居所が掴めないって言うから、慌ててにゃん吉が人を動かしてくれたんだからね! なのに普通に帰ってきたって連絡があって、こっちは振り回されていい迷惑よ」
「お騒がせしました」
鼻息を荒くして怒る透子の言葉には、大きな優しさが含まれていた。
それだけ柚子の身を案じてくれたということだ。
自分はいい友人に恵まれたと、柚子はしゅんとしつつも、顔には自然と笑みが浮かび、嬉しい気持ちが心を温かくする。
「にゃん吉君と蛇塚君もありがとう」
透子の部屋には、透子以外に猫田東吉と蛇塚柊斗の姿もあった。
蛇塚は柚子が猫田家を訪れると聞いて、柚子の無事を確認するためだけに急いでやって来たらしい。
蛇塚も、柚子が行方不明と知って、独自に人を出して捜索をしてくれていたようで、頭が下がる。
まったく、とんだ迷惑を方々にかけてしまった。
今度会う機会があったら、必ず神には苦言を呈さねばなるまい。
神のせいでこれだけ多くの人に迷惑をかけてしまったのだから、ひと言文句をぶつけさせてもらわねば気がすまない。
まあ、それはとりあえず置いておくとして、高道ときたら、いったいどれだけ多くの人に電話をかけたのやら。
先程スマホを見ると、学友である澪や芽衣からの通知が残っていた。
どうやらふたりにも、柚子の行方を知らないかと尋ねたらしい。
ふたりにはそれぞれ電話をして無事であることを知らせたので問題はないだろうがが、芽衣からは少し叱られてしまった。
学校が始まったら、芽衣には再度文句を言われそうな勢いだったが、甘んじて受けるしかないだろう。
学校が始まるのが憂鬱だなと思う柚子に、透子が問いかける。
「それで? どうして突然家出なんてしてたのよ? とうとう若様の独占欲が嫌になって逃げ出したとか?」
「人聞きの悪い。家出じゃないよ」
それに玲夜を嫌になるなどあるはずがない。
そこはしっかりと否定しておいた。
透子も冗談のつもりなので、否定すれば話はそれ以上続かない。
むしろ肯定された方が反応に困るだろう。
「だったらどうして急に行方不明なんてなったのよ。私たちにはちゃんと説明してくれるわよね?」
「うーん、どこから説明したらいいのか……」
突然神の存在が飛び出してきても許容できるか分からない。
けれど、うまい説明の仕方が思い浮かばなかったので、ほぼほぼ玲夜に伝えたのと同じ内容だ。
目を覚ましたら社におり、そこで神に会って神器を探すように頼まれた。
話をぎゅっとまとめるとこんなところだろうか。
そんな冗談を言って、と笑い飛ばされることも想定していたが、神子の素質を持つ柚子といることで、幾度となく不可思議な事態に遭遇してきた透子たちはびっくりするほどすんなり受け入れた。
「それは大変だったわね。神様のくせに自分で見つけられないわけ?」
「お前ってなんでそんな面倒ごとに巻き込まれるんだ? 一度お祓いしてもらった方がいいんじゃないか?」
「でも、神様が相手でお祓いは意味あるの?」
透子、東吉、蛇塚と、それぞれが真剣に頭を悩ませている。
その柔軟さに、本当に信じてくれたのかと逆に柚子が疑うほどである。
「信じてくれるの?」
玲夜ですら、神の存在をすぐに受け入れるのは難しかったというのに。
いや、玲夜は柚子を信じていないわけでも、神がいないと思っているわけでもなく、神が現実のものとして姿形を取り、接触をしてきたのが信じられなかったのだ。
あやかしといえども、神とは目に見えぬ遠い存在でしかないから。
それなのに透子たちの素直さといったら予想外である。
「いや、だって霊獣とか龍とか怨霊とか、これまで柚子の周りにいっぱいいたじゃない。神様も似たようなものでしょう?」
「え、一緒……かな?」
柚子は首をかしげる。
「一緒よ、一緒。ちょっとの違いしかないわよ~」
平然とそんなことを言ってのける透子に尊敬すら感じるが、神をそこらの怨霊と一緒の扱いにしてしまうのはどうなのだろう。
しかもよりによって神が大事にするサクを死に追いやった怨霊と一緒にしたら怒るのではないか。
それにしても透子の懐が大きい。
あやかしという存在は知っていても、特に人間との違いが分からない透子。
人間とあやかしの違いを理解してはいても、あやかしの中ではそこまで強いわけではない、東吉と蛇塚。
撫子のように神との関係も深くないので、いまいち霊獣と神の違いが分かっていない無知から来る柔軟さが、柚子の話を受け入れる助けとなったのかもしれない。
「それにしても神器ねぇ……」
柚子から神器がどういうものか聞いた透子は難しい顔をする。
「なにか透子知ってる?」
「私がそんなの知ってるわけないじゃない。そんな便利道具があったことすら今知ったわよ。私がそんなものの情報を持ってるとでも思ったの?」
「いや、念のためにと」
知らなくて当然であるとは柚子も分かっていた。
一応東吉と蛇塚に視線を向けるも、ふたりも首を横に振る。
「どうやって見つけたらいいと思う?」
「そんなの私が分かるわけないでしょうが」
「だよねー」
花嫁とはいえ、ただの人間の透子に分かるはずがないのは柚子も承知の上だ。
しかし、柚子とて神子の素質はあれど普通の人間。
神様はなぜ柚子にそんな依頼をしてきたのだろうか。
それなら柚子ではなく玲夜か千夜、もしくは撫子を呼び出して頼んだ方がまだ可能性があるはずだ。
もう少し詳しい話を聞きたいが、出てきてくれるだろうか。
そんなことを考えていると、蛇塚がぽつりとつぶやく。
「そんな神器があるなら、もっと早く知りたかった。俺も使いたい……」
その悲しみを含んだ切ない声に、柚子たちはかけるべき言葉を失う。
今でこそ白雪杏那という結婚を約束した彼女がいるが、もともと蛇塚には梓という花嫁がいた。
梓は蛇塚とは折り合いが悪く、結局ふたりが結ばれることはなかったが、梓を手放した時、蛇塚はひどく落ち込んでいた。
梓をあきらめてなお、あやかしの本能が梓を強く求めたのである。
そんな花嫁に執着するあやかしの本能を消すことができるならと、蛇塚は幾度となく考えたのかもしれない。
そして現れた神器の存在を、蛇塚が羨む気持ちは少し分かる気がする。
蛇塚は今は、梓をどう思っているのだろうか。
杏那という存在がいても、梓を忘れられず苦しんでいるのだろうか。
あやかしの本能が分からない柚子には、蛇塚の気持ちを慮ることができない。
蛇塚には梓のことでたくさん悲しんだからこそ、杏那と幸せになって欲しいのだが……。
その場になんともいえない空気が流れて、気まずくなる。
それを吹き飛ばすように、あえてテンション高く声をあげたのは透子だ。
「あー! そうそう。結婚式の招待状作ったのよ。ねえ、にゃん吉?」
「お、おう。そうだったな」
東吉も透子の意図を察して話を変える。
ふたりがそうするならと柚子も話に乗った。
「へぇ、楽しみ。ドレスはもう決めたの?」
「もちろん。和装もいいけどやっぱりドレスが着たくてかわいいカラードレスを選んだわよ」
「見てみたいな」
「それは当日のお楽しみよ」
透子のおかげで空気ががらりと変わる。
透子は柚子と蛇塚に綺麗な封筒を差し出した。
「とりあえず、これ招待状ね。本当はもっと前に出すべきなんだけど、日程が迫ってるから今渡すわね。柚子は若様と、蛇塚君は杏那ちゃんと一緒に来てよね」
「玲夜の時間取れるかな?」
一応玲夜には、透子の結婚式が料理学校の夏休みが明ける頃に行われると話していた。
透子は絶対に玲夜にも声をかけるだろうから、予定を開けておいて欲しいとあらかじめお願いしていたのである。
玲夜のスケジュール管理は秘書である高道が行っているので、後で確認しようと思いながら招待状を鞄の中に収める。
「僕たちも?」
「行っていい?」
子鬼たちがぴょんぴょん跳ねながら透子に問いかけている。
「もちろんよ。当日はちゃんと正装してきてね」
「あーい」
「あいあーい」
子鬼たちは嬉しそうにそろって手を挙げた。
その様子を微笑ましく見ていると、透子が困ったように頬に手を当てる。
「ドレスは決まったんだけど、それに合わせたアクセサリーに悩んでるのよねぇ。いくつかお店を見たんだけど、ピンとくるものがなくてね」
「別に適当でよくないか? そんなに変わらないだろ」
「にゃん吉、今あんたは世の花嫁を全員敵に回したわよ」
柚子もうんうんと頷く。
「女性にとって……いや、男性もだけど、結婚式がどれだけ重大イベントだと思ってるの! アクセサリーひとつとっても妥協はできないのよ!」
「あーい」
「やー」
透子の肩に登った子鬼たちが、その通りだと言わんばかりに透子の言葉を援護する。
「けど時間も迫ってるんだから早く決めねえといけないだろ」
「まあ、そうなんだけどねぇ」
透子は東吉を責めるのを止めて頭を悩ませる。
うーんと唸る透子を見ていると、柚子の頭にある人が浮かんできた。
「オーダーメイドしてみたら?」
「オーダーメイド?」
「そう。玲夜の友人の藤悟さんて人がしているお店なんだけどね、私の婚約指輪と結婚指輪もその人が作ってくれて」
柚子は全員に見えるように左手をテーブルの上に置く。
婚約指輪と結婚指輪。ふたつの指輪をはめた薬指を、透子はまじまじと見つめる。
「あー、それって前に柚子が言ってた人ね。若様が指輪を作るためだけに勧誘して店まで建てたって」
「そうそう。その時はびっくりしちゃったけど、おかげで素敵な指輪を作ってもらったの」
「さすが若様は、やることがビッグだわ」
透子はなにか言いたそうにじーっと東吉を見つめるが、東吉は嫌そうにする。
「鬼龍院ならそれぐらい朝飯前なんだろうな。羨ましくても俺には求めるなよ」
釘を刺され透子はちっと舌打ちする。
もう母親なのだから、人前で舌打ちするのはどうかと思うが、柚子は気にせず話を続ける。
「玲夜が今後欲しいものができたら藤悟さんな言って作ってもらえって。だから透子も藤悟さんに頼んでみたら? きっと素敵なアクセサリー作ってくれると思うよ」
「でも、オーダーメイドなら時間がかかるんじゃない?」
「それは私には分からないから、一度相談だけでもしてみる?」
透子は少し考えた末に大きく頷いた。
思いついたら即行動が透子である。
翌日、あらかじめ連絡を入れてから、透子とともに藤悟の店を訪れた。
ガラス張りの壁からは店内がみえるが、明かりはついているのに店には誰もおらず、入口にはクローズの札がかかっている。
ガラスでできた扉の鍵はされていないようなので、声をかけながら中へと入った。
「すみませーん」
しかし誰の声も聞こえない。
もう一度、今度は先程より大きな声で店の奥へ向かって呼びかけると、ようやく返事がある。
「あー、今手が離せないからちょっと待っててくれるかぁ」
そんな男性の声が奥から聞こえてきた。
ここは藤悟の他に女性の店員しかいないので、今の声は藤悟で間違いないだろう。
「分かりましたー」
仕方なく柚子と透子は店内で待つことに。
店内ではたくさんのアクセサリーが展示されている。
以前来た時よりさらに種類も豊富になって、見た目も華やかだ。
眺めているだけでもテンションがあがってくる。
「藤悟さんて人は若様の友人なのよね? 若様にそんな人がいたってことにびっくりしてるんだけど」
「だよね。私もびっくりしたけど、藤悟さんと話してる時の玲夜って、なんだか自然っていうか、気安いっていうか。とにかく仲いいのはすごく伝わってくるの。まあ、藤悟さんは撫子様の息子さんだから、立場的にも気楽に話しやすいのかもしれない」
すると、透子が「えっ!」と驚いた声をあげる。
「撫子様の息子さんなの!?」
「言ってなかった?」
「聞いてない!」
「そうだっけ? ごめんね」
透子は途端にそわそわし出した。
「えっ、どうしよう。撫子様のご子息なんていう大層な方にオーダーメイドで作らせていいものなの!? 分かんないんだけど、にゃん吉に相談すべき?」
オタオタする透子は平静さを失っている。
「透子、落ち着いて。藤悟さんはそんなことで怒るような人じゃないから。撫子様だって気にしないよ、きっと」
「そ、そうだといいんだけど……」
透子の旦那である東吉は猫又のあやかし。
猫又はあやかしの中では弱い分類に入る。
そのため他のあやかしの機嫌を損ねないよう気を遣うことも多いそうだ。
そんな猫田家に嫁入りした透子だからこそ、藤悟が撫子の息子という情報には敏感に反応したのだろうが、取り越し苦労だと柚子は思う。
多く知っているわけではないが、玲夜とのやり取りを見た限りでは、藤悟は親の権力を笠になにかするような人には見えなかった。
無用な心配をしながら店内をうろうろする透子を苦笑しながら見ていると、藤悟が店の奥から出てきた。
今日も変わらず髪を爆発させ、無精ひげを生やしている。
とても清潔感があるとは思えない藤悟の登場に、透子はびっくりとしている。
きっと自分も最初藤悟を見た時には同じような表情をしていたんだろうなと思いながら、藤悟に向かう。
「花嫁ちゃん、こんちは~」
「こんにちは、藤悟さん。今日、お店はお休みなんですか?」
「うんにゃ。花嫁ちゃんが依頼しに来るっていうから、急遽休みにしたんだよー。玲夜からは花嫁ちゃんの依頼を最優先するように言われてるからさぁ」
「そうだったんですか。すみません!」
柚子は慌てて謝罪するが、藤悟が気にした様子はない。
「いいってことよ。雇われ職人はオーナーには逆らえないのが宿命なのさ」
藤悟はなぜかドヤ顔をするが、その見た目のせいで絶対に損していると思う。
「てかさ、花嫁ちゃん家出したんだって~? 玲夜んとこの秘書がさ、俺のとこに花嫁ちゃんが来てないかって電話してきたんだけど、夜中にかけてくるなって伝えといてくれる? その日めっちゃ寝不足になったし」
「すみません……」
まさか高道が藤悟にまで電話していたとは予想外だ。
藤悟とは親しくなるほど会っていないのだから、行方不明だとして藤悟が知っているはずがないだろうに。
それだけ高道も動揺していたということだろうか。
おそらく駄目もとで電話したに違いない。
「ご迷惑おかけしました。でも、決して家出ではないので、そこは勘違いしないでいただけるとありがたいです……」
「そうなの? まあ、ちゃんと玲夜とうまくやってるならいいよ。俺も人様の事情に首突っ込むつもりないし。それより連絡であったアクセサリーが欲しい子って、その子?」
藤悟の視線が透子を捉える。
「猫田透子です! 撫子様のご子息にお目にかかれて光栄です」
「あー、そういうのいいから~。母親は母親。俺は俺だからさ」
「は、はい」
藤悟の言葉で若干透子の緊張が和らいだ気がする。
向かい合うと嫌でも緊張してしまう撫子と違い、藤悟は常に気だるそうに緊張感の欠片もない雰囲気なので、こちらの方もついつい気を抜いてしまう。
そこが彼のいいところなのかもしれない。
「じゃあ、椅子に座ってとりあえず聞いていい? 結婚式のドレスに合うアクセサリーが欲しいんだって?」
「そうです!」
それからは透子の独壇場だ。
ひとつの妥協も許さぬというほどに出てくる要望を、藤悟が残さず拾い上げるようにデザイン画を描いていく。
「ここはこうで」
「ふんふん」
「あっ、そこはもう少し小さく」
「オーケーオーケー」
柚子はただ、ふたりのやり取りを見ているだけしかできない。
数時間後、満足そうな透子と藤悟の姿と、ややお疲れ気味な柚子の姿があった。
正直柚子はなにもしていないのだが、手持ち無沙汰に待っているだけも疲れるものだ。
「結婚式に間に合いますか?」
「そうだなー。かなりギリギリだけど他の依頼後回しにしたらいけるでしょ」
「いいんですか、そんなの」
柚子は心配そうに問いかける。
いくら玲夜から柚子の依頼を優先しろと言われているとはいえ、他の客を待たせてまでというのは忍びない。
「平気平気。まだ開店したかばかりで客が多いわけでもないし、玲夜に頼んで近々アシスタントも雇うから、余裕だろ」
「それならいいんですけど」
横を見ると、藤悟の描いたデザイン画を持って嬉しそうにしている透子がいる。
どうやら透子の希望の品ができそうなようだ。
そして透子から値段の話が出ると、藤悟からは「いらない」というお答えが返ってきた。
これに透子は困惑する。
「花嫁ちゃんが来るって連絡の後、玲夜からも電話があって、結婚式の祝いだってさ」
「若様……」
透子は目をキラキラ輝かせて感激している。
「やっぱり若様はさすがだわ。今からにゃん吉と交代したい」
さすがにそれを聞いたら東吉がショックを受けそうだ。
だが、それだけ喜んでもらえたなら玲夜も嬉しいだろう。
柚子も、柚子の友人を大事にしてくれる玲夜の振る舞いに嬉しくなった。
三章
藤悟のお店から帰ってくると、柚子は自分の部屋でひと息ついていた。
玲夜が帰ってくるまではまだ時間がある。
どうしようかと考えていると、子鬼たちが窓へ向かい、閉めてあった窓を開けた。
「あーい」
「あいあい」
「子鬼ちゃん、どうしたの?」
子鬼は窓の外を見ており、不思議に思っていると、外から龍が入ってきた。
ここ数日、龍はちょくちょく姿を消すので、あまり柚子のそばにいないことが多かった。
屋敷内にいるようでもなかったので、外に出ていると思っていたが、どこへ行っているのかまでは知らなかった。
聞こうにも本人がいないのだ。
それはまろやみるくも同じである。
ご飯の時には帰ってくるので気にはしていない。
なにせ二匹とも普通の猫ではない霊獣なのだから。
だから、龍に神器について聞こうにもいまだに聞けずにいる。
柚子としては早々に神からの依頼を果たすべく神器を探すためにいろいろと質問したいのだ。
神器に関する情報は玲夜と千夜も待ち望んでいるので、あまり後回しにしたくない。
神に問うのが一番早いのだろうが、昨日猫田家へ出かけた帰りに社へ寄ってみたが、神は柚子の前に現れてはくれなかった。
桜の気配もなく、実は夢だったのではないだろうかと疑いたくなってくる。
それとも昼間だったからいけなかったのだろうか。
柚子が呼び出されたと同じ真夜中に見に行けばもしかして……と思うも、玲夜が夜中に出かける許可を出してくれると思えない。
それとも神と会うためなら許してくれるだろうか。
そこは聞いてみねば分からないだろう。
しかし、現れるかどうか分からない存在に頼るよりは、確実に情報を持っている龍に聞くのが一番手っ取り早い。
ようやく帰ってきた龍を逃がさぬというように、柚子は龍の胴体を鷲掴みにした。
『のあぁぁぁ! なにをするのだ、柚子!?』
「文句を言いたいのは私の方よ。いったいどこに行ってたの? ここ最近姿が見えないから困ってたんだから」
ここぞとばかりに不満をぶつける柚子だが、龍はなんのことか分かっていない様子。
『なにかあったのか?』
「神器のこと。あなたにいろいろと聞きたいの」
『お~、なるほど』
合点がいったというような顔をする龍を、ひとまずテーブルの上に置いて、柚子はソファーには座らず、龍と目線を合わせるように床に座り込む。
「今までどこに行ってたの?」
『あの方のところだ。ようやっと目覚めたのでちょくちょく様子を見に行っておったのだよ』
「神様は姿を見せた?」
『いいや。ずいぶんと長く眠りにつかれておったからなあ。まだ力が安定しないようだ。人間でいうと寝ぼけているというところか』
神とは寝ぼけるのか?
いや、龍は柚子に分かりやすいように表現してくれているだけだろう。
どっちにしろ神が現れなかったというのは残念なお知らせだ。
だが、とりあえずは龍から情報を仕入れるしかない。
「いろいろと聞きたいんだけど、神器ってどんな形をしているの? 大きさはどれぐらい?」
烏羽家の人に渡すぐらいなのだから手で持てる大きさであるのは想像に難くない。
『分からぬ』
「は?」
柚子は素っ頓狂な声をあげた。
そして、龍を両手で力いっぱい握りしめる。
「分からないってどういうこと!?」
『ぎゃあぁぁ! 強い。掴みすぎだ、柚子!』
「そんなの今は気にしてる場合じゃないの。分からないってなに? あなたは当時、神器が烏羽家に渡された時のことを知ってるんじゃないの?」
当時を知る生き証人。
これほど確かなものはないはずだ。
『うぐ……。苦しい……』
ぐてっとなった龍に、子鬼たちが慌てて駆け寄ってくる。
「柚子~」
「龍が危ないよ~」
はっとした柚子は少し握る力を弱めた。
霊獣である龍が、人間の握力程度でやられるわけがないのだが……。
少々大げさな龍から手を離さないまま、再度問いかける。
「どういうこと?」
『柚子はだんだん我の扱いが雑になってきておらぬか?』
グチグチと文句を言いながら、龍は神器について教えてくれる。
『神器とは神が作った神気の塊。それは決まった形があるものではないのだ。神が烏羽の当主に神器を渡していた時、それは水晶でできた数珠のようだった。だが、それを使う時、それは剣にもなる。他にも扇、笛、玉と、いかようにも形を変えるのだ』
「……神様はそんなものを探せと?」
『うむ』
柚子は一気に脱力した。
どんな無理ゲーなのだ。
『あれからずいぶんと時が経ち、今はどんな形をしているか、我でも想像がつかぬ』
「他になにか、これが神器だっていう見分け方はないの?」
『ある。それはあの方の神気から作られたもの。それゆえ、神器からはあの方の力が感じ取れる。だからこそ、あの方は鬼龍院ではなく柚子に頼まれたのだろう。神の力を感じ取れる神子の素質を持った柚子だからこそ』
「神様の力……」
それは社がある場所で感じる澄んだ雰囲気のことだろうか。
撫子の屋敷に訪れた時にもとても神聖な空気を感じた。
あれが神の神気だというなら、確かに神器を探すのは柚子が適任だろう。
透子には感じ取れなかったそれを、柚子なら分かる。
「でも、どの当たりにあるか見当もつかないのに、広いこの世界のどこにあるかなんて……」
『いや、神器を使用された可能性がある者がひとりおるであろう』
「……あっ」
少し考えた末に柚子は声をあげた。
芽衣を花嫁とつきまとっていた風臣だ。
あれだけ花嫁と言っていたのに、急に興味をなくした風臣。
神器を使われた可能性は大いにある。しかも神も同じことを言っていたではないか。
ならば、風臣の行動範囲を調べればいい。
それも、まだ風臣の執着が見られた借金を返す後から、その後芽衣に会って間違いだと言うまでの間、どこに行き誰に会ったかを。
「玲夜なら分かるかな」
『そやつには監視を置いていたようだし、すぐに行動を知れるのではないか?』
可能性が見えてきたと、柚子は仕事から帰ってきた玲夜にすぐさま相談した。
「なるほど、それならかなり範囲を狭められる」
玲夜は高道に連絡して、風臣の詳細な行動記録を送るように頼んだ。
そして……。
「お手柄だな、柚子」
そう微笑んで柚子の頭を撫でた。
『助言したのは我なのに……』
部屋の隅でうじうじしている龍を、子鬼たちが慰めていた。
風臣の行動を書いた書類は、夕食を食べる頃には届いた。
いったん箸を置いて内容を確認する玲夜は、次第に眉間のしわを深くしていく。
「なにか分かった?」
「確かに行動と奴が会った者の記録は記されているが、少し厄介だな……」
「なにが?」
「奴は疑わしい期間の間、あやかしのパーティーに出席している。そこで多くの人物と会っているので、特定はかなり難しいかもしれない」
そのパーティーとは、玲夜が風臣を牽制するために出席したパーティーではなかろうか。
「そういえば、そのパーティーの翌日だったかも。私が芽衣から聞いたの。間違えたって言われたって」
パーティーの翌日に芽衣から聞いたのは、『昨日鎌崎がやって来た』であった。
つまりはパーティーのあった日、それもパーティーが終わった後に芽衣に会いにいったことになる。
「なら、そのパーティーでなにかあったかもってこと?」
「まだ、その可能性が高いというだけだ」
柚子は玲夜から一枚の紙を渡される。
そこにはずらりと名前が書いてある。
「これは?」
「当日のパーティーの出席者の名簿だ。気になる人物はいないか?」
「そう言われても……」
パーティーにはそれなりの人数が出席していたようで、柚子にも覚えのある名前もいくつか発見した。
けれど、それだけ。
名前を見ただけで、この人が疑わしいと名指しできるものではなかった。
柚子は玲夜に紙を返しながら首を横に振る。
「分からない。ごめんなさい……」
役に立たないのがもどかしい。
「いや、これだけの情報で見つけられるとは俺も思っていないから、柚子が気にする必要はない」
「うん……」
玲夜に慰められてしまうが、こんなことで見つかるのかと柚子は心配になってきた。
すると、玲夜は突然話を変える。
「柚子、明日パーティーがあるから、一緒に参加してくれないか?」
「パーティー?」
「ああ、急用ができた父さんの代わりに、急遽参加することになったんだ」
玲夜が千夜に変わって会合やパーティーに出席することはよくある。
鬼龍院グループの社長をしている玲夜と違い、千夜はいったいなにをしているのだろうかと疑問に思うことは多々ある。
しかし、千夜は千夜で、それなりに忙しいらしい。
「私は夏休み中だし、特に予定はないから大丈夫」
「それならばよかった。そのパーティーには、先程見せた名簿に載っていた人物もいる」
柚子ははっと玲夜の顔を見る。
「もしかしたらなにか収穫があるかもしれない」
「うん」
そして迎えた当日。
柚子は淡い水色のワンピースを着てパーティーに臨んだ。
残念ながら子鬼たちと龍はお留守番である。
今回はあやかしが多く出席するパーティーだ。
あやかしの多くは仕事で成功した者が多くおり、自然とお金がかかった華やかなものになる。
そういう場に玲夜の付き添いで何度か出席した経験のある柚子は、さすがに驚いたりしなくなったものの、やはり豪華さに気後れしてしまう。
緊張した様子の柚子を見てクスリと笑う玲夜にじとっとした眼差しを向ける。
「笑わないでよ。桜子さんみたいに堂々はいかないもの」
「桜子のようにする必要はない。柚子は柚子らしくあればいい」
「私らしくしてたら絶対に鬼龍院に恥を掻かせちゃうこら駄目」
なにせ柚子の実態は小心者の庶民である。
せめて取り繕うぐらいのことはしなくては。
「俺がいるだろう?」
柚子だけしか目に入っていないというに柔らかく微笑む玲夜に、柚子は頬を染めるが、外野からも押し殺した女性の悲鳴が起こる。
そっと視線を移動させると、先程の玲夜の微笑みにノックアウトされた女性たちがクラクラしていた。
気持ちは大いに分かるが、自分だけの玲夜を横取りされたようで、ちょっと嫉妬してしまう。
そんな自分に柚子は苦笑した。
「柚子、とりあえず挨拶をしていくが、なにか気になることがあったらすぐに俺に教えてくれ」
「うん。分かった」
神器の持つ神気は神子の素質がある柚子でないと分からないので、柚子の感覚だけが頼りである。
柚子は意識を集中させながら、ひとりまたひとりと挨拶を重ねていく。
けれど、今のところ神気を感じるどころか、変わった様子もない。
そして、次となった時、柚子は見知った人と出会う。
「穂香さん……」
初めて出席した花茶会で会った、穂香であった。
花茶会が逃げ場だと訴え、結婚を喜ぶ柚子に噛みついてきた彼女とは一度しか会っていないが、記憶に強く残っていた。
花嫁であることを喜ぶ柚子とは違い、息苦しさを感じている様子だった。
隣にいるのは彼女の旦那だろうか。
ニコニコとした微笑みを携えており、人当たりはよさそうに見える。
「おや、玲夜様の奥方は私の妻を覚えていてくださいましたか?」
「は、はい。もちろんです。花茶会でいろいろとお話をさせていただきましたし」
柚子の口から『花茶会』という言葉が出ると、穂香の旦那は顔をしかめる。
「花茶会、ですね」
なにやら棘を感じるのは柚子の気のせいだろうか。
「鬼龍院様の奥方や孤雪様のなさることを非難したくはないのですが、花茶会などというものは早々に解散させてほしいものです」
険のある物言いに柚子は首をひねる。
「なにか問題でもありますか? 花嫁たちが気楽に過ごせる素敵な会だと思いますが」
「素敵……。本当にそうでしょうか。無理やり旦那から花嫁を引き離してしまう、忌むべき茶会です。私は彼女が自分の目の届かぬところに行くのが心配でならないというのに、私の気持ちも無視して、花嫁だけと言って旦那を排除する。そんな茶会が本当に必要なのか疑わしくてなりません。玲夜様もそうはお思いになりませんか?」
口を挟ませずとうとうと語る穂香の旦那には、隣にいる穂香が見えていないのだろうか。
怒りも悲しみも喜びも感じていない、あきらめきった表情。
人形のように意思を感じさせない。
旦那の肩を抱き引き寄せる手に抵抗もせず、かといって受け入れているようにも見えない、されるがままの姿。
その顔には『無』だけがあった。
「一族にとっても大事な花嫁は、屋敷の中で旦那の目の届くところにいなければ。彼女には私しか必要としない。私も彼女以外いらない。花嫁とはそうあるべきだ」
本気で言っているのだろうか。
しかし、穂香の旦那は心の底から思っているのだろう。
疑いすらしていないように感じる言葉に、柚子はなんとも言えない気持ちになりながら玲夜を見上げる。
以前に、透子にも、花茶会で会った他の花嫁にも自分は恵まれていると告げられたのを柚子は思いだした。
確かに目の前の彼を見ていると自分はかなり自由にさせてもらっていると自覚する。
穂香がもっと花茶会に出席したいと撫子に訴えていた理由がよく分かった。
愛だと言えばそれまでだが、かごの鳥のようにまるで飼い殺しにされているみたいだ。
もし自分が玲夜以外の花嫁だったら、今の自由がなかったのかと考えると、他人事に思えない。
「花茶会は花嫁には必要なものだ。俺は別に柚子を閉じ込めたいわけではない。鳥籠の中に入れて鑑賞したいわけでもない。俺は柚子が柚子らしく生きている姿が好きなんだ。生きながらに死んだ顔が見たいためじゃない」
「玲夜……」
毅然とした玲夜の姿に、穂香の旦那が気圧される。
穂香も目を大きくして玲夜を見つめていた。
「そ、そうですか。……まあ、花嫁への考え方は人それぞれですからね」
無理やり話を終わらせると、彼は別の話題へと変える。
「そうそう。そう言えば、以前に玲夜様と話をしていた鎌崎という方ですがね……」
柚子と玲夜はぴくりと反応する。
「自分の花嫁を間違えたというんですよ。そんな間違い起こり得るものなのでしょうかね? 玲夜様はどう思われますか?」
穂香の旦那はなにか意図したわけではなさそうだが、ここで風臣の話が出るとは思わなかった。
すると、それまで黙ったままだった穂香が口を開く。
「旦那様、それは本当でしょうか?」
「いや、どうせデマかなにかだろう。あやかしが花嫁を間違うなど、神のいたずらとしか思えないからね」
はははっと軽快に笑う穂香の旦那を前に、柚子と玲夜は言葉を失う。
穂香の旦那もまさかその通りだとは思うまい。
いや、わざわざこんな話を出すなんて、彼が神器を持っているのではないのか。
「柚子。なにか感じるか?」
耳打ちする玲夜の声を聞きながら、柚子は目の前の穂香の旦那に集中する。
しかし、感じるものはない。
「なにもない、と思う……」
柚子は自信なさげに答えた。
「そうか」
「でも……」
なんだろうか。
この言い知れない気持ち悪さは。
喉に小骨が引っかかったような不快感。
後もう少しで手が届きそうなのに届かないようななにか。
ふと穂香を見ると、穂香は顔を俯かせ小さく笑っていた。
きっとそれが見えたのは柚子だけだろう。
その様子に違和感を覚えるも、特に何事も起こらぬまま、ふたりは去っていった。
柚子は先程の穂香が気になった。
「柚子? なにかあったか?」
「ううん、なんでもない」
穂香が笑っていたからなんだというのだ。
別におかしなことではない。
柚子は違和感がありつつも、口には出さなかった。
パーティーが行われてから一週間ほど経ったある日、柚子の元に花茶会の招待状が届いた。
今回もお手伝いとしての参加要請だ。
柚子はほとんど考える時間も取らず、狐の折り紙に参加を告げた。
トテトテと歩いて消えていく狐を微笑ましく見送ってから、花茶会に参加する旨を玲夜に報告へ向かった。
それを聞いた玲夜は少しだけ不満そう。
「最近はずいぶんと頻繁に行われているんだな」
「そうなの? 花茶会がどれぐらいの頻度で行われるものなのか、私はまだ知らないから、なんとも言えないんだけど」
「母さんも、妖狐の当主も、早く柚子に仕切れるようになってもらいたいんだろ」
「まだ先は遠そうだなぁ」
柚子には花茶会を仕切る自分の姿が想像できなかった。
花茶会の中心にいるのが桜子だったなら、想像もたやすいのだが。
しかし、主家の妻である柚子を置いて、仕える桜子が出しゃばるなどあり得ない。
そんな下手をする桜子ではないだろう。
なので、柚子がなんとか沙良と撫子から仕切り方を吸収して覚えるしかないのである。
「うーん……」
自分にできるだろうかと、不安は尽きない。
思わず唸ってしまう柚子の腕を引いて、玲夜はあぐらを掻いた足の上に柚子を座らせる。
自然と近くなる玲夜との距離に、柚子はドキドキしてしまう。
結婚したからと言って、玲夜を前に心がときめくのは結婚前と変わらないのだ。
「柚子のペースで頑張ればいい」
そう微笑んで柚子の頬にキスをする玲夜。
どこまでも甘く蕩けるように、甘やかすので、柚子はついついすがってしまうのだ。
「ほんと玲夜は私にもっと厳しくした方がいいと思う」
不満だけど不満じゃない。
この相反する気持ちをどう説明したらいいだろうか。
「柚子はしっかり頑張ってるからな。そうじゃなければ俺も厳しくしている」
「……ありがとう」
注意しても玲夜が柚子を甘やかすのは変わりないようだ。
玲夜の優しさに報いるように頑張るのが、柚子のできること。
そして挑んだ花茶会。
沙良と撫子を中心につつがなく進行する中、柚子は他の花嫁から驚愕の話を聞く。
「えっ! 穂香さんが離婚されたんですか!?」
人違いかと思ったが、間違いなく柚子の知る穂香だという。
「そうらしい。聞いた時はわらわも驚いたが、事実のようじゃ」
撫子のことなのできちんと確認したのだろう。
それなら信じざるを得ない。
「あやかしと花嫁の離婚なんてあまり聞いたことぎありませんのにね」
「それにほら、穂香様の旦那様はあやかしの中でも特に執着が強かったですのに」
「ええ。花茶会に出席させることすら難色を示されるほどでしたよね」
「そんな方がよく穂香様を手放されたものです。とても考えられません」
誰もが信じられないのか、穂香に関する会話が止まらない。
彼女たちは花嫁だからこそ、あやかしの執着をよく知っている。
一度結婚してしまえば、離婚したいと望んでも、あやかし側が受け入れるなんて奇跡に近い。
柚子のように外で働くのを許される自体めったになく、それゆえ私財もなければ社会経験もない。
そんな花嫁が離婚したとしても外の世界で生きていくのは難しいため、泣く泣く離婚できずにいる花嫁は少なくないようだ。
そんな中での穂香の離婚は、花嫁たちに衝撃を与えた。
だが、この場にいる花嫁の中で柚子が一番驚愕しているかもしれない。
花嫁に執着するあやかしが離婚に応じるなんて。
しかも、一週間前に柚子は穂香が旦那と一緒にいる姿を見たばかりだ。
穂香の旦那から感じた病的なほどに強い執着心は、たった一週間で変わるようなものとは思えない。
柚子の頭をよぎったのは、神器である。
もし神器によってあやかしの本能が消されたのなら、離婚になったとしても合点がいく。
風臣が突然芽衣への興味をなくしたように、穂香に興味がなくなったとすれば、説明がつく。
柚子は静かに撫子の背後に回り、周りに聞こえないように囁く。
「撫子様、花茶会が終わった後、お時間をいただけるでしょうか?」
「かまわぬよ。わらわからも話があるのでのう」
扇で口元を隠しながら撫子から了承の言葉をもらった。
撫子には先日柚子が行方不明になった時に捜索をしてくれた礼もまだだった。
もちろんその日のうちに手紙で礼状は送っておいたが、直接感謝を伝えたいし、こうして顔を合わせているのだから伝えるのが礼儀だろう。
しかし、他の花嫁もいるこの場でする話ではないと、もともと花茶会の後に時間をもらうつもりでいた。
神や神器についても、撫子には話していいかと千夜に承諾をもらっているので、諸々話す予定ではあった。
そこに穂香の話が加わるだけである。
おかげで神器の捜索が進展するかもしれない。
いまだ行方知らずの神器は、鬼龍院の権力を持ってしても、捜索は難航していた。
穂香の件が神器を探す手がかりになるといいのだが。
早く茶会を終えて撫子と話したいのをそわそわしながら堪えていると、花嫁しか参加できないこの場に、突然男性が入ってきた。
びっくりする柚子だけでなく、他の花嫁たちも驚いたように目を大きくして固まった。
撫子と同じ白銀の髪に、整った容姿は撫子とどことなく似ている。
困惑する一同の中で、撫子は今にも舌打ちしそうな表情で男性をねめつけた。
「藤史郎。なにゆえここに来たのじゃ。そちを呼んだ覚えはないぞえ」
「菜々子を迎えに来ただけです」
藤史朗と呼ばれた男性は、花嫁の中のひとりに目をやる。
彼女は菜々子と呼ばれる人で、柚子とは今回の花茶会が初対面だ。
口数が少なく、どちらかというと自分から発言するより人の話を聞いて小さく笑っている方が多い彼女への感想は、大人しく淑やかな人である。
そんな彼女が、先程までの柔らかな表情から一変して、男性が姿を見せるや、憎々しげな表情を浮かべているではないか。
柚子が困惑していると、桜子がそっと教えてくれる。
「あの方は孤雪藤史朗様です。撫子様の一番上のご子息で、菜々子様の旦那様でいらっしゃいます」
柚子は声を出しそうになったのをなんとか堪え、声なく驚いた。
撫子の息子というには撫子と変わらぬ年齢のように見える。
撫子が特別なだけなのか、千夜といい撫子といい、見た目が若すぎる。
「ということは、菜々子様は撫子様の義理の娘になるんですか?」
柚子も桜子のように声を落として問いかける。
「ええ。そうなります」
そこで柚子は思い出す。
撫子の息子ということは、藤悟の兄ということだ。
藤悟は、以前に長男が一番撫子に似ていると言っていた気がする。
確かにじっくり見てみると、ふたりはよく似ていた。
顔立ちだけでなく、髪や目の色までそっくりだ。
藤史朗は、やや高圧的な様子で、菜々子のそばまで行くと、無理やり腕を掴んだ。
「いやっ」
菜々子が藤史朗の手を振り払おうと動く。
「藤史朗!」
撫子も窘めるように息子の名を呼ぶが、藤史朗は菜々子の腕を掴んだままだ。
「もういいだろう。十分花茶会を楽しんだはずだ」
「まだ終わっていないわ」
菜々子は必死に逃れようと腕を動かすが、人間の、それも女性の力ではあやかしに到底かなわない。
ますます撫子の顔が怖くなっていく。
「藤史朗、やめよ。たとえ息子のお前といえども、わらわの茶会を汚すことは許さぬ」
「母上は黙っていてください。そもそも俺はこの花茶会には反対なんだ。別に他の花嫁が参加するのまで止めませんが、菜々子まで巻き込まないでいただきたい」
「その菜々子が望んでおるのじゃ」
玲夜にも負けぬ威圧感を自分の息子にぶつける撫子は、はっと息をのむほどに美しい。
その場は完全に撫子に支配されていた。
にもかかわらず、撫子の横でニコニコと微笑んでいる沙良は大物だ。
さすが鬼龍院当主の妻をするだけあると感心する。
さらには撫子が作り出した空気が、菜々子を後押ししているようにも感じた。
「お義母様の言う通りよ。あなたはいつもそう。私の意見を無視して、勝手なことばかり言って。花茶会に出たいと願ったのは私の方よ。他の方々に迷惑をかけないで! ここは花嫁のためのお茶会。部外者は出ていってちょうだい!」
大人しそうな第一印象から打って変わって、自分の意思を強気に伝える菜々子に、柚子だけでなく菜々子の旦那である藤史朗も驚いた顔をしている。
菜々子のあまりの剣幕に、言葉も失うほどびっくりしているようだ。
「よう言うた。それでこそ我が娘じゃ」
撫子は満足そうに笑みを浮かべてから、一瞬で笑みを消して閉じた扇を藤史朗に突きつける。
「聞いたか、藤史朗? そちは招かれざる客である。即刻部屋から出ていけ」
撫子の静かな怒りに、藤史朗は今にも舌打ちしそうなほど顔をしかめる。
そして、一拍の後に己を落ち着かせるように小さく深呼吸した。
「……分かりました。今回は引きます。しかし、俺が認めていないことは心に留め置いてください。たとえ母上といえども、花嫁を奪う権利はない。俺の許可なく菜々子を外に出すのは許しません」
「そちの許可など必要としておらぬわ」
しっしっと、ハエでも払うように手を動かして、撫子は藤史朗を追いやる。
藤史朗が部屋からいなくなると、なんとも言えぬ空気が流れた。
「皆様にはご迷惑をおかけして申し訳ございません」
菜々子が立ち上がると深々と頭を下げた。
「わらわからも謝罪を。わらわの愚息が騒がせた。許しておくれ」
「いいえ、そんな!」
「謝罪など不要ですわ」
「ええ。菜々子様も頭をお上げになって」
撫子にまで謝られては、逆に花嫁たちの方が気を遣う。
「撫子ちゃんのところも大変ねぇ」
ほのぼのと笑いながらそんなことを言う沙良は、完全に他人事だ。
撫子は苦笑いする。
「藤史朗も、若ほどの懐の深さがあれば少しはマシなのじゃがな」
「うふふ。撫子ちゃんに褒められてたって玲夜君に伝えておくわ。苦い顔をされるだけだろうけど」
「やれやれ。あやかしの本能とは、ほんに面倒臭いものよの」
撫子が花嫁たちを見回すと、おかしそうに笑う者、苦笑いする者、苦虫をかみつぶしたような顔になる者と様々だ。
「お義母様……」
菜々子が眉を下げて撫子に目を向ける。
困ったように、今にも泣きそうな顔で。
「そちの味方をしてやりたいところだが、わらわは藤史朗だけが悪いとは思っておらぬ。そちももっと話し合いをするべきではないかと思うぞ」
「はい……」
しゅんと肩を落とす菜々子は静かに椅子に座った。
その様子に、撫子と沙良は目を見合わせて苦笑するのだった。
柚子も、旦那の惚気話をする者もいれば、菜々子のようにうまくいっていなさそうな夫婦を見て、複雑そうな表情になる。
「桜子さん。私、とても花嫁たちを仕切る自信がないです……」
柚子の心からの叫びであった。
「大丈夫ですよ。柚子様ならなんとかなります」
なんの確信があってそんなことを言うのか、桜子は自信満々ににこりと微笑んだ。
花茶会が終わった後、柚子はあらかじめ約束していたように、撫子と話し合う時間を作ってもらった。
その場に沙良も桜子もおらず、撫子とのふたりきり。
撫子を前にするとどうにも緊張してしまう。
撫子といるのが嫌なわけではない。
悪い緊張感というよりは、いい意味での緊張感だ。
女性でありながら当主として一族をまとめ、誰よりも強い存在感と艶やかさ、独特な空気持つ撫子には憧憬すら浮かぶ。
とても超えられるとは思えない人。
お手本にしたいと思う桜子とはまた違った憧れである。
「今日は騒がせてしまったのう。愚息に驚いたのではないかえ?」
「えっと、す、少しだけ……」
取り繕ったところで、撫子にはお見通しだろうと、柚子は素直な感想を述べた。
撫子は別に怒りはせず、むしろ楽しげに笑う。
「ほほほっ、ほんに柚子は素直な子じゃのう」
「すみません……」
「よいよい。それが柚子のよいところじゃ」
一通り笑い終えると、扇をパチンと閉じ、やや困り顔で口を開いた。
「わらわには三人の息子がおってのう。三人ともなんとも個性的に育ってしまった……。特に三男の藤悟ときたら……」
やらやれというように撫子は扇で頭を押さえた。
撫子は柚子が藤悟と面識があるた知っているからこそ彼の話題を出したのだろう。
困り顔の撫子の、言葉に出さぬ言いたいことがなんとなく伝わってくるようだ。
柚子はあえて口をつぐんだ。
「その中でも、先程姿を見せた長男の藤史朗は常識人に育ったと思っておったのだが、花嫁を得て花嫁中心の生き方に変わっていきおった。まあ、花嫁を迎え入れる自体は一族としても喜ばしいことなのじゃが、花嫁を得たあやかしは限度というものを知らぬ。花嫁が大事なあまり、少々やりすぎるのじゃよ」
撫子は、はぁとため息をつく。
「わらわが、花嫁はまるで呪いのようじゃというのも、近いし身内にそれがおって、藤史朗を見てきたからでもある」
「菜々子様たちはあまり仲がよろしくはないのでしょうか?」
柚子の問いに、撫子は苦い顔をした。
「あのふたりはのう……。なんというかいっそ面白いほどのすれ違いを起こしておるせいでもある。ふたりとも思い込みが激しくて、それが関係をややこしくしておる。まあ、それは孤雪家の問題。柚子が気にする必要はないので案じるな」
「はい」
柚子は素直に頷いた。
「先程も言ったように、わらわには男児しかおらぬ上、花茶会をよく思っておらぬ長男がいるため、菜々子に花茶会の後継を任せるわけにもいかぬ。そんなことをしたら余計にあのふたりの関係がこじれかねない」
再度困ったような息を吐いた撫子は、視線を柚子へ向ける。
「だから、柚子が引き受けてくれたのはほんに嬉しいよ。三者三様の花嫁たちをまとめるのは大変であろうが、頑張っておくれ」
「正直、自信はないですが、やれるだけのことはやってみます」
本当に自信はないのだが、撫子にそこまで言われたら、そう返さざるを得ない雰囲気である。
「うむ」
柚子の言葉に、撫子は満足そうに頷いた。
「さて、では本題に入ろうか」
「はい。まずは、先日の感謝を伝えさせてください。私の行方が分からなくなって、ご心配をおかけしました。撫子様が私を探すために尽力してくださったと聞いています。本当にありがとうございました」
正座する柚子は畳に手をついて、深々と頭を下げる。
「かまわぬよ。わらわが勝手にしたこと。礼はいらぬ」
頭を上げた柚子は困ったように微笑む。
撫子ならそう言うと思ったのだが、やはり誠意は見せたかった。
その件に関しては終わりというように、撫子の話題は変わる。
「それで、わらわに話とは、それが関係しておるのかえ?」
柚子は幾度となく繰り返した状況の説明を行う。
「目が覚めると私は一龍斎の元屋敷にいました。そこで人間とあやかしの神様に会ったんです」
神に会ったと話すと、撫子は大層驚き、前のめりになって問い返す。
「本当かえ!? あの方にお会いしたと?」
「はい」
「どのような方であったのじゃ!?」
「とても美しいのひと言です。社の周囲にあった桜の木が一斉に咲いたんです。そしたら桜の花びらが集まって神様になって。撫子様よりも真っ白な髪をした、桜の化身のような人でした」
身振り手振りも交えながら、当時の状況を伝えると、撫子も興奮しているようだった。
「神様は撫子様のことをご存知のようで、会ってみたいとおっしゃっていましたよ」
「それはなんという誉れ! かように嬉しきことがあるだろうか」
頬を紅潮させる撫子はまるで恋する乙女のようだ。
実際は恋ではなく崇拝という言葉の方が相応しいだろう。
「突然のことだったので私もびっくりしてしまったのですが、龍も間違いなく神様だと」
「それはさぞ驚いたであろう。わらわならば卒倒しておるかもしれぬ」
撫子は柚子の当時の気持ちを自分に置き換えて、柚子を憐れんだように話すが、その目はどこか羨ましそうだ。
「そこで神様に神器を探してくれと頼まれたんです」
「神器とな?」
「はい」
「もしや、その神器というのは、烏羽家に与えられたという……」
やはり撫子は知っていたようだ。
三つの家に神が与えられたもの。
その話を以前にしていたのは撫子だ。
花嫁を得た鬼龍院。分霊された社を得た孤雪。
その時の撫子は、もうひとつの家を口には出さなかったが、そこまで知っているなら当然残りのひとつの家に与えられたものの情報を手にしていてもおかしくない。
「撫子様は神器がどんなものかもご存知なのですか?」
「いや、神器が烏羽家に与えられたことは記録にあるが、それがどんなものかまでは伝わっておらぬ」
「……花嫁へのあやかしの本能を奪ってしまうものらしいです」
「なんと……。それほど大事なものをあの方は烏羽家に渡していたというのか」
撫子はひどく驚いて目を大きく見開くが、次の瞬間、その目を鋭くした。
「なるほど。柚子は穂香の離婚を気にしておるのじゃな?」
「はい」
さすが撫子。柚子が多くを語らずとも、柚子が撫子との話し合いを望んだ理由を察したようだ。
「神様は烏羽家に神器はなく、悪用されているとおっしゃっていました。そのため、」
「ふむ。神器がなぜ烏羽家にないかは置いておくとして、それほどの重要なものを放置しておけぬな」
「龍によると、神様に探すと約束してしまったために、見つからないとマズイらしいです……」
「神とそのように簡単に契約をするとは……」
撫子はあきれたような目を向けるが、柚子は知らなかったのだから仕方ない。
誰もそんな重要なことは教えてくれなかったのだから。
しかも柚子は『やれるだけのことをする』と言ったのだ。
絶対見つけるとは言っていないのにそれでも神との約束となるなるなんて理不尽さを感じる。
「ということで、意地でも探さないといけないんですが、神器は形を変えるらしく、鬼龍院でも捜索が難航しているみたいで……」
「なんとまあ」
「でも、手がかりがないわけではないんです。神器が使われた可能性のあるあやかしがいて、彼の周辺を玲夜が調べてくれています。それに、今日穂香様の話を聞いて、穂香様の旦那様も同じように神器が使われたんじゃないかと思うんですが、撫子様はどう思われますか?」
反応をうかがうように見る柚子に、撫子は少し考える様子を見せる。
「……そうじゃのう。確かにあの穂香が離婚したというのは違和感がある。わらわも最初は耳を疑ったぐらいじゃ。穂香の旦那を知っているが、花嫁を持つあやかしの中でもトップクラスに束縛の強い男であった。同性であるわらわにすら敵意を抱くほどに」
パーティーで顔を合わせた時、花茶会をよく思っていない様子だったのを思い出し、柚子は頷く。
「玲夜に穂香様のことを調べてもらおうと思いますが、よろしいですか?」
穂香を調べるなんて、穂香を疑うようなもの。
花嫁のために花茶会を作るほどに花嫁たちを気にしている撫子には、ひと言告げておくべきだと思った。
もちろん、沙良にものちほど話をするつもりだ。
いや、沙良には神器のことがすでに伝わっているので、もしかしたらすでに穂香の離婚に疑いを持って、先に千夜に話をしているかもしれない。
「ああ、かまわぬよ。というより、穂香の離婚に疑問を持ったわらわは、すでに穂香の周辺を調べさせておる」
「そうなのですか?」
柚子は大きく目を見開く。
「花茶会を主催する者として、花嫁たちの動向に気をつけるのは当然のことよ。柚子も、ただ茶会をすればよいというわけではないと覚えておくとよいぞ」
「はい」
撫子の代わりをできるようになるのは、まだまだ遠そうだ。
「まあ、穂香の件でなにか分かったら、柚子にも報告しよう」
「ありがとうございます。そうしていただけると助かります」
柚子は再度頭を下げた。
神器の話はこれで終わりと、頭を上げた柚子は撫子に問いかける。
「それで、撫子様のお話とは?」
撫子も柚子に話があるようだったなを思い出す。
「ああ、そうであったな。あの方の話ですっかり忘れ去っておったよ」
扇広げ目尻を下げる撫子は、じっと柚子を見つめる。
口も閉ざされ、一心に向けられる眼差しを柚子も静かに受け止める。
撫子の話とはなんだろうかと考える柚子に、ようやく撫子が口を開いたが、その内容は予想外のものだった。
「そちは花梨を恨んでおるか?」
「へ?」
思わず素っ頓狂な声が漏れる柚子は、一瞬理解することができなかった。
頭が回り始めて、ようやく妹の花梨の姿が頭に浮かぶ。
「両親を乗り越えたそちだが、花梨とはいまだ会っておらぬであろう? あの子がしたことは許されるものではないが、まだ憎々しく思っておるか?」
憎々しい……?
その言葉が柚子にはすごく違和感があった。
確かに、玲夜と出会うまでの柚子の生活は幸福とは言えないものだったかもしれない。
いつも両親の顔色をうかがって、好かれたくて、自分を見て欲しくて仕方なかった。
そして、自分とは逆に両親の愛を一身に受ける花梨が羨ましかった。
妬ましさすら覚えるほどに。
けれど……。
「撫子様。私は花梨を憎いと思ったことはありません。これまでも、これからも」
ただひとりの妹。
あれほど歪んでしまった姉妹の関係は、元を正すと両親が作り出した環境のせいではないかと柚子は思っている。
そして、花梨は今はその両親と別の道を歩んでいるようだ。
どんな心境の変化があったのか柚子には想像もできないが、柚子にはとことん甘く、柚子の害悪となるものを許さないあの玲夜が、会いたいなら会ってみるかと言い出すほどの変化があったらしい。
柚子には驚くべきことだ。
花梨が今どのような生活を送っているのか知らないが、花梨を応援したい。
「ほほほっ」
撫子は機嫌がよさそうに笑う。
「やはり柚子はよい子じゃのう」
撫子は柚子に近付くと、よしよしと頭を撫でる。
されるがままになる柚子は問う。
「どうして突然そんなことをお聞きになるんですか?」
「それがのう。瑶太がなんとも不憫で見てられぬのじゃ」
「瑶太?」
瑶太とは、孤月瑶太のことでまず間違いないだろう。
柚子の妹である花梨を花嫁に選んだ瑶太だが、鬼に楯突いたのを理由に、花梨を花嫁として一族に認められなくなってしまった。
その後、何度かかくりよ学園で顔を合わせたが、以降一度も会っていない。
「彼がどうかしたんですか?」
「今は孤雪家傘下の会社で働いておるのだがの、どうやらちょくちょく休みの日に花梨の様子を見に行っておるようじゃ」
「そうなんですか? ですが、花梨と彼は……」
「そう。花嫁とは認めぬと、当主たるわらわが決めた。それゆえ、直接会ってはおらぬようじゃ。こっそりと陰から花梨の様子をうかがっているだけらしい」
こっそりと陰から……。
どうやら瑶太はまだ花梨を忘れられずにいるらしい。
同じく花嫁を手放したのちに、杏那という彼女を作った蛇塚とは別の道を歩んでいるようだ。
ただ見ているだけ。
その様子を思い浮かべるだけでなんとも不憫に感じる。
あのふたりが離ればなれとなった原因に自分が関わっているため、柚子は他人事に思えない。
「何年経っても一途に恋慕し続ける。ほんに花嫁を想うあやかしの本能とは厄介なものよのう」
撫子はややあきれた様子で苦笑する。
「撫子様はどうして私にその話を?」
瑶太が花梨の様子を見に行っているのを知っていながら、どうやら注意はしていないようだ。
「あれから約五年の時が経った。もうそろそろよいのではないかと思っておるのじゃよ」
「それはつまり、花梨を再び花嫁として一族に迎えるということですか?」
「そうしたいと思っておるが、柚子は嫌か?」
「先程撫子様もおっしゃったように五年の月日が経っています。あやかしは変わらずとも、花梨の気持ちが変わっているのではないでしょうか?」
五年という時はとても長い。
ただの人間である花梨の気持ちが変わらないとは限らない。
新しい恋人ができていてもおかしくはなかった。
「わらわもそう思っておったのだが、なかなかどうして、花梨もずいぶんと一途であった」
「と、言いますと」
「花梨もまた瑶太を忘れられずにいるようじゃのう」
これには柚子もびっくりだ。
花梨のことなので、自分から離れていった己の利益とならない瑶太などすぐに忘れていそうに思っていたのに、本気で瑶太を好きだったというのか。
「これだけ時が経ってもなお想い合うふたりを、無視できなくてのう。妖狐の中でも、瑶太の健気さに胸打たれてわらわに進言してくる者もいる始末じゃ。しかし、ふたりの仲を認めなかった理由も理由じゃ。千夜と若に伝えたところ、柚子の気持ち次第だと答えが返ってきた」
「私ですか?」
柚子はきょとんとする。
「辛い思いをしたのは柚子だからとな。それゆえ、先程恨んでおるかと聞いたのじゃ」
「なるほど」
花梨を一族に迎え入れないと判決を出したのは撫子だが、花梨と瑶太を見て、撫子の心が動かされたというのか。
撫子はふたりを許してもいいと思っているようだ。
しかし、柚子がどう思うのか。それが気がかりであり、柚子の判断で瑶太と花梨の今後が決まってしまうらしい。
なかなかに難しい判断を迫られたが、答えはすぐに出た。
「花梨とは、これまでのあれこれを忘れて姉妹仲よくとは、いかないと思います」
仲よくするには、いろいろなことがありすぎた。
わだかまりはいつまでもついて回り、修復することはない。
血のつながっただけの他人以上になることはないだろう。
「そうであろうな」
撫子は少し残念そうに目を伏せる。
「けれど、撫子様が許してもいいと思われるほど花梨が変わったなら、私が花梨の幸せを決める権利もないと思います」
柚子はそう言って微笑んだ。
その微笑みにはたくさんのものを乗り越えた強さがにじんでいる。
柚子の笑みを受けて、撫子もゆるりと口角を上げる。
「あい分かった。頃合を見計らって、瑶太に花梨を迎えに行く許可を与える」
「すぐではないんですか?」
「すぐではつまらんじゃろう? もう少し泳がせて、会いたくても会えないジリジリとした気分を味わわせてやらねばのう」
先程瑶太が不憫と口にしていたのではなかったのか。
なんとも意地が悪い。
瑶太が少しかわいそうに思った。
花茶会を終えて屋敷に返ってきた柚子を、子鬼たちが出迎える。
「あーい」
「あーいあーい」
「ただいま。子鬼ちゃん」
ぴょんぴょんと柚子の肩に飛び乗った子鬼に続いて、まろとみるくが自分たちもいるぞと寄ってくる。
「アオーン」
「ニャウン」
スリスリと頭を寄せる二匹の頭を撫でてあげてから、柚子は辺りをうかがう。
「龍は今日もいないの?」
「うん」
「どこにもいない」
子鬼の答えに「そう……」とつぶやく。
いつもなら花嫁しか出席できない花茶会にすら、撫子にわがままを言って無理やりついてきていたのに、今日はついてこなかった。
今も龍の姿はない。
まあ、そばにいずとも加護の効果が消えることはないそうなので、柚子の護衛に四六時中一緒にいる意味はないのだ。
柚子になにかあったとしてもすぐに分かり、駆けつけられるそうな。
本当なのか正直疑っているが、龍は霊獣。
いつもまろやみるくの餌食となり、頼りなさそうに見えるが、一応霊獣なのである。
龍は夕食前に、玲夜とともに帰ってきた。
「おかえりなさい、玲夜」
「ただいま、柚子」
いつものように頬へキスをされると、玲夜は着替えに部屋へ向かった。
その場に残った龍はくるんと柚子の腕にからみつく。
「今日もお社へ行っていたの?」
『うむ。あの方のご機嫌うかがいにな』
「でも、神様は姿を見せるの?」
『見せずとも声は聞こえる。まあ、今はまだ寝ておられる時間が長いがな』
神様がどういう状態なのか、柚子にはいまいち理解できていない。
目覚めたかと思ったら寝ぼけていると言ったり、寝ていると言ったり、いったいどれなのか。
『柚子に会いに来るそうだ』
「会いに、来る?」
呼び出されるではなく、“会いに来る”とはいったい全体どういうことだ。
『その時になれば分かるであろう』
できれば周りに迷惑にならない形で会いたいものだ。
少しすると雪乃が夕食の準備ができたと呼びに来た。
向かえば玲夜もちょうど着いたところ。
ふたり向かい合うようにして座る。
高級料亭で出てくるような料理を、勉強のためになるとじっくり観察して味わいながら食べる柚子は、玲夜に話すことがあったのを思い出す。
「玲夜」
「どうした?」
甘く囁くような返事とともに微笑みが返ってきて、柚子は一瞬ときめいてしまったが、気を取り直す。
「今日花茶会に行ってきたでしょう? そこで、穂香様っていう、この間パーティーでもお会いした花嫁が離婚したらしいの」
途端に険しくなる玲夜の顔。
「鎌崎と同じと言いたいのか?」
「うん。パーティーの時の穂香様の旦那様はとても執着しているように見えた。穂香様が外へ出る理由になってる花茶会も、それを主催する撫子様やお義母様のことすら不満そうに文句を言ってたぐらいだったもの」
「……ああ、あのあやかしか」
納得した様子の玲夜は、どうやら、たくさんいた出席者の中で、柚子の言っている穂香の旦那がどの人物なのか一致したらしい。
「離婚するなんておかしいって、撫子様も穂香様の周辺を調べてらしたみたい。神器のことを話すと、なにか分かったら教えてくださるって」
「そうか。確かに妖狐の当主の協力もある方が見つけやすいとは思うが……」
その時、玲夜はなにかに気付いた様子で「そういえば……」と、つぶやいた。
「今思い出したが、鎌崎に会いにいったパーティーの時、その穂香という花嫁とも会っているな」
「そうなの?」
「ああ。柚子と花茶会で一緒したと言っていた。死んだような目をした女だったのを記憶している」
玲夜が険しい顔をするものだから、柚子まで釣られて難しい顔をしてしまう。
これはただの偶然か、それとも……。
「玲夜」
「分かっている。その穂香という者も調べてみよう」
「うん」
玲夜が動いてくれるなら安心だ。
しかし、そうなると、もう柚子にできることはない。
ただ、報告を待つだけだ。
「話は変わるんだけど、花梨のこと、玲夜は聞いたんだよね?」
柚子は顔色をうかがうように玲夜に視線を向ける。
「ああ、妖狐の当主から聞いている。あのふたりをどうするかは柚子次第だと答えてある」
「玲夜はそれでいいの?」
鬼龍院と孤雪で決められたふたりの処遇なのに、自分が決定権を持っていいものなのか疑問だった。
「あのふたりに危害を加えられたのは柚子だからな。決めるのは俺でも父さんでもなく柚子だ。父さんもそれで問題ないと言っているし、柚子の好きにしたらいい」
「……ふたりを許してもいいって思ったんだけど、それでもよかった?」
「柚子がそれを望むならな」
玲夜からの反対がなく、柚子はほっとした。
「花梨がいまだに瑶太を思い続けているってのは、正直びっくりしたの。花梨はあやかしの花嫁に選ばれた優越感で彼と一緒にいるんだと思ってたから」
「俺も同じだ」
「あれからもう五年経った。人が変われるには十分な時間だと思うの。私だって変わったでしょう?」
「そうだな」
両親のように変わらなかった人もいるが、自分は昔より強くなれたと思えるから……。
「たぶんね、もう仲よくはできないと思うの。どれだけ花梨が変わったか分からないけど、撫子様が許してもいいって思えるほどなんだから相当なんだと思う。でも、私たちの間には見えない大きな亀裂があって、それは一生ついて回る気がする。わざわざ会いに行こうとも思わないし、花梨も同じだと思う」
会ったところでなにを話していいか分からない。
「今さら姉妹なんて都合のいい言葉は使えないし、使ってほしくないけど、花梨の人生は花梨のものだから、私が選んでいいものじゃない。瑶太とこの先どうしていくかは、花梨たちがふたりで決めていくことだと思う……」
だから、柚子はもういいと思った。
「柚子がそれでいいなら俺は賛成する」
いつの間にか隣に来ていた玲夜が柚子の頭を引き寄せる。
玲夜の胸に頭を寄せる柚子はそっと目を閉じた。
「あやかしの本能は厄介なものだって撫子様がおっしゃってたんだけど、その時神器のことが頭をよぎったの。あやかしの本能を消してしまう神器。神様は悪用されてるって。だけど、蛇塚君は使ってみたいとも言ってた」
柚子は玲夜から頭を離し、見上げる。
「玲夜はどう思う? 瑶太はいまだにあきらめられず花梨を思い続けていたみたいだけど、それほど強い想いは逆に苦しくはないのかな? いっそ本能をなくしてしまった方が、あやかしも花嫁も楽になるんじゃないのかな?」
柚子の純粋な眼差しが玲夜を見つめる。
玲夜は少し考えるように沈黙した後、柚子の頬に触れた。
「確かにあやかしが花嫁を想う本能は誰よりも強い。場合によっては、いっそなかった方が楽だと感じるのかもしれない。けれど、この本能のおかげで俺は柚子に出会えた。この尽きることのない感情に一生気付かぬまま過ごしていたかもしれないと思うと、俺は恐怖すら感じる」
玲夜は柚子の両頬を包むように手を添えた。
「俺はなかった方がよかったなんて思わない」
「……でも、私ね、神様から神器の話を聞いてから考えるの。もしも花嫁じゃなかったら、玲夜は私を好きにはならなかったんじゃないかって。花嫁だから好きなのであって、花嫁じゃなくなったら、私は簡単に捨てられるんじゃないのかな? 神器を使われたあやかしが簡単に花嫁の興味をなくしたように。それが怖い……」
花嫁を選ぶのはあやかしの本能。
その本能をなくしただけで、あれだけ執着していた思いを忘れ去ったように興味をなくすあやかしたちに、柚子は恐れを抱いた。
もしも玲夜に神器が使われたら。
他の花嫁のように自分は用なしになってしまうのではないか。
恐怖を訴える柚子に、玲夜は包むように添えていた手で柚子の両頬をつまむ。
まろの猫パンチよりもずいぶんと弱い力ではあったけれど、そんなことをあまりされない柚子は目を瞬いた。
玲夜は若干怒っているように見えた。
「玲夜?」
「俺を舐めるな。確かに出会いは柚子が花嫁だったからだ。そこはどうしようもない事実だから認めるしかない。けれど、今ある柚子への想いは、神器程度の力でなくすようなものじゃない」
柚子の不安を吹き飛ばすように力強く告げられた想いに、柚子はなぜだが泣きそうになった。
「私が花嫁じゃなくなっても好きでいてくれる?」
「当たり前だ。そんなに不安だというなら、神器を見つけたら神に返す前に使ってみるか?」
自分で言っていて良案だと思ったのか、「そうだな。そうしよう」と、玲夜はひとり決意を固めている。
だが、神器を使うのはさすがにマズイ。
「……それはやめておいた方がいいかも。神様も神器が使われたらあやかしにどんな影響があるか分からないって言ってたし」
本気で使いそうな勢いの玲夜に、柚子は表情を変えクスクスと笑う。
また自分の弱さが顔を出してしまった。
以前よりは強くなったと実感していても、どうしても弱かった頃の自分が消えてはくれない。
変われたつもりでも変われていない。
もっと強くありたい。
多少のことでは揺れぬ強靱な心を手に入れたい。
それがきっと玲夜の隣に立つ自信につながるはずだから。
その日の夜、夢を見た。
桜が舞う中、空には少し欠けた月。
目の前には社と、長く白い髪をたなびかせた神が立っていた。
柚子は真っ暗な周囲を見回す。
「神様……。ここは?」
『柚子の夢の中だ』
「夢?」
夢と言うにはあまりにリアルだ。
手足の感覚も、頬を撫でる風の心地よさまで感じる。
『少しだが力を使う余力ができたので、柚子の夢の中に入ったのだよ。夢の中ならいつでも会えるし、迷惑もかけないだろう?』
「そうですね」
どうやら神なりに気を遣ってくれているらしい。
以前に神に呼び出された時に多くの人へ迷惑をかけてしまったことを考えると、その気遣いは大変助かるが、夢の中に突然神が現れたら柚子もびっくりだ。
これはちゃんと目が覚めるのだろうか。
あまりにも現実的すぎて、ちょっと心配になってきた。
それにしても美しい空間だなと、桜の花に気を取られていると、気付かぬうちに神が柚子の目の前に立っていた。
手も届くその距離感に少し驚いた柚子だったが、顔には出さず神の様子をうかがっていると、おもむろに神が柚子の頭を撫で始めた。
それはもう楽しそうに、にこやかな顔をしながら。
あまりにも楽しそうというか嬉しそうだったので、拒否することもできなかった。
『柚子は本当にかわいいな。だが、ずいぶんと大変な時間を過ごしてきたようだ。それなのに、歪まずここまでよく育った』
まるで孫の成長を喜ぶ祖父のように微笑む神に、柚子はなんとも言えない気持ちになる。
こんなにベタベタとさわられているのに、嫌な気にはならないのが不思議だ。
柚子に触れる手にいやらしさを感じないからかもしれない。
他意はなく、心から純粋に柚子をかわいがっている。
「あの、神器のことなんですけど、まだ見つかっていなくて……」
『ああ、それならいつでも問題ない。見つかればいいし、見つからなければ、それはそれで構わない』
「えっ! 構わないんですか!?」
早く神器を探さねばと多くの人が探し回っているというのに。
『前にも言ったが、あれはもともとサクのために作ったもの。サクはもういないのだから、どちらでもいい』
「でも、神器が悪用されているからって、気にされていたのではないのですか? あやかしにも影響があるからと」
『サクのための道具を勝手に使われているようだから不快なだけだ。神器が使われた時のあやかしの悪影響を気にしていたら、そもそも神器など作っていない』
「えー」
思っていたのと違うと、柚子は呆気にとられた。
「じゃあ、どうして私に探すように依頼したんですか?」
『柚子には必要かと思ったから』
「私にですか?」
まさかそこで自分の名前が出てくると思わず、柚子は困惑した様子。
『サクの時のように、鬼に愛想を尽かしたら、神器が必要になってくるだろう?』
なんの悪気も悪意もなく、神は柚子の髪を撫でながら首を傾ける。
『鬼が嫌になったら使うといい』
「つ、使いません!」
柚子は慌てて否定するが、神は『遠慮することはない』と、信じてくれない。
「私は玲夜とずっと一緒にいたいんです。なのでそんな神器なんて必要ないです」
そう訴えると、神は目を丸くした後、くつくつと笑い出した。
『そなたはサクと同じことを言うのだな』
「サクさんも?」
『ああ。そんなもの必要ないから壊してくれと、大きな石を持ってきて叩き壊そうとしていた。まあ、そんなことで神の作った道具が壊れるはずもないというのに、かわいい子だ』
柚子には分かる。
その時のサクの必死さが。
けれど、今と同じように、神には伝わらなかったのだろう。
「あの、じゃあ、神器は見つからなくてもいいんですか?」
『いや、念のため探しておくれ。柚子が使うかは別として、私の力によってできたものだ。管理もできない者に持たせておけないから』
管理もできないとは、烏羽家のことを言っているのだろうか。
そもそもどうして烏羽家は神器を手放したのだろうか。
神なら知っているのか。
「あの……」
柚子が声をかけたその時、以前のように神の姿が桜の花びらに溶けていく。
「神様!?」
『時間のようだ。また会いに来るよ、私のかわいい神子』
桜吹雪が柚子を襲い、はっと目を覚ました柚子の目に飛び込んできたのは、見慣れた天井だ。
目が覚めたのかと、ぼうとしていると……。
「柚子!」
玲夜が視界に飛び込んできた。
「玲夜?」
「大丈夫か!? どこか悪いところはないか!」
ずいぶんと鬼気迫った様子に、まだ少し寝ぼけていた柚子は一気に覚醒する。
「玲夜、どうしたの? そんな大騒ぎしなくても……」
「なに言ってるんだ。丸二日眠っていたんだぞ」
「二日!?」
夢の中では体感で数十分程度だったというのに、現実世界ではそんなに経っていたなんて。
驚きのあまり声を失う。
「そうだ。声をかけても揺すっても目を覚まさないから、どれだけ心配したか。医者に診せても眠っているだけだというし」
よほど心配してくれていたのだろう。
まだ不安そうにしている玲夜を見て、これはもうさすがに怒っていいのではないだろうかと、柚子は神に対して思った。
「夢の中で神様に会ったの」
「神に?」
「神様が、夢の中なら迷惑をかけないだろうって。それなのに、まさか二日も寝てるなんて……」
どっちにしろ迷惑をかけているではないか。
柚子の話を聞いて、玲夜のこめかみに青筋が浮かぶ。
「もういっそ社をぶち壊すか……」
不穏な言葉を吐く玲夜を沈めてから、柚子は再び心配をかけた千夜や沙良、屋敷の人たちに謝罪行脚することになったのだった。
今回は眠っているだけということで、透子や撫子には連絡がいっていなかったのが幸いだった。
無駄に心配をかけずにすんだ。
四章
二日ぶりに目を覚ました柚子に、子鬼が飛びついてくる。
「あい~」
「あーい」
「子鬼ちゃん、ごめんね」
心配そうにする子鬼をなだめる。
玲夜は柚子の隣でベッドに腰掛け、本家に連絡している。
柚子が目覚めたことを千夜と沙良に報告しているのだ。
また迷惑をかけてしまって、なんと謝ったらいいのやら。
柚子自身は二日も眠っていたとは思えないほど体調はいい。
むしろ調子がいいほどだ。
けれど、玲夜は心配なのか、まだベッドの上の住人となっている。
これから鬼龍院おかかえの医者がやって来るので、医者の許可が出るまで着替えるのすら駄目だと言われてしまった。
柚子のことになると心配性になる玲夜の悪いところが出る結果となった。
本当になんともないのだが、逆に玲夜が二日も目覚めなかった時の立場を想像すると文句が言えないので、柚子は仕方なく大人しく医者が来るのを待っている。
どうやら電話が終わったらしく、玲夜がスマホをサイドチェストの上に置く。
そして、柚子を横抱きにして膝の上に乗せた。
柚子の首筋に顔をうずめる玲夜に、柚子は気恥ずかしそうに身じろぎすると、なにを思ったか柚子の首筋に吸い付いた。
首筋に感じるわずかな痛みに、柚子は言葉を詰まらせる。
「れれ玲夜!」
激しく動揺する柚子は、顔を赤くする。
うろたえる柚子とは反対に、冷静そのものな玲夜はやや半目で恨めしそうに柚子を見る。
「仕置きだ。まったく、最近の柚子には心配をかけられてばかりだからな」
「うっ……」
痛いところを突かれる。
それを言われると柚子としても文句が言えないではないか。
「でも、神様がしたことなのに……」
決して柚子が望んで心配をかけさせるようなことをしているわけではない。
「今度会ったら二度と顔を見せるなと言っておけ」
「それ、撫子様が聞いたらブチ切れると思うよ」
誰よりも神を崇拝しているように感じる撫子である。
神へ不満を述べるなど許されそうにない。
当然のように龍も文句を言うだろう。
「俺の柚子を何度も呼び出す奴には当然の苦情だ」
玲夜はそうとうお怒りらしい。
今、神が目の前にいたら殴りかかりそうな勢いだ。
「まあ、私はなんともないから」
「当然だ。なにかあれば苦情だけで許すわけがないだろ」
玲夜の眼差しが本気すぎてちょっと怖い。
ご機嫌斜めの玲夜をどうにかこうにかなだめながら、しばらくして医者がやって来た。
体調に問題なしというお墨付きをもらい、やっとこさベッドの住人を脱して、遅い朝食を取ることに。
二日ぶりの食事なので、胃に優しい雑炊が卓に並ぶ。
出汁のきいた熱々の雑炊を胃に収めてから、ほっとひと息つく。
「アオーン」
「にゃーん」
ゴロゴロと喉を鳴らしてみるくが柚子に頭を擦りつけ、まろは柚子の膝の上で丸くなる。
この夏の日に熱いものを食べたせいか、暑くなってきた。
持っていたヘアゴムで髪を後ろでひとつに結いあげようとしていると、その様子を見た雪乃が困ったように止める。
「奥様。髪を結ぶのはやめておいた方がよろしいかと」
「どうしてですか?」
分かっていない柚子に、有能な雪乃はなにも言わずそっと手鏡を渡した。
「お首の方に……」
多くを語らぬ雪乃に言われるがまま首を見ると、雪乃が止めた理由が分かり柚子は恥ずかしくなった。
そして、原因である玲夜にじとーっとした眼差しを向けた。
「玲夜、こんなとこにつけてどうするのよ~」
思わず情けない声を出してしまう柚子が鏡で確認した首筋には、くっきりとしたキスマーク。
向かいに座る玲夜はクスクスと意地悪く笑っている。
「さっき仕置きだと言っただろう」
「だからってこんなくっきりつけなくてもいいじゃない」
見る者が見ればすぐにキスマークと分かる。蚊に噛まれたなんてごまかしはきかないだろう。
「透子の結婚式に出席するためにドレスを買いに行くって言ってたでしょう? これじゃあ、恥ずかしくて首元の開いた服は着られないよう」
試着したら店員に絶対見られてしまう。そんな恥ずかしい思い、したくはない。
「なら、ちょうどいいだろ。露出の少ないドレスにしたらいい」
玲夜の狙いは、最初からそれだったのではないかとさえ思い始める。
「着ていくドレスの目星つけてたのに……」
がっくりとする柚子だったが、思い直す。
「結婚式までもう少し時間あるからそれまでに消えるかな?」
「なら消えたらまたつけてやる」
玲夜なら本気でやりかねないので、首元の詰まったドレスにせざるを得なそうだ。
「そういえば、玲夜。仕事はいいの?」
いつもならとっくに仕事に行っている時間だ。
そういうと、玲夜から責めるような視線が返された。
「柚子が眠って起きない状況で、仕事に手がつくと思ってるのか?」
「そうでした」
自分が元気いっぱいなために、二日間も目が覚めなかったのをすっかり忘れていた。
最愛の花嫁がそんな状態で、平然と仕事をしていられる玲夜ではないのは、柚子がよく知っているのに。
「もしかして、玲夜寝不足じゃない?」
今さらになって気付いた。
いつ起きるか分からない柚子を前に、玲夜はちゃんと睡眠を取っていたのだろうか。
「問題ない」
柚子のことは過保護なほど気を遣うのに、自分のことになると一転しておろそかになる玲夜の言葉はこういう時信用できない。
柚子は事実を求めて雪乃へ視線を向ける。
「雪乃さん、どうでした?」
「奥様がいつ目を覚ますか分からないからと、この二日間ほとんど睡眠を取られておりません」
あっさり主人を売った雪乃は、それだけ玲夜を心配してのことだ。
それなのに、困ったように頬に手を当てる雪乃を、玲夜がにらむ。
けれど、雪乃をにらむのは見当違いである。
「玲夜ったら」
咎めるような柚子の視線はなんのその、玲夜はしれっとしている。
「玲夜を怒っちゃ駄目だよー」
「玲夜は柚子が心配なだけー」
子鬼がすかさずフォローに回る。
柚子の腕にひしっとすがりつく……いや、張りつく子鬼はかわいらしく、ほだされそうになるが、それとこれは別物だ。
膝の上に乗っていたまろを横に移動させ、玲夜の腕を掴む。
「ほら、玲夜、行こう」
柚子は腕を引っ張って立たせようとする。
「どこに?」
「部屋に。睡眠取らないと、今度は玲夜がどうにかなっちゃうよ」
「あやかしはそんなやわじゃない」
「問答無用」
自分のせいで玲夜が倒れてしまったら、自己嫌悪に陥るに決まっている。
自分のためにも玲夜には睡眠を取ってもらわねば。
真剣な様子の柚子に、玲夜はクスリと笑ってされるがままに引っ張られると、寝室へ向かった。
玲夜をベッドに寝かせて満足そうにする柚子は、ライトも消しカーテンも閉じて部屋を暗くする。
一緒についてきたまろとみるくもベッドに上がり玲夜の足下で丸くなる。
こうなったら皆でお昼寝だと、柚子も玲夜の横に転がった。
「気持ちよく眠れるように子守歌でも歌おうか?」
いたずらっ子のように笑う柚子に、玲夜も優しく微笑む。
「柚子が隣にいてくれるだけで十分だ」
柚子を腕の中に閉じ込め、少しすると玲夜は目をつぶる。
それを見届けると、二日も眠ったというのに柚子もなにやら眠くなってきた。
大きなあくびをして、規則正しく動く玲夜の胸に顔を寄せ眠りについた。
翌日、柚子は玲夜とともに買い物に出かけた。
透子と東吉の結婚式に出席する時に着るドレスを買うためだ。
玲夜の仕事は大丈夫なのか心配になったが、玲夜いわく「桜河がなんとかする」らしい。
副社長も務める桜河のなんと不憫なことか。
妹の桜子はすでに高道と結婚しているというのに、桜河にはいまだ決まった相手がいないらしいのだが、玲夜がことあるごとに面倒ごとを放り投げるからではないのかと思ってきた。
「玲夜。桜河さんにはもう少し優しくした方がいいよ」
柚子に問題が起こるたび、なにかとしわ寄せが桜河に向かっている気がして、柚子は桜河がかわいそうになってきた。
それなのに、玲夜ときたら……。
「問題ない。桜河だからな」
それは桜河を信頼しているからの言葉なのか、都合よく利用しやすいという意味なのか定かでないが、後者だった場合、本当に不憫すぎる。
桜河にいつか春がやって来るのを切に願うばかりだ。
そんな話を交えながらやって来た店。
透子たちは洋風の結婚式をするというから、着物では浮いてしまいそうなので、ワンピースかドレスを見に来た。
透子のドレスの色が分からないので、被らないように気をつけたいところだが、当日のお楽しみといって教えてくれない。
「玲夜は何色がいいと思う?」
「露出が少ないのだ」
「色を聞いてるんだけど……」
困ったように笑う柚子は、チラチラと玲夜が店の中ではなく外を気にしているのに気がついた。
「玲夜? どうかした?」
「なんでもない」
「そう?」
気のせいかと柚子はドレス選びに戻る。
「これー」
「僕はこれー」
子鬼たちも柚子に似合いそうなドレスを選んでくれる。
もしここに龍がいたら子鬼以上に口を出しただろうに、柚子が二日も眠っていた時から姿が見えないらしい。
玲夜も、眠り続ける柚子のことを龍ならなにか分かるのではないかと探していたのだが、屋敷にすら帰ってきていないのだとか。
柚子が目覚めてからも帰ってきた様子はない。
まろとみるくならなにか知っているのだろうか。
しかし、二匹は無言を貫いたため、いつもなら二匹の言葉を理解し教えてくれる子鬼たちもお手上げ状態のようだ。
玲夜ですら勝てなかった霊獣なので、龍の心配はしていないのだが、自分の知らぬところでなにか起きているような気がして、なんだがすっきりとしない。
まあ、気にしたところで柚子にできることなどたかが知れている。
神器の捜索も難航しているようだ。
だが、神はそこまで重要視していないと夢の中で知ったし、とりあえずは目の前に迫った結婚式のためのドレスを選ぶことに集中する。
何着か試着して、最終的に淡い水色のドレスに決めた。
柚子の予想だが、透子は暖色系のドレスを選ぶと思ったのだ。
これで間違っていたら落ち込むが、柚子好みのかわいらしいデザインに一目惚れだった。
試着した姿を玲夜に見せると、玲夜の基準もクリアしたようで、許可が下りた。
子鬼も手をパチパチと叩いて褒めてくれ、柚子はほっとする。
この店にはアクセサリーも置いているとあって、ドレスに合わせたアクセサリーも一緒にそろえることにした。
さすがに今から藤悟にオーダーメイドしてもらう時間はない。
それに、藤悟には柚子のものより大事な、主役である透子のアクセサリーを作ってもらっているところなのだから。
会計はもちろん玲夜。
柚子が着替えている間に、さっさと会計をすませてしまうスマートさはさすがである。
以前に龍の力を試すためにと買って当たった宝くじの当選金だが、祖父母の家のリフォームに使っただけで、それ以降減る様子はない。
なにせ、必要なものは全部玲夜が用意してしまうのだから。
玲夜と暮らすようになり、最初は遠慮していたものの、結婚したのだから玲夜が稼いだお金は夫婦の共有財産という考えが根付きつつあるが、やはりまだ気後れしてしまう。
十年、二十年と経てば、遠慮もなくなってくるのだろうか。
それはその時になってみなければ分からない。
包んでもらったドレス一式は、護衛の人に渡り、店まで乗ってきた車に乗せられた。
「この後はどうするの?」
柚子としてはせっかく玲夜とふたりで外に出たのだから、デートのように過ごしたい。
厳密にはふたりではなく、柚子の肩には子鬼がいるし、護衛の人たちも少し離れてついてきている。
だが、まあ、これはもう仕方ないとあきらめている。
なにせ玲夜は天下の鬼龍院。柚子はそんな彼の花嫁なのだから。
「少し歩こう」
「うん」
柚子はすぐに帰るということにならなかったと純粋に喜んだが、どこか玲夜の様子がおかしかった。
柚子の肩に乗る子鬼も、警戒するように目を鋭くさせているのに、柚子は気付かなかった。
ウィンドウショッピングを楽しみながら、祖父母へのプレゼントを選ぶ。
柚子が神に呼び出されて行方不明となった時、当然祖父母にも連絡がされていた。
柚子が向かう場所として可能性が高いのが、猫田家か祖父母の家だからだ。
学校でのストーカー事件の時よりも心配をさせてしまい、ふたりには申し訳ないことをしてしまったと、柚子はすぐに電話をかけて無事を知らせた。
度重なる問題に、ふたりの心労が気になるところなので、近いうちに泊まりで遊びに行こうと計画している。
けれど、それは透子と東吉の結婚式の後になるだろう。
祖父母のプレゼントを買うと、特に目的もなく歩く。
玲夜となら、そんな無駄な時間すら愛おしく感じるから不思議だ。
柚子は玲夜と腕に掴まり、玲夜主導で歩いていたのだが、大通りから離れ、だんだんと人通りの少ない方へと誘われる。
特に店もなさそうな裏通りに来ると、さすがに柚子もおかしいと思い始めた。
先程までつかず離れずいた護衛の姿も見受けられない。
「玲夜?」
柚子は玲夜の顔をうかがうように見上げるが、玲夜は無言で険しい顔をしている。
玲夜が柚子の声に反応しないなど、通常では考えられない。
不安げにする柚子と険しい玲夜の前に、突如として人が飛び出してきた。
驚く柚子は、それ以上に、飛び出してきた人物に驚く。
それは最近離婚したと聞いたばかりの穂香だった。
「穂香さん?」
柚子は戸惑いを持って穂香を見つめる。
「先程からずっとつけていたな?」
玲夜の問いかけに、穂香は不気味に口角を上げる。
「なんの用だ?」
「おかしいの……。同じ花嫁だっていうのに、どうして私とあなたは違うの? どうしてあなたは幸せそうに笑っていられるの? おかしい……。おかしいわ」
そう話す穂香の目はギラギラとしている。
穂香は持っていた小さな鞄から、手のひらに載るほどの、水晶のような透明な玉を取り出す。
「おかしなものは正すべきなの」
ジリジリと近付いてくる穂香の異常さに危機感を抱く柚子だが、穂香の手にある玉から目が離せない。
けれど、玲夜は気付いていないようで、危険を感じてはいない様子。
「そんな小さな玉でどうする? そんなものであやかしに勝てるとでも思っているのか?」
穂香を挑発する玲夜と穂香の距離は、数歩で手が届くほど。
玲夜は柚子を庇うように前に立っており、子鬼たちも柚子の肩の上でいつでも攻撃できる態勢を取っていた。
そして、それまで姿が見えなかった護衛たちが続々と姿を見せ、穂香の退路を断つ。
そんな中で、柚子だけが様子が違う。
ただひたすら、じっと穂香の持つ透明な玉に目が向けられていた。
「あれは……」
違う。普通の玉ではない。
最初は水晶玉かガラス玉かと思ったが、そんな簡単なものではない。
玉からオーラのようにあふれ出る、柚子の見知った力。
そう、あれは神の力だ。
間違うはずがない。
神と夢で会った時も、ずっとその神聖で清らかな力を感じていたのだから。
玉からあふれる力が神気だと感じた柚子の中に、すぐさま答えが出る。
『神器』
どんな形をしているかも分からない、いくらでも形を変えてしまうそれは、神の力を感じ取れる神子の素質を持つ柚子でなければ見つけられない。
「玲夜っ」
焦りを滲ませて玲夜の腕を引く。
「柚子は下がっていろ」
そうではない。そうではないのに、うまく言葉にならない。
そうしている間に、穂香は玲夜に向けてその玉を差し出した。
すると、透明だった玉の中にゆらりと光が渦巻く。
その瞬間、玲夜はめまいを起こしたようにぐらりと体がふらついた。
「っつ。……なんだ?」
頭に手を当てる玲夜は、自分の異変に驚いている様子。
「玲夜」
それでも、心配そうに玲夜を見あげる柚子だけは守ろように前に立っている。
「あなただけずるいわ」
穂香は柚子に視線を向けたまま、玲夜に向かって走ってきた。
もとより数歩で手の届く位置にいた穂香が、玲夜に近付くのはたやすい。
周囲には護衛が何人もいるが、玲夜はそんな護衛たちよりずっと強い力を持っているあやかしだ。
護衛たちは『玲夜の』というよりは、柚子の護衛としてつき添っている。
そんな護衛たちは、玲夜なら簡単に穂香をあしらってしまうと思ったのかもしれない。
だが、穂香をあしらうどころが、玲夜攻撃も防御の仕方も忘れたように、無防備に正面から穂香を受け止めてしまった。
ドンとぶつかった穂香の手には、先程まで持っていた玉はあらず、変わりに小刀が握られ、深々と玲夜の胸に突き刺さっていた。
「……あ……玲夜ぁぁ!」
柚子の悲鳴のような声に、護衛たちが慌てて穂香を玲夜から引き剥がし、地面に引き倒してから後ろ手に拘束する。
その際に穂香の持っていた小刀が地面に落ちたが、そんなことを気にしていられる余裕はなかった。
「玲夜。玲夜! 刺されたの?」
玲夜が着ていたシャツには、小刀が貫通したように縦に裂け目ができていた。
だが、どうしたことか血が出ている様子はない。
確かに刺されたのを見たのに。
「玲夜!」
返事のない玲夜は、呆然としたように胸を押さえ、足の力を失ったようにその場に倒れてしまった。
「やだ。やだ、玲夜! 玲夜!」
「奥様、そこをお退きください!」
完全にパニック状態になっている柚子を、護衛のひとりが玲夜から離し、別の護衛が玲夜のシャツをまくり上げる。
しかし、そこには刺された跡どころか傷ひとつなく、綺麗な状態の皮膚だけだった。
「えっ?」
柚子は呆然としたように声が漏れる。
玲夜の様子を見た護衛も、困惑した様子を隠せないでいる。
「どういうことだ? 傷がないなんて」
「玲夜様の意識は?」
「気を失っているだけのようだ」
「いったん病院にお連れした方がいいな。俺たちで勝手に判断できない」
そんな会話をどこか遠くに聞きながら、柚子の視線は玲夜を刺した小刀へと向けられた。
地面に転がる小刀を手に持つ。
一見すると普通の小刀のように見えるが、神子の素質を持つ柚子からすると、どこか普通のものとは違う。
なにがと問われたら困ってしまうが、ただの小刀ではない。
そもそも、先程まで玉だったものが、マジックでもないのに小刀に変わるはずがない。
「玲夜にぶつかる瞬間に小刀に変わってた」
柚子の見間違いでなければ間違いない。
「これがもしかして神器……?」
だとしたら玲夜は神器に刺されたということになる。
それはどんな意味を持つのだろうか。
嫌な予感がしてならない。
穂香ならなにか知っているはずだと、いまだ拘束された穂香に目をやり問いかける。
「穂香さん。玲夜になにをしたんですか?」
穂香はふふふふっと、愉悦するように笑った。
「あなたの持っているそれはね、とてもすごいのよ。花嫁のための特別な道具なんですもの」
「…………」
柚子は興奮する穂香を静かに見下ろす。
「それであやかしを刺すとね、あやかしは花嫁への興味をなくしてしまうの。花嫁にとって奇跡の道具でしょう? それのおかげで私はあの男から解放されたんですもの」
小刀を持つ柚子の手が震えた。
穂香の話が本当なら、これは間違いなく神器。
そして、神器を使われてしまった玲夜は……。
その先は考えたくなかった。
玲夜からあやかしの本能がなくなったのだとしたら、自分はどうしたらいいのか、柚子には分からない。
けれど、今優先させるべきなのは意識を失ってしまった玲夜だ。
護衛が車をここまで持ってきて、気を失った玲夜を乗せる。
柚子も急いで乗り込んで、玲夜の手を必死の思いで握り続けた。
いろんな葛藤が柚子の中でされたが、考えるのは後だ。
玲夜の無事を確認しなければいけないと、自分を奮い立たせた。
玲夜は鬼龍院お抱えの病院へと運び込まれ、そこで精密検査を受けることになった。
人間とはまた違うあやかしという存在には、あやかしのための病院がある。
そこを経営しているのも鬼龍院だ。
まるでかくりよ学園の病院版のようなものだと柚子は認識する。
実際は病院にやって来るあやかしは弱い下位のあやかしがほとんどだ。
鬼のような強いあやかしが病院に運び込まれることは滅多にない。
病院の医者も、あやかし界でも有名な玲夜が運び込まれてひどく驚いていた。
意識のない玲夜の無事を祈りながら待合室で待っていると、沙良と桜子がやって来た。
「柚子ちゃん!」
「あ……お義母さま……。桜子さんも」
「玲夜君は?」
沙良は切羽詰まった様子で柚子の肩を掴む。
「まだ検査中です」
柚子の不安に彩られた表情が、暗く落ち込む。
「顔色が悪いわ」
沙良とて玲夜が気になるだろうに、柚子の心配をしてくれる。
その気遣いがありがたく、柚子を冷静にさせる。
玲夜が心配なのは自分だけではないのだ。
「私は大丈夫です。それより玲夜が……」
「なにがあったの?」
珍しく真剣な表情の沙良に、先程あった出来事を話す。
穂香とは顔見知りである沙良と桜子はかなり驚いていた。
「穂香ちゃんがそんなことをするなんて」
沙良は信じられないようだが、桜子はどこか納得げ。
「いえ、だからこそかもしれませんね。彼女は旦那様と折り合いが悪かったですから」
悪いどころではない。
憎んでいたといってもいい。
それは柚子も知っていた。
柚子は穂香が落とし、回収していた小刀を鞄から出す。
「柚子ちゃん、それは?」
「玲夜はこれで刺されたんです。でも、確かに刺されたのに傷がなくて、傷がないのに玲夜は倒れて……」
「玲夜君が素直に刺されたの? 抵抗もせず?」
「穂香様が持っていた時、最初は手のひらサイズの玉だったんです。それが玲夜に当たる前に小刀に変わって、玲夜もなんだが様子がおかしかったんです。それで、避けることもできずに刺されてしまった感じでした」
柚子はなにもできなかった。
それが悔しく、情けない。玲夜に守られてるだけの自分は、足を引っ張るばかり。
なんの変哲もない小刀を柚子は苦々しい思いで握りしめる。
「穂香様が言っていました。これで刺されるとあやかしの興味をなくしてしまう、花嫁のための特別な道具だって」
柚子の言葉を聞いて、沙良と桜子ははっとする。
「柚子ちゃんそれって!」
柚子はゆっくりと頷く。
「もしかしたら、これが神様の探していた──」
『間違いなく神器のようだ』
突然ぬっと現れた龍に柚子はびくりとする。
当たり前のように現れた龍に柚子は目を丸くする。
「どうしてここに?」
『どうも柚子の心が不安を感じているようだったのでな。急いでやって来たというわけだ』
「不安を感じてるって……」
確かに玲夜が刺されて不安でいっぱいだったが、龍はそんなことすら分かるのだろうか。
だが、今追求すべきはそこではない。
「これが神器って、間違いないの?」
『うむうむ。我が教えずとも柚子とて分かっているのではないのか? これから発するあの方の力に』
柚子は反論ができない。
一見するとただの小刀でしかないのに、小刀から感じるこの感覚は間違いなく神のもの。
神本人から感じるものと力の大小はあれど、柚子の中の神子の力が教えてくれる。
これは神器だと。
「じゃあ、玲夜はどうなるの? 玲夜は刺されたのよ?」
思わず涙声になってしまう。
『それは問題ない』
不安でいっぱいの柚子に、龍は断言する。
『その神器はあやかしの本能を断つもの。肉体を傷つけるものではない』
「でも、玲夜は気を失って……」
『一時的なものだ。しばらくすれば目が覚めるであろうよ』
一気に肩の力が抜ける柚子。
沙良もほっとした様子だが、桜子だけは難しい顔をして口を開く。
「お待ちくださいな。玲夜様がその神器を使われたとなると、柚子様が花嫁でなくなるということではないのですか?」
今になって気付く沙良が「あっ」と声をあげる。
『花嫁でなくなるわけではない。本来番えぬあやかしと人間が伴侶になれる、花嫁が持つ付加価値はあの方が人間に与えたものであるからして、なくなりはしない。ただ、花嫁と認識する本能がなくなるのだ』
「同じじゃないの~!」
沙良が龍を両手でぎゅうっと握りしめてからブンブン前後に振る。
『ぬおぉぉぉ! なにをするのだぁ!』
「どうにかならないの!?」
『そう言われても、我にはどうすることもできぬ。なにせ我はしがない霊獣でしかないのだ。神の作った道具をどうにかできるはずがないであろう』
「もう! 役に立たないわね!」
沙良はプリプリ怒りながら龍をぽいっと捨てた。
『ひどいっ。我は柚子が心配でやって来ただけなのに』
よよよっと泣く龍を子鬼がよしよしと撫でて慰める。
「柚子ちゃん、玲夜君ならきっと柚子ちゃんへの想いは変わらないわ」
「いえ、玲夜の身が無事だって知れただけで十分です」
たとえ自分が玲夜の唯一でなくなったとしても、玲夜が無事であるならば本望だ。
そう自分に言い聞かせるも、やはり悲しい。
もう玲夜が笑いかけてくれることはないかもそれない。
柚子はぎゅっと手を握りしめる。
そうすることで、噴き出しそうな感情を必死で抑えつけた。
今はただ、玲夜が目覚めるのを待つだけだ。
玲夜にもう自分が必要なくなったと確信ができたなら、玲夜から切り出される前に自分から別れを告げよう。
玲夜から言われてしまったらきっと立ち直れないから。
しばらくすると、玲夜の検査が終わり、面会がかなった。
そうは言ってもまだ意識はなく、病室で静かに眠る玲夜を見るしかできない。
検査をしても傷ひとつ見つけられず、検査でも異常はなかったようだ。
龍の言ったように肉体を害しはしないようで、それだけが救いだった。
眠っている以外はいつもと変わらぬ玲夜の綺麗な顔。
玲夜は本当に自分を花嫁だと分からなくなってしまったのだろうかと、柚子は信じられずにいる。
玲夜の寝顔をじっと見つめる柚子の肩に手が乗せられた。
「柚子ちゃん」
「お義母様……」
柚子に向けられる温かな眼差しは、玲夜を彷彿とさせて、涙が出そうになる。
あまり似ていないと自他ともに認められているが、やはり親子なのだなと実感させられる。
「千夜君は玲夜君の穴埋めと後始末のために忙しいから、ここには来られないないみたい。珍しくぶち切れていたわ。高道君も」
「そうですか」
きっと千夜も高道も、仕事など放り出して駆けつけたいだろうに。
特に玲夜至上主義の高道はひどく狼狽しているはずだ。
それでも、その立場ゆえに感情にまかせて行動できない。
「お義母様、穂香様はどうなりましたか?」
護衛に拘束されたところまでは知っているが、その後柚子は玲夜に付き添って病院へ来たので、穂香がどうなったか分からない。
玲夜が傷ついていないとはいえ、鬼龍院に刃を向けたのだから、簡単に許されやしないだろう。
「穂香ちゃんはとりあえず鬼龍院本家に連れていかれたわ。どうするかは玲夜君が起きてからの体調次第かしらね。玲夜君に何事もなければ罰は軽くなるでしょうけど、そうでなかったら……」
わずかに沙良の眼差しが鋭くなる。
穂香と面識があったとしても、大事な息子を襲われたとあったら怒りを抱くのは当然だろう。
柚子も彼女を庇う気にはなれない。
「そうですか……」
どうして穂香は玲夜を狙ったのだろうか。
旦那を毛嫌いしていたようだが、穂香はすでに離婚している。
これまではその不審さから神器と関わりがあるのではないかという程度だったのに、神器を穂香が持っていたのなら話は変わってくる。
離婚するために神器を使ったのは確実だろう。
そうして自由を手に入れたはずなのに、玲夜と接触してきた。
鬼龍院に手を出せばどうなるか、鬼龍院の影響力をあやかしの花嫁だった穂香が知らぬはずないだろうに。
沈む気持ちを堪えきれない柚子に、沙良が告げる。
「柚子ちゃん。あなたにもやらなければならないことがあるでしょう? 玲夜君は私と桜子ちゃんが見ているわ。あなたはあなたのすべきことをしなさい」
柚子は手にある小刀に視線を落とす。
これが神の探していた神器ならば、神に返さなくてはならない。
なのに尻込みしてしまうのは、神器であってほしくないと思っているからだ。
この小刀が神器なら、玲夜は本能を失うことを意味する。
どうしても信じたくない。
けれど、こんな危険なものは早く返してしまいたいとも思う。
「……社に行ってきます。もしその間に玲夜が目覚めたら──」
「すぐに連絡するわ」
「それと、神器の捜索を撫子様も手伝ってくださっています。撫子様にも見つかったとご報告をお願いできますか?」
「任せてちょうだい。撫子ちゃんにはすぐに連絡を入れるわ」
後は柚子のやるべきことをするだけだ。
沙良に一礼してから、柚子は子鬼と龍を伴い、後ろ髪を引かれる思いで玲夜の眠る病室を後にした。
向こうのは一龍斎の元屋敷にある社だ。
到着すると、待ってましたとばかりにまろとみるくがいた。
「アオーン」
「ニャウーン」
「ほんと、いつもいるのね」
二匹をそれぞれひと撫でしてから、社へ続く道を歩く。
柚子を迎え入れるように動く、草木の不可思議さにはさすがに慣れた。
当たり前の事象のように受け入れて歩む先には、神がおわす社。
どこからともなく風が吹くと、一瞬で桜が満開に咲き誇った。
初めて目にする子鬼たちは驚いたように目を大きくしてきょろきょろしている。
「あいー」
「やー」
思わず声が漏れたという様子で、子鬼たちの驚きがよく伝わってくる。
『私の神子』
桜が神を形取り、ふわりと微笑みかける。
「神様……」
今にも泣きそうな顔と声で神を呼ぶ。
『分かっている』
神はすべてお見通しというように、社の階段を降りてくると、柚子を優しく抱きしめた。
『強く生きよ。私の神子』
「玲夜がいないと無理です」
そう。柚子の世界は玲夜によって彩られている。
玲夜のいない世界でどうして強くあれるだろうか。
「神様。これ……」
柚子は鞄から小刀を取り出す。
小刀は神の手に渡ると、神のうちに取り込まれるようにすうっと消えていった。
「これは本当に神器なんですか?」
嘘だと言って欲しい。間違っている。これは神器ではないと。
否定してくれることを祈りながら問いかけるが、現実は残酷だ。
『いや。間違いなくこれは、その昔烏羽家に与えた神器だ』
心が悲鳴をあげるようだ。
龍が話していたので分かってはいた。それでも望みを捨てきれなかった。
「玲夜は私を花嫁とは思わなくなったということでしょうか?」
震える声で問いかける。
『神器が使われたならそうなる』
「っ……」
柚子は一瞬言葉を失ったが、絞り出した。
「正確にはどう変わるんですか?」
『花嫁と判別できなくなる。花嫁に感じる乾きにも似た渇望が消えさり、ただ普通の想いに変わる。花嫁だからこその執着も欲望も興味もなくなる』
改めて言われると、今の柚子にはえぐられるような痛みを伴う。
『けれど気にすることはない。花嫁は花嫁なのだ。花嫁の伴侶は力を増し、花嫁の子供は強い力を持ったあやかしが産まれる』
気にしないわけがないだろうに。
あやかしの本能こそが花嫁を花嫁たらしめていると言っても過言ではないのに。
「もうどうしようもなかった時、玲夜に必要とされたから私は救われたんです。なのに、必要なくなったら、私はどうしたらいいんでしょうか?」
迷子の子供のように寂しそうな目をする柚子に神は告げる。
『そなたの思うままに。私は柚子の幸せこそを願っている。本能をなくした程度で消え失せる想いなど、柚子が許しても私が許しはしない』
『うむうむ、そのとおーり!』
龍だけがうんうんと頷いている。
『もし柚子を悲しませる結果となるなら、一龍斎もろとも鬼龍院にも責任を取ってもらうとするか』
無表情でそんなことをさらっと告げる神に、柚子は固まる。
『神罰がなんたるかを思い知らせると言うならば、我も手を貸します』
「アオーン」
「ニャーン」
龍に続いてまろとみるくまで声をあげる。
柚子を慰めてくれているのだろうが、素直に喜んでいいものか判断に困る。
すると、柚子のスマホが鳴った。
『どうやら目を覚ましたらしいな』
まだ誰からかかってきたかも分からないのに、神は確信を持って口にした。
神はもう一度柚子を抱きしめると、ポンポンと優しく背中を叩き、ゆっくりと離れた。
『行っておいで、柚子。そなたが笑顔でいられるようにいつだって私は見守っている』
そうして神は桜の花びらとなって消えていった。
それとともに周囲の桜も姿を消す。
一気に現実へ戻された感覚になり、急いで鳴り続けるスマホを鞄から取り出した。
電話をかけてきた相手は桜子だった。
「もしもし。柚子です」
『柚子様、神器は無事にお返しできましたか?』
「はい。無事に」
『それはよかったです。こちらも、玲夜様が目覚められました』
玲夜が目覚めた。
嬉しい気持ちとともに、恐怖心が柚子を襲う。
「すぐに戻ります」
言葉通り寄り道せずに限界速度ギリギリで車を飛ばしてもらい、病院へと戻った。
玲夜の病室の前で、柚子はなかなか扉を開けられずに立ち尽くしていた。
本能を失ってしまった玲夜。
花嫁とは思わなくなった柚子と会って、どんな反応が返ってくるのだろうか。
冷たい、まるで他人のような目で見られたらどうしたらいいのか。
あと一歩が踏み出せない柚子に、子鬼が柚子の頭を撫でる。
小さな手で一生懸命よしよしと撫でる子鬼たち。
「柚子、大丈夫」
「うん。大丈夫」
子鬼なりに状況を理解して柚子を慰めてくれている。
子鬼たちの優しさに後押しされ、柚子は意を決して病室に足を踏み入れた。
病室には沙良と桜子がいる。
そして、ふたりの視線の先には、ベッドの上で上半身だけ身を起こした玲夜の姿が。
ドクドクと嫌な緊張感で鼓動が鳴る。
すぐに柚子に気がついた沙良と桜子だが、特になにか声をかけることもなく、柚子ではなく玲夜の反応をうかがっている。
沙良と桜子のふたりも、玲夜の反応の予想がつかず、緊張した面持ちだ。
手前にいた桜子が場所を空けてくれ、柚子はゆっくりと玲夜のそばへ。
「玲夜……」
せめて他人を見るような視線は向けないでくれと願いながら名前を呼ぶと、玲夜は柚子を見てふわりと笑った。
柚子の知る、柚子だけに向けられてきた笑顔だ。
玲夜は手を伸ばし柚子の腕を掴むと、引き寄せられた。
腕を掴むのとは反対の手で、柚子の頬に触れる。
「柚子、大丈夫か?」
優しく、労り、そしてどこか甘さを含んだ声が柚子の名前を呼ぶ。
変わらぬ玲夜に、柚子はくしゃりと顔を歪ませた。
「玲夜。玲夜……」
「どうしたんだ、柚子。社に行っていたそうだな。そこでなにかあったのか?」
「ふ……うぅ……」
変わっていない。過保護で甘いいつもの玲夜だ。
柚子は思わず泣き出してしまい、玲夜にしがみつく。
「う~。玲夜ぁ」
「神になにかされたのか? やっぱり苦情を言った方がいいな」
沙良と桜子がいるのも忘れて玲夜にしがみつく柚子は、玲夜のおだやかな声に涙が止まるどころか次から次にあふれ出てくる。
その様子を微笑ましく見ていた沙良は、どこかほっとした様子で問いかける。
「玲夜君。柚子ちゃんを見て、いつもと違って感じない?」
「違うとは?」
「興味なくなったなとか、かわいくなくなったとか」
「は? なぜ? 柚子はいつでもかわいいでしょう」
問いかけの意味が分かっていなさそうな玲夜に、沙良と桜子だけでなく、柚子も不思議に思う。
少し落ち着いた柚子が顔をあげると、ぐしゃぐしゃになった顔を玲夜が優しくタオルで拭ってくれる。
「玲夜。もし私が離婚したいって言ったらしてくれる?」
これだけ玲夜に引っつきながら説得力に欠けるが、興味のあるなしを判断するにはちょうどいいはずだ。
すると、言ったことを後悔するほど玲夜の顔が怖くなった。
「そんな話、許すわけがないだろう。どういうつもりだ。離婚したくなったのか?」
これはどういうことだろうか。
神器が使われ、あやかしの本能は消えたはずなのに、めちゃくちゃ柚子に執着しているではないか。
「あれ?」
先程までの涙も引っ込んだ。
疑問に感じているのは沙良も同じよう。
「柚子ちゃん。本当に神器が使われたのよね?」
「はい。神様もそうおっしゃってましたし」
ならばなぜ玲夜は変わらぬのか。
柚子たちの困惑を察したのか、玲夜が不機嫌そうに問う。
「どういうことだ? そもそも俺はどうしてこんなところで寝ている?」
「玲夜、なにも覚えてないの? お義母様も桜子さんも、玲夜になにも話していないんですか?」
「ええ、柚子ちゃんが着いてから話そうと思っていたから」
「えーっと……」
玲夜から問いただすような視線を感じ、とりあえず穂香が現れたところから、これまでの経緯を話す。