Toy Child -May This Voice Reach You-

 ハルドは目の前にある食事に全く手をつけようとしないセレスに困惑の目を向けた。
 丸一日、セレスは食べ物を受けつけなくなっている。無理に食べさせると全て吐いた。
 栄養価だけを重視した携帯食ばかりだから食欲は出ないだろうが、唯一もって来た半ドライフルーツすらも口にしなかった。
 水分がとれているのだけが救いだ。ミネラルウォーターにビタミン剤を混ぜて飲ませた。
 ケイナもあまり食べていない。それでも吐くということはないから無理矢理口に入れているような感じで、相変わらずユージーとモニターを睨みつけている。
 若いふたりは経験が足らず、見ているとひどく非効率なことをするときがある。
 疲れからかケイナの判断力も鈍っているようで、ハルドはふたりの様子とセレスの両方を交互に見て声をかけてやらなければならなかった。
 モニターを見ていたケイナが息を吐くと顔を伏せて両手で自分の目を押さえた。
「休んでいいぞ」
 ユージーが言った。丸一日ぶっ通しだ。ユージーの顔にも疲労が浮かんでいたがケイナほどではない。
 ケイナが疲れるのは頭の中の声のせいだ。
 どんどんうるさくなってくる。狂ったように呼んでいる。
 ハルドの頭に響くよりも、ケイナとセレスの頭に響く声のほうがはるかに大きいだろう。ふたりが食欲を無くしているのはそのせいだ。
 前のようにモニターの中から出て来るようなことはなかったが、気にしないようにすればするほど声は大きくなるように思えた。
「顔、洗ってくる」
 ケイナは立ち上がった。
「ちょっと横になれよ。もうあと少しで特定できるから。あとはこっちでやる」
 ユージーは言った。ケイナは曖昧にうなずき、セレスの座るテーブル脇を通って置かれたままのドライフルーツのボウルに目をやった。
 ボウルに手を伸ばすと何気ないふうにベリーをひとつ取り、セレスの口元に持っていった。
 それをセレスが何の躊躇もなく彼の手からぱくりと口に入れたとき、ハルドは脱力感に見舞われた。
 わずか数秒、ケイナはほんのちょっとしか足を止めていなかっただろう。
 自分の心配など、何の役にも立たない。やれやれ……。
 髪を少し濡らしたまま戻って来たケイナにハルドは声をかけた。
「ケイナ。ちょっと気晴らしに外に出て来い」
「え?」
 ハルドの言葉にケイナは怪訝な顔をした。
「でも……」
「こっちの手は足りてるよ」
 ユージーが顔を振り向けずに言った。
「船の中に何日もいたら気も滅入る。行って来いよ」
 ケイナは無言で困惑したような表情を浮かべた。
「船の後部に氷上用のジープを積んでる。プラニカの運転ができたら大丈夫だ。そんなに難しくはない」
 ハルドはそう言って携帯食のスティックと、ドライフルーツの箱を突き出した。
「悪いけど、連れ出して食べさせて」
 セレスのほうに顔をしゃくってみせるハルドに、ようやく彼の真意を悟った。
「はい」
 しかたなくケイナがそう答えると、ハルドは少しほっとしたような顔をした。
 連れだって出て行くふたりを見送っているとユージーが笑みを浮かべてハルドを冷やかした。
「娘をとられた父親みたいな顔をしてますよ」
「そんな気分なんだから、しかたないよ」
 ハルドは苦笑して答えた。
「両親が死んでから一緒にいた時間はわずかなんだけど、ぼくもあいつのことには相当気負って来たしな……。顔さえ見れば兄さん兄さんって頼りっぱなしだったのに、いつの間にかぼくじゃなくなってる。……なんか、寂しいね。歳が離れてるから余計そう思うのかな」
 ユージーは手を止めて少し躊躇したあと、ためらいがちに口を開いた。
「アライドで…… お聞きになっているんですか?」
 ハルドはユージーを見てうなずいた。
「聞いてるよ。本当はケイナの方がぼくは近い。親子とまではいかないんだろうけれど。ケイナは知らないみたいだから、言うつもりはないよ」
「いずれ、知ることになりますよ」
「いいじゃないか」
 ハルドは答えた。
「あのふたりにとっては、自分たち以外に誰と誰がどういう関係かなんてどうでもいいことだろう」
 ユージーはそれを聞いて小さく頷いた。ハルドは大きく息を吐くと腰をおろした。
「『ライン』での最初の休暇のとき、セレスが彼を家に連れて来てね。正直言ってびっくりしたよ。セレスみたいなロウライン生と、どうしてこんな子が休暇を一緒に過ごす気になったのかと思って。ハイライン生とロウライン生の壁はけっこう厚かったはずだ。時代が変わったのかと思った」
「そりゃ、驚きだ」
 ユージーは笑った。
「まあ…… つるんでるやつはいるにはいたけれど、自分はできれば休暇のときは『ライン』から離れたかったな……。特にケイナがロウライン生の誘いに応じるとはとても思えない」
「家に帰ったら、ぐうぐう寝てたんだよ」
 ハルドも笑った。
「疲れきってたな……。荒んだ、怯えたような顔をして……。今見たら表情が全然違うから、よっぽどセレスと一緒にいたことが彼にいろんな影響を与えたんじゃないかと思う。セレスも変わったよ。甘えた顔は彼にしか見せないな。信頼してるんだろう」
「おれも全部カタついたら、嫁を探すかな…… 面倒臭いカートの家に来てくれる人がいるのかどうかは知らないけど」
 ユージーは冗談めかしてそう言うと頬杖をついた。
「そもそも、カートが生き残れるかどうかも分からないけど」
「尽力しますよ。ご子息。お父上にはいろいろよくしていただいた」
 ハルドの言葉にユージーはびっくりしたような目をハルドに向けた。ハルドはそれを見て笑みを浮かべた。
「それはこちらがお願いすることです」
 ユージーは目をそらせた。
「何の地位も権威もないなどおっしゃらないでいただきたい。クレイ指揮官、あなたはおれがどんなに努力してもたどり着けないほど上にいる方だ」
 ハルドは目を背けて少し俯いたきり、何も言わなかった。

「外に出ると声が聞こえなくなった……」
 セレスは嬉しそうにつぶやいた。
 しばらくジープを走らせて運転に慣れた頃、ケイナはふたりの間に置いたドライフルーツの箱から片手で小さな粒をひとつ取り出してセレスの顔の前に持っていった。
「気分良くなったんなら食え。ハルドさんが心配してた」
 セレスは手で受け取ると自分で口に入れた。
 しばらくすると、また何もしないでぼうっと外を眺めているだけなので、再び口の前に持っていってやった。
 嫌そうな顔をしたので、無理矢理口に押し込んだ。
 見渡す限り平坦な氷の世界だ。スピードを落してゆっくり走っていると声が聞こえなくなったせいもあってどっと疲れが襲った。
 ケイナはふわりと出た欠伸とともに眠気を感じた。運転が危なそうな気がしたので、しばらくして停めた。
 燃料も十分だし暖房も万全だ。丸一日眠ったところで死ぬことはない。
 もっとも丸一日帰らなければハルドは探しに来るだろう。
 セレスの顔をちらりと見て、またフルーツをとりあげた。
 なんで食べられないんだろう。
 口の前に持っていってもそっぽを向いているので、諦めて自分の口に入れようとしたとき、セレスの手が自分の腕を掴んで指にかぶりついたのでむかっとした。
「自分で食えよ! ガキじゃあるまいし!」
 途端にセレスは悪戯っぽく、くすくす笑った。セレスが笑ったのを見たのは久しぶりかもしれない。
「お腹減った。食べられそう」
 セレスはガサガサと簡易食のスティックの袋をあけた。ケイナは呆れたようにそれを見ると、座席を後ろに倒した。
「おれ、寝る。二時間たったら起こして」
「うん、分かった」
 セレスは答えた。
 静かだった。聞こえるのはジープのエンジン音だけだ。
 どれくらい時間がたったのか、セレスは袋をひとつからにして、フロントガラスから外を見た。
 北極圏ってオーロラが見える。でも、今は夏だからきっとだめなんだな……。そう思った。
 横のケイナに目をやると、すでに静かな寝息をたてていた。
 ゆっくり眠るのは何日かぶりかもしれない。
 ごめんね、ケイナ。
 心の中で詫びた。
 わがまま言ってごめん。
「ケイナのことが好きだ……」
 座席に身を沈めてつぶやいた。
「おれ、ケイナが大好きだ」
 もう、言ってもいいよな。どうせ寝ちゃってるし、聞こえないんだし。
 と、いうか、もうさんざん言ってたかな。
「一緒にいたい。ずっとそばにいたい。どこにも行かないで」
 二流の恋愛ドラマみたい。セレスは指を折ってつぶやいて笑った。
 これだけ言ってて、今さら好きとか嫌いもないか。
「初めて会ったときは、すっごく嫌な人だと思ったよ……」
 『ライン』の見学会で会ったケイナは居丈高で無愛想で怖かった。
「嫌で怖くて、それが何となく寂しそうで、辛そうで、そう見えたのはいつだったっけ」
 声をたてて笑わない。
 人を見るときの冷たい視線。砕かれた左手……。
 アシュアとカインを見る目だけはほかとは少し違っていて、それが羨ましかった。
 優しい目で見て欲しかった。自分を見て欲しかった。
 今思えばそれがきっと本音だっただろう。
 カイン、アシュア、今頃どうしているだろう。アシュア、助かってるよね。
 『グリーン・アイズ』の女の子……。怒っている女の子。
「だめだよ。もう、だめだ ……一緒にいたいんだ」
 セレスはぼんやり外を眺めながらつぶやいた。
「ケイナを好きなんだ……。連れていかないで……」
 途端に手が伸びて来たので、仰天した。
「ひとりでぶつぶつ、ぶつぶつ……」
 ケイナが怒ったような顔をしてセレスの顎を掴んでいた。
 ヤバイ、起きてたんだ……。セレスの顔に血が昇った。
「だから、こういうのは気が進まなかったんだ」
 ケイナは吐き捨てるように言った。
「人の気も知らないで。おれは男なんだぞ」
 男だからなに。
 かすかな恐怖が浮かんだ。『ノマド』で垣間見たケイナの大人の顔。
 怖い。怖いのに抗えない。
 ケイナの顔が寄せられると、ミントの香りがしたような気がした。
 どうしてミントの香りがするんだろう。
 泣きたくなった。
 ケイナ、治療が終わってない……。まだ全部済んでないんだ……。
 切ない予感に反して、ケイナが身をこわばらせた。
 その緊張が伝染したかのようにセレスもびくりと身を震わせ、ふたりで同時にフロントガラスに目を向けた。
 心臓が動悸を打ち始めた。さっきとは違う、恐怖の音だった。
「ケイナ……」
 セレスは思わずケイナにしがみついた。
 緑色の長い髪を垂らして、『グリーン・アイズ』の少女はジープの前に立っていた。
 むき出しの白い素足に薄い白い服。こんな寒いところでそんな姿で立てるはずもない。
 幻覚と分かっていても彼女の姿はリアルだ。落ち窪んだ緑色の目がこちらを睨みつけていた。
 ケイナが腰に刺した剣の柄に手を伸ばすのをセレスは見た。
「心配すんな」
 ケイナが言った。
「こいつだけは許さない。おまえを守るときに、おれは正気を無くさない」
 怒りの形相で『グリーン・アイズ』の少女がフロントガラスに飛びかかって来た。
「ケイナ、そこにいるか?」
 ハルドの声が聞こえた途端、バシャリとバケツでぶちまけたようにフロントガラスに赤い水が散った。
 セレスがすさまじい叫び声をあげたので、ケイナは慌てて彼の口を手で塞いだ。それでもセレスは目を見開いて叫び続けている。
 『グリーン・アイズ』の少女がフロントガラスにぶち当たって潰れた……。
 そうとしか思えない光景だった。
「どうしたっ!」
 ハルドの警戒した声が響いた。ケイナは自分の顔からも血の気が引いているのを感じながら周囲を見回し、運転席の片隅の小さな画面にハルドの姿を見つけた。
「なんでも……」
 返事をしようと思ったが、声がかすれた。ケイナは乾き切った口を閉じて、ない唾を飲み込んだ。
「なんでもない……。彼女が現れた。びっくりしただけだ」
 ハルドの顔が当惑の表情になった。セレスはようやく叫ぶのをやめたが、ケイナにしがみついたまま震えている。
「ハルドさん、フロントガラス、洗うのどうしたらいいのか教えてください。 ウォッシャー、どこ……」
 ケイナは真っ赤になったまま前の見えないフロントガラスを見て言った。
 本当にこれ、幻覚なのか?
 ちくしょう…… なんで…… なんでこんな醜悪な…… こんなイメージを送り込んで来るんだ!
「フロントガラス? 何したんだ」
「早く、頼みます」
 早く流さないと、セレスは気が狂ってしまうんじゃないか。ケイナは本気でそう思った。
 セレスの震えが自分の腕に伝わってくる。痙攣でも起こしているかのような震えようだ。
「運転席の左にW2というスイッチがある。それを押すと勝手に清掃してくれる」
 言われたスイッチを探す自分の指がかすかに震えていたが、ケイナはようやくそれを見つけて押した。勢い良く不凍液が吹き出し、その音にセレスがまた大きく身を震わせた。
 流れていく赤い血の向こうに、まだ彼女の顔があるような気がしてケイナは思わず目をそらせた。
 実体がないはずなのに赤い色が流れていく。あんまりだ。
「大丈夫か」
 ハルドの声にケイナはうなずいた。
「大丈夫……。セレスはまだ興奮してるけど……」
 画面の向こうのほうにユージーが険しい顔をしているのが映っている。セレスの叫び声はきっとあっちにも筒抜けだっただろう。
「今、ジープの停まっている場所をこっちで確認しているんだが、28・36、これがそっちでも表示されてるか? 運転席の左手にあるんだが……」
 ハルドの言葉にケイナは表示板を探し、数字を見つけた。
「あります。……28・36……」
 ハルドは画面の中でうなずいた。
「20分くらいでそっちに行く。そのまま待っててくれ」
「運転できる。こっちから戻るよ……」
 ケイナが言うと、ハルドは首を振った。
「戻ってもまたそっちに行かないといけない」
 思わず緊張が走った。嫌な予感がする。
「場所が特定できた。そこから1キロ南だ」
 ケイナはくちびるを噛み締めた。『グリーン・アイズ』に誘導された……。
 そうとしか思えなかった。
 やみくもにジープを走らせていたつもりだった。当てなんかない。
 だのに。1キロ先なんて、ほとんど真上だ。
 腹立たしさと同時に恐怖が湧いた。自分で意識しないのに、彼女の思惑通りに動いている。
 そしてそれが、かつて自分がばらまいていた彼自身の暗示の力と変わりがないことに気づくのにさほど時間はかからなかった。
「いいか、動くなよ。すぐに行くから」
 口早にそう言ってハルドが画面から消えた。
「ケイナ……」
 ジープのエンジン音だけが響く中で、セレスがまだ震えの止まらない顔をあげてケイナを見た。
「会うの? あの子に会う?」
 会わなきゃ、ここに残ってた意味ねえじゃねえか。
 そう思ったが、口に出して言えなかった。この不安はなんだろう。
「おまえ、どうしたい?」
 ケイナが言うと、セレスは顔を歪めた。
「分からない。会いたくないかも…… でも、会わなきゃいけないよね」
 セレスの細い指に目を向けて、ケイナは無意識にその指に自分の指を絡めていた。
 握り返すセレスの指の感触を感じて、初めて自分も途方もなく震えていたことに気づいた。
 怖い。こんなに恐怖を感じたことはない。
 幻覚を飛ばし、こっちを怖がらせることができても、眠っている彼女には実際に誰も殺めることはできない。
 ただ、どんどん不安に陥れて自分の望む方向に人を動かすことはできるんだろう。
 いったい今までどれだけ彼女の暗示を受け入れて来たんだろう。
 どれが彼女の望みで、どれが自分の意志だったんだろう。
 セレスの大きな緑色の目を見た。吸い込まれそうな色だ。
 そのうちセレスを殺してしまう。そんな気がしていた。
 いつか自らの命を断つ予感がしていた。
 でも、どうしてセレスを殺さなくちゃならない?
 どうして自分が死ななきゃならない?
 どうして?
 ケイナはセレスの手を振りほどくと、ふいにジープのドアを開けて外に出た。
「どうしたの?」
 セレスが不安な声をあげたが、ケイナはそれには答えなかった。
 ジープのフロント部分の地面を見た。
 不凍液に勢い良く流された赤い水が本当ならば、ジープの下の氷は赤く染まっているはずだった。もちろんそんなことがあるはずがない。幻覚は幻覚だ。
 不凍液のかすかな青い色だけが氷の上に散っていた。
 顔をあげて周囲を見渡した。
 何にもない、氷の世界が広がっている。日の光に反射して、美しいとさえ思えるこの世界。
 このわずか1キロ南の足元に、彼女は眠っている。
 吐く息が白く流れていった。
 おれは途方もなく長い時間、彼女の声を聞いていた……。
 気づくこともなく、何年も、何年も…… 彼女の暗示を受け入れて……。
「ケイナ、どうしたんだよ……」
 少し声を震わせながらセレスがジープから降りて来た。
「中に入らないと凍えるよ」
「……遅すぎたよな……」
 ケイナは顔を振り向けずにつぶやいた。
「なに……?」
「死にたいと思ったこと、ある?」
 セレスはいったいどうしたのかという表情でしばらくケイナを見つめたが、やがて首を振った。
「……ないよ」
 答えて、しばらくケイナを見つめたのち、もう一度言った。
「ないよ」
 ケイナはちらりとセレスの顔を見て再び目をそらせた。
「ケイナはそう思ってるの?」
「思ってたよ……」
 そう答えて吐いたケイナの白い息がかすかな風に乗った。
「生きたいと思うと死にたくなる。死のうと思うと生きたくなる。ずっとおんなじところをどうどうめぐりしてた」
「ケイナの周りにはいっぱい心配してくれる人がいるじゃない。……ケイナ、そういう人たちのこと、大事って思えないの?」
 寒さのためか、まだ恐怖から立ち直れていないのか、セレスは震えながら言った。
 大きな目がケイナを見上げた。
「少なくとも、おれはケイナが死んだりしたら悲しいよ。辛いよ。おれがそう思うだけじゃ、ケイナは生きようって思ってくれないの?」
 ジェニファは何と言っていたっけ……。

 ――あの子を大切にするのよ。離れてはいけない――
 ――あの子はあなたの剣となり盾となってあなたの力になると思うわ。だからふたりでいつも一緒にいなければならないの――

 彼女の言った、謎解きのような言葉は、ずっとカンパニーのことだと思っていた。
 剣となり、盾となることは、自分がセレスを傷つけることだと思っていた。
 『みんな同じ地球一個分』と言っていたのはアシュアだ。
 セレスを信用することがふたりで生きて行く第一歩と言ったのはトリだ。

 ――怖がらずにふたりでちゃんと生きていけよ。おれたちがここにいるのは間違いじゃない。この星は無駄な命を作らない。例え作られた命でも生きてるってことは 生きなきゃならないからってことだ――

 ユージー……。
 みんなが教えてくれていたのに、どうしてちゃんと聞こうとしなかったんだろう。
 彼女は長い間呼んでいたのかもしれない。でも、受け入れてしまっていたのはおれだ。
 禍々しい幻覚は…… 彼女の願いに引きずられていたおれと彼女がつくり出したものだったのかもしれない。
「ケイナ…… 大丈夫?」
 心配そうに顔を見上げるセレスの顔にちらりと目を向けたあと、彼が空に目を向けたので、セレスもその視線を追って、そこに兄とユージーの乗った機を見た。
「中に入ろう」
 ケイナが促したので、セレスはしかたなくうなずいた。
 ケイナはどうしちゃったんだろう。
 ケイナ、おれ、ケイナに死んでもらいたくないよ。一緒に生きようよ。生きたいよ……。
 不安が拭い切れない。
 先にジープに乗り込もうとしたとき、ケイナがふいに呼んだ。
「セレス」
「……?」
 振り向いた時、彼の唇が自分の唇に押しつけられたのを知ってドアの端を掴もうとしていた手が滑った。
 氷の上に転がり落ちる前にケイナがセレスの腕を掴んだ。
 自分の身に起こったことを理解できずに呆然としたまま彼の顔を見上げたセレスは、さっきとは違うケイナの表情を見た。
 なんだろう。
 これまでずっとケイナの目はずっと遠くを見ているような感じだった。
 それに慣れてしまっていたけれど……
 初めて視線が合った……。

 ―― ケイナ ――

 頭の中で声がする。

 ―― イデンシ ――

「遺伝子なんか、くそくらえ」
 ケイナはつぶやいた。
 自分の部屋に戻ったとき、モニターがまだ文字をスクロールしていたのでカインは途方に暮れた。
 それと同時に冷たい感覚も背筋に走る。
「人の島……」
 カインはモニターの前に立ってつぶやいた。
「北緯72度、西経40度。行くよ。……でも、今すぐは行けないんだ……。やらないといけないことがある」
 ぴたりと画面が止まり、ぷっつりと何も映らなくなった。
 そうだ、モニターのスイッチは切っていたんだっけ……。
 カインは息を吐いて椅子に座り込んだ。
 何をそんなに必死になって北極圏に呼ぼうとしているんだろう。
 ふと思い出して持って帰ったユージーからもらったバングルを取り出した。
 やはり何も映らない。
 でも、きっとあの「人の島」に何かがあるのだろう。
 持っていた分厚い紙束をデスクの上に置き、椅子を回して後ろの窓に目を向けた。日はとっくに暮れて、町中小さな光の粒に包まれていた。
 北極圏に行くにはどうすればいいだろう。普通の装備じゃ無理だ。それにぼくは航空訓練を受けていない。アシュアなら何でもできただろうけれど……。
 アシュア…… きみと組めなくなったらこんなにも心細い。
 なんだか情けないな。こっちに戻ったら、相談できる人がひとりもいない……。人はこんなにたくさんいるのに。
 ちかちかと時折またたく光の粒をカインはぼんやり眺めた。
 ユージーは帰ってしまった。カートはもうぼくに協力はしないだろう。
 『ノマド』は? 無理だ。どうやって連絡を取る。
 リィの権威で動かすことのできるフライトライン。たくさんあるだろうけれど、まず誰に相談すればいいだろう。
 息を吐いてこめかみを押さえた手を外し、再び目をあげたときぎょっとした。
 自分の横に誰かいる。
 暗いガラスに自分の座る椅子に寄り添うように立つ少女の姿が映っていた。
 彼女の長い髪の感触が自分の顔の横に実体のようにさらさらと感じられる。顔を向けても何もいないと分かっていてもカインは身動きすることができなかった。
 少女は少し顔を俯かせてこちらを向いていた。なんだかセレスに似ている。
「何が…… 言いたいの」
 カインはかすれた声で言った。
 きれいな子だった。可哀想なほど痩せて頼りなげだが、その姿は美しかった。
「きみは…… 『ノマド』に行った『グリーン・アイズ』の娘なの?」

 ―― オトウ……さぁん…… ――

 弱々しく悲しそうな声が聞こえた。

 血が止まんない……。
 一生懸命手で押さえても、あとからあとから吹き出してくる。
「いい…… から」
「良くないよぉ……」
 涙が頬を伝わってどんどん流れる。お父さん、死なないで。
「おまえしか…… 止められなかったんだから……」
「なんで……」
 鼻をすすって、服の袖で顔を拭った。
「嘘だよ。わたし、お父さんに死んで欲しいって思ってなかったよ。でも、言っちゃったよ……」
 どうしてあんな言葉を口にしてしまったんだろう。
 どうしてお父さんに『ノー』なんて言っちゃったんだろう。
「下が…… 上……」
 血で真っ赤に染まった父の指が震えながら動いた。
「……を止める…… んだ……。 そう、いう、運…… 命…… なんだ……」
「なんのこと? 運命ってなに? お父さん、死んじゃいやだ」
 父の目はもう自分を捉えていないことを知りながら、それでもまだ助かって欲しいと思っていた。
「そう…… 言って…… た……。 思い…… 出した……。 だか…… ら……」
 声をあげて泣いた。
 お父さん、お願い、死なないで。わたしをひとりにしないで……。
 冷たくなった父のそばにどのくらいいたのか覚えていなかった。
 顔をあげると何時間か前には活気に溢れていたはずのコミュニティには誰もいなかった。
 みんないなくなっちゃった……。
 寂しい……。
 下が上を殺す運命?
 そんなのわたしは望んでない。
 父は美しかった。きらきらと光る緑に目でいつも穏やかな笑みを浮かべて優しかった。
 その父を殺すことをわたしは望んでなんかいなかった。
 父のそばにまだ転がったままの小さなナイフに目を向けたあとふらふらと立ち上がり、そのままコミュニティをあとにした。
 どのくらい森の中をさまよったか分からない。
 気がついたら、森を抜け出て何にもない荒れた地を素足で歩いていた。
 ドームや森から離れ過ぎると死んでしまうよ、と誰かが教えてくれていたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
 水も飲まず、食べ物も口にせず、長く歩き続けたあと、ぐったりとして地面に横たわった。
 わたしはここで死ぬの。
 それがいいの。
 目を閉じて、もう、これで泣くことはないと安心した。
 静かな時間を破ったのは、船のエンジンの音だった。
 顔をあげると目の前に大きな船が降り立ったところだった。
「いい子だね。助けてあげるよ。もう心配しなくていい」
 目を凝らしたけれど、誰が言っているのか分からなかった。
 助けてなんか欲しくない。わたしはお父さんのところに行きたいの……。
 そう思ったけれど、乾いた口は言葉を発してくれなかった。
 抱えあげられたとき、弱った体が悲鳴をあげるかのように痛んだ。
「名前はなんていうの?」
 名前……。お父さんがつけてくれた。大好きな名前だった。
「……ナ……」
「え?」
 口元に誰かが耳を近づける気配がした。
「ケイ…… ナ……」
「そう」
 しばらくして誰かが言った。
「いい名前だね」
 お父さんが好きだったの。
 『ノマド』の笛なの。“神の笛”……
「ゆっくりお休み、ケイナ。もう、何も心配することはないよ」

 我に返らせたのは、ドアをノックする音だった。
 自分の心臓の音が自分の耳にも響く。
 カインは肩で息をして立ち上がり、頬が涙で濡れていることに気づいた。
 ケイナ……。
 彼女の名前もケイナだったなんて。
 そうして彼女はそのまま眠りについたんだ。彼女の願いとはほど遠い眠りに。
 顔を拭ってドアに目を向けた。
「はい」
 返事とともに入って来たのは、食事を運んで来たメイドだった。
「どちらにお運びしましょうか」
 彼女の言葉にカインは部屋の隅のテーブルを指した。
「そのへんで…… いいよ」
 食欲はなかった。どうせ食べやしない……。
 『グリーン・アイズ』のケイナ。
 ぼくに過去の記憶を見せた理由は何なんだ? 助けて欲しいのか……?
 メイドの置いた食事の皿に目を向けて、一度反らしかけてまた視線を戻した。
 夕食だというのに、ミルクにゼリー、フルーツ、お粥のような皿まで見える。
「ちょっと待って」
 出て行こうとするメイドを呼び止めた。
「これ、誰かの…… 医者の指示?」
「はい?」
 メイドは怪訝な顔をした。
「どうしてこんな食事を?」
 彼女はやっとカインの問いを理解したようにうなずいた。
「ミズ・リィのご指示です」
「トウの?」
 疑わし気に言うカインを見て、彼女は再びうなずいた。
「こちらにお戻りのときは、いつもミズ・リィの指示でお食事を用意しています。ご幼少の頃はミズ・リィご自身で作っていらしたと聞きました。最近食事を取られておられないと申し上げましたら、こういうふうにと……」
 一礼をして出ていくメイドには目を向けず、カインは呆然として料理の皿を見つめていた。
 自分でも知らないうちに座ってスプーンをとりあげ、粥を口に運んだ。
 しばらくまともに食事をしていなかった自分の胃に優しく届く味と温度だった。
 昔…… 食べたことがあったような気がする。
 めずらしく熱を出したときじゃなかっただろうか……。
 気が付くと粥の器は空になっていた。
 しばらくそれを見つめてカインは器から目をそらせると、立ち上がってクローゼットを開け、中から小さな銃を取り出した。
 クローゼットに入れていただけで使ったことがない。きちんとその役割を果たすかどうかは分からないが、その確認をする時間はなかった。
(余計なことは今、考えるな。身動きがとれなくなるぞ)
 カインは自分にそう言い聞かせると、部屋をあとにした。

 バッカードは険しい顔で所長室に入って来たカインを訝し気に見た。
「どうされました? こんな時間に……」
 カインはその言葉を無視して彼の前につかつかと歩み寄った。
 バッカードはちらりと部屋のドアに目を向け、顔をしかめた。
 どうして秘書はこんな時間に通してしまったんだろう。断ればいいのに。その声が聞こえて来るようだ。
「北緯72度、西経40度」
 カインは言った。
「『人の島』に何がある?」
「何のことですか?」
 その返事は予想していたものだった。バッカードはのたりくたりとしらばっくれるに決まっている。
「『人の島』だ。イヌイット語で『Kalaallit Nunaat』。70年前は使われていた言葉だったんだろう」
 カインはバッカードの前に手をついて、彼の顔を睨みつけて言った。
「70年前にね。ほう…… 確かにその頃にはまだ人はいたかもしれませんな」
「北極圏にいったい何を作ったんだ」
「だから、何の……」
 次の言葉は出せなかった。カインが銃を取り出して彼の額に突きつけたからだ。
「ご子息、冗談はやめてください」
 バッカードの顔がみるみる赤くなった。目玉が飛び出さんばかりに目を見開いている。
「冗談でこんなもん持ち出すかよ」
 カインは言った。
「あんたの耳でも腕でも吹っ飛ばす決心はついてる。ただし、この銃はしばらく使ってないからうまく狙ったところに当たってくれるかどうかは保証できないけれど」
 バッカードの顔が今度は青くなった。
「ミズ・リィは…… 全部をあなたにお話する必要はないとおっしゃっていた……」
「そうだね」
 カインはうなずいた。
「だからこういう手段に出てる。どうする? ぼくは撃つよ」
 額から銃口を耳に向けたとき、バッカードは悲鳴をあげた。
「アクセスroudskyの83番です! それであちらの様子が分かる!」
 あちらの様子が分かる? どういうことだ……。カインは目を細めた。
「通信室に一緒に来てもらおうか」
 カインの言葉にバッカードは恨めしそうな目で渋々立ち上がった。
「グリーン・アイズは危険な種で、ある一定の年齢が来ると死にとりつかれる」
 バッカードは誰もいない部屋に入ると仏頂面で言った。部屋にはたくさんの計器が並んでいた。
「彼女はもう70年近く生きていて、とっくにその許容量を超えているんです。人はそばには近寄れないんですよ。危険すぎて」
「彼女は眠っているはずだろう」
 カインの言葉にバッカードはうなずいた。
「そう。最初はそう思っていた。だけど、彼女の奥底の意識だけは絶対眠らないようなんです」
 意識だけは眠らない……。だから飛んで来たのか? ぼくのところに……。
「いったいどこで彼女の存在を知ったんですか? あなたには知りようがないはずだ」
 バッカ―ドは訝し気にカインの顔を見ながら尋ねた。
「遊びに来たんだ」
「は?」
 訝し気なバッカ―ドの目がますます細められる。
「話をしに来たんだよ。ぼくのところに」
 カインは苛立たし気にそう答えて、バッカードに早くしろという身ぶりをした。
 彼に説明したって分からないだろう。彼女はわざわざぼくを選んで意識を飛ばして来た。
 飛ばせるものならいつでも飛ばせたはずだ。今、この時期に自分のところに来たのは、きっと何か理由があるはずだった。
 バッカードは画面の前に座るとキイをいくつか叩いた。
「なぜ、北極圏なんて場所に彼女を仮死保存したんだ」
 カインが言うと、バッカードは視線をちらりとこちらに向けた。
「万が一のことがあっても、あの環境なら生きることはできませんからね」
「万が一って……」
 カインは彼の顔を見た。
「逃げ出す、ということか?」
「そうです」
 仮死保存されているのに、意識は眠らない。もしかしたら逃げ出すかもしれない。そんな人間がいるのだろうか……。カインはバッカードが操るキイを見つめて思った。
 しばらくして目の前の大きな画面に映った映像に、カインは息を飲んだ。
 今度ははっきり見える。緑色の髪に痩せた体。透けるような白い肌。
 彼女は堅く目を閉じて眠っていた。間違いなくあの少女だ。
「彼女の意識にはコンタクトできます。やってみますか?」
 バッカードの言葉にカインはうなずき、彼の立ち上がった席についた。
「しばらく呼び掛けると答えると思います」
 カインは少しの間躊躇したあと、口を開いた。
「ケイナ」
 バッカードがびっくりしたような視線を向けるのを感じたが、そのまま呼んだ。
「ケイナ。聞こえるか?」

 ―― ダレ ――

「さっき、ぼくのところに来てくれたんじゃないのか」

 ―― ダレ? ――

「カイン・リィだ。……さっき、きみの意識を受け取ったよ」

 ―― ネムラセテ… ――
 ―― サビ……シイ…… ――
 ―― ツレテ イク…… ――

「誰を……?」

 ―― モウスグ…… ――
 ―― クル…… ――

「誰が?」
「あそこには人は近寄れませんよ」
 バッカードが言ったが無視した。

 ―― ヨンダ、ノニ、ニゲル、カラ ――
 ―― イカ……ナイデ……。オチタ……ノ…… ――

「落ちた?」
 カインは目を細めた。
「何が落ちたの?」

 ―― オコラ ナイデ ――

「怒らないよ。……何が落ちたの?」

 ―― ヒコウ テイ ――

 ヒコウテイ? 飛行艇? 旅客機?
 カインは呆然とした。

 ―― タス ケテヨ…… ――
 ―― モウ シナイ ゴメン ナサイ…… ――

 ぷつりと画面が切れた。
「どうも動きが悪いな……」
 そう言って伸ばしたバッカードの腕をカインは掴んだ。
「『人の島』に行く」
 カインは言った。
「どうすれば行くことができる。教えろ」
「正気ですか?」
 バッカードは呆れたようにカインの顔を見た。
「必要なものはこちらからでも全部ロボットだけで移送するんですよ。人が行ける場所じゃない」
「でも、昔は人が暮らしていた!」
 カインは怒鳴った。
「あそこは今でも唯一ドームなしで歩ける場所だ。人が行けない場所じゃない」
「行ってどうするんです」
 バッカードは言った。
「彼女のそばに行くのは危険だ。ひとりでも命を奪うことにまみれてるんですよ」
「だったら、終わらせればいい」
 カインはバッカードを睨みつけた。
「もう、終わらせろ。彼女が永遠の眠りにつけば、奪われる命はない」
「私にどうしろっていうんです」
 バッカードは泣き出しそうな顔になった。
「あんたができないんなら、ぼくが終わらせる。彼女の生命維持装置を切る」
「それこそ、あっちに行かなきゃできませんよ。こっちではそもそも維持させることしか考えられていないんだ」
「『人の島』に行く手段を、教えてください」
 カインは真正面からバッカードを見据えて言った。バッカードはしばらくその顔を見つめたあと悲しそうに顔を伏せた。
「北極圏に行くエアラインはいくつかありますが、島の85%が氷に覆われた『人の島』に着陸できるだけの性能を持った機を持っているのは軍しかないんです。あとはこちらの移送機だけだ。あれは人が乗って行くような設備はない」
 カインは舌打ちをした。ふと、バッカードは何かを思い出したような顔をした。
「50年くらい前まではあそこにも人がいた。そのときの輸送をしていたのは『ファー・システム』という運送会社だけです。今も持っているかもしれないけれど、50年前の輸送機ですよ。使えるかどうかは分かったもんじゃない。」
 『ファー・システム』? どこかで聞いた。
 ジュディ……。
「いっそ軍に頼んだらどうです。カンパニーの依頼なら引き受けてくれるでしょう」
(それができるなら苦労はしないよ)
 カインは思った。
「生命維持装置の解除方法を教えろ」
「ミズ・リィに殺されちゃいますよ……」
 バッカードは再び泣きだしそうな顔になった。
「その前にぼくが殺すぞ」
「もう……!! リィ一族は我儘者ばかりだ!」
 カインの銃を見て、バッカードは子供のような泣きっ面になった。
 そろそろ所長を交替したほうがいいよ。バッカード。
 情けない彼の姿を見て、カインは思った。

 再び自分の部屋に戻ると、夕食は食べかけのままテーブルの上に乗っていた。
 しばらくそれを見つめたあと、カインは疲れ切ったように椅子に座った。
 『ファー・システム』か……。50年前の輸送船じゃあ、動かないだろう。
 それでも明日連絡をしてみようと、デスクに乗せたままの書類を取った。
 送られてきたデータを開封する。 

 ――― オコラナイデ ―――

 『グリーン・アイズ・ケイナ』の言葉が甦る。眠っていた彼女に何ができたというんだ……。
 カインはそう思いながら画面を見つめた。
 地図を背景に事故機のフライトラインが伸びる。
 最初はノース・ドーム行きの868機。次はウエスト・ドーム。事故機の行く先はバラバラで、飛び立つ場所もバラバラだった。経由して最後にアライドに行く船もある。
 これにいくらなんでも{『グリーン・アイズ・ケイナ』が干渉するのは無理だ。
 そうして画面を見つめていくうち、カインは血の気が引くのを覚えた。
 別々の旅客機はいくつかルートを重ねて飛んで行く。
 3つ4つと重なり…… そしてすべての機がある一点の上空を飛んでいた。
「『人の島』……」
 呆然とした。事故を起こした場所はまちまちだったが、飛行ルートはまるで『人の島』を中心に放射線状の線が増えていくように見える。
 そして最後のフライト・ラインが伸びていくのを見たとき、心臓が狂ったように動悸を打つのを感じた。
 たった一機…… 『人の島』の上空を飛ばない事故機があった。
 見たくないと思いつつ乗客名簿に目を走らせた。18年前、アライド行き262機。乗客560名、死者560名……。
 サエ・リィとボルドー・ハリソンの名前を見つけたとき、とてつもない後悔が襲った。
「この機だけは…… 違う……」
 カインはつぶやいた。
 テーブルの上に置かれた皿に目をやり、デスクに突っ伏した。

 頭ががんがん痛んでいたが、一晩たってカインの気持ちは決まっていた。
 書類をまとめ、重い体に鞭打つように立ち上がった。
 結局残りに手をつけなかった昨晩の夕食をちらりと見やり、カインは部屋をあとにした。
 トウのオフィスに入ったとき、予想通り彼女は早朝にも関わらずデスクの前に座っていた。
 自分の部屋にはほとんど戻らなくても、この部屋には何度も来た。そう、嫌というほど。
「おはよう」
 カインの顔をちらりと見て、トウはすぐにまた目の前の書類に目を落した。
「ちゃんと寝てるの? 顔色が悪いわよ」
「あなたも寝ていないような顔をしている」
 トウはカインの言葉に目をあげずにかすかに口をゆがめた。
「そう?」
 カインは黙ってトウの目の前に書類の束を置いた。トウはそれを見て、カインの顔を見上げた。
「頻発していた航空機事故の調査書」
 カインは言った。それを聞いてもトウの表情は変わらなかった。
「20年間で18機。小さな事故から大きなものまで。死者の数は2万を超えてる」
 トウはそれでも無言だった。
「乗客の中にはリィの研究所がらみの人間がいた。あなたの言う通りだ」
「そう」
 トウは目をそらせると、再び手元の書類に目を落した。
「北緯72度、西経40度……」
 カインは言った。トウの目が一点に止まった。
「事故機は必ずこの上空を飛んでいる。だけど、たった一機、そうでないものがあるんです」
 カインはトウの手に目をやった。短く切られた爪。
 トウの身だしなみにはいつも隙がなかった。着飾ることはしなくても、彼女は美しかった。
 見るともなしにいつも見ていたトウの指。
 いったいどれほどの時間がかけられているのかと思うほど、彼女の指の先には赤く艶やかなしずくが光っていた。今の短く切られた爪にささくれだった指先を見ると心が痛むのはなぜだろう……。ぼくは、この母の指が好きだったのだろうか。
「アライド行き262機……。サエ・リィとボルドー・ハリスンの乗ったものです。」
 カインは思いを振り払うように言った。
「それで?」
 トウは小首をかしげた。
「乗客の中にはリィの従業員も何人かいた。彼らの家族は事故後、カンパニーから慰問金をもらっているけれど、この人…… だけは、受け取った額が法外だった」
「それが何か不自然なことかしら」
 トウは挑むようにカインの顔を見上げた。
「じゃあ、その直前、あなたの口座と、『リィ・カンパニー』から振込み先不明の多額のお金が動いているのは?」
「そんなことまで調べたの?」
 トウは笑みを浮かべた。
「よく調べられたわね」
 カインはうなずいた。
「そういう教育を受けさせたのはあなただ」
 カインは言った。
「数日あればどこに振込んだか、隠しても分かりますよ。事故死した彼の席は操縦席に一番近かった。彼は手荷物ひとつで乗っている。わずか3キロの。アライドまで行くのに。でも、滞在申告書は5日だった。5日もアライドに滞在するのに、手荷物ひとつだなんて不自然だ」
 カインは軽い目眩を覚えながら言葉を続けた。
「搭乗セキュリティを突破させるのは、そう難しいことじゃなかっただろう。ただ、乗った彼が本当に自分の役目を知っていたかどうかは定かじゃないけれど」
「何が言いたいの?」
 トウの表情はやはり変わらなかった。もしかしたら、彼女はこうなることを予測していたんじゃないだろうか。カインはふとそんな思いに駆られた。
「18年前の事件はもう表に出ることはないだろう。今更どうこうしようとしても揉み消されるんでしょう。でも、あなたが使ったひとりの従業員だけのことじゃない。あなたは同時に560人もの命を奪ったんだ。その中に自分の姉と恋人が入っている。そのあなたが…… 経営者でいることは……」
 その言葉が終わらないうちに、トウは持っていた書類をカインに突き出した。
 怪訝な顔をしてそれを見つめるカインにトウはさらに突きつけた。手にとって見たが、何のことか分からなかった。
「カートが手を引くって言って来たのよ」
 トウはかすかに笑みを浮かべて言った。
「カートが?」
 手を引く?どういうことだ……。
「カンパニーの業務には今後一切関与したくないと申し出て来たわ。今、全部確認していたところ」
 ありえないことではなかった。
 トウは半ば共同経営者ともいうべきカートに手荒なことをやり過ぎた。
 シュウ・リィの威厳はもはやない。カートを縛る理由もないのだ。
「従業員たちのこともあるし、これまでの運営のこともあるわ。今、カートが担っているような部分はそのまま渡すしかないわね。どっちにしてもリィだけじゃ担えない。『コリュボス』はもう完全にカートの運営になるわ」
 トウはカインを見て、少し肩をすくめた。
「重役たちも半分くらいは向こうに行くかもしれないわ。リィの規模はほぼ半分になる。ちょうど良かったじゃない。どう? それくらいならあなたも頑張れそう?」
 カインは何も言わず目を伏せた。
「『ホライズン』は…… カートの管轄になるわ」
 トウはカインから目をそらすと椅子の背に身を沈めた。
「『人の島』は?」
 カインの言葉にトウはちらりと彼に目を向け、すぐに背けた。
「あそこは、カートは知らないわ。よしんば知ったとしてもどうすることもできないわよ」
「でも、もう続けることはできない」
「取締役会を開くわ」
 トウは言った。
「私があんたにと言えば、誰も異存はないだろうけど」
 そして窓の外に目を向けた。
「もしかしたら、カートはあんたに座を譲ったら戻って来るつもりかもね。2日後でいいかしら?」
 カインはかぶりを振った。
「これから、『人の島』に行きます」
 それを聞いてトウの顔色が変わった。
「あそこは危険よ」
「彼女が、航空機事故を起こしてるんですよ」
 カインは言った。
「『グリーン・アイズ』はもう眠りたがってる。このままにしておくのは危険だ」
「そのまま放っておいても死ぬわ。誰も管理しなくなる。仮死であったとしても、あなたに今生きている人間を自分の手で死なせる勇気があるの?」
 トウは言ったが、カインは首を振った。
「彼女は…… 無理に生かされてる…… リィの立場として…… 自分で彼女の生命維持装置を止めます。止めたあとは全部を破壊します」
 トウは何も言わずにカインの顔を見つめた。
「もし、ぼくが帰って来なければ……」
 カインは一瞬口をつぐんだ。
「次期経営者としては諦めてください。ほかの人を社長に」
 カインは自分を見つめるトウの視線から逃れるように背を向けた。
「待ちなさい、カイン」
 トウの声が追いかけてきた。それでも部屋を出て行こうとするカインに、トウは立ち上がると走って来てその肩を掴んだ。
「帰って来ないのは許さないわ」
 カインはトウの顔をしばらく見つめたあとうなずいた。
「ぼくだって…… 死にたくはない」
「ここまでのこと、あんたならすぐにやってのけると思ってたわ。だけど、あなたは一番大切なことを忘れてる。あなたの個人的な感情で組織はもう放棄するわけにはいかないのよ。いったい何万人の人がこの下で生活を作っていると思うの。リィが破綻するということは、その人たちを路頭に迷わせるということよ」
 カインは無言でトウの顔を見つめた。
「私なんかへの恨みつらみでしてやったりと思うんなら大間違いよ」
「恨み?」
 カインは言った。
「恨んで憎んで何かできるんなら、とっくにそうしてるよ、お母さん」
 そう言い捨ててカインは部屋をあとにした
「ねえ……」
 東の空を見つめていたリアは、そばに立っていたリンクに言った。
「あっちには何があるの?」
 リンクは彼女の視線の先を追った。
「あの先は海で、その向こうに大きな島がひとつあるよ。地球上で一番大きな島だね」
「島……」
 リアはつぶやいた。
「その島には行くことできるの?」
リンクはそれを聞いて首を振った。
「無理だよ。時期がもう少し早ければ渡れたかもしれないけど、海はすぐに流氷に包まれる。島の8割以上は氷に覆われていて、とてもぼくらの装備では無理だ」
「ふうん……」
「いったいどうしたの」
 リンクの言葉にリアは首を振った。
「分からない……。ほんの一瞬だけど、時々大きな雲みたいなのがむくむく膨らんで来るみたいな気がするの」
 リンクは彼女の顔を見て、もう一度その視線の先に目を移した。
「ぼくは何も見えないけれど……。夢見の力はぼくには全然ないんだ」
「声が聞こえない?」
「声?」
 リアは首をかしげて耳を澄ますような仕種をした。
「誰か泣いてるみたいな……」
「ほかの夢見たちに聞いてみたら?」
「うん……」
 リアは気乗りのしない様子で答えた。
 誰だろう。すごく悲しくなるような泣き声。それなのに、聞くと怖くなる。
 トリがいたなら、もっと詳しく分かっただろうか。
 リンクはまだ不思議そうに空を見つめるリアの横顔を見た。
(リア、心配ないよ。今、夢見たちはトリと一緒に一生懸命ケイナたちを助けようとしてる。きっと助かるよ……。きみは…… アシュアを呼ぶという役目があるんだ。彼を呼び戻さないと)
 リンクは心の中で呟いた。


(ええと……)

 アシュアは立ち止まって記憶を呼び起こすように頭に手をやった。

(おれ、どこに行こうとしてたんだっけ……)

 ずっと歩いているような気がするけれど、どこに行くつもりだったのか思い出せなかった。
 同じところをぐるぐる回っているような気がしないでもない。

(なんか、すごく大事なことを忘れてるような、そうでないような……)

 周囲を見回したけれど、何にもない。何にもない真っ白な世界だ。
 遠くで誰かの声がする。途切れ途切れにぶつぶつつぶやいているような感じだ。いや、泣いているのかな……。
 その声が聞こえる方向に行ってみようと思った。
 それにしても足が重い。前に出しているのに、その足が自分のものじゃないように思える。
 夢の中ってこんなじゃなかったっけ。おれ、夢の中にいるのかな。

(ああ、疲れた)

 重い足がだるくなって、体を折って膝を押さえた。
 ふと気配を感じて顔をあげた。目の前に女の子が座っていた。
 不思議な長い緑色の髪。この髪をどこかで見たような気がする。

 ―― おとうさぁん…… ――

 彼女は鼻をすすりあげながらしゃくりあげて泣いていた。
 何歳くらいだろう。13歳…… 14歳くらいかな。痩せた肩に白く薄い衣が頼り無い。

(どうした)

 彼女の前に身をかがめて顔を覗き込むと、白い顔がこちらを向いた。
 その顔を見たとき、ああ、綺麗な子だな、と思った。
 美人とはいかないまでも、親しみの持てる顔だ。
 でも、どこかで見たような顔だな……。ガラス細工のような大きな緑色の目。

 ―― だれ? ――

 彼女は言った。アシュアは戸惑った。誰だっけ。ええと…… おれ、誰だっけ。

 ―― 連れていく……? ――

(んん?)

アシュアは首をかしげた。

(おれが? どこに?)

 行ける場所があるんなら、そりゃ連れてってやってもいいけど。

 ―― ずうっと眠れないの。お父さんが待ってるのに、行けないの ――

 彼女のすがりつくような表情にアシュアは戸惑った。

(お父さん、どこで待ってるの?)

 ―― ……分からない…… ――

 うーん、それじゃあ、どうしようもないなあ……。
 それにしても細い子だな。何年も日に当たってないみたいに、肌が真っ白だ。

(まあ、そう泣くなって)

手を伸ばしてあとからあとから流れて来る涙を拭ってやった。一瞬彼女がほっとしたような顔をした。

 ―― 手、あったかい…… ――

 おずおずと伸びた細い指がアシュアの手をとった。
 その手を嬉しそうに見つめたあと、自分の頬に押しつけた。
 涙で冷えた頬の柔らかい感触が手に伝わった。

 ―― あったかい…… ――

 なんだか、可哀想だな。ずっとひとりでこんなところで泣いていたんだろうか。

(行く場所ないの?)

尋ねると、彼女は悲しそうに目を伏せた。

 ―― だって、動けないんだもの ――

(立って歩いたら?)

 ―― 歩けない ――

 困ったな。背負ってやってもいいけど、おれの足もなんだか頼りないしなあ。

 ―― お兄さん、わたしと一緒にいてくれる? ――

 いいけど、と言いかけて躊躇した。なぜかは分からない。

(こんなところでじっとしてるよか、動いたほうがいいよ。ええと……)

アシュアは何もない周囲を見回して肩をすくめた。

(名前なんていうの?)

 ―― ケイナ ――

(え?)

 不思議な呪文のような言葉だった。
『ケイナ』。おれ、どこかでこれを聞いたことがある……。

 ―― ノマドの“神の笛”なの。お父さんが大好きで…… ――

 そこまで聞いて、ふいに誰かがものすごい力で背後から自分の腕を掴んだ。
 あっという間に彼女の姿が遠ざかる。
 誰だよ、なんかすごく大事なことだったような感じだったのに、と憤慨しつつ振り向いて、見覚えのある顔に呆然とした。
 誰だっけ……。

 ―― 引きずられちゃだめだよ ――

 少し泣き出しそうな悲しい顔。この顔どっかで見た。

 ―― せっかく助けたのに、彼女に引きずられてどうするの ――

(あんた、誰)

 ―― もうすぐ思い出すよ。それより、聞かなきゃならないのはあの子の声じゃないよ ――

(あの子の声じゃないって…… ほかに聞こえるモンがあるっての?)

 ―― ちゃんと耳を使いなさい ――

 相手がトンと背を押したので、アシュアはつんのめるように前に数歩進んだ。振り返るともう誰もいなかった。
 いったい誰だったんだろう。
 聞かなきゃならないものってなんだろう。
 あの子は寂しそうだったな。あの子はほっといていいんだろうか。
 名前なんていったっけ。
 あれれ、もう忘れてしまってる……。
 何だろう。すごく大切なものを思い出しそうな気がしたのに。
 しかたなくアシュアはまた歩き始めた。
「時間がかかるな……」
 ユージーがモニターを見つめながらつぶやいた。
 セーターの糸がほどけるのと逆のような動きで画面に建物の姿がわずかずつできあがっていく。
 それでも今はまだごく一部しかないことは見てとれた。
 横のケイナに目を向けると眠そうな顔で頬杖をついて画面を見つめていた。
「じっと見てたってしようがねえ。あと数時間はかかるぜ。少し休んでおくか」
 ユージーの言葉にケイナはため息をついた。
「入り口は氷の下に埋まってるみたいだな」
 ハルドがふたりの後ろでうんざりしたようにつぶやいた。
「まあ、予想したとおりです」
 ユージーは立ちあがると、テーブルの上に置きっぱなしだった自分のカップに手を伸ばした。
「機械が動いてるってことは定期的に外からのコンタクトがあるってことだろうけど、ここ10年くらいでこの土地は相当冷えてる。来たときは氷を掘って中に入ってたのかもしれない。ご苦労なこった」
 カップの中身をすすって小さな窓の外に目を向けた。
「夏はあっという間に過ぎる。すぐに厳しい冬が訪れる。早いことカタつけないとな。……あと一、二週間もすればオーロラが見られるかもしれない」
 ケイナは顔をあげると、ユージーの見ていた窓に目を向けた。
「見たいか? オーロラ」
 ユージーが言うと、ケイナは笑った。
「別に」
「かわいくねえ返事だな」
 ユージーは苦笑した。
「大雑把な建物の形状は確認できてるんだが、たぶん、南東に入り口があるんじゃないかと思う。まあ、船に乗せられるマシンの精度だとこれくらいが精いっぱいかな……」
 ユージーは画面の右下を指して言った。
「堀ればもちろん入り口には辿りつけるだろうが、問題は簡単に入れるかどうか」
 ハルドがそれを聞いて思案するように腕を組んだ。
「当然ロックはかかっているだろうな。建物自体は70年近くたってて、相当老朽化してるだろうが、中の設備は入れ替えで最新式のものになってる可能性はある。セキュリティも最新式になっててもおかしくない。解除コードが分からなくちゃ扉は開かない」
 ユージーはカップの中身をひとくちすすり、肩をすくめた。
「一発ぶち込めば全部破壊されますよ」
「中に人は……」
 ケイナが言いかけて首を振った。
「いるわけないか。いればとっくに頭の上でやってることに気づく」
「生体反応は……」
 言い淀んでケイナに向けた目が合って、ユージーはすぐ目をそらせた。
「一つ、建物の一番奥らしいところに」
 『グリーン・アイズ』か……。ケイナは画面に目を向けた。
 ひとりで眠っている。氷の下にたったひとりで、物言わぬ機械に囲まれて。
「仮死保存といっても生体反応がある限りは生きてる。ぶち込んだら、崩壊する建物とともに死ぬ」
 伺い見るような表情で言うユージーにケイナはかぶりを振った。
「彼女は元の時間に戻るべきだ。でも、できれば自分の手で静かに葬りたい」
 ケイナならそう言うだろうことは予想していた。ハルドもそんな荒々しいことは望んでいないだろう。
「とりあえず、証拠で映像を残してカンパニーには言い訳できないようにしたほうがいい。人体仮死保存は違法だ。その前に見つかったらアウトだけどな。今んとこ、あっちは全く気づいていないようだが」
「でも、時間の問題だろ」
 ケイナが言うとユージーはうなずいた。
「ここ数日が限界。こっちからバリア出してるから気づかないだけだ。オーロラを見ることはできないよ」
 ケイナは無言で彼から目をそらせた。
 もとよりオーロラが見たいわけじゃない。セレスなら見たがるだろうが。
「おそらく建物の中に入った時点でカンパニーには知られる。向こうが慌ててこっちに飛んで来るか、何らかの防御に出る時間はいいところ数時間。早けりゃ数十分」
「じゃあ、防御に出られないようにすればいい」
 ユージーはそれを聞いて笑った。
「効くかどうか分からない。試したわけじゃないんだし」
「何のためのウィルスだよ」
 ケイナは言った。
「『ホライズン』に送ればいいのか?」
「いや、送るんなら、カンパニー全部」
 ユージーは言った。
「パニックが起こるな。場合によったら人が死ぬかも」
「そんなリスクはだめだ」
 ハルドがすぐに口を挟んで言った。
「中から必ず何か情報を飛ばしているはずだ。それをキャッチできれば後追いできる」
「それはこっちの設備では難しいんです」
 ユージーは首を振った。
「フォル・カートに言ってみる。ぼくらは今、施設の真上にいるから案外読めるかもしれない」
 ハルドは立ち上がり、部屋を出ていった。それを見送ってユージーはケイナに目を向けた。
「終わったらすぐにアライドに行けよ。あとのことはおれに任せろ」
「リィにひとりで対峙できるのか?」
 ケイナが言うと、ユージーは笑った。
「ひとりじゃない。カート、としておれはいる。元気なときのようなわけにはいかないが、おやじもまだいる。おれの何倍も何十倍も組織運営について知っている人もいる。おれはみんなを信用しているし、みんなもおれのことを信用してくれてる」
 ケイナはユージーの顔を見た。
 この人は小さな頃からずっとカートという名前を背負って一度も弱音を吐かなかった。そのために自分が生きることを受容してきた……。
「カートはカンパニーの業務から一切手を引くことを表明してるんだよ」
 ユージーは言った。
「いまごろ、トウ・リィはその通達を受けているだろう。彼女はノーとは言えない。残念だけど、リィの重役の半分以上はカートの側についた。全部根回ししてる」
 ユージーは窓の外に目を向けた。
「彼女は客観的に見て才能のある経営者だったと思うよ。人間的におれは好きじゃないけど、そうなんだろう。そうでなきゃ、ここまでリィ・カンパニーが大きくなるはずがない。でも、このプロジェクトだけは彼女の最大の失策だ。こんなプロジェクトがある限り笑う人より泣く人間のほうが多くなるような気がするよ。最初から関わった責任をカートはとらないといけない。大丈夫。ちゃんとやり遂げる」
 そして再びケイナに目を向けて笑みを浮かべた。
「アライドで治療を終えたら…… カートに戻って来てくれないか。おまえと一緒に仕事がしたい」
 ケイナはしばらくその顔を見つめたあと、笑顔を見せた。いつもとは違う優しい笑みだった。
 しかしそのあと彼がかぶりを振ったので、一瞬期待を持ったユージーは顔を曇らせた。
「カイン・リィと競合するのは嫌か?」
「そうじゃないよ……」
 ケイナは答えた。
「『ノマド』に帰る…… 『グリーン・アイズ・ハーフ』の半分は『ノマド』の血だ。遺髪を持って戻るよ。『ノマド』の慣習通りに森に埋める。父親の近くに。彼女にとってはそれが一番いいし…… おれは『ノマド』で生きるのがきっと一番いい……」
 ユージーは目をしばたたせた。
「分かった」
 それだけ言った。


 泣いてるなぁ……。
 セレスはそう思って目を開けて身を起こした。
 ジープから船に戻って来てから声は聞こえなくなったが、頭に映る彼女のイメージが変わった。
 ……ずっと泣いてる。寂しそうに肩をふるわせて。
 それでも、それに意識を凝らすと彼女の態度は豹変する。
 前ほど禍々しいものではないにしても、鋭い目を向けてくる。
 『下が上』という言葉が時々ちらつく。『下が上』ってどういうことだろう。
「はー……」
 息を吐いて壁によりかかった。
 狭い船室の壁につくりつけられた三段ベッド。
 一番上に寝てみたい気持ちもあったが、 寝ぼけて転がり落ちるのが分かっていたので一番下に潜り込んだ。
 なんだか頭がまだ混乱してるなあ。
 ケイナの唇の感触を思い出すとまだ顔に血が昇る。
 ずるいよ、あんなの。身構える間もなかった。
 そのあとのケイナが全く変わらない態度なのも少し腹が立った。
 でも、リアに親愛のキスをもらったときのように、気持ちがあったかくなった。
 ありがとうって言いたくなった。
 もっと怖いものだと思ってたけど……。

 ―― オトウ サァン…… ――

 目を閉じるとまた頭に浮かぶ。
 また泣いている。
 お父さんって何? 最初に死んでしまった『グリーン・アイズ』のこと?
 そうだ、彼女が殺したんだっけ……。
 下が上……。……次世代が上の世代を殺すの?
 待って。
 セレスははっとして目を開いた。
 順番…… どうだったっけ?
 アシュアは何と言ってたっけ?
 おれって誰の遺伝子使ってたっけ? ケイナは?
 勢いよく立ち上がりかけて、思いきり頭をぶつけた。
「……ってぇ……」
 頭を抱えながらも不安が押し寄せた。
 彼女に会うの、危ないんじゃないだろうか。
 最初の『グリーン・アイズ』は彼女の『ノー』のひとことで自分の首を切ったんじゃないだろうか。
 じゃあ、おれって……。
「無理無理!。」
 男は錆びついた機体を叩いてみせ、勢いよくかぶりを振った。
 横でジュディが口をへの字に歪めている。
 カインは男が叩いた船を見上げてため息をついた。
 確かにこれじゃあ…… 飛ばない。ほとんど朽ち果てているといってもいい……。
「今までずっと倉庫に入れてたのは、要するに売れもしないし解体費用も廃棄費用も捻出できなかったってだけなんですよ。もう一度飛ばすためじゃない。あの島はとにかく50年前に閉鎖命令が出たんです。その時点で、もう、うちの設備はおじゃんですよ。」
 男は白髪まじりの頭をゆすって冗談じゃないと言わんばかりにカインに言った。
「だいたい、万が一動いても半世紀も前の設備機能であの苛酷な環境に行くのは正気の沙汰じゃないよ」
「修理費用を出すと言っても?」
 カインが言うと、男は呆れたようにカインを見た。
「人の話を聞いてんですか? 半世紀も前の船だって言ってるでしょう。パーツがあるわけない」
 ちらりとジュディの顔を見ると、彼は申し訳なさそうに俯いた。横にいる父親には一切反抗できないようだ。
 再び口を開きかけたとき、腕につけていた通信機が鳴った。
「失礼」
 カインはそう言うとふたりから離れた。
 受信すると、すぐにホライズンのバッカードの怒りに燃えた小さな半身が現れた。
「あんた!」
 バッカードは怒鳴った。カインはその剣幕に思わずたじろいだ。
「何か『人の島』に干渉したのか!」
「何のことです?」
 カインは目を細めた。
「システムが暴走してる! 『ケイナ』が覚醒するぞ!!」
 覚醒? 一瞬ふらりとした。なんで? システムが暴走してるって……。
「ぼくじゃない。ぼくは何もしていない」
 バッカードはいまいましげにカインを睨みつけるとあっという間に消えた。
 『グリーン・アイズ』が覚醒する? 目が覚めるのか? どうして……。
 怪訝な顔をしているジュディとその父親を振り向いた。
「また、来ます」
「何度来ても一緒だよ。飛べない」
 にべもなく言う男の腕をジュディは突っついた。
「無理なもんは無理なんだよ」
 男はジュディを睨みつけた。
 カインは視線を泳がせながらうなずくとふたりに背を向け、倉庫から走り去った。
「父さん」
 ジュディは父親を見上げた。
「本当に飛ばないの?」
「奇跡が起これば話は別だがな」
 そう言い捨てて倉庫をあとにする父親を見つめたあと、ジュディは船を見上げた。
 無理かもしれない。奇跡はそうそう簡単には起こらない。
 彼はため息をついた。

 『ホライズン』の中はすさまじい騒ぎだった。
 罵声と足音がエントランスに入ったときから飛び交ってる。
 カインは血相を変えて目の前を走る男の腕を掴んだ。
「なに!」
 男は怒鳴ってカインの顔にぎょっとした顔になった。彼はカイン・リィとしての自分の顔を知っている人間かもしれない。
「何があったんです」
 カインの問いに男は顔を歪めた。
「誰かがウィルスを送って来たんですよ。あっという間にセキュリティを突破した。何とか復旧したけれど、15分も設備がダウンしたんです。微妙な気温調整が必要な研究物がアウトになりそうなんですよ! 無事だったのは治療中の患者がいる一部の塔だけでね、それだけが救いだ! でなきゃ、何人も死んでる! 今もう確認で大わらわだ!」
 呆然として男の腕を放すと、彼はすぐにせわしなく走り去ってしまった。
 ウィルス…… ウィルスだって?
 地球に来る前にユージーの言っていた言葉を思い出した。
 『ホライズン』にとってぜい弱と思われるウィルスをケイナに教えて来た……。
 目眩がする。
 ケイナか? ウィルスを送ったのはケイナなのか? いや、ユージーである可能性もある。
 昨日バッカードと入った部屋に向かってカインは走り出した。
 部屋の中は外に負けないくらいの喧噪に包まれていた。バッカードがいち早くカインの顔を見つけて険しい顔でやって来た。
「こっちのシステムは回復してないんですよ」
 バッカードは言った。
「全然制御できない。完璧にここを狙ってるな」
「彼女が覚醒すると?」
 カインが言うと、バッカードは顔を歪めた。
「施設の中に侵入者があるんですよ! まかり間違って彼女を外に逃がしてみろ! 止められる者があらわれるまで彼女は殺戮を重ねるぞ!」
 彼の言葉が言い終わらないうちに、カインはつかつかと画面の前に歩み寄った。それを追いかけながらバッカードが言い募った。
「彼女の知能指数知ってますか。250ですよ、250!  『人の島』に来た人間が何で来たのかは知らないがね、船だろうが何だろうが乗り込んだら彼女は自分で操作します」
「操作して逃げたって、長くは生きられないんでしょう?」
 カインは言った。
「長くは生きられませんよ。ええ、もちろん。こんな覚醒の仕方じゃね。肉体崩壊の哀れな姿で死ぬでしょう。一週間? 二週間? あるいは一ヶ月? あんたはその姿を見たいか? 私はごめんだ」
 バッカードはカインを睨みつけて答えた。
 目の前の画面は真っ白だ。いったい誰が『人の島』に入り込んだんだろう。
「所長! 衛星経由で島を撮影できました!」
 計器にしがみついていた男が叫んだ。しばらくしてすぐに画面に映像が映し出された。黒い機体と輸送船らしきものが停泊しているのが見える。
「軍機……」
 カインはかすれた声でつぶやいた。
「軍機は『コリュボス』のものです。カート管轄。もう一機は地球の船じゃありません」
 頭がぐるぐる回った。思わず目の前の椅子の背を掴んだ。
「いったい誰が入ったんだ! 施設の中のセキュリティカメラはまだ回復できないのか!」
 怒鳴るバッカードの腕をカインは掴んだ。
「ケイナだ……。可能性があるのはケイナ・カートとユージー・カート、セレスも…… いるのかもしれない…… あれがアライドのものなら…… ハルド・クレイも…… もしかしたら……」
「はあ?」
 バッカードが目を見開いてカインを見た。
「確信じゃないけど……」
「全員アウトだ……」
 バッカードはつぶやいた。
「何考えてんだ……。全員死ぬぞ」
 カインはバッカードの顔を見た。気づかぬうちに呼吸が荒くなる。
「なんで」
 そう言って椅子を掴んでいた手をバッカードの胸ぐらに変えた。
「なんで!!」
「い、いや…… うまくいけばケイナ・カートだけは生き残る。運が良ければハルド・クレイもユージー・カートも。だけど、セレス・クレイはだめだ」
 バッカードは小刻みに首を振ってカインを見た。
 下が上を…… 下が上。

 ―― モウスグ…… クル…… ――

「遺伝子の順序はどうなってんだ……」
 カインはバッカードの胸ぐらを掴む手が震えているのを感じながら言った。
「セレス・クレイ、ハルド・クレイ、ケイナ・カートか」
 バッカードは肩で息をしながらカインを見た。
「ハルド・クレイはもう『グリーン・アイズ』の影響を受ける事は少ない。だけど、彼女は誰でも周りにいる人間を引き連れるんだ。逃れるのは精神力だけだよ。彼女に引き込まれなければいい。だが、セレス・クレイは彼女の父親の遺伝子を持ってる。逃げられない。ひとこと『ノー』と言えば自ら命を断つ……」
「なんで……」
 思わず言葉が滑り出た。
「なんで、そんな遺伝子を作ったんだよ!!」
「わたしじゃない! 作ったのはあんたたちだ!!」
 バッカードの言葉に身がすくんだ。
 あんたたち……。
 ぼくじゃなくても…… ぼくは、リィの……。
 目の前のバッカードの顔がゴムのようにぐにゃりと曲がる。
 まずい…… こんなところで気を失うわけにはいかない……。
 こんなところで……。
 次の瞬間にはもう自分が立っているのかどうかも分からなくなった。
(おーい……)

 カインは目を開けて自分の顔を覗き込む男に気づき、その途端にがばっと跳ね起きた。
 男の額と自分の額がぶつかった。

(いっ…… てぇ……)

 額を押さえてうずくまる男をカインは呆然として見つめた。
「アシュア……」

(やあ。死んでるのかと思ったよ……)

 額を押さえてアシュアは言った。
 なんでアシュアがいる? ここはどこだ? 見回して余計に混乱した。
 何にもない。真っ白で何にもない。霧に包まれてでもいるような感じだ。
「アシュア、こんなところで何やってんだ? リアはどうした」
 カインが言うと、それを聞いたアシュアの顔が困ったような表情になった。

(アシュアって…… おれの名前なの?)

「え……」
カインは目を細めてアシュアを見た。しかし冗談を言っているわけではなさそうだ。

(なーんも分からないんだよね。あんた、なんでおれのこと知ってんの? 誰?)

 なんだよこれは……。どこに入り込んだんだ……。あの子の夢か? アシュアの夢か?
 それともただの自分の夢……?
「何にも思い出せないのか?」
 カインはアシュアの顔を覗き込んだ。アシュアは頭を掻いた。

(うーん…… さっき会ったやつは、もうすぐ思い出すって言ってたんだけど……。なんか、聞かなくちゃならないものがあるとかどうとか……)

 聞かなきゃならないもの? なんだそれは。

(あんたはなんでおれを知ってるわけ?)

「なんでって……」
 カインは戸惑いながらアシュアの顔を見た。
「何年も一緒にいて忘れるはずないだろ……」

(何年も一緒に?)

 アシュアはびっくりしたような顔になった。
「おまえ、どうしたんだよ。リアは?ケイナたちはどうしたんだ」

(ケイナ?)

 首をかしげるアシュアを見ているうちにカインは妙にイライラしてきた。
「ケイナだよ! セレスもいた! ぼくの名前はカインだ! カイン・リィ!!」
 声を荒げるカインを見てもアシュアは弱り切った表情を浮かべるだけだ。
 カインはため息をついて額を押さえた。アシュアの石頭。まだズキズキする。
 早くここから抜け出さないと。夢なら覚めればいい。どうやったら覚めるんだ。

(おまえの顔見てると、なんとなく懐かしいって感じはするんだけど……)

 ぽつりとつぶやくアシュアをカインはじろりと見た。
「ぼくの顔なんかで懐かしがっててどうするんだ。懐かしがってるヒマなんかないだろう。きみは守らなきゃいけないことがあっただろう!」

(え?)

 アシュアの目がびっくりしたように見開かれた。

(守らなきゃならないこと?)

「何、能天気なこと言ってんだ。しっかりしろよ。リアはどうしたんだ! セレスとケイナは!」
 そう言ってカインは目をそらせてかぶりを振った。
「ケイナとセレスはもう『人の島』に行ってる……」
 そしてはっとした。
「きみは? きみもいるのか? 一緒に行っていないのか?」
 カインはアシュアの顔を見た。
「アシュア…… どうしたんだ…… 今、きみはどうなってるんだ……」
 不安が押し寄せる。アシュア、きみはもしかして……。
「きみは、今、誰と一緒にいるんだ……?」

(誰と?)

アシュアはつぶやいた。

(誰と……?)

視線を泳がせていたアシュアの目が急に輝いた。

(ああ、そうか!)

 ぽんと手を叩き、そう言った途端アシュアは身を翻して走り出した。
「ち、ちょっと……!」
 カインは慌てて手を伸ばしたが、あっという間にアシュアはいなくなってしまった。
 取り残されたカインは途方に暮れた。
 どうする。どうやってここから抜け出す。弱り切って顔を巡らせたとき、小さな黒い点を見た。
 あれはなんだろう。人の影?
 足を踏み出して近づいていった。
 少しずつ黒い点が大きくなり、形を成していく。
 妙に体が震えた。見てはいけないんじゃないだろうか。そんな気がする。
 でも、どうして? どうして見ちゃいけない?
 この情景、どこかで見たことがある。
 どこで?
 心は近づくことを拒否しているのに足が言うことをきかない。
 そしてカインは白い地面に横たわる見覚えのある姿を見下ろしていた。
 体ががくがくと震える。震えるのに、頭の中は妙に冷めている。
 この光景は、もうだいぶん前に見ていたのかもしれない。
 心のどこかで分かっていたのかもしれない。
 トリは封じ込めてしまったけれど、いつかは思い出せるようにしていたのかもしれない。
 そして今は…… 思い出す時期なのか?
 どうしてこんなに静かな寝顔なのだろう。
 決して放すまいと堅くお互いにしがみつく手。
 どうしてこんなに美しいのだろう。
 どうしてこんなに幸せそうな笑みを浮かべている?

(なあ、トリ)

 声がしたので顔をあげた。アシュアが自分の横で同じように足元を見下ろしていた。

(せっかく助けてもらったんだけど、おれの命って、いっぺん無くなったモンだと思うんだよね)

アシュアは頭を掻いた。

(おれは別にいいからさ、こいつらにあげられないわけ?)

 ―― 命はひとつしかないよ ――

トリの声がした。

 ―― きみは誰を助けるの? ――

 アシュアは無言で足元を見つめた。

(そうかぁ……)

アシュアはぽつりとつぶやき、顔を歪めた。

(おれの命ってひとつしかねぇんだ……)

 そう言ってアシュアは泣き出した。
 やめろよ、アシュア……。
 カインは自分の心臓のどくどくという音が自分の耳にも響くのを感じていた。
 アシュア、やめろ……。命の秤なんて、誰も持ってない……

 ―― 大丈夫だよ。カイン・リィ ――

 姿の見えないトリの声がした。

 ―― ラストシーンは未来に続く。彼らは時間を取り戻すだろう ――
 カインは再び飛び起きていた。
「所長! 目を覚まされました!」
 誰かが自分のそばで大声を張り上げた。
 見回すと元の喧噪に包まれた部屋の中だった。
 部屋の隅で急ごしらえらしい椅子を繋ぎ合わせた上に横たえられていたことを知った。
「ご気分は」
 不機嫌そうな顔で言うバッカードをカインはちらりと見たきり目を伏せた。
「血圧が下がってますよ。貧血と低血糖症。死にますよ」
 彼がそう言って差し出したものを見て目を疑った。チョコレートだ。皿にのった数個の茶色い粒を見て思わずバッカードの顔を見上げると、彼は口を歪めて肩をすくめた。
「知りませんか。てっとり早く低血糖を取るにはこいつが一番。もっとも、ちゃんと注射させてもらいましたから、もう大丈夫だと思いますがね」
 額に手をやると、小さなコブができていた。倒れたときに頭をぶつけたのかもしれない。アシュアの石頭ではなかった……。
「どのくらい気を失ってたんですか……」
「さあ。一時間くらいかな」
 バッカードは答えた。
「さっき、ミズ・リィにも報告しました。こっちには来ないそうですよ」
 カインは黙ってバッカードの顔を見つめた。
「都合のいいときには口出しして、トラブルあると知らん顔。冗談じゃないね」
 バッカードはどこに怒りをぶつけていいか分からないといったふうに、こぶしを振り上げておろした。
「冗談じゃない」
「状況は」
 カインは立ち上がった。
「変わりません。施設の様子は全く分からない。ただ、空調が停止しましたから、途方もない冷気が中に侵入しているでしょうね。全部が凍るのは時間の問題だ」
「『グリーン・アイズ・ケイナ』は?」
 バッカードは首を振った。
「彼女の体内に埋められているチップだけは別システムなんです。覚醒に近づいてますよ。確実に」
 彼女の体内のチップは別システム……。そうか、彼女の体にウィルスが送られたわけじゃない。
「彼女と一度話をしましたよね。あれは使えないんですか?」
 カインの言葉にバッカードは厳しい顔をした。
「あれは彼女の頭に埋め込んだチップで会話してます。ただ、こっちのシステムがうまく接続できるかどうかはわからない。それに、今そんなことをしたら、彼女は発狂するかもしれませんよ」
「中に入った彼らを助けないと。彼女に呼びかけて説得する」
 バッカードはそれを聞いて呆れた顔をした。
「説得なんてできるわけがないでしょう。彼女の意志じゃない。遺伝子の意志なんですよ」
 カインはバッカードの顔をしばらく見つめたあと、 彼がまだ手に持ったままだった皿からチョコレートをひとつつまみあげ口に放り込んだ。
「もう、倒れないから、繋いでください」

 ―― ラストシーンは未来に続く。彼らは時間を取り戻すだろう ――

 トリ。いつもいつも予言じみたことを言ってないで、少しはまともに教えてくれないか。
 カインは口を引き結んで画面の前に立った。



 おれのせいだ……。
 赤い光の中で息をきらして自分の膝を掴むケイナを見て、セレスは自分を責めた。
 おれがあのとき……。
「とにかく奥に行くぞ」
 ケイナはそう言うとセレスの腕を掴んで立ち上がった。
「兄さんとユージーは……」
 セレスは何も見えない後ろを振り返って言った。
「あの人たちはプロだ。自分たちで何とかするよ」
 ケイナは答えた。少し足を引きずるケイナの手をセレスはしっかりと掴んだ。

 『ホライズン』にウイルスを送る前、ケイナは疲れ切って仮眠をとりに行ってしまっていた。
 ハルドはフォル・カートにもっとも効果があると思われる先の調査を依頼していたが、二時間ほどして連絡が戻って来た。
「ケイナを起こして来てくれないか」
 欠伸をかみ殺していたセレスはその声にユージーの顔を見た。
「A.Jオフィスが読んだみたいだ」
 ユージーは画面を見つめていた目をセレスに向けた。
「分かった」
 セレスは再び欠伸まじりに言うと立ち上がって船室をあとにした。
「大丈夫かな。だいぶん疲れているようだけど」
 その様子を見たユージーがつぶやくと、ハルドは顔をあげてちらりとセレスの出ていった方向を見たが、厳しい表情をしたまま何も言わなかった。
 ユージーは息を吐いて再び目を画面に戻した。
 廊下を歩きながらセレスはまた欠伸をした。なんだかすごく眠い。でも、眠るとあの子が出てくる。怖いから眠れない。その繰り返しだ。
 ケイナはさすがに画面を見つめる疲労も手伝って仮眠をとりに行ってしまった。
 おれも眠りたい……。
 仮眠室に入って一番下のベッドを覗き込むと、そこにはケイナの姿はなかった。
 下じゃないのか……。そう思って上を見上げて呆れた。
 ケイナは三段ベッドの一番上にいた。左足がだらしなく低い柵の上から垂れている。
「ケイナ」
 呼んでみたが、案の定返事はなかった。疲れきって前後不覚に寝ているのかもしれない。しかたなくセレスは小さな梯子を登り始めた。
「ケイナ」
 覗き込んで再び声をかけた。やっぱり返事がない。
 ケイナがこんなに熟睡するなんて……。
 眠ってるっていうより、気を失ってるって感じじゃないだろうな……。
 心配になって顔を近づけた。規則正しい寝息が聞こえる。
「ケイナ。ユージーが呼んでるよ」
 肩に手をかけてゆすった。ケイナの眉が少しひそめられた。
「……シュア……」
「え?」
 寝言? アシュア? アシュアがどうしたんだろう。夢見てるのかな。
 梯子を登りきって、狭いベッドの端に腰をおろした。
「ケ・イ・ナー…… 起きろー……」
 やはり返事がない。ほっぺた殴ったら起きるんだろうか。嫌だなあ、ケイナにそういうことするの。倍返しにされそうだ。
 どうしよう。起きないってユージーに言いに行こうか。
 ため息をついて壁によりかかった。
 ケイナはいいなあ。こんなに眠れて。
 ケイナの夢にはあの子は出て来ないのかな……。
 ケイナの顔を横目で見ながらそう考えているうちに、まぶたが重くなっていった。
 すぐに細い泣き声が聞こえてきた。
(ああ、また泣いてる…… だから寝ちゃうの嫌だったんだ……)
 眠ったままセレスはぼんやり考えた。
(どうにかしてあげられるんならどうにかするよ。でも、あんた、おれが近づくと怒るじゃない……)

 ―― タスケテヨ…… ――

(うん。助けるよ。どうすればいいの)

 ―― アナタ ガ シヌノ ――

 怒りに燃えた目がこちらを向いた。
「ひ……!」
 ベッドの一番上だということは完全に頭から吹っ飛んでいた。
「ばか……!」
 ケイナが手を伸ばして腕を掴んだときにはもう飛び下りていた。
 ものすごい音とともに、斜めになっていた小さな梯子に体をぶつけるようにふたり一緒に落下したが、落ちた順序でケイナがセレスの上になった。
 セレスは背中の衝撃とケイナの重みで胸を圧迫されて妙な声をあげたが、おかげで目が覚めた。
「……ってぇ……」
 ケイナは左足を押さえていた。落ちたときの衝撃で足を傷めたようだ。
「ごめん! 大丈夫!」
 慌てて言うと、ケイナは顔を歪めて身を起こしてセレスを見た。
「あんな夢に…… 引きずられんなよ……」
「ケイナ、足……」
「たいしたことねぇよ」
「でも……」
 困惑して彼の足を見つめていると、慌ただしい足音がした。
「なにやってんだ……!」
 ユージーの少し怒気を含んだ声がした。
「なんでもないよ……」
 ケイナは痛そうな表情のまま立ち上がると、左足の脛を少しのあいだ手で押さえ、ちらりとユージーを見て出て行った。
「落ちたのか?」
 腕を掴んで助け起こしてくれるユージーにセレスはうなずいた。
「うたたねして、夢見ちゃったんだ……。どうしよう。ケイナ、足を傷めたみたいだ……」
「おまえは?」
「おれは大丈夫。背中打ったけど、今はもう……」
 ユージーはため息をつくと、しょうがないな、というようにセレスの頭を軽く殴った。

「足、どうした」
「なんでもない」
 少し足を引きずるケイナを見て目を細めるハルドにケイナは答え、モニターの前に座った。
「ウィルスを送ることができても中身についてぼくはあんまり詳しくない。きみが見るかと思って待ってた」
 ハルドの言葉に答えず、ケイナはキイを叩いた。
「こっちのコンピューターは読まれないのかな……」
「当たり前だ」
 ケイナの言葉に部屋に戻って来たユージーが言った。後ろから口をへの字に曲げたセレスがついてきている。ケイナはキイを押してファイルを開いた。
 ユージーと一緒にセレスも後ろから覗き込んだが、難しい数字と文字の羅列で何の事かさっぱり分からない。
「カインだったら、もっと分かるんだろうけど……」
 ケイナは画面を見てつぶやいた。
「ということは、彼がいれば復旧が早くなる可能性があるってことだな」
 ケイナはユージーの顔をちらりと見たあと、しばらく考え込むような顔をして再びキイを叩いた。
「復旧不可能」
 しばらくしてケイナは言った。
「……とはいえないまでも、もう一段階追い討ちかけるようにしといた……」
 ユージーとハルドが顔を見合わせた。
「そういう指令のウィルス。『駆除するワクチンを探すのは苦労する』だろうな……」
 セレスはケイナの顔を見た。彼は少し寂し気な表情をしていた。
 ケイナはユージーとハルドを振り向いた。
「送る。いい?」
 ふたりはうなずいた。
「10分後に氷の下におりるぞ」
 ユージーが言った。