Prologue
池田橙子は空を見上げた。
冬だった。寒空に、分厚い雲が揺蕩っている。
橙子は、窓の外に降りしきる雪を眺めながら、知らず知らずのうちに眠りについていた――。

起きて!起きてってば!
なんだか懐かしい声で、目を覚ました。夢現で今の声の正体を考えながら、薄目を開ける。
一面灰色の部屋には、家具一つない。あたりを見渡す。   
そこには誰もいなかった――。


吐き出した吐息が、凍ってしまったかのように白い。本当に部屋の中なのか、と疑問に思う。
祖母の手作りである濃紺のマフラーを、首に更にきつく巻きつける。
ここはどこなのだろう。なぜ、こんなところにいるのだろう。目を覚ますと言うくらいなのだから、寝ていたのだろうけど、目を瞑ってから、目を覚ますまでの記憶が、全く、本当に全くなかった。全て忘れてしまっていた。何も分からない。記憶喪失にでもなったのだろうか。それとも――。
なぜ、なぜ、なぜ―――その思いだけが、橙子という人間の身体の全てを埋め尽くしていた。
死んだら、生前の記憶は消えると、誰かがそう言っていたのをふと思い出した。死んでしまったのだろうか。
一瞬、そんな思いが頭をかすめ、橙子は強くかぶりを振った。
有り得ない、そんなこと。私が死ぬなんて。なんで死ななくてはいけないの。絶対、違う。絶対!
叫びたかった。叫ばなかったのは、喉を伝って出てくるのが息だけで、声というものを体全体で忘れてしまったかのように、体中から音が消えてしまったかのように、声が出なかったからだ。
生き物は生きていれば、いつか、死ぬ。それは当たり前の事実だけれど、でも、こんなことで死ぬのは嫌だ。私は強くなるんだ。
こんなことで私は負けない。何があっても生きてやる。
その時何故か、強くそう思った。

立ち上がり、あたりを見渡す。
本当に、全く知らない場所だった。誰もいない。
この場に横たわり、何もかもなかったことにできればどんなに楽だろう。ふとそう思い、気がついた。
目を瞑って、このまま寝てしまえば全てなかったことになるかもしれない。本当に。
もしかしたら、これは全部夢の中の話なのかもしれない。現実世界で、こんな残酷なことは有り得ない。神様だってそんなことするはずがない。
でもそうすることはできなかった。何故だか、してはいけないという感覚に襲われたからだ。
更に冷たくなった周りの空気に橙子は身震いをし、何もできない自分を悔しく思った。
床も壁も天井も、全てコンクリートでできていた。冷たい。芯から冷えている。寒いというより冷たかった。
今までに亡くなった親族の顔が、次々と思い浮かんだ。
みんな、どこにいるの。何してる?私みたいに、暗く冷たい場所にいるの?
喉から熱いものが込み上げてきた。許せなかった。そうやって、死んだ人間を暗く冷たい残酷な場所に放り込んで知らん顔している誰かが。
大っ嫌い。同じ目に合えば良いのに。
そうやって言葉を並べ立てること位しか、怒りの発散法は今の橙子に残されてなかったのだ。
「助けて――――――!!」
喉からかろうじて出た、声にならない叫び声は狭い部屋の中でしばらく響き続けていた。
さっきまでの出来事が、早送り再生した動画のように目まぐるしく思い出される。
怖かった。


指に赤く光る指輪をはめた女の子が、左手に白い猫のぬいぐるみを抱いて座っている。右手にはアイスクリームを持っていて、周りには大量のオレンジが雑多になり、女の子はそれを嬉しそうに眺めていた。
誰だろう。そんなことを考えながら、急にはっとして起き上がる。
そこは、物一つない、灰色の部屋だった。女の子なんていない。ああ夢だったのか。そう思ってから、あっと口元に手を当てる。寝てしまっていたのだろうか。あんなにしてはいけないと思っていたことをしてしまったのだろうか。でも橙子を待っていたのは以前と同じ灰色の部屋だった。寝てしまえば何もなかったことになるかもしれないという考えは間違っていたのだ。
ここは夢の世界でも何でもないのかもしれない。ミステリー小説のような世界でしか起きないことが、現実世界でも有り得るのかもしれない。そう思うと、不安になった。ここに来て流したことのなかった涙が、頬を伝って灰色の床に落ちた。
助けてよ。掠れた声でそう呟く。
冷たくかじかんだ両手を擦り合わせながら、ふと左手に目をやる。青白くなったその手の人差し指に茶色い宝石が埋め込まれた指輪がはめてあった。なんだか見覚えがある。でも、思い出せなかった。
それにしても、これは何だろう。橙子はアクセサリーなんて――小さい頃近所のお祭りで買ってもらったプラスチックの指輪くらいしか――持ってないし、橙子の母親もアクセサリーなんてつける柄じゃないからきっと持っていないだろう。
いつからついていたのだろうか。何故今まで気づかなかったのだろうか。冷たい両手に感覚がなくなっていたせい?そもそもこれは何?
疲れた。考える気力も残っていなかった。今何時だろう。それさえも分からない自分が悔しい。恨めしく思った。思えば、ここに来てから何も食べていないし、食べようと思っても食べるものがない。どっちにしろ生きられない。再び、涙が溢れた。
「でも…」
橙子は小さく呟いた。その先は口にできなかった。言ってしまえば、それが一つの例え話から現実に変わってしまう気がしたからだ。
でも…もうすでに死んでいるなら、生きるも何もないじゃない。続きを、心の中で叫ぶように言う。涙が乾いて、白い線となった。
弱気になっていてはいけない。
立ち上がり、あたりを見渡す。窓はないが、どこかに隠し扉があるかもしれない。壁伝いに歩き出すと、すぐに小さなくぼみが見つかった。
何だ、こんなに簡単に見つかるんじゃない。呆れて、苦笑する。
くぼみに手を入れて引っ張ると、猫が通るような小さな扉が開いた。
その扉の向こうに足を踏み入れる。
「李胡…」
橙子は青くなった唇でそう呟いた。



「李胡…」
久しぶりに口にしたその言葉に、思わず泣きそうになる。今どうしてる?涙は細く、橙子の頬に白い線をつけた。
くよくよしていたって仕方がない。私は決めたんだ、強くなるって。何があっても生きてやるんだって。
足を踏み入れた、その先の部屋は、今まで橙子がいた部屋と同じように一面灰色で、違うのは片隅に背もたれのない椅子があり上に何やらぬいぐるみがくたびれた様子でたたずんでいた。
そのぬいぐるみに近づく。猫だった。白い。随分と古い出で立ちだったが、大切にされていたことは一目で分かった。
観察するような目つきで、そのぬいぐるみを抱き上げる。
腰の辺りに、小さなタグが付いていて、そのタグに書かれたブランド名に重ねるようにして、幼児の字で「りこ」と書いてあった。
「りこ… 李胡…⁉」
橙子の記憶が一気にあの頃に戻る。橙子は灰色の床にへなへなと座り込んでいた。


それは、橙子が六歳の頃の春まで遡る。
綺麗な桜並木を、親友だった神山李胡と歩いていた。降ってくる桜の花びらに、毎回毎回歓声を上げて両手を掲げる。しばらくして李胡の母親が、「李胡、美容院に行く時間よ。」と迎えに来て、また新学期にねと別れた。李胡の家族は明日からロンドンに旅行に行くらしい。お土産買って来るからね、李胡はそう言って名残惜しそうに手を振り続けていた。
ところが、春休み明けの新学期。李胡は幼稚園に来なかった。風邪を引いたのだろうか。そう深くも考えずに李胡のことを待っていた。
始業式の日から一週間が経つ。李胡はまだ登園して来なかった。他の子達と遊んで過ごした一週間は、楽しくも何か心の奥に大切な物を忘れているような、変な気分だった。
その日、五時頃。忘れ物の給食袋を取りに暗い園舎に入った橙子は、職員室から聞こえる小さな話し声に耳を研ぎ澄ませた。
神山さん家、あのままお引越しされるんですってね。まぁ、神山さんってPTAのあの?そうそう、仕事ができる良い人だったのに残念ね。
神山さん。神山さんて、李胡のお家?李胡、ロンドンに住むの?
幼ながらに聞いてはいけない話を聞いてしまったような気分で、給食袋を手に取ると息を殺して逃げるように園舎を出た。
あれからしばらくして、園児の前でも李胡の引っ越しの話が正式に発表された。
橙子は涙を堪えて、うさぎのキーホルダーを握りしめた。李胡とお揃いで買ってもらったキーホルダーだった。

李胡とはあれ以来音信不通になって、一度も話していない。
何とか忘れようとしても、李胡との思い出はなかなか消えなかった。忘れたくない、という気持ちが胸の中で芽生えていたからかもしれない。
一年生に上がり、李胡と別れてから初めての友達と呼べるような友達ができた。その子――花ちゃん――とは本当に仲良くしてもらっていたが、四年生の終業式の日、「橙子ちゃんて私を通して他の子を見てるみたい」と言われ、それ以来クラスも変わり話すこともなくなった。
花ちゃんのことは、あまり気に求めず、ただの同学年の子としか認識しなくなっていたが、李胡のことは忘れなかった。

それは一ヶ月前。塾の帰り道だった。その日は夏だったからか、いつもより明るくまだ住宅街の家々から夕飯に良い匂いがする時間帯だった。
「あら、橙子ちゃん、久しぶり。」
その声に顔を上げると、向かいに住んでいるおばさんだ。下校時間が遅くなったのもあり、最近は顔を合わせていない。
橙子は軽く会釈をして、家路を急いだ。その時だった。
聞いた?あの。そうそう!テレビで報道されてた、ロンドンの事故でしょう?沢山人が亡くなったんだって。怖いわねぇ。何か、事故に巻き込まれそうになった女の子がいたって。それで助けようとした女の子が事故に巻き込まれて…。二人共亡くなったのかは分からないんだけどね。何かどっちかがりこって名前らしいけど…。え、前近所に住んでたあの李胡ちゃん?そんなはずないと思いたいわよね。確かに、りこなんてそんな珍しい名前ではないし…。
おばさん達の話し声が、やけに大きく聞こえる。
橙子は思わず、足を早めた。顔が青ざめていくのを感じる。りこって、李胡が?李胡が、まさかそんな嘘でしょう?
李胡は死んでない。そんな残酷な出来事が有り得るわけない。私、約束したもん。また会おうねって。
橙子は肩で息をしていた。寒い。冷たい。今年初めてとなる雪が、橙子の前を舞い始めた。
その日から、橙子は一層李胡のことを忘れようと努力してきた。そして、その李胡が、橙子の親友だったあの神山李胡ではないことを祈り続けた。

事故に巻き込まれたらしい”りこ”という名の人が、橙子の親友だった神山李胡なのかは未だに分からない。
今も、そうではないことを祈っている。


神山李胡の名前を口にし、それがあの李胡の姿と一致した途端、橙子の視界は真っ暗になった――。
何も見えない。でもそれはほんの一瞬の間だった。真っ暗になったかなんて気づかなくてもおかしくないような、そんな短い間。橙子は、最初、あ、気を失う!どうなるの、私。と思ったが、視界が明るくなったと同時に気を失っていたことなど、なかったように綺麗さっぱり忘れてしまった。

「り…こ…?」
誰だろうと頭を傾ける。知らなかった。そんな人。だけれどなんだか知っているような響きだった。お母さん
の友達だろうか。
まあ、この際りこという人が誰だろうとどうでも良い。さっきの指輪といい、このぬいぐるみといい、不思議な物ばかりだが、大体この見知らぬ部屋にいること自体不思議なのだから仕方がない。
本当に、一体この部屋は何なのだろう。なぜ私が?橙子はむしろ青というより白に近くなった唇を噛み合わせた。薄っすらと血が滲んだが、痛さは感じなかった。
早くこの部屋を出なくては、という思いが全身に駆け巡る。早くこの部屋を出て、誰かを助けなければ。私には使命がある。そう思ってから、何を考えていたんだと、自分を馬鹿にしたように苦笑する。寒さのせいで頭がおかしくなったのだろうか。だって、橙子には助けなければいけない人なんていなかった。本当に一人も。
親戚なんていないし、友達だって、いない。幼稚園の頃には誰か仲良しの子がいたはずだが、誰だったかなんて記憶にないし、当然幼児の頭で守ろうとかそんなこと、考えるはずもなかった。
とにかく、前へ進もう。こんな所でグジグジ考えていたってどうにもならない。
橙子は立ち上がろうと、床に手をついた。でもそこまでだった。立ち上がれない。本当は立ち上がりたくないのかもしれない。
もうおしまいだ。私の人生は今ここで終わった。橙子は再び、灰色の床に、へなへなと座り込んだ。
全身脱力する。力が抜けて、もう何をする気も起きなかった。
こうなれば、もうずっとここにいれば良い。こうなればもう、死んでも生きても同じことだ。
「わ――――――‼‼」
橙子の声にならない叫び声が、部屋全体にこだました。


お腹が空いた。この世界に閉じ込められてから、初めてそう思った。
けれどもここには食べるもの、飲むもの一滴さえない。とにかく、動かなくてはいけないというのが事実なのだろうが、さっき決めたばかりだ。こうなればもうずっとここにいるって。
たった数分でフラグ回収してしまうのは、なんだか悔しかった。
でも、やっぱり生きたいと、もし仮に死んでしまっていたのだとしても、この部屋にずっと閉じこもっているのは嫌だという気持ちが、数分の間に芽生え始めていた。
悔しいなんて言っていられない。橙子は今、生きるか死ぬかの境目にいる。悔しいから死ぬ道を選ぶなんて、いくら橙子もそんな馬鹿ではない。
何とか重たい体を引きずって、入ってきたのと反対の扉を開けた。
その部屋は、相変わらず灰色だったけれど、今までと違い、何だか明るかった。
床に雑多になっているオレンジのせいだと気づく。
これは何?さっきの指輪や白猫のぬいぐるみと同じ?
意味が分からぬまま、そのオレンジを一つ手に取る。食べたい。いくら果物だからって、腹の足しにならないとは言い切れない。
そして、気がつけば皮を剥いていた。そして、口に運ぶ。美味しい。空腹に、痛いほど染み渡った。
あっという間にオレンジはなくなり、急いで剥かれた為に、ボロボロになった皮だけが取り残されている。
はっと気がついて、口元に手を当てた。食べてしまった。


橙子は、オレンジをもう一つ手に取ると、それをジーパンのポケットに突っ込んだ。全部持っていくか迷ったけれど、数十個あるオレンジを運ぶのはとても大変だし、それに何よりもこの部屋から明るみが消えてしまうのが嫌だった。
気がつけば、橙子は立ち上がっていた。あんなに苦としていた立つという行為をしている自分に驚く。
でも、良かった。あのままだと本当に死んだことになっていたかもしれない。
ずっと灰色だけだと思っていた世界に彩りが戻ってきた気がした。
…嬉しい。嬉しいんだ、私。
その感情が深すぎて、気づくまでに時間がかかった。橙子はゆっくりと微笑んだ。
久しぶりに笑った気がした。

扉を開ける。
また新しい部屋に足を踏み入れた。そこは、今までにないほど冷たく、さっきの暖かい色など忘れてしまいそうだった。
一面埋め尽くしている灰色が、今までよりも濃くなった気がする。
橙子はブルッと身震いをした。寒い。冷たい。凍る。
さっき一度、血色を取り戻した橙子の唇は瞬く間に紫色に戻っていった。何でこんなに冷たいのだろう。寒いのだろう。凍ってしまっても良いのだろうか?
その時、懐かしい電子音のような音が部屋中に小さく鳴り響いていることに気がついた。どこからだろうと、部屋の中を見渡す。
音は、奥の壁の方から聞こえているようだった。
そちらを振り向くと、壁に寄り添うようにして、小さな四角い物が置いてあり、そこから音は漏れていた。
「何…これ…?」
”四角い物体”に近づき、恐る恐る手で触れる。何か恐ろしいものだったらどうしようという不安よりも、好奇心の方が勝っていた。
「冷凍…庫…?」
冷凍庫らしきその物体は、ドアが細く開いていて、それによりドアアラームが鳴っているようだった。
ドアに手を掛け、開ける。中は橙子の家と違いスカスカで、コーンスタンドにささったアイスクリームが一つだけあった。
なぜアイスクリームが一つだけ入っているのかという疑問はもちろんあった。それ以前に、こんな何もない謎の建物の中に、冷凍庫なんていう現代的なものがあることにも。でも、不思議なことの連続にはもうすっかり慣れていた。
アイスクリームをコーンストックから抜き取る。オレンジの時のように食べないよう気をつける。同じ失敗は二度と繰り返さない。
アイスクリームを手にした右手は、もう既に凍ってしまっているのではないかと思うほど冷たかった。


新しい扉をくぐる。
冷たい、寒い、怖い、そんな言葉を聞きすぎて、暖かい、大好き、幸せ、そんな事がこの世に存在することを忘れてしまいそうだった。
でも嫌だ。このまま人間の温もりに触れられなくなるのは。優しさや幸せをこの肌で感じることができなくなってしまうのは。
このままここに倒れ込んで、一生を終えるのは、楽でもちっとも幸せではない。もう死んでしまっているかもしれなくても、今はそう思わないことにした。

扉の向こうに目をやる。そこは、今までの灰色の部屋ではなくて、絵本で見るようなお城の大広間だった。所謂、シンデレラの舞踏会が行われたような場所だ。
ということは、今までの部屋はお城の一室だったのだろうか。冷たくて痛い、人気がない城。
孤城、という言葉が頭をかすめ、ああそれだと納得する。それだ、ここは孤城なんだ。
大きく伸びをする。ふっと笑みが溢れた。


「ようこそ。」
その声にはっとする。
前を向くと、そこには貴族のドレスが少し質素になったような成の赤いワンピースに、白いメイドエプロンを身にまとった、そう――橙子と同じ年位の女の子が立っていた。
「トーコ!思い出してくれたんだね!」
橙子の目から涙が溢れた。今までとは違う、嬉し涙だった。頭の中で、何かが弾けたように、眩い光が見えた気がした。
李胡だ。神山李胡…。
懐かしい。
「良かった。消えなかった。」
「え?」
李胡の言っている意味が分からなくてそう聞き返すと、李胡はほっとしたような笑みを浮かべた。
「成功したってこと。」
「ごめん、分からない。」
そうだよね、説明するよ。李胡がそう言って、顔を向けた。その頬には涙の白い線が出来ていた。
「あのね、この世界は、あたしの願いによって作られたんだ。しかも、ここはあの世とこの世の狭間。失敗すれば、製作者のあたしがあの世からもこの世からも消えてしまう。つまり、いなかったことになるってこと。それでもあたしは良いと思った。トーコの笑顔が見れれば、また手を繋いで桜並木の道を歩くことができなくても、例え消えてしまったとしても大丈夫だと思った。」
目頭が熱くなる。李胡は覚えていてくれた。二人で、桜並木の道を歩いたことを、忘れないでいてくれた。
ずっと、思い出していてくれた。
そう思うと、今までのことなんて、全部なんとでもないような気がした。
「良かった、覚えていてくれたんだね。」
「忘れるわけ、無いじゃん。大好きだもん。大大大大好きだもん、トーコのこと。」
李胡が橙子の首に手を掛け、抱きついてくる。李胡はほんのり暖かく、太陽の匂いがした。懐かしい洗剤の匂いが鼻を霞む。知っている、懐かしい、全て前と変わらない。世界は、私を置いてきぼりになんてしなかった。見捨てるなんてことなかった。何を不安になっていたんだろう。
大丈夫だよ。トーコちゃん、大丈夫だから。幼稚園の先生の声。李胡がいなくなって、泣きじゃくっていた橙子の耳元に届いた声。再び思い出される。
トーコというのは、幼稚園の頃呼ばれていたあだ名だ。トーコ。トーコちゃん。橙子がじゃくて、うを伸ばし棒にして言う発音。
小学校に上がってからは、先生が橙子さんと呼んでいたこともあってか、橙子になった。うはもう伸ばし棒で無い。トーコって呼ばれるの、好きだったな。橙子はたまにそう思う。
「李胡、李胡は…」
「ん?何?」
言おうとした言葉は、喉の奥に引っ掛かって出て来ない。李胡、李胡は事故に巻き込まれたの…?死んでしまったの…?
「何でも無い。」
え、と李胡が不思議そうな顔をして、顔に掛かった横髪を耳に掛ける。相変わらずの茶髪は、以前より随分伸びて、もう少しで肩に届きそうだった。


橙子はゆっくりと顔を上げた。
李胡に、さっき再会してからずっと訊きたかったことがいくつもある。
「ねぇ、李胡。いくつか質問しても良い?」
李胡はスローモーションのようにゆっくりと頷いた。
「まず、一つ目。何で私達は今ここで会えてるの?
二つ目。ここはどこ?
三つ目。何で李胡はそんなドレスを着てるの?
四つ目…。」
言おう。後悔しないために。これから先、笑顔で生きていくために。
「…李胡が事故に巻き込まれて、もしかしたら死んでしまったかもしれないっていうのは本当?」
李胡の顔が一瞬歪んだように見える。李胡が無言で頷いた。
「まず、四つ目の質問について。あたしが死んでしまったっていうのは、トーコがどういう経緯で聞いて、それがいつのことなのかも、しかも何でトーコが知っているのかも分からないけど、一言で言うと間違え。あたしはちゃんと生きてるよ。」
え、と声が漏れる。本当に?感動が胸から溢れ出す。李胡が、でも…と続けた。
「でも、死にかけた。」


「李胡は良いな。お父さんも、おばあちゃんも、おじいちゃんもいて。」
橙子が李胡にそう言ったことがある。多分、李胡の家でだった。記憶上、ダイニングテーブルで李胡と李胡の母親と三人で、三時のおやつにしようと何か食べていた時だったことになっている。
李胡は、「良いでしょ!」と何の混じりけもない笑顔を向けたが、その横で李胡の母親がいつになく困った表情をしているのを見て、言ってはいけなかったんだと、幼ないながらに確信した。
橙子の家は、橙子が五歳の時に離婚して、母子家庭になった。もちろん父型の親戚とは無縁となり、海外に住んでいる母型の親戚とは、橙子が誕生した時に会ったきりで橙子の記憶に刻まれていなかった。
だから、父親もいて、祖父母も同居している李胡が羨ましくて仕方がなかったのだ。
まだ、記憶にない人物なら良い。母型の祖父母のように。だが、五歳まで一緒にいて遊んだ思い出がたくさんある父親が、突然生活から消えてしまったのは、大きなショックだった。
夜、布団の中で息を殺して泣いたことも数え切れないほどあったけれど、その涙は決して母親には見られてはいけないような気がした。見られてしまえば、母親までがいなくなってしまうような気がしていた。

時は経ち、橙子が小学校に上がってから母親の帰りが遅くなる日が増えた。これまで一年は会社に頼んでなるべく早めに帰らせてもらっていたものを、橙子ももう小学生だし、こんなに頼っているわけにはいかない、というわけなのである。
ときには八時や九時を過ぎても帰ってこないこともあり、そんな時は真っ暗い部屋の中で、息を殺しながら泣いた幼稚園の頃の日々を思い出しながら、孤独の涙を流すのだった。きっと、李胡は今頃たくさんの大人に囲まれて、笑顔で眠っているんだろうと思いながら。そうしておいてほしかった。李胡には自分のような孤独な思いはしてほしくないし、出来る限り笑顔でいてほしい。そう思いながらも、胸のどこかで、李胡も同じ思いをすれば良いのに、私の孤独さを身に変えて体験すれば良いのに、という気持ちがあって、そのどす黒い気持ちが盛り上がれば津波のように橙子を飲み込みそうになった。
だから、李胡が事故に巻き込まれたかもしれないという噂を聞いた時には、自分のせいだと、限界まで自分をまくし立てた。私が、自分みたいに孤独に涙を流せば良いのにってどこかで思っていたから、李胡はこんな目にあってしまった。きっと私よりも辛くて痛い孤独な思いをした。
思えば思うほど、それが正確なものだという意識が高まっていくのが怖かった。


やっぱり。やっぱり、私のせい?私が、あんなことを思っていたから、李胡は死にかけてしまった?
「ねぇ、泣かないでよ。」
李胡の声だ。
「無事だったんだからさ、何考えてるのか知らないけど、取りあえず結果オーライってことで明るくいこうよ!」
こういう前向きなところ、すごいと思う。嫌味じゃなく。私はどれだけ李胡のこんな優しさに助けられてきたのだろう。
「さっき死にかけたって言ったけど、あれ大袈裟過ぎだよね。大丈夫、ちょっと言ってみたかっただけだから。実際のところ、両足を複雑骨折しただけ。命に別状は無し。だけど、今も病院にいる。もうすぐ退院できそうなんだよ。ねぇ、何でトーコは泣くの?あたしが、助かったのがそんなに嫌だった?」
李胡は冗談めかしてそう言ったけれど、橙子は笑えなかった。泣きじゃくりながら、自分のせいなのだと、あのことを話した。李胡がほっと気が緩んだように笑って言う。
「認めてよ。」
「…え?」
「それって、あたしの意思じゃなくて、トーコがそうさせたってことだよね?」
「…え?うん。」
よく分からなかったけれど、取りあえず頷いておく。李胡が口を開いた。
「近所で事故があったの。公園の近く。結構複雑な事故で、大人も子供も皆して状況についていけない感じだった。で、その時ね。公園で遊んでいた子の一人がボールを転がしちゃって、取りに行こうとしたの。その子、事故に巻き込まれそうになって、そばを散歩していたあたしがその子を止めたんだけど、そしたらあたしが…。」
「待って、続きは言わないで。」
もう理解できているから、言わないで。多分、そのロンドンであった事故というのが、あのおばさんたちの世間話に出てきたあれだ。でも、あの話と違って、李胡は死んでいなかった。じゃあ、死んでしまったりこ、というのは同名の別人?そんなことを働かない頭で考えていると、李胡が言った。
「つまり、それはあたしの優しさ。その子を助けたいっていう一心でやったんだから、トーコもあたしの優しさを認めてよ。」
「…うん。」
今度は、笑顔で頷けた、と思う。涙でぐしょぐしょの顔を上げると、李胡が人差し指を立てた。


「一つ目の質問。それは、あたしの病院にリコちゃんがやって来てね。一個願いを叶えてあげるって言って…。」
「リコちゃん…?」
「あ、リコちゃんって、助けた子。名前が一緒だったんだよ。運命かな。」
辻褄が合う。李胡は死んでなかった。ほっと頬が緩む。


皓皓と光る蛍光灯の下、神山李胡は読みかけの本を閉じた。パタンと良い音がする。本当なら、今すぐにでも外に出て走り回りたいのに、と吊られた右足を恨めしく思う。
そして、幼稚園の頃の親友、池田橙子のことを思い出す。今どうしているのだろうか。さっき閉じた本の表紙、『樹神隆二(こだまりゅうじ)』という文字をなぞる。樹神隆二は、橙子の母の離婚した相手だ。珍しい名前だから覚えている。隆二と李胡の母親・美郷は幼馴染みで、橙子の母親・椎那と隆二を結び付けたのも美郷だったので、李胡の家には隆二の本がたくさんあった。隆二は絵本も何冊か出していて、幼稚園で先生が読み聞かせをしてくれたことも、何度となくあった。
李胡が橙子に、トーコのお父さんすごいね、と言うと、橙子は毎回恥ずかしそうに笑った。自慢なんだろうな、良いな、お父さんすごい人で、と李胡はとても羨ましかった。
でも、五歳の時。李胡の一家がロンドンに引っ越す何ヶ月か前に、隆二と椎那は離婚した。橙子が大きなショックを受けていることが、傍から見ていても分かった。
ねぇ、笑ってよ。李胡が何回そう言ったことか、分からない。月日を重ねていくうちに、橙子は段々と元気を取り戻していった。そして、また元のように笑って遊んだのが、あの桜並木の下でだ。つまり、橙子が元通り元気になった途端に、李胡は引っ越してしまったということになる。
それが、辛かった。自分よりも大人しい橙子を前に、李胡はいつもお姫様を守る王子様になったような気分だった。だから、その後の橙子を守れないことが、悔しかった。
橙子は忘れてしまうかもしれない。小学校に上がって、中学校に上がって。その長い年月の中で、あたしのことなんて綺麗さっぱり忘れてしまうかもしれない。
今日もそんなことを考えながら、いつの間にか眠っていた。

目を覚ますと、カーテンを締め切られたせいで日の光が全く見えない病室に、一人、人が来ていた。
「こんにちは。」
「え?」
「助けてくれて、どうもありがとう。」
「誰?もしかして…」
「うん、リコだよ!」
「どうしたの?」
「願い事、聞きに来たの。」
「は?」
「だから、あのね…」

彼女が話してくれた話をまとめると、つまりこういうことだった。
彼女が、昨晩見た夢で、サンタクロースが出てきたという。リコちゃーん、プレゼント早く考えといてね。サンタクロースは微笑んでそう言った。夢にはその後、母親の姿が出てきて、助けてくれたあのお姉さんのご家庭に何をお礼したら良いかしら、と昼間聞いたのと全く同じセリフを口にしたらしい。
彼女はその時ひらめいてしまった。
サンタクロースに頼むこと。それを助けてくれたお姉さんへのお返しに使うのはどうだろう、と。大きくなるとサンタクロースは来なくなってしまうと聞いたことがある。両親がそうだったように…。お姉さんはもう大きいから、サンタクロースが来てくれないかもしれない。これは、とても良い思いつきだと思った。
でもそのためにはまず、お姉さんへ何がほしいか聞かなければならない。それで遥々病室を訪ねてきてくれた。

「ところで、お姉さんは何がほしい?」
彼女がそう尋ねる。ほしいもの…。大好きな漫画の最新刊。お菓子。ラジカセ。赤いリュックサック。前にデパートで見つけたスニーカー。思い浮かべると、頭の中に入り切らないほどたくさんある。でも、それを口にしてしまうのは何だか大人気ないように思えた。そして、気がつくと口にしていた。
「願い事でも良いの?」
「え?」
彼女は一瞬不思議そうな顔をしたが、うん、と頷いた。信じているわけじゃない。決して、これが実際に叶うなんて一ミリも思ってもない。もしあったらすっごく素敵だなって、夢話のように思ってるだけ。
物語の世界のような話が現実で叶うわけないということを、五年生になったあたりから痛感していた。だから、誰にも言えなかった、大切な大切なこの”願い事”が叶うことは有り得ない。
でも、なぜだか言ってしまう。

――「幼稚園の頃大大大親友だった、池田橙子に会わせて。トーコに会わせてって頼んでおいて。」




「というわけなんだけど…。あたし、本当に全く信じてなくて、ちびっ子の遊びだと思ってたの。だけど、クリスマスイブの夜眠りについて、朝目を覚ましてみたらあたしがいたのは、真っ白の小さな小さな部屋の中で、真っ白なスーツを着た男の人にここのことを説明されて…。本当にサンタさんが叶えてくれたのかどうかは分からないよ。他の魔法かもしれないし、これは全部夢なのかもしれない。」
だけど…、と李胡が続ける。
「夢でも夢じゃなくても、トーコと会えたっていう事実は変わんないんだから」
涙が溢れた。今までのような涙じゃない。嬉し涙だ。
たくさんの思い出が、胸の中を駆け巡って、橙子は思わずかぶりを振った。
変だ。李胡と再会してから、昔のことばかり思い出して。もう何とでもないのに。全て思い出になってくれたのに。
そう思うと、涙が溢れる。
李胡と駆け回って遊んだ日々。喧嘩して、泣いて、それで仲直り出来ずに布団の中で流した涙。
李胡は大切な大切な友達だ。親友だ。心友だ。真友だ。
あの日々が思い出なんかになって、アルバムにしまわれることは二度とない。多分、一生。
それが怖かったから、今まで考えずにいたけれど、今になって思う。
思い出になれないものはなれない理由がちゃんとあって、だからどうしようなんて思わなくて良い。ただ、あの頃を大切に、笑顔で生きれば良い。それが李胡にとっても一番幸せだ。
「トーコ、懐かしいね。色々。」
李胡が唐突に言う。
「色々、思い出すでしょ?ここ、思い出の城だから。思い出で出来てる城だから。」
李胡が鼻を啜りながら、エプロンで涙を拭う。
離れている間、橙子がたくさん悩んだように、李胡も困って悩んで、落ち込んでいたかもしれない。
そしてこれからも。
これからも、辛いことがたくさんあるだろうけど、私は今日の思い出で生きていける。

李胡は再び、橙子に抱きついた。
そして呟く。その言葉は、橙子の胸に染み付いて、いつまでも消えないかけがえのないものとなった。何よりも、一番――。
「会いたかった…。」

epilogue
気がつけば、橙子は公園の、それも滑り台の下に潜り込むようにして眠っていた。
「あっ」
李胡と会ったのだ。あれは夢だったのだろうか。長い長い夢。それだけは絶対に嫌だと両手を握り合わせた時、指に硬いものが当たった。見ると、指輪だ。確か、ルビーの。夢じゃ、なかったんだ。
ポロリと涙が溢れた。
あんなに心配して、どうしたら現実世界に戻れるのだろうと考えていたのに、今になってはどうやって帰ってきたのかさえ分からない。
が、それ以外の記憶ははっきりとしていた。李胡の涙が溢れ落ちる音や、李胡の手の温もり。一人で閉じ込められているんだと知った時の孤独感。思い出したたくさんの思い出達。
涙が溢れ、また眠りに落ちそうになって慌てて滑り台の下から出ようとする。これではまるで、家出して公園に来て、それなのにまだ泣いている小さな子供じゃないか。
「痛っ」
頭を思い切り滑り台に打つ。痛いと感じ、そう思えることに感謝した。あの時、あの孤城で、心が痛くて辛い、冷たいことだらけだったけれど、そのおかげで体は麻痺していて、どこかをぶつけても、痛いと思うことはなかった。
両手を広げる。
かつて、李胡と歩いた桜並木はすっかり枯れている。その冬枯れの桜並木の道を歩き出した。この道を、いや、どんな所でも、李胡と手を繋いで歩くことは多分、もうない。でも大丈夫だ。
この世界は冷たくない。冬は寒くも、さっきの李胡の温もりを忘れなければ、きっとすぐに春が来る。

池田橙子は空を見上げた。
冬だった。この冬枯れの木々の間から降って積もる雪はきっと暖かい。