2階の奥がアルの寝室のはずだ。
廊下の端の部屋のドアが開いているので、アシュアはそこに向かった。部屋を覗き込むとセレスが窓の外を見てぼうっと突っ立っているのが見えた。
「セレス」
声をかけるとセレスははっとして振り返った。
「どうしたんだ。見つけられたのか?」
「え、あ、うん……」
セレスは手を開いてみせた。紙幣が一枚と小銭が少しだ。
「現金はこれだけ…… アルのお父さんのお金はやめようと思うんだ。アルにだけ借りるよ」
セレスは言った。
「別に構わないよ。ほかのものはアルの指紋がなきゃ使えないだろうし。 実はおれの靴底に少しだけど金が入ってる。しばらくは大丈夫だよ」
アシュアは笑みを浮かべた。セレスは浮かない顔でうなずいた。
いつものセレスならこぼれ落ちそうな目を見開いて笑うところだ。
「どうしたんだ? 何か問題でもあるのか?」
アシュアは目を細めた。セレスはかぶりを振った。
「そういうわけじゃないけど……」
セレスは目を伏せた。
「ねえ、アシュア。催眠術でケイナの意識に入るってどういうこと?」
「え……」
アシュアは面喰らった。
「さあ…… おれも詳しくは知らない。心理治療では確立した方法だってジェニファは言ってたけど……」
「ケイナを助けたい気持ちはあるんだ。おれだってユージーに殺されたくなんかない。……でも、ああ言ったけど、怖いんだ」
セレスの体がかすかに震えた。
「夢の中でケイナに会って、そのケイナをおれ殺さなくちゃならないのかな……。戦うってそういうことだろ? おれがもし失敗したらケイナを頼むよ。アシュアしかいないんだ」
セレスはアシュアを見つめて言った。
どうすりゃいいんだよ……。
しばらくしてアシュアは口を開いた。
「おれは命かけてもおまえとケイナのそばにいるよ。自信持てよ。ジェニファはおまえならできるって言ってたんだ」
「うん」
セレスは心元なげにうなずいた。
「困ったな…… ふるえがとまんないや……」
アシュアはため息をついた。
「ケイナのところに行って、ケイナに正直に自分のほんとの気持ちを言ったら。お互いに自分の気持ち正直に話しておいたほうがいい」
「うん……」
ふいに階下で大きな音がした。
ふたりはぎょっとして顔を見合わせたと同時に部屋から飛び出した。
「どうした!」
アシュアは階段を駆け降りながら怒鳴った。
リビングではケイナが窓の下にうずくまっていた。床にナイフが落ちている。
「何をした!」
アシュアはケイナに駆け寄ると、彼の左手首を掴んだ。
血で真っ赤だ。
「セレス、ナイフを拾え!」
アシュアが大声で怒鳴ったので、セレスは慌てて床に落ちていたナイフに手を伸ばし、そしてびくりと体を震わせた。
まだ新しい血。
目をあげるとアシュアが掴んだケイナの血に染まった左手が見えた。
「何を…… 何をしたんだ!」
アシュアの顔は怒りで真っ赤に染まっていた。ケイナは血の気の引いた青い顔でアシュアを見た。
「何をしたか…… 言え…… ケイナ……」
アシュアは押し殺したような声でケイナを睨みつけたまま言った。
ケイナはやはり何も言わない。口元がかすかに震えているように思えた。
「まさか…… 出て…… 出て来たのか?」
アシュアの言葉にケイナはかすかに首を振った。
「上着に……」
ケイナは震える声で言った。
「上着に…… ナイフがあるのを…… 思い出した。…… おれが持っているのは…… 危ないと思って……」
「取り出したら…… 出て来たのか?」
「その前に…… 自分で刺した」
アシュアはケイナの足下に散らばる陶器の破片を見た。
窓辺に飾ってあった小さな花瓶のかけらだろう。ケイナの左手の甲には切り傷があるが、そう深くはない。
ヤバイじゃねえか……。ケイナは絶対ひとりにできねえぞ……。
『あいつ』はどうやら相当焦っているらしい。
「セレス、こいつを見張ってろ。何か手当てするもん、探してくるから」
アシュアはそう言うとセレスの手からナイフをとりあげ、立ち上がってリビングを出て行った。
「ケイナ……」
セレスはうずくまったままのケイナに近づいた。ケイナは顔をそらせた。
「ひとりにしちゃいけなかったんだね……」
「こんなところ、見るな」
ケイナはつぶやいた。セレスは唇を噛んだ。
「おれのこと、呼んでよ…… 自分を傷つける前に…… 呼んでよ……」
「そんなゆとりがあるかよ!」
ケイナは突っぱねるように怒鳴った。
「怖いなら、怖いって言ってよ!」
怒鳴り返すセレスの声にケイナの頬がぴくりと動いた。
「おれも我慢しないから、ケイナも我慢しないでよ」
セレスは言い募った。
「おれ…… ほんとは怖いんだ。ケイナの中のケイナと戦うの、怖いんだ。でも、中のケイナはほんとのケイナじゃないんだろ? おれの声が届くのは、ここにいるケイナなんだろ?!」
セレスは顔を歪めた。
「怖いって言え! ケイナ! おれに助けて欲しいって言えよっ!」
セレスはケイナの肩を掴んで揺さぶった。
「ケイナの声でおれも勇気が出るんだ!! ここにいるケイナの声を聞かせろよ! あの湖の時みたいに自分の気持ちをちゃんと言えよ!」
セレスはケイナの肩に両腕を回して抱き締めた。
「ケイナの声を聞かせろ! 二度とこんなことすんな!」
ケイナは前のようにセレスを拒むことはなかったが、やはり何も言わなかった。
怖い。
怖くてたまらない。
いつ自分がなくなるのかと思うと恐ろしくてたまらない。
「海……」
ケイナはしばらくしてつぶやいた。
「おれ…… おまえと地球に行きたい…… 汚染されていても…… 本物の海が見たい……」
セレスははっとして体を放してケイナを見た。
ケイナは目を伏せて床を見つめていた。
「うん……」
セレスはうなずいた。
「わかった……」
行きたい。
生きたい。
絶対。
「かならず」
セレスは答えた。
カインはうっすらと目を開けた。焦点がうまく定まらない。ぼんやりと視野の片隅に白い服が見えた。
看護婦? 病院なのか…。
「目が覚めました?」
看護婦が顔を覗き込んだ。色白で人なつっこい笑みがうっすらと見えた。
「今…… 何時ですか……?」
カインは尋ねた。うまく声が出ない。
「午後7時ですよ。何か飲みますか?」
快活な明るい声だった。
「咽は…… 乾いていない……」
左腕が鉛のように重く少し熱っぽい感じがした。
そうだ…… 刺されたのだ。カインはようやく思い出した。
「どれくらい…… 麻酔が効いていたんです……?」
だんだん見えるようになってきた目で看護婦を探しながらカインは尋ねた。
「手術が終わったのが午後2時だから…… 5時間くらいかしらね。でも眠っていらしたのは丸一日ですよ。痛みますか?」
「いえ…… 今は別に…… 腕はどうなったんです?」
「大丈夫。神経を少し切断されていたそうですけれど、障害は残りませんって先生はおっしゃってました。でも、ちょっと体力が落ちていらっしゃるから入院は1ヶ月ほどかかるということです」
看護婦は答えた。
「あの……」
カインはためらったのち言った。
「ほかにケガで入院した人はいませんか?」
「いいえ。こちらは普段は外来は受けつけていないんです」
「え……?」
カインは目を見開いた。
「もしかして…… ここは『ホライズン』なんですか?」
「そうですよ」
看護婦は不思議そうに答えた。
「地球?」
カインは思わず身を起こしかけた。
「『コリュボス』じゃなくて、地球なんですか?!」
看護婦は慌ててカインを押しとどめた。
「急に起き上がっちゃだめです」
「地球……」
もとより起き上がれる状態ではなかった。カインはぐったりとしながら絶望感にとらわれた。アシュアたちは無事に逃げられたのだろうか……。
「ミズ・リィが昨日お見えになっておられましたよ」
気づかわしげに看護婦がカインの顔を見ながら言った。
「トウが?」
カインは看護婦を見た。
「ええ。とても心配されて…… 私達看護婦に くれぐれもよろしくとおっしゃっておられました」
カインは信じられなかった。
気位の高いトウが人に何かを頼むなどということはとても考えられなかった。
看護婦は点滴をチェックすると、新しいパックを取り出して付け替え始めた。
カインは腕に痛みがはしって思わず顔をしかめた。
「痛みますか?」
看護婦が慌てて覗き込んだ。
「間もなく痛み止めも切れます。あなたはかなり強いお薬でないと効果がないのですが、副作用をさけるために投与の量が限定されてるんです。数日は夜間のみの投与になりますが、それが過ぎればもうお薬は必要なくなりますので……」
「大丈夫です。これくらいのこと」
カインは言った。
「誰か気になっておられる方がいらっしゃるんですか?」
いきなり看護婦が言ったので、カインはぎょっとした。
「どうしてそんなことを?」
「麻酔がきれる前にうわごとを言っていらっしゃいました。ケイナ、と」
カインは思わず看護婦から目を反らせた。
「連絡をしたほうがいい人がおられるのでしたら、そのように手配しますけれど……」
カインはため息をついた。そんなことができるわけがないではないか。少し考えたのち言った。
「ひとつだけ頼んでいいですか?」
「何ですか?」
看護婦はにっこり笑ってカインを見た。
「自分で連絡を取りたい。通信できる場所に連れていってもらえませんか」
それを聞いて彼女は困ったような顔をした。
「あなたはまだ起き上がるのは無理です。1週間待てませんか? そうしたら気分転換と称して外に連れて行けます」
聞かなくても分かっていた返事だった。カインは渋々うなずいた。
看護婦はほっとしたように笑みを浮かべた。
「じゃ、お食事を持ってきますね。少しでも食べてくださいね」
彼女はそう言うと部屋を出て行った。
1週間…… 1週間でどれくらい体力が回復するだろう。
腕はどれくらい使える状態になっているだろう。
ケイナ…… 頼むから無事でいてくれ……。アシュア、頼むぞ……
カインは祈るような気持ちで目を閉じた。
アシュアはケイナの手当てをしたあと、すぐにジェニファに連絡をとった。
「夜にならないと抜け出せないと言ってるよ」
アシュアは腕の通信機を見て言った。
「投影通信に切り替えようか」
アシュアが腕から通信機を外しかけたのをケイナは押しとどめた。左手の白い包帯が痛々しい。
「ジェニファがその軍仕様の通信機の使い方を知ってるわけない。こっちに話しかけるだけで精一杯だ」
アシュアは肩をすくめた。確かに彼女は機械には滅法弱そうだ。
どこで通信ができるような状態になるか分からなかったために、カインはジェニファが通信機に向かって話した言葉がこちらには文字として送られて来るようにセットしていた。
いきなり切り替えてこちらの姿が見える状態になるとジェニファだと腰を抜かしてしまうかもしれない。
「アパートは黒づくめの兵隊に取り囲まれてるんだと」
それは分かっていたことだった。
「深夜になったら『眠り粉』……? を巻くからその隙に抜け出す。イーストタウンの南の森に2時に来いと言ってる」
「イーストタウン……」
ケイナはつぶやいた。
「ラインで時々訓練に使う場所だな」
アシュアは言った。
「ノマドがいるのかな」
セレスはそう言ってミネラルウォーターを飲んだ。
「そうかもしれない…… 人工だけど、一番大きい森だし……」
ケイナは答えた。
「とにかくそれまでひと眠りしてろ。おれはプラニカの調子を見てくる」
アシュアはジェニファに了解の意思を伝えたあと、そう言って立ち上がった。
外に出ていくアシュアを見送って、セレスはケイナに目を移した。
「鎮静剤の錠剤があったよ。飲む?」
ケイナはかぶりを振った。
「たぶん、もう大丈夫」
彼は答えた。
「落ち着いた?」
「おまえは?」
セレスは笑った。
「おれはもう全然大丈夫。いつもどこかで開き直るから。なんとかなるって」
ケイナはかすかにうなずいてソファに身を沈めた。
「海、見ようね」
セレスの言葉にケイナは何も答えなかった。
しかしその表情はさっきとは違っていた。少し安心したような顔にも見える。
ケイナは正直に自分の気持ちを表現する術を知らない。
それでもいろんな言い方で口に出すたびに救われる部分を見つけていくのかもしれなかった。
セレスは窓の外に目を向けた。そろそろドームの光が落ちてくるころだ。
きっと何もかもうまくいく。そう思いたかった。
ふたりは何も話さず黙ったまま座っていた。
「なんだ、起きてたのか?」
アシュアが戻ってきて呆れた声を出した。
「『ライン』にいた頃よりずっと早いんだから眠れっこないよ」
セレスは答えた。アシュアは首を振ってどうしようもない、という顔をした。
「プラニカはどうだった」
ケイナは顔をあげてアシュアに尋ねた。
「きちんと整備してあるから申し分ないよ。とりあえず森に行くまでは燃料も入ってる。そのあとどこに行くかしだいだな」
アシュアは両手を服でこすりながら答えた。そしてリビングのソファに座ると、テーブルの上にあったミネラルウォーターを飲んだ。たぶんケイナの飲みかけたものだろうが、アシュアはそういうことには全然頓着しない。
「ここを出る前にアルにメールを入れたいんだ」
セレスはアシュアに言った。
「出る直前にしとけよ。万が一ってこともある」
アシュアは答えた。セレスはうなずいた。
「おまえたち本当に少し眠っておけ。おれは大丈夫だから」
アシュアは言った。
「おまえ、アルの寝室でも使わせてもらえ」
アシュアがセレスに言うとセレスはかぶりを振った。
「もしものときのために全員一緒にいたほうがいいよ。おれ、毛布だけ持ってくる。みんなの分も持ってくるよ」
セレスはそう言うと立ち上がって2階にあがっていった。
「確かにな…… ここを出る前に見つからないっていう保証はないし。 ……ユージーも必死になっておれたちのことを探し回っているんだろうな」
アシュアはソファに身をうずめて天井を仰いだ。大丈夫と言いながら、疲れがかすかに顔に浮かんでいた。
「アシュア、頼みがあるんだ」
ケイナは言った。
アシュアは地下の貯蔵庫から何か持ってきてくれと言うのかと思ってケイナを見たが、彼の顔が緊迫していたので、眉を吊り上げた。
「なんだよ」
アシュアは不審そうに言った。
ケイナは髪をかきあげて少し目線を落としたあと、再びアシュアを見た。
「もし…… 失敗したら、迷わずおれを殺してくれないか」
「なに?」
アシュアの顔が険しくなった。ケイナは一瞬目をそらしかけたが、思い直したように再びアシュアを見た。
「こんなことを考えるのは間違ってるっていうのは分かってる。セレスのことも信頼してる。だけど、万が一ってことを考えておかないといけないんだ。もし、セレスがあいつに勝てなかったら、今ここにいるおれはもう戻らない。おまえはずっと様子をそばで見ているんだから、タイミングが読めるよな。おれがあいつに代わる前におれを殺すことができるよな」
アシュアは口を引き結んで睨みつけるようにケイナを見ていた。
「だから、もし失敗したって分かったら…… 頼むよ……」
「そんな約束はできねぇよ!」
アシュアは腹立たしそうに吐き捨てた。
「できない」
アシュアがもう一度きっぱりと言うのを聞いて、ケイナは目を伏せた。
アシュアは荒々しく立ち上がるとケイナを睨みつけて怒ったように外に出て行ってしまった。
「どうしたんだ?」
セレスが階段をおりながら足音も荒く出て行くアシュアを見て驚いた顔でケイナに言った。
「……なんでもない」
ケイナは答えた。
アシュアはコテージを出て、あたりをぶらぶらと歩き始めた。
やりきれない気持ちだった。
ケイナのことは本当の弟のように思っていた。カインもだ。
アシュアには両親はいない。カインのようにトウという伯母の存在も、ケイナのように養父となったカート司令官のような存在もない。
両親が亡くなったときアシュアはわずか3歳で、孤児を受け入れてくれる施設で育った。
施設に入ったときアシュアは両親の死が受け入れられず、成長が止まり、声をなくしていた。
今はもうあまり当時のことは覚えていないが、施設で病院と連携して治療を受けた。
結局普通の状態になるまで4年かかった。
だからアシュアは7歳になってからようやく通常の時間を取り戻したのだ。
自分がほかの人よりも遅れているということはちょっとした気後れを彼にもたらしたが、幸いにも周囲の対応は温かく、アシュアは実に健全な数年を過ごした。
『リィ・カンパニー』から引き抜きがあったのは14歳の時だ。
施設を出る理由を詳しく知らされないまま、彼はいきなりさまざまな分野の専門知識や運動機能促進の訓練を受けることになった。
そこが『ビート』というカンパニーと政府が共同で運営する先鋭兵士養成所だと知ったのはだいぶんたってからだ。
カインとはそこで知り合った。彼が『リィ・カンパニー』の御曹子だとは最初は知らなかった。
滅多に笑わず表情も変えず、落ち着きはらったカインをなんてつき合いにくそうな奴だろう、くらいにしか彼は思わず、興味も沸かなかった。
ふたりがよく組んで訓練を受けるようになったのはアシュアが16歳の時、カインは13歳の時だった。
アシュアが行動系の訓練を重点的に受けるのに対し、カインはナビゲーター的にコンピューターを操り指揮をとりもつ訓練を受けていた。
そこで初めて彼がおそろしく頭の切れる少年だということをアシュアは知った。判断がいつも的確だし、アシュアが動きやすいように指示を出す。
「おまえは本当に頭がいいんだな」
アシュアは一度言ってみたことがある。
「そう? ぼくはアシュアのような動きをしてみたいといつも思ってるよ」
カインはそう答えて恥ずかしそうに笑った。
そのとき初めてカインがごく普通に感情表現をすることを知った。
『ビート』としての最初の指令を受けたのはその一年後だ。
そしてそれがケイナの護衛だった。
初めてケイナ・カートの顔をビデオで見せられたときのカインの顔を今でもよく覚えている。
きっとカインはあの時からケイナに心を奪われていたのだろう。
『おれだって仰天したもんな……』
アシュアは思う。
笑みを見せず、表情を変えないところはカインとよく似ていたが、カインと違うのは彼の目が氷のように冷たかったことだ。
今となってはカインのほうが遥かに表情に富んでいると思える。
カインの無表情に見える部分は冷静さゆえだったし、それは決して偏りのあるものではなかった。
しかしケイナの目は全ての感情を取り払った暗闇の目だったのだ。
そのうえにあの美貌だ。言葉をなくすほどの完璧な造作。その美貌が他人を寄せつけまいとするような殺気を放つ姿はとても14歳の少年とは思えなかった。
この任務、無事にまっとうできるのだろうかと正直言って疑問を感じたほどだ。
あれから3年たった。
ふたりとも自分の気持ちを正直に表現できない無器用さがある。
でも、無器用ながらもごく当たり前の17歳の少年だとアシュアは思う。
カインはケイナに出会って、ケイナはセレスに出会って、どんどん変わっていった。
自分も変わった。
頼られることに張りを覚えたし、彼らのことを大切に思った。
任務さえなければとどれほどいいかと思ったかしれない。
それなのに、カインは目の前で血まみれになり、ケイナは殺してくれと言う。
ふたりを守れない自分がアシュアは悔しかった。こんな悔しさをいまだかつて感じたことがなかった。
ケイナを殺すことなどできやしない。できるわけがない。
でも、あいつが出てきたらいったいどうなるのだ。
あいつはいったいどれほどの血を求めるだろう。
アシュアはどうすればいいのか分からなかった。
ふと背後に人の気配を感じてアシュアは振り返った。
「アシュア」
薄明かりの中に立っていたのはセレスだった。
「どうした」
アシュアは言った。
「ケイナ、眠ったみたいで。すごく疲れてるみたい」
セレスは少し笑って答えた。
「たぶん、大丈夫だと思うよ。さっきみたいなのはもう……。おれはなんか眠くなくて……。ほら、昼間なんだかなかなか目が覚めなかっただろう? けっこう眠ったような気分だから……」
「そうか」
アシュアはそう言うとコテージの入り口の前の石段に腰をおろした。
セレスもその隣に腰をおろす。
向こうのほうにほかのコテージの影が見えた。
あとは点在する林とその林の向こうにエアポートと『中央塔』の明かりが小さく見えるだけだ。
「ケイナとなんかあった?」
セレスは尋ねた。
アシュアは首を振った。
「いや、何もないよ」
「だったらいいんだけど」
セレスはふと足下の石を拾って眺めた。
「これ、ガラスだ……」
セレスはつぶやいた。そしてくすくす笑った。
「ガラスがそんなに面白いか?」
アシュアは怪訝な顔をした。
「そうじゃなくて……」
セレスはアシュアにガラス玉を見せた。
「これ、昔おれがアルにあげた硬化ガラスの玉。ちょっと欠けちゃってるけど、地球にいたときにおもちゃにしてたやつなんだ。めずらしいんだよ。おれもどこで手に入れたのか覚えてない。いっとき、こんな玉をいっぱい使って建築デザインしたのが流行った頃があったんだって叔父さんが言ってた」
アシュアはセレスの手のひらにある直径2センチほどの玉を見つめた。うっすらと青い色がついている。
「アルはここに持ってきてたんだ……」
セレスはそう言うと立ち上がった。
「これね、こうやって空を見るんだ」
セレスはガラス玉を片目に当てて空を見上げた。
「今はもう暗くなっちゃってるけど、昼間だときれいなんだよ。光が乱反射して」
アシュアは笑みを浮かべた。
「もうちょっと早ければ見れたのに残念だな」
「アルは…… 昔からすごく頭がいいけど…… すごいなって思う。おれがコテージに行くかもなんて…… 予想たててすぐに計画して……」
「うん…… そうだな。カインも頭いいやつだが、いい勝負だ」
アシュアは少し笑って同意した。
セレスはもう一度ガラス玉を手のひらに持つと、しばらくそれを見つめたあとアシュアに近づいて差し出した。
「これ…… アルに渡してくれないかな」
「え?」
アシュアは思わずセレスの顔を見た。
「そんなもん、自分で渡せよ」
アシュアは不機嫌そうに言った。
セレスはかすかにうなずいた。
「ケイナは…… 自分を殺してくれって言ったんだろ?」
アシュアはその言葉にしばらくセレスを見つめたあと目をそらせた。
「おまえら、なんでそう悪いほうに悪いほうに考えるんだ?」
アシュアはいまいましそうに言った。
「おれの身にもなってくれ」
セレスはおかしそうに笑った。
「笑いごとじゃねぇよ」
アシュアはじろりとセレスを睨みつけた。
「ほんとだね」
セレスは再びアシュアの隣に腰をおろした。
「おれ、さっきみたいに怖さを感じなくなったよ。いつもある程度までくると開き直るってとこあるんだけど、絶対ケイナを助けてみせる、って、今は思ってるよ」
セレスはもう一度アシュアの前にガラス玉を出した。
「だからおれたちを守ってて。ユージーは来るよ。ケイナはきっと知らないだろうけど、ユージーを自分で呼んでるよ」
アシュアはごくりと唾を飲み込んだ。
「だから守って」
アシュアは黙ってガラス玉を受け取った。
ガラス玉はアシュアの手の平で小さく光った。
『これで最後だ……』
ケイナの声が頭に響いてカインははっとして目を開けた。
今何時だろう……。左腕が脈打つように痛い。
肩から肘の下まで包帯でぐるぐる巻きにされているが、肘から下の感覚がほとんどない。
もちろん指を動かすことすらできなかった。
看護婦が点滴の様子を身に来たのが午後10時だった。あれからまたうとうとと眠り込んだのだ。
「暑い……」
カインはつぶやいた。おそらく熱が出ているのだ。
『これで最後だ……』
再びケイナの声が頭に響いた。
カインはようやく気づいた。
そうだ……。 暗示が発動したのだ。ケイナは『ライン』を出てしまった。
「まさか……」
カインは薄明かりのつく病室の天井を凝視した。
まさか、ユージーが『ライン』から行方不明になってるっていうことはないだろうな……。
目を閉じると禍々しい赤い点や渦巻くような黒いしみが目の前を駆け巡り、カインは呻いて再び目を開けた。
すると、ほんの鼻の先で誰かが自分を覗き込んでいたので、思わず小さな悲鳴をあげた。
「ケイナ?!」
カインは仰天した。輪郭がはっきりしないが、明らかにケイナだった。
(あのとき死んでいればこんな思いをせずに済んだのに……)
闇の中のケイナは言った。
カインは震えあがった。これはなんだ? 亡霊か? こいつはケイナ自身じゃない。ケイナに巣食うもうひとりのケイナだ。
(おまえはおれが欲しいんだよな……)
闇の中のケイナが白い手を伸ばしてきた。
カインの首を両手で包み込んだ。そして自らの顔をよせてきた。
「やめろ……!」
カインは小さく叫んだ!押し退けようとしたが体が全く動かない。
(なぜ……? こうしたいとずっと願っていたんじゃなかったのか?)
ケイナはあざ笑うように言った。
「やめろ!!」
カインは無我夢中で動く右手で空中を払い、身を起こしていた。
体についていた心拍を計測する電極が外れた。
カインは肩で息をつきながら悟った。彼らはまだ逃げのびている。トウの手中にない。
3人はもう一度催眠であのケイナと戦うつもりだ。
カインは右手の甲についていた点滴を苦労してスイッチオフし、針を抜いた。
片手が使えないのは辛い。
よろめきそうになるのをこらえてベッドからおりると、病室のドアの脇に身を潜めた。
すぐに看護婦が慌ただしく入ってきた。
入った瞬間にカインは後ろから右肘で彼女を強打した。看護婦の体は床に崩れ折れた。
荒い息をついて倒れた看護婦をしばらく見つめると病室を抜け出した。
廊下には幸いにも人影はなかった。
ほかの人間が異変に気づくまでどれくらいの時間猶予があるだろう。
3分か、5分か……?
ここはいったい何階なんだろう。
カインは天井の監視モニターに気をつけながら、すばやく近くの非常階段へ続く扉の奥に身を滑り込ませた。
壁を見ると58階と表示してあった。腕が燃えるように痛んだ。
「どこかに所員のロッカールームがあるはず……」
カインは荒い息の下でつぶやいた。病衣のままでは外に出られない。
おぼつかない足どりで彼は階段を降り、下階へ続く扉を開けて外を伺った。
幸いに人気はない。
カインは目の前に見えるロッカールームに向かい、周囲をうかがって中に入るとそこにあった手近なロッカーに手をかけた。
当然のことながら鍵がかかっている。本人がいなければ開くことができない。
「思い出せ…… こういう場合はどうすると教わった……」
カインは薄れそうになる意識の中で必死になって記憶を探った。
ここで気を失うわけにはいかない。そのとき、背後でドアが開くのが分かった。
「誰だ、おまえ……」
その言葉が終わる前にカインは再び相手に強烈な一撃を与えていた。
今度はさすがに相手が倒れると同時に自分も床に膝をついた。
「誰かをぶん殴って盗む、という手がある…… か……」
カインは苦しい息の下でつぶやいた。
こんな体でもつのだろうか……。
不安だったが、カインは倒れた男を苦労して仰向かせ、胸の所員証明を見た。
「ハロル・ベッツ……」
カインはそうつぶやくと、相手の胸のポケットをまさぐり、ロッカーの認証カードを抜き取った。
名前を掲げてあるロッカーに近づき、認証カードを差し込んだ。
彼がカードキーではなく虹彩か指紋認証をしていたらアウトだったが、幸いにもロッカーは音もなく開き、カインは適当に男の私服を取り出すと病衣を脱いで着替えた。
左手が使えないのは不自由きわまりなかった。脱いだ病衣はロッカーに入れた。
そして再び倒れている男に近づいて胸の所員証明を外し、それを自分の胸に苦労してつけた。
最後に男の通勤用の靴を履いた。サイズが合わなかったが歩くのに支障があるほどでもない。
「リィの息子、窃盗を働く……」
カインは顔を歪めた。トウが知ったらどうするだろう。
カインはロッカーを見回して、ヴィルのキイとプライベ-ト用の小型通信機を見つけると、それをポケットに入れロッカーを閉じた。
床に落ちていた男のかかえていたらしい本を取り上げた。胸の所員証明に写真がついているので、これでも抱えて隠しておかなければならない。
「生きてたらまた返しに来るよ……」
カインは倒れている男にそうつぶやくと、ロッカールームをあとにした。
「カイン?!」
いきなり入った通信で仰天したアシュアの声に、ケイナとセレスが思わず身を乗り出して彼の腕を覗き込んだ。
3人はプラニカに乗り込んだばかりだった。
「カイン、無事だったんだ!」
セレスが嬉しそうに言った。
「今どこにいるのかと聞いてる。無事だったら返信しろ、と……」
アシュアはケイナに言った。
「あの傷じゃ、動けるはずがない」
ケイナはつぶやいた。
「こりゃ…… 発信元は地球だぜ…… 届くかな……」
アシュアは呻いた。
「おれたちは生きてる…… それだけ…… 返信しよう……」
ケイナは言った。アシュアは何か言おうとしたが、思い直してケイナの言うとおり返信した。
「あとは通信機の電源を切っておいたほうがいい」
アシュアはやはり無言でそれに従った。
セレスはふたりのやりとりを黙って聞いていた。
ケイナは来るなと言いたいのだろう。
カインの傷がまだ癒えていないことはセレスにも分かっていた。
アシュアはプラニカのエンジンをかけ、勢いよくガレージから滑り出てすぐに上昇した。
セレスは眼下に小さくなるアルのコテージを見た。出る前にアルにメールを送った。
『ありがとう。アル、トニ。必ず帰るから』
それだけを送った。
きっとアルもトニももっといろいろ聞きたいだろうが、詳しく送るわけにはいかなかった。
万が一ここに誰かが来てチェックするか、アル自身が尋問を受けないとも限らないからだ。
横に座っているケイナを見ると、厳しい表情で外の景色を眺めていた。
アシュアも押し黙ったきりだ。
このあとどうなるかなど、誰も予想ができなかった。
コテージの区域を過ぎたとき、ふいにケイナが窓に顔を近づけた。
「警備のプラニカが来る」
ケイナは言った。セレスはびっくりして反射的に後部の窓に目をこらした。
ぽつりと小さな光る点が後ろにある。それはぐんぐんスピードをあげて近づいてきた。
「何台来てる?」
アシュアが言った。
「1台。おれには1台しか見えない」
ケイナはそう言ってセレスの顔を見た。セレスはうなずいた。
そのとき、運転席の下にあった小さなスピーカーから男の声が響いた。
「認証ナンバーRRTV345、こちら夜間警備部隊23、そちらの走行目的を確認したい。3キロ先のハイウェイに停車されたし」
「どうする」
アシュアは言った。
「はいそうですか、って停まるわけにはいかないだろう……」
ケイナは言った。
「だけど、こっちにゃ何の武器もないぜ」
アシュアは言った。
ケイナは無言で足元から直径3センチほどの金属製の棒を持ち上げた。長さが1.5mほどある。
「なにするの、そんなもの……」
セレスは仰天してケイナを見つめた。
「出るとき、倉庫から持ってきた。何かの部品だと思うけどもしかのために必要になるかもしれないと思って。アシュア、ナイフを貸せ」
ケイナは靴紐を急いで解き始めた。
「何をするつもりだ?」
アシュアはちらりと後ろを振り向いて言った。
「大丈夫。左手は使わない。早くナイフを貸せ」
セレスは困惑気味にアシュアを見た。
「大丈夫だから、早く!」
しかたなくアシュアは渋々ケイナにナイフを渡した。ケイナは靴紐でたったひとつの武器であるナイフを鉄棒の先にゆわえはじめた。
「まさかとは思うけど」
セレスは顔をしかめた。
「もしかして、槍でもこさえて、それを投げるつもり?」
「そのまさか」
ケイナは平然として答えた。
「なにぃ?」
アシュアが仰天した。
「どこに投げるつもりだ? あっちのプラニカは軍仕様に装甲車になってるぞ。そんなもん通用するか!」
「向きを変えてウエストタウンのほうに向かえ。致命的なダメージは与えられっこないから、せめて方向だけでも撹乱しておく。おれが合図をしたら、後ろのプラニカに向かって全速力でバックしろ。スレ違いざまにこいつをフロントガラスに投げる」
ナイフを結び終えるとケイナはアシュアの言葉を無視して言った。
「そんな、無茶だ!」
アシュアは冗談じゃない、といった顔で怒鳴った。
「一歩間違えたらおまえは向こうのプラニカに激突するぞ!」
「ここで、捕まるわけにはいかないだろう!」
ケイナは怒鳴った。そして今度はセレスに顔を向けた。
「ドアを開けて身を乗り出すからおれの腰を押さえてろ」
「そ、そんな……」
セレスは震える声でケイナを見た。しかし、ケイナは動じなかった。
「タイミング読めよ。おれが中に逃げ込むときに押さえつけんなよ」
「ケイナ、それは……」
アシュアが再び口を開こうとしたとき、ケイナはプラニカのドアを持ち上げた。
「アシュア!」
ケイナは怒鳴った。アシュアは舌打ちをしてプラニカを旋回させた。
ケイナはそれを見るとセレスの顔をもう一度見た。
「分かってるな」
セレスには答えることができなかった。 ケイナは返事を待たずに怒鳴った。
「アシュア!バック!」
彼は即席の槍を手に上半身を外に出した。セレスは慌ててケイナの腰にしがみついた。
アシュアは唇を噛んでバックするためのレバーを押し、アクセルを一杯に踏んだ。
『認証ナンバーRRTV345、要請に応じ……』
スピーカーからきいんという音が響き、次の瞬間にはケイナはプラニカの中に転げ込んでいた。
プラニカのドアが勢いよく閉まる風圧でアシュアの耳に風が届く。
「やりやがった……」
アシュアは前方で落下していくプラニカを見てつぶやいた。
フロントガラスが割れているのが一瞬見てとれた。
「少し切った……」
彼は頬を押さえてつぶやいた。長い傷が頬からこめかみにかけてついていた。
セレスが小さな呻き声をあげてケイナに抱きついた。ケイナはそれに抗う気力すら残っていないようだ。
「なんとか墜落は免れたらしい」
アシュアははるか後方になってしまった相手のプラニカを確認しながら言った。
「寿命が縮まったぜ。あんなナイフがなんで突き抜けたんだ……」
「あのナイフ、どこのか分からないけど、あっちのフロントのよりは強い素材だと思った」
ケイナは目を閉じた。
「靴紐でゆわえただけだったけど、ナイフだけを接近して投げるよりまだ安全だと思った……」
アシュアはぞっとした。確かにあれは『ビート』のメンバーが持っていた仕様だが、どうしてそんなことを思いつくんだ?棒まであらかじめ用意しやがって……。
「そんなこと、どうだっていいよ!」
セレスはケイナにしがみつきながら叫んだ。
「もし、失敗したらどうすんだ! おれがタイミング間違ったらどうすんだよ!!」
セレスはそこで大声をあげて泣き出し、あまりのことにアシュアは思わず「マジかよ」と呟いた。
これで『ライン』の軍科に入っていたのだから驚きだ。
「失敗しなかったし、タイミングも間違えなかったじゃないか」
ケイナは疲れ切った声で言った。
きっと出せる力の最大限を出したからだろう。それでもミラー越しにアシュアに見えた彼はかすかに笑みを浮かべていた。
「おれは全然心配してなかったよ……」
ケイナは言った。
「ナイフももう、手元にないほうがいい……」
ケイナはセレスの背に手を回して窓の外に目を向けた。
「今、時間は?」
1時間ほどプラニカを走らせたのち、アシュアが尋ねた。
「もうすぐ午前2時だ」
ケイナは答えた。たぶんジェニファはもう着いているだろう。
セレスはケイナの肩に頭をもたせかけて寝息をたてていた。
「ちょっと遅れちまったな……」
アシュアはつぶやいた。
しばらくしてサウス・タウンの外れにある森が眼下に広がり、アシュアはプラニカを下降させると森の入り口に停めた。
「セレス、着いたぞ」
ケイナに肩をゆさぶられてセレスははっとして飛び起きた。
「いつの間にか寝てたんだ……」
彼はごしごしと顔をこすり、森のほうへ目をやった。
「真っ暗だ……」
「昼間もこんなもんだ。背の高い木が多いからな」
セレスの言葉にアシュアはそう答えると、プラニカから出た。
森の入り口から奥は森の中を歩くのに慣れていなければ歩を運ぶのはかなり困難な状態だ。
どこかで小さく鳴く動物の声がした。
落ち葉が降り積もった湿った匂いのする中に足を踏み入れると、なんだかアシュアは背筋がぞっとするような気がした。昼間の森はこんなに陰湿な雰囲気ではなかったはずなのだが……
「ノマドの間では夜の森は精霊が浮遊しているから霊者以外はむやみに歩くなと言われてる」
薄明りの中で見えるアシュアの表情を見てケイナは言った。
「レイシャって?」
セレスは尋ねた。
「ジェニファみたいな人だよ。予言をしたり占いをしたり…… 普通の人は精霊に乗り移られて帰って来られなくなるからだと」
「ケイナは小さいとき、夜の森に入ったことないの?」
「あるけど……」
ケイナは答えた。
「森に入った途端にわーっと群がられるタイプなんだと言われた」
「そういう話はやめてくれよ。苦手なんだ」
アシュアは不機嫌そうに言った。
しばらく進むと小さな草地に出た。少しいびつな円形の平らな地面に野草がびっしりと生えている。
上を見あげると木々の枝に取り囲まれて小さく夜空が見え、そこからわずかな夜の光が差していた。
「ここよ、ケイナ」
ジェニファの声がしたのであたりを見回した。
ジェニファは木の影から姿を見せると3人を手招きした。
そばに近づくと彼女は人間の頭ほどの石の上に祭壇のようなものをしつらえていた。
「気にしないで。これは単にお守りみたいなもんだから。『ノマド』のジンクスよ」
アシュアが怪訝な顔をしたのを見てジェニファは笑った。
「見張りは大丈夫だったの?」
セレスが尋ねると、ジェニファは肩をすくめた。
「眠り粉を巻いてきたから、たぶん朝まで眠ってると思うわ。ほかの見張りが来ちゃったらアウトだけど」
「とにかく始めよう」
ケイナは言った。
ジェニファはうなずいた。そしてセレスを見た。
「用意はいい?」
「用意って……?」
セレスは戸惑ったような表情を浮かべた。
「心の準備のことよ」
ジェニファは微笑んだ。
「決心はついてるけど…… 具体的にどうすればいいのか全然分からないんだ」
それを聞いてジェニファは笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。これを持ってて」
そう言うとジェニファは長いスカートのポケットに手を入れて、ガラスの玉をセレスの手に乗せた。
セレスの手のひらにすっぽりと入るくらいの大きさだ。思いのほかずっしりと重みが感じられた。
「水晶よ。これに相手を閉じ込めておいで」
水晶を乗せたセレスの手を両手で包み込みながら言うジェニファの言葉にセレスは困惑した。
「どうやって?」
「これは暗示というか…… 形なのよ。彼の中に入ってあなたが目にするものは実体のない夢の世界なの。どんなケイナと会っても、本当のケイナはひとりしかいない。あとの人格は余分。あの荒々しいケイナがいるからもうひとりのケイナがいるのね。だからそいつをこの中に閉じ込めたという証拠づけをすれば、つまりケイナがその状況を把握すれば、自分の中にはそんなものはないという自信が彼につくのよ。ほんとうのケイナは声も出せないしもちろん姿もあなたには見えない。でも、彼は意識としてあなたを見守っているわ。それを信じて夢の中のケイナと対峙しなさい」
セレスはやはりよく分からないというような表情でジェニファの言葉を聞いていた。
水晶をジェニファの祭壇にあるろうそくの灯りを頼りに見つめると中心に小さな黒い点が見えた。目を凝らせると小さなチップ型をしているように見えた。
「中に何かある…… これは、何?」
「気にしなくても大丈夫よ」
セレスの問いにジェニファは小さく笑って答えた。
「人の意識の中なんて予想つかない。ただ、あのケイナはきっといろんな方法であなたの邪魔をすると思うの。それに打ち勝つのはあなたが本当のケイナを信じる気持ちしかないわ。疑ったりしちゃだめ。 今、ここにいる彼を信じて」
ジェニファはそう言って今度はケイナを見た。
「あなたはセレスを信じるのよ」
「分かってる……」
ケイナは自分に言い聞かせているようなふうに答えた。
そのあと振り向いて自分を見るケイナにアシュアは慌てて手をあげた。
「いい。おれはいいから。なんも言わないで」
ジェニファはうなずいて、左手をケイナの額にあてた。
その途端、ケイナの体はぐらりと揺らぎ、慌ててセレスとアシュアが彼の体を支えて横たえた。
「も、もう催眠術にかかったのか?」
アシュアが面くらいながら言った。
「ゆっくりかかっていては余計なことを考えてしまうわ」
ジェニファは答えた。そしてセレスを振り向くや否や、今度はあっという間にセレスの体が崩れた。
アシュアは慌てて今度はセレスを支えた。
「いや、せ、せめておれには合図して欲しいんだけど」
「しっ!」
ジェニファは人差し指を立ててそう言うと、セレスとケイナの体をぴったりと寄せ、水晶を挟んでふたりの手を繋がせた。
「うまく効くかしらね。夢見の誘導用の水晶なのよ」
「誘導用?」
アシュアは訝し気にジェニファを見た。
「心理治療のときに使うの。相互に意識を交換できる機器なのよ。術師と患者が手を繋ぐの。普通はね。さっきセレスが聞いた水晶の中にあるものがその装置よ」
「……」
『ノマド』は不思議だ。ローテクかと思えば妙に最先端の機器を出してくる。
「行っておいで」
ジェニファはつぶやいて、セレスの顔に手をかざした。
アシュアはセレスの体から緑色の薄もやが出てケイナに入り込むのを見たような気がした。
しかし、錯覚かもしれない。きっとカインならもっと鮮明にこの光景を目の当たりにしただろう。
「もう、何もできないわ。祈るだけよ。」
アシュアは黙って横たわるふたりを見つめた。
セレスはふと目を開けた。そして身を起こしてあたりを見回した。
ここはどこだろう……。見たこともない木や草があたり一面に生い茂っている。
「これがケイナの意識の中?」
立ち上がって顔をめぐらせた。
高い木がはるか頭上まで伸び、異様な形にとぐろを巻いてほかの木と天でからみあっている。地面に生えた草は太ももあたりまであった。
握りしめていた水晶玉に気がつくと、それを落とさないように腰のポケットの奥深くに入れた。
「このどこかにもうひとりのケイナがいるのかな……」
なんだか足下が妙に実体がなくて頼り無い。こんなこんがらかった場所で見つけられるんだろうか。会えなかったらどうするんだろう。
不安を覚えながら足を踏み出した。どこに行けばいいのかさっぱり分からなかった。
しばらく歩くと、急に目の前が開けて大きな湖が広がった。ケイナと行った湖によく似ている。
波うち際に近づき、そして足下を見た。透明でずっと先まで底が見えている。白い砂が揺らいでいた。
上を見ると霧がおりていて、晴れているのか曇っているのかは分からなかった。遠くにあるはずの水平線も曖昧だ。しかし湖面は何かに反射してちらちらと光を放っている。
「ケイナはあの湖が好きだったんだよな……」
セレスはつぶやいた。
「でも、何度も水に身を沈めて泡になってしまえたらと考えたよ」
ふいに背後で声がしたので、セレスはぎょっとして振り返った。そこにはケイナが立っていた。
セレスは思わず身構えた。しかし、立っているケイナからは殺気がない。
「会いたかった……」
ケイナはそう言うとセレスに腕を伸ばし抱き締めた。
「さっきまで一緒にいたじゃないか」
セレスは困惑して言った。
「こんなふうにいつも素直に抱き締めることができたらどんなにいいだろうかと思った」
「……?」
セレスは目を細めた。
違う……。彼は暴走したケイナではない。もちろんいつものケイナではない。ケイナはよっぽどでなければ自分から人に触れたりしない。
とすれば死を願うほうのケイナだ。
「あいつを倒しに来たんだろう」
ケイナは言った。
「そうすればおれも消えるから」
セレスは身を離すと無言でケイナを見つめた。
目が優しい。いや、優しいんじゃない。深い憂いだ。
失望して、怖がって、諦めている。
「おれはもともとあいつがいるから『本当の』意識がつくりだしたものだ。あいつが消えればおれも消える。体はひとつしかない。残りのふたつは余計だ」
ケイナは静かに言った。
「おれは本体の本音だけを集めた意識体だ……。本体も知らないような本音をね」
ケイナは寂しそうに笑った。
「人間は知らないほうがいいことだってあるんだよ。それがたとえ自分のことでも」
ケイナは何を言っているのだろう。自分も知らない自分…… 確かにそういうことはあるかもしれないけれど。
「それを教えてやろうか……」
目を伏せたケイナの表情が変わった。
セレスは思わずあとずさりした。自分を見つめるケイナの目にはさっきの憂いがなくなった。
代わりにぞっとするような冷たい光が宿り、口元にはあざ笑うような笑みが浮かんだ。
「あいつが失望している。もう少しでおまえをもう一度抱き締められたのにと残念がってる」
ケイナは髪をかきあげた。その癖はいつものケイナだ。
でも違う。なんだろう…… まるで目を反らしたくなるような禍々しさを感じる。
セレスは油断なくケイナを睨みながら思った。
こいつはもうひとりのケイナだ。水晶玉を取り出して握り締めた。
「そんなもの役に立つもんか」
ケイナはそう言うとセレスに一歩近づいた。
「こんなところに来てしまったら思うつぼじゃないか」
ケイナが手を伸ばしたので、セレスは慌てて逃げようとしたが、あっという間に腕を掴まれてしまった。
抵抗したがケイナの手はびくともしない。夢の中でもケイナの手の力は強かった。
ケイナはセレスの腕を掴んだままずぶずぶと湖に彼を引き摺り込み、腰までの深さまで来たところでセレスの後頭部を押さえて湖面に顔を無理矢理近づけた。
「な…… なにするんだよ……!」
セレスは必死になって抵抗しながら叫んだ。不思議と水の冷たさは感じなかった。
「自分の顔をよく見ろ」
ケイナは言った。セレスは湖面に目を向けた。
湖面は見る間に鏡のような質感を持ち、そこに映しだされたのは確かに自分の顔だった。
だが、なんだかおかしい。自分の顔には変わりはないのだが、妙に輪郭が違う。
鼻梁が細くなり、顎の線も首も華奢だ。
セレスは思わずケイナに掴まれていないほうの手を顔の前に持ってきた。そしてぎょっとした。
これはおれの手じゃない。いくら細くったって、こんなに手首は細くない。
「なにこれ……」
ケイナは可笑しそうに笑った。
「見た目はマン、でもその中にはフィメール。おれはおまえのフィメールの部分を見ていたんだ」
「え??」
セレスは水鏡にうつる自分の顔を見つめた。
こんなのは嘘だ。彼はきっと自分を混乱させようとしてこんなことをしているのだ。だってこれはケイナの夢の中じゃないか。セレスはそう自分に言い聞かせた。
「夢の中でもおれは真実だぜ」
ケイナはまるでセレスの心を読み取ったように言った。
セレスは小さな声をあげながら無我夢中でケイナの腕を振り払った。
水の中に転びそうになりながら急いでケイナから離れた。
「おまえの言うことなど信じない。だっておまえは本当のケイナじゃないからだ」
セレスは目の前のケイナを真正面から見据えて言った。
「おれが信じるのは本当のケイナだけだ」
「だから『おれ』は最初から『おまえ』を見ていたと言っているだろう」
ケイナは言った。
「それが真実なんだよ。さっきあいつも言っていただろう。おれたちは自分でも気づかない(本音)を集めた意識体なんだ。本音は本体のおれが考えてることだ。考えている人間はひとり、おれしかない」
セレスはわけがわからなくなっていた。
「おまえの見ていた本体のおれなど、他人にほとんど何も見せちゃいないさ」
ケイナは笑った。
「おまえを見るたびおれは何を考えていたと思う?抱き締めたい、キスをしたい、おまえの全部を自分のものにしたい。誰もが持つ本能の欲求さ。それはおまえも同じだろう」
「何を言ってるのか分からないよ……」
セレスはつぶやいた。
「抱き締めたり、キスをしたり、誰だって好きな人のことを思えばそんなこと考えるよ。叔母さんも兄さんもそうしてくれた。小さい時からそうしてくれたよ。おれだってケイナのことは好きだよ。だから……」
セレスはふっと言葉をきった。ケイナはにやりと笑った。
「だから抱かれたいと思うんだろう?」
「違う!」
セレスはかぶりを振った。
「そんなのじゃない…… ケイナはおれにとって大切な人だけど、違う……」
「おれに何をさせようとしているんだ?」
ケイナはくくっと笑って再びセレスの腕を掴んだ。
「いったい何をさせようと?」
セレスはすぐ目の前にあるケイナの顔を凝視した。
逃げたくても逃げられない。
ケイナの顔はきれいだ。この顔を何度ほれぼれと見とれたことだろう。
彼の体から香るミントの香りが鼻をくすぐると、不思議と心が落ち着いた。
ケイナが笑ってくれるなら何でもしたい、と思った。彼のそばにいることだけがすべてだった。
「別になんにも不自然じゃない。おれはおまえに惹かれたし、おまえはおれのそばにいたかった」
ケイナは言った。
「やめて……」
セレスはケイナが何をしようとしているのかを悟って恐怖に陥った。
でも、体が思うように動かない。
「ケイナ……!」
セレスは冷たく柔らかな彼の唇が自分の唇に押しつけられるのを感じた。
カインはヴィルの上で何度も気が遠くなりかけた。
頭がくらくらする。左腕は相変わらず燃えるように熱かった。
「生きてるだと……? ちくしょう……」
カインはつぶやいた。
研究所を抜け出たあと、盗んだ個人用の通信機でアシュアの通信機にアクセスした。
『コリュボス』まで接続できるのかは神のみぞ知る状態だったが、受け取られた形跡はあった。
ケイナの意図は明確だ。来るな、ということだ。自分が逆探知して居所を知ることまでケイナは読んでいる。――だから通信機を切った。切られてしまった。何度アクセスしてももう繋がらなかった。
どこかで別の通信機を手に入れて無理して読めないこともないが、その頃にはきっとすべてが終わっているだろう。
血の海が広がっているか、笑顔のケイナとセレスが立っているか…… それは分からない。
ぐらりと体がかしいだので、カインはやむなくヴィルを無人の駐車場に降り立たせた。そして息を吐いてハンドルに突っ伏した。
いくらなんでももう運転することはできなかった。いったいどうすればいいんだ。
顔をあげてあたりを見回した。駐車場は図書館のものだったらしい。向こうに暗くそびえる建物の影があった。やむなくヴィルからおりると歩き始めた。一歩一歩が血を吐くように辛かった。
やっと駐車場のはずれまで来たとき、とうとう全く歩けなくなり駐車場と外の道を区切る植え込みの脇にへたり込んだ。
「くそっ……」
休めば少しは動けるようになるのだろうか。このままここで気を失ってしまいそうになるのを堪えるのが精一杯だった。
「どうしたの?」
ふいに目の前で声がしたので目を開けた。
濃い化粧の女が立っている。一目見ただけで娼婦だということが分かった。
形のいいむき出しの脛が見えた。こんな体調の時でなければ少しどきりとしたかもしれない。
女はじろじろとカインを見回していた。
「なんでもないから…… あっちに行ってくれ……」
カインはひゅうひゅうと息の漏れたような声で言った。
「怪我してるの?」
女はだらんと垂れ下がったカインの腕と額ににじんでいる汗を見て言った。
「あたしんち、すぐそこよ。行く?」
「頼むからほっといてくれ……」
しかし女は立ち去る気配がなかった。カインは右手の甲で額の汗をぬぐった。
いきなり目の前に白いものを差し出されてカインはぎょっとしてのけぞった。
「煙草は吸わない……」
カインは目の前のものが煙草のケースだと知ってかぶりを振った。
「煙草じゃないわ」
女は笑った。
「吸い込み型の鎮痛剤」
カインはようやく女の顔をしげしげと眺めた。まだ若い。カインと5歳も離れていないだろう。
「私の仕事用。必要な時に吸うの。錠剤よりは効き目が早いから」
しかし、カインは首を振った。
「薬は…… ほとんど効かないんだ……」
「そう…… でも、もうすぐ警備のパトロールが回ってくるよ。しょっぴかれるわよ」
カインは何も言わずに目を閉じた。話をするのも辛かった。
女はしばらくカインの顔を見つめたのち、彼の右腕をひっぱった。
「しっかりして立ちなさいよ。あたしんち、ほんとにすぐそこだから」
「『コリュボス』に…… 行かないといけないんだ……」
カインの言葉に女の目が呆れたように見開かれた。
「今頃から出る船なんかないわよ。どんなに早くったって5時間後よ。貨物船に乗るってなら話は別だけど」
「貨物船……?」
カインは女を見た。視界がぼやけていた。女の顔がよく見えない。
「とにかくうちにおいで。警備に連れて行かれたくないでしょ?」
女が引っ張るので、カインはのろのろと立ち上がった。
彼女はカインの右腕を肩に回し、歩き始めた。
肩に広がった巻き毛からハーブの甘酸っぱい香りが漏れてカインの鼻をくすぐった。
着いた女の家は古びたアパートだった。
部屋の扉を開けると女はカインを小さなソファに座らせ、すぐにコップになみなみと注がれた水を持ってきた。
「飲みなさい」
女はそう言ってカインに差し出した。カインが首を振ると、女はついとカインの顔にコップを突き出した。
「飲まなきゃだめよ。熱出てる。脱水症状を起こすわよ」
カインはしぶしぶカップを受け取った。カップを口につけたとたん、自分がひどく咽が渇いていることに気がついた。一気に飲み干すと、女はすぐにまた新しく水を注いできた。それもむさぼるように飲み干した。
水分を補給すると、少し意識がはっきりしたような気がした。
「ちょっと左腕見せて」
女が手を伸ばしたので、カインはさっと緊張して身をこわばらせた。
「怪我してるんなら消毒しなくちゃ」
女は言った。
「治療はしてもらってる。触らないでくれ」
カインはかすれた声で答えた。女の弓型の眉がぴくりと動いた。
「あんた…… 何したの? 治療って…… どういうことよ」
「あんたには関係ない」
カインは顔を背けた。女はしばらく何も言わなかった。
「別にいいけど」
女は肩をすくめた。
「でも、そんな体じゃ『コリュボス』に行くのは無理よ」
カインは黙っていた。
女は立ち上がると隣の部屋に行き、しばらくして薄っぺらい毛布を抱えてくるとカインに向かって放り投げた。
「とにかくあとすぐに『コリュボス』行きの船はないからね。時間が来たら起こしてあげるから横になってなさい」
カインは訝しそうに女を見た。女はその視線に気づいて肩をすくめた。
「知り合いに頼んであげるわよ。ひとりくらいなんとかなるでしょ」
「知り合いって……」
カインはつぶやいた。
「あんたには関係ないでしょ」
女はそう突っぱねたあと、くすりと笑った。
「あたしの別れた亭主。仕事を時々手伝ってやってるからあたしの頼みは聞いてくれるわ。 あ、何の仕事かはお察し。誰にも言っちゃだめよ」
カインは女を見つめた。
「なんで見ず知らない人間に……」
女はカインの言葉を聞いて渇いた笑い声をたてた。
そして近くにあった椅子に腰をおろした。
「病院を抜け出したの? よく歩けたわね」
女は言った。言ってしまってからはにかむように笑った。
「今はこんなだけど数年前は看護婦だったのよ。嘘みたいでしょ? だから分かるの」
「看護婦……」
カインはつぶやいた。女は体を動かすと、椅子の背もたれに肘をかけた。
「私ね、シティにあるような大きな病院で働いてたわけじゃないの。あんまり裕福じゃない人を診る病院にいたのよ。ほんとに劣悪な環境だったわ。壁はしみだらけだし、床はひびわれてるし。検査装置だって動かすたんびにぎいぎい変な音をたてた。モニターなんて、時々ぷちっと切れるのよ。私、そのたんびに殴って無理矢理映してたんだから」
女の言葉にカインはかすかに笑った。
「そんなところに風邪ひきの子供からケンカして血を流してるやつとか、なんでもかんでも運び込まれてくるの。やっぱり一番多かったのは怪我ね。だからたいがいの傷はどうすればいいか察しがつくわ」
彼女はしばらくじっとカインを見つめた。
「あんた、ケンカで怪我したわけじゃなさそうね。どう見たって育ちのいいおぼっちゃんらしいもの。なんでそんな状態で『コリュボス』に行きたいの?」
カインは目を伏せた。女はカインが口を開くのを待ったが、彼が何も言いそうにないのでため息をついた。
「まあ…… 言いたくなければ別にいいわ。でも、その体であんまり動くと死ぬわよ」
「死なないよ…… ぼくの体は地球人とは違う……」
「地球人とは違う?」
女は目を丸くした。そして納得したようにうなずいた。
「ああ…… どおりでよく動けるものだと思ったわ。アライドの?」
「そうだ……」
女はうなずいた。
「アライドは生命力強いものね。でも、やっぱりその傷じゃ無理しちゃだめよ。『コリュボス』行きはどうしても今日でないとだめなの?」
「もう間に合わないかもしれないけれど……」
カインはつぶやいた。女は何も言わなかった。
そして立ち上がるとカインに近づいて、さっきの白い箱を差し出した。
「薬は……」
カインはそれを見て言った。
「うん。分かってる」
女は答えた。
「でも、数時間ならアライドのハーフでも効くから。残念だけど、アライド・ハーフに効く鎮痛剤までは持ってないのよ。でも、少しは痛みも遠退くわ。眠ったほうがいいわよ」
カインは箱を見つめてためらったのち、シガレットの形をした鎮痛剤を一本取り出した。
「たとえ間に合わなくても行かないといけないんでしょ? だったら少しでも動けるようにしなくちゃ」
彼女は笑みを浮かべてそう言うとカインに手を添えてそれを煙草のように口元に持っていくようにさせ、ポケットからライターを取り出して火をつけた。
「煙草みたいにむせることはないわ。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて。あたしがついてるから眠くなったら素直に横になっていいわ。眠ってる間に包帯だけは取り替えるからそれだけは許してね」
カインは女の言うように鎮痛剤を吸った。
甘い香りが肺一杯に広がり、間もなく睡魔が襲った。
「心配しなくていいわ。大丈夫よ」
彼女の声を聞いたような気がしたが、次の瞬間には意識が遠退いていくのをカインは感じていた。
本当に合法な薬か? これ……
そんなことを考えたが、あっという間にそれも睡魔に飲み込まれた。
しばらくしてカインが苦しそうな呻き声を漏らして身じろぎしたので、彼の額に冷やしたタオルを乗せようとした女はびっくりして手を止めた。彼の形のいい眉がひそめられている。
「夢でも見ているのかしら……」
女はつぶやいた。
「ケイナ……」
カインが小さな声でつぶやいた。女はそれを聞いてかすかに笑みを浮かべた。
「恋人? その子は女名利に尽きるわね。あんたみたいなきれいな男の子にこんなに好いてもらって」
女はくすくすと笑い、カインの額にそっとタオルを乗せ、毛布をかけなおすとシャワーを浴びに部屋を出た。
しかし夢の中のカインは女が想像するような甘美な状況にいるわけではなかった。
頭の中で誰かが喚き散らしているような感覚を覚えて、カインは暗闇の中で頭を抱えてうずくまっていた。
(フィメール、フィメール、フィメール、フィメール……)
延々と繰り返される言葉にカインは思わず叫び声をあげた。脳みそがひっかき回されるような苦痛だった。
ふと声がやみ、顔をあげてカインは目の前に広がる異様な光景に目を見開いた。
あたり一面見たこともない木々や草が生い茂っている。木の枝は妙な形にとぐろを巻き、隣の木とからみあって空高く伸びていた。カインは呆然として立ち上がった。
寒くもなく暑くもない。空気にかすかにハーブミントに似た香りが漂っていた。
「なんだ…… ここは……」
夢の中にしては妙にはっきりとした世界だ。
そしてふと左腕に痛みがないことに気づいた。やはりここは夢の中なのだろうか。それとも薬が効いているからなのか。
顔をめぐらせても周囲はみな同じ風景だった。
カインはしばらく躊躇したのち、ふとある方向に向かって歩き始めた。
なぜかは分からないがそっちに向かっていかなければならないように思えた。
「ケイナが泣いている……」
アシュアがケイナの顔を見てびっくりしたように言った。
目を閉じて横たわるケイナの目から一筋の涙が流れていた。
ジェニファは首を振った。
「何が起こってるのか判断のしようがないわ……」
アシュアは横で眠っているセレスを見た。かすかに眉がひそめられているような気がする。
アシュアはそっと手を伸ばしてケイナの涙を指で拭った。
「ふたりがお互いを信じていさえすれば…… そう…… それだけなのよ、頼みの綱は……」
ジェニファはつぶやいた。
セレスは気が遠くなるほどの思いにとらわれていた。
おれは最初っからこれを望んでいたんだろうか……。
ケイナにキスをされると体中から力が抜けていくようだった。
吐息にミントの香りを感じる。
(地球に行きたい……)
ケイナの声が聞こえたような気がした。
(おまえと、地球に行きたい…… 本当の海が見たい……)
違う……!
セレスは目を開けた。夢中で目の前のケイナの頬を殴った。
ざっくりと何かを切るような鈍い嫌な音がして、ケイナは後ずさりすると呻いて両手で顔を覆った。
セレスは顔を覆ったまま苦しそうに水の中に膝をつくケイナを見つめた。
何がこんなに彼にダメージを与えたんだ?
自分の右手を見ると、持っていた水晶玉が手のひらにめりこんで皮膚と一体になっているのが目に飛び込んできた。
ケイナは顔をあげてセレスを見た。唇からも左頬からも血が流れている。
押さえていた手も真っ赤に染まっていた。その量が尋常ではないのでセレスは震え上がった。ぽたぽたと垂れた血がどんどん水に広がっていく。
「ケ…… ケイナ……」
思わず声が震えた。
「なぜこんなことを……」
ケイナはそう言うと立ち上がった。同時にセレスは水に浸かったままあとずさりした。
「どうしてこんなことができるんだ……」
ケイナは言った。
「どうして……?」
セレスはかぶりを振った。
「だってあんたは本当のケイナじゃない……」
涙があふれてくるのをどうすることもできなかった。
「ケイナが好きだ…… 彼に触れていたい、ずっとそばにいたいって思ってた。それは今も変わらない。でも、人間の心の中にはいろんな思いがあるんだよ…… 本能だけだったり、理性だけだったり、そんなもんじゃないんだ……」
セレスは水晶のない左手で顔を拭った。
「おれが好きなケイナはいろんな部分をいっしょくたに持ってて、でも、それを自分の中で一生懸命消化していこうとしてるケイナなんだ…… ケイナは表に出さないけど、おれにはよく分かるよ。あんたは違う…… あんたは自分の思うことを相手に無理矢理消化させようとしてる…… それはケイナじゃない……」
「人間はそんな美化されたもんじゃない。いつも自分の思うままに生きたいと思っているんだ」
ケイナは血を流しながら言った。肩が真っ赤に染まっている。
頬はえぐりとられ、骨の白い色が光っていた。
セレスは本当のケイナを傷つけたような錯覚に陥りそうになる自分を必死に押しとどめた。
「たとえば、こいつはどうだ」
ケイナはいきなり後ろを向くと、何もないはずの空間に腕を伸ばした。
「こいつだ……!」
ケイナは空間を掴むような仕種をし、そしてそれをぐいと引いた。
セレスは呆然とした。空間の中からケイナに胸ぐらを掴まれて姿を見せたのはカインだったからだ。
カインは水の中に勢いよく崩れ込んだ。
ケイナはカインの胸ぐらを再び掴むと自分に引き寄せて言った。
「こいつだ!」
「ケ…… ケイナ……?」
カインは何がなんだか訳がわからず、呆然と血を流しているケイナを凝視していた。
「カイン!」
セレスは叫んだ。
「そいつは本当のケイナじゃない!」
「セレス……?」
カインは面くらったようにセレスを見て、そして再びケイナに目を向けた。
「ここはきみの意識の中なのか……?」
ケイナはカインに顔を近付けた。
「おまえの大好きなケイナ・カートがこんな目に遭っているのを見て、どんな気分だ?」
カインは何も言えずにただ黙ってケイナを見つめた。
「あいつはおれを殺そうとしている…… こんなに好きなのに。 おまえのように恋焦がれていたのに」
カインは必死で身じろぎすると、ケイナから離れた。
左腕が動く。それが有り難かった。
そしてケイナを油断なく見つめながら、セレスに近づいた。
「ジェニファが何かキーワードになるようなものを指定しなかったか」
カインはケイナから目を離さずにセレスに言った。
「キーワード……? これのこと?」
セレスは水晶がめりこんだ手を差し出した。
「水晶か…… それで彼をあんなふうにしたのか……」
「そんなふうに言わないで。しかたがなかったんだ……!」
セレスは言った。
「分かってるよ」
カインは答えた。
「分かってるわけない」
ケイナは言った。
「おまえの心の中は、今どうしようもなく苛立たしさでいっぱいのはずだ。大切なケイナにどうしてこんなことをしたと思ってるはずだ」
セレスが何か言おうとしたので、カインはそれを押しとどめた。
「口車に乗るな。なんとかしてこっちの冷静さを奪おうとしているんだから」
「偽善者」
ケイナは血の流れ込んだ口を開いて笑みを浮かべた。そしてセレスに目を移した。
「セレス、彼はずっと前からおまえにフィメールの部分があることを知っていたんだ」
「え?」
セレスは思わずカインを見た。カインは何も言わなかった。
「だのに誰にも言わなかった。どうしてだか分かるか?」
「カイン、どういうこと?」
「セレス、あいつの口車に乗るなと言っただろう」
カインは苛立たし気に言った。
「彼は知っていた。でも隠していた。ケイナ・カートの心が さらにおまえに傾くことが許せなかったからだ。カイン・リィはケイナ・カートを自分のものにしたくてしようがない。だのに、彼はセレス・クレイに目を向ける。こいつはそれが悔しくてしようがないんだ……」
ケイナは血を流したままさらに笑みを広げた。ぞっとするような顔だった。
「そうじゃない!」
カインは叫んだ。
「……」
セレスは呆然としてカインを見つめた。
「違う。そうじゃない」
カインは呻いた。
「ぼくは確かにきみに心を奪われてた」
カインは苦しそうに言った。
「セレスが両性だと分かったらカンパニーはセレスを逃さない……。でも、ぼくにはできなかった。そんなことを報告すればきみは絶対ぼくを許さなかっただろう。ぼくはきみに憎まれたくはなかった」
「好きだから」
目の前のケイナはあざ笑うように言った。
「おれだけが『ホライズン』に入ればいやでも一緒にいられるようになる。誰からも邪魔されずに、おまえはリィの息子として一生おれのそばにいられる。それを望んだんじゃなかったのか」
「違う…… やめてくれ……」
カインは顔を歪めた。セレスは何も言えずにカインと血を流すケイナを見つめていた。
ケイナはカインに近づいた。そして彼の手をとった。
その手を彼は自分の血に染まった顔に押し当てた。
「う……」
カインは手から伝わる血と骨と肉の感触を感じて思わず身じろぎした。しかしケイナは彼の手を離さなかった。
「ほら、おまえが触れてくれただけでおれの傷は癒えるんだ……」
しばらくしてカインの手を頬から離すと嘘のように傷あとは消えていた。
「おまえの思いがおれに流れるんだ。大切なケイナ。ぼくだけのケイナ……」
カインは体中を震わせてケイナを見つめていた。
セレスはとてつもない恐怖を感じた。頭の中に警報が鳴り響いていた。
命の危険……
「おれとずっと一緒にいたいと思わないか?」
「やめてくれ」
カインは掠れた声でそう言うとケイナの手を振り払おうとした。ケイナはそのままカインに耳打ちするように顔を近付けた。
「おれを解放してくれ。そうすればおまえのことを大切にするよ。一生そばにいる……」
「やめてくれ!!」
カインは呻いて顔を背けた。しかしケイナはやめなかった。
「あいつを殺してくれないか? ほんの数十秒のことだ。首を絞めてこの湖に沈めればいい。 あっという間だ。それだけでおれはおまえのものになる」
ケイナは優しく囁きながらセレスを指差した。
「カイン!」
セレスは叫んだ。
「口車に乗っちゃいけないって言ったのは、あんただよ!」
「行け!!」
ケイナは怒鳴った。あっと思う間もなく、セレスはカインに首を掴まれていた。
セレスはものすごい力で首を絞めるカインの腕を掴んだ。しかしぴくりとも動かない。
ものすごい力だ。カインにこんな力があったっけ……?
「カイン…… 頼むよ、正気にもどっ…… て……」
セレスは首を絞められたまま、 じりじりと体が水に沈められていくのを感じて必死になって言った。
ジェニファ、こんなときはどうすればいいんだよ……!
ジェニファ!!
セレスは必死に抵抗しながら頭の中で叫んだ。
「ジェニファ!」
アシュアは仰天して祈祷台にした石の前にかがみ込んでいたジェニファを呼んだ。セレスが起き上がったからだ。手から水晶が落ちて転がっていった。
セレスは目を飛び出さんばかりに見開き、両手で首を押さえている。
ジェニファは急いでセレスに駆け寄った。
「いったいどうしたんだ!」
アシュアはジェニファに詰め寄った。
「まだ催眠状態のままだわ。何かが起こってるのよ」
ジェニファは隣に横たわるケイナを見た。ケイナは目を閉じたままだ。
「変だわ…… 誰かよけいな意識が入ってる?」
「え?」
アシュアは目を細めた。
「彼じゃないわ。自分じゃ手出しができないからほかの誰かの意識を呼び込んだわね」
「どういうことだ?」
アシュアはジェニファを見た。
「誰か分からないけどほかの人間の意識を呼び込んで、その人間にセレスを殺させようとしてるんだわ」
ジェニファはアシュアを見上げて言った。
「セレスは抵抗できないのか?」
「見も知らない人間なら抵抗するわよ。きっとセレスが抵抗できない人間を呼んだんだわ。 いったい誰なの。今ごろケイナのことを考えてる人間って誰? 呼び込みやすいのはそういう人よ」
「まさか……」
アシュアは血の気がひく思いだった。
「カインだ……」
アシュアは言った。
「でも、そんなこと、あり得ない。カインはセレスを殺めるようなやつじゃない。それにあいつは今地球にいるんだ」
「場所なんて関係ないわ。それに意識下では無防備よ」
ジェニファは言った。
「何にも身につけないで素っ裸でいるのと一緒よ。誘惑や錯乱にすぐに迷い込むわ。セレスは本体のケイナを信じる力さえあればいい。でも、彼はどうなの?」
アシュアは苦しんでもがいているセレスを押さえながら絶句した。腕を押さえていないと苦しみのあまり自分で自分の首を爪で引き裂かんばかりの様相だった。
「カインがセレスを殺められないんじゃないわ。セレスがカインを殺められないのよ。分かる? あそこでカインを殺してしまったら、カインが永久に目覚めないのよ」
「どうすれば……」
「中止よ。今ならまだ間に合うわ」
ジェニファは言った。
「残念だけど、今回も失敗。どうしてこんなに予想外のことばかり起こるの」
ジェニファは唇を噛んでケイナに近づき、しばらくその顔をじっと見つめた。
「じゃあ、目覚めさせるから…… 全員にちょっと負担がかかるかもしれないけど」
そう言ってケイナの上に身をかがめた途端、彼女は悲鳴をあげてケイナから離れた。
アシュアはその声に仰天し、そしてそのあとに体中の血が凍りついたように思った。
ケイナがゆっくりと起き上がったからだ。
「催眠が解けてるのか……?」
アシュアは掠れた声で言って身構えた。暴走したケイナなら戦わなければならなかった。
「違うわ。彼はまだ催眠状態のままよ。でも、なんで……」
アシュアはジェニファをかばうようにしてケイナを見つめた。ケイナはゆっくりと顔をあげ、ふたりを見た。
「だいじょうぶ…… おれ…… だ……」
ケイナはゆっくりと言った。
ジェニファもアシュアも呆然としてケイナを見つめた。なんで催眠状態なのに、話せるんだ?
ケイナは首を押さえて苦しむセレスに向き直るとゆっくりと彼の手を喉元から引き離した。
セレスはすでに体にひくひくと痙攣を起こしていた。顔から血の気がひいている。
きっと意識下でカインに首を絞められているのかもしれない。
「セレス…… おれの声を聞いて……」
ケイナはセレスの体を抱き締めた。
「セレス…… 頼むよ、おれの声を聞いて……」
アシュアは信じられない思いでふたりを見つめた。
セレスは首を絞められながら頭の後ろが水にひたされるのを感じていた。
ジェニファ、教えて! おれ、どうすればいいんだよ……!
次の瞬間、顔が全部湖中に沈んだ。
ケイナと出会ったときからのことがめまぐるしく頭を駆け巡った。
ぶっきらぼうで笑みを見せないケイナ。
髪をかきあげたあとに必ず視線を落とす癖があった。
ダイニングの前で殴られたこと、アパートで無防備に眠り込んでいたケイナの姿、エアポートで小さな女の子と笑い合っていたケイナ……。
おれはケイナが好きだ。
人に触れること、笑顔を見せること、弱味を見せることはけっして恥ずかしいことじゃない。
ケイナは一生懸命それを探してる。生きることを望んでる。寂しさと辛さに体中で堪えてる……。
そんなケイナがおれは好きなんだ……。
(地球に行きたい…… 本当の海が見たい……)
ケイナの言葉が頭に響いた。
ずっとずっと前、海はきれいだったんだ。ケイナの目みたいに藍色でコバルトブルーで、 きれいだったよ……
(セレス…… おれの声を聞いて…… おまえがおれに声を届かせたように、おれの声も届かないか……)
セレスは目を開けた。ケイナの姿が目の前にあった。
「ケイナ……」
セレスはケイナの姿に手を伸ばした。
(ここではおまえに触れられないんだ…… でも、今、おまえを抱き締めてるよ。おまえに話しかけてるよ)
ケイナは言った。目を閉じるとケイナの柔らかな髪が頬に触れたような気がした。
「うん。 ……分かるよ……」
セレスはつぶやいた。ふいに別の声が聞こえてきた。
(トウ…… どうしてぼくにそんなに冷たい目を向けるんだ……)
カイン…… カインの声だ……。
(おまえたちなしでおれだけ生きていくのは嫌だからな……)
アシュアの苦悩に満ちた声が響いた。
ずっとずっと前、海はきれいだったんだ。
ケイナの目みたいに、藍色で、コバルトブルーで、きれいだったよ……
『ライン』のライブラリで見たんだ。
本当にきれいだった。透明で光にあふれてた。
それを教えてくれたのは
カインだ……
セレスは目を開いた。
「っ……!!!」
カインは呻いて思わずセレスから手を離した。彼は左腕を押さえて水の中にうずくまった。
左腕の傷口から再び血が流れ始めた。
「おれ、もう間違えない」
セレスは水の中から立ち上がった。全身からぽたぽたと水が光りながら落ちた。
目の前のケイナが一歩後ずさりした。
「おまえはケイナじゃない」
セレスは手に食い込んだ水晶を確かめるように見て握りしめた。
「そんな石、通用するものか」
ケイナは笑った。そしてすばやくセレスの右手を絞めるように掴んだ。あまりの痛さにセレスは顔をしかめた。
「石は石だ」
ケイナは嫌悪を感じるような禍々しい笑みを浮かべてセレスの顔を覗き込んだ。
セレスは鈍い音をたてて自分の肉を裂いて水晶が砕け散るのを感じた。手のひらから流れた血がケイナの手に伝わっていく。
「こんなことでしか自分を表現できないのかよ」
セレスはケイナを睨みつけながら言った。
「おれは言ったよな。人間ていろんな思いで生きてるんだって」
セレスは掴まれていない自分の左手を握りしめた。ケイナの表情が変わった。
「みんなのいろんな思いが重なるから生きていくのが辛いし悲しくもなるんだ。おれの中に流れてるのはケイナのたったひとつだけの思いじゃない。ケイナだけの思いじゃない」
セレスの左手が光を放ち始めた。ケイナが危険を感じてよけるよりも早く、セレスは彼の顔を殴りつけていた。
閃光が散り、ケイナの鋭い叫び声が響いた。
彼はセレスから手を離すとひたいをおさえてうめきながら後ろによろめいた。彼の指の間から真っ赤な血が吹き出して水に落ちた。
セレスは荒い息を吐いてカインがうずくまる場所まで後ずさりした。
「セレス、あれはケイナじゃない……」
カインが苦し気に言うのが聞こえた。
「分かってる……」
セレスは答えた。
「おれを解放したら、苦しむことも、後悔することもないのに……」
ケイナは血がしたたり落ちる顔をあげた。
ひたいがぱっくりと裂けている。その裂け目から赤い血とともに 目をそらしたくなる頭蓋の中身が見えていた。
「そのかわり人を信じることも、愛することもなくなるよ」
負けない。もう負けない。
セレスは自分に言い聞かせた。
「ケイナ、分かる? あんたの利き腕は左だ。今おれの左手があんたの手だよ。自分でいらない奴をやっつけろ」
セレスはぎゅっと目を閉じたあと、大きく息を吸い込むとケイナに向かって再び手を振り上げた。
「出ていけ!!」
セレスは勢いよくケイナに飛び掛かり、そして再びぴたりと左手を彼の裂けたひたいに押し当てた。水の中に倒れ込んだふたりの周りに音のない水の光が散らばった。
再び閃光が走り、光の向こうでケイナの目が大きく見開かれてセレスを捉えたあと、その顔が見る間に溶け始めた。
セレスはどんどん彼の皮膚が溶け、眼球が落ちていっても目をそらさなかった。
これは本当のケイナではない。
今はその確信があった。
最後にケイナは小さな光になり、そして消えた。
セレスは肩で息をついて立ち上がった。
「終わったよ……」
背後で声がしたので、セレスは振り返った。静かな顔をしたケイナが立っていた。
彼は近づくとセレスを抱き締めた。
「目が覚めたら、こんなふうに抱き締めることができたことを、きっと忘れていると思う……」
セレスはケイナに抱き締められながら、その肩ごしにカインが戸惑い気味に目をそらせるのを見た。
「セレス、暗示を解くのは簡単だ」
ケイナは言った。
「大切に思えばこそ。それだけだよ……」
そしてふっとその姿が消えた。
セレスはしばらく呆然として立ち尽くしていたが、はっとして水の中にうずくまるカインに駆け寄った。
「カイン、ごめんよ…… 現実の痛みを夢の中でも思い出させることになってしまって……」
「そろそろ目覚める頃だからいいんだよ」
カインは力のない笑みを見せた。セレスはカインに近づくとその肩を抱きしめた。
カインは驚いて動くほうの腕でセレスを受け止めた。
「カイン、生きててくれてほんとによかった。あんたには絶対死んで欲しくないんだ」
「きみは…… きみを殺そうとしたのに、ぼくを憎いと思わないの」
セレスは身体を離してカインの顔を見た。
「カインは命がけでおれを助けてくれたじゃないか。綺麗な海を教えてくれたじゃないか」
そしてカインの顔をまじまじと見つめた。
「おれ、カインの目をこんなによく見たことはなかったかも…… メガネはどうしたの?」
「ああ……」
カインは笑った。
「壊れたんだ…… ぼくは父ほど目が弱いわけじゃない。もうメガネは必要ないかもしれない」
セレスはそうつぶやくカインを見つめたあと、再び口を開いた。
「トウって…… カインのお母さんなの?」
「え?」
カインは目を見開いた。
「いや…… 叔母だ。どうしてトウのことを?」
「なんとなく…… トウって人の名前が、おれ、聞こえたような気がしたから」
カインはセレスを見つめ返した。そして笑った。
「女性の姿で『おれ』『おれ』と言うのはなんだかへんな感じだな。早く元の姿に戻らないか?」
セレスは空を仰いだ。
「そうだね。アシュアとジェニファが呼んでる」
「ぼくも帰らないと。本体は地球にいるんだ」
カインは立ち上がった。
「どうやって帰るの?」
セレスはびっくりして言った。
「大丈夫。もうぼくたちは元の世界に戻ろうとしてる」
カインはセレスの足を指差した。セレスが目を向けると、下から少しずつ空中に溶けていっているところだった。
「カイン」
セレスは言った。
「おれ、女なの? 男だよね?」
カインは笑みを見せた。
「たぶん…… 今はまだケイナを守らないといけないから男なんだよ。でも、きっといつか……」
カインは消えた。
「大丈夫?」
カインが目を開けると、女が心配そうな顔をして覗き込んでいるのが目に入った。
カインは額に濡らしたタオルが乗せられているのに気づいた。彼女はずっと看病をしていてくれたのだ。
「ええ……」
カインは少し笑みを見せた。女はほっとしたような顔をした。
「良かった…… 薬が合わなかったのかと心配したわ。 悪夢にうなされているような感じだったから……」
「薬のせいか……」
カインはつぶやいた。地球と『コリュボス』の間の真空間を飛び越えて意識がケイナの中に入り込むなんて、普通ならできっこない……。
「悪い夢じゃなかったの?」
女が怪訝そうに言った。
「え?」
カインは女を見た。彼女は肩をすくめた。
「だって、何だか表情が全然違うわよ。安心したような感じだわ」
カインは笑った。
「ええ…… 悪い夢じゃなかった」
カインは起き上がって左腕をさすった。包帯が新しいものに取り替えられている。
不思議と病院を抜け出したときよりも痛みが薄らいでいるような気がした。
「ほんの少しだけど麻酔薬があったから使ったわ。『コリュボス』に着くまではもつと思うけど」
カインの表情に気づいたのか、女は言った。
「立てる? そろそろエアポートに行かないと」
カインはうなずいて立ち上がった。
セレスは身を起こしてあたりを見回した。
「セレス! 気がついたか!」
アシュアが嬉しそうに顔を覗き込んだ。
「一時はどうなるかと思ったわ」
ジェニファはそう言うとセレスの頭を抱き締めた。
セレスはしばらくぼんやりとしていたが、やがてジェニファの肩ごしに横たわるケイナを見つけて、彼女を押し退けるとケイナのそばに行った。
「大丈夫よ。術は解けてるんだけどしばらくは目覚められないと思うわ。術に逆らってあなたを助けようとしたのよ」
ジェニファはそれを見て言った。セレスは目を閉じたままのケイナの頬にそっと手を触れた。
「うん…… 知ってた」
そう答えてアシュアとジェニファを振り返った。
「ケイナだけじゃないよ。アシュアも、ジェニファも、カインも…… みんなでおれを助けてくれたよ」
「おれ?」
アシュアが目を丸くした。セレスは笑みを浮かべてうなずいた。
「アシュアの声が聞こえたよ。 ……あ、そうだ。水晶を返さないと……」
セレスは慌てて自分の手を見た。
「そうだ…… 砕けたんだっけ……」
「もう必要ないでしょ?」
ジェニファは笑って言った。
「それにしても、これからどうするかな……」
アシュアは眠ったままのケイナを見つめてつぶやいた。
「まさか、目覚めるまでここに寝かせておくわけにはいかないし……」
「これは提案なんだけど……」
ジェニファはためらいがちに言った。
「あなたたち、『ノマド』に行ったら?」
「どうやって行くの? 『ノマド』ってあっちこっち移動してるんだろ?」
セレスは面喰らったように言った。
「ここは『ノマド』の森なのよ。何年か前にふたつかみっつのコミュニティが地球からコリュボスに渡って来たって聞いたの。だからいるはずだわ。奥は結界がはってあるから普通の人間には辿りつけないんだけど、向こうは侵入者をちゃんと把握してる。ましてや術を使う者となるとなおさらよ。ここでやってたことは全部知ってると思うわ」
「じゃあ、おれたちが森の奥へ入って行ったらどこかで『ノマド』に会えるってこと?」
セレスは尋ねた。ジェニファはうなずいた。
「たぶんね。向こうが受け入れてくれれば。きっとあなたたちにはそのほうが安全よ」
「もし、受け入れてくれなかったら?」
アシュアは目を細めた。
「いやでもまた森の入り口に戻ってくるわ。でも…… ケイナがいるから大丈夫よ。彼は昔『ノマド』にいた身だもの。それに、もしかしたらセレスもね」
「え?」
セレスはそれを聞いて再び目を丸くした。
「おれが?」
ジェニファは笑った。
「ケイナに少し前に言ったのよ。詳しい話はできなかったけど、『ノマド』には緑色の髪と目を持つ人間がいたという言い伝えがあるの。『ノマド』の古いメンバーはだいたい知ってるわ」
「緑色の髪と目……」
セレスはつぶやいた。
「あんたたちは『ノマド』に帰るべきなのよ。帰ればきっと教えてくれるわ。今ここでは全部を説明している時間もないでしょう」
ジェニファの言葉にセレスは戸惑い気味にうなずいた。
アシュアはケイナを抱き起こすと苦労して彼を背負った。
「とりあえず、ジェニファの言うとおりにしたほうがいい……。いったいどれくらい歩かないといけないのかな」
「さあ…… 1時間かもしれないし、1週間かも……」
「1週間も森の中を彷徨ったら死んじまうぜ」
アシュアは仰天して言った。ジェニファはくすくす笑った。
「冗談よ。ケイナの目が覚めれば思い出して自分で道を見つけるでしょうよ。もしかしたらセレスが見つけるかもしれないし」
セレスとアシュアは顔を見合わせた。
「とにかくどこか分からないけどほかにいい考えも浮かばねえ。行こう」
アシュアはセレスにそう言うとジェニファに向き直った。
「ジェニファ、いろいろありがとう。あんたにも危ない橋を渡らせてしまった」
「気にしないで。夢がいい方向に向かってるからほっとしてるのよ」
ジェニファは笑みを見せた。その顔をしばらく見つめたセレスはためらいがちにジェニファに言った。
「ジェニファ、あなたはどうして『ノマド』から離れたの?」
ジェニファの顔が一瞬暗い翳りを見せた。彼女はあまり言いたくなさそうだったが、口を開いた。
「子供ができたのよ。『中央塔』に勤める若い男の。もう30年も前の話だわ」
「子供…… その人は……」
「もういないわ」
セレスの言葉を遮るようにしてジェニファは言った。
「子供も男も病気で死んだ。私は自分から『ノマド』を出て行ったからもう戻らないと決めたの」
セレスは目を臥せるとうなずいた。
「幸運を祈ってるわ」
ジェニファは言った。
ふたりは森の奥へと足を踏み出した。