馬鹿げている、馬鹿げている! 廃部寸前、役者足らずの演劇部の助っ人なんて。顔が良いから、という理由だけを連呼して部室に連れて行こうとする強情な女子生徒も、抵抗もせず連行されようとするフレイも。そして、人一倍おっとりしている彼を放っておけずについて行く私もだ。馬鹿しかいない!
話は数時間前に遡る。放課後になり、部活に所属していない私とフレイは、夕焼けに照らされる廊下を並んで歩き、玄関へと向かっていた。今日の授業はこうだったとか、お腹が空いたとか、他愛のない会話をして。そういう、いつもと変わらない帰り道のこと。
私達の前方に一人の女子生徒がいて、焦りの極まった声で誰かと通話していた。大変そうだと思いながらも足を進めていたら、その人は私達を見るなり、持っていたスマートフォンを落としたのだった。立ち尽くすとは正しくあの状態のことを言うのだろう。硬質な音が廊下に響くまでの数瞬の間、その人は私達を、厳密に言えばフレイの方を凝視していた。その尋常でない様子に驚きつつも、彼女の横を通り過ぎようとした、その瞬間!
「逸材! 発見!」
確保! 突如そう叫んだ彼女はフレイの腕をぐわしと捕らえ、瞳を輝かせて言い放った。
「お願い! 私についてきて!」
次の芝居で客が集まらなかったら廃部になるのだという。だから客寄せパンダよろしく、超絶に見た目の良い男を出演させることで、チケット完売を目論んでいる。
部室に到着し、まず説明されたのはそれだった。どうしてフレイがそんなこと。口を挟もうとするが、
「喜んで引き受けよう」
と当の本人に先を越されてしまった。しかも承諾の返事であるからいっそう頭が痛くなる。
「本当!?」
私達を誘拐した張本人、リリアはその返答に歓喜した。そして彼女の隣に座っている男子生徒、演劇部の部長であるというイツキもまた、
「ありがとう、本当に助かるよ」
と言ってフレイの手を固く握り、これからよろしくと人好きのする笑顔を浮かべた。辺りには和やかなムードが漂う。これにて一件落着、顔の良さで見事演劇部を救った男は、その後この学校の語り草となりましたとさ……。
「じゃあ早速なんだけど、今回私たちは御伽噺をアレンジして……」
リリアが台本を開き、びっしりと書き込まれたページを指さす。演目についての説明を、フレイは興味深げに傾聴し――。
――ている場合ではない!
「待ってよ!」
いくらなんでもお人好し過ぎる! 眉を吊り上げて机を叩き、立ち上がる。三者の視線が集まり、場が静まり返ったが、それでも構わず声を荒げた。フレイは昔からこうやって他人の頼みを安請け合いしてしまうところがあった。そこがまた優しくて、紳士と称され、女子からも男子からも先生からも信頼される所以なんだけど――って、今はそんなことを言っている場合ではなく。
「勝手に話を進めないで!」
「イオ。落ち着いて」
声を荒げても、フレイは冷静になだめにかかる。今は黙ってて! と睨みつけても何処吹く風だ。こういうところに昔から振り回されてきた。フレイがいつも持ってくる安請け合いだって、私は頼まれもしないのに首を突っ込み、フレイの負担を引き受けて何とかやってきた。フレイの力を過小評価しているわけではなくて、ただ自分もこの優しい彼の助けになりたくて、それで結果的に私達はうまくやれてこれた。
のほほん顔を鋭く射抜く。いつもとまったく変わらぬ穏やかな様が、今は憎らしい。
「演劇なんてやったことないでしょ!」
「引き受けたからには努力しよう」
真摯なまなざし、力強く頼もしい声音。これにいつも押し負けてきた。
「ぐっ……。ぶ、舞台の上では一人になるのよ。私だって助けてあげることはできない!」
保護者だ……と私達の対面でひそひそと囁かれる声は無視する。
「やってみせるよ。君がいなくとも」
率直に返ってきた一言は、胸に針が刺さったような痛みをもたらした。唇がわなわなと震えてきて、二の句が継げない。頭が冷える。まるでフレイが、私がいないと何もできないというような発言をしてしまったことに、今さら恥じ入った。
「本人がこう言ってるんだし、認めてあげたら? ええと、……イオ、さん?」
ううっ。好青年部長の、気遣いをいっぱいに感じる声音も今はつらい。ところで君は誰? そう言いたいのだろう。
「そうよ、せっかくの美人顔、活かさない方が世界の損失だわ! ……それで、あなたは彼とどういう関係? 友達?」
もう限界に近い。思わず右手で胸を抑え、項垂れる。リリアの指摘は更に深く胸を突き刺した。彼女達からすれば、欲しい人材はフレイ一人であって、何故か一緒について来て文句を垂れるこの女子生徒はいったい何者だろう。そう思うのは当たり前のことだ。
先程までの勢いもすっかり消沈し、がっくりと項垂れたまま着席する。力なく腰を下ろし、今更過ぎる自己紹介をした。
「い、イオといいます。彼とは幼なじみをやらせてもらってて……」
この場に私は必要とされていない。もごもごと自虐気味に自分の立ち位置を説明した。
「イオ。それくらいで」
さすがに哀れに思ったか、フレイがそれ以上の自虐を制止した。こちらを見つめる彼の瞳は心配そうな色をしていた。それがまた居た堪れなくて、顔を背けて俯く。
フレイは完璧だ。何だってできた。それを助けてやるなどと、なんて傲慢な考えだろう。きっと今までだって、フレイは私がいなくても問題無く解決できたのではないか。むしろ、私が足を引っ張って、余計な負担を増やしてしまっていたのではないか? とまで思考が沈んでゆく。
「……ごめん! 私、出過ぎたこと言っちゃった。劇、成功するよう応援してるから……」
視線のやり場は結局どこにも見つからない。帰るね、と言って通学鞄に手をかけた瞬間、その手に何かあたたかいものが重ねられる。
「イオ」
フレイの手だった。ばっと顔を上げると、先ほどまでの穏やかな顔は消え、焦りのような表情がそこにあった。
「やはり不安もある。どうか、私の練習相手になってくれないか」
こんなにつらそうな顔をするのは、とても珍しいことだった。その尋常でなさに困惑し、彼に応えられないでいると、一連の流れをずっと見守っていたリリアが口を挟む。
「うん。それがいいわ、賛成! どんなに完璧超人だって練習は必要よ。私たちだって何度も何度も練習するんだから!」
沈んだ空気を断ち切る明るい声に、四人を取り巻く空気が和む。静観していたイツキもまた、リリアに調子を合わせて声を上げた。
「うん、俺も賛成。それに、初めての芝居だろ? じゃあ、気心知れた相手の方がやりやすいかもね」
ぽん、と肩に手を置かれる。
「え?」
「決定! じゃあ、ハイ、台本! イオの分も合わせて、二冊渡しておくね」
「ありがとう」
フレイは丁重に冊子を受け取った。
「ちょっと待って、」
「本番は一か月後! ごめんね、本当に突然の頼みで。さっそく今日から練習に参加して欲しい。フレイには主役を頼みたいんだ」
「私が、何? え?」
「わかった。舞台や衣装などの準備は?」
「そこは大丈夫! フレイはとにかく台本を覚えることに集中して。本番までの期間、この部室は自由に出入りしていいから。これからよろしくね!」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
「……あああ、もう! やってやるわよ!」
そうしてとんとん拍子に話は進み、私はフレイの練習相手を務めることになった。色々と言いたいことはあるが、彼に頼みにされたことが嬉しかったのだから、私もたいがい単純だ。
「頑張ろう、イオ」
微笑みかけるその顔が眩しい。こうなったら、幕が降りた瞬間に割れんばかりの拍手喝采、観客全員スタンディングオベーションのレベルまで仕上げてやる、と決意した。
私達はそのまま部室の一角を借り、一つの机に対面して座った。まずは大まかなあらすじをつかむため、台本を熟読する。演目はこの国に古くから伝わる御伽噺だった。絵本にもなっていて、私も幼い頃に読んだことがある。題名を『かんなぎと銀の狼』といった。
「懐かしいな……」
「うん。懐かしい」
パラパラとページをめくりながら、絵本を読んでいた頃を思い出して旧懐に浸る。思わず漏れ出た言葉はフレイに言ったつもりでは無かったが、彼は律儀に相槌を打ってくれた。
「アレンジしたって言ってたけど、どのあたりかな」
「結末部分だ」
「早いね。私はまだ半分くらい」
『かんなぎと銀の狼』は、本来こんな物語だ。
――昔々、この国が病魔に苦しんでいたときのこと。あるところに一人の少女と銀の毛並みを持つ狼が旅をしていました。行く先々で二人は民衆を病から救いました。やがて二人は国に評価され、国を守る守護者としてその力を発揮しました。王も民も、その国に住まうすべての生き物たちは皆感謝し、カンナギ様と呼んで敬いました。しかし技術は進歩します。カンナギ様の加護が無くとも人々は暮らしてゆけるようになりました。用済みとなったカンナギ様は魔女と蔑まれ、ついには守ってきたはずの人間の手によって処刑されてしまったのです。ひとり逃がされた狼は、今もこの大地を彷徨っているのです――。
フレイが今回任された役は、その狼だった。狼を擬人化して主人公に据えたらしい。かつて読んだことのある昔話との相違を確かめながら読み進め、ようやく結末部分のページに辿り着く。
「本当だ。思い切った改変」
「完」の文字まで読み終え、息をつく。元々の神話には一切無かったはずの恋愛要素が付け足され、更にハッピーエンドに変わっている。なるほど、高校生が楽しめそうな改変だ。
「幸せな結末の方がいい」
「それはそうだけど。私は本来の結末も好きだよ。物悲しくて」
率直に感想を答えると、どうしてかフレイはとても切なそうな表情を浮かべていた。反論されたのが嫌だっただろうか? なんとなく気まずくなってもう一度該当のページを開き、そこに描かれている情景を想像する。
狼は少女が死んだと知っても諦めず、その清廉な魂を探してあてもなく放浪した。その旅路の果て、ついに少女の生まれ変わりと出会う。狼は二度と離れないことを誓い、二人は幸せなキスをして終了……という、曇り一つ無いハッピーエンドだ。
……ん? ふたりは幸せなキスをして、だって?
「キスシーンがあるの!?」
「あ……」
あっと思って顔を上げれば、フレイもまた今気付いた、という顔をしていた。これは本当にキスをするのだろうか。それともキスしているように見せるだけなのか。しかもキスシーンの前には熱烈な愛の言葉を囁いている。当該の台詞を確認しているフレイの顔をちらりと見た。この、女子生徒から絶大な人気を誇る、けれどもその割には恋愛ごとに関心を示してこなかった男がこれを演じるのかと思うと何だか不思議な気持ちになった。彼が特定の誰かを好きになることがあるのだろうか? そう思ってしまうほど。
とは言え彼も人間だ。きっといつか好きな人ができて、この台本のように愛を囁いて、キスをする相手が現れるに違いない。その風景を想像したら胸がちくりと痛んだ気がした。いつか私の隣からいなくなるのだ。それを思うとどうにもつらかった。
そんなことを考えながら彼の顔を見つめていると、視線に気付いたフレイは「疲れた?」と労りの声をかけてきた。
「そろそろ帰らせてもらおうか」
「疲れてないよ、大丈夫! それより読み終わったなら練習しないと……」
「いつも私の我儘に付き合わせてばかりだ。続きは明日にしよう」
「……わかった」
我儘に付き合わされているのではなかった。自分から、喜んで、付き合っているのだ。世話の焼ける、という顔をして、その実、傍にいたいと思っているのだ。帰り道の別れ際、離れるのがいつも寂しかった。可能な限り一緒にいたいと思っていた。世話が焼けるのは私の方だった。
私はずっと、この人に恋をしている。
「そろそろ私たちは帰ろうと思う。イツキ、この台本は持ち帰ってもいいかな」
「もちろん。家でも練習してくれるんだね、ありがとう」
「今日はありがとう、二人とも! 本番まで一緒に頑張りましょう!」
そう言って、今日のところは帰ることにした。どこにも寄らず、それぞれの家への帰路を歩いてゆく。もう少しで交差点に出る。
「じゃあね、フレイ。気を付けて」
去り際はいつも惜しくて、何を言ったらいいかわからなくて、結局保護者のような言葉が出てくる。そんな言葉に彼は「ああ、君も。また明日」とだけ返して、そうして別れる。いつもそうだった。今日もそうなると思っていた。
「イオ。君がよければ、だけど……明日から、私の家で一緒に練習しないか」
「え」
「二人の方が集中できる気がして。どうかな」
誘われた。家に。初めてのことだった。
「い、行く!」
驚いて、でも嬉しくて、大して思考もせずに反射で答えると、フレイは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
そんな表情のまま挨拶を告げられて、背中が遠ざかってゆく。有頂天になって、そこからどうやって家に帰ったか憶えていない。気付いたらベッドにダイブしていて、ごろごろと悶絶していた。
それから放課後にはフレイの家を訪れることになった。フレイの部屋で、二人で台本を読み合う。毎日のようにそういう日々を過ごした。共に台本を開き、一つ一つの場面を確認し、少しずつ台詞に込められた感情を読み取って、声に乗せる。
フレイはフレイの任された主役の狼を。私は他の色々な登場人物であったり、そして、この芝居のヒロインであるカンナギ様であったりを演じた。カンナギ様はヒロインだから台詞量も多い。私達は、特にこの主役とヒロインのやりとりを繰り返し練習した。愛を告げる場面だって演じた。この場面になると、どんな台詞も卒なくこなしてきたフレイもさすがに気持ちが入るのか、こちらをじっと見つめて真剣に演技をした。思わず照れてしまうほどに。
時間を忘れて夜まで練習している日もあれば、部室を訪ねて不明な点を確認し、部員たちに見てもらう日もあった。
そしてあっという間に時間は過ぎ、ついにあと一週間後に本番を迎えることとなった。
いつものフレイの部屋。もうすぐ本番ということもあり、一連の流れを通して読み合った。休憩しようとフレイが淹れた珈琲をもらい、一口飲む。彼がいつも好んで飲んでいる味だった。
「どうかな」
「完璧だと思う。専門家じゃないからわからないけど……今までで、一番良かったよ」
「そうか。よかった」
ふわりと笑った顔にどぎまぎする。この天然タラシめと心の中で毒づき、込み上げた甘い感情を飲み下すために黒い水面を傾けた。
もうすぐで本番だ。やっと解放されるという思いもあるが、終わってしまったらもうこの放課後の逢瀬も無くなってしまうのかと、惜しむ気持ちも生まれてきていた。台詞の読み合いなんて生まれて初めてで、恥ずかしくも思ったけれど、それでも二人で共にいられる時間が増え、楽しかったのも確かだった。それが、もうすぐで無くなる。感傷が胸を占める。
けれども今はただ、フレイが立派にやり遂げられるよう、雑念を払ってサポートに徹するべきだ。
「もう一度、通してやってみよう!」
そう声をかけて、再び台本を開いた。
――それなのに。
どうしてこうなったのだろう。鏡に映る自分はかつてないほど顔を歪めている。ちょっと、せっかく綺麗に整えたのに! なんて、私の髪を弄り回しているリリアは文句を垂れている。文句を言いたいのはこっちだ。なにせ自分は今、ヒロインの衣装を着せられている。
「うん、綺麗だよ! 髪も化粧もいい感じ」
ごちゃごちゃと髪を弄るリリアの隣に立つイツキに呑気な声をかけられる。
「うるさい……」
抗議は散々したし、拒絶の意だって全力で示した。けれども。
「うん。イツキの言う通りだ。綺麗だよ、イオ」
満足そうに微笑んでいるこの男が元凶だ。
鏡越しにじっとりと睨んでも、彼はにこにことたいそう機嫌が良さそうだ。思わず諦念の溜息が漏れる。
嵐のような瞬間とは、あの時のことをこそ言うのだろう。
確認したい点があったから部室に立ち寄ると、突如ガッと肩をつかまれた。誰かと思ったら、幽鬼のようなオーラを放っているリリアだった。俯いているため、垂れ下がった長い髪で顔が見えないのがまた、不気味で恐ろしい。
「どうしよう、イオ……フレイ……」
「ど、どうしたの?」
リリアがガバッと顔を上げる。目のふちが赤く染まっていて、ほとんど泣いていた。
「ヒロイン役の子が風邪を拗らせて……声がうまく出ないの……」
「あー……。流行ってるもんね」
「そうなんだけど、そうじゃなくて。代わりがいないの!」
「他の部員とか」
「見たでしょ、あの台詞の量! 本番は明日! 一日で覚えるなんて絶対無理……」
「……確かに」
確かにものすごい量だ。どうしよう。せっかくあれだけ練習したのに、このままおじゃんになるのも癪だ。何か良い方法は……と頭を巡らせていると、隣でやりとりを静観していたフレイが声を出した。
「イオは」
「? 何、フレイ」
「何か良い案があるの……?」
フレイはじっと私の顔を見つめた。急に呼びかけて、どうしたのだろう。
「イオがやればいいのでは?」
「は?」
何を言ったのか理解できないままでいると、リリアの目に溌剌とした輝きが取り戻される。
「そうよ!」
「は?」
この二人は何を言っている?
「そうか。いつもイオはフレイと練習してたもんね。台詞もばっちり憶えてるってことか」
「は?」
リリアの後ろに控えていたイツキが合点する。待って。三人で話を進めないで。私はいつも置いていかれるから。目を白黒させながらフレイの案を理解しようと反芻していると、リリアが私の全身を上から下まで見回していた。
「うん……大丈夫! いけるいける!」
「待って、私――」
「諦めなよ、イオ。こうなったら聞かないって、もうわかるでしょ」
イツキは同情の籠もった目でこちらを見ている。
「イオ、私は君と共演できてうれしいと思っているのだが……嫌なら無理にとは、」
「うぐ……」
こうなれば、もう自棄だ。
そうして今、リハーサルのために衣装を着せられ、化粧を施され、髪にウィッグを装着している。リリアはこれでよし、と満足気だ。もはや覚悟も決まったが、気がかりが一つ。フレイも同じことを考えていたようで、リリアに問いかける。
「最後の場面だが……。キスシーンは、どうしたら」
「ああ、あそこね。キスするかしないかってところで、ちょうどよく幕が下りる演出にしようと思ってるの。だから、ギリギリまで近付いてくれれば大丈夫」
ほっと胸を撫で下ろした。さすがに実際にキスをするのは躊躇いがある。フレイだってそうだろう。美人な女子ならともかく、相手は私なのだし。
「したいならしてもいいわよ!」
茶目っ気たっぷりに笑うリリアは黙殺した。
そしてリハーサルを始めたはいいが、完全下校時刻も迫ってきているということで、最後まで通すことができないまま解散となった。この調子で大丈夫なのかと不安だが、申し訳ないけど後は二人で練習してほしい、とイツキに言われた。
二人で。ただの練習相手ではなく、本番にも相手を務めるヒロインとして。もう外はとっぷりと暗いため、少しだけフレイの家にお邪魔して、いつも通りに読み合わせをした。明日、フレイの相手役として、私は出演するのだ。急に現実味を帯びてきて、いつものようにすらすらと台詞が出てこない。気付いたフレイがいったん止める。
「緊張している?」
「あ、当たり前でしょ。急に出演することになっちゃって」
「私が余計なことを言ったせいだ。すまない」
つっけんどんな言い草に、彼は申し訳なさそうな声を出す。私は慌てて訂正した。
「フレイを責めているわけじゃ……」
「だけど、」
台本を握っていた両手を取られ、彼の手のひらに包まれる。ばさりと床に台本が落ちた。
「私は君が相手で嬉しいと思っている。本当に」
じわじわと手のひらの熱が移ってくる。真剣な瞳に射止められて、数秒呼吸が止まった。それから、やけに近い距離に困惑して、見つめ返すこともできずに視線を下に落とした。
「わ、わかった、わかったから」
「うん」
まだ見ている気配がして、いつまでも視線を戻せない。
フレイは時々こうなった。妙に熱っぽく私を見つめるのだ。
「も、もう帰るね」
「送っていくよ」
「だ、大丈夫。一人で帰れる」
「……そうか。では、気を付けて」
別れの挨拶もそこそこに、転がるようにフレイの家を出た。外の風は冷たいのに、頬は火照って熱かった。
そして迎えた本番当日。当初の目論見通り、客席は人で溢れていた。舞台袖からわずかに見える千客万来の光景に緊張が高まる。
「大丈夫だよ」
背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねた。彼が近付いてきていたことさえ気付かなかった。昨日、気まずい状態で別れたから、まともに彼の顔を見るのはまだ抵抗があった。視線を上げられなくて、彼の胸元だけが視界に映る。
「大丈夫」
フレイは再びそう言って、セットした髪を崩さない程度の力で、頭をぽんぽんと撫でた。触れられたところから、凝固した氷が融けていくようだった。何と返せばよいかわからず、声も出せないままにおずおずと彼の顔を見上げると、彼はいつも通りの微笑を湛えていた。何も変わらぬ、普段と同じ様子に緊張は少しずつほぐれてくる。
練習した通りにやればいい。
客席と舞台を仕切る幕が静かに上がっていった。
フレイは練習の甲斐あって完璧に仕上がっていた。立ち居振る舞いも話し方も淀みない。気品あふれる高潔な姿。まさに御伽噺の狼が人の姿に化けて現れたかのようだった。一挙手一投足が洗練されている。すべての観客がその動作、表情に見惚れているのがわかった。
対する私も、ヒロインとして違和感無く振る舞えている、はずだ。台詞だって、ずっと台本を読み込んでいたのだからすらすらと言える。昨日のリハーサルのときよりもいっそう、台詞に感情を籠めることができた。
そうして話は順調に展開され、あっという間に最後の局面まで進んだ。
『カンナギ様……。私はずっと、あなたを探していました』
果てしなく長い旅の末、カンナギ様の生まれ変わりを見つけた銀狼。その身体を優しく抱き留め、狼が万感の思いを語る。
『会いたかった。ずっと、会いたかった……』
近い。近すぎる。結局キスシーンは練習できなかったのだ。初めての距離にどぎまぎする。けれど悠長にしてはいられない。記憶を取り戻した私が狼の名を呼び、キスをする素振りをして、舞台の幕が降りてくる手はずになっている。
覚悟を決めて、かつてないほどに密着したフレイのまなざしを見つめ返し、声を発しようとした、その瞬間だった。
正面のフレイは柔らかく目を細め、穏やかに微笑んだ。つい見惚れて何も言えないでいると、ふっと視界が翳った。互いの額が合わさったのだ。いくら何でも近すぎる! 間近にフレイの綺麗な顔がある。睫毛が触れ合ってしまいそうだ。透き通った瞳は、何者をも魅了してしまいそうなきらめきがある。見つめていると、彼の唇がゆっくりと開いた。
「――本当に、長かった……」
彼は何を言おうとしている? 狼の台詞はもう終わりのはずだ。彼はもう何も言わなくていいのに。
「――イオ。私のかんなぎ」
かすかに囁かれる、台本に無い台詞。私の他に、誰も聞く者はいない。何かを思い出さなければいけないような気がした。呆然としていると、強い力で腰をぐっと引き寄せられ、後ろ頭に手のひらが回される。私達の身体はぴったりとくっついて、離れようもない。
視界が更に暗くなった。幕が下り始めているのだ。もういいよ。これだけ近ければ、キスしているように見えているはず。もういい、もうこれ以上は。どこか怖い気持ちになって、彼の胸を押して離れようとするが、フレイは力を弱めようともしない。後頭部に回されていた手は私の頬を優しく包んだ。もう焦点も合わないほど近い。ちょっと待――。
完全に幕が下ろされたその瞬間に、二人の唇は重なった。下りた幕の向こうでは、割れんばかりの拍手が響いていた。
話は数時間前に遡る。放課後になり、部活に所属していない私とフレイは、夕焼けに照らされる廊下を並んで歩き、玄関へと向かっていた。今日の授業はこうだったとか、お腹が空いたとか、他愛のない会話をして。そういう、いつもと変わらない帰り道のこと。
私達の前方に一人の女子生徒がいて、焦りの極まった声で誰かと通話していた。大変そうだと思いながらも足を進めていたら、その人は私達を見るなり、持っていたスマートフォンを落としたのだった。立ち尽くすとは正しくあの状態のことを言うのだろう。硬質な音が廊下に響くまでの数瞬の間、その人は私達を、厳密に言えばフレイの方を凝視していた。その尋常でない様子に驚きつつも、彼女の横を通り過ぎようとした、その瞬間!
「逸材! 発見!」
確保! 突如そう叫んだ彼女はフレイの腕をぐわしと捕らえ、瞳を輝かせて言い放った。
「お願い! 私についてきて!」
次の芝居で客が集まらなかったら廃部になるのだという。だから客寄せパンダよろしく、超絶に見た目の良い男を出演させることで、チケット完売を目論んでいる。
部室に到着し、まず説明されたのはそれだった。どうしてフレイがそんなこと。口を挟もうとするが、
「喜んで引き受けよう」
と当の本人に先を越されてしまった。しかも承諾の返事であるからいっそう頭が痛くなる。
「本当!?」
私達を誘拐した張本人、リリアはその返答に歓喜した。そして彼女の隣に座っている男子生徒、演劇部の部長であるというイツキもまた、
「ありがとう、本当に助かるよ」
と言ってフレイの手を固く握り、これからよろしくと人好きのする笑顔を浮かべた。辺りには和やかなムードが漂う。これにて一件落着、顔の良さで見事演劇部を救った男は、その後この学校の語り草となりましたとさ……。
「じゃあ早速なんだけど、今回私たちは御伽噺をアレンジして……」
リリアが台本を開き、びっしりと書き込まれたページを指さす。演目についての説明を、フレイは興味深げに傾聴し――。
――ている場合ではない!
「待ってよ!」
いくらなんでもお人好し過ぎる! 眉を吊り上げて机を叩き、立ち上がる。三者の視線が集まり、場が静まり返ったが、それでも構わず声を荒げた。フレイは昔からこうやって他人の頼みを安請け合いしてしまうところがあった。そこがまた優しくて、紳士と称され、女子からも男子からも先生からも信頼される所以なんだけど――って、今はそんなことを言っている場合ではなく。
「勝手に話を進めないで!」
「イオ。落ち着いて」
声を荒げても、フレイは冷静になだめにかかる。今は黙ってて! と睨みつけても何処吹く風だ。こういうところに昔から振り回されてきた。フレイがいつも持ってくる安請け合いだって、私は頼まれもしないのに首を突っ込み、フレイの負担を引き受けて何とかやってきた。フレイの力を過小評価しているわけではなくて、ただ自分もこの優しい彼の助けになりたくて、それで結果的に私達はうまくやれてこれた。
のほほん顔を鋭く射抜く。いつもとまったく変わらぬ穏やかな様が、今は憎らしい。
「演劇なんてやったことないでしょ!」
「引き受けたからには努力しよう」
真摯なまなざし、力強く頼もしい声音。これにいつも押し負けてきた。
「ぐっ……。ぶ、舞台の上では一人になるのよ。私だって助けてあげることはできない!」
保護者だ……と私達の対面でひそひそと囁かれる声は無視する。
「やってみせるよ。君がいなくとも」
率直に返ってきた一言は、胸に針が刺さったような痛みをもたらした。唇がわなわなと震えてきて、二の句が継げない。頭が冷える。まるでフレイが、私がいないと何もできないというような発言をしてしまったことに、今さら恥じ入った。
「本人がこう言ってるんだし、認めてあげたら? ええと、……イオ、さん?」
ううっ。好青年部長の、気遣いをいっぱいに感じる声音も今はつらい。ところで君は誰? そう言いたいのだろう。
「そうよ、せっかくの美人顔、活かさない方が世界の損失だわ! ……それで、あなたは彼とどういう関係? 友達?」
もう限界に近い。思わず右手で胸を抑え、項垂れる。リリアの指摘は更に深く胸を突き刺した。彼女達からすれば、欲しい人材はフレイ一人であって、何故か一緒について来て文句を垂れるこの女子生徒はいったい何者だろう。そう思うのは当たり前のことだ。
先程までの勢いもすっかり消沈し、がっくりと項垂れたまま着席する。力なく腰を下ろし、今更過ぎる自己紹介をした。
「い、イオといいます。彼とは幼なじみをやらせてもらってて……」
この場に私は必要とされていない。もごもごと自虐気味に自分の立ち位置を説明した。
「イオ。それくらいで」
さすがに哀れに思ったか、フレイがそれ以上の自虐を制止した。こちらを見つめる彼の瞳は心配そうな色をしていた。それがまた居た堪れなくて、顔を背けて俯く。
フレイは完璧だ。何だってできた。それを助けてやるなどと、なんて傲慢な考えだろう。きっと今までだって、フレイは私がいなくても問題無く解決できたのではないか。むしろ、私が足を引っ張って、余計な負担を増やしてしまっていたのではないか? とまで思考が沈んでゆく。
「……ごめん! 私、出過ぎたこと言っちゃった。劇、成功するよう応援してるから……」
視線のやり場は結局どこにも見つからない。帰るね、と言って通学鞄に手をかけた瞬間、その手に何かあたたかいものが重ねられる。
「イオ」
フレイの手だった。ばっと顔を上げると、先ほどまでの穏やかな顔は消え、焦りのような表情がそこにあった。
「やはり不安もある。どうか、私の練習相手になってくれないか」
こんなにつらそうな顔をするのは、とても珍しいことだった。その尋常でなさに困惑し、彼に応えられないでいると、一連の流れをずっと見守っていたリリアが口を挟む。
「うん。それがいいわ、賛成! どんなに完璧超人だって練習は必要よ。私たちだって何度も何度も練習するんだから!」
沈んだ空気を断ち切る明るい声に、四人を取り巻く空気が和む。静観していたイツキもまた、リリアに調子を合わせて声を上げた。
「うん、俺も賛成。それに、初めての芝居だろ? じゃあ、気心知れた相手の方がやりやすいかもね」
ぽん、と肩に手を置かれる。
「え?」
「決定! じゃあ、ハイ、台本! イオの分も合わせて、二冊渡しておくね」
「ありがとう」
フレイは丁重に冊子を受け取った。
「ちょっと待って、」
「本番は一か月後! ごめんね、本当に突然の頼みで。さっそく今日から練習に参加して欲しい。フレイには主役を頼みたいんだ」
「私が、何? え?」
「わかった。舞台や衣装などの準備は?」
「そこは大丈夫! フレイはとにかく台本を覚えることに集中して。本番までの期間、この部室は自由に出入りしていいから。これからよろしくね!」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
「……あああ、もう! やってやるわよ!」
そうしてとんとん拍子に話は進み、私はフレイの練習相手を務めることになった。色々と言いたいことはあるが、彼に頼みにされたことが嬉しかったのだから、私もたいがい単純だ。
「頑張ろう、イオ」
微笑みかけるその顔が眩しい。こうなったら、幕が降りた瞬間に割れんばかりの拍手喝采、観客全員スタンディングオベーションのレベルまで仕上げてやる、と決意した。
私達はそのまま部室の一角を借り、一つの机に対面して座った。まずは大まかなあらすじをつかむため、台本を熟読する。演目はこの国に古くから伝わる御伽噺だった。絵本にもなっていて、私も幼い頃に読んだことがある。題名を『かんなぎと銀の狼』といった。
「懐かしいな……」
「うん。懐かしい」
パラパラとページをめくりながら、絵本を読んでいた頃を思い出して旧懐に浸る。思わず漏れ出た言葉はフレイに言ったつもりでは無かったが、彼は律儀に相槌を打ってくれた。
「アレンジしたって言ってたけど、どのあたりかな」
「結末部分だ」
「早いね。私はまだ半分くらい」
『かんなぎと銀の狼』は、本来こんな物語だ。
――昔々、この国が病魔に苦しんでいたときのこと。あるところに一人の少女と銀の毛並みを持つ狼が旅をしていました。行く先々で二人は民衆を病から救いました。やがて二人は国に評価され、国を守る守護者としてその力を発揮しました。王も民も、その国に住まうすべての生き物たちは皆感謝し、カンナギ様と呼んで敬いました。しかし技術は進歩します。カンナギ様の加護が無くとも人々は暮らしてゆけるようになりました。用済みとなったカンナギ様は魔女と蔑まれ、ついには守ってきたはずの人間の手によって処刑されてしまったのです。ひとり逃がされた狼は、今もこの大地を彷徨っているのです――。
フレイが今回任された役は、その狼だった。狼を擬人化して主人公に据えたらしい。かつて読んだことのある昔話との相違を確かめながら読み進め、ようやく結末部分のページに辿り着く。
「本当だ。思い切った改変」
「完」の文字まで読み終え、息をつく。元々の神話には一切無かったはずの恋愛要素が付け足され、更にハッピーエンドに変わっている。なるほど、高校生が楽しめそうな改変だ。
「幸せな結末の方がいい」
「それはそうだけど。私は本来の結末も好きだよ。物悲しくて」
率直に感想を答えると、どうしてかフレイはとても切なそうな表情を浮かべていた。反論されたのが嫌だっただろうか? なんとなく気まずくなってもう一度該当のページを開き、そこに描かれている情景を想像する。
狼は少女が死んだと知っても諦めず、その清廉な魂を探してあてもなく放浪した。その旅路の果て、ついに少女の生まれ変わりと出会う。狼は二度と離れないことを誓い、二人は幸せなキスをして終了……という、曇り一つ無いハッピーエンドだ。
……ん? ふたりは幸せなキスをして、だって?
「キスシーンがあるの!?」
「あ……」
あっと思って顔を上げれば、フレイもまた今気付いた、という顔をしていた。これは本当にキスをするのだろうか。それともキスしているように見せるだけなのか。しかもキスシーンの前には熱烈な愛の言葉を囁いている。当該の台詞を確認しているフレイの顔をちらりと見た。この、女子生徒から絶大な人気を誇る、けれどもその割には恋愛ごとに関心を示してこなかった男がこれを演じるのかと思うと何だか不思議な気持ちになった。彼が特定の誰かを好きになることがあるのだろうか? そう思ってしまうほど。
とは言え彼も人間だ。きっといつか好きな人ができて、この台本のように愛を囁いて、キスをする相手が現れるに違いない。その風景を想像したら胸がちくりと痛んだ気がした。いつか私の隣からいなくなるのだ。それを思うとどうにもつらかった。
そんなことを考えながら彼の顔を見つめていると、視線に気付いたフレイは「疲れた?」と労りの声をかけてきた。
「そろそろ帰らせてもらおうか」
「疲れてないよ、大丈夫! それより読み終わったなら練習しないと……」
「いつも私の我儘に付き合わせてばかりだ。続きは明日にしよう」
「……わかった」
我儘に付き合わされているのではなかった。自分から、喜んで、付き合っているのだ。世話の焼ける、という顔をして、その実、傍にいたいと思っているのだ。帰り道の別れ際、離れるのがいつも寂しかった。可能な限り一緒にいたいと思っていた。世話が焼けるのは私の方だった。
私はずっと、この人に恋をしている。
「そろそろ私たちは帰ろうと思う。イツキ、この台本は持ち帰ってもいいかな」
「もちろん。家でも練習してくれるんだね、ありがとう」
「今日はありがとう、二人とも! 本番まで一緒に頑張りましょう!」
そう言って、今日のところは帰ることにした。どこにも寄らず、それぞれの家への帰路を歩いてゆく。もう少しで交差点に出る。
「じゃあね、フレイ。気を付けて」
去り際はいつも惜しくて、何を言ったらいいかわからなくて、結局保護者のような言葉が出てくる。そんな言葉に彼は「ああ、君も。また明日」とだけ返して、そうして別れる。いつもそうだった。今日もそうなると思っていた。
「イオ。君がよければ、だけど……明日から、私の家で一緒に練習しないか」
「え」
「二人の方が集中できる気がして。どうかな」
誘われた。家に。初めてのことだった。
「い、行く!」
驚いて、でも嬉しくて、大して思考もせずに反射で答えると、フレイは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
そんな表情のまま挨拶を告げられて、背中が遠ざかってゆく。有頂天になって、そこからどうやって家に帰ったか憶えていない。気付いたらベッドにダイブしていて、ごろごろと悶絶していた。
それから放課後にはフレイの家を訪れることになった。フレイの部屋で、二人で台本を読み合う。毎日のようにそういう日々を過ごした。共に台本を開き、一つ一つの場面を確認し、少しずつ台詞に込められた感情を読み取って、声に乗せる。
フレイはフレイの任された主役の狼を。私は他の色々な登場人物であったり、そして、この芝居のヒロインであるカンナギ様であったりを演じた。カンナギ様はヒロインだから台詞量も多い。私達は、特にこの主役とヒロインのやりとりを繰り返し練習した。愛を告げる場面だって演じた。この場面になると、どんな台詞も卒なくこなしてきたフレイもさすがに気持ちが入るのか、こちらをじっと見つめて真剣に演技をした。思わず照れてしまうほどに。
時間を忘れて夜まで練習している日もあれば、部室を訪ねて不明な点を確認し、部員たちに見てもらう日もあった。
そしてあっという間に時間は過ぎ、ついにあと一週間後に本番を迎えることとなった。
いつものフレイの部屋。もうすぐ本番ということもあり、一連の流れを通して読み合った。休憩しようとフレイが淹れた珈琲をもらい、一口飲む。彼がいつも好んで飲んでいる味だった。
「どうかな」
「完璧だと思う。専門家じゃないからわからないけど……今までで、一番良かったよ」
「そうか。よかった」
ふわりと笑った顔にどぎまぎする。この天然タラシめと心の中で毒づき、込み上げた甘い感情を飲み下すために黒い水面を傾けた。
もうすぐで本番だ。やっと解放されるという思いもあるが、終わってしまったらもうこの放課後の逢瀬も無くなってしまうのかと、惜しむ気持ちも生まれてきていた。台詞の読み合いなんて生まれて初めてで、恥ずかしくも思ったけれど、それでも二人で共にいられる時間が増え、楽しかったのも確かだった。それが、もうすぐで無くなる。感傷が胸を占める。
けれども今はただ、フレイが立派にやり遂げられるよう、雑念を払ってサポートに徹するべきだ。
「もう一度、通してやってみよう!」
そう声をかけて、再び台本を開いた。
――それなのに。
どうしてこうなったのだろう。鏡に映る自分はかつてないほど顔を歪めている。ちょっと、せっかく綺麗に整えたのに! なんて、私の髪を弄り回しているリリアは文句を垂れている。文句を言いたいのはこっちだ。なにせ自分は今、ヒロインの衣装を着せられている。
「うん、綺麗だよ! 髪も化粧もいい感じ」
ごちゃごちゃと髪を弄るリリアの隣に立つイツキに呑気な声をかけられる。
「うるさい……」
抗議は散々したし、拒絶の意だって全力で示した。けれども。
「うん。イツキの言う通りだ。綺麗だよ、イオ」
満足そうに微笑んでいるこの男が元凶だ。
鏡越しにじっとりと睨んでも、彼はにこにことたいそう機嫌が良さそうだ。思わず諦念の溜息が漏れる。
嵐のような瞬間とは、あの時のことをこそ言うのだろう。
確認したい点があったから部室に立ち寄ると、突如ガッと肩をつかまれた。誰かと思ったら、幽鬼のようなオーラを放っているリリアだった。俯いているため、垂れ下がった長い髪で顔が見えないのがまた、不気味で恐ろしい。
「どうしよう、イオ……フレイ……」
「ど、どうしたの?」
リリアがガバッと顔を上げる。目のふちが赤く染まっていて、ほとんど泣いていた。
「ヒロイン役の子が風邪を拗らせて……声がうまく出ないの……」
「あー……。流行ってるもんね」
「そうなんだけど、そうじゃなくて。代わりがいないの!」
「他の部員とか」
「見たでしょ、あの台詞の量! 本番は明日! 一日で覚えるなんて絶対無理……」
「……確かに」
確かにものすごい量だ。どうしよう。せっかくあれだけ練習したのに、このままおじゃんになるのも癪だ。何か良い方法は……と頭を巡らせていると、隣でやりとりを静観していたフレイが声を出した。
「イオは」
「? 何、フレイ」
「何か良い案があるの……?」
フレイはじっと私の顔を見つめた。急に呼びかけて、どうしたのだろう。
「イオがやればいいのでは?」
「は?」
何を言ったのか理解できないままでいると、リリアの目に溌剌とした輝きが取り戻される。
「そうよ!」
「は?」
この二人は何を言っている?
「そうか。いつもイオはフレイと練習してたもんね。台詞もばっちり憶えてるってことか」
「は?」
リリアの後ろに控えていたイツキが合点する。待って。三人で話を進めないで。私はいつも置いていかれるから。目を白黒させながらフレイの案を理解しようと反芻していると、リリアが私の全身を上から下まで見回していた。
「うん……大丈夫! いけるいける!」
「待って、私――」
「諦めなよ、イオ。こうなったら聞かないって、もうわかるでしょ」
イツキは同情の籠もった目でこちらを見ている。
「イオ、私は君と共演できてうれしいと思っているのだが……嫌なら無理にとは、」
「うぐ……」
こうなれば、もう自棄だ。
そうして今、リハーサルのために衣装を着せられ、化粧を施され、髪にウィッグを装着している。リリアはこれでよし、と満足気だ。もはや覚悟も決まったが、気がかりが一つ。フレイも同じことを考えていたようで、リリアに問いかける。
「最後の場面だが……。キスシーンは、どうしたら」
「ああ、あそこね。キスするかしないかってところで、ちょうどよく幕が下りる演出にしようと思ってるの。だから、ギリギリまで近付いてくれれば大丈夫」
ほっと胸を撫で下ろした。さすがに実際にキスをするのは躊躇いがある。フレイだってそうだろう。美人な女子ならともかく、相手は私なのだし。
「したいならしてもいいわよ!」
茶目っ気たっぷりに笑うリリアは黙殺した。
そしてリハーサルを始めたはいいが、完全下校時刻も迫ってきているということで、最後まで通すことができないまま解散となった。この調子で大丈夫なのかと不安だが、申し訳ないけど後は二人で練習してほしい、とイツキに言われた。
二人で。ただの練習相手ではなく、本番にも相手を務めるヒロインとして。もう外はとっぷりと暗いため、少しだけフレイの家にお邪魔して、いつも通りに読み合わせをした。明日、フレイの相手役として、私は出演するのだ。急に現実味を帯びてきて、いつものようにすらすらと台詞が出てこない。気付いたフレイがいったん止める。
「緊張している?」
「あ、当たり前でしょ。急に出演することになっちゃって」
「私が余計なことを言ったせいだ。すまない」
つっけんどんな言い草に、彼は申し訳なさそうな声を出す。私は慌てて訂正した。
「フレイを責めているわけじゃ……」
「だけど、」
台本を握っていた両手を取られ、彼の手のひらに包まれる。ばさりと床に台本が落ちた。
「私は君が相手で嬉しいと思っている。本当に」
じわじわと手のひらの熱が移ってくる。真剣な瞳に射止められて、数秒呼吸が止まった。それから、やけに近い距離に困惑して、見つめ返すこともできずに視線を下に落とした。
「わ、わかった、わかったから」
「うん」
まだ見ている気配がして、いつまでも視線を戻せない。
フレイは時々こうなった。妙に熱っぽく私を見つめるのだ。
「も、もう帰るね」
「送っていくよ」
「だ、大丈夫。一人で帰れる」
「……そうか。では、気を付けて」
別れの挨拶もそこそこに、転がるようにフレイの家を出た。外の風は冷たいのに、頬は火照って熱かった。
そして迎えた本番当日。当初の目論見通り、客席は人で溢れていた。舞台袖からわずかに見える千客万来の光景に緊張が高まる。
「大丈夫だよ」
背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねた。彼が近付いてきていたことさえ気付かなかった。昨日、気まずい状態で別れたから、まともに彼の顔を見るのはまだ抵抗があった。視線を上げられなくて、彼の胸元だけが視界に映る。
「大丈夫」
フレイは再びそう言って、セットした髪を崩さない程度の力で、頭をぽんぽんと撫でた。触れられたところから、凝固した氷が融けていくようだった。何と返せばよいかわからず、声も出せないままにおずおずと彼の顔を見上げると、彼はいつも通りの微笑を湛えていた。何も変わらぬ、普段と同じ様子に緊張は少しずつほぐれてくる。
練習した通りにやればいい。
客席と舞台を仕切る幕が静かに上がっていった。
フレイは練習の甲斐あって完璧に仕上がっていた。立ち居振る舞いも話し方も淀みない。気品あふれる高潔な姿。まさに御伽噺の狼が人の姿に化けて現れたかのようだった。一挙手一投足が洗練されている。すべての観客がその動作、表情に見惚れているのがわかった。
対する私も、ヒロインとして違和感無く振る舞えている、はずだ。台詞だって、ずっと台本を読み込んでいたのだからすらすらと言える。昨日のリハーサルのときよりもいっそう、台詞に感情を籠めることができた。
そうして話は順調に展開され、あっという間に最後の局面まで進んだ。
『カンナギ様……。私はずっと、あなたを探していました』
果てしなく長い旅の末、カンナギ様の生まれ変わりを見つけた銀狼。その身体を優しく抱き留め、狼が万感の思いを語る。
『会いたかった。ずっと、会いたかった……』
近い。近すぎる。結局キスシーンは練習できなかったのだ。初めての距離にどぎまぎする。けれど悠長にしてはいられない。記憶を取り戻した私が狼の名を呼び、キスをする素振りをして、舞台の幕が降りてくる手はずになっている。
覚悟を決めて、かつてないほどに密着したフレイのまなざしを見つめ返し、声を発しようとした、その瞬間だった。
正面のフレイは柔らかく目を細め、穏やかに微笑んだ。つい見惚れて何も言えないでいると、ふっと視界が翳った。互いの額が合わさったのだ。いくら何でも近すぎる! 間近にフレイの綺麗な顔がある。睫毛が触れ合ってしまいそうだ。透き通った瞳は、何者をも魅了してしまいそうなきらめきがある。見つめていると、彼の唇がゆっくりと開いた。
「――本当に、長かった……」
彼は何を言おうとしている? 狼の台詞はもう終わりのはずだ。彼はもう何も言わなくていいのに。
「――イオ。私のかんなぎ」
かすかに囁かれる、台本に無い台詞。私の他に、誰も聞く者はいない。何かを思い出さなければいけないような気がした。呆然としていると、強い力で腰をぐっと引き寄せられ、後ろ頭に手のひらが回される。私達の身体はぴったりとくっついて、離れようもない。
視界が更に暗くなった。幕が下り始めているのだ。もういいよ。これだけ近ければ、キスしているように見えているはず。もういい、もうこれ以上は。どこか怖い気持ちになって、彼の胸を押して離れようとするが、フレイは力を弱めようともしない。後頭部に回されていた手は私の頬を優しく包んだ。もう焦点も合わないほど近い。ちょっと待――。
完全に幕が下ろされたその瞬間に、二人の唇は重なった。下りた幕の向こうでは、割れんばかりの拍手が響いていた。