どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
「一着、日野真理!」
 どこからか、わっと歓声が上がった。ゴールテープの向こう、真理はまぶしい笑顔を見せた。直視できなくて、何度も瞬きをする。
「日野さんすごい!」 
 たくさんの称賛を浴びて、真理は照れくさそうに笑った。
 日陰から、キラキラと輝く真理を見つめる。反対に、私の心は重くなるばかりだった。
 真理は、数分差の私の妹だ。同じものを食べて、同じ服を着て、同じように生きてきた。それだというのに、私と真理は正反対だ。運動ができて、頭も良くて、才能溢れる真理。対して、私は悲しいくらいに平凡。運動も成績もまぁまぁ。突出した才能もない。ある時、酔っぱらった親戚のおじさんが言った。「友理ちゃんは、真理ちゃんの出がらしをもらっちゃったんだね」その時、私は自身の運命を悟ったーーなんて、大げさかもしれないけれどーー。私は一生、こいつの陰に隠れて生きていくのだ、と。
「お姉ちゃ~ん!」
 真理が私に向かって手を振る。細い髪の毛がふわりと宙に舞い、陽光を反射して光った。きれいで、すてきで、憎い。私はその輝きを恨めしく睨みながら、同時に見惚れていた。
 真理の表情が不安げに曇ったことに気づいて、私は慌ててにっこりと作り笑いを浮かべる。手を振り返すと、真理はその眩しい笑顔を一層輝かせた。
 私はこんなに汚い気持ちで真理を見ているのに、真理はいつも純粋な笑顔を私に向ける。その無邪気さがどんなに鋭く私の心に刺さるか、真理は知らない。
「やっぱ、日野さん可愛いよな~」
 私の後ろで見ていた男子の一人が、うっとりとした声で言った。げぇ、と言いそうになるのを、ポーカーフェイスで隠す。
「分かる。性格いいし」
 そうやって女子を値踏みするの、気持ち悪いですよ。そんな嫌味を言えるわけもなく、平静を装った。
「それに比べて、こっちの日野は……」
 男子の声が、ねっとりと嫌味を帯びた。その先に続く言葉は分かっている。流石にイラっときて、そいつらをギロリと睨んだ。おぉーこわ、なんてわざとらしく言いながら、そいつらは向こうの方へ歩いて行った。グラウンドの方へ視線を戻しつつ、大分くだらないことをしてしまったなと一人反省する。

 真理は、何でもできる天才の割には、泣き虫で、甘え上手で、子供っぽい性格だった。泣きじゃくる真理の涙を拭って慰めたのは、いつも私だった。怖がる真理の手を引いて先を歩いたのも、いつも私だった。
 習い事や、何か新しいことを始める度、真理もやりたいと言った。最初は、私も嬉しかった。相対的に、私は大人びていると言われたが、所詮は子供だ。知らないことは怖い。それでも、真理が一緒にいたことで安心できたし、真理が怖がる分、私がしっかりしなければと勇気づけられた。水泳も、ピアノも、習字も。最初は分かんない、できないといって私に泣きついてきたくせに、慣れていくにつれ、真理はどんどん私を追い抜いて結果を出していった。
 真理が成功する度、褒められる度、私は真理の隣にいるのが恥ずかしくなった。
「わたしはおねえちゃんなんだからね!」
 ある時、私は真理の頬をひっぱたいて、そう言った。どんなことでも真理に勝てないと、悟った時だ。絶対に覆せないもので、真理より優位に立とうとしたのだ。双子で、数分しか違わないのに、汚い手だった。
 あれから、真理は私をお姉ちゃんと呼ぶようになった。当時は気分が良かった。私はお姉ちゃんなんだ。真理より偉いんだ。そう思えた。何かあるとすぐ私を頼る真理の性格も、傲慢な私の心を膨らませた。
 今となっては、真理が私をお姉ちゃんと呼ぶ度、心臓が握り潰される思いだ。それでも、真理にお姉ちゃんと呼ばせることを、私はやめさせようとしなかった。この地位を手放したら、私の価値が本当になくなってしまう気がするから。私が真理の「お姉ちゃん」でなくなったら、私はただの出来損ない、真理の「出がらし」になるから。たった数分差で姉という地位に縋る私。誰がどう見たって、惨めで、汚い奴だ。

「お姉ちゃん、見てた? 一位取ったよ!」
 気づけば、真理がすぐそばまで来ていた。日陰にいるのに、額に滲む汗は光って見えた。眩しさに目を瞬く。
「見てたよ」
 手を伸ばして、真理の頭を撫でてやる。真理は、えへへ、とはにかんだ。真理は、私に褒められることを何より喜ぶ。どうしてなのかは分からないけれど、何かある度に真理は私の元へやってきて、誇らしげに自慢する。それが私を見下す行為ではないことを、私は知っていた。だから、嫌味を言うこともせず、ただ褒めてやる。真理は嬉しそうに笑って、また結果を出す。好循環と言えばそうだ。けれど、私はもう、心から真理を褒めることはできなくなっていた。真理が明るく笑う度、私の影は深くなって、真理が無垢な言葉を吐く度、私の醜さが浮き彫りになる。
「おめでとう」
 私は今日も、歪んだ作り笑いで、嘘に塗れた称賛を決まり事みたいに唱える。その惨めな自分に、汚い自分に、慣れてしまっていた。受け入れたくないと思いながら、拒むのも面倒になっていた。
「次、五組女子ー」
 先生が言うと、そこここに散らばっていた見知った顔が、グラウンドの中央へ向かって歩き出した。
「お姉ちゃん、頑張れ!」
 私が立ち上がると、真理は汗を拭いながらグッと親指を立てた。にこりと微笑んで、同じようにして見せる。真理は満足そうに笑った。ああいう幼い感じが、モテる秘訣なんだろうなーとぼんやり考える。まぁ、可愛い真理がやるから可愛いのであって、私がやってもしょうがないけれど。
「日野さん、すごかったね~!」
「天才ってああいう人のこというんだろうな~」
 集団に紛れていると、どこからかそんな声が聞こえてきた。きゃっきゃと盛り上がるその子たちをちらりと見て、すぐに先生の方へ視線を戻した。それでも、意識は簡単には引き戻せないもので。聞きたくなくても、私の耳はその音を綺麗に拾ってしまう。
「あれだけよくできた子が双子の妹だと、かなりしんどそう」
「こっちの日野さんは、なんていうか……あんまりだから」
 声を潜めても、一度意識してしまうと容易に聞き取れてしまう。同情の視線が背中に刺さった。
(うるさいな)
 強がりだった。

「わたしとまりを比べないでよ!」
 自分のことは棚に上げ、そんなことを両親に要求したのは、いつだっただろうか。
 習い事でも、家でも、学校でも、大人はいつも、二言目には真理の名前を出した。真理ちゃんはできるのに。どうして真理みたいにできないの。真理さんは優秀ですよ。私だって、真理みたいになりたかった。何でもできるように。けれど、悲しいことに、私には才能が無かった。私は真理みたいになれなかった。
 真理と比べられることに、私は傷ついていた。真理ちゃんはすごいね、それに比べて友理ちゃんは。双子なのに、全然似てないね。真理が褒められる度、私は貶された。だから、真理の成功を、私は素直に喜べなかった。私は、私と真理を比べる大人じゃなくて、私の隣で笑う真理を憎んだ。大人に頭を撫でてもらって、はにかむ真理を。誇らしげに賞状やトロフィーを見せてくる真理を。
「私たち、双子じゃなければ良かったのに」
 無意識にそう言った時の真理の顔が、いまだに忘れられない。その時、初めて真理の作り笑顔を見た。震える口角と、極端に細められた目と、赤くなるほど握りしめた拳。
 私たち、双子じゃなければ良かったのに。
 私はまだ、そのことで真理に謝れていない。私はまだ、その考えを捨てられていない。

 今思えば、私は随分強気な性格だった。比べられて傷ついたプライドを、他者に責任転嫁することでなんとか守っていたのだと思う。とにかく強く主張して、気に食わないことがあると癇癪を起こした。真理の見せてくる賞状やトロフィーを叩き落して、真理を泣かせた。笑っちゃうくらい、嫌なやつだ。ほんと、どうして真理は、こんな私に今でも笑顔を向けてくれるのだろう。その笑顔が、私の存在を無条件に肯定する。その笑顔が、私にかりそめの優越感を与える。その笑顔が、どこまでも私の心を抉る。真理の笑顔を求め、真理の笑顔に安堵を覚えると同時に、何よりも真理の笑顔を忌み嫌っていた。
 私は歪んだ価値観で物事を測るようになっていた。私がそれを始めた時、真理に勝てるかどうか。それが楽しいものかどうか、私の好きなものかどうか、そんなことは関係なかった。とにかく、真理を越えられるもの。真理よりすごいねと言ってもらえるもの。そうやって選んだものも全て、結局真理には敵わないのだと、その事実を、残酷に突き付けてくるだけだった。
 いつからか、強い自己主張でプライドを守ることも惨めになった。それからは、波間に揺蕩う草船のように、周囲に流されて過ごした。否定もせず、肯定もせず、適当に作り笑いを浮かべて頷くだけ。全てを諦めてしまえば、世界は随分と生きやすくなった。ただ、ぽっかりと穴が開いた空虚な心を除いては。何にも感動しなくなった。何も楽しいと思わなくなった。習い事を全部やめた。灰色の日常に、慣れてしまえば楽だと言い聞かせた。

 地面に片膝と両手をつく。砂利が刺さって、痛かった。なんで、わざわざクラウチングスタートなんだろう。転びそうになるし、別に速くならないと思うんだけど。そんな不満は飲み込んだ。
「よーい」
コース脇の生徒が旗を下げた。それに合わせて、というか、周りに合わせて、私も腰を上げる。その生徒が片足を後ろにやり、やけに息を溜めた。早くして。様子を窺おうと顔を上げた瞬間。
「どんっ!」
 ぱすんと間抜けた音が、スタートを告げた。私は、周りから少し遅れて走り出した。たった百メートルが、とても長い。なんでみんな、あんな真っすぐできれいなフォームで走れるんだろう。体幹かな。そんなどうでもいいことをぼんやりと考えながら、必死っぽい顔でゴール線を走り抜けた。案の定、最下位。
 ゴール付近で吹き溜まる集団をすり抜け、猫背のまま日陰に入る。ネット脇に腰を下ろした。
(そういえば、あれの結果発表、もうすぐだったな)

 実は、一つだけ、真理には負けないと思っているものがある。それは、小説だ。真理に劣等感を感じてからは初めて、真理とは関係なく選んだものだった。
 たしか、感想文の課題が出ていたから、おつかいのついでに本屋に寄った時だ。文学作品の棚の中で、一番薄くて難しくなさそうなやつを選んで買った。適当に読んで、適当に無難なことを書いて終わらせよう。そんな私の魂胆は、すぐに打ち砕かれた。
 活字を追っていたはずだった。それなのに、彼らの表情が見えた。風を感じた。声が聞こえた。お母さんが夕飯に呼びに来たのも気づかずに、読みふけっていた。活字を追っていたはずだった。挿絵もない本だった。感想文は、原稿用紙一枚に収まらなかった。
 それから、時間がある度に図書館へ行って、片っ端から小説を読み漁った。難しくて意味が分からないものや、私には合わなかったものもあったけれど、最初に出会ったあの本にもらった感動は、少しも冷めなかった。教科書か漫画くらいしかなかった私の部屋の本棚は、すぐに小説でいっぱいになった。両親の驚いた顔を、今でも覚えている。あんまりマヌケだったものだから、たまに思い出しては一人で笑ってしまう。
 いつからか、自分でも書いてみたいと思うようになった。あの感動を、自分で生み出せたら、どんなに気持ち良いだろうか。あの感動を、他の人に与えることができたら、こんなに惨めな私も、変われる気がした。高校では文芸部に入った。ほぼ幽霊部活で、活動はほとんどなかったけれど、”文芸部員”という肩書が、アイデアが浮かぶ度にメモをする私の奇行の理由付けとして丁度良かった。
 小説を書いていることは別に隠してはいなかったけれど、真理にだけは言わないようにしていた。真理に知られたら、きっと言うに決まっているから。
「お姉ちゃん、小説書いてるの!? すご~い! 私もやりたい!」
 それが本当になったのは、私がコンテストに応募するための小説を書いていた時だった。顧問の先生が、興味ある人はどうぞ、と持って来たもので、私以外は目もくれなかった。私は、ノートが真っ黒になるまで構想を練った。ようやく大筋が決まってきたところで、本文の執筆にとりかかっている最中だった。トイレに行った隙に、真理がパソコンを覗きこみ、私の書きかけの小説を読んでしまったのだ。キラキラと輝く瞳を眩しく感じながら、私は内心溜息をついた。
「お好きにどうぞ」
 そう言ってパソコンを閉じ、私は部屋にこもった。それ以降、真理がどうしたかは知らない。

 気づけば、授業は既に終わっていた。汗を光らせ、爽やかな笑顔で教室に戻っていくキラキラ集団の横を、どんよりした空気を振りまきながら通り過ぎる。いつもこんな感じだけれど、今日は特に嫌なことを思い出してしまったから、しょうがない。
「日野さん」
 後ろから追いかけてきたのは、坂木君だった。このクラスだけでなく、他クラスでも人気者で、誕生日の日は大変そうだった。見かねた先生が紙袋を渡していたのを覚えている。
 こんな私にも話しかけてくれるあたり、やっぱイケメンってすごいな。
「おつかれ。いやー、暑いね。こんな時に外で走らせる先生の気が知れないよ」
 体操着の首元をぱたぱたとやって、坂木君はぐったりと首を傾げて見せた。教育課程にそう書いてあるからじゃないの、とは言わなかった。流石に嫌味な気がしたから。それにしても、なぜ坂木君は突然私に話しかけてきたのだろう。別に一回も話したことがないというわけではないけれど、そこまで頻繁に話すほど仲良くもない。後ろの方をちらりと見ると、男子が何人か、こちらを見てニヤニヤしていた。罰ゲームかな。そう勝手に結論付けて、坂木君のためにも早々に話を切り上げるために言い返しを考える。
「走っただけで偉いよ。そういうことにしよう」
「あはは、たしかに」
 真顔で言ったのが面白かったのか、坂木君はお腹を抱えて笑った。よし、ミッション・コンプリート。じゃあね、と手を振って、昇降口の方へ逃げた。

 翌日の昼だった。
「あ、日野~」
 振り向くと、私を手招きしている先生がいた。担任でも、部活の顧問でもない先生だ。一体何の用だろう。不思議に思いつつ、先生のもとに行くと、先生は一枚のプリントを渡してきた。
「この前の小説コンテスト、入選したって。今度の朝会で表彰があるから」
 それだけ言って、先生は職員室に引っ込んでしまった。
「入選……」
 プリントを手に、私は固まってしまった。何かの大会やコンテストで賞をもらうのは、これが人生で初めてだった。心臓がどきどきして、信じられない思いだった。真理とか、天才たちにとってはちっぽけな賞かもしれないけれど、私にとっては何よりも嬉しかった。
「やった……!」
 ダメもとで応募したコンテストだったけれど、全く期待していなかったわけでもなかった。表彰では、堂々と顔を上げて賞状をもらおう。そう心に決めた。真理に遮られてばかりだった光が、ようやく私に向かってさしてきた。
 けれど、そんな希望は、一瞬で打ち砕かれた。
「第二十三回、高校生小説コンテスト、優秀賞、日野真理。あなたは……」
 ステージの上、校長先生は大仰に賞状を読み上げた。その前で、真理は誇らしげに胸を張る。綺麗な所作で賞状を受け取り、礼をした瞬間、割れんばかりの拍手が真理を包んだ。
 真理が列に戻るのを確認して、ステージ下の先生が私に指示を出す。私は俯いてステージを歩いた。
「第二十三回、高校生小説コンテスト、入選、日野友理。以下同文です」
 私の賞状は、やけにあっさり渡された。白々しい拍手が、私の体中に刺さった。

「真理ちゃん、小説でも賞取るなんてすごくない?」
「ね! やっぱ天才って感じ!」
 真理はここにいないのに、私のクラスでも真理の話題ばかりだった。私だって賞を取ったのに。そりゃ、優秀賞に比べたら下だけどさ。これ見よがしに賞状を出しておくこともできなくて、私は賞状をファイルにしまった。大きかったから、半分に折って。
「日野さん」
 隣の席に座ってきたのは、坂木君だった。
「入選おめでとう」
 にっこりと微笑む姿は、真理と同じように眩しかった。
「真理の方がすごいよ。普段小説なんて書かないだろうに、優秀賞なんて取っちゃうんだもん」
 素直にありがとうと言っておけば良かったのに。どこまでも性格がひん曲がっている私だ。坂木君は、少し困ったように笑った。
「日野さんもすごいよ」
「ありがとう」
 それはただのセリフだった。

「お姉ちゃん、見て見て! 私も賞取ったの!」
 真理が見せてきた賞状は、当然ながら私のよりも大きく、デザインも雰囲気のあるものだった。
「おめでとう」
 そう言えただけでも褒めてほしい。
「お姉ちゃんとおそろい! やったね!」
 その無垢な笑顔が、今日は憎らしくてたまらなかった。
「っ、いい加減にして!」
 うきうきと私の手を取る真理の手を、力の限り振り払った。
「なんでそんなことするの!? 私より良い賞取って、私をバカにしたかったの!?」
 妹の、驚いたような、困惑したような、傷ついたような、たくさんの感情でぐちゃぐちゃになった顔が見えた。それでも、私は止まらなかった。
「いつもあんたが隣にいるから、私は何しても惨めだった! なんでもできるんだから、私なんかに構わないでよ! 私の所に入ってこないでよ!」
 全部、ぶちまけた。全部。ずっと抱えていたものが、ずっと溜まっていたものが、溢れた。止めどなく、溢れた。
「あんたなんか、私の妹じゃなきゃ良かったのに!」
 言ってから、しまったと思った。酷い言葉を、言ってはならない言葉を、ぶつけた。今更気づいた。顔を、真理の顔を、見られなかった。
 家を飛び出した。
 行き場もなく走った。
 夜なのも気にせずにわーわー泣き叫んだ。
 もう、何も考えたくない。もう、何もかも嫌だ。

「はぁ……怒られるだろうなぁ」
 公園のブランコに座って、うざったいくらいに明るい満月を見上げた。酷いことを言った自覚はある。けれど、私が間違っていたとも言いたくなかった。だって、本当に苦しかったから。本当に辛かったから。
「……日野さん?」
 声がした方を見ると、そこにいたのは、坂木君だった。
「なんで、ここに……?」
 驚いた。坂木君が住んでいる場所は知らないけれど、少なくともこの近くではないはずだ。
「コンビニ行ってたんだ。あそこにしか売ってないスイーツがあって」
 坂木君は、手に持っていたビニール袋を目の高さまで持ち上げた。
「スイーツ……」
 かっこよくて女子に大人気の坂木君が、限定スイーツのためにわざわざここまで? とても信じられなくて、私はぽかんとしてしまった。
「やっぱ、俺みたいのがこういうの好きって、変?」
 坂木君は、恥ずかしそうに、気まずそうに頬をかいた。慌てて首を横に振る。
「ううん、全然! ごめん、ちょっとびっくりしただけ」
「そっか、ありがと」
 どうしてお礼を言われたのか分からないけれど、坂木君があまりに嬉しそうに微笑むものだから、とても理由を聞く気にはなれなかった。
「日野さんこそ、こんな時間にどうしたの? 危ないよ」
 なんて言いつつも、坂木君は私の隣のブランコに座った。
「あぁー、妹と、喧嘩しちゃって」
 それから、気づいた。部屋着のまま出てきてしまったことに。しかも、泣いた後だから目はパンパンだし、顔もぐちゃぐちゃだ。坂木君は気づいていないか、あまり気にしていない様子だった。
「そっか。なんかあったの? 俺で良ければ、話聞くよ」
 そんな、悪いよ。別に、大したことじゃないし。言おうとした言葉は、出てこなかった。坂木君が私を見る目が優しかったからか、何もかもぶちまけた後で疲れていたからか、私は、全部話してしまった。ずっと苦しかったこと。それをぶちまけてしまったこと。真理を傷つけてしまったこと。逃げてきてしまったこと。こんな私が大嫌いなこと。
 坂木君は、口を挟むことも、急かすこともせずに、私の話を聞いてくれた。ゆっくりと、私のペースに合わせて、頷いてくれた。どうして、こんなに優しいのだろう。恵まれた人間は、人格にも恵まれてるのかな。だから真理や坂木君は優しくて、私はこんなに醜いんだ。そんなことを考えて、一層苦しくなった。涙があふれて、まともに喋ることさえできなくなった。ごめんね。何に対して謝っているのか、自分でもよく分からないけれど。ごめんね。それだけが、口から溢れるように出た。
「日野さん、妹さんのこと、大好きなんだね」
「え?」
 これまでの私の話からは想像もできないような感想で、溢れていた涙も引っ込んでしまった。
「だって日野さん、一回も妹さんのこと悪く言わなかった。自分のこと最低だって言ってたけど、少しもそんなことないと思う」
 坂木君はゆるゆると首を振った。つやつやの髪がぱっと宙に舞う。その一本一本が月明かりを反射して光る。きれい。思わず、声に出しそうだった。
「今は余裕がなくなってるだけで、本当は大好きで、大切にしたいはずだよ」
 満月を見上げていた坂木君が、ゆっくりとこちらを向く。
 目の前が、キラキラと光った。
「うん……」
 本当は、真理を好きでいたかった。大切な、たった一人の、私の片割れ。
「真理ね、いい子なんだよ。すごく可愛いの。私のこと大好きでね」
 話すうちに、また涙がこぼれた。本当は、真理を好きでいたかった。劣等感に押しつぶされることなんかなければ。惨めな気持ちになることなんかなければ。真理を憎むことなんかなかった。私は真理を好きになれた。私は私を好きになれた。
「ごめんね、ごめんね、真理……っ」
 泣きじゃくる私の隣で、ブラッコがキィと音を立てた。背中に、温かい感触が触れた。
「それは、本人に直接言わなくちゃね」
 温かな声と、背中を撫でる柔らかな感触のせいで、涙を抑えることができなかった。涙が枯れるまで、坂木君はずっと私のそばにいてくれた。その優しさに、また泣きそうだった。
「ありがとう、私帰るね」
 鼻をズッとすすって、私はブランコから立ち上がった。
 真理に、謝らなくちゃ。それから、言わなくちゃ。大好きだよって。いつでも笑顔を向けてくれる真理が、私を大好きでいてくれる真理が、私も大好きだよって。
「送ってくよ。夜道は危ないし」
 私が立ち上がるのと同時に、坂木君も立ち上がった。
「そんな、悪いし」
 精一杯両手を振る私を、坂木君は目を細めて見た。
「俺が、もうちょっと日野さんといたいだけなんだけど」
「……………………へっ?」
 予想もしていなかった発言に、私の思考回路は処理しきれなかった。あまりにもマヌケな声が出てしまったことを、恥ずかしいと思う余裕さえなかった。
「さ、行こ」
 何事もなかったかのように歩きだす坂木君の耳が赤かった気がするのは、街灯の色のせいだろうか。

「あっ、お姉ちゃん……!」
 家の前にいた真理は、私と目が合うや否や、駆け寄ってきた。それから、走った勢いのまま私に抱きついてきた。
「うわあああああああん!!! ごめんなさい! 私、何も知らなくて、嫌だったよね、苦しかったよね、ごめんなさい!」
 ごめんなさい、と何度も繰り返す真理の体は震えていた。耳元で泣きじゃくるから、耳がキーンとした。ぎゅうっと抱きついてくる腕の力が強くて、少し場所が悪ければ首を絞められていた。
 夜だから、近所迷惑だよ。そんなこと、言えるわけがなかった。もう枯れたはずの涙が、また溢れてくる。
「私も、ごめんなさい。酷いこと言って、ごめんなさい……っ」
 真理の肩に顔を埋め、私もわんわん泣いた。今まで胸の奥に溜まっていた黒い物が、少しずつ溶けていくような気がした。二人で、一生分じゃないかと思うほど泣いた。二人とも目がパンパンで、顔もグズグズで、顔を見合わせて、笑った。泣いていたことも忘れるほど。
「ねぇ真理、私のこと、お姉ちゃんじゃなくて、友理って呼んでよ」
 真理の目が大きく見開かれる。
「えっ、でも……」
「うん。でも、もういいの」
 もういい。姉という地位に縋って、なんとか存在を保っていた私は、もういらない。私は私だから。これから、真理の姉としてではなく、友理として、真理の隣に立つ。
「うん、友理」
「ありがとう、真理」
 目を合わせて、それからはにかむ。久しぶりに、心からの笑顔を真理に見せた。
「じゃ、俺は帰るよ」
 すっかり坂木くんの存在を忘れていた。申し訳なく思いながら、お礼を言うために振り返る。
「あ、坂木君!」
 そんな私を、真理がぐいっと抱き寄せた。
「私の大事な、だいっじな友理なんだから、泣かせたら許さないからね!」
 これ見よがしに私を抱きしめて、真理は悪戯な笑みを坂木君に向けた。
「はは、分かってるよ」
 坂木君は、少し恥ずかしそうに、でも自信満々に笑った。
「えぇ……?」
 動揺する私を挟んで、二人は見えない火花を散らした。わけが分からなかったけれど、自然と笑いがこぼれていた。これからもきっと、私と真理を比べる人はいるだろう。でも、私はもう二度と、惨めになったり、真理を憎んだりしないと思う。真理に勝てるかどうかじゃない。私は私として、真理の隣にふさわしい人間になりたい。真理が好きでいてくれた私を、私も好きでいたい。そうして、自分に自信が持てたら。
 もう小さくなった坂木君の後ろ姿を見つめる。新たな一歩を、踏み出しても良いかもしれない。
「友理!」
 坂木君の姿が完全に見えなくなった頃、真理は私の両肩を掴んでずいっと顔を近づけた。
「いい? ああいう男は、本当に良い人な場合と、イケメンの皮を被った狼の場合があるんだからね! 気をつけなきゃだめだよ! 困ったら、私に相談すること!」
「ふふっ、うん」
 反対しているようで応援してくれている真理の言動に、思わず笑いがこぼれる。喉の奥にずっとつっかえていたものは、もうどこにもなかった。少しだけ息がしやすくなった気がした。