『これで最後だ……』
 ケイナの声が頭に響いてカインははっとして目を開けた。
 今何時だろう……。左腕が脈打つように痛い。
 肩から肘の下まで包帯でぐるぐる巻きにされているが、肘から下の感覚がほとんどない。
 もちろん指を動かすことすらできなかった。
 看護婦が点滴の様子を身に来たのが午後10時だった。あれからまたうとうとと眠り込んだのだ。
「暑い……」
 カインはつぶやいた。おそらく熱が出ているのだ。
『これで最後だ……』
 再びケイナの声が頭に響いた。
 カインはようやく気づいた。
 そうだ……。 暗示が発動したのだ。ケイナは『ライン』を出てしまった。
「まさか……」
 カインは薄明かりのつく病室の天井を凝視した。
 まさか、ユージーが『ライン』から行方不明になってるっていうことはないだろうな……。
 目を閉じると禍々しい赤い点や渦巻くような黒いしみが目の前を駆け巡り、カインは呻いて再び目を開けた。
 すると、ほんの鼻の先で誰かが自分を覗き込んでいたので、思わず小さな悲鳴をあげた。
「ケイナ?!」
 カインは仰天した。輪郭がはっきりしないが、明らかにケイナだった。
(あのとき死んでいればこんな思いをせずに済んだのに……)
 闇の中のケイナは言った。
 カインは震えあがった。これはなんだ? 亡霊か? こいつはケイナ自身じゃない。ケイナに巣食うもうひとりのケイナだ。
(おまえはおれが欲しいんだよな……)
 闇の中のケイナが白い手を伸ばしてきた。
 カインの首を両手で包み込んだ。そして自らの顔をよせてきた。
「やめろ……!」
 カインは小さく叫んだ!押し退けようとしたが体が全く動かない。
(なぜ……? こうしたいとずっと願っていたんじゃなかったのか?)
ケイナはあざ笑うように言った。
「やめろ!!」
 カインは無我夢中で動く右手で空中を払い、身を起こしていた。
 体についていた心拍を計測する電極が外れた。
 カインは肩で息をつきながら悟った。彼らはまだ逃げのびている。トウの手中にない。
 3人はもう一度催眠であのケイナと戦うつもりだ。
 カインは右手の甲についていた点滴を苦労してスイッチオフし、針を抜いた。
 片手が使えないのは辛い。
 よろめきそうになるのをこらえてベッドからおりると、病室のドアの脇に身を潜めた。
 すぐに看護婦が慌ただしく入ってきた。
 入った瞬間にカインは後ろから右肘で彼女を強打した。看護婦の体は床に崩れ折れた。
 荒い息をついて倒れた看護婦をしばらく見つめると病室を抜け出した。
 廊下には幸いにも人影はなかった。
 ほかの人間が異変に気づくまでどれくらいの時間猶予があるだろう。
 3分か、5分か……?
 ここはいったい何階なんだろう。
 カインは天井の監視モニターに気をつけながら、すばやく近くの非常階段へ続く扉の奥に身を滑り込ませた。
 壁を見ると58階と表示してあった。腕が燃えるように痛んだ。
「どこかに所員のロッカールームがあるはず……」
 カインは荒い息の下でつぶやいた。病衣のままでは外に出られない。
 おぼつかない足どりで彼は階段を降り、下階へ続く扉を開けて外を伺った。
 幸いに人気(ひとけ)はない。
 カインは目の前に見えるロッカールームに向かい、周囲をうかがって中に入るとそこにあった手近なロッカーに手をかけた。
 当然のことながら鍵がかかっている。本人がいなければ開くことができない。
「思い出せ…… こういう場合はどうすると教わった……」
 カインは薄れそうになる意識の中で必死になって記憶を探った。
 ここで気を失うわけにはいかない。そのとき、背後でドアが開くのが分かった。
「誰だ、おまえ……」
 その言葉が終わる前にカインは再び相手に強烈な一撃を与えていた。
 今度はさすがに相手が倒れると同時に自分も床に膝をついた。
「誰かをぶん殴って盗む、という手がある…… か……」
 カインは苦しい息の下でつぶやいた。
 こんな体でもつのだろうか……。
 不安だったが、カインは倒れた男を苦労して仰向かせ、胸の所員証明を見た。
「ハロル・ベッツ……」
 カインはそうつぶやくと、相手の胸のポケットをまさぐり、ロッカーの認証カードを抜き取った。
 名前を掲げてあるロッカーに近づき、認証カードを差し込んだ。
 彼がカードキーではなく虹彩か指紋認証をしていたらアウトだったが、幸いにもロッカーは音もなく開き、カインは適当に男の私服を取り出すと病衣を脱いで着替えた。
 左手が使えないのは不自由きわまりなかった。脱いだ病衣はロッカーに入れた。
 そして再び倒れている男に近づいて胸の所員証明を外し、それを自分の胸に苦労してつけた。
 最後に男の通勤用の靴を履いた。サイズが合わなかったが歩くのに支障があるほどでもない。
「リィの息子、窃盗を働く……」
 カインは顔を歪めた。トウが知ったらどうするだろう。
 カインはロッカーを見回して、ヴィルのキイとプライベ-ト用の小型通信機を見つけると、それをポケットに入れロッカーを閉じた。
 床に落ちていた男のかかえていたらしい本を取り上げた。胸の所員証明に写真がついているので、これでも抱えて隠しておかなければならない。
「生きてたらまた返しに来るよ……」
 カインは倒れている男にそうつぶやくと、ロッカールームをあとにした。

「カイン?!」
 いきなり入った通信で仰天したアシュアの声に、ケイナとセレスが思わず身を乗り出して彼の腕を覗き込んだ。
 3人はプラニカに乗り込んだばかりだった。
「カイン、無事だったんだ!」
 セレスが嬉しそうに言った。
「今どこにいるのかと聞いてる。無事だったら返信しろ、と……」
 アシュアはケイナに言った。
「あの傷じゃ、動けるはずがない」
 ケイナはつぶやいた。
「こりゃ…… 発信元は地球だぜ…… 届くかな……」
 アシュアは呻いた。
「おれたちは生きてる…… それだけ…… 返信しよう……」
 ケイナは言った。アシュアは何か言おうとしたが、思い直してケイナの言うとおり返信した。
「あとは通信機の電源を切っておいたほうがいい」
 アシュアはやはり無言でそれに従った。
 セレスはふたりのやりとりを黙って聞いていた。
 ケイナは来るなと言いたいのだろう。
 カインの傷がまだ癒えていないことはセレスにも分かっていた。
 アシュアはプラニカのエンジンをかけ、勢いよくガレージから滑り出てすぐに上昇した。
 セレスは眼下に小さくなるアルのコテージを見た。出る前にアルにメールを送った。
『ありがとう。アル、トニ。必ず帰るから』
 それだけを送った。
 きっとアルもトニももっといろいろ聞きたいだろうが、詳しく送るわけにはいかなかった。
 万が一ここに誰かが来てチェックするか、アル自身が尋問を受けないとも限らないからだ。
 横に座っているケイナを見ると、厳しい表情で外の景色を眺めていた。
 アシュアも押し黙ったきりだ。
 このあとどうなるかなど、誰も予想ができなかった。

 コテージの区域を過ぎたとき、ふいにケイナが窓に顔を近づけた。
「警備のプラニカが来る」
 ケイナは言った。セレスはびっくりして反射的に後部の窓に目をこらした。
 ぽつりと小さな光る点が後ろにある。それはぐんぐんスピードをあげて近づいてきた。
「何台来てる?」
 アシュアが言った。
「1台。おれには1台しか見えない」
 ケイナはそう言ってセレスの顔を見た。セレスはうなずいた。
 そのとき、運転席の下にあった小さなスピーカーから男の声が響いた。
「認証ナンバーRRTV345、こちら夜間警備部隊23、そちらの走行目的を確認したい。3キロ先のハイウェイに停車されたし」
「どうする」
 アシュアは言った。
「はいそうですか、って停まるわけにはいかないだろう……」
 ケイナは言った。
「だけど、こっちにゃ何の武器もないぜ」
 アシュアは言った。
 ケイナは無言で足元から直径3センチほどの金属製の棒を持ち上げた。長さが1.5mほどある。
「なにするの、そんなもの……」
 セレスは仰天してケイナを見つめた。
「出るとき、倉庫から持ってきた。何かの部品だと思うけどもしかのために必要になるかもしれないと思って。アシュア、ナイフを貸せ」
 ケイナは靴紐を急いで解き始めた。
「何をするつもりだ?」
 アシュアはちらりと後ろを振り向いて言った。
「大丈夫。左手は使わない。早くナイフを貸せ」
 セレスは困惑気味にアシュアを見た。
「大丈夫だから、早く!」
 しかたなくアシュアは渋々ケイナにナイフを渡した。ケイナは靴紐でたったひとつの武器であるナイフを鉄棒の先にゆわえはじめた。
「まさかとは思うけど」
セレスは顔をしかめた。
「もしかして、槍でもこさえて、それを投げるつもり?」
「そのまさか」
 ケイナは平然として答えた。
「なにぃ?」
 アシュアが仰天した。
「どこに投げるつもりだ? あっちのプラニカは軍仕様に装甲車になってるぞ。そんなもん通用するか!」
「向きを変えてウエストタウンのほうに向かえ。致命的なダメージは与えられっこないから、せめて方向だけでも撹乱しておく。おれが合図をしたら、後ろのプラニカに向かって全速力でバックしろ。スレ違いざまにこいつをフロントガラスに投げる」
 ナイフを結び終えるとケイナはアシュアの言葉を無視して言った。
「そんな、無茶だ!」
 アシュアは冗談じゃない、といった顔で怒鳴った。
「一歩間違えたらおまえは向こうのプラニカに激突するぞ!」
「ここで、捕まるわけにはいかないだろう!」
 ケイナは怒鳴った。そして今度はセレスに顔を向けた。
「ドアを開けて身を乗り出すからおれの腰を押さえてろ」
「そ、そんな……」
 セレスは震える声でケイナを見た。しかし、ケイナは動じなかった。
「タイミング読めよ。おれが中に逃げ込むときに押さえつけんなよ」
「ケイナ、それは……」
 アシュアが再び口を開こうとしたとき、ケイナはプラニカのドアを持ち上げた。
「アシュア!」
 ケイナは怒鳴った。アシュアは舌打ちをしてプラニカを旋回させた。
 ケイナはそれを見るとセレスの顔をもう一度見た。
「分かってるな」
 セレスには答えることができなかった。 ケイナは返事を待たずに怒鳴った。
「アシュア!バック!」
 彼は即席の槍を手に上半身を外に出した。セレスは慌ててケイナの腰にしがみついた。
 アシュアは唇を噛んでバックするためのレバーを押し、アクセルを一杯に踏んだ。
『認証ナンバーRRTV345、要請に応じ……』
 スピーカーからきいんという音が響き、次の瞬間にはケイナはプラニカの中に転げ込んでいた。
 プラニカのドアが勢いよく閉まる風圧でアシュアの耳に風が届く。
「やりやがった……」
 アシュアは前方で落下していくプラニカを見てつぶやいた。
 フロントガラスが割れているのが一瞬見てとれた。
「少し切った……」
 彼は頬を押さえてつぶやいた。長い傷が頬からこめかみにかけてついていた。
 セレスが小さな呻き声をあげてケイナに抱きついた。ケイナはそれに抗う気力すら残っていないようだ。
「なんとか墜落は免れたらしい」
 アシュアははるか後方になってしまった相手のプラニカを確認しながら言った。
「寿命が縮まったぜ。あんなナイフがなんで突き抜けたんだ……」
「あのナイフ、どこのか分からないけど、あっちのフロントのよりは強い素材だと思った」
 ケイナは目を閉じた。
「靴紐でゆわえただけだったけど、ナイフだけを接近して投げるよりまだ安全だと思った……」
 アシュアはぞっとした。確かにあれは『ビート』のメンバーが持っていた仕様だが、どうしてそんなことを思いつくんだ?棒まであらかじめ用意しやがって……。
「そんなこと、どうだっていいよ!」
 セレスはケイナにしがみつきながら叫んだ。
「もし、失敗したらどうすんだ! おれがタイミング間違ったらどうすんだよ!!」
 セレスはそこで大声をあげて泣き出し、あまりのことにアシュアは思わず「マジかよ」と呟いた。
 これで『ライン』の軍科に入っていたのだから驚きだ。
「失敗しなかったし、タイミングも間違えなかったじゃないか」
 ケイナは疲れ切った声で言った。
 きっと出せる力の最大限を出したからだろう。それでもミラー越しにアシュアに見えた彼はかすかに笑みを浮かべていた。
「おれは全然心配してなかったよ……」
 ケイナは言った。
「ナイフももう、手元にないほうがいい……」
 ケイナはセレスの背に手を回して窓の外に目を向けた。