「グリーン・アイズは危険な種で、ある一定の年齢が来ると死にとりつかれる」
バッカードは誰もいない部屋に入ると仏頂面で言った。部屋にはたくさんの計器が並んでいた。
「彼女はもう70年近く生きていて、とっくにその許容量を超えているんです。人はそばには近寄れないんですよ。危険すぎて」
「彼女は眠っているはずだろう」
カインの言葉にバッカードはうなずいた。
「そう。最初はそう思っていた。だけど、彼女の奥底の意識だけは絶対眠らないようなんです」
意識だけは眠らない……。だから飛んで来たのか? ぼくのところに……。
「いったいどこで彼女の存在を知ったんですか? あなたには知りようがないはずだ」
バッカ―ドは訝し気にカインの顔を見ながら尋ねた。
「遊びに来たんだ」
「は?」
訝し気なバッカ―ドの目がますます細められる。
「話をしに来たんだよ。ぼくのところに」
カインは苛立たし気にそう答えて、バッカードに早くしろという身ぶりをした。
彼に説明したって分からないだろう。彼女はわざわざぼくを選んで意識を飛ばして来た。
飛ばせるものならいつでも飛ばせたはずだ。今、この時期に自分のところに来たのは、きっと何か理由があるはずだった。
バッカードは画面の前に座るとキイをいくつか叩いた。
「なぜ、北極圏なんて場所に彼女を仮死保存したんだ」
カインが言うと、バッカードは視線をちらりとこちらに向けた。
「万が一のことがあっても、あの環境なら生きることはできませんからね」
「万が一って……」
カインは彼の顔を見た。
「逃げ出す、ということか?」
「そうです」
仮死保存されているのに、意識は眠らない。もしかしたら逃げ出すかもしれない。そんな人間がいるのだろうか……。カインはバッカードが操るキイを見つめて思った。
しばらくして目の前の大きな画面に映った映像に、カインは息を飲んだ。
今度ははっきり見える。緑色の髪に痩せた体。透けるような白い肌。
彼女は堅く目を閉じて眠っていた。間違いなくあの少女だ。
「彼女の意識にはコンタクトできます。やってみますか?」
バッカードの言葉にカインはうなずき、彼の立ち上がった席についた。
「しばらく呼び掛けると答えると思います」
カインは少しの間躊躇したあと、口を開いた。
「ケイナ」
バッカードがびっくりしたような視線を向けるのを感じたが、そのまま呼んだ。
「ケイナ。聞こえるか?」
―― ダレ ――
「さっき、ぼくのところに来てくれたんじゃないのか」
―― ダレ? ――
「カイン・リィだ。……さっき、きみの意識を受け取ったよ」
―― ネムラセテ… ――
―― サビ……シイ…… ――
―― ツレテ イク…… ――
「誰を……?」
―― モウスグ…… ――
―― クル…… ――
「誰が?」
「あそこには人は近寄れませんよ」
バッカードが言ったが無視した。
―― ヨンダ、ノニ、ニゲル、カラ ――
―― イカ……ナイデ……。オチタ……ノ…… ――
「落ちた?」
カインは目を細めた。
「何が落ちたの?」
―― オコラ ナイデ ――
「怒らないよ。……何が落ちたの?」
―― ヒコウ テイ ――
ヒコウテイ? 飛行艇? 旅客機?
カインは呆然とした。
―― タス ケテヨ…… ――
―― モウ シナイ ゴメン ナサイ…… ――
ぷつりと画面が切れた。
「どうも動きが悪いな……」
そう言って伸ばしたバッカードの腕をカインは掴んだ。
「『人の島』に行く」
カインは言った。
「どうすれば行くことができる。教えろ」
「正気ですか?」
バッカードは呆れたようにカインの顔を見た。
「必要なものはこちらからでも全部ロボットだけで移送するんですよ。人が行ける場所じゃない」
「でも、昔は人が暮らしていた!」
カインは怒鳴った。
「あそこは今でも唯一ドームなしで歩ける場所だ。人が行けない場所じゃない」
「行ってどうするんです」
バッカードは言った。
「彼女のそばに行くのは危険だ。ひとりでも命を奪うことにまみれてるんですよ」
「だったら、終わらせればいい」
カインはバッカードを睨みつけた。
「もう、終わらせろ。彼女が永遠の眠りにつけば、奪われる命はない」
「私にどうしろっていうんです」
バッカードは泣き出しそうな顔になった。
「あんたができないんなら、ぼくが終わらせる。彼女の生命維持装置を切る」
「それこそ、あっちに行かなきゃできませんよ。こっちではそもそも維持させることしか考えられていないんだ」
「『人の島』に行く手段を、教えてください」
カインは真正面からバッカードを見据えて言った。バッカードはしばらくその顔を見つめたあと悲しそうに顔を伏せた。
「北極圏に行くエアラインはいくつかありますが、島の85%が氷に覆われた『人の島』に着陸できるだけの性能を持った機を持っているのは軍しかないんです。あとはこちらの移送機だけだ。あれは人が乗って行くような設備はない」
カインは舌打ちをした。ふと、バッカードは何かを思い出したような顔をした。
「50年くらい前まではあそこにも人がいた。そのときの輸送をしていたのは『ファー・システム』という運送会社だけです。今も持っているかもしれないけれど、50年前の輸送機ですよ。使えるかどうかは分かったもんじゃない。」
『ファー・システム』? どこかで聞いた。
ジュディ……。
「いっそ軍に頼んだらどうです。カンパニーの依頼なら引き受けてくれるでしょう」
(それができるなら苦労はしないよ)
カインは思った。
「生命維持装置の解除方法を教えろ」
「ミズ・リィに殺されちゃいますよ……」
バッカードは再び泣きだしそうな顔になった。
「その前にぼくが殺すぞ」
「もう……!! リィ一族は我儘者ばかりだ!」
カインの銃を見て、バッカードは子供のような泣きっ面になった。
そろそろ所長を交替したほうがいいよ。バッカード。
情けない彼の姿を見て、カインは思った。
再び自分の部屋に戻ると、夕食は食べかけのままテーブルの上に乗っていた。
しばらくそれを見つめたあと、カインは疲れ切ったように椅子に座った。
『ファー・システム』か……。50年前の輸送船じゃあ、動かないだろう。
それでも明日連絡をしてみようと、デスクに乗せたままの書類を取った。
送られてきたデータを開封する。
――― オコラナイデ ―――
『グリーン・アイズ・ケイナ』の言葉が甦る。眠っていた彼女に何ができたというんだ……。
カインはそう思いながら画面を見つめた。
地図を背景に事故機のフライトラインが伸びる。
最初はノース・ドーム行きの868機。次はウエスト・ドーム。事故機の行く先はバラバラで、飛び立つ場所もバラバラだった。経由して最後にアライドに行く船もある。
これにいくらなんでも{『グリーン・アイズ・ケイナ』が干渉するのは無理だ。
そうして画面を見つめていくうち、カインは血の気が引くのを覚えた。
別々の旅客機はいくつかルートを重ねて飛んで行く。
3つ4つと重なり…… そしてすべての機がある一点の上空を飛んでいた。
「『人の島』……」
呆然とした。事故を起こした場所はまちまちだったが、飛行ルートはまるで『人の島』を中心に放射線状の線が増えていくように見える。
そして最後のフライト・ラインが伸びていくのを見たとき、心臓が狂ったように動悸を打つのを感じた。
たった一機…… 『人の島』の上空を飛ばない事故機があった。
見たくないと思いつつ乗客名簿に目を走らせた。18年前、アライド行き262機。乗客560名、死者560名……。
サエ・リィとボルドー・ハリソンの名前を見つけたとき、とてつもない後悔が襲った。
「この機だけは…… 違う……」
カインはつぶやいた。
テーブルの上に置かれた皿に目をやり、デスクに突っ伏した。
頭ががんがん痛んでいたが、一晩たってカインの気持ちは決まっていた。
書類をまとめ、重い体に鞭打つように立ち上がった。
結局残りに手をつけなかった昨晩の夕食をちらりと見やり、カインは部屋をあとにした。
トウのオフィスに入ったとき、予想通り彼女は早朝にも関わらずデスクの前に座っていた。
自分の部屋にはほとんど戻らなくても、この部屋には何度も来た。そう、嫌というほど。
「おはよう」
カインの顔をちらりと見て、トウはすぐにまた目の前の書類に目を落した。
「ちゃんと寝てるの? 顔色が悪いわよ」
「あなたも寝ていないような顔をしている」
トウはカインの言葉に目をあげずにかすかに口をゆがめた。
「そう?」
カインは黙ってトウの目の前に書類の束を置いた。トウはそれを見て、カインの顔を見上げた。
「頻発していた航空機事故の調査書」
カインは言った。それを聞いてもトウの表情は変わらなかった。
「20年間で18機。小さな事故から大きなものまで。死者の数は2万を超えてる」
トウはそれでも無言だった。
「乗客の中にはリィの研究所がらみの人間がいた。あなたの言う通りだ」
「そう」
トウは目をそらせると、再び手元の書類に目を落した。
「北緯72度、西経40度……」
カインは言った。トウの目が一点に止まった。
「事故機は必ずこの上空を飛んでいる。だけど、たった一機、そうでないものがあるんです」
カインはトウの手に目をやった。短く切られた爪。
トウの身だしなみにはいつも隙がなかった。着飾ることはしなくても、彼女は美しかった。
見るともなしにいつも見ていたトウの指。
いったいどれほどの時間がかけられているのかと思うほど、彼女の指の先には赤く艶やかなしずくが光っていた。今の短く切られた爪にささくれだった指先を見ると心が痛むのはなぜだろう……。ぼくは、この母の指が好きだったのだろうか。
「アライド行き262機……。サエ・リィとボルドー・ハリスンの乗ったものです。」
カインは思いを振り払うように言った。
「それで?」
トウは小首をかしげた。
「乗客の中にはリィの従業員も何人かいた。彼らの家族は事故後、カンパニーから慰問金をもらっているけれど、この人…… だけは、受け取った額が法外だった」
「それが何か不自然なことかしら」
トウは挑むようにカインの顔を見上げた。
「じゃあ、その直前、あなたの口座と、『リィ・カンパニー』から振込み先不明の多額のお金が動いているのは?」
「そんなことまで調べたの?」
トウは笑みを浮かべた。
「よく調べられたわね」
カインはうなずいた。
「そういう教育を受けさせたのはあなただ」
カインは言った。
「数日あればどこに振込んだか、隠しても分かりますよ。事故死した彼の席は操縦席に一番近かった。彼は手荷物ひとつで乗っている。わずか3キロの。アライドまで行くのに。でも、滞在申告書は5日だった。5日もアライドに滞在するのに、手荷物ひとつだなんて不自然だ」
カインは軽い目眩を覚えながら言葉を続けた。
「搭乗セキュリティを突破させるのは、そう難しいことじゃなかっただろう。ただ、乗った彼が本当に自分の役目を知っていたかどうかは定かじゃないけれど」
「何が言いたいの?」
トウの表情はやはり変わらなかった。もしかしたら、彼女はこうなることを予測していたんじゃないだろうか。カインはふとそんな思いに駆られた。
「18年前の事件はもう表に出ることはないだろう。今更どうこうしようとしても揉み消されるんでしょう。でも、あなたが使ったひとりの従業員だけのことじゃない。あなたは同時に560人もの命を奪ったんだ。その中に自分の姉と恋人が入っている。そのあなたが…… 経営者でいることは……」
その言葉が終わらないうちに、トウは持っていた書類をカインに突き出した。
怪訝な顔をしてそれを見つめるカインにトウはさらに突きつけた。手にとって見たが、何のことか分からなかった。
「カートが手を引くって言って来たのよ」
トウはかすかに笑みを浮かべて言った。
「カートが?」
手を引く?どういうことだ……。
「カンパニーの業務には今後一切関与したくないと申し出て来たわ。今、全部確認していたところ」
ありえないことではなかった。
トウは半ば共同経営者ともいうべきカートに手荒なことをやり過ぎた。
シュウ・リィの威厳はもはやない。カートを縛る理由もないのだ。
「従業員たちのこともあるし、これまでの運営のこともあるわ。今、カートが担っているような部分はそのまま渡すしかないわね。どっちにしてもリィだけじゃ担えない。『コリュボス』はもう完全にカートの運営になるわ」
トウはカインを見て、少し肩をすくめた。
「重役たちも半分くらいは向こうに行くかもしれないわ。リィの規模はほぼ半分になる。ちょうど良かったじゃない。どう? それくらいならあなたも頑張れそう?」
カインは何も言わず目を伏せた。
「『ホライズン』は…… カートの管轄になるわ」
トウはカインから目をそらすと椅子の背に身を沈めた。
「『人の島』は?」
カインの言葉にトウはちらりと彼に目を向け、すぐに背けた。
「あそこは、カートは知らないわ。よしんば知ったとしてもどうすることもできないわよ」
「でも、もう続けることはできない」
「取締役会を開くわ」
トウは言った。
「私があんたにと言えば、誰も異存はないだろうけど」
そして窓の外に目を向けた。
「もしかしたら、カートはあんたに座を譲ったら戻って来るつもりかもね。2日後でいいかしら?」
カインはかぶりを振った。
「これから、『人の島』に行きます」
それを聞いてトウの顔色が変わった。
「あそこは危険よ」
「彼女が、航空機事故を起こしてるんですよ」
カインは言った。
「『グリーン・アイズ』はもう眠りたがってる。このままにしておくのは危険だ」
「そのまま放っておいても死ぬわ。誰も管理しなくなる。仮死であったとしても、あなたに今生きている人間を自分の手で死なせる勇気があるの?」
トウは言ったが、カインは首を振った。
「彼女は…… 無理に生かされてる…… リィの立場として…… 自分で彼女の生命維持装置を止めます。止めたあとは全部を破壊します」
トウは何も言わずにカインの顔を見つめた。
「もし、ぼくが帰って来なければ……」
カインは一瞬口をつぐんだ。
「次期経営者としては諦めてください。ほかの人を社長に」
カインは自分を見つめるトウの視線から逃れるように背を向けた。
「待ちなさい、カイン」
トウの声が追いかけてきた。それでも部屋を出て行こうとするカインに、トウは立ち上がると走って来てその肩を掴んだ。
「帰って来ないのは許さないわ」
カインはトウの顔をしばらく見つめたあとうなずいた。
「ぼくだって…… 死にたくはない」
「ここまでのこと、あんたならすぐにやってのけると思ってたわ。だけど、あなたは一番大切なことを忘れてる。あなたの個人的な感情で組織はもう放棄するわけにはいかないのよ。いったい何万人の人がこの下で生活を作っていると思うの。リィが破綻するということは、その人たちを路頭に迷わせるということよ」
カインは無言でトウの顔を見つめた。
「私なんかへの恨みつらみでしてやったりと思うんなら大間違いよ」
「恨み?」
カインは言った。
「恨んで憎んで何かできるんなら、とっくにそうしてるよ、お母さん」
そう言い捨ててカインは部屋をあとにした
バッカードは誰もいない部屋に入ると仏頂面で言った。部屋にはたくさんの計器が並んでいた。
「彼女はもう70年近く生きていて、とっくにその許容量を超えているんです。人はそばには近寄れないんですよ。危険すぎて」
「彼女は眠っているはずだろう」
カインの言葉にバッカードはうなずいた。
「そう。最初はそう思っていた。だけど、彼女の奥底の意識だけは絶対眠らないようなんです」
意識だけは眠らない……。だから飛んで来たのか? ぼくのところに……。
「いったいどこで彼女の存在を知ったんですか? あなたには知りようがないはずだ」
バッカ―ドは訝し気にカインの顔を見ながら尋ねた。
「遊びに来たんだ」
「は?」
訝し気なバッカ―ドの目がますます細められる。
「話をしに来たんだよ。ぼくのところに」
カインは苛立たし気にそう答えて、バッカードに早くしろという身ぶりをした。
彼に説明したって分からないだろう。彼女はわざわざぼくを選んで意識を飛ばして来た。
飛ばせるものならいつでも飛ばせたはずだ。今、この時期に自分のところに来たのは、きっと何か理由があるはずだった。
バッカードは画面の前に座るとキイをいくつか叩いた。
「なぜ、北極圏なんて場所に彼女を仮死保存したんだ」
カインが言うと、バッカードは視線をちらりとこちらに向けた。
「万が一のことがあっても、あの環境なら生きることはできませんからね」
「万が一って……」
カインは彼の顔を見た。
「逃げ出す、ということか?」
「そうです」
仮死保存されているのに、意識は眠らない。もしかしたら逃げ出すかもしれない。そんな人間がいるのだろうか……。カインはバッカードが操るキイを見つめて思った。
しばらくして目の前の大きな画面に映った映像に、カインは息を飲んだ。
今度ははっきり見える。緑色の髪に痩せた体。透けるような白い肌。
彼女は堅く目を閉じて眠っていた。間違いなくあの少女だ。
「彼女の意識にはコンタクトできます。やってみますか?」
バッカードの言葉にカインはうなずき、彼の立ち上がった席についた。
「しばらく呼び掛けると答えると思います」
カインは少しの間躊躇したあと、口を開いた。
「ケイナ」
バッカードがびっくりしたような視線を向けるのを感じたが、そのまま呼んだ。
「ケイナ。聞こえるか?」
―― ダレ ――
「さっき、ぼくのところに来てくれたんじゃないのか」
―― ダレ? ――
「カイン・リィだ。……さっき、きみの意識を受け取ったよ」
―― ネムラセテ… ――
―― サビ……シイ…… ――
―― ツレテ イク…… ――
「誰を……?」
―― モウスグ…… ――
―― クル…… ――
「誰が?」
「あそこには人は近寄れませんよ」
バッカードが言ったが無視した。
―― ヨンダ、ノニ、ニゲル、カラ ――
―― イカ……ナイデ……。オチタ……ノ…… ――
「落ちた?」
カインは目を細めた。
「何が落ちたの?」
―― オコラ ナイデ ――
「怒らないよ。……何が落ちたの?」
―― ヒコウ テイ ――
ヒコウテイ? 飛行艇? 旅客機?
カインは呆然とした。
―― タス ケテヨ…… ――
―― モウ シナイ ゴメン ナサイ…… ――
ぷつりと画面が切れた。
「どうも動きが悪いな……」
そう言って伸ばしたバッカードの腕をカインは掴んだ。
「『人の島』に行く」
カインは言った。
「どうすれば行くことができる。教えろ」
「正気ですか?」
バッカードは呆れたようにカインの顔を見た。
「必要なものはこちらからでも全部ロボットだけで移送するんですよ。人が行ける場所じゃない」
「でも、昔は人が暮らしていた!」
カインは怒鳴った。
「あそこは今でも唯一ドームなしで歩ける場所だ。人が行けない場所じゃない」
「行ってどうするんです」
バッカードは言った。
「彼女のそばに行くのは危険だ。ひとりでも命を奪うことにまみれてるんですよ」
「だったら、終わらせればいい」
カインはバッカードを睨みつけた。
「もう、終わらせろ。彼女が永遠の眠りにつけば、奪われる命はない」
「私にどうしろっていうんです」
バッカードは泣き出しそうな顔になった。
「あんたができないんなら、ぼくが終わらせる。彼女の生命維持装置を切る」
「それこそ、あっちに行かなきゃできませんよ。こっちではそもそも維持させることしか考えられていないんだ」
「『人の島』に行く手段を、教えてください」
カインは真正面からバッカードを見据えて言った。バッカードはしばらくその顔を見つめたあと悲しそうに顔を伏せた。
「北極圏に行くエアラインはいくつかありますが、島の85%が氷に覆われた『人の島』に着陸できるだけの性能を持った機を持っているのは軍しかないんです。あとはこちらの移送機だけだ。あれは人が乗って行くような設備はない」
カインは舌打ちをした。ふと、バッカードは何かを思い出したような顔をした。
「50年くらい前まではあそこにも人がいた。そのときの輸送をしていたのは『ファー・システム』という運送会社だけです。今も持っているかもしれないけれど、50年前の輸送機ですよ。使えるかどうかは分かったもんじゃない。」
『ファー・システム』? どこかで聞いた。
ジュディ……。
「いっそ軍に頼んだらどうです。カンパニーの依頼なら引き受けてくれるでしょう」
(それができるなら苦労はしないよ)
カインは思った。
「生命維持装置の解除方法を教えろ」
「ミズ・リィに殺されちゃいますよ……」
バッカードは再び泣きだしそうな顔になった。
「その前にぼくが殺すぞ」
「もう……!! リィ一族は我儘者ばかりだ!」
カインの銃を見て、バッカードは子供のような泣きっ面になった。
そろそろ所長を交替したほうがいいよ。バッカード。
情けない彼の姿を見て、カインは思った。
再び自分の部屋に戻ると、夕食は食べかけのままテーブルの上に乗っていた。
しばらくそれを見つめたあと、カインは疲れ切ったように椅子に座った。
『ファー・システム』か……。50年前の輸送船じゃあ、動かないだろう。
それでも明日連絡をしてみようと、デスクに乗せたままの書類を取った。
送られてきたデータを開封する。
――― オコラナイデ ―――
『グリーン・アイズ・ケイナ』の言葉が甦る。眠っていた彼女に何ができたというんだ……。
カインはそう思いながら画面を見つめた。
地図を背景に事故機のフライトラインが伸びる。
最初はノース・ドーム行きの868機。次はウエスト・ドーム。事故機の行く先はバラバラで、飛び立つ場所もバラバラだった。経由して最後にアライドに行く船もある。
これにいくらなんでも{『グリーン・アイズ・ケイナ』が干渉するのは無理だ。
そうして画面を見つめていくうち、カインは血の気が引くのを覚えた。
別々の旅客機はいくつかルートを重ねて飛んで行く。
3つ4つと重なり…… そしてすべての機がある一点の上空を飛んでいた。
「『人の島』……」
呆然とした。事故を起こした場所はまちまちだったが、飛行ルートはまるで『人の島』を中心に放射線状の線が増えていくように見える。
そして最後のフライト・ラインが伸びていくのを見たとき、心臓が狂ったように動悸を打つのを感じた。
たった一機…… 『人の島』の上空を飛ばない事故機があった。
見たくないと思いつつ乗客名簿に目を走らせた。18年前、アライド行き262機。乗客560名、死者560名……。
サエ・リィとボルドー・ハリソンの名前を見つけたとき、とてつもない後悔が襲った。
「この機だけは…… 違う……」
カインはつぶやいた。
テーブルの上に置かれた皿に目をやり、デスクに突っ伏した。
頭ががんがん痛んでいたが、一晩たってカインの気持ちは決まっていた。
書類をまとめ、重い体に鞭打つように立ち上がった。
結局残りに手をつけなかった昨晩の夕食をちらりと見やり、カインは部屋をあとにした。
トウのオフィスに入ったとき、予想通り彼女は早朝にも関わらずデスクの前に座っていた。
自分の部屋にはほとんど戻らなくても、この部屋には何度も来た。そう、嫌というほど。
「おはよう」
カインの顔をちらりと見て、トウはすぐにまた目の前の書類に目を落した。
「ちゃんと寝てるの? 顔色が悪いわよ」
「あなたも寝ていないような顔をしている」
トウはカインの言葉に目をあげずにかすかに口をゆがめた。
「そう?」
カインは黙ってトウの目の前に書類の束を置いた。トウはそれを見て、カインの顔を見上げた。
「頻発していた航空機事故の調査書」
カインは言った。それを聞いてもトウの表情は変わらなかった。
「20年間で18機。小さな事故から大きなものまで。死者の数は2万を超えてる」
トウはそれでも無言だった。
「乗客の中にはリィの研究所がらみの人間がいた。あなたの言う通りだ」
「そう」
トウは目をそらせると、再び手元の書類に目を落した。
「北緯72度、西経40度……」
カインは言った。トウの目が一点に止まった。
「事故機は必ずこの上空を飛んでいる。だけど、たった一機、そうでないものがあるんです」
カインはトウの手に目をやった。短く切られた爪。
トウの身だしなみにはいつも隙がなかった。着飾ることはしなくても、彼女は美しかった。
見るともなしにいつも見ていたトウの指。
いったいどれほどの時間がかけられているのかと思うほど、彼女の指の先には赤く艶やかなしずくが光っていた。今の短く切られた爪にささくれだった指先を見ると心が痛むのはなぜだろう……。ぼくは、この母の指が好きだったのだろうか。
「アライド行き262機……。サエ・リィとボルドー・ハリスンの乗ったものです。」
カインは思いを振り払うように言った。
「それで?」
トウは小首をかしげた。
「乗客の中にはリィの従業員も何人かいた。彼らの家族は事故後、カンパニーから慰問金をもらっているけれど、この人…… だけは、受け取った額が法外だった」
「それが何か不自然なことかしら」
トウは挑むようにカインの顔を見上げた。
「じゃあ、その直前、あなたの口座と、『リィ・カンパニー』から振込み先不明の多額のお金が動いているのは?」
「そんなことまで調べたの?」
トウは笑みを浮かべた。
「よく調べられたわね」
カインはうなずいた。
「そういう教育を受けさせたのはあなただ」
カインは言った。
「数日あればどこに振込んだか、隠しても分かりますよ。事故死した彼の席は操縦席に一番近かった。彼は手荷物ひとつで乗っている。わずか3キロの。アライドまで行くのに。でも、滞在申告書は5日だった。5日もアライドに滞在するのに、手荷物ひとつだなんて不自然だ」
カインは軽い目眩を覚えながら言葉を続けた。
「搭乗セキュリティを突破させるのは、そう難しいことじゃなかっただろう。ただ、乗った彼が本当に自分の役目を知っていたかどうかは定かじゃないけれど」
「何が言いたいの?」
トウの表情はやはり変わらなかった。もしかしたら、彼女はこうなることを予測していたんじゃないだろうか。カインはふとそんな思いに駆られた。
「18年前の事件はもう表に出ることはないだろう。今更どうこうしようとしても揉み消されるんでしょう。でも、あなたが使ったひとりの従業員だけのことじゃない。あなたは同時に560人もの命を奪ったんだ。その中に自分の姉と恋人が入っている。そのあなたが…… 経営者でいることは……」
その言葉が終わらないうちに、トウは持っていた書類をカインに突き出した。
怪訝な顔をしてそれを見つめるカインにトウはさらに突きつけた。手にとって見たが、何のことか分からなかった。
「カートが手を引くって言って来たのよ」
トウはかすかに笑みを浮かべて言った。
「カートが?」
手を引く?どういうことだ……。
「カンパニーの業務には今後一切関与したくないと申し出て来たわ。今、全部確認していたところ」
ありえないことではなかった。
トウは半ば共同経営者ともいうべきカートに手荒なことをやり過ぎた。
シュウ・リィの威厳はもはやない。カートを縛る理由もないのだ。
「従業員たちのこともあるし、これまでの運営のこともあるわ。今、カートが担っているような部分はそのまま渡すしかないわね。どっちにしてもリィだけじゃ担えない。『コリュボス』はもう完全にカートの運営になるわ」
トウはカインを見て、少し肩をすくめた。
「重役たちも半分くらいは向こうに行くかもしれないわ。リィの規模はほぼ半分になる。ちょうど良かったじゃない。どう? それくらいならあなたも頑張れそう?」
カインは何も言わず目を伏せた。
「『ホライズン』は…… カートの管轄になるわ」
トウはカインから目をそらすと椅子の背に身を沈めた。
「『人の島』は?」
カインの言葉にトウはちらりと彼に目を向け、すぐに背けた。
「あそこは、カートは知らないわ。よしんば知ったとしてもどうすることもできないわよ」
「でも、もう続けることはできない」
「取締役会を開くわ」
トウは言った。
「私があんたにと言えば、誰も異存はないだろうけど」
そして窓の外に目を向けた。
「もしかしたら、カートはあんたに座を譲ったら戻って来るつもりかもね。2日後でいいかしら?」
カインはかぶりを振った。
「これから、『人の島』に行きます」
それを聞いてトウの顔色が変わった。
「あそこは危険よ」
「彼女が、航空機事故を起こしてるんですよ」
カインは言った。
「『グリーン・アイズ』はもう眠りたがってる。このままにしておくのは危険だ」
「そのまま放っておいても死ぬわ。誰も管理しなくなる。仮死であったとしても、あなたに今生きている人間を自分の手で死なせる勇気があるの?」
トウは言ったが、カインは首を振った。
「彼女は…… 無理に生かされてる…… リィの立場として…… 自分で彼女の生命維持装置を止めます。止めたあとは全部を破壊します」
トウは何も言わずにカインの顔を見つめた。
「もし、ぼくが帰って来なければ……」
カインは一瞬口をつぐんだ。
「次期経営者としては諦めてください。ほかの人を社長に」
カインは自分を見つめるトウの視線から逃れるように背を向けた。
「待ちなさい、カイン」
トウの声が追いかけてきた。それでも部屋を出て行こうとするカインに、トウは立ち上がると走って来てその肩を掴んだ。
「帰って来ないのは許さないわ」
カインはトウの顔をしばらく見つめたあとうなずいた。
「ぼくだって…… 死にたくはない」
「ここまでのこと、あんたならすぐにやってのけると思ってたわ。だけど、あなたは一番大切なことを忘れてる。あなたの個人的な感情で組織はもう放棄するわけにはいかないのよ。いったい何万人の人がこの下で生活を作っていると思うの。リィが破綻するということは、その人たちを路頭に迷わせるということよ」
カインは無言でトウの顔を見つめた。
「私なんかへの恨みつらみでしてやったりと思うんなら大間違いよ」
「恨み?」
カインは言った。
「恨んで憎んで何かできるんなら、とっくにそうしてるよ、お母さん」
そう言い捨ててカインは部屋をあとにした