どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい。――こんな自分のことが嫌いだ。

「えー、それではこれで提出しようと思いますが良いですか?」
 机の前に立った学級委員がクラスの皆に問いかける。
 そんな中、私、森川千尋は全く違うことを考えていた。
(あの人の名前って何だったっけ)
 前に立っている学級委員の事だ。名札に「橋本」と書いてあるので、苗字が橋本であることと、男であることが分かる。
 毛先をいじりながら、黒板を見る。大きく「メイドカフェ」と書かれていた。
学園祭の出し物を決めていたところだ。高校に入って初めての文化祭なので、皆張り切っている。
(別にこんな行事要らないんだけど)
 学園祭なんて、ぼっちが虚しくなるだけだ。
「うん、おっけー」
「大丈夫。よろしくー」
 学級委員の問いかけに陽キャが反応する。
「校外からも沢山のお客様が来ます。協力し、このクラスで必ず成功させましょう」
 おー!と拳を突き上げる男子。頑張ろ!と友達と話す女子。
この学校の学園祭は、クオリティーが高いことで有名だ。
(いつの代の先輩がクオリティー上げたんだ?)
 過去の先輩を恨む。
 それにしても、と私は窓に目を向けた。
 こんなに人数が多いのに窓を閉め切っている。雨だからという理由もあるのだろうが、明らかにこの教室には熱がこもっている。今日は、物理的にも息苦しい。しかし、窓側の席は全員陽キャが陣取っている。わざわざ陽キャに近づいて開けることなどしたくない。
(学級委員、早く終わって)
 心の中で念じる。
「では、今日はこれで終わります。生徒会からの指示が出たら、随時お知らせします」
 思いが届いたのか、終わってくれるらしい。「今日は」ということはまたあるのだろうか。憂鬱な学校が、もっと憂鬱になった。
 お辞儀をして席に戻る学級委員。
「うっ……」
 自分の席に戻ろうとする橋本さんと、目が合ってしまった。
 彼は穏やかに笑う。
 私は、はじかれたように目をそらした。
 ここでお辞儀の一つや二つ出来たらいいのだろうけど、そのような高難度の技が出来る訳がない。
 皆が立ち上がって、放課後どこに寄るー?などと話し始めた。
 私は、カバンに荷物を流し込むと早足で廊下に出た。
 大きく息を吸う。
 人がまばらにしかいない廊下。ずいぶん息がしやすい。
(帰るかぁー)
 私はいつも通る路地をゆっくり歩いた。

 
 私は小さい頃から自分のテリトリーがある。そこに、家族以外の人が近づいてくると呼吸が少し乱れてしまう。こうなってしまったのは、小学生の時のある事が原因だ。二度と触れたくない心の傷。
私は卵に入っている雛で、近くにいる人は、その殻を割ろうとする人、と言ったら分かりやすいだろうか。とにかく、他人が無理なのだ。
「ヤバい!忘れ物!」
 私は勉強机から頭を上げる。
 カバンをいくら振っても出てこない。焦って教室を出てしまったので、忘れてしまったのかもしれない。
 校門が閉まるまでは、残り三十分。家から学校までは近いし、制服のままなのでギリギリ間に合いそうだ。
「お母さん。忘れ物取りに行ってくるね」
 晩ご飯の準備をしていたお母さんに話しかける。
「忘れ物?大丈夫?間に合う?」
「間に合うと思う」
「そう、行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
 家の中ではテンポの良い会話が出来るのに、家を出た瞬間、私は陰キャと化す。
 
 人気のない廊下を一人で歩く。
 先生とすれ違う度、早く帰れよー、と言われた。
 人さえいなければ、学校も良い所だ。
 生徒に会うとしても、部活が終わって焦りながら帰る人達だけなので特に問題はない。
 自分の教室へと向かう。
 誰もいないと思っていた教室からは、光と声が漏れていた。
 急に体が硬直する。
(どうしよう。堂々と取りに行くべき?いやいや、そんなこと出来る訳がない……)
 三人いるらしく、その会話は駄々洩れだ。
「あと女子一人なんだけど!」
「いやもう無理だろ」
「そうだよ。みんな帰ったんだし。無理に人数集めなくても良くね?」
「良くねぇ!」
「あー、ごめんごめん」
「あれ、誰かいる?」
「んー?先生じゃねーの?」
「この学校、はげた先生しかいないから違うでしょ。入って良いよー」
 扉が開く。
 途中から話しているのが、自分の事とは思わなかった。
 慌てて逃げようとする。
 だが遅かった。
腕をがっしり掴まれる。
「千尋ちゃんじゃん!」
 腕から全身にかけて鳥肌が立つような感覚に襲われた。
 思わず顔がこわばる。
 そこでようやく察したのか、彼女は謝って腕を放してくれた。
 今すぐにでもここを離れたい。でも、忘れ物を取らなくては、ここまで来て、こんなに嫌な思いをした意味がない。
「ねーねー、どうしたの?忘れ物?」
「あううあえ……」
 語尾に連れて、どんどん声がしぼんでいった。
 私は返事をするのを諦めて、首を大きく縦に振った。
「そうなんだ!ごめんね、入りにくかったよね」
「森川さんか」
「森川、珍しいな。こんな時間に」
 私のような空気の名前を覚えていてくれて感動する。いきなり呼び捨てをしたり、名前呼びをしたりする距離感は良く分からないが。
(でも、ごめんなさい。私は貴方達のお名前が一切分からないです……)
 橋本の名札で、一人の男子は今日、前で話していた学級委員だということは分かったが、それ以外はチンプンカンプンだ。
 自分の席に行くと、忘れ物を胸に抱いて一目散に逃げ帰ろうと思った。
「ねえ、カラオケ行かない?この後!」
「嫌です!」
 自分でもビックリするほどしっかり声が出た。
 他の三人も、ここまではっきりと物を言うことが出来る人だとは思っていなかったのか、目を点にしていた。
「あ、ご、ごめんなさい。でも、そういう場は得意ではないので」
「そこを何とか、俺達からのお願い!お金はもちろんこっちが持つから」
 お願い、その言葉に私は固まった。
 お願いを断ったら……。
 ごくりとつばを飲み込む。
 どうしたの?と目の前で手を振られた。
「お、親に聞いてみます……」
「マジで⁉ありがとー!」
 ポケットからスマホを取り出して
『遊ばないか、って誘われた』
 と短く送る。
 料理中だったのに、すぐ既読がついて
『大丈夫なの?』
 と返ってきた。
 大丈夫なわけがない。でも……。
『大丈夫だから』
 少し震えている手で文字を打った。
『分かったけど、しんどくなったらいつでも帰って来てね』
 私はOKのスタンプを送ると、スマホの画面を消した。
「良いって言われました」
「良かったー。遊びに行くのに人数が足りなくて困ってたの。ありがとう。ってか、私たちの名前分かる?」
 私は小さく首を横に振った。
 だよね、と彼女は申し訳なさそうな顔をする。
 クラスメイトの名前を覚えていない私の方が悪いのに。意外といい人なのかもしれない。
「私は、柚葉。んで、こいつが」
 と、隣にいた男の子の襟を引っ張った。
「こいつって言うな。俺は翔太」
 いきなり私を呼び捨てにした人だ。
「俺が春樹」
 この人が、例の橋本さんだ。
 しかし、苗字を教えてくれなければ、私もいきなり名前呼びをしなくてはならない。
「よ、よろしくお願いします」
 私はただの数合わせだ。端でマラカスでも振っていよう。ドリンクバーを取りに行く係でもいいかもしれない。
「私が中学校の時一緒だった友達も来るの。学校の友達を連れてきて、って言われちゃって」
「そそ。だから、俺と春樹も数合わせの人だから気軽にいこーぜ」
「その……学級委員として、春樹さんは止めなくても良いんですか?」
「他校との交流も大切だしな」
 すでに息がしにくくなっている。
 作り笑いを何とか顔に張り付けた。

 ゆっくり駅の方へ向かって歩く。
「だからさー」
 と柚葉さん。
「ガチか」
「ねえ、森川さんはどう思う?」
 この三人は、適度に私に問いかけてくれる。返事が「はい」「いいえ」でもきちんと反応してくれ、私の存在を覚えてくれている。
 カラオケに行く前に柚葉さんが、私にメイクをしてくれた。顔を触られるのはとても怖かったけど、鏡で見た自分は自分じゃないような気がして、少し胸が張れるようになった、かもしれない。
「それにしても、千尋ちゃんってメッチャ可愛いよねぇ」
 顔を私に近づける。
「そ、そんなことないです。柚葉さんの方が何十倍も可愛いです」
「そう?ありがとー」
「柚葉、ここじゃないのか」
 春樹さんが建物を指さす。
「そーそー!ここ!」
 入り口には大きな電光掲示板があり、ピカピカと私の顔を照らした。
 柚葉さんが先陣を切って、次に翔太さん、春樹さんと順に入って行く。
私は制服のスカートを握った。
「森川さん、大丈夫?」
 最後だった春樹さんが振り返って私を見た。
「大丈夫……です」
 私は春樹さんの背中に隠れるようにしながら、店内に入った。
 カウンターでお姉さんが笑顔でマイクを渡してくる。
「何時間コースになさいますか?」
「あ、先に連れが来ているんですけど……」
 柚葉さんがテキパキと必要なことを伝える。
「ああ!聞いております。それでは、そこを右手に曲がったお部屋となります」
 春樹さんの背中を見ながら歩く。
 雑音が多いはずなのに、私は自分の鼓動しか聞こえなかった。
「ここか」
 渡されたカードと、部屋番号が書かれたプレートを見比べながら、柚葉さんがドアを開けた。
「あ、やっと柚葉が来た」
 もちろん知らない人だ。まつ毛はクルンクルンに上げており、髪の毛はたくさん巻かれていた。
「ごめんごめん」
「ちゃんと人数揃えてきた?」
「うん」
 翔太です、春樹です、と自己紹介を始めた。
私も何か言わなければ。
「……森川千尋です」
 私の声は、その時歌っていた誰かの声にかき消された。
「え⁉何この子」
 場に合わないので、開始即いじられるのだろうか。
 目を強くつむって、俯いた。
「めっちゃ可愛いじゃん!」
「でしょ!今日のメイクは私プロデュースでーす!」
 柚葉さんが私の方を向いて小さくウィンクした。
 もしもすっぴんで来ていたら、と考えると恐ろしい。
 私は端の席を陣取るとマラカスを握った。
「持ってきて欲しいドリンクバーがあったら、私が取ってきます」
 隣に座った春樹さんの耳にそっとささやいた。
 ありがとな、と微笑まれる。
 私は心臓が跳ねた。
 人がたくさんいて息苦しいけれど、それとはまた違うもの。
(何なの、これ?)
 心の中でモヤモヤが広がる。
「電気付けるね」
 と他校の子がスイッチを押した。
 テンションを上げるため、と言って電気を消していたのだ。
 一気に視界が良くなる。
 今何時かを確認するため、制服の袖をめくった。
「お前、森川かよ」
 声の主の方を見た。
 息苦しいだけじゃない。目眩。吐き気。頭も痛くなってきた。
「っ……」
 背が高くなって、がっちりとした体格になっているけれど。あごの下にある特徴的なホクロ。狐のような、ナイフのような鋭い目。この目を見る度、私は怯えていた。
「まだ生きてたのかよ」
 口の端を少し持ち上げて笑った彼。
「血脇……くん」
 流れていた曲は止まり、部屋全体が静かになった。私と血脇君がただただ見つめ合っている不思議な光景。目を離したいのに離せない。
 鼻の先が熱くなる。泣きそうになっているのだ。
 一歩一歩私へと近づいてくる。
 彼の腕が私へと伸びた。
(掴まれる……!)
 そう思った瞬間、私は部屋から飛び出していた。
「千尋ちゃん⁉」
 柚葉さんの焦った声が聞こえる。
 ごめんなさい、と思いながらも私は足を止めることが出来なかった。
 店から外に出るともう辺りは暗くなっていた。
「森川さん……」
 後ろから、私の荷物を持った春樹さんが来た。
「あ、ごめんなさい。荷物も持たずに」
 平静を装ったつもりだが、不審に思われているだろう。
「これ……」
 カバンを渡してくれる。
「ありがとうございます……」
 沈黙が流れた。
 どうしたのかを聞くべきか聞かないべきか、彼なりに考えているのだろう。
 正解は「聞かない」だ。
 私自身かなり動揺している。早く一人にさせてほしい。
「もう……帰っても良いですか?」
「だったら、家まで送ろうか?」
 心配そうに私を見つめる。
「いえ、大丈夫です」
「暗いから」
「大丈夫で……」
「少しぐらい、心配させてよ」
「……でも、柚葉さんや翔太さんがいますし」
「今は森川さんが心配だから」
「……ありがとうございます」
 二人並んで、私の家へ向かう。何も話さずずっと静かだった。血脇君とどのような関係だったのかは聞かれなかった。
「ここ……です。ついてきてくれて、ありがとうございます」
 春樹さんに小さく頭を下げた。
「おやすみ」
 そう言うと、振り返ることなく元来た道を帰って行った。
 そこからは事情を説明したお父さんとお母さんがテンパって大変だった。

 
 血脇君と会ったのは、小学生の時以来だ。私は、クラスでも比較的明るい方の人だった。
「ねえねえ、今日の放課後緑山公園集合ね!」
 と私が呼びかけると必ず、いいね!と返ってきた。
 私の日常が覆ったのは、本当に些細なことだった。
 私の学年は女子より男子の方が多く、問題児が勢ぞろいだった。なので、担任の先生は必ず怖い先生だったことをよく覚えている。
その中でも私は真面目だった。だからか、真面目な子は私の周りに良く集まってきた。逆に、悪ふざけが好きな子からはどんどん嫌われていった。
「なあ、俺様からのお願いだ。代わりにごみ袋出しに行けよ」
 ある日。血脇君に、そう言われた。
 血脇君は問題児の中でもトップで、極力私は接点を持たないようにしていた。それに、むこうも私のことを嫌っていたので話をすることはほとんどなかった。ただそれだけの関係。
 そんな血脇君からのお願いに逆らったらどうなるかを考えてから言葉を発すればよかった、と今になって思う。
「血脇君の仕事でしょ。自分でしてよ」
 私の言葉に、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。その時は、気にも留めていなかったその表情だが、その瞬間、私は血脇君から敵に認定されてしまったのだろう。
 次の日からは悪質ないじめが始まった。シューズの中に画びょうを入れられたり、机に落書きをされたり、からかわれたりと古風なやり方だったけれど。
 最初の頃は、冷静に先生に報告したりしていた。でも、先生にいくら怒られても血脇君は私をいじめることをやめなかった。他の人を罵ることの面白さに気づいたのか、逆にエスカレートしていったのだ。物を隠したり、髪を引っ張ったりするようになった。そのため、徐々に私の心も削られていった。
 いつの間にかあんなに楽しかった学校が嫌いになった。
 笑えなくなった。
 学校に行けなくなった。
 心配した両親が環境を変えた方が良いのではと考えた。そこで、転校して新しい学校に行った。
 でも、他人の目が怖くなっていた。自己紹介をする時、他人の目が一斉に集まり私は教室から逃げてしまったのだ。
 中学時代は学校に行ったり行かなかったりだった。行ったとしても教室に入る前に怖気づいてしまい、保健室登校ということの方が多かった。それでも、周りの目が私に向かないようにするためのスキルを身に付けた。なにも解決には向かっていなかったけれど、天にも昇る思いだった。人の目に怯えずに済むのだ。
 不登校の子供を支援する政策を駆使して、中学校の登校日数は少なかったが、高校に入ることが出来た。
 自分が空気になるというスキルを使うことで、高校はきちんと登校できている。
 いい方向にいっていたのに。血脇君、あいつのせいで逆戻りだ。今私が怖いのはいじめられたことについてではない。いじめられたことによって不登校になった自分自身が怖いのだ。忘れたかったその過去を、より鮮明に思い出してしまった。

 無機質な目覚ましの音が耳元で鳴る。これで今朝三回目だ。
(もうそろそろ起きないと)
 いくら休みを取ったからって、ずっと寝ているのは良くない。
 私は鉛のように重い上半身を起こす。
 時計の短い針は十を指していた。
 リビングに行くとお母さんが一人家事をしていた。
「どうしているの?」
お母さんは週に数回働いている。今日はその日のはずだ。
「お休みをもらったの」
「別に気にしなくていいよ。血脇君の事、気にしてないから」
 そう言うと、お母さんはムッとした顔になった。
「大丈夫なら、帰って来た時何であんな顔してたの?もしかして、千尋ちゃんを遊びに誘った三人も血脇の回し者だったりして……」
「あの三人が、そんなわけない……!」
 数時間の間だけだったけれど、とてもいい人達だった。
 お母さんは声を荒げた私を見つめていた。その顔から感情を読み取ることは出来ない。
「と、とにかく、勉強しとくから」
 そう言い残すと、私は自分の部屋に帰った。

「もう十二時……」
 シャーペンを机の上に置くと、大きく伸びをした。
(お母さん、どこか行ったのかな?)
 家の中は静まり返っている。
 一人が好きなはずだったのに、今は少し寂しい。
(コンビニに行ってお弁当買おう)
 今学校では何をしているのだろうか。
 靴にかかとを入れ、ドアを開けた。
 そこからは機械的な作業で、何をしたかの覚えていない。
 覚えているのは夕方になってからだ。
『ピンポーン』
 とチャイムの音がした。お母さんが出てくれるだろうと思って私はそのまま勉強を続けていた。
(そっか、今お母さん居ないんだ)
 椅子から立ち上がると、玄関に向かって早足で向かった。
 郵便屋さんならハンコを押すだけだ。
 ドアを開ける。
 そこには、私の家から遠ざかってゆく春樹さん達の姿があった。
「あっ、あの!」
 大きい声を出して三人を呼び止める。
 すると、春樹さんが真っ先に振り返った。
「あっ、いたんだ」
 そう言いながら、私の方へ近づいてくる。
「千尋ちゃん!ごめんなさい」
 柚葉さんが地面に頭がつきそうなほど頭を下げる。
「森川、昨日は大丈夫だった?」
 皆が次々に昨日のことを口にする。
「あ、あの、家。上がりますか。今一人なんで」
 三人は顔を合わせて、頷いた。
「お邪魔します」
「お茶、持っていきますんで私の部屋で待っていてください」
「森川さんの部屋は?」
「そこ、曲がったところです」
「分かった」
リビングに入ると、お茶を三人分注いだ。おぼんがどこにあったのかを忘れてしまい、持っていくまでに時間がかかってしまった。
 部屋に入ると、三人は綺麗な正座をして待っていた。
「あの、くつろいでもらっていいですよ」
「あ、うん」
 机の上にお茶を置くと、私も三人のように座った。
「森川、勉強してたんだ」
 机の上に広がっている参考書を翔太さんが指さした。
「はい、風邪ではないので」
「偉いよな。森川。俺なら絶対ゲーム漬け」
「学級委員の特権を使って、配布物渡しに来た。はい、これ」
「ありがとうございます」
 両手で受け取った。
 この空気からして、三人ともすでに察している。
「……森川が休んだのは、昨日のせい、だよな」
「翔太さん、気にしなくても良いですよ」
「でも、私が誘ったせいだよね。ごめん。血脇が、今日校門で『森川はいないか』って探してて」
 私は手に力が入った。
「校門……まで?」
「俺たちの顔を見たら、森川を出せって騒いでた」
「おい、翔太。それ以上言うな」
「は、春樹さんも、気にしなくていいですよ……」
 すると、柚葉さんがぽつりぽつりと血脇君の中学生の時を話し始めた。
「私、中学校の時転校して、血脇と一緒の学校になったの。あいつ、提出期限とか全然守らなくて先生にはよく呼び出し食らってた。けど、ノリは良いしクラスの中心だったよ。昨日会った時はピアスの穴開けてたけど、中学の時は開いてなかったから高校生になってからだし。私がクラスになじめるきっかけをつくってくれたのも血脇だし。けど……」
 柚葉さんが私の方をチラッと見る。血脇君は柚葉さんにとっていい人だったのかもしれない。
「思い切って言いますと、血脇君のせいで私不登校になったんです。小学生の時だからかなり前の事なんですけど。私の事を見たら、血脇君またいじめたくなったんですかね」
 私は苦笑いする。
 ここまでスッキリいえるとは思わなかった。
 しかし、その場の雰囲気は一瞬にして凍り付いた。
「だから、気にしないでください。明日はきちんと学校に行きます」
 だいたい、昨日の一日だけの付き合いだ。もう、この三人と一緒に何かをするということはないだろう。
「森川さんは、それでいいの?」
「それでいいの、って言うのは?」
「ううん。何でもない。用事が終わったから自分たちは帰るな」
 そう言って立ち上がった時だった。
「千尋ちゃん、帰ったわよ」
 家の扉が開く音がする。
「お母さんだ」
「お母さん?」
「す、すみません。帰って来たみたいです」
 今、お母さんとこの人達が会うとまずいことになる。
「千尋ちゃん、靴がいっぱいあったけど誰が来てるの?」
 足音が近づいてくる。
「と、とにかく隠れてください」
「隠れるって、無理だよ」
「っていうか、俺達家に上げてもらってるんだし挨拶ぐらいした方が……」
 ドアが一気に開いた。
 もうだめだと諦めた。
 お母さんの顔を見てみる。とても青ざめていた。
「っ、千尋ちゃんを遊びに誘った子達?」
「はい、お邪魔させてもらってます」
 何も知らない春樹さんが丁寧にあいさつをした。
「お母さん、悪い人達じゃないから……」
 そんな私の言葉に聞く耳を持たない。
「千尋ちゃんをこれ以上傷つけないで。今すぐ出て行って」
 血脇君の事で学校から電話がかかってきて以来、他人に対してここまで怒っているお母さんを見ていない。それと同等レベルに怒っているということだ。
 柚葉さんの目が赤くなる。
「やっぱり、千尋ちゃんの事、私傷つけた?」
「柚葉さんは悪くありません」
 私は柚葉さんに近づいた。
「俺達帰ります。すみませんでした」
「翔太さん、何で謝るんですか。ねえお母さん、私達話したいことがあるから出て行って」
「だったら、あなたたちが出て行ってくれる?」
 三人はお母さんに追い払われた。泣きそうになっていた柚葉さんに何もできなかった後悔が積もる。
 その後のご飯も味がしなかったし、お母さんとも気まずかった。
 一日が終わって布団に入った時、春樹さんの言葉を思い出した。
『森川さんは、それでいいの?』
 その時はとぼけて見せたけど。
 良いわけがない。このままだったらずっとやられっぱなしだ。嫌だ。
(っていうか、何であいつは私に執着するの⁉ふざけないでよ)
 今まで溜めこんでいた思いが爆発する。
 私は中学も高校も間接的にあいつに支配されていた。
(明日、あいつが校門に来てたら何か言ってやろう)
 硬く決意した私は、明日が楽しみにさえなっていた。

 いつもの路地を歩いて学校へ向かう。
 今までになくその足取りは軽かった。
(長年の決着をつけるとき……!)
 学校に近づくにつれ、話し声が大きくなってゆく。
 校門が見えてきた。
 血脇君の姿を探す。彼は一日いないからといって諦めるような性格ではない。
「いない……?」
 入っていた力が抜けるような気がした。
 校門で来るまで待っていようか。でもそれは、こっちがストーカーをしているみたいだ。
 とりあえず、ここにいてもどうしようもない。先に三人に謝ろう。
 教室に入ると、人は少なくゆったりとした空気が流れていた。
 いつも私は学校での時間が減るようにギリギリに登校している。
 朝の学校も、放課後の学校と同じように快適だ。
 自分の席に座ると、しわが目立つ文庫本を開いて三人が来るのを待った。
 この後どうなるのだろう。一番の盛り上がりを読んでいるときだった。
 教室の前のドアが開いた。前から入るということは陽キャだ。
 誰だろう、としおりを挟んで本をしまった。
「来た……」
 陽キャ軍団が入ってくる。一緒に来ているわけではないけれど、今三人がそろった。
 私がいるのを見つけると、三人とも私に近づいてきた。
「ごめんなさい」
 まず私は一番に謝った。昨日のお母さんの事だけではない。カラオケを途中で抜けてしまった事。たくさん心配させてしまった事。全てを込めた「ごめんなさい」だった。
 周りからはひそひそと話声が聞こえる。
「あの人が話してるの、初めて見たかも」
「それな。ってか、柚葉ちゃんに翔太君に春樹君ってどーゆー組み合わせ?」
「分かんない」
 周りから見た私は、そんな人間だ。
 そんな自分を受け入れよう。
 今すぐではなくてもいい。ゆっくり傷をいやして昔の自分に戻ろう。
「こっちこそ、ごめん」
「私、春樹さんの言った事、考えたんです。今日、血脇君に一言言ってやろうと思っています。見守っててください」
「無理しなくてもいいんだよ」
「そうしたいんです。無理はしてません。親が過保護なんですよ」
 私は笑う。表情筋が弱っているのか、昔のようなくしゃくしゃの顔ではないけれど。
(久々に、自然に笑ったな)
 恥ずかしくなって少し俯く。
「当たり前じゃん。血脇なんかめったメタにしてやれ」
 翔太さんが強く拳を握った。
「それだと、やり返してるだけじゃないですか。血脇君を諭します」
「そ、それも何か怖い」
 翔太さんの反応が面白くて、私はプッと噴き出してしまった。
 すると、翔太さんも笑って、柚葉さんも春樹さんも笑った。
 これが青春なのかな、と思った瞬間だった。

「ねえ、血脇君。何が楽しくて小学生の時のことを繰り返してるの?」
 怖がっていることがばれないよう、語尾を強くしたものの、握った手に爪が食い込んで痛い。
「もうそろそろやめてくれないかな?私がディスられることによって、他の人にも迷惑がかかるわけだし」
「ん?なんだなんだ。急に覚醒したぞ。負け犬の遠吠えか?」
 馬鹿にしたような返事にイラっとくる。
「そう言うことじゃなくて」
 明らかにガラの悪そうな血脇君の事を避けながら校門を出る他の生徒たち。
 他の所に行った方が良いかとも考えたが、ここまで人目があったら、殴るなどの行動に出ることは出来ないと踏んで、ここで話している。
 やはり、放課後に血脇君が来た。
 どこにいるのかは分からないけれど、三人も見守ってくれているはずだ。
「私が言いたいのは、こんなことし続けて楽しいのかってこと。中学校の時は人をいじめてなかったんでしょ。なんで高校生になってまたイジメるの?」
「……お前、口調が小学生の時に戻ったな」
「え?」
「そうだな。弱い者イジメはやめるかぁ」
 もう弱くなんてない。そう言いたかったけれど、声にすることは出来なかった。
 血脇君が私の方へ歩いてくる。私は血脇君の目から目をそらさなかった。
 何かされるのかと思ったら、血脇君は横を通り過ぎただけだった。
「ごめん」
 そんな血脇君の声が聞こえたのは私の空耳だろうか。
 振り返って、小さくなっていく血脇君の背中を眺めた。
「森川さん、見てたよ」
 春樹さんが校門の影から顔を出した。
「春樹さん、柚葉さん達も」
打ち合わせなんかしていないのに、私達は同時に微笑んだ。

「強いね」

私は、少しだけ息がしやすくなった気がした。