「何が信じられないの?」
リアは顔を背けるセレスを覗き込むようにして言った。
「ケイナなの? 自分なの? どうして? ケイナはみんなを信じてるわよ」
「え?」
思わず振り向いて、リアの顔があまりにも近くにあったのでセレスはぎょっとした。
リア独特の花の香りが鼻をくすぐる。
「セレス!」
リアはセレスの手をとって自分の手で握りしめた。少し凍えた手の冷たさがセレスの手に伝わった。
「なんでそんな顔してんの? 安心しなよ。ケイナはあんたのこと大好きよ。それでね、みんながあんたのことも彼のことも好きなの。あたしもアシュアもカインもリンクもトリもみんなが」
みんなが好き……。それは分かるけど……。
目を伏せたとき、口の端に花の香りを感じてセレスははっとした。
リアが『ノマド』の親愛のキスをしてくれていた。セレスはみるみる顔に血が昇るのを感じた。
「大好きな人にはキスしたくなる。『ノマド』のキスはそういうことなの。代わりのいない自分の前にいる人。男も女も関係ないわ」
大好きな人にはキスしたくなる……。セレスはリアの顔を見つめた。
「あたしはセレスが大好きよ。代わりのいないあたしの前にいる人だもの。大切な出会った人だもの。元気だしなよ」
リアはもう一度セレスに顔を寄せた。
「やだ、泣かないでよ。」
セレスの大きな目から涙が溢れたので、リアは慌てた。
こういうところ、女の子っぽいんだよなあ、とリアは心の中で思った。
「リア、なんだか少しミントの香りがする……」
「ああ」
泣きながら言うセレスにリアは思い出したような顔をした。
「ここに来る前、ミントのお茶を飲んだから。ごめん、そんなに嫌いだったの?」
嫌いなはずがない。ミントの香りはケイナの香りだ。
たがが外れたように泣き出したセレスにリアは少し困惑した顔をしたが、自分のタオルで彼の顔を拭いた。
「そんなに泣いたらもらい泣きしちゃいそう。ねえ、そんな顔してたらケイナが悲しむよ。あたしも悲しいわ」
リアは優しい。この優しさをおれは知らずに疎ましく思ったこともあった。リア、ごめん。
自分の肩に頭を寄せかけさせて、あとからあとから溢れでるセレスの涙をリアは根気強く拭ってやった。
片手はしっかりとセレスの手を握っている。
夢見のトリと同じ血を引くリアの手は、彼ほどの力はなくても心の影を吸い取ってしまうのかもしれない。張り詰めた気持ちがゆっくりほどけていくような気がした。
「……ありがとう。リア、ありがと。おれ、ちょっと元気出たかも」
しばらくしてセレスは手で涙を拭って言った。
「ほんと?」
「うん」
「じゃ、帰ろう。寒くなってきちゃった」
リアは笑った。立ち上がると、リアよりもセレスのほうが背が高い。
セレスは腕をあげるとリアの肩を抱き寄せた。少しでも寒くないように。
「こういうことって、男の人がするんだよね、きっと」
セレスが言うと、リアは笑った。彼女はセレスの腰に手を回した。
「女の子になったらあたしの妹になってね。男のままなら弟ね」
セレスは笑った。
アシュアは落ち着かない様子で何度もテントから出たり入ったりを繰り返していた。
セレスがなかなか帰って来ない。
「うっとうしいなあ、もう。座れ!」
ケイナが吐き出すように言った。カインは仏頂面で黙っている。
ふたりとも、いつもと態度が逆だ。それが内心穏やかでないことを物語っている。
ちくしょう、素直じゃねえ。
アシュアはふたりをじろりと睨んだ。
「あ、帰って来た」
アシュアが飛び出して行くのと、ふたりがそれを聞いて立ち上がるのが同時だった。
しかし3人はセレスとリアが笑い合いながら歩いて来ることに気づいて仰天した。
「どうしたの?」
口を開けて自分を見つめるアシュアの顔を見て、リアは怪訝そうな顔をした。アシュアはそれを無視してセレスに目を移した。
「アシュア」
セレスは言った。
「ごめん、遅くなって。腹減っちゃった」
「ん、あ、て、テントにあるよ」
口籠りながらアシュアが言うと、セレスはリアに顔を向けて口の端にキスをした。
「あら!」
リアは思わずセレスの顔を見た。
「ありがと、リア。お休み!」
セレスはアシュアの前を通り過ぎ、その後ろにいたカインとケイナの脇もすり抜けてテントに走っていった。
カインとケイナは訝しそうに目を見合わせた。
「セレスと何してた?」
アシュアはセレスを見送ってリアに向き直った。
「なにって……」
リアは困惑したように3人の顔を交互に見た。
「別に何もしてないわよ。あたし、水浴びに行って、セレスがいたから傷の消毒手伝ってもらって、少し話して……」
「いったい何を話したんだ」
「なによそれ」
アシュアの言葉にリアはむっとした顔をした。
「たいしたこと話したわけじゃないわよ。なんか、ちょっと落ち込んでたみたいだったから、元気出せって……」
リアはそこで悪戯をとがめられた子供のような顔になった。
「元気出るかなと思って、『ノマド』のキスをあげたの。大好きな人にはキスしたくなる、代わりのいない目の前の人は大切だからって……。トリがたまに言う言葉だわ。わたしもセレスが大好きだから元気出せって……」
3人は無言だった。それがリアを不安に陥れた。
「あたし、なにか悪いことした?」
体よく摺り替えられてしまったかもしれない……。
だが、その摺り替えが3人にとって何より有り難いものであったことは事実だった。
「リア!」
叫ぶなり大きなアシュアの腕に抱き締められてリアは慌てた。
「なに?いったいどうしたの?」
ケイナとカインの前で真っ赤な顔になったリアはさらに抗議しようとしたが、アシュアの唇に口を塞がれてしまった。
ケイナがカインの腕をつついたので、ふたりはリアとアシュアを残して踵を返した。
「ケイナ…… 悪かったよ……」
そうつぶやくカインにケイナは小さく首を振った。
「『ノマド』は男とか女とか関係なく好きという表現をするんだ。キスくらいいくらでも」
「いくらでもだと……?」
カインはむっとした。手を振り上げたが、その手はケイナの頬をかすかにかすって空を切った。 ケイナが顔をそらせたからだ。
カインは刺すような視線をケイナに向けた。
「こんなのがよけられるくせに」
ケイナはそれを聞いて目を伏せた。
『ノマド』の挨拶? きみの首元を絞めながら?」
カインはケイナの伏せられた長い睫を見つめた。
「誰も気にしてない? キスくらいいくらでも? じゃあ、きみはセレスにできるのか? セレスには何にもできないくせに、ぼくが求めればできるわけ?」
意地の悪いことを言っているのは分かっていた。だが、言わずにいられなかった。
「びっくりだ…… 人のことなんて全然無関心だったのにきみは人に執着してる。だけど、間違ってるよ……。言うこと聞けばぼくがここに留まるんじゃないかって…… 大事さの加減じゃないだろ、それは」
カインは泣き出したい思いに駆られていた。
こんなことを言っても目にわずかにしか表情を浮かべないケイナに、再び同じことを繰り返したくなる衝動が沸き起こる。
いや、それとも殴りつけたいのかもしれない。どうせ、よけられてしまうんだろうけれど。
暴力には敏感。愛情には鈍感。
「大事に思ってくれるのは嬉しいけれど、なんでいつもみたいに怒ったりしなかったんだって思うよ。残酷なことしてるって分かってないだろ」
カインはため息をつくとちらりと後ろを振り向いた。リアとアシュアはまだ抱き合っている。こんなところで妙な喧嘩を始めるわけにはいかない。カインは諦めたような笑みを浮かべた。
ケイナには無理だ。こんなこと、たぶん、ずっと彼は分からないだろう。
「また、トリと計画を練ったほうがいいと思うけど、地球に戻ったら、とにかくぼくはカンパニーに戻る。ぼくが『ノマド』にいても何も解決しない。ぼくがカンパニーに行っても解決できるかどうかは定かじゃないけど、きみたちのことだけじゃない。ぼくはやらないといけないことがたくさんある」
ケイナは無言でカインの顔を見つめた。
「だけど、約束するよ。全部が終わったら必ず会いに来るから。その時にはリィの社長として。だから、それまでにちゃんと体、治しておくんだぞ」
「もう、いいよ……」
ケイナがつぶやいた。
「もう…… いいよ……。データも手に入ったし、おれがセレスの治療法探すよ……。もう静かに……」
そこまで言って、ケイナは口をつぐんで俯いた。
言ってもどうにもならない。そのことだけはケイナも分かっている。
ぼくがここまで言えば考えを変えることはないことをケイナは知っている。
もう、静かにここに一緒にいよう。
そんなふうに言ってくれようとしたんだよな……。
カンパニーに仮死保存され、眠り続けるきみのそばでずっと過ごすことを夢見たこともあった。
そうすりゃ誰も邪魔しない。きみはぼくが死ぬまで一緒にいてくれる。
ぼくはきみの心を100%こっちに向けたいと思うよ。
だけど、夢の中でもセレスには勝てなかったよ。
セレスは怖い。彼にはきっと誰も勝てない。いや…… 彼女かな……。
ケイナのそばにいて、何の治療もしなくても、日に日に女性になっていくようだ。
きみたちの螺旋が生きる道を見つけられるよう、ぼくはぼくのやらなければならないことをする。
きっとまた会える日が来るだろう……
治療を開始して三週間後、リンクはケイナの片耳のピアスを外した。
右側のピアスは残したままだ。
「脳波やスキャンにはとりあえず悪い徴候は見られないから、このままいけば来週にはもう片方もとれると思うよ。簡易なスキャンだから確実というわけではないけどね」
リンクの言葉にケイナはうなずいた。
「頭痛や手足のしびれはない? 視力が落ちるとか」
「ないよ」
不安そうに尋ねるリンクにケイナは笑みを見せた。それを見たリンクは少し驚いたように彼の顔をまじまじと見た。
「なんか…… 感じが変わった…… かな……?」
「え?」
ケイナは目を細めてリンクを見た。リンクはピアスを手のひらで転がした。
「いや、笑った顔がね。いい顔で笑ったよ、いま。こいつのせいかな」
ケイナは何も言わずテントの外に出ていってしまった。
ケイナは顔のことで何かリアクションされることを神経質なくらい嫌う。相当疎ましく思うようだった。
美しい顔をしているのに彼の視線はいつも冷たく相手の頭の中をえぐるようで、笑うときは可笑しくて笑うというよりも人を皮肉ったような笑みを浮かべる場合がほとんどだ。
そもそもケイナは表情が乏しい。相当機嫌が悪いとかよほど痛みがあって顔をしかめているときくらいは分かるが、それ以外では彼の表情で気持ちを察することは難しい。彼が意識してそういうふうにしているのではないということはリンクも分かっていたからあまり気にしないようにしていたが、ごく普通に当たり前の感情でケイナが笑うとこんなにも目を奪うものかと少し驚いた。
リンクはため息をつき、ピアスをガラスケースに放り込んだ。
こいつはもう用なしだ。そうなってくれなければ困る。
ケイナ、ごめんな。辛かったろうな。
リンクは小さく光るピアスを見つめた。
ケイナがテントの外に出てみると、目に入ったのはちょっと信じられない光景だった。
カインが子供たちの中に座り込んで、うつむいて一生懸命何かを作っている。
近づいてみると木組みの動物だった。
「ケイナ」
カインの横にいたセレスが顔をあげてケイナを見た。
「カイン、すごいよ。おれよりすごく上手に作るんだ」
「こら、重いって」
カインは顔をあげずに背中によじのぼってこようとする子供に言った。
ケイナは顔を巡らせると、テントの脇でリアが何やら一生懸命アシュアに話しかけているのを見た。アシュアの表情は見るからに興味がなさそうで、大きな欠伸をしている。それを見たリアがむっとしてアシュアに手を振り上げるのを視界の端にとらえながら、ケイナは再び子供たちの中にいるカインに目を戻した。
「おまえにこんな特技があったなんて、驚き」
ケイナは身をかがめて言った。
「手先は器用だよ。マシンを動かすだけが能じゃない」
カインは顔もあげずに答えた。確かに長く形のいいカインの指は器用そうだ。この手がトウ・リィのしずくのような爪を持つ手とよく似ていることをケイナもセレスも知らない。
「はい」
しばらくして、カインは木片を組み合わせた小さな馬をそばにいた子供の手に乗せてやった。それを見たほかの子たちがわれもわれもと手を差し出すのを見て、カインは悲鳴をあげた。
「もう、だめ。今からまたデータ見なきゃならないんだ!」
セレスが笑って子供たちをうながし、やっと彼らは離れていった。
「ちょっと外に出るとこれなんだ。少しでも相手しないと離れない。下手すりゃテントの中までついてきそうで」
カインは座り込んだままため息をついて言ったが、まんざらいやというわけでもなさそうだ。
「ピアス、外した?」
ケイナを見てカインは目を細めた。
「うん…… 右はまだしばらくつけてる」
「そうか」
カインは顔をそらせると、子供たちとセレスが駆け回っている姿に目を向けた。
「セレスは…… 強いな。なにがあっても絶対立ち直る…… まるで命の期限をつけれられていることも忘れているみたいだ」
「自分じゃ何もできないからだろ」
ケイナがそう言ったので、カインは再びケイナに目を向けた。
「自分でデータ見れるんならそうしてる。鬱々とした顔見せたって周りがうっとうしいだけだって分かってるんだ」
「そうだな……」
カインは答えた。冷たい返事に少しセレスが可哀想な気もした。一番気を使ってるのはおまえにだろ、と言いたかったが、それは口にしなかった。
「トリが明日にでも話そうって言ってた。2週間後にコリュボスを発つと言ってる。セレスのデータ、ぼくが見つけられなかったら引き続いて頼むよ」
カインの言葉にケイナは無言で目を伏せた。嫌でも時間は過ぎて行く。
別れの時間は近づいて来る。
「『ライン』に残してきたブレスレットがあれば良かったんだけど…… 取りに行くことはできないし、セレスの所持品が今もあるかどうか分からない。地球に戻って何とかぼくも調べてみる」
カインの言葉にケイナはかすかにうなずいた。
前にセレスのアパートで一緒にネックレスとブレスレットを見た。
予感がして、自分は身につけた。セレスにどうして同じようにしろと言えなかったんだろう。
いまさら悔やんでもしようがない。あのときはまだ自分の身のことしか考えられなかった。
カインがテントに戻ろうとして立ち上がりかけたとき、ふいに子供の大きな泣き声がした。
なにごとかと目を向けると、すさまじい形相で女の子が泣きながらこっちに歩いて来るところだった。
てっきりここに来ると思って再び腰をおろしたカインは、彼女がまっすぐにケイナのところに歩いていったので少しびっくりした。
「なに?」
ケイナは自分の前に立って、真正面から大口をあけてわんわん泣く女の子を見た。
泣き声が大きい。甲高くて耳をふさぎたくなるほどだったが、ケイナは冷たいともいえる表情で彼女の顔を見つめている。
目からも鼻からも水を垂らしまくっている顔はどうひいき目に見ても汚い。
ケイナが女の子越しにちらりと目だけをセレスたちのほうに向けたので、カインもその視線を追った。セレスがクレスに何か言っている。おおかたケンカでもしたのだろう。
そのまま目をアシュアとリアに向けると、ふたりは黙ってこっちを見ていた。ケイナの前に来た女の子を彼がどう扱うのか観察するらしい。
どうも、女の子はリアのほうに行くつもりだったようだ。 そこに行く直線上にケイナがいたために、てっとり早く彼にすがったと思ったほうが良さそうだ。
「泣いてちゃ、わかんねえ」
冷たく言い放つケイナに、子供に対してくらいもう少しまともに話をしろよ、とカインは心の中でつぶやいた。
「クレスが、すな、かけた!」
女の子は途切れ途切れにそう言うと、再び大声をあげた。
「きったねぇ……」
ケイナは鼻水を垂らしている彼女の顔を見てそうつぶやいて少し顔をしかめた。
「そういうときはこう言ってやれ」
ケイナは中指を女の子の前に突き立てた。
「『ぶっ殺されてえか、てめえ』」
「ばっ……!」
ばかなことを教えるな、とカインは思わず叫びかけたが、女の子の泣き声がぱたりと止んだので目を細めた。
しかし、泣き止んだのは一瞬で、彼女は再び甲高い声をあげた。
「やーだ!! リアにおこられるう! そんなこと言っちゃだめー!」
ケイナはかすかに笑った。
「じゃ、なんて言うんだ?」
女の子は服の袖でぐいと顔を拭った。鼻水が頬に伸びた。 顔の真ん前でそれを見せつけられるケイナはたまったものではないだろう。
「なかよくしよって…… いう」
「じゃ、ちゃんとそう言え」
彼女が動かないので、ケイナは手を伸ばすとくしゃくしゃになった彼女の黒髪から砂をはらった。
「行け、ほら」
ケイナが軽く女の子の肩を押すと、彼女はくるりと背を向けると再び子供たちのほうへ走っていった。
「子供の扱いがうまいな……」
カインのつぶやきにケイナが声をたてて笑った。
「データ、やっつけようぜ」
彼は立ち上がるとカインを一瞥して背を向けた。
カインはその姿を呆然として見た。
ケイナが声をたてて笑った……?
ちらりと見せた笑顔が信じられないほど無邪気だった。
アシュアとリアに目を向けると、そばを歩いていくケイナをふたりとも口をあんぐりと開けて見送っていた。
「なんだか…… ケイナは感じが変わったと思いませんか?」
テントの隅でモニターに顔を突き合わせているカインとケイナを見ながら、リンクはひそひそ声でトリに言った。
トリはケイナの後ろ姿に目を向けた。
横にいるカインが時々戸惑うように目をそらせるのがよく分かる。
最近ケイナの一番近くにいるのはカインだ。リンクですらケイナが自分の半径50cm以内に近づいて来るとかすかに身をこわばらせるので、カインは相当辛いのかもしれない。
「ピアスを外したからなのか、治療が効いてきたからなのか、なんというか…… うーん、何とも形容しがたいけど、ちょっと人間じゃないみたいな感じがして…… いや、まあ、いいほうに、ということだけど」
リンクの言葉にトリは思わず笑った。
「あの顔で笑われると全身が総毛立つ?」
「そう、そんな感じ」
答えてしまって、リンクは顔を赤らめた。
「遺伝子治療して性格が変わるなんて聞いたことないですよ」
「子供の頃のケイナはあんな感じだったかな……」
トリは言った。
「子供の時と今じゃ違うから、人の受け止め方も違うんだろうけど、ぼくに言わせれれば元に戻った感じがするよ」
「そうなんですか……」
リンクはふたりにちらりと目を向けた。
「でも……」
トリがつぶやいたので、リンクはトリを見上げた。
「死の予感は消えていっても…… もう、ここまで成長してしまったら、彼は自分と一生戦っていく運命だろうね」
声に少し悲しみが浮かんだように思えた。
一生自分と戦う運命。自らの耳を切り落とし、走り出す狂気。そういう資質は残るということか……。
確かに目的を達するために次々と人格を形成してしまう彼の内面を遺伝子治療が治癒させるとは思えなかった。
「ケイナは…… 何のために生まれて来たんだろう……」
リンクは驚いてトリを見た。トリ、あなたがそんなことを言ってはならないだろうに。
トリの静かな目からはその真意を知ることはできなかった。
翌日、リンクが厳しい表情をしてカインをテントまで呼びに来た。
「きみたちも一緒に来たほうがいいのかな」
3人に目を向けて言う彼の言葉に全員が顔を見合わせた。
リンクが4人を引き連れていつもデータを見るテントに戻って来ると、中にはトリとリアが座っていた。
トリの表情はいつもと変わりないが、リアは眉根を寄せている。アシュアの顔を見てすっと視線をそらせた。
「ときどき外の情報は調べてたんですけどね」
リンクはモニターの前に座りながら言った。
「なにかあったの?」
セレスはケイナの顔をちらりと見て言った。緑色の目が潤むほど不安に満ちている。
「関係ありそうな情報っていうのはこれまで一切流れて来なかったんですよ。完全にシャットアウトされているというか」
リンクはキイを叩いた。
「これ」
4人はモニターを覗き込んだ。
「情報出したのはここ一社。小さなTV会社ですね。リィに時々スポンサーになってもらってるけど、リィ系列じゃない。番組も数個くらいしか持ってないし、ごく限られた地域にしか報道していない。なんでここだけにカンパニーは情報を流したのかは分からないけど」
「なんだよ、これ……」
アシュアが思わず叫んだ。
カイン・リィ、18歳。
数か月前より消息不明となり『リィ・カンパニー』より正式に離脱の声明発表予定。
「トウに先を越された……」
カインは冷静につぶやいた。そのカインの横でケイナは無言で画面を見つめている。
「トウ・リィは思いのほか焦っているのかもしれない……」
トリが言った。顔こそ厳しいが、妙に落ち着いているカインやトリ、そしてケイナがアシュアには理解できなかった。セレスは状況がわからずただ目を見開いて硬直しているだけだから論外だ。
ふいにケイナが手を伸ばしてキイを叩いた。ぷつりとモニターから画面が消えて、リンクは驚いてケイナを見上げた。
「こっちが情報受け取ったこと、知られたよ」
ケイナはかすかに笑みを浮かべてリンクに言った。リンクが慌ててカインを見ると、カインは少し肩をすくめてため息をついた。
「じゃあ、わざとこっちに知らせるために情報流したってこと?」
リンクは戸惑いを隠せない表情でつぶやいた。トリに目を向けると、彼は最初から分かっていたような表情をしている。
やれやれ、こういうのはぼくは全然分からないんだな。
リンクはため息をついた。
「カイン、きみの次期社長としての権限が抹消されるのにどれくらいの時間があるの」
ふいに口を開いたトリの言葉を聞いて、アシュアがはっとしてカインの顔を見た。
そうだ、世襲制のカンパニーでは血族が絶えた時点で 重役と株主たちの同意で次期経営者はほかの血族に移行することになる。もちろん、トウが生きている限りはリィ一族のものだが、トウが誰かを養子に迎えたらそのままリィで経営権は持続する。早い話、彼女はカインの経営権だけを消し去ろうとしているのだ。
「さあ…… どうかな…… 一ヶ月以内に総会が開かれて…… でも、トウはそこまで考えてないよ。……たぶん、これを見てすぐにぼくが戻って来ることを読んでるんだ……」
カインは複雑な表情で答えた。
「行方不明の人間が生きて現れて、それで、はいそうですか、ってなるのか?」
アシュアは思わず口を挟んだ。
「最初からリスクの話はついてるよ。どういう手段かわからないけれど、トウはわざと嘘の情報を流させたんだ。大きなところだと逆に大騒ぎになるし、ここくらいがちょうど良かったのかもしれない。これで気づかなかったら大々的に報道する手を打ったのかもしれないけど」
カインがそう言うと、アシュアは顔をしかめて額を押さえた。
「カイン、嘘の情報なら帰ることないよ。ほっとけばいいじゃん」
セレスは全く理解できないらしい。自分を見上げる大きな目をカインはかすかに笑みを浮かべて見た。
「セレス、ぼくは帰らないといけないんだよ」
「え……」
緑色の目がさらに見開かれ、みるみる潤み始めた。
「や、やだよ、カイン…… 戻るって…… せっかくまた会えたんじゃないか…… 行かないでよ、おれたちと一緒にいてよ……」
セレスのすがりつくような言葉で初めてカインの顔に苦痛が浮かんだ。
行くなと…… それをきみが言うのか。
セレスはカインの腕を掴んだ。
「カンパニーなんかに戻ったらカインはきっと危険な目に遭うよ! そんなことさせられない。みんな、そう思ってるだろ? ケイナだって思ってるだろ? カインが帰って来てあんなに喜んでたじゃないか!」
カインが思わずケイナを見ると、ケイナは目を合わすまいと顔をそらせた。
「ケイナ! なんか言えよ!」
セレスは今度はケイナに詰め寄った。しかし、ケイナが手を乱暴に払い除けたのでセレスは呆然とした。
「なんで…… なんで? カインはおれたちの仲間だろ? カインがいなくなっちゃうなんて、そんなのもういやだろ? ケイナはカインが来てくれたから治療法が分かったんだよ?」
ケイナは思わず口を開きかけてやめた。行かせたいはずがない。当たり前だ。誰が行けと言えるもんか。しかし、カインは決心をつけている。次期社長として組織を担い、全てを変える決心をしている。場合によってはトウ・リィと反目して闇に葬られることになろうとも。その彼の思いを消す権利は誰にもなかった。
「カイン、せめておれを連れていけ。おまえひとりじゃ危険だ。トウは何を考えてるか分からねえ」
アシュアが言ったのでカインはなだめようと口を開きかけたが、それより早く口を開いたのはリアだった。
「だめよ! アシュア、あんた、命の保証ないってあのおじさんが言ってたじゃない!」
おじさん……。アシュアは顔をしかめてリアを見た。カート司令官がおじさんかよ。
「ケイナ」
トリがケイナに顔を向けた。
「分かってる」
ケイナは答えた。
「レジーにもう一度コンタクトを取る」
「今度はぼくも会うよ」
トリの言葉にケイナはうなずいた。
「レジーもきっと情報を受け取ってる。カートの出方を見る」
カインは少しためらうような表情を浮かべたが、何も言わなかった。それは了承の印だった。
「邪魔だ。ちょっと外に連れていって」
泣き出してしまったセレスを見たケイナが眉をひそめてそう言うと、リアが少し憤慨したような顔をしてケイナをちらりと睨み、セレスをテントの外に連れて出た。
「セレスは…… ちょっと精神状態が不安定だね…… まあ、しかたないか……」
ふたりを見送ってつぶやいたトリの言葉にリンク以外の3人はぴくりとしたが、かろうじて平静を装った。
リアに助けてもらった後ろめたい記憶が甦る。
ケイナはリンクの代わりにマシンの前に座ると、通信機能に切り替えて以前アクセスしたレジーのプライベート回線を開いた。
リンクが横から手を伸ばしてキイを叩いた。
「磁場に穴あけた。でないと飛ばない」
ケイナはちらりとリンクを見てから、頬杖をついてモニターを見つめた。それを見たリンクは変な感覚に陥った。
モニターの前で頬杖をつくのはカインがよくやる癖だ。親指を伸ばして顎を乗せる。誰もがよくやる仕種だが、ケイナの反らした顎は角度までがカインによく似ている。
顔をあげるとアシュアが垂れかかった前髪をかきあげていた。これはケイナの仕種によく似ている。この3人はお互いの癖を交換しあってるみたいだ。 ……それだけ意識が通じ合ってるってことなのかな……。
アシュアこそ違うけれどわずか18歳の子供たち。決しておとなとはいえない不安定な年齢。
体格的にはおとなと代わりはないけれど、こんな問題をしょいこむには相当の負担を強いられているだろう。彼らの心情を思うとリンクは少し辛さを感じた。
モニターの反応を待つケイナがかすかに顔をしかめた。
「痛みがある?」
リンクの気づかうような言葉にアシュアがはっとしてケイナを見た。ケイナはかぶりを振った。
カート司令官とコンタクトを取るときは、ケイナは緊張状態に陥る。
前のときとは違って今度はトリもいるし大事には至らないと思うが、ケイナが頬杖をつきながらもう片方の手で周囲にある割れそうなカップや先の尖ったペンを無意識のうちに自分より離れた場所に移動させているのを見て、アシュアは何となく背筋が寒くなった。
「時間がかかるな……」
画面の中の呼び出しの点滅を見つめてリンクがつぶやいた。
前のときもそうだった。レジーが通信を受け取れる状態でなければ開くことはない。向こうの都合など知るよしもないから、待っても出て来ないということも考えられるのだ。
諦めようかとケイナが手をあげてキイを押さえようとしたとき、いきなり受信の画面に切り替わった。
ケイナは咄嗟にモニター受信に切り替えた。あまり広域にこちらの状態を知らせる必要はない。モニターだけなら画面に映る範囲しか向こうには分からない。
「よう」
ケイナの顔がこわばった。モニターに姿を見せたのはレジーではなくユージーだったからだ。
「ユージー……」
ケイナはかすれた声でつぶやいた。
「なんで…… 『ライン』に戻らなかったのか」
「『ライン』?」
ユージーは笑った。
「あと一度の試験、残り半年くらいどうにでもなるさ」
ケイナは目をあげてアシュアとカインを振り向いた。ふたりとも戸惑った表情を浮かべている。ユージーが出てくるなど、そこにいる誰もが想像していなかった。
「レジーは……」
「おやじはもう復帰してるよ」
ケイナの言葉にユージーは即座に答えた。
「カンパニーがやってくれたな。連絡してくるだろうから待ってろとおやじに言われた。あの情報が出た時点でおやじはカイン・リィがおまえたちと一緒にいると悟ったみたいだ。今、おまえたちの状態はどうなっている?」
ケイナが髪をかきあげた。出方を考えあぐねているのだろう。ケイナの躊躇した態度を見てユージーは笑った。
「リィはカートに大きなリスクを負った。リーフがおやじを撃ったのは計算外だったんだろうが、シュウ・リィの時代の恩を仇で返したようなもんだな。トウ・リィはもう手出しはできないよ。たぶん、これ以上目立ったことをすると、ほかの重役たちが黙っちゃいないだろう。よくも悪くもあの時代からずっと引き続いてカンパニーのそばにいるのはカートしかいないんだよ」
ケイナは息を吐いて目を伏せた。
ユージーは戻って全部レジーから聞いたんだ……。
とうとうこの人まで巻き込んでしまうことになった。
いや、巻き込むもなにも、カートの力を借りようとした時点で同じことだ。
「カイン・リィは地球に戻るか?」
ユージーの言葉にケイナは気乗りのしない様子でうなずいた。
「おやじは自分で動くことはできないが、代行としての権限をおれに与えた。カイン・リィの護衛はおれがする」
「ユージーが?」
ケイナは目を細めた。それを見てユージーは肩をすくめた。
「信用できないか?」
おかしい。何かがひっかかる。でも、それが何か分からない。
うまくことが運び過ぎる?
目をあげると、カインも何かを感じているようで眉をひそめていた。
ユージーのことはいつも読めない。どうしてなんだろう……。
トリのほうをちらりと見ると、トリは顔を伏せて額を手で押さえていた。何かに苦悩しているような感じだ。彼も読めないのかもしれない。
「どうすれば信用できる?」
ユージーは言った。
「不安なことがあれば解消するぜ」
「銃を5挺用意してください」
ふいにトリが口を開いた。
「それとあなたの利き手の人さし指」
ケイナの目が見開かれた。アシュアとカインはぎょっとし、リンクは一気に顔から血の気をなくした。
ユージーはかすかに笑った。
「オーケィ、そうすりゃ、信用できるわけ?」
ユージーが手を伸ばしてナイフをとりあげたのを見て、ケイナは思わずモニターにすがりついた。
「やめろ……!」
ケイナの形相が一転した。すさまじい殺気だ。
「ユージー、やめろ! あんたを信用する! 頼むからやめろ!」
そう怒鳴るとあっという間に振り向いてトリの胸ぐらを掴んでいた。
「やめさせろ! ユージーの腕を潰すな!! でないと…… でないと、おれのほうがどうかなっちまう……!」
やばい。ケイナがなんかやばそうだ。アシュアは無意識に身構えていた。
カインの顔もこわばっている。
トリはケイナの手を掴むと、モニターに向かって叫んだ。
「ユージー・カート! 覚えておくがいい! あなたが裏切ると、あなただけでなく、カートのすべてはリィと同じく『ノマド』を敵に回す!」
ユージーの手からナイフが跳ね飛んでいった。
自分の頬に小さな傷をつけながら弧を描いて後ろに飛ぶナイフをユージーは目で追った。
ケイナがぎょっとしてモニターを振り向いた。ケイナだけではない。アシュアとカインも呆然としている。
「こんな力があるのはぼくだけじゃないぞ…… あなたたちは『ノマド』を軽視し過ぎる。 ……少しは恐れを抱くがいい」
トリの息づかいが荒い。ユージーは少し青ざめた顔をこちらに向けた。
「指一本で何を喚いてやがる……。なくなればほかの指でいくらでも這いあがってやるさ」
ユージーはケイナを見据えた。
「おまえが左腕を潰されて右に変えたようにな」
「おれの左腕はなくなったわけじゃない……」
ケイナは震える声で言った。ユージーは不機嫌そうに眉をつり上げた。
「ほかに要望は?」
「『ライン』の中にセレスの所持品が残っていないか確かめて欲しいんです」
カインがモニターに向かって言った。
「セレス・クレイの所持品?」
ユージーは訝し気にカインを見た。
「カートなら『ライン』内に干渉できるでしょう。どんなものか分からないけれど、プレートをつけたブレスレットがあればそれが欲しいんです。彼の両親の形見です」
必死の形相でモニターを見つめるカインをアシュアは見た。
青い顔のトリを支えながらケイナも険しい顔をしている。
「分かった。調べてみる」
ユージーは答えた。
「明日…… 午後6時。銃を持って行く。 ……ほかの者は地球に渡らないのか」
誰も返事をしないので、ユージーは眉をひそめて一瞬目を閉じた。そしてモニターから消えた。それと同時にトリはがくりと膝を折った。
胸ぐらを掴んだままだったケイナは慌ててトリを支えた。さっきまでの興奮状態が嘘のように消えている。
トリは青い顔でケイナに笑みを浮かべてみせた。
「ケイナ…… きみ、分からないの。さっきのはぼくじゃないよ。 ……きみだ」
「え?」
ケイナはトリを凝視した。
「よくもぼくの体を使ったな。 ……全くきみの力は……」
「トリ、薬を出そうか」
リンクの言葉にトリはかぶりを振った。そして力なく手を離すケイナの肩を抱いた。
「いいよ、もう……。ユージー・カートは分かっただろう……。彼は裏切らない」
ケイナは無言でこわばった表情のままトリに肩を抱かれていた。
「セレスがいなくて良かったね……。彼がいたらこんな力は消えていただろう。結果はこれで良かったんだ」
トリはつぶやいた。
「これで文句ないだろ。カイン・リィは必ず地球に連れて行く」
ユージーは消えたモニターの前から振り向いた。
仏頂面で座っているレジー、無数のつきつけられた銃口をユージーは苛立たし気に睨みつけた。
「さっきあいつらに言ったとおりだ。トウ・リィに伝えろ。あんたは痛い思いをするってな」
「伝えます」
銃を持ったひとりが答えた。ユージーは頬についた傷を押さえた。
待ってろ、トウ・リィ。よくもカートに辱めを与えてくれたな。
彼は心の中でつぶやいた。
カインとアシュアは少し呆然としたままのケイナを連れてテントの外に出た。
(よくもぼくの体を使ったな……)
トリはそう言ったが、ケイナがいったい何をしたというのか。きっとケイナ自身も分かっていないだろう。
後ろからついて出てきたトリはまだ少し顔色は悪いものの、平静を取り戻している。
「どうだった? 大丈夫?」
リアが心配そうな顔で近づいてきた。
「セレスは?」
アシュアが尋ねるとリアは少し笑みを浮かべた。
「大丈夫。子供たちがいる」
リアが後ろを振り向いたので3人がそちらに目を向けると、セレスが子供たちの中に座り込んでいた。うつむいているので表情は分からない。
「4つや5つの子に慰められてたわよ。頭をなでられて。それで少し落ち着いたみたい」
そしてリアはカインの顔を見た。
「やっぱり…… 帰っちゃうの?」
カインは小さくうなずいた。
「ええ……。 ユージー・カートが護衛をする。カート家の彼がいればトウは無茶しない」
「そう……」
リアは目を伏せた。
「にいちゃ!」
カインの顔をめざとく見つけた子供が走り寄ってきて彼の足にしがみついた。いつもカインに一番くっついてくる男の子だ。
カインはとても笑みを見せることはできなかった。
あっという間に別れの時が来た。もう少し時間があると思ったのに、明日の夜には発たなければならない。
「おまえ、元気で大きくなれよ」
身をかがめて言うと、まともに聞いていない男の子はこれ幸いにとカインの首にしがみついた。
「タクはカインが大好きみたいね」
リアはふたりを見てつぶやいた。
タクっていうのか。顔は覚えても名前までは覚えられなかった……。
カインは男の子を抱き締めた。
子供。生きることだけを見つめる子供。子供の周りはいつも明るい……。
生きることだけ……?
カインはどきりとして目を見開いた。背後にいたトリの表情がさっと険しくなった。
リアはなんて言ってたっけ。
子供は死だけを見つめる者のそばには来ない……
死だけを見つめる? 死の予感?
消える点。
ぼくは4つの点を見ていた。
誰のそばに最近子供が近づいていなかった…?
ぱっと赤い点が飛んだ。
見開かれた目に狂気が浮かぶ。
比類なき怒り、押さえられない感情。
すさまじい殺気にどんどん包まれる。
気が狂ったように誰かが叫んだ。
「……よ……!!」
「カイン!」
トリの鋭い声が響いてカインははっと我に返った。
アシュアはトリの声に反応するように横にいたケイナがびくりと身を震わせるのを感じた。
顔を向けるとケイナは俯いて虚空を見つめていた。何かに驚いたように目を見開いている。
「リア! タクをカインから離せ!!」
トリが怒鳴ったので、リアは仰天してタクを無理矢理カインから引き離した。
「ど、どうしたの……?」
リアはタクを抱きながら不安そうに兄を見た。
カインは呆然とした。今いったい何が見えただろう。トリの声で一瞬のうちに消えてしまった。
とても重要なことを見た気がするのに……。
立ち上がって振り向くと、トリが険しい目で自分を見ていた。
「なんて、コントロールの効かない能力なんだ…… どいつもこいつも……」
トリにしては荒々しい言葉が彼の口から零れ出た。
「なんでも見てしまうのがいいことじゃないんだよ。どうせ見るなら、なぜ…… その先の光を見ないんだ……」
吐き捨てるように言うトリにカインは戸惑ったように目を伏せた。
今…… なにを見た? 何も覚えてない。
「ケイナ」
トリの呼ぶ声にケイナはびくりとして顔をあげた。
「あとでぼくのテントに来て」
トリはそう言うとくるりと背を向けた。
「大丈夫か?」
アシュアが心配そうにカインの顔を見た。
カインの目は真っ赤だ。よほど怖いものを見たんじゃないだろうか。
「トリが…… 見たものを吸い取ってしまった……」
カインは額を押さえてつぶやいた。
「もう…… 覚えてないんだ」
「兄さんはそういう力なの」
リアがタクを抱いたまま言った。カインはリアに目を向けた。
「人に悪い影響を及ぼす夢は食べてしまうの。忘れたことはきっとあなたにとって良くない夢だったんだわ。気にしないほうがいいわよ」
夢ね……。夢なら忘れてしまってもいいのかもしれない。カインは思った。
もう、これ以上悪い夢はごめんだ……。
「タク? 『にいちゃ』は明日おうちに帰るのよ。にいちゃに抱っこしてもらう?」
親指を吸っているタクの手を口から離しながらリアが言ったが、タクはリアの髪に顔を埋めてしまった。
「びっくりしちゃったみたいね」
リアはカインを見て肩をすくめた。
「大丈夫よ。子供はすぐに立ち直るわ。明日また抱っこしてあげて」
リアの言葉にカインは戸惑いながらうなずいた。
アシュアはみんなから離れるケイナを見た。
「ケイナ」
声をかけると、ケイナは振り返って笑みを浮かべた。前とは違うケイナの笑み。輝くような美しい顔。……かえって前のほうがケイナの心情が分かったような気がする。
「トリのテントに行ってくる」
彼は答えた。
ケイナはさらに自分の心を押し込めてしまったんじゃないだろうか。
誰が見ても目を奪う笑顔の向こうに。
アシュアは彼の後ろ姿を見送って思った。
「地球の『ノマド』にも連絡をとろうと思う」
ケイナがテントに入ってくるなりトリは言った。
「カインを送って数時間後にはぼくらも発つ。きみはカインを見送ったらすぐに戻って来て。予定とは違うけれど、こうなったらしようがない」
トリは疲れた様子で椅子に座った。
「ユージー・カート自身はこっちの味方というよりも、リィの敵かな……。裏切らないとはいえ、カインの出方によっては、彼はカインを敵に回すよ。……まあ、明日会えばもう少し感じもつかめるだろう……」
「アシュアと、おれと、セレス…… 全員行くのはかえって危ないか?」
ケイナは考え込むような表情でつぶやいた。
「いや…… 戦闘力としてはきみたちしかいないんだから……。何がどう転ぶか分からないけれど、リアも連れていって」
トリは答えてこめかみを押さえた。
「まったく……。 きみの力はつくづく呪わしい。カインの予見を受け止めて、おまけに消せやしない」
ケイナは何も答えず目を伏せた。
「カインはだいぶん前から消えるひとつの点に怯えてる。彼は何も知らないほうがいいんだよ。絶対言うなよ、カインに」
トリの言葉にケイナは無言で口を引き結んだ。
「いいか、確約はできないよ」
トリは4つの小さな袋をケイナの前に置いた。ケイナは不審そうにそれを見た。
「全部にぼくの髪がひとふさ、水晶のカケラがひとつずつ。負の運命は片っ端からぼくが食べる」
「お守り?」
ケイナは呆れたように言った。
「ふざけてんのかよ」
それを聞いて、トリはめずらしく苛ついた表情を浮かべた。
「どう解釈してもいいよ。とにかくリア以外全員が持っていけ。きみはセレスを信じろ。彼がきちんと最後の歯止めになってくれる」
『最後の歯止め』。
それを聞いて、ケイナは眉を潜めて下唇を噛んだ。
これから起こることを、トリはもっと具体的に見ている。自分よりもはるかに具体的に。
彼の目にはそれぞれの一挙一動が映画でも見るように映っているのだろう。
「心配ない。治療は効果を出してるからもう痛みはないだろう。きみが自分をコントロールする第一歩だ。セレスとともに生きて行く第一歩だよ。彼を…… いや、彼女を信用しろ」
ケイナは険しい表情のまま4つの袋に手を伸ばした。
「何度も言うけど、確約はできない」
トリは言った。
「あの光景は必ずあるだろう。それを最小限にするのは、きみの能力と、あとは…… 運だ」
トリはそこで自分の気持ちを落ち着かせるように小さく深呼吸した。そして再び口を開いた。
「リアは…… アシュアの子供を生むよ」
「えっ……」
ケイナは思わず声をあげた。トリはうなずいた。
「ぼくらのような双児が生まれる。男の子ひとり、女の子ひとり。ぼくらはそういう遺伝子だ。片方は必ず夢見の能力を持つだろう。だけどぼくらと違うのは、片親が安定した遺伝子のアシュアだということ。ぼくのような虚弱児は生まれない。きっと幸せな家族を作る」
ケイナは自分をまっすぐ見据えるトリを見つめ返した。
「ためらわず、磁場の範囲に戻るまでに全員殺せ。でないと……」
トリはケイナの腕を掴んだ。
「ひとつの点は必ず消える」
「お守り?」
セレスはケイナが手渡したトリの作った小袋を見て目を丸くした。
「カインにっていうなら分かるけど、ぼくらにも?」
ケイナは曖昧に笑みを浮かべた。アシュアとカインも怪訝そうに袋を見つめている。ただ、リアだけが袋の意味が分かるのか、かすかに顔を曇らせた。
「そうだ、カイン。タクがね、これ、あげるって」
リアが手を差し出したので、カインは訝しそうに彼女の手を見て受け取った。カインの手のひらに乗せられたのは、小さな石だった。なんの変哲もない小石だ。
「まんまるだから」
リアは笑った。
「ただそれだけ。大事にしてやって」
「分かった。ありがとうって伝えてください」
カインはうなずいた。
「行こう。『ノマド』は迎えはするけど見送りはしない」
ケイナは言った。カインが目を向けるとケイナは笑みを浮かべた。
「お帰り、が最高の言葉だから」
リアを含む5人はコミュニティをあとにした。
彼らの気配を感じながら、トリはテントの中で目を閉じて座っていた。そばにはリンクが息を詰めるようにして彼を見守っている。
「リンク」
トリは目を閉じたまま言った。
「何があっても動揺しないように」
「はい」
リンクは答えた。
「ケイナ」
前を歩くアシュアやカインに聞こえないように、リアは小さな声でケイナに言った。ケイナの横にいたセレスが不安な目を向ける。
「兄さんから何を聞いたの? あなたは何を見たの?」
「カートが動いても油断するなってことだよ」
ケイナは答えた。
「アシュアもカインもたぶんそれは分かってる」
リアは前を歩くアシュアとカインの背に目を向けた。ふたりとも黙々と草を踏み分けて歩いていく。
「森の空気は何も変わらないわ。帰って来る時?」
「……かもしれない」
ケイナの返事にリアはうなずいた。
「分かったわ」
「ケイナ……」
セレスはケイナを見上げた。問題はこいつだ。ケイナはセレスに目を向けた。
「めそめそするのは許さねえ。能力全開でリアとアシュアを守れ」
「おれが、リアとアシュアを守るの?」
リアはちらりとセレスに目を向けた。以前のリアならケイナの言葉にかなり憤慨しただろう。
今はもう分かっている。本気を出したらケイナとセレスの戦闘力は他と比べものにならない。はっきりとした理由はわからなかったが、ケイナの緊張が感じられる。セレスは分かっているかしら……。リアは口を引き結んだ。
「おまえのこと信じてる。最後は必ず名を呼んで」
ケイナはそう言うと、前のふたりのそばに近づいていった。
セレスはその姿を無言で見つめた。
「連絡先は覚えているね。ぼくもあっちに着いたらできるだけ早くセットするから」
森の入り口で厳しい顔をしたままカインはケイナを振り向かずに言った。
「分かってる」
ケイナはユージーがやってくるだろう方向を見つめたまま答えた。
辛い。ケイナと離れるのが辛い。
この期に及んでまだそんなことを考えている自分がカインは情けなかった。彼の顔をまともに見ることができない。
「アシュア、あとのこと頼むよ」
カインがアシュアに目を向けると、アシュアは少し笑って眉を吊り上げた。
「それよか、雇ってくれるっつう約束してくれよ」
カインは苦笑した。
「ボディ・ガードでないんなら」
その答えを聞いてからリアがちらりとケイナを見たが、ケイナは無表情なままだった。
セレスは誰にも聞こえないように、震える息を吐いた。
手に汗がじっとりと滲む。ケイナの緊張がぴりぴりと電気のように伝わって来る。
この緊張はなに? ケイナは何の気配を感じているんだろう……。
数分して、数台のプラニカがかなり遠くの場所におりてくるのが見えた。
誰かがひとり近づいて来る。それがユージーであることは分かっていた。
ユージーが目の前で足を止めるまでの時間がたとえようもないほど長く感じ、そしてこのまま永遠に来なければいいと全員が思った。
ユージーは肩から大きなケースを下げていた。
「5挺なんてひとりで持つのは大変なんだぞ」
ユージーはため息をとともにケースを地面におろした。
「運んで来る身にもなれよ」
彼がケイナを見たので、ケイナはかすかに笑みを浮かべた。
「19時8分発の専用機2機で地球に行く。同乗するのはおれと数人。全員武装してる。向こうではすでにリィから使者が来てる。カートを信じることができるか?」
「カインにもしものことがあったら、おれはあんたを必ず殺す」
ケイナは言い放った。それを聞いてユージーは笑った。
「それはご子息の出方にもよるんじゃないか? 戻った途端にリィ側につくって可能性だってあるだろう」
ユージーの言葉にカインは肩をすくめた。
ユージーはふいにカインに手を差し出した。カインが訝し気に目を細めると、ユージーは眉を吊り上げた。
「良い旅ができるように」
握手? おそるおそるユージーの手を握った途端、ユージーはそのままカインの肩を抱き寄せた。アシュアが殺気を出したが、ケイナがそれを押しとどめた。
「すぐにつけとけ。全員の居場所が分かるようになってる」
ユージーはカインの耳にすばやく耳打ちすると離れた。
手のひらに残された感触をカインは必死になって冷静を装いながら確かめた。細いバングル。きっと軍仕様の通信機だ。やばい。やっぱりカートはリィに介入されてる……。
「銃を確認させてもらっていいか」
カインの横顔をちらりと見てケイナはユージーに言った。ユージーはうなずいた。
「もちろん」
ケイナは身をかがめると、ユージーの持ってきたケースを開いた。全員が目を見開いた。軍仕様の銃がぎっしり入っている。
「すごい…… おれ、こんなの持ったことない……」
セレスがかすれた声でつぶやいた。アシュアは口を引き結んでいる。
ケイナはその隅に光るものを見た。そして小さな紙片。ケイナはすばやくそれを取るとユージーを見上げた。
「心配するな。命にかえても守ってやる」
ユージーは言った。ケイナは4挺の銃を掴んで、ユージーを見据えたまま立ち上がった。
「銃はこれだけでいい。『ノマド』に軍仕様の銃を持てる人間はいない」
ユージーが目を細めたので、ケイナは笑みを見せた。
「それと、たぶん、こんなケースは足手まとい」
ユージーから目を離さずにケイナが差し出す銃をセレスは受け取って思わず呻いた。
重い。重すぎる。こんなの扱うのは無理だ。
アシュアも同じように2挺受け取り、気づかわしげにリアに1つを渡した。
「使わなくていいようにおれが守ってやる」
アシュアの言葉にリアは戸惑いながらうなずいた。
「セレスのブレスレットはどうでした」
カインが言うと、ユージーはかぶりを振った。
「所持品の一切は箱詰めされて所長が保管していたけれど、その中にブレスレットなんかなかった」
望みは薄かったが、万が一の期待をしていたカインはがっかりした。
「所持品をまとめたやつが案外高価なものと踏んでくすねたのかもしれないな」
「訓練生の誰かがまとめたんですか?」
それを聞いてユージーは肩をすくめた。
「聞かれると思ったから調べて来てる。ロウライン生のトニ・メニとアル・コンプだ」
「アル?!」
セレスが声をあげた。
アルにブレスレットのことを話したことがあるだろうか。いや、ない。だけど、アルなら大事なものだと分かって抜いてくれたかもしれない……。
「諦めろ。アルに会うことなんかできないよ」
ケイナは呆然としているセレスに言った。確かにアルに直接コンタクトを取るのは危険が多過ぎる。
「ぼくが可能な方法を探してみるよ」
カインの安心させるような口調にセレスは小さくうなずいた。
「じゃ、行こうか」
ユージーはそう言うと、持って来たケースを持ち上げて背を向けた。
カインは全員の顔をしばらく見つめると、ユージーのあとを追った。
「セレス」
カインの姿を見つめながらケイナはセレスに声をかけた。
「な、なに?」
セレスはケイナを見上げた。
「銃が難しいようなら剣を使え」
何かが来る……。セレスはごくりと唾を飲み込んだ。
カインは行ってしまった。
セレスは泣き出したくなる気持ちと、押しつぶされそうなケイナからの緊張に堪えた。
「ユージーから」
ケイナはカインがプラニカで飛び立ったのを確認してポケットからバングルを取り出した。
「軍仕様のナビ? よくこんなもの持って来れたな」
アシュアが受け取って目を丸くした。
ケイナはそれには答えず、ユージーが残した紙片を広げた。そして表情を険しくした。
「どうしたの?」
セレスは不安げにケイナの顔を見た。
「ハルド・クレイ指揮官のアライドの所在と、エアポートのユージー個人の専用機のアクセスナンバー」
ケイナの言葉にアシュアとセレスは呆然としてケイナを見つめた。
「それと…… ホライズンのセキュリティホール。相手にとって脅威と思われるウィルスプログラムの…… 保存先」
「ホライズンにウィルス送れってことか?」
アシュアはつぶやいた。
「命がけで戻るぞ」
ケイナはそれには答えず、ポケットに紙片を突っ込むと言った。
「ユージーが最後に書いた数字は…… 50人。油断すんな」
「リア、今度は私設部隊じゃない。軍隊だ。おれから離れるな」
アシュアの言葉にリアはうなずいた。
意地でも離れないわよ。アシュア。心配しないで。
「地球にいるエリドが渡し屋を使って船を飛ばした。こっちに着くのは2時間後です。今、みんな大慌てで荷物をまとめてる」
リンクはトリに言った。トリはじっと座ったまま目を伏せて床を見つめている。
「エアポートを経由しないから、警告を受ける可能性がある。停船時間は30分しかない。間に合うかな……」
「間に合わなかったら、置いていく」
トリの言葉にリンクはぎょっとした。
「見捨てる…… んですか? リアもいるんですよ?」
「動揺するなって言っただろ」
トリは顔をあげてリンクを見た。
「二機目はもう飛ばない。乗るなら一度限り」
「彼らを置いていったりしたら……」
トリが目をそらせてしまったので、リンクはそれ以上言い募ることができなかった。
(さあ…… 来い)
トリは心の中でつぶやいた。
カインは促されてエアポートに停めてある小さな専用機に乗った。一緒に乗り込んだのはユージーとあとひとりだ。
「もう一機には5人乗ってる。こっちパイロットとあのひとりしかいない。向こうについたら5人が完全に護衛する」
ユージーは言った。カインはユージーをちらりと見たあと、無言で腕の細いバングルに目を移した。座席に座って隠れるようにしてスイッチを押した。それを見てユージーは彼の横に座り、周りからの視界を塞いだ。
二人以外いないのだから誰も見るはずはないが、念には念を入れるしかなかった。
小さなウィンドウが目の前に開く。4つの小さな点。たぶんこれがケイナ、アシュア、セレス、リア。
4つ……?
カインはぎょっとした。
ちょっと待って……。ぼくが抜けたら3つ…… だろ。
「ナビは10個入れといた。稼動してるか?」
ユージーの言葉にカインは答えることができなかった。
4つのうちのひとつが消える…… ぼくじゃなかった……?
画面を切り替えてカインは目を見開いた。無数に光る点。これはいったい何。
カインは横の窓にすがりついた。遠くに見える森。わずかに自分の目に映る赤い霧。
「ケイナ!」
思わず小さく叫んだカインの腕をユージーは掴んだ。カインはびくりとしてユージーを見た。
「ケイナには知らせた。いや、あいつは分かってた」
ユージーはすばやく言った。
「ケイナとセレスには捕獲命令しか出してない。『ノマド』には手出しはしない」
「アシュアは!」
カインの言葉にユージーは口を引き結んだ。
「アシュア・セスは諦めろ。無理だ。彼を助けたらカンパニーを納得させられない」
カインは立ち上がりかけたが、それよりも早くユージーの銃がカインの額に突きつけられた。後方に座っていた兵士が立ち上がったが、ユージーは彼に座れというように合図を送った。
「今、ここで降りてもケイナは喜ばないぞ。それに間に合わない」
カインはユージーを睨みつけた。
「地球に行け、カイン・リィ。おれにできることはやってきた。50人のうち40人はカンパニーが指定してきた兵士だが、残り10人はこっちで入れた。彼らには違う動きの指示を与えてる。カートの指示で動く人間だ。運がよければ誰も死なない。全員逃げられる。これが精一杯だ」
「レジー・カートはどうしたんだ……」
カインは震える声でユージーに言った。ユージーは銃口を外すと不機嫌そうに顔を歪めた。
「おやじは軟禁されてる。おれがあんたを地球に送らないと命の保証はない」
トウ……。いったい何してる……。カートにこんなに手を出したら自分の首を絞めるようなもんだ……。カインは思わず前のめりになると両手で額を押さえた。
「カイン・リィ」
ユージーの声にカインは顔をあげた。
「おれはトウ・リィを許さない。あんたが彼女の側についた時点であんたを殺すぞ」
「ぼくにも銃を」
カインは言った。
「そんな勝負はハンディなしだ」
「もちろん」
ユージーは眉を吊り上げてかすかに笑みを浮かべた。
「ケイナはちゃんと銃を一挺残したじゃないか」
アシュア、ケイナ…… 頼む。全員助かってくれ……。
カインは祈るような気持ちでこぶしを握り締めた。
「左! 3人!」
リアは首をすくめて叫んだ。アシュアがすばやく銃を撃った。
「当たった!?」
身をかがめて走りながら、リアはアシュアに叫んだ。
「わかんねえっ! 手ごたえ感じる前にもう逃げてる!」
アシュアは叫び返した。
「セレスは?!」
「ここ!」
アシュアの頭上を飛び越えてセレスが前方を走っていった。
「は、速ええ……」
あっという間に走っていくセレスを見てアシュアはつぶやいた。
「歩いてるときはノロマなくせに……」
「アシュア!」
ケイナの声がしたので、アシュアは顔を巡らせた。気配もなく近づいてくるから、ケイナもセレスもどこにいるのかさっぱり分からない。
右から出てきたケイナが肩を掴んだので、アシュアはリアと一緒に草むらに身を伏せた。
「なんか、変だ」
ケイナはあたりに目を配りながら言った。
「はっきりと数は分からないけど、ほかの奴らと違う動きをする兵士がいる」
「右!」
リアが叫ぶとほぼ同時にケイナは銃を撃った。森の中ではリアの嗅覚はケイナとさほど変わりない。
「なんにしても、おれとセレスの足ばっかり狙ってきやがる。うざったい」
ケイナは吐き出すように言った。
「セレスの動きがヤバくねえか」
アシュアが言うと、ケイナはかすかに眉をひそめた。リアはアシュアの言うことの意味が分からず怪訝そうに彼の顔を見た。
「走り回ってるけど全然相手にダメージ与えてねぇぞ。あっちは本気だ。蹴散らすだけじゃ、きりがねぇ」
「嫌がってるんだ」
ケイナは答えた。
「体力が続かない。手加減しながらあんだけ動いてると」
「分かってる」
ケイナはそう言うと走り出した。
ちくしょう、何やってんだ。ケイナは心の中で舌打ちした。
あんなにお互いの動きが読めたのに、今のセレスは全然おれの動きを読まないし、勝手に走っていく。リアとアシュアを守れと言ったのに。前はもっと気持ちが通じあってた。
ケイナはふと足をとめた。
前はもっと……?
前っていつ。
ケイナは呆然とした。
治療をする…… 前…… 読まないセレスじゃなくて、読めないおれ……?
「セレス!」
ケイナは叫んだ。
トリの誤算。おれの誤算。セレスとおれは一緒に動けない……!
ケイナは再び走り出した。
何人倒しただろう。
セレスは息をきらして周囲を見回した。
倒したと…… 思う。手ごたえはあったし。でも、こんなに息がきれるなんて初めて。
アシュアとリアは…… うしろにいるよな。
50人て言ってた。ほんとにそんな数なの? もっとたくさん追って来てるような気がする。
額から汗が伝って落ちた。
「セレス!」
ケイナの声が響いて思わず身構えた。すくめた肩を光がすり抜けていった。光の先で倒れ込む音がする。
「なにやってる!」
ケイナが険しい顔で走って来て腕を掴んだ。
「もっと下がれ! アシュアたちと離れ過ぎるな!」
「アシュアたちいるよ」
「離れ過ぎてるよ! そんなんじゃ守れねえだろ!!」
怒鳴りつけるケイナにセレスは呆然とした。
「やってるよ。おれ、ちゃんと……」
戸惑ったように言うセレスをケイナは睨みつけた。
ケイナ、なんでそんな怖い顔してんの。なんでおれをそんな責めるような顔してんの?
「セレス、頼むからアシュアを守ってくれ! そんなんじゃ、おれが動けない」
なに? おれ、ケイナの邪魔してんの? セレスはケイナの顔を見つめた。
光が飛んで来たので、ふたりは咄嗟に身を伏せた。
「頼むぞ!」
ケイナはセレスの頭を軽く殴ると再び立ち上がって走っていった。
ち、ちゃんと動いてるよ……。いつもと一緒。でも、なんでこんなに息がきれるんだろう。
セレスは周囲を見回しながら立ち上がった。
ケイナの苛立ち。なんで?
ふいに背後に気配を感じた。
剣を振りおろしたとき、セレスは自分の顔にかかる温かい水を感じた。
そして自分の目の前で首を切り落とされて倒れる兵士を見た。
「うそ……」
こんなこと、いままでなかった。おれがやった? 殺すなんて……。おれの剣が?
頬を指で拭うと、赤い色がべっとりとついた。
「やだよ……」
セレスはつぶやいた。体中に震えがはしる。呼吸がさらに乱れた。
リアは言ってたじゃないか。目の前の命は代わりのいない命。
どうして殺さないといけないの? なんでおれは人を殺すの? いやだ……。
助けて。もういや。人殺しはもういや!
「トリ?」
前のめりに突っ伏したトリを見て、リンクが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
トリは答えた。
「でも…… 怖い」
いったい、何が起こっているんだろう。
リンクは青ざめた顔のトリを見て不安に陥った。ここにいると何も音が聞こえない。
ケイナ、早く磁場まで戻って来い……!
リンクはトリの肩を抱きながら思った。
セレスの叫び声がケイナとアシュアの耳に届いた。
あのバカ……! デカイ声あげやがって……!
ケイナは唇を噛むと、身を翻した。
左から殺気を感じて身を臥せると、頭上を光が飛んでいった。その先で呻き声が聞こえた。
アシュアじゃない。やっぱり変だ。仲間うちでやってないか?
ケイナは再び走り出し、すぐにセレスの姿を見つけた。あんなところに突っ立ってたらいい標的だ。
飛びかかって一緒に草の中に倒れ込むと、案の定、光の筋が何本も通り過ぎていった。
「いい加減にしろよ! 死にたいのか!」
ケイナはセレスに怒鳴りつけた。
「ケイナがいけないんだ! おれにケイナの憎しみを入れないで!」
「憎しみ?」
ケイナはセレスの大きく見開かれた緑色の目を見た。セレスはケイナからすばやく身を離した。
「ケイナの頭の中は死ばっかりだ! 相手の命を奪うことしか考えてない! そんな思いをおれに入れないでよ!」
「なに言って……」
言いかけて、鈍い痛みが頭に走ってケイナは顔をしかめた。痛みはないとトリは言っていたのに……。
立ち上がってしまったセレスを見て、ケイナは慌てた。
「ばか……!」
腕を掴もうとすると、セレスがその手を振り払ったのでケイナは呆然とした。
「命の代わりはないんだろ?! みんな一緒じゃないか! なんでおれたちは人殺しをしてるんだよ!」
再びびりっと痛みが走る。
「そんなこと言い争ってる場合かよ! あいつら…… いつっ……!」
セレスの視線が頭をかき回す。やめろ、セレス! ヤバイ……! ケイナは呻き声をあげて頭を押さえた。
あっちこっちから殺気を感じるのに、体が動かない。足…… 足、狙われてんじゃなかったっけ……。
そして振り返ったとき、左肩に衝撃を感じた。
頬に赤い点が飛んだ。
「バカヤロ」
アシュアは言った。
「ちゃんと…… 残れ…… よ……」
「アシュア!!」
リアの甲高い声が響いた。
心臓がどくどくと鳴る。
左肩が熱い。アシュアを貫いた光がおれの肩をかすめていったんだ……
アシュア? アシュア…… 重い…… しっかり立ってくれよ……。
「なんで……」
ケイナは力尽きて自分の腕から滑り落ちるアシュアを見た。
頭の痛みなんかもう感じない。感じるのは怒りだけだ。
「……のやろう……」
もう、どうでもいい。死だけを見てる? 上等じゃねえか。
倒れたアシュアの胸から信じられないほどの血が流れていた。
アシュアを撃ってただですむと思うな……。
狂ったような思いが沸き起こる。もう、自分ではどうにもならない。セレスは呼ばないかもしれない。
もう、いい。すべて死に絶えてしまえ。
「アシュアを早く運べ!!」
鬼のような形相でケイナは叫んだ。倒れたアシュアに駆け寄ったリアが彼を見上げた。
ケイナは目を見開いたまま突っ立っているセレスに怒鳴った。
「おまえも早く行け! でないと……」
ケイナは正気の目を一瞬残すと、くるりと背を向けて走り出した。
「なにやってんのよ! 早く手を貸して!」
リアがヒステリックにセレスに向かって叫んだ。
アシュアが撃たれた…… ケイナは正気をなくした……
アシュアが…… ケイナは……
「セレス!!! しっかりしてよ!!」
リアの悲痛な叫び声をセレスは呆然としたまま聞いていた。
「きた……!」
トリは呻いた。怖い。でも、もう決めたんだ……。
アシュア…… きみの死はぼくがもらう。
トリの口からごぼりと出た血にリンクが仰天した。
「トリ! あんた、いったい……!!」
「リンク…… よく聞け」
倒れかかった自分を助け起こそうとするリンクにトリは言った。
「リアが…… アシュアを連れて、磁場の100m手前まで来てる。…… 誰かを迎えにやって。…… リアに伝えて。……アシュアは必ず助かるから…… 彼の名を呼び続けろと……」
「トリ、すぐ手当てを」
立ち上がろうとするリンクの腕をトリは掴んだ。
「いいから」
「ばかなこと言わないでくださいよ!」
リンクは叫んだ。
「いいから。…… どっちにしてもあと数年も生きられないんだ。アシュアの死は…… ぼくがもらっていく」
「あなたは長老なんですよ! 彼らのことだって、どう…… どうするんだ……」
「ごめん……」
トリはかすかに笑みを浮かべた。
「許してくれよ。結局…… 妹の…… ことしか考えられなかった……」
リンクは言葉をなくした。
「リアはアシュアの子供を生むんだ。……あと…… 頼むよ…… きみならできるから」
「む、むりだ…… ぼくには長老の役目は勤まらない……。お願いだ、トリ、死なないでください」
リンクはとうとう泣き出した。
「やらなきゃならないこと…… たくさんあるでしょう……。どうしてそれを全部……」
「リアに伝えて…… アシュアを呼べって……」
トリは言った。もうあんまり時間がない。話せない。自分でもそれがよく分かっていた。
「ケイナと…… セレスは間に合わない…… 船に乗れない……。だけど、彼らは必ず…… やり遂げるから…… だいじょうぶ……。見えるんだ。……きっと……」
トリは目を閉じた。
大丈夫。彼らはきっとやり遂げる。命は続くから。
死にもの狂いでアシュアをリアと運び、迎えに来てくれたコミュニティの者の姿が見えたときセレスの気持ちは決まっていた。
「リア、おれ、ケイナんとこ行く」
リアはセレスを振り向いた。
「……名前を呼びに行かなくちゃならないんだ」
リアの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。セレスはリアの口の端にキスをした。
「ちゃんとアシュアのそばにいて。アシュアは絶対死なないよ。リアのこと好きだもん。死なないよ」
「ケイナを連れて帰ってよ。もう、誰も傷つかないで」
リアは言った。
「リア、ごめん。おれのせいだ。おれがもっとちゃんとしてたらアシュアは撃たれなかった」
「そんなこと言ってんじゃないわよ!」
リアは叫んだ。
「ちゃんとアシュアのそばにいてよ」
セレスはそう言うと、身をひるがえして再び森に入っていった。
助けてよ。誰でもいいから助けてよ。こんなのもういや。助けてよ……。
どうしてこんなことになっちゃうの?
リアは泣いた。
「ケイナ!!」
セレスは叫んだ。ケイナと別れてから30分くらいしかたっていない。それなのに、嘘のように森から人の気配がなくなっていた。
「ケイナ!」
なぜこんなに静かなんだろう。ケイナはどこにいるんだろう。
足元に何かがひっかかって転びそうになり、目を向けたとたんぎょっとした。人の腕……。
思わずうめいて反らせた背に後ろの木が当たり、それに驚いて振り返ると、幹にべっとりとついた血しぶきが目に入った。
そして気づいた。あっちこっちが暗がりの中でも分かるほど赤く染まっている。まるでペンキをぶちまけたみたいに……。
足が震えた。血なまぐさい。吐き気をもよおすほど血の匂いがする。
腕のナビを見た。真っ赤に点滅していた光は今はない。
ケイナ、どこ……。ケイナを示す赤い点を頼りにセレスは歯をくいしばって歩を進めた。そして彼の姿を見つけた。
ケイナは剣の柄を手に木の幹にもたれかかってぼんやりと立っていた。
「ケイナ!!」
叫んで走り寄っても、ケイナは顔もあげなかった。
「ケイナ。怪我……」
彼の顔を覗き込んでセレスはどきりとした。ケイナの目は虚空を見つめて生気をなくしていた。
「どうして…… 銃じゃなくて…… 剣で…… 戦ったの?」
「動き…… やすかったから……」
憎しみと怒り。ケイナは自分の手で確実に相手を倒しているという手ごたえを感じたかったのだろうか。それにしても、むごすぎる。叫びだしたくなるような惨状が広がっていた。
「アシュア…… は……?」
絶望とも悲しみともつかない目を向けるケイナに、セレスは戸惑いながらも小さくうなずいてみせた。
「ちゃんと運んだよ……。今頃手当て受けてる。途中で出血も止まったんだ。一瞬意識も回復したんだよ……」
ケイナの顔が歪んだ。彼は剣の柄を持ったまま両手で自分の額を押さえた。
「ちくしょう……」
ケイナは呻いた。
「トリ…… いったいどこまで見えてたんだ……!」
トリがどうしたっていうんだ……? セレスはケイナを見つめた。
「どうして、こんなことができるんだ…… なんでこんな残酷なことが……」
「ケイナ、ここから離れよう」
セレスはケイナの腕を掴んだが、ケイナの怒りに燃えた目を向けられてぎくりとした。
あっという間に彼の右手で首を掴まれ、仰向けに倒れた。背骨に激しい衝撃が伝わる。
ケイナはセレスの首を掴んだまま、左手の剣を構えてセレスに馬乗りになっていた。
「さぞかし面白かっただろうな。全部…… 全部トリの筋書き通りだ。トリは分かってたんだ…… あいつはおれが正気を無くすことをあえて選んだ。カインはカンパニーに発ち、おれたちはここに残った。あいつはいったいどこまで見通していた? ここから先も、終わりもみんな知ってる」
首を掴むケイナの手を両手で掴み返しながら、セレスはケイナを見つめた。
恐ろしいほどの殺気が伝わってくる。
そのとき、頭上からの低い唸りがふたりの体に伝わった。
『ノマド』たちを乗せる船。もう、戻っても間に合わない。ケイナの頬がかすかに歪んだ。
「トリはおれたちを裏切った。あいつが欲しかったのは何だったんだろうな。自分の血筋。 ……自分の遺伝子だけだったんじゃないのかよ」
「何言ってんだよ……」
ケイナの手の力は強い。いつも思う。彼の指が首に食い込む痛みに顔をしかめながらセレスは言った。
「裏切るなんて…… しないよ。トリはしないよ……。おれたちにお守りくれたじゃないか……」
「あんなもん、お守りじゃない……」
ケイナは吐き出すように答えた。
「全部、あれで動かされてたんだ……。おまえの動きがおれに分からないのも、おまえが混乱したのも、全部……」
ケイナは言葉を切って息を吐いた。
「リアが生む子供の父親を殺さないための操作だよ!」
苛立たし気に叫ぶケイナの指にさらに力がこもる。セレスは顔をしかめた。
違うよ。……必死になって思った。
トリは操作なんかしてない。……トリはきっとアシュアを助けてくれたんだ……。アシュアはきっと助かるよ……。
「コミュニティに戻ろ…… ケイナ……」
締めつけられる痛みに顔をしかめながらセレスは言ったが、ケイナはかぶりを振った。
「もう…… あそこには誰もいないよ……」
「そんな……」
低い唸りが聞こえる。船の音。
カインも…… アシュアもいなくなってしまった。
トリとリアも…… リンクも……。クレス、タク、子供たち……。何のために、何をしていたんだろう。
逆らいがたい狂気がケイナの胸に沸き起こっていた。
分かってるよ、トリ。これが一番いい方法なんだろ。
このままふたりでここで死んでしまえば、もう誰も傷つくことはないじゃないか。
おれだったら、セレスに一瞬の苦しみも与えずに逝かせることはできるよ。自分が死ぬのはもっと簡単。
セレスはケイナが剣を振り上げるのを見た。
ケイナは…… おれを殺す気だ。どっと汗が吹き出て呼吸が荒くなった。
セレスのパニック状態と裏腹に、ケイナの顔は冷静そのものだ。かすかに笑みさえ浮かべているように思える。
やだよ、ケイナ。あんたと戦うのなんか厭だ。
そう思いながら、セレスは反射的に自分の剣を引き抜いていた。
思わず閉じた目を開けたとき、セレスは我が目を疑い、かすれた悲鳴が口から漏れた。
振り上げられたケイナの剣は空中でそのまま止まっていた。
「なんで…… よけないんだよ……」
ほんの一部のケイナの正気は、セレスに殺されることを願っていた。
斜めに彼の首をかききろうとしていたセレスの剣がもっと動いていたら、ケイナはあっけなく死んでいただろう。
手を止めたのはケイナではなく、セレス自身の正気だったのかもしれない。
セレスは震えながらケイナから剣を外した。
ケイナはセレスの首から手を離すと、そのまま彼の頬に手を滑らせ、冷えた自分の顔を彼の頬に押しつけた。
こんな極限状態で狂おしい欲求が沸き起こる。
生の渇望……。死ぬことへの狂気。遺伝子が命令する、相反するふたつの感情。
この緑色の目、両方の感情で無茶苦茶にしてやりたくなる。
「今度戻らなかったら、殺して。頼むよ……」
耳もとのケイナの声にセレスは激しく首を振った。
「厭だ。もう、二度とケイナに剣は向けない。絶対にいやだ!」
ケイナの細い金色の髪だけが見える。首筋にかかる彼の温かい吐息がたまらなく悲しかった。涙がこぼれてこめかみを伝っていった。
「ケイナ、地球に…… 行こう。……まだ、海を見てない……」
嗚咽をこらえながらかすれた声で言ったが、ケイナは何も言わなかった。何も言わない代わりに、自分の頬に触れた冷えきった彼の指がかすかに体温を帯びたことをセレスは感じた。
おれたちまだ生きてる。
生きてたらできることがある。死んじゃうのはそれからでもいい。
ケイナはゆっくりと身を起こし、セレスに手を差し出した。
彼の手をとって立ち上がりながら、セレスは涙をぬぐった。
きっと帰る場所があるよ……。
ふたりとも頭の隅でそう思った。
「ほら」
こわばった表情のまま暗い外を睨みつけているカインに、ユージーは片手に持ったミネラルウォーターのボトルと補給食のスティックビスケットの袋を差し出した。もう片方の手には自分のものを持っている。
カインはちらりと見て、いらない、と言おうとしたが結局黙って受け取った。
「あと二時間以上はかかるんだ。飲まず食わずじゃ体がもたないぞ」
ユージーはカインの横に座って言った。
腕につけたナビは『コリュボス』を離れると作動しなくなってしまった。いくらなんでも星間で読めるタイプではなかったらしい。
「星間艇が一機、『コリュボス』から強引に出発みたいだ。エアポートを経由せずに。裏の運び屋だな」
ユージーはミネラルウォーターのボトルに口をつけてひとくち飲んで言った。
「出発してるってことは、乗り込んだってことだ」
カインは無言で手に持ったボトルを睨みつけた。
「『ノマド』たちが運び屋と契約したことくらいはおれの耳に入ってたけど、とんでもねえよ」
ユージーの言葉にカインは彼に目を向けた。ユージーはその顔をちらりと見て少し肩をすくめた。
「おれも知らなかったけど、『ノマド』に手出し無用っていう規則が軍にはあるんだぜ。もちろん裏規則。ただ、対外的に完全見逃しっていうのは治安を守る以上難しいから、ある程度の許容範囲はつけてる。違法移動については時間規則がある」
ユージーは座席に身を沈めると前の座席の背を蹴った。座席が前に倒れたので、彼は足をそこに乗せた。
「プロジェクトの被害者…… そういう立場の人間なんだろうけど、あいつらの独自輸入も無許可だぞ。何が彼らにこんな自由を許す理由になるんだ? まあ…… 何となく分かるけどな。おれ、『ノマド』に一度行ったから」
カインは行儀悪く伸ばされたユージーの足を見るともなしに眺めた。
「あんな集団意識の強い場所、恐ろしくて二度と行く気はしない。ケイナの顔を見たとき、あいつがあっちの人間だと思った。それが恐ろしくてあいつの利き腕を掴んだまま離すことができなかった」
集団意識……。カインは目を横の窓に向けた。相変わらず真っ暗で何も見えない。
確かに『ノマド』の結束力は生半可じゃない。たくさんの人間が集まれば集まるほど、それを統合するのはよほど統率力のある人間でなければ難しい。しかし、彼らは分岐しても意志の疎通ができる。同じ目的を共有して動くことができる。そんな彼らは自分たちの持つ他への脅威をはっきり認識していた。
「『ノマド』でのケイナの立場がよく分からないけど、あいつにはできる限りの情報を伝えて来た。頭のいいあいつならその情報を効果的に使う方法を考えるだろう」
それを聞いたカインの目が訝し気に細められた。
「情報? なんの」
「クレイ指揮官の居場所と、おれの個人機のキイナンバー、『ホライズン』のセキュリティホールと使えそうなウィルスの保存先。ウィルスなんざ焼石に水かもしれんけどな。 あいつが万が一運び屋の船に乗れていなくても、おれの専用機にうまく辿り着いて動かせればあいつならどうにかして地球に来るよ」
「ケイナがどうして乗っていないって思うんだ?」
「50人いたんだよ。森の中に。おまえも見ただろ」
ユージーは答えた。その言葉にカインは絶句した。
「腕に力のある『ノマド』の人間がケイナを助けに来れば情勢は変わっただろうが、そうでなければあいつひとりで50人を相手にするようなもんだ。運び屋の船の出発時間や停泊時間を逆算すりゃ、乗れたかどうかなんて神のみぞ知るだ」
「『ノマド』がケイナを見捨てるっていうのか?」
そんな予見は全く出ていなかった。いや、待てよ。トリがいた。『ノマド』に行ってから予見らしき予見は何も見ていない。見えかけても…… 見えかけても全部トリが消していた……?
「地球に着けば、個人艇が『コリュボス』を出たかどうかだけは分かるよ」
ユージーはつぶやくように言った。
いったい何がどうなっているんだろう。『ノマド』はケイナの味方じゃなかったのか? アシュアやセレスはいったいどうなったんだ……。
「食えよ」
ユージーは言った。
「次はいつ食えるか分からないぜ。着いたと同時に牢屋に放り込まれるかもしれないだろ?」
カインは気乗りのしない様子でビスケットの袋をあけた。
しっかりしなけりゃ……。みんな絶対助かってる。地球に来ている。それを信じないと。
細いビスケットを口に入れるとビタミン臭い甘い味がした。
地球に着いたら、とにかく『ホライズン』でやってることをやめさせるんだ。
『ホライズン』…… 地平線…… 水平線か。なんでこんな名前をつけたんだか。
目の端に何かがひっかかったような気がしたが、 意識を凝らそうとするとすぐに消えてしまった。
それがトリが消した記憶であることも、カインには分からなかった。
セレスは足の速いケイナのあとを必死になってついて歩いていたが、とうとうつまづいて転んだ。
「ケイナ、ちょっと待って。おれ、追いつけない」
「なんで、歩いてるときはそんなによく転ぶんだよ……」
ケイナは少し呆れたように言うと、戻ってきてセレスの腕を掴んで立ち上がらせた。
「知らない。アシュアにも言われた。遅いって」
セレスは手のひらを見た。草で切ったのか、赤い筋がいくつもついている。その手をケイナは握った。
「あともう少しだから」
ちょっとびっくりした。手を繋いで歩いてくれるっていうの? ケイナが?
ケイナは前に顔を向けるとさっきと同じように歩を進め始めた。
自分よりもずっと大きなケイナの手。ほっそりとしたカインの手や、やたらと大きくいかつかったアシュアの手とも違うケイナの手。
でも、男の人の手だ。手首の太さが全然違う……。
少し前は自分のこの細い手足が嫌いだった。少しでも男らしくなるようにと願った。
今はもうそんなことはどうでもよくなっている。動けばそれでいい。しかし、まるで小さな子供か、弟の手をひいてやるかのようなケイナの手が妙に切なかった。なぜ、せつないと思うのか、よくわからない……。
そんなセレスには全く頓着せず、ケイナは黙々と半ばセレスを引きずるようにして歩き、しばらくして森の入り口に辿り着いて立ち止まった。
「どうするかな……」
ケイナはつぶやいた。彼の視線の先を追って、たくさんのプラニカが乗り捨ててあるのをセレスは見た。4人乗用のものではなく、もっと大きなタイプのものだ。たぶん、あの兵士達はこれに乗って来たのだろう。
残っていて風向きが危うくなったのを察して慌てて逃げ帰った兵士もいただろうが、これだけのプラニカに乗って来た人間がもう二度と乗って帰ることはないのだと思うとやりきれない思いが押し寄せる。
おれたちきっとどこかで罰を受けるんじゃないだろうか。
あの兵士たちが殺されなきゃならなかった理由なんてどこにもないじゃないか……。
ケイナが一台のプラニカに近づいていったので、セレスははっとして彼に目を移した。ケイナはプラニカのドアを持ち上げて中を覗き込んだ。
「……乗るの?」
運転席に入り込むケイナを見てセレスは言ったが、ケイナは肩をすくめた。
「おれ、運転できない」
「そうだったの?」
セレスは目を丸くした。でも、そう言われればケイナがプラニカを運転したことは一度もない。
「ヴィルより距離が稼げる乗り物の免許は一切とらせてもらえなかった」
ケイナはそこいらの計器をいじくりながら言った。
「逃亡防止。たぶん、18歳より前に『ライン』を卒業してても、航空訓練は受けられなかっただろうな」
「……」
セレスは目を伏せたが、次の瞬間、エンジンがかかったのでぎょっとして目をあげた。
「それでも、乗る度胸ある?」
ケイナがかすかに疑念を浮かべた目を自分に向けたので、セレスはうなずいた。そしてすばやくケイナの横に身を滑り込ませた。
大丈夫。ケイナは運転したことがなくても運転できる。そういう人だ。
「どこに行くの?」
眼下になっていく地面を窓から見ながらセレスが尋ねた。
「エアポート」
ケイナは素っ気無く答えた。
「ユージーが個人艇の場所とアクセスナンバーを置いていった」
「でも、操縦できないんじゃ……」
セレスは言ったが、ケイナはそれには答えなかった。代わりにちらりと後部座席に目をやった。
「うしろに何があるか確かめて」
セレスは座席を乗り越えて後部座席に体を移した。なんだかいろんなものがいっぱいあるが、暗いのでよく分からない。いきなり前から何かが放り投げられてゴツリと頭に当たった。
「いたっ……」
拾い上げて見ると、筒の形をしたハンドライトだった。前の座席にあったものをケイナが放ってよこしたのだろう。
「投げんなよ、もう……」
小声で抗議しながらセレスはライトをつけてあたりを探った。
「何がある?」
ケイナの声を聞きながら、セレスは薄汚れた誰かの上着を見て顔をしかめた。
「固形食がひと箱…… 飲みかけのミネラルウォーターのボトル……」
セレスはつぶやいた。
「これ、なんだろう……」
小さな黒いケースを見つけた。蓋を開けてみると小さなランプと、ボタン、わずか数センチ四方の画面があった。
「変なもんいじくるなよ。爆弾だったら怖い」
「ひあっ……!」
ケイナの言葉にセレスは慌ててケースを閉じた。
爆弾だ、これ。こんなものまであいつら持って来てたんだ。
「通信機はない?」
セレスは当たりを見回して、細長い銀色のケースを見つけた。
「これかな……」
座席の後ろから差し出すと、ケイナは受け取ってケースを開いた。
「さっきの爆弾らしきものも別にしといて」
「使うの?」
セレスは驚いてケイナを見たが、ケイナは何も言わなかった。
彼が何を考えてるか分からない。でも、彼の頭の中ではめまぐるしくいろんな計画が動いているのかもしれない。
いいよ。ケイナと一緒だったら。爆弾使ったって。
セレスは黒いケースを取り上げた。
しばらくしてエアポートの明かりが見えてきたとき、ケイナはかなり手前でプラニカをおろした。あまり近づき過ぎると警備網にひっかかるからだ。
プラニカから降りてエアポートのほうに目を凝らすケイナをセレスは無言で見つめた。
彼はすぐに振り返ると座席を覗き込み、小型爆弾のケースをとりあげた。そして再びエアポートを振り向いた。
「賭けだな……」
「何をするの?」
ケイナは黒いケースを開いてから、さっきセレスから渡された銀色のケースのほうも開いた。
「ユージーが教えてくれたナンバーで遠隔操作できるんだ。個人艇が」
ケイナは言った。
「ケイナ、操縦できないんじゃ……」
「そんなことはユージーだって知ってるよ。たぶん、全部コンピューター制御でプログラムしてあるんだ。居場所を知らせてこっちに飛ばせるためのキイナンバーだと思う」
セレスは不安を感じつつケイナを見つめた。ケイナの緊張感が伝わって来る。
何かやるつもりだ。
「これでうまく指示が届いたら、あそこの格納庫を破って強引にこっちに飛んで来る」
銀色のケースを持ち上げて言うケイナをセレスは目を丸くして見た。
彼の脇からエアポートに目を向けると、黒く並んでいる建物が見えた。あの中のひとつにあるのだろうか。
「でも、そんなことしたら……。警備の自動発射の弾にねらい撃ちされるよ。おれ、兄さんからそういうの聞いたことあるんだ」
「知ってる」
ケイナは答えた。
「ユージーの個人艇がどんなものかおれは知らないし、どれくらいの装備があるのかも知らない。ただ、飛んで来る警備の弾はエンジンの動力波に反応して追尾して来る。プラニカを爆破してそっちの衝撃のほうを弾がうまく感知すれば、個人艇を逸れてプラニカのほうに来る。二回目の発射は一回目の爆破のあと一分後。最初のやつが目的を達しなかったと察したら飛んで来る」
「……」
セレスの緑色の目がさらに大きく見開かれた。怖い……。それって……。
「もし、成功して一発目がプラニカに来たとして、個人艇に乗り込む時間は40秒しかない。40秒後にはもう飛び立っていないと…… こっちから二発目を撃ち落とせない」
「ユージーの船に迎撃用の装備がなかったら?」
セレスは震える声で言った。
「そのときはアウト」
ケイナは言った。セレスは困惑したようにかぶりを振った。どう答えればいいのか分からなかった。
「飛んで来たら分かる。見てその時点で迎撃装備がなかったら、この計画は諦めるしかない」
ケイナはため息をついてエアポートを振り返った。明かりこそついているが、今はもう離発着のある時間ではない。人気もなく静まり返っていた。
「ユージーのことだから全部読んでこういう情報を流してるんだろうとは思う。だけどほとんど勘と運だ。それと…… これが一番早く地球に行く方法。あっちに着けば着いたで、またいろいろあるだろうけど」
「いいよ…… やろう。『コリュボス』にいたってどうしようもないし。それに、海、見なきゃ」
セレスはケイナの顔を見て言った。
「じゃあ、こいつをセットして」
ケイナが黒いケースを持ち上げたので、セレスは再び後悔した。おれが爆弾担当なの……。
「大丈夫。スイッチ押すところまでおれがやっとくから」
ケイナは手早く蓋を開くと指を走らせ、セレスに差し出した。
「おれが合図したら、ここのスイッチを押して、座席に残しておれとプラニカのちょうど中間地点まで走って来い。おれも個人艇を呼んだらすぐ行くから。爆破は1分30秒後だ」
怖い、と言う前にケイナはプラニカから離れていった。セレスは自分の手に残された黒いケースを見た。小さな画面に1:30の文字。横に点滅する赤いランプがついている。スイッチはそれだ。
ケイナに目を向けると、彼はプラニカからすでに50m以上は離れていた。
セレスは暗がりの中で身をかがめるケイナを見た。手が震える。緊張のあまり息もうまくできない。
しばらくしてケイナが振り向いた。
「セレス!」
反射的にセレスはスイッチを押し、ケースを座席に放り出すとプラニカから飛び出した。走り出した途端に、エアポートのほうからものすごい音が聞こえた。
ケイナの言ったところまで走ってくると、ケイナも一緒に草の上に滑り込んでセレスの腕を掴んだ。
エアポートに目を向けると小さな黒い機体がすでに飛び上がっているところだった。後ろから火と煙があがっている。
本当に格納庫の扉を破って飛び立ってきた。信じられない……。
ケイナは飛んで来るユージーの個人艇に目を凝らせた。迎撃装備は…… ある。警備の攻撃がまだ来ない。プラニカの爆破のほうが早かったらもうアウトだ。
なぜ来ない。そう思った矢先、個人艇を追って飛んで来る白く光る線を見た。
光の尾を引きながら、個人艇のあとに弧を描いてついてくる。
「ケイナ」
セレスの震える声を聞きながら、ケイナは必死になって判断をしようとしていた。
プラニカと個人艇が着陸するちょうど中間地点。弾はどっちに来るだろう。
プラニカだと分かった時点で個人艇のほうに走り出していないと間に合わない。
だけどもし判断を間違えていたら? 個人艇の着陸が遅れたら?
みるみる近づいて来る個人艇と白い光をケイナは睨みつけた。背後で爆音が響き、セレスは思わず目を閉じて肩をすくめた。
……プラニカが爆破された。弾はどっち!
セレスは目の前の黒い機影とその後ろの白い光を見た。