目を覚ますと、そこはただひたすらに真っ白な、何もない空間だった。

「ここ、は……?」
「いらっしゃいませ、久遠青司様。あなたは先程、無事お亡くなりになりました」
「……、は?」

 いつの間にか隣に佇むのは、黒衣を纏った見知らぬ男。
 質の悪い冗談だ。そう思ったが、反射的に殴り掛かろうとした先、そのにやけた面の男に拳は届かなかった。俺は身体ごとすり抜けて、地面に勢い良く転がってしまい、その奇妙な感覚に呆然とする。

「まじかよ……」
「ご理解が早くて助かります。そこで、早速走馬灯のご準備をさせて頂きたいのですが……」
「いやいや、待て、ご理解してない。何で俺は死んだ? チームの抗争か? いやでも、確か俺は、バイクで……」
「準備が整いました。それではお楽しみ下さい」
「話聞けよ!」

 男の言葉に呼応するように、眩しいくらいだった白い部屋は途端に暗くなり、黒衣の男はいつの間にか闇に紛れて消えてしまった。

 代わりに浮かび上がるのは、壁一面に映し出される何かの映像。壁どころか、床や天井、部屋全体がスクリーンのようだった。
 全方位から異なる様々な映像や音が流れるのに、その全てが知覚出来る不思議な感覚。これが先程男の言っていた『走馬灯』なのだと、直ぐに分かった。

「はっ……俺の人生なんて、面白くもなんともないだろ」

 どうせ、下らない人生だった。今更振り返ることもない。記憶も定かではない幼い頃から父親は居らず、俺を育てた母親は、元々病弱で無理が祟って早死に。頼れる親族も居なかった。

 残された俺は、ナメられず一人で生きるため精一杯の虚勢で拳を握り、日々喧嘩に明け暮れた。気付けば地元では『久遠青司』の名を知らない者は居ない程の、札付きの不良となっていた。

 暴れ回るだけだった人生を振り返る気なんて起きず目を伏せていたが、不意に聞こえて来たのは明るい女の声だった。鏡の前で身支度をする、地元じゃ見かけない制服を着た、見知らぬ少女。

「は? 誰だこいつ……」

 訳が分からず、思わずその光景を眺める。あらゆる角度から映し出される走馬灯に、まるで本当にその場に居るかのような錯覚を起こした。
 目の前で繰り広げられるのは、同じ年頃の、名前も知らない少女の生活だった。

「どう考えても俺の走馬灯じゃねぇ……彼奴、もしかしてミスって他人のを流してんのか……? そんなことあるか? 普通……」

 走馬灯は短時間で全て認識出来るような、現実とは異なる速度で進んだ。
 そうこうしている間にも、彼女は部活に恋にと悩む、ごく普通の学生生活を送る。俺がどう足掻いても手に入れられなかった『普通』を謳歌していた。

 嫉妬にも羨望にも似た、或いは諦めにも似た感覚で、いつしか俺は、一観客として少女の人生を真剣に見守っていた。

 受験に合格した日にはその努力を褒め称えたくなったし、共に喜んだ。好きな奴に告白して駄目だった時には、自分のことのように酷く胸が痛んだ。
 つい先程まで見たこともない他人だったのに、こんな良い子を振るなんて馬鹿な男だと憤りすら感じた。

「……いや、馬鹿は俺か。何真剣になってんだ、俺……」

 これ以上入れ込みすぎるのは、良くない気がした。目を閉じて、こんな映像がさっさと終わるのを待てばいい。そう思うのに、気付くとまた見入ってしまう。

 しかしある日、少女は突然倒れた。途端に周囲の悲鳴とサイレンの音がけたたましく響き、頭が割れそうに痛む。まるで部屋ごと回転したような、視界が揺らぐ感覚。そして急な静寂と、長い暗転。世界が終わってしまったのかとさえ思った。

 しばらくして世界に光が戻ると、場面は切り替わっていた。医師の告知、親の涙、消毒の匂いのする白い部屋、枕元の折り鶴、点滴に繋がれた少女。

 そんな少女の姿が、かつての母親と重なる。彼女はどうなってしまうのか、つい前のめりになった所で、ふっ、と、その物語は終わりを迎えた。

「ああ、久遠様、申し訳ありません。どうやら手違いがあったようで……正しい物をご用意しますので、もうしばらくお待ちください」
「は? いや、待てよ、こいつはどうなるんだ!」

 いつの間にか立っていた黒衣の男が、走馬灯を消したのだ。俺は思わず男に詰め寄る。
 一人残されてから、今まで誰にも頼らず生きて来た。他人に情を抱くなんて、有り得なかった。
 けれど少女の半生を追体験した今となっては、彼女が他人とは思えなかったのだ。

「おや、気になりますか?」
「それは……」
「彼女の人生の続きをお見せすることは可能ですが……その代わり、時間の都合上あなたの走馬灯は省略されます。それでも宜しいですか?」
「ああ、俺のなんて今更見なくても構わねぇよ」
「畏まりました、それでは彼女の人生を、引き続き流させて頂きますね」

 再開された映像は、既に退院して大人になった彼女だった。短く切られた髪、覚えたての拙い化粧、少し痩せて大人びたその顔付きには、見覚えがあった。

「……、母さん?」

 成る程、通りで親近感を覚える訳だ。彼女は、幼い頃亡くなった母親その人だった。映像の中で度々呼ばれても、旧姓だったので気付けなかったのだ。

 そこからは、残り数年と分かっている母の人生を垣間見た。卒業して、就職して、人生の伴侶と出会って、ありきたりな恋愛をして、結婚する。

 映像越しに初めてまともに見る父親は優しそうで、荒んだ俺にはあまり似ていない。次第に母の腹は膨らんで、父がそれを慈しむように撫でる。

 その中には俺が居るはずなのに、どこか遠い世界のようだった。

 もしもこの愛情溢れる家庭で育てたのなら、今の俺はこんな風にはなっていなかったのだろうか。

「何で、俺を置いて行ったんだよ……」

 一人呟いても当然返事はなかったが、目の前で生まれる前の俺を慈しみ語り掛ける、両親の姿。
 生きていた頃には感じられなかった二人分の愛情を受けて、じわりと、もう動かない鼓動が熱を帯びた気がした。

 やがて赤子は愛され、生まれて、育ち始める。子育ては客観的に見て、喧嘩漬けの日々よりも過酷だった。
 それでも、そこにあるのは笑顔と愛情に溢れた、満ち足りた日々。

「あんなのの中心に居たのか、俺……」

 そこから先、彼女の人生の大半は俺で占められていた。これでは、どっちの走馬灯かわからない。思わず、何年かぶりに自然と笑みが溢れた。

「もう、幼稚園か……」

 あんなにも彼女に幸せになって欲しかったのに、その終わりを知ってしまっている今、幸せであればあるほど複雑だ。
 そして案の定、その後すぐに父親が交通事故で亡くなった。

 それでも幼い俺にはわからなかったのだ。ぺちぺちと音がするくらい、幼いなりに精一杯、棺に眠る父を叩き起こそうとしていた。

 母方の両親は既に他界、父の親族は走馬灯に出てこない。先の見えない狭い世界に、俺達二人だけが取り残された。

 苦しい生活の中、泣く暇もなく壊れかけの身体で懸命に働く母親は、ようやく物心付く頃の俺に、惜しまず愛情を注いでくれていた。

「……」

 その先は、見なくても分かる。記憶の始まりの頃。二人の生活、近付く終わり、消えかけの命と仄かな温もり、意識を手離す刹那、最期に何か言い残した、母の小さな声。

『青司、愛してる』

 あの時聞き取れなかった声を、ようやく耳にすることが出来た。

「これで彼女の人生は終幕となります。如何でしたか?」
「……俺、自分には愛情なんて無縁だと思ってた。……でも、最後にこんなん見せられちゃ……人生捨てたもんじゃねぇなって。……いや、まあもう人生終わってんだけどよ」

 溢れる涙を止める気も起きない。どうせもう死んだ身だ、恥も何もないだろう。生まれた時レベルで泣いてやる。

「もしこの後来世があるならさ、今世は色々失敗しちまった分、今度こそ貰った愛を返せたらって……思ったりする。……見せてくれて、ありがとうな」
「いいえ、無事人生を振り返られて良かったです。それでは……また来世でのご利用、お待ちしております」


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